First Stand

人生の棚卸しからの仕切り直し

自分の人生を生きるタイミング

子どもの頃の記憶はあんまりない。友人に「こんなことあったよね」と昔の話を言われても、よく覚えてないということがある。自分の人生を生きることを教わったのは、高校生のときで、そのとき学校の先生から、自分で選び自分で決めてその結果も自分で引き受けるもので、その作業の繰り返しが自分の人生を生きることだと学んだ。人に言われたまま選択するのは楽だし簡単だけど、そうすると、その結果いかんでは言われた人のせいにしてしまうという心理作用を学んだ。人に言われたことを軸として選択を繰り返していると、その結果を自分で引き受けるという責任を負うことがなく、いつまでも自分の人生を生きれない。ゆえに、ずっと自分不信のままだと。結果がどうであれ、自分で決めたことなら自分で引き受けるしかない。その選択決定と結果の責任を引き受けることが自分の人生を生きることだと。すごく大切なことを教わった。

それまで人の人生を生かされていた私は、そこで自分の人生を少しずつ生きるよう練習を積んでいった。最初からうまくはいかなかったと思う。そもそも最初は、自分で選択するそれなにおいしいの状態。でも些細なことでも、練習していき、その後は堅固な意思決定の回路ができたと思う。でも、それがすごく堅固すぎて、自分の人生を生きる意識が強すぎて、例えば病気になったときも、例によって「明日もししぬなら」とか、「1年後にしぬとしたらどうする」的なことを考えたりもしたんだけど、意外と結構そんなにやってなくて後悔的なことはパッとは思い浮かばなかった。なんだろう。でもそれも結構虚しいかもと思ったのが、これまた人生の不思議で。後悔しないために、後悔しないような生き方を選ぼうと意識してきても、後悔しなさすぎるのもまたさみしいというか。やっぱり自分だけのために生きるっていうのは、自分軸で決めると100%イコールではないのよ。自分軸で決めるということが、人のために向けられたとき、自分の人生の終わりを意識したとき、後悔とかそういう気持ちが出てくるのは、一層豊かな人生のような気もする。はじめは、失われた自分らしさや自分の人生を取り戻そうと必死だったのに、いつからか散々自分のために自分勝手に、自分の人生を好きなように生きてて、気がついたらなんだかそれも物足りないというか。でも、かといって、そんなに器用ではないので、自分軸で人のために生きるっていうのが、私には難易度高いだろうなとは思う。

どいつもこいつもやべぇ奴ばっかりだ

病気療養する機会があり、だいぶ精神のデトックスが行われたっぽい。以前は、イライラの閾値が低く、アレルギー反応みたいにちょっとしたことで、イラっときてた。けど、休んだ。まったく働かない期間があり、超デトックスされた。仕事にもどったとき、イラっとくるまでにだいぶ時間があった。もう最近はまた戻りつつあるけどね。

でも、このデトックスは何かを好転させてくれた感じがする。もろもろのストレスを一定期間シャットアウトしてくれた。そのことだけでも、毒だし効果あります。でも、人間て、毒が出て心に余裕が出ると、なんかポジティブなことを自分にしたくなる。逆に余裕がないときほど、セルフケアなんてできなくて己を粗雑にしてしまうもの。なので、休んだことにより余裕ができ、セルフケアにも手が伸びたってわけで。

こんな風に、来る日も来る日も愚痴を垂れ流してはいるけど、この作業もその一環だったりするし。それ以外にも食事を変えたり、マインドフルネスをやってみたり。だいぶ健康的な要素、生活に取り入れ始めたよね。

で、明らかに休養する前よりは、健康的なところ意識できているんですが。いけないこともあるよ。まず、なにがいけないって、もう人材難のことですよ。社会的養護に関連するこの業界の人材難たるや。さんざんなもんですよ。厚生労働省にワーキンググループができたそうですが、本当に考えてほしいよ。マジで考えて。どいつもこいつも、やべぇ奴ばっかだよ。

役割を果たしていないことへの苛立ちを越えた侮蔑

頭が痛い。役割を果たす果たせないということが、自分の中で重要な価値判断の基準なようだ。そして、役割を果たせていればよいというわけでもなく、常に自分に対しては役割を果たせているのかどうか不安であり、大丈夫かな?と思っている。だから、実際に役割を果たしているかどうかというより、感覚的に不安という感じ。でも他者に対して、役割を果たしている人を見れば、期待された以上の役割を果たしているような人なんて、もう最高に尊敬する。

その逆に、自分が役割を果たせていないと思えば超絶自己嫌悪だけど、そもそも基本的に役割を果たせているかどうかわからない、不安モードなので、役割を果たせているかどうかは知るよしもない。仮に役割を果たせているよって外部からの評価を得たとしても、きっと嬉しくもなく満足もしなくて、本当に大丈夫なのだろうかという不安は変わらずに自分の中にある。逆に役割を果たせていないよっていう評価を得たとしたら、どうなるんだろう。そうですよねって感じになるのか、なにくそと反発するのか。ちょっと想像できない。なんとなく、以前から外部の評価はそんなに気にならないようなところもあった。自分は自分と思ったりする節もあって。で、ひとり頭の中で、自分は大丈夫なのかと不安を巡らせるっていうのは、どういうことなんだ。

ときどき、自分大丈夫なのかって思ったとき、元気があったり前向きなときなら、過去の自分を比べて、うん、大丈夫だ、ちゃんと進んでるじゃないかと思いなすこともあるんだな。でも、基本的には、自分大丈夫かと不安ではあるけど。健康的な考え方を取り入れる余地はある。

で、結構辛いのが身近に役割を全然果たしていない人がいるパターン。これね。これが辛い。どこの職場でもいるけど、簡単に言うと任された仕事ができない人ね。そして、さらに辛くなるのが、できないのにそのままその役割を任され続けて、身近にいる自分とか、他のきちんと役割を果たしている人に不利益が起こり、その人のとこだけどこふく風の台風の目状態なやつね。それよそれ。それで頭がくらくらしてきて頭痛がする。

得意不得意があるから、与えられた役割が自分の適性じゃないとか、自分には荷が重いですということで、より適切なところの役割を与えられたらいいじゃない。でも、本人がそもそも不適格ということに気づいていなかったり、ただ人手不足で交代させられなかったり、あるじゃない。そういうとき身近な人の合理的配慮によって、全体のことが進み、周りの人が時間とか手間とか割いて1人の不適格な人の仕事を支える。そういうとき、私の中に言葉に言えない感情が生じるんだよね。苛立つけど、それを越えたもっと憎しみに近いもの。憎悪とか、嫌悪とか、侮蔑とか、拒絶とか。

だからそのパターンの人間関係の配置に自分がある場合、とてもストレスが溜まる。この状況、この人、苦手なパターンだなと思うのは、本当にこれ。これです。まだ、その人が不適格であるということが、周りの人と共通理解で、合理的配慮ありきでその環境がまわってるなら、なぐさめになるのよ。でも、今はそういうところもあるけど、周りの人の優しさや合理的配慮でのうのうと、役割を果たしてもいない人が難しいことを扱う仕事をしている。そのことが、私を何よりも苦しめる。その原因は自分の生い立ちにあるのもわかってるし、他者の役割力不足問題に目が行き過ぎると、他者を否定しながら自分も否定することになってしまい二重に苦しむ。ここの罠にはまると結構ブラックホールなので気を付けないといけない。でも本当に、この役割を果たさないでのうのうと過ごしてる人っていうのが、憎悪でしかないんだよ。

動機が不安からきていた

よくよく思い返すと、いつも頭の中が常に”あれやらなきゃ、これやらなきゃ”と落ち着かなかった。次から次へ手当たり次第、社会的役割を果たすために必要と思われることをやった。やってもやっても不安で、でもやらなければもっと不安だった。やらないという選択肢はなく、手を抜くなんて自分が許せないような気がしていた。

この不安は、他の人には見えないので、どんだけ不安でやってもやっても自分がただ消耗するだけだとしても、表面的には熱心な人に見えると思う。その点を評価されることもあった。でも、友人にはポロッとゆったことがあった。”本当は不安で不安で、だから仕方なくやってんだよね”と。

もちろん社会的役割を果たすため、仕事としてその役割期待に答えるため、社会的な存在意義のため、そんなもろもろの期待に答えようと思えば、自己研鑽は欠かせない。でも、私のはちょっと違った。とにかく不安で不安で仕方なかった。わたし、これで大丈夫かな?これだけの知識で大丈夫だろうか。こんな経験で大丈夫だろうか。そもそもこれまで生きてきた経緯の中でも、こんな問題を抱えており、人間として大丈夫だろうか。どこか自分には、他の人より大きな欠陥があるような気がして、誰よりも頑張ってなければいけないような気がしていた。誰よりも学びとか、体験に時間を割いて、後天的にでもなんとか追いつかなければと感じていた。

そんなわけで、不安で不安で、駆り立てられて色々やるんだけど、まったく満ち足りた感覚もなく、消耗するだけで、やってもやっても自分は永遠に欠落しているような不安もつきまとって、とにかく不安のスパイラルだった。でもやらないよりはマシ。やらないで過ごすことは不安だし、もっと言えば自分の中で拒否感というか、拒絶感に近いものがある。それは自分にもそうだし、きっと他人に対してもそう。

これだけ不安が強かったのは、自己への否定感が根強くて、自分への確固たるものや安心感もなく、そもそも自分というものがなく、社会的役割を果たすために必死だったんだなと思う。自分がなくて社会的役割だけあるってことはないもんね。自分があって、その上に社会的役割が成立するんだなと今更ね。とにかく、あの頃の不安はすごかった。不安で不安で、やってもやっても不安で不安で。先が見えなかった。自分軸はなくて、不安軸だったな。今思えば

人とのつながりが癒すもの

友人の結婚式に行ってきた。長い付き合いの友人である。招待状が届いて、その返事を出そうというときに、自分の病気が発覚した。入院する可能性が出てきて、招待状の返信をどうしたらいいかと、保留にしたままだった。正直に伝えて返事を待ってもらえるか聞いたら、優しい言葉とともにOKをもらった。

無事、退院して、めでたく結婚式に出席できた。昔からの友人にも会えた。なんてゆうか、気持ちが満たされたみたい。心が満足したみたい。自分を癒すものとして、友人に会うというのは大きい。別に何を話すでもなくても、なんか会ってお茶とかご飯とかするといいみたい。近況報告したりしなかったり。なんでもいいみたい。もしかしたら、くだらない話してるのが一番いいかもしれない。中身のない話が最高かもしれない。

自分の中の大切なキーワードとして、普遍的ってあると思う。自分は変わってしまった。どんどん変わっていく。変わっていかなければ。そんな変化を求める内なる動力が働いている。でも、確かなものとして普遍性ってものに惹かれるところがすっごくある。いつもそこにあるもの。変わらないもの。いつでも変わらずにそこに。そういうものをずっと求めていたからね。

自分が変化することで、生きてきた。それは私なりの生存戦略だったと思うけど、でも変わらないものに憧れた。でも、昔からの友人に会うと、何も変わってない自分がいるような気がする。成長してないとか言いながら、本質的なところ、きもち、こころ、そういった自分の中や関係性に、その普遍性が見出せるような気がする。

だからとっても癒された。わたし大丈夫かなって確認することは忘れてた。そんなことする必要もなかった。だって大丈夫に決まってる。わたしは大丈夫。そんなこと当然。そんなこと思いつかないくらい、当たり前の感覚として自分の中にあった。だから、仕事に行っても自分を確認してない自分がいて、それに気づいてびっくりした。いつも、だいたい、鏡か何か自分が映るものが目に入ると、頭の中に、わたし大丈夫かな?という言葉が思い浮かぶ。不安になって確認する。でもそれを忘れてた。

人とのつながりで癒された効果があった模様。きっと、その間、自分を否定するものからも解放されてたんだ。自分のことをふっと忘れられるって健康的だよね。

常に大丈夫か確認している

自分を否定する感覚と共に、いつも頭の中で確認している。”わたし、大丈夫かな?”これは、特に社会的な場面でそういう風に不安になって確認しないと心配、という感じ。だから、鏡に自分が映れば、身だしなみとか化粧とか大丈夫かな?と不安になって確認する。”わたし、大丈夫かな?”一体何が大丈夫なのか、自分でもよくわかんない。でも、ずっと”大丈夫かな”と疑問と確認を繰り返している。

例えば、仕事などで社会的な役割がある場面でもそう。”これで大丈夫かな?”と、不安で疑問だし、”いや全然大丈夫じゃない”と思って焦るし、大丈夫じゃない状況になれば、より一層自己否定感が強まるし、大丈夫っぽい状況でも”まだまだ”と思う。”安心してはいけない”と思う。基本的に自分に対して、否定感があり、安心はできない。だから確認する。大丈夫かなと。

そうなると、大丈夫な状況でもそれを大丈夫とは受け取れない。本当かな?これでいいのかな?と疑いは晴れないのだ。そして、ネガティブと同様にこの大丈夫かな?という確認と不安は他者にも向けられていたみたい。

以前から、自分が苦手とする人の共通点として、社会的な役割に見合う責任を果たしていない人というのがあった。簡単に言えば、上司なのに仕事があまりできないとか、ルールを守らないとか、知識が少ないとか、そういう感じ。または、専門職なのに、その役割に任せられた責任を果たしていないとか。逆に、その立場じゃないの過干渉だったりする人に対しても、役割とずれた行動ということで苦手だった。つまり、私の中でその役割に見合った行動言動責任を取るということがポイントのように思われる。

それが、自分に向けば、常に”自分て大丈夫か”と、課せられた社会的役割に見合っているのか不安で疑問であるし、それに見合ってない感じの人に出会うと強い拒否感が生じてくる。そして、自分の自分に対する評価は常にダメダメなので、バカにされてるくらいが安心する。えへへとか言って、意図的にダメなところをアッピールするパターンの自分がいるなと思ってたんだけど、そういうことで説明がつく。つまり自分の自分に対する評価と、周りからの評価の均衡を保つための戦略だったんだと思う。そういうときに、予想外のところから予想以上に否定されるということは必然的に少なくなす。もともと自己否定感でいっぱいだからね。いつなんどき、どんな感じで否定されても、それにビックリすることは少ないかも。でもその逆で予想外のところで褒められたリしようもんなら、とってもビックリするよね。嬉しさとかナッシングだよね。

 

褒められたとき、困惑する理由が判明

今日、仕事で褒められる場面があった。数日前に「こういうの作って」と言われた資料の、ごく一部の数字や、そのごく一部をグラフ化したものや、「こういうの」の本当のごく一部の初歩の部分をザザザっと作ったものを、こういう感じでいいですか?と確認したのだ。それ自体に時間はそんなにかからない作業なのに、言われてから数日も経ってしまっていて、なかなかその作業に取り掛かれず、ここ数日気持ちが落ち着かない日々が続いていた。やばい!今週が終わってしまう!なんとか概要だけでも、こんな感じで大丈夫ですか?こんな方向性でちょっとだけ進めてますので、もう少しお待ちください、みたいなことを伝えようと、本当にサンプル程度にまとめたものをチラ見していただいた。そのとき「ありがとう!ほんと助かる!お願いしたことをササーっとやってくれて」と褒められたのだ。

内心、すごく困惑している自分がいた。ここ最近発覚したように、私の頭の中はいつもネガティブのオンパレードで、常に自己否定、常に自分にダメだし、自分じゃなくても何かを否定している。そんな頭の中ということが、明らかとなった。なので、このお仕事の指示をもらったときも、すぐやらなきゃ!そうでなきゃ自分ダメだろ!という感覚がおこり、でも他のことで優先するものがあり、この件に数日取り掛かれなくて、その取り掛かれない間はずっと、本件について、あーどうしよう!やばい!やらなきゃ!という焦りがどんどん。

やっと、今日手を付けて、やっとこさ、なんとか、ちょっとは進めてますという表明をしたいだけのためといっても過言ではないけど、とにかくプチ成果物をお見せして、ここまででこんな感じですとお伝えしないと!と、苦肉の策でお見せしたところ、前述のようにお褒めの言葉をいただいた。これは、日常会話の範囲で、「ありがとう」ということだと思う。それでも、誉め言葉に体が凍ると言ったら大げさだけど、思考が困惑して一時停止してしまう。

これまで、よくよく考えればこういうことはよくあった。理不尽に怒られたりすれば、さすがに頭にくるけれど、基本、バカにされてるくらいが心地いい。今回のように、自分の中で、自分最悪だ!最低だ!期待に応えられてない!と、アクセクアクセクして自己否定たっぷりでなんとかやったことに対して軽めだとしても、お褒めの言葉をいただくと、超困惑する。フリーズする。それに対して返す言葉が出てこなかった。いえいえ、くらいで返すのが精いっぱい。なんでこんなに困惑するのだろうと改めて思ったが、自分の中にある強烈な自己否定感と相反して脳が混乱してる感じがあるな。