大罪人の祈り

「祈り」とは。「祈る」とは。

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祈り(3

父なる神様

感謝します。

 

今日の主の日、あなたを礼拝する喜びをいただけましたこと

感謝いたします。

 

今日、一つのステップが私の中に芽生えました。

これはあなたがくださったものですか?

 

どんなに良いと思うことでも、

あなたがくださったのでなければ、私にそれをすることは

到底できません。

 

主よ、父よ

私の中の希望は、あなたにのみ、あります。

なぜなら、私の苦難さえ、あなたとともにあるからです。

 

どうぞ、私を導いてください。

力強いその御腕で、私を導いてください。

 

あなたにおできにならないことは、何ひとつ無いことを

私は知っています。

 

主よ、全ての栄光はあなたのものです。

 

何があっても、あなたを賛美し続けることができますように。

 

イエス・キリストの御名によって。

アーメン

祈り(2

天の父なる神様

全能の神様

 

あなたの愛と恵みを語り続けることが

私の務めでしょうか。

でもどうやって?

私はそれを知りたいのです。

私は多くの物を、あなたからいただいています。

それは理解しているつもりです。

しかし、語り伝える準備をしていても、

また、語り伝えている最中でも、

様々な不安が頭を過ぎってしまうのです。

主よ、お教えください。

安心して、静かに語っていれば良いですか。

後の必要なものは、あなたが備えてくださいますか。

罪ある私ですが、

あなたは私を御用のために用いようとされていること。

それは私の大きな誇りです。

でも、不安もまた大きいのです。

主よ、御声を聞かせてください。

どうすれば良いのか、お教えください。

 

イエス・キリストの御名によって。

アーメン

 

祈り(1

父なる神様

全知全能の神様

私を決して見捨てない神様

私の進むべき道をお教えください。

私はどこに行けば良いですか。

私はどこに行けば、あなたの道を見つけることができますか。

私を闇から救い出し、希望の道へと導いてくださるのは

あなたしかいません。

これまでも多くの人を導かれたように、私も導いてください。

あなたが私を愛してくださっていることを

私は知っています。

私もあなたを愛します。

先の見えない私の手を

静かに取って、先導してください。

私は聞いています。

あなたの足音を、私は聞いています。

だから私のそばに来て、

私の手を掴んで離さないでいてください。

 

愛なる父よ、お願いします。

 

イエス・キリストの御名によって。

アーメン

政権批判などしている場合か。

私は何をするにも、目的が無いと嫌なタイプです。

何を目指し、なぜそれをするのか。

クリスチャンとしての個人はキリストに倣い、キリストの似姿になるというところを目指すべきなのでしょう。

(とても難しいことではありますが。)

では、そのような者が集まる教会が目指すべきはどんなことでしょう。

 

結局のところ、

教会の働きの一番の肝、つまりミッションは「苦しむ者に寄り添う」ことではないかと思うのです。

「苦しみ」には様々あります。健康・人間関係・家族関係・仕事・経済的なこと…

「苦しみ」とは言い換えれば「痛み」です。 

100人いれば100通りの「苦しみ」があり、「痛み」があります。

そしてそれは教会の内も外も関係なく、他者であるとさえ限らない。

「苦しむ者」とは自分自身かもしれないのです。

自分自身に寄り添うというのも奇妙な言い回しですが、苦しむ自分を受け入れ、慰め、労わるということはとても大切なことだと思います。

そして寄り添い方も様々で、それこそ大いに賜物を発揮すべき時でしょう。

教会のあらゆる活動・イベント・集会は、そのための手段であると思います。

 

「弱者」ではなく「苦しむ者」。

「弱者」という響きには、どことなく自分は「強者」というニュアンスがあります。

「社会的弱者」のことを指す場合が多いからかもしれません。

 

教会においては、「強い者」も弱い。苦しむのです。

教会においては、「弱い者」が「強い者」に寄り添うことが大いにあり得ますし、

「苦しむ者」が別の「苦しむ者」に寄り添うところには必ず神の大いなる慰めと励ましがあると信じます。

 

「苦しむ」人の姿は、神様が望む姿ではないのです。

神様が人間を造られた本来の目的とかけ離れた姿です。

 

だから教会は「苦しむ者」にこそ寄り添うべきと考えます。

今は出来なくとも出来るように祈り、そこを目指すべきだと思います。

 

もし、それが出来ないのなら、

教会は政権批判などしている場合ではないのではないでしょうか。

 

 

キリスト的ビジネス思考・・・コップ一杯の水。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。 」(ヘブライ人への手紙11:1)

我々は欲深い者ですから、何かうまいビジネスを考えてひと儲けしたいとか、大会社で出世し、少しでも高額の給料を得たいとか、そんなことを考えますね。
でも、そう簡単ではない。会社を辞めて独立したもののうまくいかず、借金がどんどん膨らむばかり。
私にも経験があります。キリストを信じていなければ、今頃どうなっていたことか、恐ろしいです。

キリストを信じれば、仕事はうまくいくのでしょうか?大金が手に入るのでしょうか?経済的にゆとりのある暮らしができるのでしょうか?
あなたがもし、それだけを目的に働いているのだとしたら、それは実現しない可能性大です。一時それが得られても、永遠に続く保証はどこにもありません。

想像してみてください。

あなたは今、ものすごく喉が渇いています。水が飲みたい。そして目の前にコップ一杯の水があります。
飲みたい!でもコップ一杯なんて一気に飲み干せば、すぐ終わり。コップ一杯だけでは渇きは癒えません。ぜひ大きなバケツくらいの水が欲しい。そうすれば少しくらい飲んでも、まだまだ水は残っています。余裕があります。安心です。

でもバケツの水だって、飲み続ければいずれ必ず無くなります。だから今度はもっと大きなバケツに水を貯めようと、水のある場所を探し回ります。水が見つからなかったらどうしよう。そんな不安に駆られながら。。。

驚くかもしれませんが、キリストを信じる者に与えられる水は、たったコップ一杯だけです。

しかし、たったコップ一杯のその水は、飲んでも飲んでも無くなることがありません。一気に飲み干し、コップをテーブルに置くと、また水が注がれている。何度飲み干しても、いつでもいっぱいになっているのです。

信じられますか?
実は、それを信じることが“信仰”です。

あなたは今、目の前にバケツほどの大量の水が無いと不安ですか?
それとも今、目の前にある水がわずかコップ一杯であっても、また水は注がれると確信できますか?
さらに言えば、コップの水とバケツの水、あなたにとってどちらが飲みやすく、おいしく飲むために適量なのでしょう。

水を、今あなたが必要としているもの、あるいは望んでいることに置き換えてみてください。健康でもいいし、知恵、知識、お金でも構いません。

キリストを信じる信仰とは、まだ目に見えないコップの水が、いつでもいっぱいに注がれていると確信すること。ジタバタと慌てて探し回らない。心からキリストを信じ、そしてキリストともに生きていけるよう願うこと。それだけで神は、その深い愛によって必要なものを必要な時に、必要なだけ、豊かに注いでくださいます。

これが神の“恵み”です。

時には信じられない方法で恵みを与えてくださいますから、神のなさることは手が込んでいます。

キリストを信じる者は、何も持っていないようで、全てのものを持っているのです。 

 

視線の先

親愛なるイエス様。

 

わたしがあなたを知って、16年目の年が明けました。

 

でも、あなたの方は16年よりもっと前から、わたしを知っておられたと聞いています。

 

16年より前と今では、どうでしょう。あなたから見てわたしは変わりましたか。

 

あなたからプレゼントされた“新しい命”を感謝して、満喫して過ごして来たように見えるでしょうか。

 

わたしはその間、家族が増えました。仕事が変わり、家を建てました。

 

でも感謝して、というより正直ただ夢中で過ごして来ただけな気がします。

 

あなたはどんな顔をされているのでしょう。どんな声でお話になるのでしょう。

 

わたしはまだあなたの姿を見ることはできません。でもあなたが、いつでもどんな時でもわたしを見ていてくださっていることは知っています。

 

時にはわたしのことなんか忘れて、ゆっくりしたいと思うことはありませんか。

 

あなたはどうだったのですか。この世におられた短い間、あなたは幸せでしたか。

 

今を生きるわたしは、あなたが辛く苦しい思いをされたという話しばかり聞かされます。

 

そして、十字架の上で息絶えるその瞬間まで、わたしの幸せを祈ってくださっていたということも。

 

天の御国とはどんなところですか。お父様とどんな話をされているのですか。

 

あなたのことです。きっと今でもわたしを見つめ、わたしの幸せばかり考えてくださっているのでしょう。

 

あなたを十字架にかけたのは、視線の先にいるそのわたしであるというのに。

 

 

誰に祈るのか④

信仰を持つとは、どういうことでしょうか。

 

Wikipediaによりますと、

「神やなどを信じること。また、ある宗教を信じて、その教えをよりどころとすること。

とあります。

 

わたしはキリスト教の信仰を持っていますから、聖書に書かれているキリストの教えをよりどころにしています。

 

あるパーティーでAさんという方と意気投合しました。

そして「自分も信仰には熱心な方だ」と、わたしに話し始めました。

Aさんは、「全国の有名な神社仏閣はほとんど回っているし、先祖の供養もしっかりやっている。方位学も学んでいるし、風水も取り入れている。とにかく良いと言われることは全てやるようにしている」と言うのです。

熱心に見えない力を求めておられるようでしたが、これは残念ながら信仰とは呼べません。

「良いと言われることは全てやるようにしている」というのは、Aさんの目線でしかありません。

 

良いか、悪いか、それを決めるのは神様なのです。

自分の都合で、良いところだけを選び取ろうとしても、それは無理です。

 

自分にとって不都合なことや、望まぬ結果が起きたとしても、信じて従う。

 

それが信仰です。

 

神様を人間に従わせようとしてはいけません。

 

人間が神様に従うのです。

 

人間に都合よく思いや計画を変えるのが神様だというなら、その時点で神様ではありません。

人間より劣る考えしか持たぬ者ということになります。

 

そんなのは神様ではないし、わたしは従いたくありません。

だから、どの神様を信じるべきなのか、真剣に考えなくてはいけないのです。

 

あなたの信じるその神様は、信じられる神様ですか?

その根拠は何ですか?

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