水平線

研究と批評.

『REVOLUTION +1』(足立正生)②

暴力は国際関係においてしだいに疑わしくて確実とはいえない道具になってきたが、国内問題では、とくに革命においては、評判と魅力を獲得するにいたっている。新左翼の強烈なマルクス主義的レトリックは、毛沢東が宣言した「権力は銃身から生じる」というまったく非マルクス主義的な確信の着実な成長とぴったり符合する。たしかにマルクスは歴史における暴力の役割に気がついていたが、しかしこの役割はかれにとっては第二義的なものであった。古い社会の終焉をもたらすのは暴力ではなくて、その社会に内在するもろもろの矛盾なのだ(ハンナ・アーレント, 2000, 『暴力についてーー共和国の危機』p. 105.)。

 

暴力を否定する人でさえも、うすうす感じているように、また、実際に経験してきたように、決まりきったかのように見える状況を切断して新たに動かすのは、もとよりそれは多くの場合、不発や失敗に終わるのだが、死をはらむ暴力をめぐる出来事である。それは不幸なこと、原罪に近いことであるが、そのような状況が、国や地域によっては、あるいはむしろ、世界全体にあっては、現に成立してしまっていることは確かなことであり、われわれもまた、この世では、それに相応しい構えをとらなければならないのである(小泉義之, 2022, 「暴力革命について」pp.132-3, 鈴木創士 編, 2022, 『連合赤軍ーー革命のおわり革命のはじまり』所収.)。

 

 本来人間とは法=正義なしに放置されるのであれば、互いに殺し合う本性をもっている。しかし近代社会への進展によって人間は、自由で平等な個人として社会に参画し、法=正義の原則を自ら制定して服従する。これが民主制=市民社会である。

 だが逆に言えば、民主制の内包には多くの条件が含まれていることを意味する。すなわち〈民主制の担い手〉(小泉義之)の条件を満たさない者は、囲いの外部に排除されて〈残された者〉(小泉義之)になるのである。小泉は次のように述べている。

 

民主制=領域国家は、〈残された者〉を外延的に確定する装置によって、〈残された者〉についてのたんなる観念体系が、誰かのことを表示し、誰かについて概念化している、と信じさせる。他方、人は、自分は〈残された者〉ではない〈残り者〉であると信じ、同時に、民主制の観念体系が自分のことを表示し、自分について概念化していると信ずる。人は、自分は〈残り者〉であるが故に〈民主制の担い手〉であると信ずるのだ。そして人は、〈残された者〉に対して共通のロゴスとパトス(sensus commnis)を抱く者を同類と信ずる。こうして民主制の理念は降臨して領域国家となる(小泉義之, 2010, 『「負け組」の哲学』pp.82-3)。

 

 以上から導きだせる一つの解は、次のことである。それは、民主制と国家の関係を切断する主体は、民主制に内包された者ではないということである。国家に正義を期待できないのであれば、誰かが国家権力に対して暴力で臨まざるをえないし臨まなければならないのである。

 終盤、達也の妹は(前迫莉亜)カメラ目線で民主主義の大切さを説く。だが、三島由紀夫が語っていたように民主主義とは暗殺である(たとえば中島一夫「暗殺と民主主義」を参考にせよ)。中島も指摘するように「議会制民主主義によって保障されている『言論の自由』は常にすでに危ういもの」なのである。ここに達也(タモト清嵐)の立場を思考=志向する余地があり、戦後の平和共存路線をいかに思考する余地があるだろう。

 

 社会が、あるいは政治が加速する時代において総合的決断するための時間は多く与えられるわけではない。だからといって、独裁的あるいは英雄的解決を信じることは危機の深刻化を招きかねない。とはいえ、達也のように「銃」弾を撃ったところで「自由」が到来するわけではない。

 ラスト、達也の姿勢は言葉以前の母親の母胎=母胎回帰のようである。だが社会、政治は言葉から逃げることはできない。最終解決のない「居心地の悪さ」と付き纏うことでしか、政治は可能ではなく、成功もしない。このことは未来の政治においても変わることはないのである。

 

 

『REVOLUTION +1』(足立正生)①

ドゥルーズは、革命について歴史的反省を繰り返す知識人を罵倒していた。レーニンの秘密文書がどうの、レーニン主義の政党がどうの、前衛主義や代行主義がどうの、革命的暴力の暴走がどうの、反省したい者はいつまでもやっているがいい。しかし、銘記すべきは、いつの時代にも、革命を必要としている人間、革命なくしては自由に生きていけない人間、革命を命がけで求めている人間がいるということだ。そんな人間には、反省している暇などない。断固として、いつか無力な者になる人間の立場に立つこと、無力な者を代行する立場に立つこと、レーニンのように、遠くからではあれ、無力な者に訴えることだ(小泉義之, 『「負け組」の哲学』p.60.)

 

 政治には、どうしても「居心地の悪さ」が付き纏う。不可知な他者と言葉を持ち、それゆえ善悪についての価値判断を下す他者と共に生きるということは、自己の思い描く世界像が実現できないことを思い知るからである。

 われわれは連合赤軍日本赤軍などの新左翼東アジア反日武装戦線による一連の暴力革命的行為を歴史的事実として知っている。われわれは暴力は悪であり、市民社会に帰属する人々の同質性に基づく自由で平等な個人による民主主義的実践こそが政治を変革する唯一の方法だと信じて疑わない。

 だが民主主義は自由と平等を前提としていると同時に、「不平等」を本質的に伴うものである。すなわち民主主義的実践とは、包摂と排除の構造が本質的に内在しているのである。

 

 2022年7月8日午前11時31分、奈良市近鉄大和西大路駅北口前の路上で放たれた銃弾は「革命」とまでは言えないが、われわれの想像力の彼方へと連れて行った。だが無論、あの行動を美化するつもりは毛頭ない。それでも、あの直接行動は「何か」を変えたのである。

 事件後にメディアに飛び交った多くの言葉は「暴力は許さない」、「民主主義を守ろう」といった言説であった。聞き飽きたフレーズである。小泉義之は、次のように指摘している。

 

 たしかにウェブ上には、一部のストリートには、政治や民主主義があったかもしれない。その限りで〈一を二に割る〉ことはあったかもしれない。しかし、一度でも、公的で社会的な諸機関が割れたことがあったか。にもかかわらず、これまであれほど公共的なものや政治的なものや民主主義的なものを称揚してきた人びとが、それに愛想をつかし始めているのである。(中略)

 私自身は、現在の分極化は、必ずしも深度の深くない対立であるからこそ収拾されてしまうとも考えているが、そんなことより肝腎なことは、やはり〈一を二に割る〉ことである。デモクラシーがいまだ価値ある政治的スローガンであるとするなら、あらゆる機関や組織を現実的に割ることこそがデモクラシーの始まりであると言わなければならない。〈公共〉の一を二に割らなければならない。一が二に割れ四分五裂する場が〈公共〉であると、多に割れても一を保つ場が〈公共〉であると言ってきた人びとにこそ、現実に〈公共〉を割ってみせてもらわなければならない(小泉義之, 2013, 「巻頭号: やはり嘘つきの舌は抜かれるべきであるーーデモクラシーは一度でも現われたか」『情況 別冊思想理論第3号ーーテクノロジーテクノクラシー・デモクラシー』所収. pp.10-1)。

 

 小泉の指摘は、現在まで持続している現象である。議会制民主主義は金権政治であり、機能不全である。それでもとりわけリベラル左派は民主主義の病に取り憑かれていると言えるだろう、民主主義のオルタナティブの想像=創造ができないのである。それは「不可能性の時代」(大澤真幸)、「資本主義リアリズム」(マーク・フィッシャー)とも言い換えることも可能だろう。

 川上達也(タモト清嵐)が若い女(森山みつき)と作中で、THE BLUE HEARTSの「未来は僕等の手の中」を歌う。だが「打ちのめされる前に 僕等打ちのめしてやろう」と叫んだところで、現代資本主義は資本蓄積のために自己の身体まで資本による「実質的包摂」(マルクス)を遂行する。フーコーは次のように指摘している。

 

 経済人とは交換を行う相手などではありません。経済人とは企業体であり、ひとり企業家なのです。どこまでこれがあてはまるのかといえば、実のところ、あらゆる新自由主義型の分析は、交換相手としての経済人を自分自身にとっての企業家としての経済人にその都度置き換えようとするのです。みずからにとって自己の資本であり、みずからにとって自己の生産者であり、みずからにとって収入源という存在に。

 

 作中からも明らかであるように達也は、「失われた30年」を過ごした世代である。達也はいくつもの資格を取得している。にもかかわらず達也は、派遣社員として職を転々とする。アダム・スミスが想定したホモ・エコノミクスからゲイリー・ベッカーたちシカゴ学派による新自由主義経済への転換は、世代間格差による自己価値をも決定するかのようである。

 

 ではわれわれには、政治を変革する民主主義的実践が虚無に覆われているのであれば、直接的暴力でしか解決策を示すことはできないのだろうか。そもそもわれわれにとって「暴力」とは何なのか。革命の終わりに「革命」の始まりを問い直すことは、未来の破滅の過程において新しい事態をもたらす唯一の行為である。

 

(続く)

  

 

『PLAN75』(早川千絵)

崩壊の過程としての生を肯定すること、それは何よりも「老いてあること」或いは「老いつつあること」を肯定するに他ならない。言うまでもなく、「老い」とは可視的な、そして内在的な経験としてある不可避な崩壊の過程そのものだからである。「老い」は死への敗北の予兆などではない。「老い」は純粋化された生の過程そのものなのである。老いは生への全面的肯定そのものなのである。生への肯定は老いをも含めて肯定する優しさではなく、厳密に言えば、老いそのものを肯定する身振りなのである。と言うのも、たぶん、生とは「老いの過程」に他ならないからである(丹生谷貴志, 1996『死体は窓から投げ捨てよ』p.21.)

 

 「増えすぎた老人の皺寄せを若者が受けるような仕組みを変えて欲しい」。冒頭、若者のモノローグから始まり、若者は自ら銃で自殺する。本作は、75歳以上が自らの生死を選択できる「プラン75」という架空の制度を媒介に翻弄される人々を描いた近未来の作品である。だが、はたして本作は近未来の話で済むのだろうか。われわれは「プラン75」という制度のない社会を生きているが、生産性のない者は社会から排除させようといった無言の脅迫があるのではないか。

 かつてマルクスが想定した労働者は、工場の生産ラインで従事する労働者であった。だがフォーディズムからポスト・フォーディズムの転換は、労働の量だけではなく実存的な質を要求するようになった。つまりはフーコーが提起していた自分自身の企業家としてのホモ・エコノミクスの再定義、すなわち「人的資本家」として生存することを要求したのである。そしてポスト・フォーディズムの転換とは、資本が男女平等に作用することを意味する。ホテルの清掃員として働いていたミチ(倍賞千恵子)の同僚が勤務中に倒れてしまい、ミチを含む高齢労働者がまとめて解雇されるのは何ら不思議ではない。自らの主体性は自分自身で生産しなければならないのだ。

 

 高齢者たちは次々に「プラン75」に加入していく。なぜこれほどまでに計画的な死を望もうとするのか。生と死は、ただその瞬間に「ある」だけではないのか。計画的な「死」を実現させようとする要因とは何なのか。

 確かなことは新自由主義的な経済成長に内在する、ケアに反する実践が市民の福祉を保障することよりも優先されてきたということである。すなわちケアとは自己責任であり、社会が引き受けるものではないというメッセージである。ケア・コレクティヴは、次のように言及している。

 

コミュニティ資源の削減、人々よりも利益を優先する文化、そして、個人としての自己にのみ関心を集中させようとする社会的・政治的な景観は、民主主義を高めるためのコミュニティでのつながりを育成していくことが、これまで以上に難しくなったことを表しています。このようなケアのない世界は、共有されたアイデンティティを排除と憎悪に基づかせる、悪名高いケアしないコミュニティが成長する肥沃な土壌を生み出します。その典型例は、ミソジニストのインセルと、白人のナショナリスト集団です。それだけでなく、ケアしないコミュニティは、人間の成長を促すための社会給付ではなく、取り締まりや監視への投資に集中します。そして、ケアのなさがあまりに多くの生活領域を支配するようになり、コミュニティにおけるつながりが極端に弱くなると、ケアを支える好ましい社会基盤として、家族が登場するのはよくあることです(ケア・コレクティヴ『ケア宣言ーー相互依存の政治へ』pp.29-30.)。

 

 コミュニティの削減によるケア領域の縮減は、最終的に「家族」の支えに助けれられる。これは現実社会でも起きていることだろう。同時に家族の支えによるケアは、介護殺人という無惨な結末にも多々なる。

 だが本作が秀逸なのは、ミチをはじめ「家族」の存在が物語の後景に斥けられていることである。本作は、徹底的に家族の物語に回収されることを避けている。家族の物語にすることは社会的制度の不合理を隠蔽するのである。

 

 物語が進むにつれ市役所の「プラン75」申請窓口で働くヒロム(磯村勇斗)や死を選択した老人たちに"その日”が来る直前までサポートするコールセンタースタッフの瑤子(河合優実)の心情が徐々に変化していく。「プラン75」という制度は誰が作ったかわからない、どこに抗っていいのかわからないのだ。レヴィナスは、自己は他者との関係性を通じてのみ構築されるため、われわれは倫理的に他者のケアを強いられると論じた。またデリダは「異人」への無制限の歓待という倫理を提唱した。

 コレクティヴは「乱行的なケア」という概念を提唱している。コレクティヴは次のように言及している。

 

同様な精神で私たちもまた、乱行的にケアしなければなりません。乱行的なケアを称賛することによって、私たちは、行き当たりばったりに、あるいは無頓着にケアすることを意味しているのではありません。行き当たりばったりも無頓着も両方とも、実は孤立化したままの新自由主義的で資本主義的なケアであり、悲惨な帰結をもたらします。私たちにとって、乱行的なケアとは、最も親密な者から最も遠い者まで、ケアする関係を再定義するよう外に向かって拡散する倫理なのです。それは、もっと多くのケアを、現在の水準からすれば実験的で拡張的な方法で、実践することを意味しています。私たちは、ケアに関するニーズ提供のあまりに多くを、あまりに長い間、「市場」と「家族」に頼ってきてしまいました。私たちにいま必要なのは、ケアについての、もっと包容力のある考え方なのです(ケア・コレクティヴ『ケア宣言ーー相互依存の政治へ』p.72.)。

 

 ヒロムや瑤子は、制度の中でしか他者を見てこなかった。だがミチやヒロムの叔父に接することで大きな制度の中で失われている個人の尊厳に、生の「傷痕」に初めて気づくことができたのである。

 

 ラスト、ミチは一人で施設を抜け出す。ミチは夕日を眺めながら「林檎の木の下で」を口ずさむ。ミチは何を思うのか。社会は無言で「あなたは必要のない人間だ」と脅迫し続けることだろう。だが、日々朝日が昇り夕日が沈むように、生と死はただそこに「ある」だけだ。われわれにとって、生とは「唯の生」(立岩真也)でしかないのである。

 

 

『すずめの戸締まり』(新海誠)

国民が家父長的部族として表象されるのでもなく、また民主制とか貴族制とかいった形式が可能であるような未発達の状態にあるものとして表象されるのでもなく、そうかといってまた、有機的組織を欠いたでたらめの状態にあるものとして表象されるものでもなくて、内部的に発展した真に有機的な総体として思惟される場合には、主権は全体の人格性として存在するのであり、そして人格性はその概念に適った実在性においては君主の人格として存在するのである(ヘーゲル『法の哲学Ⅱ』中公クラシック, p.315.)。

 

 旅をする草太は扉の向こう側から訪れる災いを防ぐために、その扉を閉じ鍵をかける「閉じ師」として全国を旅する。この草太の姿からも示唆されるように、一人で全ての国民を救う(ような機能を表象する)姿は、まさに3.11以降における天皇の被災地訪問と重なり合うことだろう。 

 前作『天気の子』(2019)は、この世界=東京よりも「あなた」と「わたし」の選択によって2人の「世界」が変わる、いわゆる「セカイ系」に属する作品であった。だが本作『すずめの戸締まり』(2022)は、単なるセカイ系作品ではない。鈴芽は草太を救済する、と同時に鈴芽は「国民」も救済しなければならないんだ、と叫ぶ。実際、3.11以降における国内の空気は「否定」を許さないような「災害ファシズム」が蔓延していたと言えるだろう。そして災害による故郷喪失は、誰もが何かの救済を望んでいたであろう。

 

 物語終盤における草太からも明らかなように天皇とは何度でも生まれ変わり存続していく存在である。災害は一時的な「災害ユートピア」(レベッカ・ソルニット)を形成するだろう。だが、そのような「災害ユートピア」=市民社会は儚く、脆いものである。

 かつて津村喬は、天皇制を都市というパースペクティブにおける「差別の構造」と捉え、それはマイノリティを構造化して排除し、同時に抱え込んだものとしてみなしていた(津村喬, 1970年『われらの内なる差別』)。しかし、今日におけるPC(ポリティカル・コレクトネス)時代においては津村の差別論もPCへと回収され希薄化されていくことだろう。絓秀実は、次のように指摘している。

 

しかし、われわれの文脈で言えば、猪俣の天皇制批判を継承していたはずの津村的日常生活批判や差別論がPC(ポリティカル・コレクト)へと回収・転換され希薄化されていくにともなって、そこに込められていたはずの現代天皇制への問いも、同様に消失へと向かっているように見える。PCとは資本主義を受け入れた上での心情的な疾しさだから、資本主義や、そのなかで「構造化」されている天皇制についての批判は、当然にも後景化されるほかない(絓秀実, 2014『天皇制の隠語』)

 

 PCの邁進による「疚しい良心」に耐えられない者は、自ずと排外主義的に向かう。2011年以降の世界的ポピュリズムの勃興、本作にも度々表象されるSNS空間、その表象空間における言論の不自由は、そのことの証左である。だからこそ三島由紀夫は、言論の不自由を解消するために「文化概念としての天皇」を創出しようと努めたのだ。三島にとって「文化概念としての天皇」として言論の自由が確保されない限り差別の問題は解消されないと確信していたのである。

 ヘーゲルが『法の哲学』で指摘していたような「蓋」としての超越性≒「文化概念としての天皇」とは、本作における草太=閉じ師の役割であろう。実際、ダイジンによって草太は椅子に姿を変えられが、椅子の脚は一つ欠損して三本である。この欠損は、不能な「父」=「蓋」を象徴していると言える。

 

 ラスト、見慣れた人影が鈴芽の前から歩いてくる。草太だろう。鈴芽は「おかえり」と声をかける。たしかに草太は「存在」[Sein]しているのだろう。だがはたして草太は「実存」[Existentialismus]しているのだろうか。鈴芽が眺める坂道から、たしかに広がる海洋の彼方から幾千もの死者と生者の声が入り混じり風に乗って届くことだろう。

 

 

 

 

『草の響き』(斎藤久志)

人間を狂った生物とする考え方がある。実際、有機体が、確定的な生の方向=意味に従って、プログラムされたコースを歩んでいくとすれば、方向=意味の過剰を自然史的アプリオリとする人間は、放っておけばどちらを向いて走り出すかわからない、大変厄介な存在である。有機体が本来の意味で死を知らず、淡々と成熟し、生殖を行ない、ある時ふと生存を停止するだけであるのに対し、人間はあえて自殺することもある存在であり、また、毒キノコを例にとれば、有機体にとってそれが〈毒〉という機能的意味しかもたないのに対し、人間はその上に〈妖しい美しさ〉や〈まがまがしさ〉といった象徴的意味を塗り重ねずにはおかないのだと言えるだろう。(中略)してみると、人間はホモ・サピエンス(理性のヒト)である以前にまずホモ・デメンス(錯乱のヒト)なのだというモランの主張は、当然至極なものと言うことができる(浅田彰『構造と力ーー記号論を超えて』)。

 

 人間は過剰を抱えたまま、とりわけ象徴的意味の紐帯が緩みきったときの静態に耐えられなくなったとき、人間は一方向に走り出す。一方向への絶えざる前進とは、破局の絶え間ざる延期であり、安定の享受である。だからこそ人間は目的よりも先に、何ら絶対的基準を持たぬまま、ただより速く、より遠くまで進むことのみを念じてやまないのである。

 だが、このコードから逸脱するとき、人間は病理に陥る。それが近代社会における差異的体系の宿命だからである。それが今日、和雄(東出昌大)のような精神疾患としてあらわれているのである。

 とはいえ精神疾患の苦しみは、当事者とそれ以外の他者との間にあまりの断絶が生じている。奈緒(工藤純子)が「自分だけ傷ついているみたいな言い方しないで」と和雄に言い放つのも、医師が「こっちだって辛いんですよ」と和雄に諭すように言うのも何ら不思議ではない。彼/女たちは、どれだけ日々の中で苦しみを感受しようとも、市民社会のコードから逸脱していない、すなわちドゥルーズ的な捉え方ではなく、健常者/障害者という見方でしか社会を捉えていないからである。

 

 人は一度、鬱病パニック障害を患ったのであれば、完治することはないのかもしれない。それは抗うつ薬等で誤魔化しつつ、死ぬまで付き合わなければならない「寛解の連続」なのである。ただでさえ精神疾患者は医師と対話する時間も限られ、親密者とも意思疎通が疎外され、孤独が増大化する。残されたのは、抗うつ薬に頼るか、あるいは本作のように運動療法による「走る」ことを実践するぐらいだろう。

 ところで、「走る」ことと「言葉」は似ている。どちらも意味や目的を追い求め続けては追い越されざるをえないのだ。だからこそ終盤、和雄と奈緒との対話が、作中初めて真正面のショットで捉えられたシーンはあまりにも美しい。この瞬間にこそ抗うつ薬では解消できない、ラカンが定式化する「象徴界」の外部に張り付いたトラウマがほんの一瞬だけ言葉によって剥がれ落ちたシーンなのである。

 曇天の下、和雄は精神病棟から抜け出し裸足で走り出す。彰(Kaya)のように目の前の海に身を投げ出すのだろうか。あるいは、車の走る道路に飛び出すのだろうか。そうではないだろう。不気味な笑みを浮かべて走る和雄に希望を見出すことは「できない」。和雄が走り出した先が何処だかはわからない。だが/おそらくきっと、その先では何かが狂い、何かが正される。そして何かが動き出すのである。微かな「草の響き」を残して。

 

黄昏の水面ーー1-3-5、あるいは4-1-3の紙片

人間的な遊び=賭けにおける仮定は、〈善〉と〈悪〉に関するものであり、その遊び=賭けは、道徳性の学習である。そうした悪しき遊びのモデルは……パスカルの賭けである……神的な遊び=賭けはそれとはまったく異なっており……わたしたちにとってはもっとも理解し難く、表象=再現前化の世界において操ることのできない遊び=賭けである(ドゥルーズ『差異と反復』河出文庫)。

 

 人間は、偶然に耐えることができない。とはいえ必然に耐えれるほど慥かな存在でもない。だからこそ人間は「存在の耐えられない軽さ」から逃れるために、一つの手段として偶然と必然の間隙に確率論的な「必然性」を導入し物語を構築することで自己の存立を可能にしようとするのである。

 

 コロナ禍以降、競馬や競艇(ボートレース)の売り上げが過去最高を更新している(※1)。とりわけ競艇は競馬が基本土日開催であるのに対し、全国の会場で毎日のように開催されていることもあり、「2021年度は前年比114.1%の2兆3926億2126万1100円」(※2)と過去最高の売り上げを記録している。コロナ禍における巣篭もり需要など、誰もが思いつくような表層的な要因を指摘することは可能であるが、それだけでは不十分だろう。

 「賭け」とは一体何なのか。それは自己根拠化する社会、自己以外の規範が消失する社会において、自己が無限性の中で有限的な時間内において決断し構築した必然的な物語を他責化させることだといえる。それは、新自由主義的な自己責任時代における逃避場ともいえる。実際、競艇場ではレース開始前に「展示」というボートのモーター状態やボートのターン具合を観客が確認することのできる時間がある。この時間は、自-他の権力関係が明瞭になる瞬間である。

 

 レース毎の開始前の数十分は、誰もが格差なき平等であり一発逆転の可能性を孕んでいる(賭け金に格差が生じるのではないかと疑問が生じるかもしれないが、オッズ次第では100円が数十万になる可能性もある)。そして誰もが、自らが選択した数字の組み合わせに必然的物語を構築している。この時間はあまりに革命的な時間であり、新自由主義的ではない。

 とはいえ、当たり前だがレースに勝つ者はほんの僅かである。だが、ここで勝者/敗者という対立軸が成立するだろうか。自-他との間に何か差異があるのだろうか。こうした自己再帰的な勝/負の経験では、陰謀論的表象から抜け出せない。なぜなら超越論的な他者が不在であり、いくらでも操作可能だからである。これこそ近代以降の病であったはずである。

 

 さまざまな憶測や陰謀論が表象化される時代において、そして自己再帰的な時代においては、どこかで決断と確立を迫られる。なぜ「この数字」、「この対象」を「この今」選択したのか。ドゥルーズは、次のように言及していた。

 

理念的ゲームは、思考そのもののリアリティーである……[それは]各思考を分岐させ、「その都度」(toutes les fois)のために、「それぞれ」(chaque fois)を「一度に」(eu une fois)結びつける。というのは、すべての偶然を肯定すること、偶然を肯定の対象とすること、これをできるのは思考だけだからである(ドゥルーズ『意味の論理学』河出書房新社

 

 必然だと選択した数字の羅列が、当たったとき人間は驚愕に満ちる。これは矛盾である。なぜ、自己決断して選択した数字が当たって驚くことになるのだろうか。まさに賭け事、あるいは「賽の一振り」(マラルメ)とは、「自己」と「その瞬間」が驚愕に満ちた瞬間であることを教示してくれるのである。

 1-3-5、あるいは4-1-3か…。約4分間のレース中に響く歓声と怒声。ゴミ箱に山積みになった外れ舟券は、世界が偶然性でしか提示できないことのあらわれである。そして外れ舟券の数だけ、人間は明日の世界を引き受けるのである。

 

(※1)https://number.bunshun.jp/articles/-/853356#:~:text=2021年度、前年度比,を記録したボートレース%E3%80%82 

(※2)https://www.nishinippon.co.jp/nsp/item/n/900994/#:~:text=ボートレース振興会は,年度比増だった%E3%80%82 

 

 

 

『三度目の、正直』(野原位)

幾千もの声をもつ多様なものの全体のためのただひとつの同じ声、すべての水滴のためのただひとつの同じ《大洋》、すべての存在者のための《存在》のただひとつのどよめき。それぞれの存在者のために、それぞれの水滴のために、そしてそれぞれの声のなかで、過剰の状態に、すなわちそれらを置き換えかつ偽装し、そしておのれの可動的な尖端の上で回りながら、それらを還帰させる差異に達したのであれば(ジル・ドゥルーズ, 『差異と反復(下)』河出文庫, p.351)。

 

 水平線から到来する無数の波の群れが交わす緊迫した、とはいえ希望も絶望もない力ないし可能態の「結果」としての海洋の光景を、そして海洋と無数の波との差異から生起する「永劫回帰」の交換を端緒とすべきである。ここから物語は始まるのである。

『ハッピーアワー』(2015)は、純(川村りら)を乗せた船が水平線の彼方を航海するであろう光景で終幕した。来たるべき水平線の彼方=未来は、7年後の『三度目の、正直』(2022)で結実したかのようである。

 

 われわれの生の過程は、崩壊の過程である。死を生の「外部」に据えることは平凡なニヒリストに過ぎない。だからこそ、あるいはしかし、われわれは生を全面的に肯定しなければならない。つまりは、崩壊の過程として老い果てる生を内在的な規則性として出発することが最低限の条件であることを確認しなければならないのである。なるほど、われわれは何のために生きるのかと問うのであれば、死ぬために生きるのである、と。

 とはいえ人間は、自己それ自体、「死の先駆」(ハイデガー)を目的に生きることに耐え難いことだろう。いや、自己のために生きることは変わることはないのかもしれない。だがしかし、死へ至る過程において、何のために自己のために生きるのか。レヴィナスは、次のように言及している。

 

「真の生活が欠けている」。しかし、私たちは世界に存在する。形而上学は、真の人生の不在のうちで出現して維持される。形而上学は、「他所」、「別の仕方」、「他者」に向かう(イマニュエル・レヴィナス, 『全体性と無限』岩波文庫, p.30.)。

 

 自己にとって真の人生とは何なのか。そのように問うとき、形而上学的欲望に駆動されて、真理を探究する。だが、そのような真理は自己の人生の中には存在しない。なぜなら、「真の人生とは何か」という問い自体が、自己のための人生から逃走したいという欲望の表出だからである。では、われわれは自己ではない、いかなる他者に真の人生を探求するのだろうか。

 人類の未来に関して、人類の子どもだけが未来における絶対的希望であるという議論が蔓延している。子どもとは、無条件に「歓待すべき他者」(デリダ)なのである、と。そうした「生殖未来主義」(エーデルマン)は未来と子どもを同一視している、そもそも未来=子どもは存在していないにもかかわらず、である。

 こうした「生殖未来主義」的な価値観は、月島春(川村りら)にも受け継がれている。さらにここで重要なのは春には、血縁の繋がった子どもがいないということである(パートナーの宗一朗の娘・蘭はいるが、カナダ留学のため出ていく)。だからこそ生き倒れた少年を見つけ、家まで連れて帰り「生人」(この名前は、後に春が流産した子どもに命名するはずであった名前であることが判明する)と名づけるのである。物語途中で、生人(本名は明であることが判明する)の実父が逢いに来ても春は、「生人」であることを譲らない。

 春にせよ実父にせよ、生人=明という対象にだけ関係性を求めている。しかし、忘れてはならないのは生人=明には現前する「人間」それ自体が存在しているということである。家族であれ、自己と他者の一方的で非対称的な関係は、縺れ合いながら複数の人間から生成される人類が現前するのではないのか。

 

 物語終盤、朝帰りになってしまった春と生人は日の出を見ようと電車の中で会話している。しかし、降車間際にマフラーを取りに戻った春は電車から降り損ね、先に降車した生人と離れ離れになる(このショットは『ハッピーアワー』のオマージュであろう)。そして、この日から生人との連絡は絶たれる。

 生人は暗闇に覆われた海にやってくる。雲に覆われた水平線をゆっくり見つめ、生人は目を閉じる。この瞬間に「三度目の、正直」というタイトルが回収されることだろう。「三度目」とは、父、母を超過した幾千なる自律的な子どもの決断である。「三度目の、正直」における「、」には、重層的な時間経過と幾度の留保、中断があることだろう。

 生人は、ゆっくりと瞼を開ける。朝日は射し込むだろうか。いや、きっと射し込むことだろう。タイトルの「、」の記号は消失し、同時に何かが始まるのである。この「何か」は決してわからない。生人が見つめる水平線の先=未来は、希望も絶望もない、しかし晴れやかな光景がただそこに「ある」のである。