意味から始める情報学

なぜ、マスメディアの情報はイマイチ信頼できないのか。それは意味がわからないからだ

ゴーン事件、ケリー被告の朝日新聞「一部無罪」報道について

日産元会長、カルロス・ゴーン氏の事件で、東京地裁元代表取締役、グレッグ・ケリー氏に対し、金商法違反(有価証券書の虚偽記載)で懲役6月、執行猶予3年(求刑懲役2年)の判決を言い渡しました(3月3日)。東京地裁は、起訴された2010~17年度のゴーン氏の「報酬隠し」を認めたものの、ケリー氏は17年度以外は共謀がないとして大半が無罪となりました。

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE24D090U2A220C2000000/

 

ケリー氏はゴーン氏らと共謀し、10~17年度の日産の有価証券報告書にゴーン氏の役員報酬を計約91億円少なく記載したとして起訴されていました。判決は過少記載を認めつつ、ケリー氏は17年度を除いて当該事実を知らなかったと判断したとのことです。

 

個人的には、そもそも有価証券報告書の虚偽記載に当たると思っていなかったので、ゴーン氏の虚偽記載を認めた今回の判決は意外でしたが、法的な検討については多くの方が論じられておりますので、ここでは説明を省きます。

 

今回ここで触れたいのは、当判決を伝えた朝日新聞電子版の記事の見出しです。「日産ケリー元役員に有罪判決、一部無罪 ゴーン元会長の報酬隠し事件」

https://www.asahi.com/articles/ASQ325278Q2QUTIL04W.html

この判決で「一部無罪」の見出しに驚きます。

 

この記事の本文にもあるように、10~17年度の有価証券報告書の虚偽記載について問われたうち、有罪になったのは17年度分だけ。1/8です。

 

朝日新聞は、ゴーン氏の乗っていたプライベートジェット機に検察関係者が乗り込む映像、写真までつけて逮捕を報じました。ここから朝日新聞は他メディアに先行して、捜査関連情報を報じていきました。

 

https://www.asahi.com/articles/ASLCM5QBXLCMUTIL02C.html

 

ニュース記事の性質を理解するために、私は次のようにその前提を説明してきました。
メディアはsource(取材源)の言明(話)を採取、選択、利用してそれ自体の言明を提示する。

主要メディアにとって警察・検察などの行政、司法機関は固定されたポストのように昼夜情報を集荷する先であり、その他の取材先はその内容に合わせて選ばれるに過ぎません。判決という川下のポストにたどり着く間に、情報の内容はそれまでに集荷された内容で固まってしまうのでしょう。

 

明らかに記事本文の内容とも矛盾するのに、これまで検察の言い分を伝えてきた報道の経緯、検察との関係性があるから、反射的にこういう見出しになってしまう。無罪を唱える識者もいたので、一部でも有罪判決になり、また会社の有価証券報告書虚偽記載は全面的に認められたので、正直ホッとしたのではないでしょうか。

 

思考、認知がロックされ、素直に判決を読む、伝える、ということができなくなっていることに、恐ろしさすら感じます。私は朝日新聞をよく取り上げるのですが、敵意があるのではなく、むしろ進歩的な立ち位置をとっていると理解しているからで、その朝日新聞がこういうことになるところに恐ろしさを感じているのです。

 

なお、他メディアもインターネットで見てみましたが、さすがに「有罪」か「大半無罪」、「一部有罪」としていました。また、日経新聞は私の見間違えでなければ当初「一部無罪」としていたところ、途中から「一部有罪」に更新されました。他社の見出しを見て焦ったか、社内で指摘が入ったということでしょう。

 

朝日新聞につきましても、同日の紙の夕刊での見出しは「大半無罪」でした。紙の方は、ゲラ刷りなどを多くの人間が見て検討するし、他社の見出しも見る時間があるので冷静になったのでしょう。しかし、初動にそれまでに刷り込まれた意識が表れていると思います。

黒川元東京高検検事長のマージャン騒動について③

前回、公務員との関係に関して、メディア側が何らかの規準を設けることについて考えてみたいとお伝えしました。

 

メディアと取材先(公務員を含む)との関係について、現状はどんなルールがあるのか、少し調べてみたところ、ちょうどタイムリーな記事に出会いました。

 

「賭けマージャン取材」の必要性を報道倫理から考える(奥村 信幸) | 現代ビジネス | 講談社(1/8)

 

記事ではメディアの倫理の在り方について考察しており、欧米メディアが実際に設けている指針について解説しています。

 

欧米の主なニュースメディアは、自分たちの使命を「現在知り得る限りの真実を伝える」(米・ワシントンポストの「7つの原則」)とか、「正しい知識を持った公衆をつくる」(米・公共ラジオNPRの「我々のジャーナリズムの原則」)とか、「『恐れや好みを排除して』できる限り偏りのないニュースを伝える」(米・ニューヨークタイムズの「倫理的なジャーナリズム」ハンドブック)など、「読者に対する約束」として規定しているところが多いようです。

それに対し、日本のメディアは「正義人道」、「民主主義と自由」、「世界平和と繁栄に貢献」など、曖昧な原理原則を謳うものが大半です。「真実」や「不偏不党」といった表現は見られるものの、「どのようにしてそれを守るか」という「How」についての説明がありません。

 特に、ニューヨークタイムズの「倫理的なジャーナリズム(Ethical Journalism)」ハンドブックでは、情報源とのプライベートな接触によって情報を取る行為について、"Personal Relations with Souces"として、詳細なガイドラインがあることが紹介されています。

 

www.nytimes.com

 

実際の内容は記事やEthical Journalismの原文を是非ご覧いただきたいのですが、私がEthical Journalismを読んで特に注目した点が一つありました。

 

"Appearence"ー外観-という言葉が何度も出てくる点です。"appearence of conflict(利益相反の外観)", "appearence of partiality(不公平の外観)"など。Ehical Journalismの冒頭でニューヨークタイムズの目的は可能な限りimpartially(公正に)ニュースを伝えることにあり、また読者、取材源、広告主、その他の人々を透明に、公平に扱い、またそのように見られるようにすること(”to be seen to doing so")にある、としています。中立性が脅かされているような外観を呈さないために、一連のルールがあるのです。

 

他方、日本のメディアはそもそも具体的な倫理規程を欠いていますが、この「外観」という概念について、発想自体が存在しない、もしくは非常に意識が低いと言っていいでしょう。例えば重要な取材先の親族、あるいは大学の同級生のような親密な関係を持った人が記者の中にいれば、この記者を通じて他社が取れない情報を取れるかもしれないと、プラスの側面を中心に考えるでしょう。しかし、そこにはメディアと取材先が癒着するリスクがあり、また実際に癒着があるかは別として、第三者から癒着していると見られる可能性があります。Ethical Journalismはこのようなリスクを考えて、まずその関係を報告すること、状況により特定のニュースから外れる、担当を変わるといった措置をとることが適切であるとしています。

 

私がこの「外観」という言葉にピンときたのは、これが会計監査における監査人の独立性を語る上でも重要な概念だからです。

会計監査の目的は、監査人(公認会計士)が独立の立場から、経営者の作成した財務諸表の信頼性を保証し、投資者、債権者などの利害関係者を保護することです。したがって、当然に独立性ー特に経営者からのーが要請されます。監査人の独立性を担保するために、公認会計士法のような法律による規制のほか、公認会計士の職業団体が自ら倫理のルールを設けています。

  

国際的な公認会計士の職業団体である、IESBA(国際会計士倫理基準審議会)は職業会計士が社会的責任を果たすための、基本的な倫理の規準を"International Code of Ethics for Proffesional Accountants"(倫理規程)として規定しています。その中の"International Independence Standard"(独立性の規準)に精神的独立性(Independence of mind)と外観的独立性(Independence in appearance)という2つの独立性についての説明があります。

International Code of Ethics for Professional Accountants | IFAC

日本では、公認会計士協会(公認会計士の職業団体)がIESBAの倫理規程と整合的にルールを設定しているので、こちらを見てみましょう。「独立性に関する指針」が、日本における”International Independence Standard"です。

倫理諸則 | 日本公認会計士協会

独立性に関する指針

独立性は、次の精神的独立性と外観的独立性から構成される。

(1) 精神的独立性

職業的専門家としての判断を危うくする影響を受けることなく、結論を表明でき る精神状態を保ち、誠実に行動し、公正性と職業的懐疑心を堅持できること。

(2) 外観的独立性

事情に精通し、合理的な判断を行うことができる第三者が、全ての具体的な事実 と状況を勘案し、会計事務所等又は監査業務チームの構成員の精神的独立性が堅持 されていないと判断する状況にはないこと。

(なお、IESBA倫理規定では400.5を参照のこと)

例えば監査人が監査を行う先の役員だったり、株主だったりした場合、外観的独立性、つまり客観的、形式的な独理性は損なわれているといえます。そのような状況で監査が行われれば、社会からの信頼を失って、監査制度の存在自体が危ぶまれてしまいます。ですから、こうした関係にある会社の監査は、公認会計士法上禁止されています。倫理規則では、より細かく、例えば監査人の家族が経理で財務諸表の作成に関わっている場合などをリスクとして捉え、状況によりどのように対処していくかを示しています。被監査会社との間で独立性に問題が生じている場合は、その会社の担当から外れる、といった対処がとられます。

 

これは、先ほどのニューヨークタイムズのEthical Journalismに示されている枠組みと同じですね。

 

本来、精神的独立性(Independence of mind)が担保されていれば、監査にしても、取材にしても、公平な判断が可能なはずです。外観的独立性(Independence in appearance)が要されるのは、次のような理由からです。

  • 外観的独立性が損なわれている状態では、利害関係者から独立性に疑いをもたれてしまい、制度が成り立たない
  • 精神的独立性は心の問題であって、具体的に規制できない。外観的独立性は規則等の外形基準で具体的に規制ができる
  • 外観的独立性が損なわれると、精神的独立性も失われてしまう可能性がある

どうでしょうか、メディアにも当てはまらないでしょうか?「利害関係者」のところは「情報の受け手」とでも置き換えて頂ければいいと思います。

そして、今回の黒川元東京高検検事長のマージャン騒動にみる、メディア側の問題の核心を突いていないでしょうか?

黒川元東京高検検事長のマージャン騒動について②-公務員と記者との関係性についてスタンダート(規準)はあるのか

前回のブログで、黒川元東京高検検事長のマージャン騒動に絡み、①捜査機関と報道機関の関係、そしてそれを背景とした②マスメディア情報の性質(言明と情報の通り道)について書きました。今回は、①について少し補足します。

 

alvar.hatenablog.com

 

捜査機関と報道機関の関係-取材先(特に公務員)と記者との関係性についてスタンダート(規準)はあるのか

文春の記事は、スクープに関する人事院の見解を載せており、それによれば

 

(国家公務員と記者が賭けマージャンをし、ハイヤーで送迎してもらった場合)「国家公務員が、会社の利益を目的とする人物(記者)から、社会通念上相当と認められる程度をこえて、接待や財産上の利益供与を受けている場合、国家公務員倫理規程に抵触するおそれがあります」

としています。

(なお、賭けマージャンは刑法犯であり、倫理法以前の問題。国家公務員法の一般服務義務に違反する可能性があり、懲戒免職といった事態も想定される、としています)

 

当の国家公務員倫理規程をみてみましょう。1990年代後半の公務員不祥事を背景に国家行員倫理法が制定され、倫理規程において具体的なルールが定められています。なお、処罰の対象になるのは国家公務員で、違反行為に関係した事業者や個人の方は処分の対象になりません。

 

倫理規程において国家公務員に禁止される行為は、相手が「利害関係者」か否かで大きく異なる点がポイントです。仮に「利害関係者」であった場合は金銭、物品等の贈与を受けること、供応接待を受けること、ともにゴルフをすることなどが禁じられます(ちなみにゴルフは割り勘でも)。具体的に制約を受ける内容が細かく列挙されています。

 

「利害関係者」でない相手については、供応接待を繰り返し受ける等社会通念上相当と認められる程度を超えて供応接待又は財産上の利益の供与を受けてはならない、とされており、具体的に禁止される内容、程度が必ずしも明確ではありません。この点、違反行為か否かを分けるポイントとして、①原因・理由の相当性②対象者の限定性(国家公務員限定か)③ 金額(高額すぎないか)④ 頻度⑤ 相手との関係性(利害関係者に近いか)を総合的に判断する、と指針が示されています。

倫理法・倫理規程Q&A

 

誰が「利害関係者」にあたるか。倫理規程上8つの対象者が限定列挙されています。許認可等の申請をしようとしている者、補助金等の交付の申請をしようとしている者、立入検査、監査又は監察を受ける者などです。上記リンクのQ&Aでは「国家公務員が接触する相手方のうち、特に慎重な接触が求められるもの」と説明されています。ざっくりいえば、ある国家公務員の裁量、判断によって許可が得られたり、指導を受けたりする可能性のある事業者、個人ということになるでしょう。この列挙の中に、例えば「情報の提供を受ける者」、などという記載はありません。したがって、記者が国家公務員を接待していた場合でも、適用されるのは「利害関係者」以外の場合の規定になるでしょう。つまり、まさに「社会通念上相当と認められる程度」が判断規準です。

 

しかしながら、もともと公的機関(公務員)自体に情報開示、説明責任の義務があり、それらの活動に関する最低限の情報を提供するのは、事務業務の一環であると考えられます。例えば、警察や特捜が何らかの事件を立件したとなれば、容疑者、容疑事実を明らかにするなどは当然に行われるべきで、現にそのレベルの発表は、当局の側から、記者クラブを通じて行われています。つまり、一定の情報開示は報道機関の取材の自由とは無関係に、公務員の職務、職責として行われていると考えらえます。

 

そしてまた、当然メディア側にとっては報道が主たる経営活動なのだから、その情報収集の必要性を利用して、公務員の側が情報提供に関して恣意的にあるメディアを選択するといったようなことは、倫理的に問題があることはもちろん、なにかしら対価性の金品、サービスを受け取っていたなら、刑法上の賄賂罪の可能性があるのではないでしょうか。

 

この点、今回、検察最高幹部が自身の意向によりマージャンの場所を司法クラブ加盟社である新聞社の記者に用意させた上、ハイヤーの提供まで受けていることは、捜査情報に関する情報を司法クラブに独占的に提供してあげている見返り、もしくは日ごろお世話になっている謝意という色合いがあるのではないでしょうか。現状、警察や検察の情報提供は記者クラブに対してのみ行われており、そうした閉鎖性に批判もあります。そうした情報提供先の選択には信頼性や規模-情報提供側にとって効率性に資する-など、合理的な理由があると思いますが、提供先から役務提供を受けているのだとしたら、閉鎖性を利用した権力の濫用と言えます。あるいは、黒川氏個人からの情報提供に関し、このマージャンに参加した朝日、産経の二社とその他のメディアとに差があれば-そして、通常報道機関に対する情報提供は、オープンな会見の外で差が出てくるし、そのために朝回り夜回りといった慣行まである-、やはり特別な便宜を図ってもらった見返りにハイヤーを提供しているというように外観上は見えてくるでしょう。

公的機関(公務員)にとって、情報提供は職務の一環なのであり、その立場を利用した恣意的判断ができる以上、報道機関も実質的には利害関係者と言わざるを得ないと思います。

 

法律で公務員と記者の接触を規制することについては、取材の自由を制約することにつながり(最高裁は取材の自由について「憲法二十一条(表現の自由)の精神に照らし十分尊重に値する、としています(取材源開示拒否事件・最三小決2006))」、少なくともこれまでは、一般的に支持を得ることは難しそうでした。倫理規程上の「利害関係者」にならないことも、こうしたことが背景としてあったのではないでしょうか。

 

今回の騒動はもっぱら賭けマージャンに起因する黒川氏に対する訓告処分、氏の辞職によって、公務員と記者との関係における倫理規程上の問題がその後聞かれなくなったように思います。倫理規程上の「社会通念上相当」の規準を持ち出した場合に、例えばタクシー券の提供が違反行為であったとするならば(個人的には違反行為だと思いますが)、その影響は今回の事件にとどまらないでしょう。あらゆる国家公務員(および同様の規程が適用されているその他の地方公務員など)と記者との既存の関係性に大きくメスが入ることになるでしょう。だからこそ、その追及はしないのでしょうか?

 

そして、もし今回の問題を受け、今後何らかの形で公務員に対して、記者との関係を律するルールが設けられるとしたら、取材の自由との関係が論点になります。その場合にこれまでであれば、メディア側は、取材の自由に対する制約は許されないと反論できたところですが、今後も世論を背景にそのような主張が可能なのでしょうか。次は、メディア側で、公務員との関係に関して、何らかの規準を設けることについて考えてみたいと思います。

黒川元東京高検検事長のマージャン騒動について①-言明と情報の通り道

久しぶりに更新します。緊急事態宣言下、黒川東京高検検事長(すでに辞職)が新聞記者らと賭けマージャンをしていたとする週刊文春の報道について、①捜査機関と報道機関の関係、そしてそれを背景とした②マスメディア情報の性質(言明と情報の通り道)について書きたいと思います。

 

週刊文春の報道によると、5月1日と13日の2度にわたり、黒川前検事長産経新聞の記者2人や朝日新聞の元記者1人(元検察担当で現在管理部門)と都内で賭け麻雀をしていました。また、産経新聞朝日新聞も、賭け麻雀の事実を認めています。

 

このブログではメディア情報の意味(性質)ということを説明してきましたが、今回の報道はメディア情報を受け取る広く一般の方々にとって、「情報の通り道」ー誰の言葉(言明)が情報として伝えられていくのか、もしくは誰の言葉をターゲットにメディアの記者たちは取材活動しているのかーを直感的に理解するよい機会となったのではないかと思います。

 

 ここではあえて、「緊急事態宣言下」という特殊環境下での不適切行動、「賭けマージャン」の賭博罪の違法性については触れません。ごく単純に大手新聞記者が自宅まで提供して、捜査機関の最高幹部と日常的に集い雀卓を囲み、かつ幹部のハイヤーまでを提供しているという事実。この状況に違和感、不快感、不信感を抱かれた方は多いと思います。

 

しかしながら、このような取材先(特に捜査機関関係者)との関係性は少なくともニュースメディアの記者にとっては、太陽が東から昇って西に沈むがごとくに普通のことです。また、このような関係性を構築、維持することは、朝起きたら歯を磨くくらいの基本動作に位置づけられることです。今回のように報じられることさえなければ、新聞社内では奨励されこそすれ、お咎めにあうような話ではないのです。少なくとも今までは。(この点は次回、少し考察します)

 

私が大手新聞紙で記者をしていたときも、飲み会を催すのは当然のこと、間接的に知っている例では、合コンのセッティング(このときの捜査機関は警察)までしてあげていることもありました。入社1年目はほぼ例外なく事件担当になります。警察を中心に、検察への取材もあります。私のいた会社ではタクシー券の束が渡されていました。飲み会があれば、警察や検察に限った話ではないですが、相手にタクシー券を差し出すのは当然でしょう。(ただ、私の経験上は、これを受け取った公務員はいませんでしたが)

 

より深く検察取材に携わった方の実体験談として、今回の事件を受けた、元NHKで司法キャップや解説副委員長を務めた鎌田靖氏のコメントは非常に正直です。

headlines.yahoo.co.jp

 

鎌田氏自身、現役時代には検察官と麻雀をしたことがあるといい、「1000円、2000円くらいのお金を賭けていた。一番負けた時で数千円くらいだったが…」と振り返る。

「懇親会でカラオケに行くこともあったし、山歩きが好きな検察幹部がいて、疲れるのは嫌だったが各社が行くので付いて行ったこともある。それで山歩きが好きになったが(笑)。私が無能だったせいもあるが、検察担当の頃には、1年のうち休んだのが1週間くらいという時期もあった。そういう中で、普通では話をしてもらえないようなことを話してもらったこともある」。

ここで問題としたいのは、そのような背景を情報の受け手が理解しているか。こんなことを許容してまで情報を得ることの妥当性が説明されなければならないでしょう。取材のための「個人的関係」を重視すればするほど、取材先から記者が操作、影響を受けているという疑念を抱かせることになります。一般に「隠された(もしくは秘匿された)情報を取るのがジャーナリストの使命であり、そのためには関係者から信頼されねばならず、そのために取材先と公私にわたり付き合うことが必要だ」というような説明がされるでしょう。「情報」のところに「事実」とか「真実」を当てはめてもいいです。より、ジャーナリストっぽくなりますね(笑)。ただし、この場合の「隠された情報」「隠された事実」「隠された真実」とはどこまでいっても「捜査情報」です。この「捜査情報」を得るために記者は日中は庁舎の中の記者クラブを中心に活動し、朝晩は捜査関係者の家へ「朝回り」「夜回り」に日参します。「司法担当」といっても、その実は「検察担当」で検察を追っています。

 

情報を取るためにどれだけ取材先との関係に気を配る必要があるのか。朝日新聞の「ジャーナリスト学校」が入社3年目までの記者を対象に提供した研修の「エッセンス」を、「記者入門ガイド 報道記者の原点」(岡田力著 リーダーズノート出版 2014)で読むことができます。

警察取材の説明を少し抜粋してみます。警察の幹部である本部長、各部長といかに信頼関係を築き、事件や事故が起きた時に話を聞き出せるようにしておけるか。

ただ、会えなければ取材はできません。ここで重要なのが本部長や部長の秘書役です。秘書役の警察官や事務員は、新聞記者に会わせないことが「自分の仕事」だと思っているところがあって、取材の壁になることがあります。そこで、秘書役を味方につけるのです。お菓子やお土産を持っていくなど、いろいろ工夫します。「本部長を落とすにはまず秘書役から」です。(第五章 事件・事故取材講座)

この本は公に刊行されている出版物ですから、ここまでであれば、世間に知られてもまずくない、という認識で書かれているはずです。現場で行われている、色々な関係づくりの努力のうちのほんの一部が示されているに過ぎないわけです。それでも、一般の読者は違和感をもつのではないでしょうか。

 

少し脱線しますが、記者たる者、いかに取材先(捜査関係者)との関係構築について、気を使って取り組まなければいけないのか、その心構えが色々と説かれていて、特に面白い下りがありました。

 

私は、朝駆けで一番注意しなければならないのはトイレだと思っていました。毎朝6時に起きて、満員電車で出勤する捜査員の立場を考えてください。朝起きたら、まず何をしますか。顔を洗って、歯を磨いて、それからトイレに行きます。大きい方だとタイミングが実に難しいものです。朝、ちゃんと出していれば気持ちよく出勤できるのですが、ちょっとしたタイミングのずれで出なくなってしまいます。このトイレを邪魔したのが新聞記者だったら、どう思いますか。「あいつのせいで不快だ」と一日中思います。そんな記者に情報を提供すると思いますか。朝から人が訪ねてきただけで使が出にくくなります。外に人の気配がしただけでもダメです。そういうこともあって、チャィムは鳴らさない方がいい。どうせ待つていたら出てくるのだから、来ていることも気づかれない方がいい。こうした配慮はとても大切です。 (第五章 事件・事故取材講座)

研修つながりで補足したいことがあります。15年ほど前、私もまた若手記者として大手新聞社の地方支局にいました。たまに研修があり本社に行く機会があるのですが、そうした研修の一つで講師をされていた方にリクルート事件の特ダネ報道で名を馳せた方がいました。当時「検察」担当だった方です。また、別の研修、「司法取材研修」というのがあり参加させて頂いたのですが、裁判員制度の開始が間近だったので、そうした司法改革について講義があるのかと思えば、中身は「検察取材研修」でした。

 

このブログを通じて、メディアの情報は誰かが言ったこと、誰かの「言明」である、と説明してきました。取材源が記者に話し、記者が原稿にまとめて読者に伝える。それが「情報の通り道」です。メディアは必要だと思っている情報の通り道に重点的に記者を配し、各記者は与えられた担当箇所でできるだけ効率的、効果的に時間を使います。記者が費やしている時間の内容が、情報の性質を表しています。メディアがターゲットにし、発信している情報とは何か、今回の報道を通して肌感覚で理解できたのではないでしょうか。 

 

また、続きを書きます。久しぶりの更新でしたので、これまでのまとめ投稿のリンクを貼っておきます。

本ブログでは、過去に大手新聞紙の記者をしていた私が、現在の専門である会計監査の視点から、メディア情報の性質、問題点を考察しています。

 

alvar.hatenablog.com

 

 

alvar.hatenablog.com

 

言明とアサーションまとめ②ニュースの正体

言明とアサーションのまとめの続きです。

そもそもなぜ、監査の考え方がメディア情報の信頼性を検討する上で援用できるのでしょうか。このブログの初めの方で一つ一つ説明してきましたが、それは会計とは何かということから明らかです。会計の定義は諸説ありますが、ここでは下記の定義を取り上げます。

 

会計とは「財産の管理行為の受託者が自分のおこなった管理行為の顛末をその委託者にたいして説明すること」

歴史にふれる 会計学 (有斐閣 友岡賛 1996)

 

英語の会計「accounting」が説明するという意味の「account」から派生しているように会計とは説明ツールであり、だからこそ財務諸表という言明(statement)に結びつくといえるでしょう。

 

言明とアサーション(言明の意味)の関係について述べます。

ある言明が正しいという前提に立つとき、その言明は関連するアサーションについて正しい情報を与えています。

前回取り上げた借入金だけでなく、財務諸表のあらゆる情報(現金とか売上とかの勘定科目)にはアサーションが含まれます。会計監査で使われるアサーションについて、会計監査の規範である監査基準では次のようなアサーションを列挙しており、実務でもほぼ同様のアサーションが使われています。

実在性

網羅性

権利と義務の帰属

評価の妥当性

期間配分の適切性

表示の妥当性

 

例えば売上ですと、売上の実在性(架空売り上げでない)とか、網羅性(すべての売上が計上されている)とか、期間配分の適切性(翌期の売上が当期に計上されてない)といったアサーションが選択され、監査の検証対象となるわけです。

 

以上の理解をもとにメディア情報の問題点は以下の2つに集約されます。

アサーション(情報の意味)が不明

端的にいえば、新聞の1面のトップにある記事が掲載される。例えばそれが政治家が収賄容疑で逮捕されたという記事だったとする。重要なのは、新聞社がその情報の意味(アサーションとして何を保証しているのかが見えない、ということです。この場合、政治家が逮捕された、というのが実在する(実在性)というほかに、明らかに普通は読者はこの政治家はクロだろうな、とまあ思うわけです。これは「評価」というアサーションが読んでいる側からすれば生じているといえます。当然、この「評価」を担保する裏付けがあってこのような報道になっているのだろう、と読者は思うでしょう。あるいはこの政治家サイド(本人や弁護士)の意見が反映されていれば「公平性」というアサーションが満たされるといえるでしょう。公平性は会計監査にはでてきませんが、メディア情報には必要というか、メディア自身が「公平な報道」をしている、という建前になっています。であれば、「公平性」を満たしているぞ、というアサーションが記事に成立してないといけないですね。

現状メディアの特徴は散々当局の宣伝をしながら、「評価」のアサーションに責任は持たない、といってよいでしょう。特に事件報道では、基本的には単に当局の動き、主張を伝えているスタンスを盾に、自ら評価の形成に寄与しているという認識は、故意にか無意識にかわかりませんが、していません。

さらに、これがまた重要ですが、会計には「表示の妥当性」というアサーションがあります。これは会計のルールブックに決められたとおりに、情報が整理されている(貸借対照表損益計算書の科目が適切な科目で適切な順番に並んでいるなど)ということです。

メディア情報において情報の整理(配列や見出しの取り方など)が重要なのは言うまでもないことですね。新聞社には「整理部」という正に記事の整理をする部署があります。

一般に一面が大事で、各ページのトップから肩(左上)から順に重要で、といった程度のルールは公表されていますが、読み手からすればそれ以上の整理のルールはよくわかりません。新聞でいえばその日の「表示」(配列や見出し、あるいはそもそもその日のニュースとして何が選択され何が捨てられたのか、そしてその基準)がなぜそうなったのか、読者には伺いしれないことです。

 

②二重の言明(アサーション

こちらはこれまで何度も説明してきましたね。

簡単にいうと取材対象の言明とメディアの言明がごちゃごちゃになっているということです。

メディアが取材対象そのものや言明の内容を選び、それがメディアの言明となる。さらに、メディアの言明の意味(アサーション)を受け手が判断するしかないので(特にメディア情報の場合、意味を理解するためのルールがない)さらに意味が、メディアが保証している範囲から外れて理解される。

これがニュースの正体です。私たちは何を事実として受け入れているのでしょうか。

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前回ブログの図を再掲。村木厚子さんの事件におけるメディアの言明と受け手の解釈


alvar.hatenablog.com

 (2020年4月4日編集)



情報の正体ー言明とアサーションのまとめ①

今回は言明とアサーションについてまとめてみたいと思います。

といいますのも、この二つの用語は本ブログの鍵概念である上に私自身が言葉の使い方をはっきりさせる必要があると感じたからです。前々回と前回のブログで無意識のうちに「二重の言明」「二重のアサーション」という言い回しを特に区別することなく使っておりました。用語を混同したかと思い、訂正することも考えましたが、結論としては両方の言い方が可能で、前者の下位概念が後者であり、ほぼ同義で使うことも可能であろうと判断しました。したがって、訂正することはしないのですが、正直自分もちゃんと区別できていなかったし、読む人に疑念を抱かせるおそれがあるので、ここで整理致します。それは取りも直さず情報の正体を明らかにすることになります。

 まずは定義を確認しましょう。

 言明(Statement)とは「真偽または確からしさを決定することのできる主語と述語からなる文

であり、

(言明)の真偽を決定(証明)できるのは、われわれが当該言明の意味(アサーション)を知っているからである

 

いかなる言明にも、それを作成した当事者(通常の場合、企業の経営者)の主張が含まれている。財務諸表監査において監査人が関心をもつアサーションとは、財務諸表の作成者である経営者の会計上の主張であり、会計的言明(accounting statement)としての財務諸表に含められた会計上の意味である。

いずれも(鳥羽至英ら共著「財務諸表監査」国元書房、2016)

 具体的なアサーションは、例えば貸借対照表に借入金100万円が計上されていれば、期末日の借入金は100万円ですべてであり、他に借入金はない(網羅性)、とか、借入金に関する利息1万円が損益計算書に計上されていれば、利息1万円はすべて当期に帰属する(前期や翌期に帰属する利息は計上されていない、期間帰属の適切性)といった形で表されるのでした。

 

そして、それらのアサーションは経営者の主張といいながら、直接的に経営者が表明しているものでもありませんでした。情報の信頼性を保証する監査人が自ら識別するものであり、アサーションがどの程度確からしいか検証するのが監査なのでした。

 

では、なぜ監査人はアサーションを特定できるのでしょうか。それは会計には公のルール(一般に公正妥当と認められた企業会計の基準)があり、経営者はそのルールに沿って財務諸表を作成することが求められるからです。経営者が適正に財務諸表を作っていれば当然にそのルールと合致するはずであるため、信頼性を確かめるには、財務諸表がそのルールに沿っているとの仮定(=経営者の主張)を検証すればよいのです。この検証ポイントがアサーションになるのです。

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問題はメディア情報です。メディア情報の作られ方にルールは果たしてあるでしょうか?

この問題についてはまた詳解したいと思いますが、一義的にはないといってしまってよいと思います。なぜなら、少なくとも情報の作り手、受け手にとって共有できる「これ」と言えるルールブックはないからです。したがって、メディア側は「信頼できる情報」を提供していると主張しても、意味(アサーション)を受け手は見いだせないのです。この問題については郵便不正事件を題材に触れました。

この問題で特に伝えたかったのは、事件報道は警察検察の捜査動向を主体として情報発信しているだけであり、被疑者の容疑事実の確からしさなどとは全く関係がないということです。そのような評価をメディアはわざわざ自分の手で行っていません。つまり、逮捕報道があっても容疑者の容疑事実は確かであるとか、確かでありそうだとか、といったアサーションは含まれていません(警察検察側の主張としてはあると思いますが)。 

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一番メディアの欺瞞を感じるのはメディア側が「メディリテラシー」の重要性を強調することです。

メディアリテラシー」については色々な定義があると思いますが、ざっくりと、「メディアがもたらす情報を正しく理解し、活用する」と考えたいと思います。

 

なお、はてなキーワードにも解説がありました。

d.hatena.ne.jp

 

メディアが取り組むメディアリテラシーの向上については、例えば日本新聞協会が設立したNIE「新聞に教育を」が行っている教育活動として、特定のテーマについて複数社の新聞を比較読みすることなどが挙げられます。また、メディアに関する論評の中には、メディアリテラシーの向上が課題であるかのような発言もたびたび目にします。新聞社の設立する紙面検証委員会の委員もそんな趣旨の発言をしていたような記憶が、、

 

しかし、まず情報の意味、例えば記事のどこからどの部分がどの情報源の情報を元にしているのか、どのように情報を選択しているのか(単に重要だから取り上げたとかではなく、報道のプロセスを示すこと。ただこれだけのことがどこにも書いてない)、結局伝えているメディア側はそのニュースをどのように評価しているのか(あるいは評価していないのか)をはっきりさせる必要があるでしょう。

メディアの情報開示について食品に例えるならば、添加物について一切の表示をせずに、食の安全を消費者の知識と懐疑心に100パーセント依存させているようなものです。

 

まとめの続きを次回書きます。

 

(2020年4月4日編集)

 

 

ファクトチェックー二重のアサーション

少し前のことになりますが、yahoo ニュースに次のような記事が出ていました。

 

news.yahoo.co.jp

 

朝日新聞および東京新聞で最近始まった「ファクトチェック」の取組みに対する論評です。昨年秋の米大統領選を契機に、特にトランプ候補(現大統領)の言説を巡って、その真偽を確かめるために米メディアや対立候補ヒラリー・クリントン氏らがファクトチェックのサイトを立ち上げ、その言説が確かな事実に基づくものなのかを検証する取組みが盛り上がりました。朝日や東京新聞の取組みはそれらに続いたもので、朝日新聞はファクトチェックについて、

政治からの発表内容を確認し、「正しい」「一部誤り」「誇張」などと判断するもの

2016年10月24日 朝刊

 

政治家の発言内容を確認し、「間違い」「誇張」など、その信ぴょう性を評価するジャーナリズムの手法(中略)最近では、ネット上の「偽ニュース」への対抗策としても注目されている

2016年2月6日 朝刊

などと説明し、実際に政治家の発言について「誇張」とか「一部誤り」といった評価を下しています。

 

今回はこのファクトチェックについてのGoHooの記事を取り上げ、ファクトチェックの登場が明らかにする現状のメディア情報の問題点を「二重のアサーション」の観点から論じてみます。「二重のアサーション」についてはこれまでのブログでも触れましたが、本記事でまとめました。

 

 GoHoo(ゴフー)は、マスコミの報道を検証するウェブサイトで、yahooニュースにもアップされているため、記事を目にしたことがある人も多いと思います。このページの取組みには、私も報道の仕方に疑問を持ち続けてきた一人の人間として、非常に関心をもっております。このサイトのように網羅的に日々のニュースの検証を行うことは、並大抵のことではありません。基本的に記事の執筆は、同ページを運営する一般社団法人 日本報道検証機構代表の楊井人文氏がお一人でされているようで、その熱意と労力には頭が下がる思いです。

さて、今回の大手新聞社が始めたファクトチェックについての氏の批判は主に2点です。

①ファクトチェックの対象が事実関係を超えて、政治家の意見の評価を含んでしまっていること

②上記にあげた新聞社自らが定義するファクトチェックの対象に、メディア自身が含められていない、ということです。

楊井氏は②の点について

第二に、ファクトチェックの対象は、政治家の言説に限らない。対象となるのは、事実関係に言及した言説・言明である。当然、メディアの報道も有識者の言説も含まれる。

そもそもファクトチェッカー(ファクトチェックを専門とする職種)の起源は、1920年代の米国の雑誌だと言われている。伝統的に、メディアが自らの記事に事実関係の誤りがないかどうかをチェックすることであり、現在もそれは変わらない。たとえば、米国のキャリア支援サイト「Study.com」では、ファクトチェッカーは「メディアの報道や公表された記事の情報を検証する」職業と紹介されている。

ところが、朝日新聞の説明では「政治家らの発言内容」としか書かれていない。「ら」と含みをもたせているが、自分たちメディアの報道がファクトチェックの対象になることを隠そうとしているのかと勘ぐられてもしかたない。 

 

と言います。

 

また、楊井氏はアメリカでファクトチェックが盛り上がった昨秋に、いち早くファクトチェックについて記事を投稿しており、ファクトチェックとは何であるのか、下記の記事も参考になります。

 

 米大統領選で注目されるファクトチェッカー 世界にはこれだけのサイトがある(楊井人文) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

ここで、ファクトチェックの対象が取材対象たる政治家等に限られるのか、もしくはマスメディアの報道自体も含まれるのか、いずれにしてもその対象は「言明」であるということになります。

このブログで、言明が会計監査(=情報の信頼性の検証)の前提となる重要な概念であることを説明し、言明とは「真偽または確からしさを決定することのできる主語と述語からなる文」とし、「真偽を決定(証明)できるのは、われわれが当該言明の意味(アサーション)を知っているから」であると、監査論の鳥羽至英氏の著書を引用してご紹介しました。 

alvar.hatenablog.com

 

 

 この言明の定義は、楊井氏が想定する言明の語義と大きく相違していないと思われます。

 

したがって、情報の信頼性を検討する際には、言明の意味を考えることが必要であり、その前提として情報が誰の言明であるのか明らかにすることがまず必要となるのです。

 

ここで、メディアの報道は二重の言明で成立していることを、吉田調書問題をとりあげた前回までのブログでお伝えしてきました。

 

alvar.hatenablog.com

 

この報道は吉田氏の証言について朝日新聞が記事化して読者に伝えていると考えることができるでしょう。これはどういうことかというと、二重に言明が存在しているということになります。

①吉田氏の証言

朝日新聞の吉田調書の報道

 

 

 改めて、メディア情報の二重の言明についてまとめてみましょう。

第一の言明とは、報道が伝えている取材対象(行為主体)そのものの言明であり、

第二の言明とは、報道が第一の言明を編集し最終的に情報の受け手に伝える表現形態そのものです。

 

模式図にすると↓のようになります。

内側の円が第一の言明、外側の円が第二の言明です。

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※「表示」とは最終的な表現形態そのもので、伝達内容や表現方法を含んだものとお考え下さい。用語自体は会計学の術語で、財務諸表の最終的な表現形態を指します。

 

繰り返しこのブログでお伝えしているように、基本的にメディアが責任をもってきた(責任をとってきた)のは、第二の言明の方です。すなわち、第一の言明の真偽はその言明を行った行為主体そのものが責任をもつ、というのがこれまでのメディアの在り方でした。メディアの在り方というのは、つまるところ、それが我々の情報空間の在り方だったということです。例えば、STAP細胞の不正論文問題に対して、当初は小保方氏を持ち上げたメディアが、その論文が不正に作成されたとわかったとしても、メディアの側が報じた責任をお詫びするなどということはあり得ないことなのです。この場合のメディアはどちらかと言えば被害者側の立場をとるのです。

 

私が、ファクトチェックの取組みに関して注目したいのは次のことです。

①第一の言明に対してメディアがどこまで責任をもつのか

②第二の言明に対するチェックをどのようにモデル化していくか

 

先の二重の言明について現状のファクトチェックは第一の言明に向いています。

 

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①第一の言明に対してメディアがその真偽を語るということは、その取組自体が第二の言明に含まれていくことになります。結果として、彼らのファクトチェックの適切性が問われることはもとより、これまで責任を負うことがなかった(あるいは責任を曖昧にしてきた)第一の言明の真偽についても責任を負うことになる可能性があります。例えば小保方氏の不正論文のような問題を想起した場合、論文発表に際してメディアが自らファクトチェックを行っていくことや、仮に事後的に不正が明らかになった場合には、「ファクトチェックがちゃんとしてなかった」と不正を看過して報道したメディア自身の責任が問われていく、という状況も想定されます。

 

②「不十分」「誇張」あるいは「もっと説明が必要です」などと政治家の発言を論評することは、当然その矛先がメディア自身にも向くことをメディアは自覚していることでしょう。

その前提としてどのようなファクトチェックの評価の基準を自分たちに向けるのか。もちろん他者に向けている現状のファクトチェックの評価が曖昧で確たる基準もないのであれば、そもそも自分たちに向ける基準もない、というお粗末な結果となるでしょう。

 

ファクトチェックへの取組みは、ファクトチェックという機能が第一の言明にはほぼ存在しなかったのであり、第二の言明に対してもいわゆる校閲という限られた意味での事実確認というレベルでしか存在しなかった、ということを明らかにしています。それはとりも直さず、メディアの報道自体の意味(アサーション)がそもそも明らかにされない状況を許してきたことでもあります。

いずれの問題についても、メディア自身が責任の範囲=言明の範囲を明確化することが、今後重要になってきます。