休職中ケアマネのゆるい暮らし

46歳男性既婚ケアマネがいろいろあって適応障害の診断を受けて仕事を休んで家にいる日常を綴ります。男性でそこそこがんばってきて、そこそこの年齢で、いったん立ち止まった人と共感できればいいなと思います。

親の介護は続く2

久しぶりすぎますね。

まあいろいろありながらも生きていますよ。

母が2023に手首を骨折し、いろいろ認知症の症状が出ながらだましだまし自宅介護を続け、2024には背骨の圧迫骨折があり、現在リハビリ病院に入院中です。

父はその間ショートステイをロング利用中です。

私は細々と商売を続け、何とか確定申告と去年の消費税還付の手続きを終え、気晴らしに来週ディズニーシーに行ってきます。

なかなかやることも多いですが、少しずつできることを進めていきます。

このブログもその一つです。

まだ読んでくれる人がいるといいな。また書きます。

目的

今日も今日とて例のスタバでこれを書いています。

自宅に1人でいると何かしら煮詰まってしまう時もあり、そんな時は横浜まで出て横須賀線グリーン車でビールを飲みながら千葉駅まで行き、駅ナカの富田麺業でつけ麺を食べて帰ってくるプチ旅行が小さな楽しみな夏でした。結局18きっぷを使わなかった夏でしたね。見よう見まねで個人で仕事を始めてから随分経ちますがなかなか前職の手取りを越すことはできていません。健康保険やら社会保険の半分を会社が負担してくれることがどれだけありがたいことか!痛感せずにはいられません。

商売とは改めて言うまでもないことですが、売値から仕入れを引いた利益が収入になるので、仕入れ額が大きければ大きいほど売値も利益も大きくなるに決まってますから、大資本を用意できるかどうかにかかっているわけです。私は大資本はありませんし、人を雇って会社を大きくする力はないと思っています。社会に貢献する気もそんなにないので、身の丈にあった収入が得られればそれでヨシです。

今年に入って同世代で社会の中心で活躍するような友人が2人、もう癌で去ってしまいました。2人とも正月には全然元気だったのに、です。2人ともそれぞれの会社で中心人物でしたし、世代的にもそういう世代です。

私は在籍していた会社でそんな中心人物にはなれなかったし、これからもなれそうになかったので、会社を去って自分の戦場を探して、少しですが収入を得られるようになり、それで満足はできていませんが納得はしています。

その2人は納得して去っていったのかはわかりませんが、このまま50代、60代を迎えられると思っていたのではないでしょうか。

今年に入り私の母が自宅で転倒し、骨折し、治療するために2ヶ月間特養にショートステイ利用していたことは前回書いた通りです。その自宅に戻ってきた数ヶ月後に買い物途中の道ばたで熱中症で座り込んでしまい、通りがかりの方が救急車を呼んでくれ、救急搬送されるということがありました。この時も点滴を打つだけで自宅に戻れましたがそれは運が良かっただけで、そのまま入院し状態が悪化し自宅に戻れなかったケースなど十分考えられたと思います。

言いふるされた言葉ですが今日と同じように元気に明日が迎えられるとは限らないわけです。今は考えにくいですが、一旦出かけた先で怪我や事故で入院したりして、そのまま自宅に戻れなくなる日がくるかもしれないし、逆に無事に自宅で最後を迎えられるのかもしれません。コロナ禍が予想できなかったように先のことはわからないので、やっぱり今日やりたいことは今日やる、できる範囲で行動してそれで満足できればそれでよし、とは思いますが人間そんなに思い通りにはいかないのでついついだらだらゲームなどして無意に過ごしちゃいますよね。やはり必ず出勤して会社などで管理される必要は私にはある程度必要なのかも、と思ったりします。

親の介護は続く

母親の右手首骨折により、父と母が4月3日から特養のショートステイを利用し、から5月31日に自宅に戻ってきました。

6月は自宅で過ごす体制を整えるべく家族のキーパーソンとしていろいろ動きましたよ愚痴ブログです。

母の骨折時の介護度は要支援2だったので使える介護サービスを増やすべく区分変更して要介護2、にめでたく?ステップアップです。訪問介護とデイサービスを週に2回づつ利用して入浴と保清をしてもらうことになり、とにかく一ヶ月が経ちました。

父と同じデイサービスに通っているのですが、そこのスタッフはかなり細やかな連絡をくれ、母のつま先の赤みなど皮膚トラブルに気づくとすぐ電話をくれるのでこちらもすぐ受診して結果をフィードバックしています。

父は性格的に穏やかに過ごせるタイプなので、利用を開始して2年ほど経ちますがほとんど連絡が来たことがなかったのですが、性格のきつい母は何かと連絡が来るので、デイ側も家族と連絡を密にとっておいた方がいいタイプと認識しているのかもしれませんね。

キーパーソンである私は今までの経緯からして全面的にそのデイサービスを信頼しているので、これからも継続して利用できるよう母には周りと調和して過ごしてもらいたいものです。

父は物覚えがだんだん悪くなってきたりなどの変化はありますが特に気になるほどの変化はなく穏やかに過ごしていますが、母は感情的になる場面が多くなってきました。あと面倒くさいことをやらなくなってきており、就寝時にパジャマに着替えることをしなくなっているようで、日中の暑さで汗臭い服のまま休んでいるようで、こちらで声掛けして着替えを促さないと自発的に着替えなくなってしまいました。洗濯に関してはとくにこだわりがあって、あえて二層式の洗濯機を取り寄せて使っており、必ず庭に干して天日干ししていましたがそれすらも面倒になったようで、洗濯物は私が全て回収して自宅で洗濯・乾燥して実家に返却するシステムに変わりました。

親の介護はまあまあ戸惑いますがこんなペースで進めていっていますよ!

広島

特に変化のない毎日を過ごしています。

前回のブログの通り母の手首の骨折をきっかけに両親とも特養のショートステイで今月五月いっぱいまで過ごす予定は変更なしです。父は母の巻き添えを食った形になり気の毒ですが父を一人自宅に残すわけにはいかないので仕方ありません。自宅に戻った時のために玄関から門まで続く手すりを介護保険の住宅改修を使って設置済みです。母の手首は順調に骨がくっつきつつあるとの診断でした。自宅に帰った後は一日おきに介護保険サービスを受けられるようにケアマネさんと調整をしています。

先日二泊三日で妻と広島に旅行に行ってきました。広島は大阪府の小中学生が修学旅行で行くものと思っており、私も行ってきたのですが大阪南部出身の妻はそうではなく、行ったことがないとのことだったのでお馴染みマイルを吐き出しての旅行です。平和記念公園原爆ドーム厳島(宮島?)、広島城流川町と鉄板コースしかまわらない旅でした。二十代の後半に私が大阪でサラリーマンをしていたとき、広島出張が月に2回ほどあった時期があったので広島の町の全体像はなんとなく覚えていました。当時は広電はICOCAは使えたけどSuicaは使えなかった謎仕様だったなあとかバッケンモーツアルトという洋菓子屋のクッキーがおいしかったなあとかおたふくソースは甘すぎでカープソースの方が口に合うんだよなあとか行きの飛行機の中でいろいろ思い出しながら行きましたが、広島空港に着くと空港から街中までサミット前の厳戒態勢一夜前、というものものしい雰囲気に驚きました。泊まったホテルは外資系だったのでサミット期間中は本国の要人が泊まるのでしょう、ホテルの建物周辺を誇張ではなく電柱一本ごとに警官がいるんじゃないかという間隔で、まるで城を守るが如く配置されていました。奈良や和歌山でいろいろあったので今回は日本の威信にかけてなにがなんでも無事に終わらせるという政府の気迫のようなものを感じました。ホテル自体はゴールデンウィーク後のサミット前、という底の時期だったので格安で泊まれ、空室もあったのか部屋のアップグレードもありました。外国からの観光客や国内の修学旅行生もホテル内、広島の街中、厳島とコロナ前のようにたくさん見られました。夜は流川の良さげな寿司屋に入ったのですが、大将のはなしでは繁華街はなかなか人の流れは戻ったと言えるほどではないようで、平日の夜は席も二回転もすればいいほうとのことでした。サミット期間中はさまざまな交通規制が入り、とくに飛行機は減便はないものの、空港からのバスやタクシーは規制されるので空港から広島市内に入るのが難しくなり、地元の人に迎えにきてもらうとかしかなくなる、とのことでした。瀬戸内の魚を使ったお刺身やお寿司はとてもおいしく、地酒もすすんでしまったので、2人で26000円払って千鳥足でホテルに帰りましたとさ。

突然の親の介護

3月22日に77歳の母が自宅で転倒し、手首を骨折しました。父と二人暮らしで、父はその時デイサービスに行っていたので不在で、母は廊下に置いていたジャガイモの箱を持ち上げようとしてよろめいて転倒し、前に転び、右手を床についたようです。鼻も打っており内出血をしていました。私は外出していたのでヨメが受診のためにクルマを出してくれ、整形外科と耳鼻科に付き添ってくれました。外傷はそれほどでもなかったのですが、やはり利き腕の右が包帯でぐるぐる巻きで使えないため、料理や洗濯などの家事がほぼできなくなってしまいました。

私は車で10分ほどのところに住んでおり、一人息子なのでそのままキーパーソンとなり、その日から全ての決断をすることになりました。

自宅の浴室で、私が母の入浴介助をした時は少し思うところがありました。10年以上も介護職だったので入浴介助はそれなりの自信はありましたが、身内の介助は初めてたっだからです。母の髪を洗いながら子供の頃ぶりに見る母の体は背骨の傾きがあり、それなりにシワシワで、施設勤務の頃に見慣れた利用者様たちとあまり変わらない体になっていました。

食事は宅配弁当を頼んでみたもののお米が口に合わない、とのことでおかずだけ注文し、ご飯は無洗米を自宅で炊くことにしたようです。デイサービスも週に一度通うことにし、食事と入浴と骨折したところの包帯の交換をお願いすることにしました。訪問介護も週2回に増やしてもらうことができました。

それなりの体制を整えて自己満足に浸っていましたが、母の精神状態が不安定になってしまい、早朝などに私や叔母(母の姉)に電話をかけてくるようになりました。内容は「なんか不安だから来て」「いますぐきて欲しい」といった内容です。何度かは駆けつけましたが、私も叔母もそれぞれやることがあるため、すぐに対応できないこともあるので、手首が治るまでショートステイを利用することにしました。

運よくすぐに受け入れてくれるところが見つかり、4月3日から15日まで近くの特養のショートステイに父と母と2人とも利用しています。いまのところ特に施設から連絡はないので、穏やかに過ごしているようです。

私が特養で働いている時はショートステイのユニット勤務だったので、受け入れ業務を1日に何人も受けていましたが、とうとう親を送り出す側になりました。特に感慨深いとかはなく、飄々とした気持ちです。

送り出す前日に親の預金通帳、介護保険証、健康保険証、マイナンバーカード、クレジットカードなど大切な物を預かるときは、母はこんなに早く受け渡すことに戸惑っていたのでしょう、少し涙ぐんでいましたが、私はそのうちこんな日が来ると思っていたので、落ち着いた心境で、冷静に受け継ぐことができました。

希望としては母の手首がある程度治り、最低でも自宅で食事の準備ができるようになれれば自宅での生活に戻ってもらいたいと思っていますが、先のことはわかりません。ケアマネさんがとてもレスポンスの良い方で本当に良かったです。両親は本当に運が良く、今まで大きなトラブルに巻き込まれない人生を送ってきましたが、その運の良さは晩年まで続いているようです。

モノを仕入れて売るということ

世界版ヤフオクのようなプラットフォームで物販を昨年11月から始めました。

はじめはなにを仕入れるのかを決めるところからのスタートで、いわゆる「リサーチ」という作業です。売れそうなものが決まれば次に仕入れ、出品し、売れたら発送、という流れです。普通のスーパーやら商店と何ら変わるところはないですね。海外の人に売るので、売上は米ドルで受け取るため、円高の時は利幅が減りますし、円安なら増えます。1ドル150円台の時はウハウハだった輸出業者さんはいっぱいいたでしょう。

始めた当初はは外国に発送するノウハウもなかったので、とにかく損はしない程度に必ずコンスタントに売れるものを出品して、評価を貯めることをしていました。そのおかげで4ヶ月である程度の評価を得ることができ、来月にはトップレイテッド、という称号も頂けそうです。

これから消費税還付のことや、複式簿記のことなど勉強することはたくさんありますが、自分のペースで一歩一歩進んでいくことに喜びを感じています。

会社に勤めていたときにイヤだったことは、名刺がなかったことと、その月の予定を他人に決められることでした。仕事ができなかったのでシフトを作るまでの職位に上がることができなかっただけです。いまは稼げる稼げないも自分次第ですし、昼間から酒を飲もうが、明け方まで作業を仕様が自分次第なところがとても気に入っています。

昨年は傷病手当や失業給付をもらいながら生きていたので、なにかどこか後ろめたいような感覚でしたが、個人事業主になってからは何もかも自分次第の、ある種開き直った心持ちでいます。

作業を自宅で1人で行なっているので兎角孤独になりがちなので、ときどき同じような商売の仕方をしている仲間とのオフ会に参加したりしています。

どんな名刺を作って持つのか、そのデザインも自分次第ですし、社判をどうするのか、どの税理士さんと契約するのかなど全部自分次第です。

大体月の売り上げはいまはまだ少なく月の儲けは数万円なので、貯蓄を削っている状態ですが、今年中には商売一本でたべていけることを目標に行動していますよ!

とにかくやってみる

大阪に3泊4日で帰ってきました。

私は大阪出身で、今は東京に住んでいて、親も東京に移ってきてしまったので、大阪には帰る用事も無くなったのですが、たまにこうやって同窓会に呼ばれたりして戻ることがあるのです。予定が決まった先月の時点でヨメに「20日から大阪に戻るよ」と申告すると、「じゃあ私も行くよ」とのことだったので、一緒に帰阪することになりました。

ヨメと一緒に大阪に戻るなんて恐らく結婚前以来でしたし、これからもあるかわからないので、ホテルは西梅田の良いホテルを奮発しました。

私の高校は肥後橋にあり、阪急梅田から西梅田まで歩き、四つ橋線一駅分の電車賃をケチって西梅田から肥後橋まで歩いていたので、その西梅田の良いホテルのそばの歩道が通学路でした。当時はそれが高級ホテルだなんて認識してなかったと思いますし、認識してなかったので憧れとかの感情もありませんでした。今回は梅田の地理に明るくないヨメ連れということでわかりやすい位置に泊まりたかったのと、やはり一生に一度くらいはそのホテルに泊まりたかったのです。

結果としては駅からフロントまでの動線もわかりにくかったですし、朝食も部屋もそこそこでしたし、スタッフも人数はいるのにチグハグな動きで、同じホテルグループの他ホテルと比べてもなんだかなあという印象でした。しかしそのホテルに泊まったことがある、というのが私にとって大切だったのです。

大阪滞在中は大学卒業まで府民であったにも関わらず一度も行ったことのなかった吉本新喜劇に行ったりなじみの焼き鳥屋に行ったり夫婦旅行を楽しみました。夜は別行動で、私は同窓会に行き、ヨメは地元の友達に会いに行き、それぞれそれなりに充実した時間を過ごしました。

ヨメはネコが留守番をしているので2泊で東京に戻ったので、私は1人の夜を楽しもうとあれこれ画策していたのですが、同窓会のあとキャバクラで朝まで飲み明かしてしまったので最終日を楽しむどころではなくふらふらの頭でタクシーで伊丹空港にたどり着きました。

今回はヨメは往復新幹線で、私は帰りだけマイルを使って飛行機で帰ることにし、帰りの飛行機をファーストクラスにしてみました。保安検査も一般客とは別で、入ったことのない良いほうのラウンジの通されました。そこはとても静かな落ち着いた空間で、マッサージチェア、シャワー、ビールにおつまみとカードラウンジとは設備はフードが違いましたが、上級ラウンジにそれほどのサプライズはありませんでした。

機内への案内も一番先でしたし、CAさんも私を名前で呼んでくれたり上着を預かってくれたり、国内線なのに懐石料理のような機内食が出たり、ひとつひとつのサービスは素晴らしかったです。でもそれだけかな。一時期上級会員に憧れましたが、やはりあれは仕事で会社のお金で頻繁に飛行機を利用するひと用のサービスであり、わざわざマイル修行をするほどの価値は感じられませんでした。自腹で乗るなら、値段から見てもクラスJくらいがちょうど良いと思いました。

西梅田の高級ホテルも、飛行機のファーストクラスも利用してみて初めて気づくことがたくさんありました。やっぱりとにかくやってみる、よかったら続ける、合わなかったら次に行く、っていろんなことに当てはまるなあ、と日常に戻ってきていつものスタバで書いていますよ。