小保方騒動について

彼女の見た目や性別などで理論の次元が捻じ曲げられているが、そもそもこの問題に対してジェンダー的観点から意見が出るのに違和感を覚える。

容姿や性別に関係なく研究内容や研究結果そのものを評価するのが理系学問の健全なありかただと思うし、小保方を一研究者として見れば、彼女に対する礼儀でもあるだろう。どうしてそういう意見が出にくいかと言うと、当の小保方の姿勢に問題がある。

「わたしが幼くて、無知なせいで、こんな騒ぎになっちゃって本当にごめんなさい。どうか許してね。

ちょっと今は公共の場だし、私だけの問題ではないから、証拠は出せないけど、STAP細胞は、ありまーす!信じて下さい!」

これが会見の際の彼女の論旨だ。

彼女は女性のイメージである未成熟さや幼さを逆手にとって、つまりジェンダーをある意味で隠れ蓑にしている。

彼女自身が自分を一科学者として評価されることを拒んでいる。意識的であれ無意識であれ。

彼女が真にSTAP細胞を信じ、大切にしているのなら、こんな大騒ぎにはしないだろう。速やかに批判を受け入れ、訂正しようとするのではないか。

わが子の名に泥を塗るなど誰がしようと思うだろうか。会見の際、彼女から有力な参考資料の提出や、発言を裏付ける実験の具体的手法について出ることがなかったのもきわめて異様だったように思う。

 

個人的には彼女の雰囲気は文系学者のそれとしてはかなり普通だったと思う。

どっちつかずの言葉遊びばかり繰り返し、聞いていると虚無的な気分に陥るところとか。無責任で厚顔無恥なところとか。自分はあくまで悪くない、落ち度がないと根本的な部分で信じているところとか。何かあれば大学とか権威を口実にして責任を逃れようとするところとか、うちの大学の大半の教授とそっくりである。

彼女を擁護する大学教授は、ある意味で保身のために発言しているのではないだろうかとすら感じる。

 

つまり何が言いたいかと言うと。

・小保方の件に関してジェンダーを持ち出すのはナンセンスであること。

・一研究者として彼女を評価するなら、女であることからの擁護も批判も彼女に対する礼儀に反すること。

・一研究者としての批判は彼女は甘んじて受けるべきだということ。

 

書いてみたら当然のことのような気もするが…。

 

 

 

ル・アーブルの靴磨き感想  Between Individual And Society

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外国映画を見ていていつも感心させられるのは、その絶妙な人と人との距離感だ。関わって、離れて、という一連がとてもスムースで、美しい。人はいつでも一 人だが、そのまわりにはいつも人がいて、見られている、認識されている、ということが伝わってくる。筋書きだけみればありきたりなハッピーエンドで、正直 肩透かしを喰らう。
特に往時のロックンローラーの夫婦喧嘩を解決し、チャリティーコンサートをひらくところなどお笑いのような粗末さだと感じる。

主人公のおじいさんがかっこいい。警察に取り押さえられてもタバコを吸い続けるところや、入院した妻に毎回花を買っていくこと、移民センターの審査官にジャーナリストで弁護士、全て録音していると嘘をつくこと。
靴磨きなのにどこか毅然とした矜持があり(「この世で一番人間らしい職業は、羊飼いと靴磨きだ」)、人の足元にうずくまって靴を磨いていてもみすぼらしくない。

刑事のキャラがまた毅然としている。人間はもともと嫌いだ、という。結局いい人なんだろうなというのはなんとなくわかる。
田舎の仲のいい人々が協力し合い力強く生きている、というどうしようもなく退屈そうなテーマ(しかも結局一件落着だろう、というのもわかる)を、最後まで惹きつけるものにしているのは映画監督の力なんだろうか。
随所にたちこめる沈黙やほの暗い静かなトーンが効いているのかもしれない。
男女が愛し合っているっていいことなのに、どうして世間の人ってそれがいいとか悪いとか言うのかしら。
黒人少年のまなざしが、このセリフをいやらしくなく印象づけるのに成功していると感じた。

まとまってないから冗長な文章だ。


黒人移民や貧しい人々というテーマがある。いわゆる社会的弱者だ。
海を越えたそんな遠い話でなくても、日常的にそういうくくりはある。インテリとか小売業とか・・・

黒人の男の子がひっかかる。この子は言葉遣いも丁寧で、頭も良さそうなくせに、自分からはほとんど何も言わない。発信することは彼の中でほとんど重要ではないと思われる。
こういうのに直面すると戸惑ってしまう。
つまり、彼は黒人である以前に一人の人間だ。でも、他人はそれを黒人としてくくる、黒人一つで彼のアイデンティティは成立して、ほかには何も残らないように感じる。他者の視点からは、彼は黒人としてしか映らない。それだけで必要十分だとでもいいたげに。
ほとんどの作品や人はそこを出発点として、彼らの心の機微を描いたりとかするのだろう。
それは黒人でなくたって同じことで、靴磨き、パン屋、中国人、食料品店、刑事、教授、妻、靴磨き…様々なところで社会の皮をかぶせられた個人がいる。
それってどういうことなんだろう、とずっと不思議に思っている。

カテゴリわけさせられる。
で も、そのカテゴリは一部であって、全部じゃない。だけど、その皮があたかも人の全てを支配して決定づけているようだ。人は自由でなければならない、基本的 人権、教育を受ける義務、最低限の文化的な生活、そんなものが私に肌の時点でしみついているからわからなくなるんだろうか。

日本人は島国で、皆同じようなものだ。少なくとも私が今まで過ごしてきた中ではそうだ。みんな義務教育を受けて、新聞をとって、テレビを見て、大学に行って…
日 本人であることは日本で暮らすなかではほとんど何の意味も持たない。差別化をはかるには、たとえば美醜、頭の良さ、内面、うん、内面だ。内面で差別化を図 るしかない。私たちは体一つでは成立しないコミュニティに生きている。だから日本のファッションとかは欧米に比べ変な発展を遂げているのかなあ…。学歴社会なのもそこ らかも。学歴至上主義は韓国とかのほうが強いらしいけど…学歴社会といえばアメリカもか。

でもアメリカはアジアとは逆で、違いすぎるからこそ束ねる指標として、学問が必要とされている気がする。
とりわけ、日本は違うことが嫌いだ。みんな一緒をよしとする、社会的文脈がそこにある。Cawaiiの画一化なんか。

外側から決めつけられること、他社から見て一つで強いアイデンティティが形成されることに、多分私は慣れていない。私たち、かもしれない。
私はそういうのに出くわすと、面食らう。障害者や、欧米人、イスラム教徒、黒人。彼らはひとつとして違うことはないけれど、でも・・・どうしてこんなに”違う”のか。
私は”みんな”同じことに慣れすぎてるのかもしれない。家庭教師先の親ごさんが高校中退と高卒でびっくりする。違うことって、何なんだろう。違うなんてないのに、違いを眼前に突きつけられると、驚く。怖いと思う。
私は違うことでひどく傷ついて自己否定に走ったから、なおさらだ。
違うことって、なんなんだろう? defferenceってどういう影響をするんだろう? individualとsocietyのあいだには何があるんだろう?
そのbetweenを、軽々と飛び越えるところにcommunicationがある。だから私は、communicationが苦手なのかもしれない。人に相対すると、何を言っていいのかわからなくなるのかもしれない。
彼は絶対に、私とはdefferenceがあるのだとわかるから。