甘く香るか青いバラ

ロードバイク初心者がディスクロード+EPSを自分で組んだ記録から始めてみる

恵みの雨 になったかな。実家と同じ旧米沢藩内の山火事

GW前半の4月28日、農作業中に高畠町方面の山中に見えた煙は、高畠町安久津、蛭沢湖付近で発生した山火事でした。

www3.nhk.or.jp

29日山形県縦断駅伝の最終日はここから程近いルートを取るので、選手達にも消火活動のヘリコプターが見えたり聞こえたりしたでしょう。

4月30日に概ね鎮圧の報。

この付近、この時点で1週間に3回火が出ていたそうです。

そのうち延焼24haに及んだこれが最大だったようですが、さっぱり雨が降らないので、鎮火には至らず燻っていたのが再燃したのでしょう。特に28日は如何にも燃え広がりそうな強めの西風が吹いていたし。

この地には珍しい全国ニュースになっていました。

 

そしてGW後半の5月4日、川西町吉田で法事を終えた我らの目には、この間↑より西、R13鳥上坂よりも更に西の山から広範に上がる煙が見えました。

www3.nhk.or.jp

こちらは5日のNHK夜7時のニュースのトップでした。

6日も鎮火に至らず消火活動は継続。

 

秋葉山561mの西麓向山公園野球場付近で出たという火は、山小屋秋葉山荘を燃やして山頂より東まで拡がり、風上だが人口が多い西麓の旧市街宮内と、真東よりも北に逸れて山際からも遠い中川地区に避難指示が出ていました。・・・という報道と、避難指示は内原(どこか知らない)、新田及び川樋に出しているという南陽市公式発表が整合しないと思っていましたが、前者が昭和の合併前の町村単位、後者がより精緻な大字乃至字単位のようで。

 

高畠町安久津の山中では4日に再び発火していて、如何にも鎮火の困難を物語っていました。

 

毎日カラカラの晴天、GWの合間3日間は雲が出ましたが、4月30日から5月1日に掛けての雨予報も(秋田県に近い県北部は降ったらしいですが)県南部は空振り。どんよりして結構湿度は上がって、普通に降りそうな時間帯もあったのですが。GW中置賜地方で降ったのは、自動車のワイパーを1回2回動かしたかな(ウィンドウの雨を払うというよりも、この際埃と黄砂を払えという動機)の4月27日土曜日午後の狐の嫁入り一瞬だけでした。

乾燥酷かったです。おまけに5日は気温が米沢で31℃を突破していました。

 

そしてGWが終わり、遊び歩くためには晴れて欲しい我らのような連中が去った今日は雨マーク。未明から断続的に降った雨は、同じ置賜盆地内ながら畑にも染み込まない霧雨レベルだった実家周辺よりも現場付近の方が強く長く降ったそうで、必死の消化活動の甲斐もあって、夕方鎮圧なった模様。

www3.nhk.or.jp

避難指示も解除されたとのことです。

消失面積137haは高畠町のそれの約5倍。避難指示約140世帯400人に対して避難者数一時16世帯26人だったとのことです。随分ギャップありますが。。。

 

まずは一安心、というか半安心くらいです。

消火と延焼防止に動員された消防署、消防団、隣県を含む防災ヘリ、自衛隊南陽市役所など、連休どころでない日々を過ごされた皆さんには感謝の気持ちしかありませんが、漸く少し落ち着ける状況になったと思います。

 

鎮火した訳ではないので、明日以降の天候が気になるところです。

Yahoo!天気によると、気温は大分下がって最高気温15℃の曇り空、湿度も朝方までは80%台、日中も60%台と、期待した程は降らなかった雨が乾き難い天候が見込まれるようです。気になるのは終始2〜3m/sの西風が吹く見込みというところですかね。

 

兎に角怪我人1名で済んだだけで終わりそうなところはよかったです。ただ、人のいる近くだから見付かったのかそれとも人が原因だから起きたのかは分かりませんが、自然発火なのか失火なのか、通報時点で燃えていたところはどちらの山火事も人の寄り付くところのようで。田舎は喫煙率も高いし、まあ実際のところは分かりませんが、失火の可能性もあるのではないかと。

 

この秋葉山、南端まで下ると烏帽子山公園と赤湯温泉になるのですが、斜面一面がぶどう畑です。私が最高のぶどうと信じで止まない南陽市デラウェアの産地です。

www.furusato-tax.jp

ふるさと納税で支援したいところですが、ぶどうの木自体が焼けてしまった農家さんも結構いらっしゃるのではないかと思います。

まずは継続的支援だな。(山火事の有無に関わらず、毎年必ず南陽市デラウェアふるさと納税の返礼品で貰っていますけども。)

今日は午前農作業・午後ライド 68km/+305m・夕方も農作業でそれから外食

前日午後に引き続き、今日午前は親戚の農作業の手伝いをし、無事完了しました。

天気に恵まれてよかったです。

薄い雲が掛かっていましたが、白い(例年ほどは白くない)飯豊山と、

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栂峰がよく見えました。
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今日も昨日に近いくらい気温が上がってくるのですが、風が弱い午前は目にゴミが入らなくてよかったです。

 

お昼を挟んで、13時30分SK Pininfarina Disk RIDEスタート。

本日もR121を道の駅たざわまで登ってから、r4米沢飯豊線に入って名無しの峠を越えるとかつてのサンマリーナ玉庭スキー場。斜面一面の太陽光パネル
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一気に川西町中心部まで下り、川西町営小松スキー場&川西ダリヤパークゴルフ場。ゲレンデこれだけ、ロープトウ1本の地味なスキー場なのに未だ続いているってすごいな。公営&ローコスト経営がその秘訣かしら。
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更に旧R287を北上、長井市街入口のさくら大橋から最上川左岸堤上に入りましたが、舗道は意外に短く終わったので、引き返すことにしました。(道がなくなったのは、左から合流してくる野川を越えられないためです。長井橋を渡って右岸に進むか、r259あかしあ橋を渡れば再び左岸上に出られますが、舗装していないかもしれない。)

最上川河川敷の農道。
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最上川
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ここでRunmeterが機能を停止し、この後約50分・19kmのログが取れませんでした。

 

【Runmeterによる走行データ】

スタート: 13時31分
バイクタイム: 1時間42分37秒(Runmeter停止時点まで)
停止時間: 23分04秒(Runmeter停止時点まで)
距離: 49.34km(Runmeter停止時点まで)→68.31km(Trailnoteによる修正値)
平均スピード: 28.85km/h
最高スピード: 59.20km/h
登り: 221m(Runmeter停止時点まで)→305m(Trailnoteによる修正値)
降り: 289m(Runmeter停止時点まで)→314m(Trailnoteによる修正値)
消費エネルギー: 1,226kcal
平均出力: 133w

 

iPhoneのカメラのGPSとの相性が悪いのが原因なのですが、何年経っても直りませんな。どっちが悪いのか知らないけど。

 

その後夕方は実家の畑の農作業の手伝い。じゃがいもとネギを植えました。

一同大分疲れたので、外食にしました。

米沢駅前の牛鍋おおき。

gyunabe.o-ki.co.jp

以前は別の店名だったような気がするのですが(食べログによると「まるぶん」だったそうです)、黄木が買収したんかな。

メニューの中心が牛鍋(すき焼きです。標準的な具材との違いを挙げれば白菜が入っていることでしょうか。)というのは変わっていない記憶。

ついがっついてしまい、ほぼ食べ尽くしたところで写真を撮っていないことに気付きました。

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3人で1万2千円。米沢牛の店としては割とリーズナブルだと思いますが、昔よりお客さん入っていなかったような。駅前をゾロゴロ歩いていた観光客と思しき人たちはどこに入ったんでしょうか。

実家に帰ってライド 58km/+550m 午後は農作業手伝い

GWです。

27日に日付が変わった後に自宅を出て、最大10連休の初日でまだ混雑の始まらない東北道を一路北上、春分から1月以上経過してすっかり早くなった日の出後、実家に到着しました。

まあ4月30日〜5月2日の3日間はフツーに仕事(在宅勤務)ですが。

 

東北中央縦貫道の栗子峠はヤバいです。

ここ数週間平日の睡眠時間が4時間を切っていた私、先々週に至っては4時間弱よりも3時間強と言った方が早い3時間10分でしたが(先週は在宅勤務を増やして移動時間に相当する時間を睡眠時間に充てたので5時間くらいに回復した)、そんな状況でも寝ずに走った東北道ではテンションを保って眠気に襲われることはなかったのですが(トイレに寄りたい気持ちは多少ありましたが那須高原S.A.、安達太良S.A.、吾妻S.A.いずれも満車で通路上に駐車する車両で溢れていたので、3つとも入って3つとも止まらずに出ました。最近は世の中の車が車中泊向きなミニバンやSUVになり、人が貧乏性になって車中泊するからですよね、サービスエリア、パーキングエリアが混むのって。この間の夜中の東名高速もそうだったし。)、東北中央縦貫道では睡魔に襲われました。

毎回です。ここで眠くなるのは。

制限速度が100km/hから70km/hに落ち、ときには大型トレーラーのために流れが60km/hを切ることがあり(今回は大丈夫)、途中に70km/hではすごく長い9kmに及ぶ景色の単調な栗子トンネルがあり、県境を超えた後もダラダラと十数km下る。

いやぁ、ホント危ない。米沢中央I.C.を降りて道の駅米沢に寄るまでの終盤5kmは、ナビゲーターシートの嫁を起こすべきでした。

トイレはコンビニで借りることにしてR 13を(多少)制限速度オーバーで超えるのが一番安全ですね。

少し距離長い分、R 13の制限速度を100km/hくらいにしてくれないですかね。そしたら眠くなりにくいし遅くもならない。

 

さて、本日は、午前中乗る時間がありました。フツーに朝食を食べ、9時過ぎに実家からSK Pininfarina Disk RIDEをスタートしました。3月17日以来だから42日ぶりか。

 

棚田のある虚空蔵山から望む三体山・柴倉山〜祝瓶山大朝日岳。 

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今日は快晴、米沢市の予報は最高気温28℃でした。大朝日岳
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三体山・柴倉山と祝瓶山。雪の少ない今年は山があまり白くありません。
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りんごの産地館山のりんごの花と吾妻山。
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今日はR121を大峠トンネル米沢側坑口まで登りました。ここは旧道(通行止)への分岐を過ぎ、この先の左カーブを曲がると大峠トンネルが見えてくる普洞沢橋。中央の白いピークは栂峰西P1515で、2017年のGWに登山したときは日陰やトンネル坑口上など普通に残雪があったのですが、今年はさっぱり。また去年よりも桜が早く終わっています。
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坑口横の駐車場まで約1時間、標高差で400m弱登りました。
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これ以上進むのは、長い登りトンネルだし、充電した筈のリアライトが点かない(1ヶ月で放電するのかレザイン)ので違反&危険だし、お昼までに帰って来れなくなるし、ということで回避。

このトンネルは、福島側から通りたいです。R13西栗子トンネルもそうだし、二井宿峠もそうだし、山形県境付近は、山形側からピークに向けての長大トンネルが多いので、入るのは比較的容易ですが、出るのは厳しいです。

 

因みに普洞沢からちょっと下った箇所は2022年8月の豪雨で流されて約2ヶ月間全面通行止めになっていましたが、現在も仮設路による片側交互通行です。

時節柄交通量が多いので、信号1回で待ち車両を捌き切れるか微妙なくらい。車列の3台目に入った登りに対し、下りは自動二輪車含めて10数台めになりました。幅の狭い仮設路で後続の妨げになっちゃやだなと思って先頭に出てフライングスタートしましたが、自動車に追い付かれないと見込んだ前半の隧道部でのあり得ない程早いタイミングで後続(信号待ち先頭車両)のプリウスがすぐ横を猛然と追い越して行きまして。先頭を侵されたことへの怒りか信号無視自転車を許さない正義か分かりませんが、目論見は外れました。気を遣ったつもりだったのに通じませんでしたね。2台目が追い付いて来たのは計算通り視界のいい区間に入ってからでしたけども。

 

とある貯水池からの栂峰。やはり例年より雪が少なく見えます。
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今年登るのは苦労するだろうなあ(大峠トンネルからのルートは登山道がないので、雪がないとかなり難しい)。

 

坑口から米沢市街までの下りでは、妙にハンドルを取られて、追い越してくる自動車を気にして荒れた路側帯と荒れた左轍の間のタイトロープ上を走るのに苦労しました。

何でだろうと思って走っていたら、気付きました。

あれだ。

ホイールだ。

今日はざっくり西北西の風4m/sってところでしたが、山の間の縫って、或いは山際に沿って走るので、北東に向かっている間も北北西に向かっている間も横風成分の強い向かい風。

煽られるんだ。

BORA ONE 35 DBではあまり感じませんでしたが、BORA ULTRA WTO 60では顕著に感じます。失速感はあまり感じないけど煽られ感は強いです。

車線を幅広に使えるなら何ともないですが、20cmのライン取りにはBORA ONE 35 DBより大分神経を使います。

今更ながらBORA ONE 35 DBの万能ぶりに気付かされましたね。

 

【Runmeterによる走行データ】

スタート: 9時11分
バイクタイム: 2時間05分39秒
停止時間: 26分53秒
距離: 58.27km
平均スピード: 27.82km/h
最高スピード: 55.41km/h
登り: 550m
降り: 561m
消費エネルギー: 1,553kcal
平均出力: 146w

 

昼食後、親戚の農作業の手伝い。私も嫁もプロには負けますが、多少は役に立ちます。

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所用で愛知県岡崎市まで日帰りR32GT-R

土曜日は所用で愛知県は岡崎市まで行ってきました。

目論見としては、積雪期甲斐駒ヶ岳黒戸尾根ルートを登った後に夕方岡崎を経由して帰ってくるってのだったのですが、今週も忙しくて睡眠3時間台という状況下、2,967mに登るだけの休息ができていなかったので、早々に断念。

勿体ないですが、直行直帰にしました。

 

御殿場以西にはまず行かない&SA・PA寄らない私、東名高速の駐車場のレイアウトが分からず、SA・PAで駐車できずにスルーしたり。

でも新東名高速の120km/h規制は快適ですね。

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まだ花が残っていた枝垂れ桜。

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静岡県も西部になるとPAも空いてきます(が、沼津までは暗いうちから混雑してました。)

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長篠設楽原PA下りのつつじの花満開。
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9時前に岡崎東I.C.を降り、何故か往路左側(=復路右側、而も中央分離帯あり)にしかガソリンスタンドがないらしい謎配置に予め宇佐美をチェックしておきまして、入ろうとしたところ長蛇の列、といっても路上待機と合わせて12〜13台くらいですか、並んで給油したところ、何とハイオク1ℓ170円、割安な筈の宇佐美浦安よりも8円も安く。

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地方行った時は浦安までの残量ギリギリくらいになるようにしか入れないのが通例でしたが、安心して満タンにしました。

 

所用は10時半頃に済み、復路へ。
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往路は新東名を使ったので、復路は制限速度100km/h、道幅狭、交通量多の東名を利用。私は往復別の経路を取ってみたかっただけ、往路に偶々(というかカーナビが選んだから)新東名を使ったので復路には東名ってだけなのですが、何で皆東名の方を選ぶんでしょうね。

これのためかしら、の日本坂からの富士山。
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或いは100km/h、ちょっとオーバーくらいが快適なんですかね、もっと飛ばせる新東名も制限速度いっぱいまで出していない車の方が多かったし。

私はね一、(自分の感覚的に)普通に走ったら、もし検挙されると6点減点か12点減点かのボーダーくらいなので(しませんよ)、新東名でもまだ遅いですけど。

これが狙いで早く行ったのですが、現地を早く出られたおかげで、流れの悪い箇所には何度も当たりつつも海老名S.A.大和トンネル区間を除くと渋滞にも嵌らず、15時には帰宅できました。
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1日でトリップメーター650kmくらい走ったことは久しくありませんでしたね。
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八方尾根スキー場日帰りで600km丁度、往復650km実家方面だと福島県との県境栗子峠辺りで引き返し(やんないけど)に相当。

 

滅多に行かない土地まで行ったので、往路で静岡県内と愛知県内の両方のS.A.によって土産菓子を大量に買い込み、復路では浜名湖S.A.に寄ってバウムクーヘンを買い込み、

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あと浜名湖ではみかんも買い込みました。

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大漁大漁。

 

思惑通りに帰れたので、嫁と名残の桜を見に出て、

桜は遅かったのに藤がもう咲き、
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株にもよるけどツツジも満開の箇所もと早いものがありますが、

桜は満開の個体を探して歩き、
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ほぼ終わった境川左岸に対し、右岸はピークは越えたものの先週よりよく咲いていました。
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東北も気温が上がって仙台も満開になっているので、もっと遅い実家周辺もGWまでは持たなそうです。

 

今日は、昨日疲れて早寝し、且つ遅く起き出して、嫁と電車で乃木坂、六本木方面に行って、それから通算26回目の献血

新国立美術館

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の満開のツツジ
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シャガール展じゃない展示会を見に行ってました。
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ウィーン&ローマ旅行記 番外Residenza Ruspoli Bonaparte 後編・完結 貴族の館の今

ルスポリ宮殿は、B&Bだったりホテルだったり(レジデンツァ・ルスポリ・ボナパルテとレジデンツァ・ナポレオーネⅢは関係者、他のの2つはテナントだと思いますが)、

Splender Suite Rome

www.splendorsuiterome.com

Hotel La Place Roma

laplaceroma.com

Residenza Napoleone Ⅲ

 www.residenzanapoleone.com

 

100年以上の歴史の飲食店だったり、高級ショップのテナントだったり、またメンモ財団という公益財団の本拠地になって美術展なども開催されますが、多分に漏れず維持には苦労されているらしいです。

 

建築的にも美術的にも歴史的にも重要な建物ですが、文化財に溢れるイタリアでは決して少なくないこのクラス、とても財政支援は及ばないらしいく。免税などの優遇はあるでしょうが。

カラバッジョの天井画がある唯一の邸宅も競売に掛けられるくらいだし(これは内輪揉めと、属人的な理由による管理不行届が原因のようですが)。

www.afpbb.com

これと比べれば、日本は単に支援の手が薄いというか、国も民間も意識が低過ぎるのではないかな。重要文化財ならまだしも、登録有形文化財は補助も税制優遇も半額で対象に制限があり、公有文化財すら解体例があります。民間なら、維持に苦しんで解体する例は数多あり、ビジネスなら登録後の面倒を嫌って申請しない例など数えようもなく。

 

そんななか、宮殿やお城に泊まれるって凄いじゃん(1泊1組限定のシェーンブルン宮殿は本物だが、残念ながら「敷地内の別棟に泊まるだけ」のヴェルサイユ宮殿アルハンブラ宮殿は断じて違う。あとは、貴族の云々じゃないけど、スロベニア🇸🇮で泊まったホテル・ブレットは正真正銘、嘗てのユーゴスラビアのチトー大統領の別荘でした。)、ということで、他にも泊まれるところがあるのか、教皇貴族の宮殿(幾つも持っているケースが普通にあるので、ローマにおける一族の本拠地という基準で)が今どうなっているか調べてみました。

 

Aldobrandiniアルドブランディーニ家:現首相官邸キージ宮のキージ家の前の所有者だが、長らく一族の拠点であった郊外フラスカーティのVilla Aldobrandiniは、アルドブランディーニ本家筋が絶えた後血縁のボルゲーゼ分家が家名とともに継承し、現在イヴェント会場。
⑵Barberiniバルベリーニ家:1949年政府所有となり、現在国立古典絵画館。

barberinicorsini.org

⑶Borgheseボルゲーゼ家:現在も私有、「チェンバロのギャラリー」として一部開放。
⑷Borgiaボルジア家:後述スフォルツァ・チェザリーニ宮殿を建てたのがボルジア家。ボルジア家は、1748年に本家が絶えて長いだけあって、有名な割にはあまり名前が残っていない模様。

www.palazzosforzacesarini.it

⑸Borromeoボロメオ家:ボロメオ宮殿は、婚姻とともにコロンナ家の所有になった以降も何度も所有者を変えましたが、WW2前にイタリア政府が購入し、在バチカンイタリア大使館になりました。

ambsantasedevaticano.esteri.it

⑹Braschiブラスキ家:ナヴォーナ広場に面したブラスキ家の宮殿は、着工も比較的新しいのですが資金難で未完成のまま1871年にイタリア政府に売却され、内務省ファシスト党本部となり、現在はローマ博物館。

museodiroma.it

⑺Chigiキージ家:キージ宮殿として有名な宮殿は、150年くらい前にイタリア政府が取得し、現在首相官邸

www.governo.it

⑻Colonnaコロンナ家:コロンナ宮殿は現在も私有、必見の宮殿ギャラリー。

www.galleriacolonna.it

⑼Cyboサイボ家:カラーラの名門ですが、18世紀に途絶えており、一族がローマで居住した館については記録を確認できず。
⑽Doria-Pamphili-Landiドーリア=パンフィーリ家:家名は戦後に養子縁組を続けて英国籍者に継承されましたが、それでも本家筋はかなり最近の2000年に途絶えた模様。館はドーリア=パンフィーリ財団の所有として、現在ドーリア・パンフィーリ美術館。

www.doriapamphilj.it

(11)Massimoマッシモ家:1000年以上の歴史を持ち、婚姻を通じて統一イタリア王国国王をはじめとする欧州各国の王族に縁を持つマッシモ家の館は、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世通りに面したマッシモ・アッレ・コロンネ宮殿。Privateです。普通に一家が暮らしています。列柱(コロンネ)が特徴的なポルティコを覗き込むだけにしましょう。

www.turismoroma.it

(12)Matteiマッテイ家:
ルネサンス期に繁栄し、マッテイ広場を中心とする5棟の建物群Isola dei Matteiなど多くを建設・所有していましたが、家系は19世紀初頭に絶えた模様。ミケランジェロ・カエターニ通りのマッテイ宮殿Palazzo Mattei di Gioveは、ガイドツアーで見学可能ですが、現在休止中の模様。

www.turismoroma.it

(13)Mediciメディチ家
1505年に建設、メディチ家本家滅亡後にロレーヌ家、ベネディクトゥス14世、バチカンと所有者を変え、イタリア王国成立により王国に取り込まれた後、上院議事堂になったマダーマ宮殿。

www.senato.it

 別荘ヴィラ・メディチ(在ローマ・フランス・アカデミー)は、オフィシャル・ゲストがいないときは一般客が宿泊可能との情報がありましたが、公式サイトからは消えているようです。

www.villamedici.it

(14)オルシーニ家:
マルケルス劇場上層の住宅部分、10年程前にオルシーニ家が買い戻し、居住中。

it.wikipedia.org

モンテ・ジョルダーノ通りのタベルナ宮はオルシーニが建てたものですが、⑴と同じくステファニーナ・アルドブランディーニさんがイヴェント会場として運営中。

以前ボマルツォのオルシーニ宮殿には入ったことがありますけども。
 
あ、これで15家系(ルスポリ家を除く)全部か。
 
他にも有名なローマの貴族では、

①Caetaniカエターニ家:Isola dei Matteiの1つ、マッティ・カエターニ宮殿は、カミッロ・カエターニ財団の本部としてカエターニ家が収集した芸術作品や本を管理しています。図書館として利用可能。

www.fondazionecamillocaetani.it

②Corsiniコルシーニ家:1898年イタリア王国に寄付、現在国立コルシーニ宮美術館。

barberinicorsini.org

③Della Rovereデッラ・ローヴェレ家:ホテル・コロンバスとして営業していましたが、生憎廃業。2020年から始まった発掘調査で中庭にネロ帝の劇場跡が発見されたことが2023年7月に発表されています。

www.hotelcolumbusrome.it

イタリア語ウィキペディアが早いです。

it.wikipedia.org

④Farneseファルネーゼ家:現フランス大使館、ガイドツアーで観覧可能。

visite-palazzofarnese.it

 

以上です。

ホテル・コロンバスが廃業したのが残念ですが、ルスポリ以外には寝泊まりできるところはありませんでした。やはり超絶貴重ですね。

一度は泊まってみるもんです、やっぱり。

 

や、長かった。

これにて番外編付き全20回に亘る旅行記完結です。

ウィーン&ローマ旅行記 番外Residenza Ruspoli Bonaparte 中編 館内見学

レジデンツァ・ルスポリ・ボナパルテナ館内見学】

この日12月9日土曜日、朝食と散策を終えて居室に戻っていた我ら、約束の10時にエントランス・ロビーに集合、オーナーのご案内で館内を巡りました。

私お名前を聴き取れませんでしたが、嫁によるとマリアさんです。

「ロビー」というものかどうか何とも言いかねますが、チェックイン・カウンターのようなものはありません。ただ少なくとも我々が入った客室の前室、来客控室と、オフィスなのか私邸部分なのか分かりませんがマダムが出入りする部屋への扉があるのです。

 

この宮殿は、1713年にフランチェスコ・マリア・ルスポリ‘Francesco Maria Ruspoli’(初代チェルヴェテリ公)(注1)が購入し、それ以来ルスポリ家のものになりました。

フィレンツェ出身のルスポリ家の紋章はぶどう。財を成した銀行業を売却してこのとき既に100年を経過しています。

 

嫁がマダムの説明(英語です)を聞き、英語力が怪しくて聞いても分からない私は同じ室内をウロウロして撮影。

このギャラリーは来客用の控室。
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天井画が派手です。
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ここが応接室ですね。マーブルの床が素敵。
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これは会議室/食堂でしょう。
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この宮殿を飾る多くの絵画は、フランチェスコ・マリア公の時代に、当時の多くの著名な画家により描かれました。
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これは代々のルスポリ家当主の書斎だったとか。

エントランス・ロビーに戻って来ました。

ロビーにあるカウンターは、ローマ教皇が来訪時に帽子を置くためにあるんだそうです。いっとき私がiPhone置きましたが、ちょっと畏れ多い行為でしたな。

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なお、紋章右側にはライオン。ライオンといえば英国王室などでよく使われる図像ですが、マダムはルスポリ家(厳密にはフランチェスコ・マリア公の祖父のマレスコッティ家)のルーツはスコットランドにあると仰っておりました。尚、ルスポリ家は武門の系譜だそうです。

 

ありがとうございました、マダム。

 

因みにマダムはマルチーズかな、飼い犬を抱き抱えていましたが、吠えない、動かない。実におとなしい犬でした。

まあ飼い主がいいんでしょうね、つまりあれだ、遊歩道とかで見掛けるその辺の犬は、やっぱり飼い主がアレなんだな。


夕暮れの回廊。
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【部屋に戻る】

時間は連続していませんけどね。

フランチェスコ・マリア公は、ジョヴァンニ・バッティスタ・コンティーニ‘Giovanni Battista Contini’(注2)に依頼して改装し、また多くの画家に依頼して装飾していますが、コンティーニの功績の1つが演劇アカデミーです。

ルスポリ家は、宮殿を街の中心的な社交場の1つとし、1700年代後半には豪華なパーティーで有名になったそうです。更にフランチェスコ・マリア公はここで有名な文学サロンを主催し、ホールでは評判の演劇が上演され、スカルラッティヘンデルなどの音楽家のアカデミーも有名でした。

 

ルスポリ邸には色々な客人が去来していますが、双璧の一方がヘンデル‘Georg Friedrich Händel’(注3)でした。文献毎の時期が合わないので何が事実か分からないところがありますが、約5年間のイタリア滞在のうち2年をローマのここで過ごしたとされており、オラトリオ「復活」の初演の場所はこの館だそうです。

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そしてもう一方が、この部屋の名前の由来である、後のナポレオン3世とその母オルタンス・ド・ボアルネ‘Hortense de Beauharnais’(注4)。

ナポレオン1世の皇后ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネの先夫との間の子で、ナポレオン1世の弟ルイ・ボナパルト1802年初頭に結婚、ルイのオランダ国王就任(ホラント国王ローデウェイク1世)に際して王妃になったオルタンスは、ナポレオン1世百日天下が崩壊した後各地に亡命、幼少期のルイ=ナポレオン(後のナポレオン3世)とともにここルスポリ邸に滞在しました。

マダムの説明によると、「天井の高い部屋は寒い」というオルタンスの希望に応じて、高いイタリア格子天井を下げて天井画のあるフランス風の天井にしたそうです。この部屋が最も女性的ですね。
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天井が他の部屋より低い印象はない、というか客室では寧ろ一番高いと思いますが、ラウンドしている分だけリフォーム後の容積は減ったのかな。
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オルタンスは、この館に滞在した8年の間に、天井と壁を嘗て過ごしたパリのマルメゾン城の意匠で装飾したのだそうです。

もっと広くて天蓋付きのベッドがある部屋と、装飾がプリンセスなこの部屋、どっちを嫁が喜ぶか私は結構悩んで決定しましたが、嫁は断然こっちだったそうです。

 

レギュラープライス27万円@1泊。

residenzaruspolibonaparte.com

レギュラープライス29万円@1泊のSuite Imperatore Bonaparte。

residenzaruspolibonaparte.com

レギュラープライス25万円@1泊のSuite Napoleone。

residenzaruspolibonaparte.com

他2室の写真はオルテンシア・スイートと共有している前室の写真が入っていたり、2室のどちらにも同じリビングルームの写真が使われていたりと、実態どういう感じなのか分かり難いです。

 

これで念願のResidenza Ruspoli Bonaparteに宿泊しました。念願した部屋で。

レギュラープライスがいつ適用されるのかはよく分かりませんが、ざっくり10万円@1泊ルームチャージでした。

滞在中の利便性は立地からして極めて高いですが、

  • 入口はわからないわ、
  • 夜中は人がいないからトラブっても頼れないわ、
  • 広過ぎて暖房追い付かなくて寒いわ(ヒーターを追加して2台にしてもらいましたが、2台使用では他の電気機器を切らないとブレーカーが上がる)、
  • 今も謳っているのに部屋での優雅な朝食はできなかったわ(これは改善して欲しいぞ。問題はキッチンでなくメール/メッセージへの応答体制かもしれませんが)、
  • WhatsAppのメッセージに反応がないと身動き取れないわ、

ホテルとしてのアメニティを期待したら色々足りません。

というかB&Bです。Bが1つ足りないので、私は「民泊」と言っています。

ホテルのサービスを期待するなら、期待する方が悪いです。

 

しかし❗️

 

いいのです、そんなことは。

 

宮殿です。

紛れもない名門貴族の邸宅です。

日本でなら登録文化財どころか指定文化財重要文化財確実の、ルネッサンスバロックの歴史的建造物です。

その豪華な一室です。

しかもオルタンス元王妃とシャルル・ルイ=ナポレオンが滞在した部屋です。

この体験そのものがスペシャルなのです。

200年前なんて色々不便に決まってるじゃないですか。

多少の不便は仕方ないものと甘受して当時の栄華を偲ぶのです。

そういう人にはサイコーです。

1泊ウン十万円払ってもホテルでは体験できません。

いやー、よかった。

嫁的にも史上最高、ダントツ最高だったそうです。

それが1泊10万くらい。

安いくらいです。

本当によかった。

まあ2回3回泊まるとこではないかもしれませんが、ホント貴重な体験でした。

 

日頃参照していないので、今回も事前には読んでいませんが、ミシュラン・ホテルガイドでも紹介されていました。

guide.michelin.com

 

以上歴史に関連する説明は、主に館の前の説明板byローマ市(イタリア語・英語)、人物解説についてはインターネット、ルスポリ家についてはマダムの解説などをミックスし、私がある程度体裁のつく日本語にしました。一次資料には当たっていないので、時期の不一致など気付いているものもあるのですが、追究していないので適当に捨象しています。

 

ルスポリ家とマレスコッティ家については、英語版ウィキペディアに詳細に記載されています。

en.m.wikipedia.org

これによると、第10代チェルヴェテリ公フランチェスコ・ルスポリ氏(マダムのお父君だと思います)は現在もここにお住まいだそうです。

 

注1:「Principe」は必ずしも王子でなく「小国君主」「領主」「大御所」などあり、私は「領主」から「公」と訳しました。この方は、ミドルネームに「マレスコッティ」を持っており、祖父スフォルツァ・ヴィチーノ・マレスコッティ(ヴィニャネッロとパラーノの第4代伯爵)の姓。一人っ子だった祖母ヴィットリア・ルスポリのため、孫にルスポリの名を残した。

注2:シエナ/ローマ・バロック最終期の中心人物で、サラゴサ大聖堂の塔をはじめ、教皇領とナポリ王国に多くの作品を残している。
注3:ドイツ/バロック期の有名な作曲家ヘンデルのこと。
注4:ナポレオン1世の皇后ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと離婚した先夫アレクサンドル・ド・ボアルネ子爵との娘。義父ナポレオンの強い希望により彼が最も可愛がっていた弟のルイ・ボナパルト1802年初頭に結婚し、義父ナポレオンが1804年フランス皇帝に即位した後の1806年にルイがオランダ国王に即位したのに伴って王妃になった。不仲のルイとオルタンスは1810年に離婚し、2人の間に生まれた3人の息子のうち、三男のシャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(後のナポレオン3世)はオルタンスが引き取った。オルタンスは、離婚後に同棲していたシャルル・ド・フラオとの間で、1811年にルイ=ナポレオンの異父弟シャルル・オギュスト・ルイ・ジョゼフ(後のモルニー公爵)を生んだが、1815年の百日天下期にはナポレオンに先んじてテュイルリー宮殿に入って女主人の役目を務め、フランス帝国崩壊後にドイツ、イタリアに亡命、その後スイスにアレネンベルク城を購入し、そこで没した。

ウィーン&ローマ旅行記 番外Residenza Ruspoli Bonaparte 前編 宮殿の歴史

ここから番外編3回。

 

ローマ教皇から称号(ローマ到着時の記事に「氏姓」と書きましたが、正しくありませんでした。訂正。)を賜った名門15貴族のうちの1つ、ルスポリ家。

トリノを拠点とするサヴォイア家によるイタリア王国の建国=ヴァチカンを含むイタリアの統一に抗した所謂「黒い貴族」の一員でもあります。

フィレンツェ出自という点ではメディチ家と同じですが、ボルゲーゼとかコロンナとかオルシーニとかに比べると知られていないように思われるのは、ローマ教皇を出していないところが大きいんでしょう(注1)。

 

ここパラッツォ・ルスポリ・ボナパルテは、そのルスポリ家の館(中央のデカい建物、因みに右に隣接するFENDIのローマ旗艦店で、また左奥ルスポリ宮のサン・ロレンツォ・イン・ルチーナ広場に面した側にはルイ・ヴィトンのメゾン店エトワールがあります)の一部を所謂民泊として開放しているものです、という話を書きました。

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「Palazzo」は一般的な訳では「宮殿」です。少なくともイタリアでは宮様、ローマ帝国後はキリスト教が支配したローマでは寧ろ教皇ですが、それらが居住しなくとも貴族の大邸宅はPalazzoです。

貴族はどっかしらの領主、「殿様」である場合が大概だし、特に教皇の権威を持つ貴族の館なので、「宮殿」も強ち嘘とも言えません。

 

この館は、フランチェスコ・ジャコビリ’Francesco Jacobilli’(注2)の依頼により、ナンニ・ディ・バッチョ・ビジオ'Nanni di Baccio Bigio'(注3)が1556年に竣工しました。

1583年にオラツィオ・ルチェライ‘Orazio Rucellai’(注4)が購入し、拡充とバルトロメオ・アンマナーティ’Bartolomeo Ammanati’(注5)によりルネッサンス様式で再設計されて概ね現在の姿になったのが、1586年。

サイズ感が分かり難いですが、ドア足元両側の窓(縦長のでなく正方形の)の上辺の高さでが180cmくらいあるので、ドアの高さで4mくらい。

1629年に宮殿を購入したルイージ・カエターニ枢機卿は、バルトロメオ・ブレッチョーリ‘Bartolomeo Breccioli’(注6)と小マルティーノ・ロンギ‘Martino Longhi il Giovane’(注7)に幾つかの増改築作業を依頼しました。

初めの写真の通り、厳格なルネッサンスどころかバロック様式ファサードは、ブレッチョーリによる改修でしょう。

また、ロンギにより1640年頃製作された、3mの長大な大理石板による100段の階段は、ローマの民間建築4大驚異(注8)の 1 つとされています。

そんな凄い歴史を持つ階段ですが、まあ2階、あちらで言うと1階がすごく高いので、

私は400年の歴史を蹴飛ばして駆け上がりますが、スーツケースのあるチェックイン/アウト時と嫁の上りは、この頼り無さげなエレベーターです。

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あちらでは教会の塔等にも「これ大丈夫か?」的なものが往々にしてありますが、自分で扉を閉めて乗るエレベーター、私は好き。

これはも1つ上、3階の回廊だったかな。

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この邸宅を最も特徴付ける階段、観光名所ではないので擦り減ってはいませんが、400年の間に少なくとも1枚割った奴がいるようです。
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ルチェライの回廊。ヴォールトには、ローマ皇帝の胸像が展示されています。

全部は見ませんでしたが、ローマの歴史から取られた美徳の例とそれぞれの悪徳や美徳を擬人化したそうで、「後期マニエリスムに典型的な知的で難解な象徴主義に彩られた、複雑な図像的な一連の作品」だそうです。私にはよく分かりません(1588年頃)。

この階段と回廊には、ルネッサンス建築の特徴がよく残っています。

 

【SUITE QUEEN ORTENSIA BONAPARTE】

我らの居室の前室です。

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我らの部屋の扉と、別の部屋の扉(背が高い)があります。ホテル営業しているのは4室ですが、多分ここから出入りできるのが2室、もう2室はロビーから別の扉を通るか(迷路みたいなので確証持てませんが違うみたい)、別の階じゃないかな。
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こういう格子状の縁取り装飾のある天井は、バシリカ以来の伝統的イタリア式ですね。

 

我らが宿泊したクイーン・オルテンシア・ボナパルテ・スイート'SUITE QUEEN ORTENSIA BONAPARTE'。

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後のナポレオン3世の母である元オランダ王女オルタンス・ド・ボアルネ(部屋名はイタリア語読み、名前はフランス語読みしましたが、その辺は後述)の名を冠した2室110㎡・1キング+2シングルの定員4名のスイートは、4室中3番目に広く2番目に高価な部屋です。主寝室はここが1番広く、ローマ帝国期のような上品な図柄のフレスコ画天井をはじめ、室内装飾は最も秀麗だと思います。

バンケットに使用されている写真もあるので、主には居室でなくホールとして使われていたのかもしれません。

うちの2基を足したより多い12灯のヴェネツィアン・グラスのシャンデリアがうらやますぃ。

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入口を内側から見た図。

因みに一面の壁の装飾はペイントです。流石にカラーマーブルのモザイクを貼っている訳ではありません。

バスタブなどは普通です。浴室が大理石貼りなのもヨーロッパのこのクラスなら普通です。

副寝室は、写真では凄く良く見えますが、どうかな、ビジネスホテル・レベルです。バス・トイレが近いとか、スーツケースどころかルイ・ヴィトンのトランク何日分も収納できる巨大なクローゼットとか、まあ如何にも次の間、侍女部屋、女中部屋。

2人旅の我らにとっては、ただのクローゼットでしたけども。

迷路のような邸宅ですが、中庭との位置関係からどこにいるか分かりました。

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注1:ルーツの1つマレスコッティ家からは枢機卿が出ている。

注1:カラーラの貴族と思われるが、今回登場人物についてそれなりに調べた中では特定できず。

注2:フィレンツェ出身/サンタンジェロ城改修、ヴィラ・メディチ、ポポロ門を手掛けた主に建築に実績のある芸術家。

注3:フィレンツェ出身/解説板にはメディチ家とフランスの外交官を務めていたと書いてある。

注4:フィレンツェ出身/ピッティ宮殿、ヴィラ・ジュリア、ネプチューンの噴水(フィレンツェ)で知られる芸術家。

注5:ペーザロ出身/ガンドルフォ城、サンタマリア・デッラ・ヴィットーリア教会などを手がけた建築家。

注6:ローマ出身/ベルニーニらに並ぶバロックの代表的な建築家。サンタントニオ・ディ・ポルトゲージ教会及びサンティ・ヴィンチェンツォ・エ・アナスタシオ教会の特徴的なファサードが知られる。

注7:「ローマ民間建築の4大驚異」

⑴ボルゲーゼのチェンバロチェンバロ(英語でいうと‘chamber’)=会議場ということでなくボルゲーゼ宮殿(ボルゲーゼ公園のそれ(ボルゲーゼ美術館)でなくルスポリ宮殿近くにある、ボルゲーゼ家本拠地のボルゲーゼ宮殿)。テヴェレ川側入口部の形状がチェンバロに似ているので、そう呼ばれたらしい。

romeguides.it

ファルネーゼのサイコロ:現フランス大使館のファルネーゼ宮殿はその大きさと形ゆえこのように呼ばれた。一般開放されていない代わりにWebで館内の美術品や装飾を展示している。

visite-palazzofarnese.it

⑶ルチェライの階段

⑷シャッラ・コロンナ宮殿の「カルボニアーノの扉」:コルソ通りのPalazzo Sciarra Colonna Carbognanoの巨大な扉。同じ区画内で背中合わせに建つ19世紀のガレリア・シャッラの方が少なくとも今は有名。