四つの領域を循環する

生命科学の進歩は「私達が何者であるか(Who we are)」を、もっと有体に言ってしまえば「私達は何か(What we are)」を、レゴブロックの一つ一つをデータ化していくように蓄積していっている。


最近よく考えているのは、この先にある思考の「こんがらがり」についてである。

思考のこんがらがり
生命科学の知見を、単に自己の外部の世界についての知識だ、と考えると楽である。つまり俺とは特に関係ないどっか遠くの世界の話のようだ、みたいに見てしまえば楽である。

また人間を生命体として見るのを、薬剤を開発するときや、医療行為を行うときや、学者として論文を書くときだけだ、みたいに思考の機会を非常に限定された状況だけに自己規制してしまうのも楽である。つまり知識を使用する文脈を、ある特定の文脈だけに限定してしまうのである。

なぜならそのようにしておけば、様々な思考上の混沌や混乱を避けることができるから。


しかし生命科学の知識を、日常と同一地平上にあるリアルな知識として捉えると、即座に多数の問題が表れる。

たとえば現代社会の(私を含む)人々の知的常識の中にあるいくつもの規範的な常識と、強い緊張関係を持つことは、大体誰でもすぐ分かる。

そして多くの場合、この緊張関係の中で、思考することは恐怖され、忌避され、回避される。


しかし私は考えたい。


どんなループか
ここでは、まだ大づかみだが、こうした緊張関係を持った思考を行う中で現れる、ある種のループについて考える。

ここでは混乱が生じるような思考上のループを、たたき台として仮に、以下のような四つのステップに分割することとした。この四領域は、それぞれの個々の範囲内では分かりやすいが、全体を循環させて考え始めると、一挙に思考が混乱する。図にまとめると次のようなループである。

テキストにして書くと、各過程は次のようなものである。

1.神経系のあり方が、思考・行動のあり方を決める。(例:神経科学や心理学一般)
神経系のあり方に応じて、人間は特定の環境下で特定の思考・行動を取る。

2.思考・行動のあり方が、生態系のあり方を変える。(例:生態学、環境生態学など)
人間が取った特定の思考・行動に応じて、社会環境、自然環境のあり方が変化していく。

3.生態系のあり方が、最適戦略のあり方を決める。(例:ゲーム理論、戦略論)
社会環境、自然環境のあり方に応じて、どういう戦略が有効性が高いか、どういう戦略は駄目か、という最適戦略のあり方が変化していく。

4.最適戦略のあり方が、神経系のあり方を決める。(例:進化心理学
最適戦略のあり方に応じて、人間の神経系のあり方が長期間かけて作り上げられていく。

1に戻る

ここには終わらない循環がある。



他のどんなループと似ているのか:不可能図形
上で書いたようなループ的思考に囚われる感覚は、不可能図形などを見た時に経験する感覚と少し似ている。

ペンローズの三角形」や「エッシャーの滝の絵」などに代表される不可能図形においては、「個々の部分的領域は整合的」であるが「部分を合わせた全体を見ると不合理」であるような描写がなされる。(実際 絵の一部を隠してみると、どちらの絵も整合的な三次元立体にできる。しかしどこも隠さずに全体を見ると、やはり筋の通った解釈ができない絵となる) 私たちは何かを解釈するさい、一般に何か確定的な地点を見つけ、そこを基準にして全体を評価的に見ようとする傾向がある。にも関わらず、こうした絵においては、基準を探して次々と視点をずらしていくと、いつのまにか再び最初の地点にまい戻っており、そうした基準となれるような何らかの地点にたどり着くことは永遠にない。それゆえ「底なし沼にはまってしまった」かのような、または「出口のない迷路に迷い込んでしまった」ような、足元がうわついた、何か奇妙な落ち着かない感覚を経験するのである。これと少し似ている*1


なぜ こんがらがるのか
こうした思考が容易に「こんがらがる」のは、自分の思考それ自体もこのループの中に入っているからである。つまり自己言及的または再帰呼び出しな側面を持っているがために混乱するのである。たとえば「私はなぜこの情報に注目したのか」とか「なぜこの情報に戸惑ったのか」とか「なぜこの論点において、ある特定の終結を期待したのか」といった形で自分自身へ問いを投げることで、己の思考それ自体もこのループの中に位置づけられていくが為に混乱するのである。つまり文字通りの意味で「ひとごとではない」がために眩暈を覚えるのだ。


具体的にどんな例があるのか
これは実際いろいろな例がある。道徳的な問題が、その判断のあり方に依存して、長期間の影響力を持つような場合は特にそれが顕著となるものと思える。

以下、具体例を書きかけ。。。



関連書籍
書き始めてから10日ほどたって、このトピックはダグラス・ホフスタッターの晩年の関心事と近い(かもしれない)ことに気が付いた*2。昔、彼のほんの邦訳を購入して、読み飛ばしただけで、あまり意味が分らず放棄してしまったが、今ならもうちょっと興味深く読めるかもしれない。彼は何か似たようなことを(もっと一般化され、かつ洗練された形で)考えていたかもしれないと思える。

ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版

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I Am a Strange Loop

I Am a Strange Loop

*1:似てはいるけれども、生命に関する現象は「現に起きていること」なので、別に「不可能なこと」を思考しているわけではない。単に「混乱しやすい」というだけである。なのでその点ではこの比喩には少しズレがある。

*2:気がついた後で、M.C.エッシャーの「Drawing hands」の絵を元に、冒頭にある四本の手の図を作った

「無人島でも同じこと言えんの?」

ネットで使われるネタ(または思考実験)として「サバンナでも同じこと言えんの?」というのがある(詳しくは「お前それサバンナでも同じ事言えんの? - ニコニコ大百科」

最近気づいたが、社会的な認知について考える際も似たような思考実験が使えて、「無人島でも同じこと言えんの?」というのがある程度、使える。

男の子なら、ロビンソン・クルーソーのような生活に一回は憧れたことがあると思うが、まさにそのような状況でも、やはり今と同じようなことを思うか、という問いかけである。「終身刑で独房に入ってても同じこと言えんの?」でもいいかもしれない。

そして社会的なことについて考える際にはもう一つ「満員電車の中でも同じこと言えんの?」という問いもけっこう使える。人口密度的に無人島と対極にあるシチュエーションだが、周りの人間が全員、つながりのない他人、という奇妙(だがある程度 身近な)状況だから。

こうした文脈の置換を行うと、けっこう色々なものが意味や価値を変える。そうしたものは社会的な要素の影響を受けているとある程度予想することができる。

これは何か?
これは単に、ある種の極限実験である。科学で言えば、物理学者が色々な物質に対して、とりあえず冷やしてみたり、熱してみたり、真空環境に置いてみたりする。そういう作業と同じである。何が起きるかは分らないが、超伝導超流動のような現象はこうした過程で見つかった。こうした極限環境(を想定した思考実験)は、日常的な環境下で使えるモデル(物理用語で言えば常温常圧で有効なモデル)も、ある種の近似モデルでしかないことを、時に教えてくれる。そうした場合には、より繊細な内部モデルの発見に私たちを導いてくれる。

関連エントリ

ゲーム化されない「つながりゲーム」

前置きとしてカーストゲーム、または優越感ゲーム
要約:優越感ゲームは私たちの行動決定や意識的経験の内容を決める要素として大きい比重を占める。しかしそれと並んでもうひとつ重要な別のゲームがある。それをつながりゲームと呼んでみる。
ヒトが行っている行動を決定する大きいファクターとして、また主観的な意識経験を大きく変化させる要素として、上下・優劣をめぐる闘争、という現象があることを考えた。

たとえば

  • 俺の方が100メートルをはやく走れる(陸上選手の場合)

なんてのが分かりやすいが、日常の中で見慣れているようなものだとこんなのだろう*1

  • 俺の方が高い服を着ている
  • 俺の方がいい車にのっている
  • 俺の方が広い家に住んでいる
  • 俺の方がいい学校を出てる
  • 俺の方がでかい会社につとめてる
  • 俺の方が収入が高い
  • 俺の嫁さんの方がかわいい
  • 私のほうがスタイルがいい
  • 私のほうが可愛い
  • 私の旦那のほうが年収が高い

とかなんとか。こういうのがよくある優越感ゲームのゲーム領域だ*2

ちなみに、このリストは際限なく伸びる。ジョークみたいにどこまでも伸びる*3


とはいえ、こうしたゲームは私たちがいきている生をゲームとして捉えたとき、大きい要素ではあるものの、その内容の一部の側面しかあらわしていない。もうひとつ重要な要素として「つながりゲーム」とでも呼ぶべきようなものがある。ここではその概念化をちょっと試す。



つながりゲームとはどんなんだ
要約:つながりゲームは各個人と各個人の合従連衡、離合集散に関する立ち回りにまつわる行為全体を、まとめてそう呼んでみた、という概念。
要約:すごいメジャーなゲーム(人間であるかぎりほぼプレイし続けている)。なのにあまり語られない。

つながりゲーム」、これは各個人と各個人の合従連衡、離合集散に関する立ち回りを巡るゲームだ。

誰と誰が仲が良い悪い、誰と誰はいつも一緒にいる、誰は誰のことが好きだ嫌いだ。

私たちは、自分以外の存在するすべての他者と、完全に均質な関係を作るのではなく、一定の偏りと差異を持った関係を構築する。

そうした関係構築と関わる色々な事象を丸ごとひっくるめて、とりあえず「つながりゲーム」と呼ぶ。

私たちは誰もがこのゲームのプレイヤーだが、日常的にこうしたこと、たとえば友人関係などを、ゲームとして遠い視点から俯瞰して語ることはそう多くない。むしろ日常的語彙の中では、好き嫌いだったり、気が合う合わないだったり、そうした種類の語彙によって、主にこうしたゲームは語られる。

こうしたゲームの性質が、一番赤裸々かつ破廉恥に語られるのは、現代においては主に国際外交に関する報道・論評の中だろう。外交に関する報道・論評の中では、「どこと仲良くしといた方が得だ」「あんな国と付き合っていても大して得がない」なんてことが普通に発言される。しかし日常の個々人の人間関係(つまり私たちが生きているミクロレベルのつながりゲーム)に関することであれば、こういうことを名前を出して公の場で赤裸々に語るなんてことは、ほとんどありえないだろう(これは「ゲームについて語る」行為自体が、ゲーム内において一定の意味をもつプレイに自動的になってしまうから、という理由が大きいだろう)。

ここで私が注目したいのは、このゲームの強烈な普及度(そして行動決定において参照される頻度の高さ、主観的意識経験に対して与える影響の大きさ)と、にも関わらずのその正面からの「語られなさ」である。



なぜ語られないのか
要約:語られるのは小さなサブゲームについてで、その全体(という仮構)は意識されにくいし、語られない
要約:ひとつひとつのサブゲームの結果によって、つながりの状態が変遷していくが、すべてのサブゲームが一致してめざす全体としての狭い方向といったものは特にない(ゆるい方向性はある)

実際こうしたことがゲームとして俯瞰して語られないことは、主観的な経験のあり方にも、一定の理由があると思われる。(非形式的な日常レベルの)人間関係を駆動する源泉の大部分は、私たちが持つ単純な衝動であると思える。それは微視的な非常に局所的なものとして現れ、そしてそうした衝動に従った一定の行為の結果が積み重なっていくことで、時間的に変遷を続けるつながりの状態が作られていく。たとえばプライベートの領域で新たに誰かに会った瞬間、いきなり「よし、一年半後にこいつと親友になりそうだから、これこれのステップを踏んで、こういう過程を経て仲良くなっていこう」こんなこと考えて行動し始める人は多分あんまりいないだろうと思う(いないこともないと思うが、一般にはまず「どんなやつだろう」とか「気が合うかな」とかいう「探り」から関係が始まり、「遊びに行って面白かった」とか「あんなこと言うなんてどういうつもりだろう」とかいった小さなことが積み重なって関係が進行していくだろう*4。これは関係構築というのが、多くの場合(とりわけ私的な領域での関係では)ダイナミックな相互作用として行われるからと思える。つまり互いの関係がどういうものになるかは、自分次第、相手次第、状況次第、運次第といった所が大きい。友人関係というものも、あとでざっくり振り返れば「いつどこで出会った、だんだん仲良くなった、今は友達」みたいにまとめられてしまうだろうが、実際におきていた相互作用の過程、実際に経験された日々のやりとりはランダムウォークのような複雑な線を描くだろう。つまり「脳から発せられる小さい命令」たとえば「さびしさ→誰かと会ってお話せよ」「しっと→相手を引き摺り下ろしたまえ(あの二人の関係をひきさきたまえ)」「恐怖→そいつから遠ざかれ」「退屈→なにか興奮すること探せ、誰かと遊びに行け」といった小さい命令、こうした衝動に襲われると、そのことは明晰に意識される。そしてそれがうまく充足できそうにないと「この衝動をどうしてくれようか」などとさえ思い悩むこともあるだろう(たとえばしっとなどは特に充足が難しい衝動の一つだろう)。

私たちは多くの場合、こうした微視的なサブゲームを日々生きている。だからサブゲームについての語りは日常でもネット上でも溢れ返っているが(「会社の先輩が好きすぎて苦しいです!どうしたらいいですか」とか)、それら全体を俯瞰した「つながりのゲーム」といった視座は、なかなか語られないこととなるだろう(実際こういう概念はある種の仮構で、全体として向かっている方向なんて元々ないのだから、当然と言えば当然ではあるが*5)。



なぜゲーム化されないのか
要約:各個人と各個人の合従連衡、離合集散に関する立ち回りそれ自体を中心としたゲームは、どうもない。
要約:書いている現段階において理由はあまりはっきり予想できない。ひとつの可能性は、仕様設定の難しさ(たとえばいつでも離脱可能な社会関係はゲームとして深みが得られない、行動の自由度が低すぎると勝ちパターンが決まってゲーム全体が陳腐化する、など)。もうひとつの可能性は、人間にとってあまりにコアすぎて楽しめない(カタルシスを与えるに至らず、グロすぎるプレイ体験、人間不信などしか残せない、など)。
要約:SNSは一見似ているが、腹の探りあい、狐と狸の化かしあい、裏切りや派閥形成、みたいなキリキリした離合集散ゲームはあまりそこでプレイされないので違う。人狼のようなゲームは嘘の付き合いというメカニズムはあるが、連合形成のような要素がない。
やっとタイトルの内容までたどり着いた。
私たちが日常で繰り返している各個人と各個人の合従連衡、離合集散に関する立ち回りを巡るゲーム、これはなぜゲーム化されないのか。

つまりネットゲームとして、なぜこうしたコンテンツをメインで扱ったゲームが出てこないのか。

技術的な環境としてはすでにそうしたゲームを作ることは可能となっている。大人数が同時参加して仮想空間上で行動するという(昔から見れば)夢のようなゲームは、いまやまったく珍しいものではない。数百人や数千人といった規模の人間が、同一仮想空間上で同時に行動を行うゲームは、MMO(Massively Multiplayer Online Game)と呼ばれる。

さて、ここでウィキペディアMMORPGの項目から、「ゲーム内での人間関係」について書かれた部分をちょっと抜き取ってみる。

ゲーム内での人間関係
wikipedia:MMORPG
そこには、仮想世界でありながら人間社会が存在する。人対人のコミュニティである以上、社会と同様に派閥もあれば、人間関係のいざこざも存在する。
MMORPGアバターによるチャットシステムから進化したという側面もあり、MMORPGの中でも他者とチャットを行うことが出来る。これは一人でプレイする従来のRPGよりも行動の幅が広まり、プレイヤーの間で自然言語による意思疎通を行う事にも、有意義に作用する。これによりゲーム内アイテムのやり取りの条件、複数のプレイヤーが集まって特定の行動をするなど複雑な行動が可能となるのである。それが続くと自然と「仲の良いプレイヤー」という状況が発生するのである。
MMORPGではチャットシステムに(ゲームごとの違いはあるものの)そういったコミュニケーション手段を支援する仕組みが組み込まれている。フレンドリスト(他のキャラクターを登録しておいてメッセージを送信する)、ギルド(特定の目標を持って組織をつくる)などは多くのゲームで実装されており、さらに複雑なシステムを持つゲームも発生している。
ただし、自然言語でのコミュニケーションはあいまいなものになることも多く、常に十分な意思疎通が行われるとは限らない。特にアイテムの分配などゲームの進行に直接関わることをなし崩しで行うと後になって不満を表明するプレイヤーが発生したり、目立った行動をするプレイヤーに対して本人にわからない場所で「陰口を叩く」ことなどはよくある風景である。

ここで、「派閥」「いざこざ」「仲の良い」「陰口」といった言葉がでてくるが、必ずしもゲーム進行の中枢にあるものとしては扱われていない。つまりそれは半ば「ゲーム外部のこと」、ゲームの本筋とは関係ないこととして位置づけられている。

実際多くのネットゲームは人間関係にまつわるイザコザは、なるべく回避可能になるよう設計されている。相手の発言が見えなくできる「無視 Ignore」のような機能だったり、つきまとい行為や嫌がらせ行為をする人物に対する「アカウント停止」 などの措置がある。

ここで私がいいたいことは、こうである。

「派閥」、「イザコザ」、「陰口」といったもの自体を中心に置いたゲームがなぜないのか?

一番容易にこうしたことがゲーム化されそうなのは戦国シミュレーションだろう。日常レベルの「派閥」、「イザコザ」、「陰口」といったものは、そのまま政治レベルでも相同な現象が多数見つかる*6。たえば・・・


日常レベル:派閥。仲良しグループ
外交レベル:政治連合、経済連合など


日常レベル:いざこざ、もめごと
外交レベル:紛争、戦争など


日常レベル:陰口、悪口
外交レベル:プロパガンダネガティブキャンペーンなど


日常レベル:盗み聞き、詮索
外交レベル:スパイ


しかし、現に出されているそうしたジャンルのゲームは、こうした政治性や、つながりに関する読み合いの側面は、ほとんど言っていいほど何も再現していない。戦国シミュレーションを扱ってきた有名企業といえばコーエーwikipedia:コーエー三国志信長の野望など)がある。しかしコーエーの出すシミュレーション・ゲームでは、社会的なキリキリした側面はほぼ再現されない。どちらかというと物語付きの作業ゲー、パズルゲーのような体裁のゲームシステムになっている(最新の動向は知らないが、そう大きくは変わっていないのではないだろうか)。



なぜゲーム化してほしいのか
要約:単純にプレイしてみたい
要約:そしてプレイを通じてヒトの社会的相互作用に関する現象への理解が深まる。およびゲーム内において生まれたボキャブラリーを通じて現実を逆照射できる。
ゲーム化して欲しい理由は単純である。「やってみたいから」だ。やってみたい理由は、そうしたゲームが多数の人々の間でヤリこまれていく内、新しい戦略が生まれ、多くの言葉が生まれ、そしてたくさんの知識が生まれていくからだ。そうした知識の総体を見てみたいのだ。

そうしたゲームは最低限、以下のような条件を満たす必要があるだろう。

  • 闘争の形式を持つ。(闘争形式でないと面白くない)
  • プレイヤー同士の間に関係性が存在し、その関係性のあり方・遷移の仕方が勝敗に大きい影響を与える。(裏切って敵方に移ること、そして裏切っている振りをして裏切っていないこと、つまり「ダブルスパイ」のような状況も実現可能なこと。)
  • 一定の短時間で勝敗がつく。(娯楽としての要請。所詮ゲームは現実よりは単純化されていてショボいのだから、その分勝敗がすぐ出る、という面白さが要請されるだろう)

こうしたゲームが、サッカーや野球のようなゲームと最も異なるであろう点は「裏切れること」になるだろう。

野球もサッカーもバスケットボールも、敵・味方の人数は固定である。どれだけ敗色濃厚でも、9対9なら最初から最後までその人数でゲームが進行し、そして終わる(例外は反則などでの退場などのみ)。しかしこれは現実の政治闘争や戦争などから見ると、非常に異質な設定である。

戦争などは各国の軍事力ももちろん重要だが、実際の勝敗を決定する最も重要な要因は、そうしたもの以前のもの、つまり各国同士の同盟や相互不可侵条約の締結などがどのように行われるか、そういったフェーズにおいて大勢が決定している。たとえば現代の軍事最強国のアメリカにしたって、仮にそれ以外の国すべてを敵に回したら(つまり「アメリカ」対「非アメリカ全同盟」みたいな状況になったら)、そうした戦いには絶対に勝てない(資源・物資の輸入がすべてストップし、米国内は数ヶ月で干上がってしまうだろう)。こうしたリスクがありえるからこそ、あれだけの軍事力を持っていながらも、今も世界中に諜報網を張り巡らし、内政干渉のようなことをそこら中で日常的に繰り返し続けているのである。

またたとえば社内における派閥闘争などであれば、一方が敗色濃厚になれば、「負け派閥」からは「泥船から人が逃げ出す」がごとく、一気に人が逃げ出し派閥は瓦解していく。だからこそ戦況の先行きに対する情報の流布のされ方自体も、十分に意味を持ったものとして、ゲームの一部を構成するようになる。

追記:「ディプロマシー」というゲームがあった
2014年12月15日追記。ちょこちょこ検索してたら、ある程度 似たような傾向を持ったゲームとして、「ディプロマシー」というゲームがあった(wikipedia:ディプロマシー)。ジャンルとしては「交渉ゲーム」とも言われるようだが、プレイヤーはかなりのドロドロ感を経験するようである。

wikipedia:ディプロマシーより

本作は7人のプレイヤーが第一次世界大戦前の緊張した関係にあるヨーロッパ列強7ヶ国をそれぞれ担当し、ヨーロッパの覇権を巡って争う戦略ボードゲームである。 diplomacy(外交)という単語が示す通り、ルールそのものはごく単純であって、「外交」すなわちプレイヤー同士の取り引きや同盟が、プレイの中核を成している。

(中略)

プレイ時間は4時間ほどにも及ぶ。なお、日本などで本作があまり広くプレイされていない理由のひとつはこの所要時間の長さであると言われている。また裏切り前提の交渉ゲームゆえに、「友情破壊ゲーム」「ゲームサークル崩壊ゲーム」と言う仇名まであり、そのせいで敬遠されるのも原因であるとも言える。

どうもプレイしてると、賄賂*7なども自然発生するようで、心理的な意味で非常に興味深いゲームである。一度やってみたいが、プレイに6-7人(?)が必要で、プレイ時間も数時間に及ぶようで、なかなか気軽にやるのは難しそうである。

*1:実際に社会的比較の神経過程を顕微鏡なんかで見てるわけではない。だが自分の中での経験、また他者の言動、他者の発言や書いた文章などを見ていると、現代のこの国の日常の中で頻出している比較対象テーマというのは、あるていど想像できる。もちろんこうした内容は社会的地位や置かれている文化圏によって、全然ちがったものとなるだろう。ただ内容は違えど、比較があり、上下・優劣があり、その比較結果に対して満足や不満がある、という基本構造は変わらないだろう。

*2:ネット上でこの「優越感ゲーム」という言葉の用例としては、文化系オタクの知識自慢、みたいな現象を指して使うことが多いようである。しかしここでは私はもっと範囲を広げて使っている。その理由は、オタクの知識自慢も、ここにリストしたどの現象も、脳内では共通して使用している神経回路(または共通して使用されているような回路パターン)が多分あるだろう、だから同じ名前でよんじゃっていいだろ、という考えからである。

*3:比較可能でありさえすれば、何事も優越感ゲームの対象領域となることが避け得ない、とさえ言えるぐらいこのリストは際限なく伸びる。「あいつのTシャツのエリはちょっとよれているが、俺のはよれてない」とか「あいつはマンションの4階だが、俺は5階だ」とか「あいつは600円のランチだが俺は800円だ」とかとかとかとかとか(もはや「禁止されていること以外は、すべて強制される」という量子力学の原理さえ思い起こさせる)

*4:他者に対してこうした素朴な属性付けを行うのは、ひとつは子供たちの世界、そしてもうひとつはプライベートな領域でのかかわりであろう。他の多くの場面においては、カネになるか、コネになるか、得られるものがあるか、といった(それぞれの職業、立ち位置に応じた)そろばん勘定に基づく属性付けを、多くのヒトが他者に対して自動的に行っていると思われる(カネも利権も絡まない「プライベート」な領域が現代先進国の多くの大人にどれほど残されているかは、ちょっと興味深い問題な気がする)。

*5:ちなみに一般的な用語としては「人間関係」という非常にぼんやりした言葉が、この「つながりのゲーム」と近い側面をある程度もっている。しかし「人間関係」という言葉は、ある程度心理的に遠い距離にある人との関係、たとえば会社や近所の人などとの関係は指すが、心理的に近い距離にある関係、たとえば恋人などとの関係のことを指すのには一般的にはあまり使われないように思う。

*6:スケールがまったく違うのに現象として似たようなものになるのは、日常のつきあいをやっているのも、外交をやっているのも「同じもの」だから。つまりどちらも同じ「脳」というもので問題を処理しているから、スケールがまったく違ってもかなり似た現象が相同なものとして現れる。

*7:これはゲーム内のシステムとして、賄賂のようなものがある、という意味ではなく、文字通りの意味で、場外で「実弾」が飛び交いうるような状況がけっこう自然に発生しうるようである。

嘔吐を催す不条理

嘔吐を催すような不条理について思考すること。

自分がいま最も嫌悪感を感じること、それは進化について思考することだ。

進化というメカニズムの悪魔性を見つめることだ。

進化によってもたらされる人間の遺伝的不平等(遺伝的多様性ともいう)と、

そこからあらわれる凄惨な詐術と暴虐の歴史を見つめることだ。

このことにに目をつぶることはできる。必死で否定してみせようとすることはできる。しかし目をつぶっても、どれだけ批判してみても、自然はそんなことは構いはしない。

我々が自然の一部であるということ、それは私たちもまた不条理が支配する世界に生きているということを告げる重い判決だ。

世界を美しく物語り化すること、それが信仰という行為のひとつの重要な仕事であるとするなら、

進化について真剣に思考すること、それは信仰という行為の真逆に位置しうる最も醜い行為の一つと言えるだろう。

理性も道徳も、そこでは単なる道具でしかないからだ。

にも関わらず、進化には外部がない。逃げ場がない。

私たちは常にその内にいる。

そこに向かって私たちが何を働きかけようと、

進化は為されたすべてを内側へと呑み込んでいく。

関連エントリ

関連リンク

  • おぞましさの美学の帰趨 : 「吐き気」の芸術的表象について(PDF) 長野順子 美学芸術学論集 6, 3-20, 2010-03, 神戸大学 長野氏のデリダ解釈によれば、「ロゴス中心的な体系」全体を破壊し、あらゆる「ヒエラルキー的な権威」そしてあらゆる「エコノミー」を破壊する、「表象不可能なもの」が「吐き気」を催す、とデリダは考えたらしい。またカントは『判断力批判』の中で吐き気について次のようなことを書いたらしい。この吐き気という奇妙な感覚は、想像だけにもとづき、いわばそこでは対象はあたかもそれを呑みこむ〔摂取する〕よう迫ってくるものであるかのごとく表象されるのだが、それに対して私たちは力づくで抵抗する

カーストゲーム、または優越感ゲーム

このエントリーを書いた10日後ぐらいに優越感ゲームという言葉を知った。その言葉の方がいいかもしれないが、このエントリはそのまま残す


私たち人間のいきる生、それをカーストゲームと呼んでみる。

私たちの日常は、カーストゲームをプレイすることで過ぎる。

このゲームはやめれない。どれだけくだらないと思っても、逃げられない。

なぜならゲーム上での報酬やペナルティが、脳によって直接与えられるからだ。

このゲームから逃げることは難しいが、とはいえ逆に、完全に没入してカーストゲーム廃人として生きることも、また辛い。

おそらく「中庸」といったことが、このゲームに対する関わり方のひとつの現実的な指針なのだろう*1




さて、この概念は面白い(と個人的に今、思っている)。

人間とはどのようなものか」と問う。主観的経験(意識経験)に現れる主たる構成要素を考えた場合(または行動決定において大きい比重を占めている要素を考えると)

この問いには「人間とはカーストゲームのプレイヤーである」と答えるのが、もっとも正しい解答なのではないかと思う*2

人間を規定する性質として「遊ぶ」「直立二足歩行する」「道具を使う」「火を使う」といった性質が使われることもあるが、こうした物事が主観的経験として大きい比重を占めているとは思えない。また行動決定の際に常に参照されているような大きい影響力を持ったものとも思えない*3




ちなみにこのことは、普通に生きている人ならおそらく誰でも知っている事である。つまり当たり前のことに名前を付けてみただけである*4

特殊なことについて思考したいという場合以外、この概念には現実的な意味はあまりない。

個人的には人間を自然の中に位置づけること、人間と自然をシームレスに理解したい、という背景からこうしたことを考えている*5


関連エントリ

関連リンク

  • wikipedia:力への意志 19世紀末にニーチェが言った言葉。かなり形而上学的な概念としてだが、力を求める傾向が広い範囲で色々に形を変えて見られる、といったことを指摘した。とはいえ現代の学問での使用にも耐えうるようなはっきりとした心理学的な概念として提出されたわけではない(現代の心理学へも様々に形を変えて受け継がれてはいるようであるが)

追記(2014年6月18日)
ネット上にはすでにもっと語呂のいい概念が存在していた。

これは語呂がいいが、一対一での上位取り、みたいな状況が主に想定されてるように思える点で、自分が考えてる現象より少し描写しようとしている対象が狭いようにも思える。つまりこの名称では「つながり」の側面の描写が弱い。たとえばいじめを通じた優越感の獲得という現象においては、「誰かが誰かより優れている」といったこと一対一の比較というより、連合の状態、つまり「各個人と各個人のつながりの中における己が取る相対的な位置」といったものの方が、現象を理解するうえでの重要な鍵となる。これは国際政治において、個々の国の軍事力・経済力よりも、多国間の関係の中でのその国のとっている位置、のようなものが交渉力を生み出す源泉として重要となりうる、みたいなことと似ている。というわけで、こうした側面を今から私の中で、「つながりゲーム」と勝手に呼ぶことにする(なんでもゲームと呼んどきゃいいのかよ・・・みたいな気がしないではないが)。

*1:「俺はそんなゲームを生きてない」と思う人もあるだろうが、これはおそらく程度の問題である。ネトゲ界の用語で「ガチ勢」と「まったり勢(またはエンジョイ勢)」という言葉がある。これはあるゲームに対する取り組みの真剣度の違いを表した言葉で、本気で血眼でプレイしている人はガチ勢、楽しけりゃいいよ的にのんびり遊ぶ人はエンジョイ勢、といった意味である。多くの人は、人生上のほとんどの時期において、カーストゲームというゲームのエンジョイ勢である、といった所があるていど実感に近いかもしれない。

*2:もちろん、こう言ってしまうと人間と犬なんかの区別ができなくなる。しかし犬なんかは、意識的経験の内容に関して社会的な内容が大きい比重を占めていそう、と個人的に想像されるので、そういう意味で、ヒトも犬も主観的視点からはかなり似てるのではないかな、などと勝手に思っている。↓ちなみにイヌが撮影したミュージック・ビデオ。このビデオをみながらよく「犬であるとは、どのようなことか」を考えてる。(U^ω^)わんわんお! イヌが撮影したミュージック・ビデオより

*3:「社会的動物である」「政治をする」といった規定が使われることもある。これはかなり近い(特に「政治をする」の方)と思える。とはいえやはり、個人的には微妙にズレた規定のように思える。それは「政治をする」という言葉に必ずしも目的や方向性がはっきりと含まれていないからである。アメリカの大規模な集団的政治行動を例に見てみると、公民権運動(黒人の地位向上を目指した運動)やゲイパレード性的少数者の地位向上を目指した運動)、また米国の製造業を侵食している日本製商品に対するジャパンパッシングなど、政治的活動は一般に何らかの意味での地位向上(または地位低下の防止)を目指して行われているように思える。逆の政治活動もあってもいいと思うが、私は知らない(「我々を今すぐ奴隷にしろーー」「私の賃金を引き下げろーー」とか・・・ないですよね・・・)

*4:どんな人間も、基本的にプロのカーストゲームのプレーヤーなので、コミュニケーションの中で、こうしたゲームはどのようなものか、みたいなことが語られることは普通ない。いわゆる常識というものの範疇に属する。たとえば「人に褒められて喜ぶ」といった現象だけを考えてみても、これは分かる。「褒めるっていうのは、これこれこういう事なのよ」なんて教えられたことがあるだろうか?おそらくほとんどの人は特にないだろう(私もない)。しかし褒めるというのがどういうことかはみんな知っている。また「喜ぶってこうするのよ。ほら、口の端をちょっと持ち上げて、目を三日月みたいにして・・・そうそう、それが笑顔ってやつよ。」こんなこと教えられたことがあるだろうか?(私はない)。しかし喜ぶということがどういうことかはみんな知っている。人はもともとプロのカーストゲーマーなのだ。ちなみに人間が文化圏や宗教宗派によらず普遍的に持つと考えられる共通した性質は、ヒューマン・ユニバーサル(wikipedia:ヒューマン・ユニバーサル)と呼ばれることがある。

*5:なぜ多くの知識人がこうしたことを正面から見つめないかは個人的にはよく分かる。それはこうした物事が思考するにはあまりに汚い対象だからだ。学問といえば、静謐で、穏やかなものといったイメージがあるが、こうした問題はそうしたことの真逆にあるものだ。というか人の日常の思考内容の多くは、ほとんどの場合自分個人のカーストゲームにおける立ち回りに関わるものであろうから(どれぐらい直接的か間接的かは別として、現実的とか、日常的とかいうのはそういう意味である)、それにウンザリした時、自分がまだ生まれていなかった遠い昔のことや、どっか遠くの星のことについて考えたくなるのかもしれない。または学術的営為を推進している背景的動機のひとつである「高い社会的ステイタスの誇示」的な観点から見れば、大量のエネルギーを注ぐ対象は、なるべく現実に役に立たないものであるほど良い、という面もある。カネにもならない、パンにもならない、無駄で役に立たないことに労力をそそげる私たちは豊かである、という自己呈示である。あともうひとつ大切な点として、西洋圏であれば、ここから宗教への移項、または宗教が果たしている役割とのオーバーラップが出てくるという点がある。「他者からのまなざしを通じた自己承認」これが脳内で非常に強い影響力を持っていることと、「まなざす他者としての人格神」を仮想(信仰)する一神教の文化がこれほど広く世界中へ広がっていること、この二つの間には密接なつながりがあるだろう。

悪の問題、とりわけ人間悪

悪の問題(problem of evil)または苦の問題(problem of suffering)と呼ばれる、宗教・哲学上の問題がある。

「なぜ世界は苦しみに満ちているのか?」

「なぜ私は苦しまねばならないのか?」

この問題における悪(evil)は一般にざっくり二つに分けられる。

  • 自然悪(natural evil)。台風、地震、疫病、etc
  • 人間悪(human evil)。殺人、裏切り、悪意、etc

現代までの科学において、私たちは自然悪が、多くの範囲において、科学によって説明できる自然現象であることを理解してきた。(台風は風神さまの大暴れではなく巨大な低気圧であった。地震は大地の怒りではなくプレートの運動であった)

今世紀から私たちが直面するのは、人間悪の起源である。われわれはなぜ傷つけあうのか?

これに科学の言葉で切り込んでいくこと。これは今世紀におこる大きいひとつのイベントとなるであろう。しかしこれはおそらくとてもつらいこととなるだろう。

人の悪が遠くから来たのではなく、私たちの脳にあること、それを理解していく作業だからである。悪は外ではなく、内にある。「誰か」の中だけではなく、「私」の中にもある。

おそらく私を含め多くの人たちは、今世紀中から少しずつはっきりと確定されていく、実際の人間というものの至らなさ、未熟さ、愚かさ、そして邪悪さ、に愕然としていくのではないかと思う。

現にある私たち人間の卑小な姿に、目を背けたくなるのではないかと思う。

こうした実態の認定は、私たちの神経系の実際の構造を詳細に確定していく中で、不可避的に行われていく事となるだろう。

それは大抵の人にとって、絶望的に見える事となるだろう(これは人間の善性に対してシニカルな態度を取ってきた/取っている人にとってさえおそらくそうなるだろうと思える*1)。

しかし成長は絶望から始まる。

私たち人間という生物の実際の卑小さ、愚かさについて理解を共有すること、それが僕らがより賢明となりうる唯一の門・入り口だと思える*2

                  • -

学問の歴史の中には様々な絶望があった。

熱力学の法則(wikipedia:熱力学の法則)の確立は、ある種の人々の淡い夢を全否定した。つまり永久機関wikipedia:永久機関)の制作は不可能だと告げた。

化学(wikipedia:化学)の確立は、その土台を築いたある種の人々の淡い夢を完全に破壊した。たとえば金を含まない物質から金を作成する錬金術wikipedia:錬金術)は不可能だと告げた。

しかしエネルギー産業も化学産業も、そうした絶望のあとから、はじめて現代につながる本当の発展が始まった。

「何ができないか」が理解されること、これは現象理解の重要な第一歩である。

関連エントリ

関連リンク

*1:2chの鬼女板(既婚女性板)を中心にスレッドタイトルで使われている記号で【胸クソ注意】という警告がある。【グロ注意】などの仲間だが、意味は「読んだら胸クソ悪くなって、嫌な気持ちになるから注意」という意味である。初めてこのタグを見たとき、個人的に面白い表現だなと思ったけど、人間の社会的認知に関する科学的知識もその蓄積が進むば進むほど、知識をまっすぐ伝えようとする場合には どうしても【胸クソ注意】と言うような場面がでてくるだろうと思う。

*2:こうした内容は特に真新しいものというわけじゃない。人間なんて本当にちっぽけなものだ、地表のほこりみたいなもんだ、卑しい存在だ、といったことは、主に宗教領域で昔から繰り返し繰り返し述べられてきている。

社会的認知はどれぐらいのサブモジュールに分割できるか

以下、個人的なメモです
人間の持つ社会的認知の機能はどれぐらいのサブモジュールに分割できるだろうか?

より詳細でソースの付いてるもっとマトモなリストというのが、恐らくどっかにあるだろけど、それは多分英語だろうから読むのが面倒なので、自分で考えながら、随時書いていく。

こういうメモを書く動機は、社会的認知と関わる概念や言葉は、分野をまたいで実に多くあるにも関わらず。それらがてんでバラバラで分野横断的に理解していこうという流れが、あまり見えてこない状況に対する不満からである。

現代において人間の生活世界の様々なレベルで見られる問題のうち、重要でありそうにも関わらず、やっかいな問題または取り扱い困難(intractable)な問題と考えられているものがある。たとえば・・・

などなど。実際のところ、私はこうしたタイプの問題の背景には「人間の持つ社会的認知の回路の仕様」が、共通的な中心要素として根底にある、と考えている。つまりこうした問題が取り扱い困難(intractable)に見える理由というのは、人間が持つ社会的認知の回路の仕様について私たちがほとんど何も理解していないからだ、と(最近そう思うようになった)。そしてこうした問題が取り扱い困難であるにも関わらず、いつもどこからともなく私たちの前に現れてくる問題となるのは、こうした問題が「私たちの脳の中で大きい比重を占めている社会的認知の回路の仕様」から現れている問題だからだ、と。つまりどこに住もうと、どれだけ時が流れようと、同じような脳を持っている限り、同じような問題が表れてくると。*1


こうした着想を背景として、色々な分野で議論されている様々な概念を関連付けながら列挙しつつ、人間の持つ社会的な認知の機能の詳細について、些細なものではあるが個人的に少しでも理解を深めていく、(そしてそれを通じて現実的な取り扱い困難な問題に対する何か少しでも明晰な視座が得られれば)といったことを考えてこのメモを書いている。

ここから書くメモはかなりえぐい内容を含む。しかし心意気はポジティブである。希望がもしあるとすれば、それは明るいお花畑に咲く一輪の花ではなく、暗いトンネルの先にほのかに見える輝きのようなものとしてしか、ないだろう・・・的な。・・・・うーん・・・これはいったい何キャラだ。

1.社会地図(Social map)。これは自分の勝手な命名だけど、私たちは個体の区別が行える(あの人は太郎くん、あの人は花子さん、あのおじさんは村長さん、などなど)。そしてそれぞれの個体に属性を与えることができる(太郎くんはこわい、花子さんはぼーっとしてる、村長さんはおもしろい、などなど)。そしてそれぞれの個体同士がどういう関係にあるかを記憶し保持できる(太郎くんは花子さんが好きだ、でも花子さんは太郎君にぜんぜん興味がない、村長さんは太郎君と花子さんの関係について知っているが遠くから二人の関係を見ているだけだ、など)。こうした全体を「社会地図」と私は勝手に呼んでいる。「個体-性質-関係」からなる社会全体の地図である*2。こうした情報記録形式は、「個体が性質を持つ」的な保存方法を取っているという点において、プログラミングにおけるオブジェクト指向の考え方と似た部分がある(wikipedia:オブジェクト指向)。しかし個体間の「関係」が重要な要素となっていることを踏まえるなら、情報科学におけるオントロジーと見る方がより近そうである(wikipedia:オントロジー (情報科学))。で、こうした社会地図には保持できる情報量に限界がある。そうした上限のひとつの目安となりそうな数として、ダンバー数wikipedia:en:Dunbar's number)という数がある。相互関係まで含めて個体識別を行える集団成員数の上限のことで、人間ではおよそ150人ほどが上限だと考えられている。さて、この社会地図というのは、脳のどこかに実際に「ある」だろうか?現在までに脳内にはいくつもの「地図」があることがすでに知られている。たとえば体性感覚野と運動野にある地図(wikipedia:en:Cortical homunculus)、視覚野にある地図(wikipedia:レチノトピー)、聴覚皮質にある地図(wikipedia:en:Tonotopy)などである。

これはおばあちゃんについて認知するときに活動する「おばあちゃん細胞」(wikipedia:おばあちゃん細胞)みたいなものがあるのか?という話の延長線上だが、社会関係を表象している地図というのは、脳のどこかにあるのだろうか?私は「ある」と思っている(勝手にあると仮定して色々妄想している)。*3
2. 社会的比較(Social comparison)。これは心理学業界の学術用語で、別に私の勝手な命名ではない。これは「誰かと誰かを比較する」ことを意味する。「あいつと俺と、どっちがモテるか?」「昔の俺と、今の俺と、どっちが良かったか」「憧れのあの人に、俺はどれぐらい近づけたか?」みたいなことである。こうした比較が可能であるからこそ、その結果に応じて、自己や他者を相対的な枠組みの中で評価する、という事が可能となっている。劣等感や優越感はこうした比較の後に主観的に経験される感覚だし、嫉妬や妬みもまた同様である。小泉元総理のフレーズを真似て言うなら「比較なくして嫉妬なし」といった所だろう。ちなみに社会的比較のもっとも原初的な形は、おそらく「俺とお前とどっちが強いの?」という所だったと思う。アラレちゃん的に言うと「つおいの?」である。この機能は進化史的に見ても、相当古い機能であると思える。ある個体と対峙したときに、戦って勝てそうか負けそうかを判断する。つまり勝てそうなら戦うし負けそうなら逃げる。すなわち「闘争か逃走か」(Fight or flight wikipedia:闘争か逃走か)を判断するための彼我の強弱の査定機能、これが人間において行われている他の側面も含む比較機能、これの原型となったのではないかと思われる。私たちが社会的比較の対象とするのは多くの場合、卓越性(Superiority、Excellence)に関わる特性である。要はどっちが上か、下か、どっちが勝ちか、みたいな形で特性の比較を行うのがクセのようだ。ちなみに電気回路において、電圧の高低を比較してその結果に応じて出力を変える機能を持つ回路は、コンパレーターと呼ばれる(wikipedia:コンパレータ)。少なくとも「比較」という作業自体はニューロンにとってはそれほど難しい作業ではない。しかしながらいったい神経ネットワークにおいて具体的に何がどのように表象され、どのような過程を経て社会的比較の計算が遂行されているか、そこらへんはまだ曖昧模糊としている。
4. 承認欲求、まなざし
5. アイデンティティ、自己物語。「私はこれこれこういうものである」という自分を表現するストーリー。こうした物語によって規定される一定の固定したものとして想定される自己は物語的自己同一性 wikipedia:en:Narrative identityなどとも言われる。これはエピソード記憶wikipedia:エピソード記憶)の集積によって形作られるイメージと思える。経験されていくエピソードの集積を通じて、そこから一貫した自己像の生成に失敗した場合、それはアイデンティティー危機(wikipedia:en:Identity crisis)などと言われることがある。
6. われわれ/彼ら。「身内/よそ様」、「仲間/それ以外」。こうした区別を人間は無意識に一人ひとりの相手に対して設定していく。こうした区分の最も古い起源は、おそらく血縁的近縁を把握する機能だったのだろうと思う(wikipedia:血縁淘汰wikipedia:包括適応度)。そうした機能が様々な個体に対する「われわれ/彼ら」的な属性付けの始まりとなり、今も日常生活の中で活発に機能し続けているのだと思う。こうした属性付けの後に現れるひとつの変化は、為した属性付けに応じて道徳的対応が変わることである。「我々同志は殺しあってはならない、しかしやつらは殺してもいい」。属性付けに応じたこのような行動原理の峻別/区別が可能となっているからこそ、たとえば虐殺のようなことが、今もひっきりなしに世界中で起きる事となる。ちょうど関連したニュースが流れてたのでリンクしておく。*4

7. サディズム、攻撃性。競争。いきなり非道徳的な内容だが、人類の歴史は戦争の歴史だといった言葉があるくらい、現世人類は本当に攻撃的である。ここで私が言っている攻撃は、身体的なものから、そして精神的なものまで広く含んで書いている。つまり戦争からスポーツ、囲碁将棋から、日常会話の中で他者をおちょくったり、からかったりすること、ジョーク、批評、風刺的な「口撃」などまでを含むものである。こうした広い意味での攻撃とは何か、と考えると、軽重の違いはあれど大まかに言えば「相手を打ちのめし、恥辱を与える(周囲から見た/または本人から見た承認的地位を低下させる)こと」これが勝利条件となっているようなゲームにおける個々の行為、それが攻撃であると言っていいかと思う。こうした広い意味での攻撃に関して言えば、基本的に人(敵)を攻撃することは楽しい行為であるし、そして人(敵)が攻撃している/されているのを見るのも楽しい経験である(とはいえ、これはとても微妙な所である。スポーツ観戦は多くの人が好んでも、ジェノサイドについて見るのは多くの人は好まないし、むしろ不快ですらある*5)。スポーツ観戦やケンカのやじうまなど、まあ面白いものであるから皆見ているのである。戦争で敵の軍艦を撃沈して白旗を揚げさせること、これは攻撃だし、選挙戦において対立候補のスキャンダルを流して票を減少させること、これも攻撃と言える。実にけしからんことだが、この欲求はヒトにおいて、(パーソナリティにもよるが)かなり、そして相当に強いと思われる。人がいったいどれほどの認知リソースを攻撃的行為、攻撃・闘争と関わる行為に対して費やしているかは、ちょっと簡単には想像できない。戦争はもっとも直接的な攻撃性の発露だが、当然それを模したスポーツや、ネットにおける対人ゲームなども、攻撃行為の連鎖から成り立つ。また、多くの人はあまりそれを攻撃的行為と考えないが、ワイドショーなどで取り扱われるスキャンダル報道も、攻撃性を背景として初めてネタとして意味を持つようなものが多い。つまり「高い承認的地位を持つ者が、恥辱を受けて、承認上の地位を低下させる」この過程を多くの人が遠巻きに眺めて楽しむのが、スキャンダル報道というものの中心的要素と思える。そしてこうしたもののより身近な例として「悪口」なんてものがある。

ドイツ語にあるシャーデンフロイデwikipedia:シャーデンフロイデ)という言葉(人の不幸を知って湧き上がる喜びの感情)は、その一部として、こうした「他者の承認上の地位の下落」を喜ぶ感覚が含まれていると思われる。
5. 道徳。上の項を受け継ぐと、攻撃性の奔放な開放に対する抑制は、道徳のひとつの内容となっている。旧約聖書などは攻撃的な行為のオンパレードで、殺し殺されの血なまぐさい物語で埋め尽くされている。
6. 知能
7. 真似 mimic 他者の行動を真似る能力が私たちにはある。かなづちの使い方、これは他者が使っているのを見れば自分もできるようになるだろう。「木の実の割り方」や「木の登り方」の個体間での伝達を視覚情報のみを通して行えることは、なかなかに便利な機能だったろう。とはいえ、そうした単純な真似、模倣はこのエントリの文脈においてはさほど重要ではない。このエントリの文脈で注目したいのは ワナビー(wannabee)のような現象である。なんらかの意味での強者の「行為」や「装い」を真似る特性が、私たちにはある。1990年代にキムタクの真似をして多くの若者が髪の毛を伸ばしたり、現代において有名人がブログで商品をステマするとそのライフスタイルを真似たいという心理からファンが商品を購入することがある、といった例があるだろう。
8. 役割、期待
9. 心の理論、意図推定
10. 遊び
11. 表情、姿勢、声色、ボディランゲージ
12. 遺伝的多様性。社会的な個体間の相互作用を考える上で、遺伝的多様性は多分けっこう重要である。日常的な感覚と生物学的な視点が最も食い違うであろう点を、たとえば性格的側面について一言でまとめると「パーソナリティは戦略である」というような表現になるかと思う。これは精神医療と進化心理学が葛藤せざるを得ない場面の問題ともいえるだろう。「なぜサイコパスなんていう不道徳で危険な輩がいるのか?」「おそろしい」というのは普通の反応かもしれない。しかし生物学的に考えれば、ある形質が進化的に有利なら(つまり子供の数を増やすのに有利なら)、どんな形質であれ、それが遺伝性を持つなら、その形質は遺伝子プールの中でどんどんと数を増やしていく。
番外. 原因帰属。「こうなったのはあいつのせい」「うまくいったのは俺様のおかげ」といった何らかの現象に対し、それを引き起こした原因を何か(誰か)に帰属させる機能。これが社会的文脈で初めて生まれたものなのか分からない(まだあまりよく考えたことがない)。しかし社会的文脈でこの機能が果たしている役割はとても大きい。たとえば「責任」という概念は、基本的に何かあったときに原因帰属を受けることとなる立場・状況を意味する。大きい社会現象に対して原因を求めて政府を批判したり、世界のあり方に対する批判の対象として神を責める(「抗議の神義論」(theodicy of protest))、といった行為を私たちはなすことが出来る。
番外. 目的論。目的論的思考を行える能力は、社会性を直接のターゲットとして進化したものではないと思う。けれどいくつかの社会現象において目的論的思考を行う能力とその特性は結構重要なものとなっているように思う。なので番外として一応リスト。

関連リンク

  • 鬼女まとめ速報 主婦・既婚女性の色々な愚痴・苛立ちがまとめられている。主に家族・親族ネタでそれぞれは身近なエピソードだが、個々のエピソードについて、どういう神経経路を通ってそれが苛立つこととして認知されたか、どういう神経経路の活動を通じてこの人はこうした行為をしたか、といったことを考え始めると結構色々と難しい。つまり「何となくイヤであったろう」ことは分かっても、ではそれがなぜか、ということをはっきりと言語化するのは結構難しいし、どのようにしてか、と回路レベルのメカニズムを想像することはもう一段階難しい。

*1:私たちの社会的認知の機能は、東西冷戦のような大仰な戦いを対象として進化したものではない(そんな大規模な戦争は進化の過程で起きてこなかったから)。むしろそれは非常に卑近な小規模集団中で動作すべく回路として洗練されてきたものだろう。現在多くの人々の間でそうした回路が使用されている主な領域は、たとえば
-社内政治における闘争・立ち回り
-スクールカースト内での闘争・立ち回り
-ママカースト内での闘争・立ち回り
といった用法が多分ほとんどを占めているだろう。

*2:こうした認知は本当にもともと「個体、一人一人の人間」を対象としていただろうが、外交関係などの集合的対象について理解する際にも、この社会地図の機能がそのまま流用されているようである。「アメリカは狡猾だ」、「中国は危険だ」、「アメリカは中国を警戒している」など。国際関係を擬人化して描いたヘタリアwikipedia:ヘタリア)のような漫画を「理解ができる」ということは、私たちが集合的対象の認知をどのように行っているかを示唆していると思える。

*3:妄想の一つとして、最近Twitterで「あべしね」と書いて何だか話題になっていた翻訳家で平和活動家の池田香代子さん(wikipedia:池田香代子)の書籍について思ったことがある。彼女は「100人村」という興味深い思考実験について本を出版して問題を有名にした人である。「世界がもし100人の村だったら」という作品だが、「世界を100人の村と考えると、こんなに世界は不平等だよ!ひどいね!」という内容の本だった。wikipedia:世界がもし100人の村だったら

世界がもし100人の村だったら

世界がもし100人の村だったら

昔この本を読んで「うーん、そうだな、ひどいものだなぁ」と素朴に思ったが、同時に何かひっかかるものがあった。当時ひっかかっていたことが何だったのかそれが最近やっと分かった。それは世界が100人の村ではない、ということだ(当たり前だが)。現に100人ではなく70億人いるという事、これが実際にどういう差異を生み出すのかは、ダンバー数wikipedia:en:Dunbar's number)との関係でおそらく一番よく理解できると思う。ダンバー数(約150人)の上限を超えた所から先は、私たち個々人の認知の中で、他者というのは「われわれ/彼ら」という対立軸における単なる「彼ら」、または何者かでさえない「何か」の位置に行かざるを得ない。その位置は「われわれ」に対してとは、道徳適用のあり方が変化してしまう。日常的な言葉で言うと、気遣いが届かない、共感の鎖が切れる場所に行ってしまう。今回の池田さんの発言についても、もし彼女が100人村の住人だったら、最近出てきた村長?が少々好戦的?排外的?弱者切捨て的?だったからと言って、そこでいきなり村長の名前を呼び捨てにして攻撃するなんてことはなかっただろう。「最近しんちゃんが村長になったけど、あの人のやり方、わたし好きじゃないわ」とかが関の山だったんじゃないかと思う。今回は池田さんの中でも、安倍氏は「われわれ/彼ら」という対立軸における「彼ら」の位置、または何者でもない単なる総理大臣という「何か」または「記号」の位置にしかいなかったのではないかと思った(色々と考察を巡らした果てに「安倍は死ぬべき」と冷静に考えたのかもしれないが、本当に冷静にそう考えていたなら黙って殺す準備をしていたのではないかと思う。殺さなきゃいけない相手がいたら、あいつをころす!みたいなことは、ある程度 計算高ければ普通わざわざ言わないから。ちなみに排外主義的な空気は別に安倍氏が作り出しているものではないから、それを変えるなら、もっと別の場所、たぶんCIAとか、そういう所を動かしてる人とかを何とかしないといけないと思う。アジア統一を警戒してなのか、または中国の拡大を懸念してなのか、そこらへんの動機はよく分からないけど、お金かけて日本で広報戦略してる人たちが、後ろに多分いる(もしくはプレスコードを一部緩めたたけなのかもしれない)。そういう所を何とかしないと多分なんともならないかと(日本のかつての学生運動が、別に当時の日本の学生だけの運動ではなかったのと、ある程度は似ているだろうと思う。とはいえネットで大流行の嫌韓ネタは、政治的な背景もあるが、ネタとなってしまう一番の原因は、朝鮮半島の人々の間で、おそらく遺伝的であると思われる得意なパーソナリティが、実際に一定の比率で存在していることにある、と思う。変な話だけれど、2chで生まれた二ダーのキャラは、単なるステレオタイプではあるにも関わらず、実によく朝鮮系の人々の間にある不思議な性格を現していると思う。Korean Personal Genome Project の発表によれば 約60,000の韓国特有のSNP(wikipedia:一塩基多型)が見つかっているということである(Korean Genome Project Finds Korea-Only SNPs. By Allison Proffitt, September 13, 2011)。ここのどこかに、ああした不思議なパーソナリティを生み出す元が、多分あるのだろう。ちなみに日本のネットではほとんど朝鮮系の間に見られる特有のパーソナリティ・特性は悪しきもの・笑うべきものとしてしか扱われない。しかし生物学的に言って、当然そういうことはありえない(また個人的な日常の経験からいってもそういうことはないと感じる)。個人的な感じとして、利害関係が複雑に絡み合った変化の激しい場所で、個人で短期決戦を繰り返し続けながら生き残りを目指す、そういったタイプのゲームでは朝鮮系の(ステレオタイプ的な)パーソナリティは確実に強いと思える(簡単に言えばパーソナリティがばれるまでに勝負が終われるゲームなら強い)。逆に日本人の(ステレオタイプ的)パーソナリティは安定した環境における長期の持久戦で蓄積の差で勝ちが決まる集団ゲームのような環境に向いていると思われる(というかそういうゲームにしか向いてないようにも感じる)。個人的にこうした「様々なパーソナリティが持つ利点・弱点とその進化的起源」といった話は、思索の内容としてかなり面白いと思う。しかし政治的・感情的な話が混じって、話題として気軽に取り扱える時代はなかなかすぐには来ないだろう。かなり話が脱線した。

*4:この報道では性善/性悪という概念を軸にして研究内容が紹介されている。(もちろんキャッチーだからこういう言葉を使っているのだけだろうけど)しかし性善/性悪という分け方は少し軸がずれている。この点については以前のエントリーでも書いたが、進化は進化というそれ自身独自のネズミ算式原理だ(「進化は今・ここで、私達に起きている」2012年07月01日(日曜日))。だから「進化は幸・不幸を気にしない」。生まれてきた個体や、また生まれてきた個体の周囲が、どれほど不幸になろうが、そんなことは進化は気にしない。数が増えればそれでいい。これと同じく「進化は善・悪を気にしない」。どんな悪逆非道な行動パターンだろうと、ひれ伏してあがめたくなるような自己犠牲的な行動だろうと、別に進化はそんなこと気にしない。数さえふえればそれでいい。それが進化である。

*5:攻撃を楽しんで見ていられるのは、その攻撃のやり口・バランス等において道徳的違背を見つけない限りにおいて、であると思われる。ガチの戦争だと、見ているだけで嫌悪感や怒りが沸いてくることが(少なくとも私は)多い。それは正々堂々とした互角な戦いでないからか、または正義や誠実性が欠落した戦いであるからと思える。道徳的な意味でのバランスの喪失を見た場合、今度はその攻撃を引き起こしている者を攻撃したくなる。こうした場合の攻撃は一般に「仕返し」「報復」「裁き」などと捉えられるだろう