長浜功氏の理念を手がかりに⑦・・・乞食の子 パート2

 
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このブログは先に投稿したものと関連しております。お時間が許しましたらこちらと合わせてお読み下さい。

放浪をやめた一家

「この子を学校にやりなさい。」
 ある日、物乞いの先で出会った白髪の老人はそう言って、父親の手の平に十数元を乗せました。(この金額ってどれほどのものか?と思い調べてみました。当時の価値は分かりませんが、現在では一元が4円弱です)
金額こそ施し程度のものだったのでしょうが、東進にとってはこの時の老人の言葉は大変印象に残るものだったことでしょう。
老人はこの時
「勉強すれはきっと立派な人になれるよ」と言ったのです。

「勉強すれば立派な人になれる」という言葉を私はこのときはじめて聞いた」

 東進は激しく心を揺さぶられましたが、父親は何も言わずその金をポケットにしまっただけでした。
東進も何も言えませんでした。

しかし、運命の神は静かに私を助けようとしていたのだ。

 その後そういう言葉を重ねて聞いたからでしょうか?東進はとうとう学校に、通うことになったのです。
 そもそも、そういう声を聞く以前に東進を学校へ上がらせるべく行政が動かなかったか?という疑問も当然起きるわけですが、なんと、出生届けも出されていなかった東進たち兄弟は、法的にこの世に存在していなかったというのです。

家を持った一家

 東進の入学をきっかけに、この一家は放浪の生活にピリオドを打ちます。
 家を持ったのです。
叔母が世話してくれた物件は、長く放置されていた豚小屋でした。
大変粗末なものでしたが、頼一家の’’愛すべき我が家’’となったのです。
(写真は本書の末尾ページに紹介されていたもの。著者、頼東進と当時の家)
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 自分が学校へ上がれるということに、天にも昇るほどの喜びを味わったのもつかの間、それと引き替えにされた代償に東進は泣き叫びます。

姉は家族の生活のために、東進が学校に通えるようにするために、父の手で女郎屋に売られてしまったのでした。




父にこのことを告げられたとき、私は雷に打たれたようにその場に立ち尽くした。何も考えることができず、頭の中か真っ白になり、全身がふるえ世界がぐるぐるまわった。

「おねえちゃんを返して、おねえちゃんを返して!・・・・・」
 これは父が決めたことだということはわかっていた。だれも父には逆らえない。しかし姉をなくして私はどうしてよいかわからなかった。この十数年間、姉は私にとっていちばん大きな心の支えであった。姉がそばにいてくれなくて、どうやって生活の苦しみを耐えていけばいいというのか。(中略)
おねえちゃん!おねえちゃん!学校なんか行かなくていいんだ、帰ってきてほしいんだ!

 このとき、姉はまだ13歳だったのです。
その後彼女に再会した東進は、姉が自分の運命を受け入れ、何より東進が学業をしっかり全うすることを望んでいることを知ります。
東進は姉の苦しみの分まで頑張ろうと誓うのでした。
そして、その頑張りたるや生易しいものではありませんでした。

学業と物乞い、そして家事

家がこんなに貧しいのに私を学校に上がらせるのはたいへんなことだった。一家が三度のご飯を食べるために、私は下校後も勉強しながら物乞いを続けた。毎晩、父とともに夜中の一時、二時まででかけ、ぐったり疲れて帰ってくると、父に何か食べさせる。三時近くになってやっと私は安心して眠ることができる。だが、早朝五時には起き出して勉強し、お風呂に入り、ご飯の支度をし、学校へ行く。これを六年間続けたのであった。

 東進の成績は常にトップでした。学級委員にもなりました。登校初日、乞食の子はここに来るなとバカにされた東進でしたが、いつの間にか数多くの表彰を受け学友の信頼と尊敬の眼差しを得るまでになるのです。

 しかし、この学校での栄誉と実生活は接点を持ちませんでした。
東進が持ち帰る表彰状の価値を認めるものは、家庭にあっては一人もおらず、一家10人の生活がのしかかるばかり。

自分の家が、一度足を踏み入れたら二度と出られない底なし沼のような、ずっしり重い地獄に思えた。

この世の苦しみを受け続け、生きている意味があるのか?
東進は苦しむのです。

自殺は何度もしようとした

しかし、自分が死んだら誰がこの家族を養うのか?
いっそ一家心中してしまえば、だれもこのつらい責任を担わなくてすむ、そのように思った東進は少しずつ金を貯め、農薬を手にいれるのです。
決行に向かうまでの、東進の苦しみ、恐怖、緊張たるや凄まじいものがありました。
土壇場で脳裏に現れたのが姉の姿でした。
姉は、みんなが生きるために犠牲になったのだと気づいた東進。死にきれなかった東進は再び過酷な現実に向き合わざるを得ないのです。
「進はいったいどうしたらいいんだ!」応えるもののだれもいない田んぼの中で東進は自分を抱きしめ号泣するのでした。
たかだか、十いくつの子どもが背負うにはあまりに重い荷物だったのです。
そんな東進の力になったのは、まっとうで優しい学校の先生たちでした。
また、東進自身の学習に対する熱意でした。

家に字の読み書きができる人がいなかったので、どのように字をきれいに書くのか教えてもらったことがなかった。また、書道に使う筆や紙を買う余裕もない。だが、きっと努力すればかならず得るものがあるだろうと信じ、運動場で長さがちょうどよさそうな木の枝を拾って筆代わりにし、砂場を無料の紙と思って地面に字を書き始めた。一定の面積を書くと、手や足で消し、またもう一度練習する。


 初めは上手くゆかず上級生の教室をこっそりのぞくのです。すると筆と鉛筆では持ち方違うことがわかる。
東進はまるで宝物を見つけたようにうれしくなるのです。
東進の宝物はこのようなものなのです。私はこれを読む何ともいえない気持ちになります。この一文に立ち止まり、背筋を伸ばし敬意を表したくなるのです。
(そう、前回のブログでは、パンチートのノートがそのような宝物でしたね。)

 東進はたゆまぬ努力を続けます。今日百字書いたら次は二百字・・・このように練習を続けたのです。そして三年生の一学期、とうとう書道コンテストに参加します。成績は堂々の一位。
 このうれしい成果の後も、彼は日々努力をし続け、彼は六年生になるまで一位を保つことがてきたのでした。

その後の彼の陸上競技での活躍や、晴れて伴侶を得るエピソードなど、ご紹介したいことはありますが、ここまでにしておきましょう。


 頼 東進氏は1999年に、台湾各界で活躍する青年10人に贈られる「十大傑出青年」に選ばれました。

   *  *  *  *  *
「長浜功氏の理念を手がかりに」と題して4つお話を紹介しました。

 どの主人公にも、苦難が付き物であり、苦学の末に幸せにたどりついたものもあれは、抹殺された最期もありました。
しかし、それぞれ学びとは何か?について考えさせられる作品だと思います。
長浜功氏の理念と重なるのか?それはわかりませんが、長浜氏の言葉に触れたとき、頭に浮かんだ作品がこれらだったのです。


一連のブログを読んで下さった方、ブログを更新する度に早速読んでくださり、スターでの励ましを送って下さった読者の方々・・・ありがとうございました。