ちょっと会社を休んで分かったこと。
月曜日ですね。
もっとも会社に行きたくない、という人が多い時間帯が日曜の夜から日曜の朝の時間。なんなら今すぐ夢の国に飛び込みたいよ、そんな朝にこんな記事を。

基本的に25年の人生、学校に行くのも会社に行くのも楽しみで仕方ないタイプの人間な僕ですが、体調を崩したことをきっかけに少しお休みを頂くことにしました。
休んでいる理由は、色々あるのですが、結局自分の気持ちの問題(例えば不満ならばどう捉えるかとか)だと思っていますが、悶々とする中で体がダウンしてしまったのは紛れも無い事実なので、これを機に今後について考える時間というのをとらせて貰ったという運びになっています。
今週6月末を一旦期限として、会社を離れるのか、もう一度頑張ってみるのか等、何らかの結論を出して説明しなければいけません。
それはさておき、僕の生きている上でのポリシーは、「目の前の人に対して誠実に接すること」です。
近頃、仕事上では周りから言ってもらうことの多い自分らしさを忘れていたことも多い気がするけれど、この2年程、社内でも自分から積極的に多くの人と関わりを持ってコミュニケーションをとる中で、目の前の人に誠実に接するということだけは忘れずに接してきたことが報われたな、という気がする。
というのも、想像よりも(というより考えてもなかった)たくさんの声をもらったということです。
心配ですとか、元気?とか相談乗るよとかいう声をメッセージなりメールなり、でたくさんかけて貰えたことに驚いています。
ただ、ここで困ったことは、全員の相談乗るよ、に応え続けていると結局先々週くらいまでの状態の共有になってしまって同じ話になっちゃうから進めないという問題です。
もちろんそれを振り返らなければいけないけれども、一番したいことは「未来」を考えることです。
だから、たくさんの人の視点を得るという点ではいいのかも知れないけれど、全員と話す、ましてや社内の人と何人も同じ話をするのは
どうしてもせっかくの時間が無駄になってしまうように思います。
優しさを踏み滲むようようでここらが痛いのですが、そもそも悩みとかそういった自分の内面の部分を人に相談するということが最も苦手であった僕にとっては本当に限られた、この人になら今回ばかりは話を聞いてもらおう、というので十分すぎる状態なのです。
だから、それ以外の人からの相談はお断りするほかありません。ごめんなさい。
ただ、こうやって休んでみて、心配の声をもらって良かったことは、自分が好きだなという人には好かれてたこと(最低でも存在を認め、気にかけてもらえていたこと)が分かったということです。
出来るだけ目の前にいる人、関わる人のことは好きになる努力をして生きてきた僕にとっては思ってもみない幸せです。
だから、これからどういう形にことが運ぶかはまだ分かりませんが、これが分かっただけでも良かったのかなと思えてきました。
こう休んでいると、周りからどう思われているか凄く気になることもありますが(もちろんよく思ってない人もいるはず)、思い切って少し離れてみて、自分が客観的にどういう人だと見られているのかを感じることは良いのかも知れません。
そういう意味で、ぜひ思い詰める前に「どうせダメだ」とかなるならなんかやってみるのもアリかもですよ。
ちょっとでも月曜日、会社行きたくない!な人、行きたいのに体が行けない!な人らの共感が得られればこれに勝る喜びはありません。
「いのち」「自殺」について考えてみた。想像してみた。
あなたは自殺しないと言い切れるだろうか?
今まで、僕は言い切れてた。
「自殺するくらいならその覚悟で命賭けて事をなせばいいやん。」と思っていた。
もちろん今も自分のマインドセットはそうだけど、そう簡単には言えない。
中学時代の同級生が亡くなりました。
詳細はわからないけれど、噂に聞くと、自殺だったようだ。
学生時代の同級生を失ったのは僕の知る限りこれで3人目。
うち2人はクラスメイトだった。そのどちらも自殺らしく…とても悲しいことだ。
日本の自殺率の高さを感覚的に知らされている。
特に先週失った友人は、在学中は仲がよく、卒業してからこそ成人式以来一度も会っていないが、中学3年時のメンバーについては思い入れが強く、本当に悲しい。
いわゆるやんちゃなタイプでガキ大将系のうちの一人だったが、おそらくとても繊細な人だっただけに、原因がなんであれ、自ら命を絶ってしまったことが残念でならない。
そして、そんな彼のことを僕も周りもおそらく知っていて、遠い東京で何も力になれなかったことがとても辛い。
なんなら、ちょうど1年前に同窓会を主催したけれど、そこでなんとか参加させて少しでも関われなかったことを後悔している。
こんな時、友人の葬式にパッと駆けつけられない自分にも嫌気が差した。
後悔先に立たず、だから、僕はこの悲しみをいつまでも引きずらずに、前に進まなければならないが、こうやって思うことは、自殺ほど「もったいない」ことはない。
なんとか減らしたい、ということだ。
きっと人間なんて、繊細だけれど単純で、一人誰か辛い時に寄り添ってくれれば、励ましなんかしなくても話だけでも聞いてくれれば、今日を明日を生き抜けるはずなんだ。
だけれども、そうはいかず、明日を生きることをやめることを選択してしまう人がいる、そしてその人数が日本は世界一だというのは、悲しすぎる現状だ。
つらいことがあって「死にたい〜」とか言ったりSNSでつぶやいてみたりはよくあることかもしれないが、実際にそう至る人はほとんどいないだろう。
たぶん、自殺はさすがにしないわと思っている人は多いのではないか。
でも、もしかしたら、自分の命を絶たずとも、もしかしたら他人の命を奪ってしまうかもしれない。そんなことになったら、おそらく、精神的につらく、生きてはいても、心は「死んでいる」状態だ。
小さい頃から数年おきに人の不幸ごとに遭遇することがあり、都度悲しい思いをしたので、僕は「死ね」という言葉が好きではない。だから絶対言わないように心がけてるし、簡単には死ねとか言う人があまり得意でない。
だから保育園落ちた死ねとかも本当に死ねとまでは思っていなくても、言えちゃう人の気持ちはよくわからない。ただ、身近であまりないのだろうと思う。
自分は本当に自ら命を絶つことがないだろうか?
必死で考えた。色んな場面を想像しまくった。
あるかもしれない、と思った。
結婚し、子どもが生まれ、家族で仲良く暮らす幸せ絶頂の時に、家族が何者かに殺されたら、自分たちの両親までいなくなり、僕だけ取り残されたら…。
そんなことを想像したら、おそらく僕は自分を殺してしまう気がする。
想像力を働かせると、自殺する人を責めたりなんかできないなと思った。
悲しさをなんとか吐き出したくて筆をとり、何を言いたいか分からなくなりつつあるが、
僕は、この命を失えば楽になれるんじゃないか見たいな、まるでゲームをリセットするかのような状況をなんとかしたいし、死にたくなってからなんとかする、じゃなくて、そんな気持ちにならないためにはどうしたらいいか、ということをこれから先の人生の中でやって生きたい。
身近にいる人が辛い時には寄り添いたいし、真剣に話を聞きたい。
困った人の顔を笑顔に変えたいし、正義感に溢れるとかではなく、本当にそうありたい。
地球上全員のは無理だけど、少しでも多くの身近な人が、明日も楽しみになるような存在になりたいと思う。
命は大切。この世に生まれたんだから、なんとか自分の生まれた意味を見つけて、生き抜きたいし、生き抜いて欲しい。
あなたは大切な人間だよ、欠けてしまってはならないよ、と多くの人に伝えたい。
散歩 学芸大〜駒沢公園
大好きな街歩き。
せっかくならこれを題材に記事を書いていこう。
なんで今まで思いつかなかったのか…自分でも驚いてしまう。
福岡から上京して14ヶ月。
たくさんの場所を街歩きした。
勤めている会社の社長も地方出身。
東京にきたならここは行っておけ、という関東の場所をいくつかレコメンドしてもらっているのだけれども、その中でも
都内で行くべきだと言われていた駒沢公園に行ってきた。
半年ほど前から言われていながらなかなか行けず、やっと行けた〜!という一つの達成感に満ちたのだが、散歩してみてすごく気持ち良く、さらに充足感を味わった。
散歩のルートは
東急東横線 学芸大駅 をスタートして
↓
↓
という感じで延べ4.5kmほど。
駅前の商店街をずんと抜けて、都道416号線を西に進む。
環七通りを越えて、柿の木坂を過ぎてしばらくすると駒沢公園に到着。
途中、柿の木坂のあたりはとても好きだった。
都心まで20分足らずで出てしまえる場所とは思えないくらい、落ち着いていて、でもそれでいて街全体としてどっしりしている雰囲気を存分に醸し出している。
パン屋さんやパティスリーも道路を挟んで何軒もあり、どのお店もとてもオシャレでした。
肝心の駒沢公園も凄く広く、たくさんの人が散歩したり、走ったりしていた。
公園のど真ん中にはオリンピック記念塔が建っていて、その周りの大きな広場では、子どもたちのリトミック教室みたいなのをやっていたり、自転車の練習やバスケの練習をしていたり、それぞれやりたいことを楽しんでいます。
基本的に木々で覆われながらも、いくつも人工の競技場がある、それでいて、凄く日常に溶け込んでいる感じがなんとも言えず、居心地がいいんです。
一周歩いてみて、凄く歩きがいがあるので、通いがいがある。
今回はほんの一部しかみられなかったけれど、
公園もそうだけれど、公園の周りがまた素敵だとのこと。オシャレなカフェがたくさんあり、公園内の専用コースでなく、外の周りもいい散歩コースとなっているようです。
次はそちらも歩いてみたい!また来ます。
本当に「募金」でいいのか?と同世代に問いたい。
渋谷駅からちょっと歩くだけで、熊本地震の募金のために立って声を出している人たちをたくさん見かける。
一箇所にだいたい5人前後、多いところで10人近くが並んで「お願いします!」と募っている。頑張ってるな、協力したいなと思う一方で、なんだろう、うーんと思う自分がいる。
募金活動をしている人たちを見るといつも思う感情があって、今日はいつもより少しだけその感情について考えてみた。
少し前までは、募金活動を率先してやっている人たちは皆懸命で凄いな、尊いな、と漠然と感じていたのだけれど、東北の震災の後からこの凄くムズムズする感情を抱き始めた。
もちろん9割以上の方は必死に被災地の大変さを訴えながら、頭を下げながらやっているし、その行動は尊いと今も思う。
ある時、震災の話題も少し落ち着いてきたころ、福岡の中心・天神で募金を呼びかけていたあるグループを見てから募金活動に対して批判的になってしまった時期があった。
彼らは10以上の大所帯で呼びかけていたが、実際に声を出していたのは3人ほど、
残りは、フラフラしながら、談笑している。
あろうことか、彼らは自分が通っている大学のボランティアサークルのメンバーだった。
これほどショックな光景があろうか。怒りがこみ上げたのは言うまでもない。
それよりも恥ずかしさでいっぱいだったし、学校へ通告する気も起きなかった。
きっと彼らは就活で役に立ちそう、とかそういう軽い気持ちでやっているんだろうと思うと凄く悲しい気持ちになった。
それまでの僕は、募金活動を見かけたら、極力持ち合わせている小銭程度は入れるようにしていたが、震災を機に、いつも募金箱にお金を入れていたらキリがないなということでいつの間にか目をそらすようになっていた。
東北震災直後の天神といえば、本当に100m間隔で誰かが募金活動をして、叫んでいるようなイメージだった。
別の場所で入れたけど、この目の前の彼らを素通りするのがなんとなく気まずいような気がしたし、そういう話を誰かとして同じように感じている人もいた。
今回の熊本地震では、被害の大きさがわかってきた直後からかなり速いスピードで、ヤフーを始め、多くネット上での募金を集める場所が設置されたイメージがある。
今日現在たくさんの募金が集まっていることが発表されているが、このような募金が短期間に大量に集まったのは、インターネットの恩恵だろう。
今日はたまたまゆっくりできるランチの場所を探して、渋谷駅の周りをちょうど一周したけれど、
募金活動をしていたの人たちを10組弱見かけたから、5人×10で少なくとも50人は募金を呼びかけていただろう。都内で考えたらもっとかなりの数がいそうだ。
さて、僕が抱くこのモヤモヤは、本当街頭で募金を呼びかける必要があるのだろうか、という問いであり、必ずしも絶対必要だとは思えないが、それに代わるいい案があるわけでもない、という矛盾した感情だ。
呼びかけをしていた人のほとんどは学生。
大きな被害を受けた熊本、大分のために何かしたいけれどわからない、とかとりあえずすぐ出来る募金をと始めた人も少なくないのではと思う。
ただ、1日立って通行者に呼びかけてどれくらい集まるのだろうか。
募金はネットでたくさん集まるのだから、役割を分担してもいいのではないか。
それより、一箇所に2,3人ならまだしも、同じ場所に7人も8人も立ったとしても入れるのは一つの箱なんだから、もっと工夫のしようがあるのではないか。
若者が10人もいればかなりのエネルギーがあるのだから、もっと別の方法でお金を集めれば、もっとたくさんの援助ができるのではないかと、どうしても考えてしまう。
同じ募金をするにしても、あまりにベクトルが募金を入れてしまう人にしか向いていない(あまりにもお願いします感が強い)印象を受けるグループもいる。
一方、渋谷エリアを一周して一組面白いグループに出会えた。
男5人で浴衣を着て、刀を腰に差して侍的な格好で街を練り歩き、入れてくれた人には立ち止まって全員でドスの効いた声で「ありがとうございますぅ!!」というもの。
特に外国人はこぞって面白がり、子供達もたくさんいれて、たった数メートル歩く間に何度もお礼をいう羽目になっていた光景だ。
こういうグループは見る側もなんか面白くて思わず笑ってしまうし、お金をいれた側もハッピー、たくさんの人があげた写真がSNSで拡散されて話題になって人が集まりいれてもらえる…。
多くの団体がくまモンの絵を描いたプレートを始め、熊本をアピールしている一方、かれらは募金箱にちょっと「熊本地震の募金」というようなことを書いているだけで、大々的に地震の募金であることをアピールはしていないのだ。
(確かに、今募金箱を持っているんだからおそらく地震の募金だとは、日本人でなくても検討がつく)
凄く差別化されていて、感銘を受けた。
どうしても、「大変です」という空気をどのグループもまといながら、街の至る所でやっていたら空気としても伝播するし、通行者も日本人の特性上その近くでは顔を俯きつつ通り過ぎるから、いい雰囲気とは言い難い。
ちょっと工夫をして、エネルギーを放つベクトルを変えるだけで、もっと大きく周りを動かせるんじゃないかと強く感じた昼だった。
どうせなら元気に仕掛ける側も仕掛けられる側も楽しくなるように活動したい。
面白いアイデアを持っている人がいたら話を聞きたいし、一緒にやりたい。
続く
「サイレントマジョリティ」
欅坂46というグループが凄く話題になっているらしくて、
その話題の彼女達のデビュー曲を聴いてみた。
タイトルは「サイレントマジョリティ」。
聴いてみて、秋元康氏はひょっとすると思想家なのではないかと感じた。
AKB48というと、凄く売れて有名な曲は何曲か知っているし、
割とポップで明るく、カラオケで楽しく歌って盛り上がる感じの曲が多いイメージだったけれど、
このサイレントマジョリティは無意識に歌詞に耳がいってしまって、それでいて心に刺さる歌詞であった。
「この世界は群れていても始まらない
Yesでいいのか
一歩踏み出しにくい今の日本の世の中に疑問を投げかける曲だ。
(そんな説明でまとめてしまってはいけないのだが…)
この歌詞を曲にし、
10代20代の若いアイドルグループが歌うということは、凄くインパクトの大きいことだと思う。
単に女の子達を集めて歌い踊らせ、一連のグループを拡大し金を儲けようとするだけではない、秋元氏の壮大なイメージの一片をこの曲で観た気がした。
"国民的"アイドルと呼ばれるほど、幅広い年代が聴く曲を、メッセージとしてアイドルグループに乗せて伝えているのは凄いと思うし、悪い意味でなく恐ろしいなと感じた。
そしてこの曲は何故話題を呼んでいるのか。これを聴いている他の人たちは何を感じているのか。
…うまく言葉にならないけれど。もう一回聴いてみよう。
なぜ世界のエリート達はリベラルアーツを学ぶのか?
勤めている会社のオフィスの一角が本のスペースになっていて、その中でも社長が持ってきた本がずらっとたくさん置いてある場所が一部ある。
ソファとかに座って好きに読んでいいのだけれど、昨日増えていた雑誌を一冊この週末に読みたいなと思って拝借してきた。
なぜか5冊くらい積んであって、なぜか2014年のモノと少し古いのだけれど、タイトルに惹かれて。
学生時代から凄く興味のあった「リベラルアーツ」が取り上げられている。
リベラルアーツはよく「教養」と訳されることもあるが、すぐに生活や仕事では役に立たないけれど、長く生きていく上で重要な知識や素養のことを指す場合が多い。
「学ぶ力」と表現されることもある。
時代の進むスピードが速くなり、
新しい知識や技術の陳腐化・コモディティ化のスピードも速くなった現代、そしてこれからの新しい時代に必要なのは、たくさんの知識を持っていることではなく、時代に合わせて知識をバージョンアップさせていくことが大切。
そのためには常に学び続ける必要があり、
有機的に様々なことを関連付けて考える、学び続けることができるためには教養が必須だ、というのが日本で注目されている理由だ。
秋田の国際教養大学の誕生などは大きく話題を呼んだ。
まだ少ししか読んでいないけれど、既になるほど!の連続。
本場のリベラルアーツが学びたくてアメリカ留学を目指したこともあったけど、叶わなかった。というよりそこまで努力をしなかった。
ただ、留学なんてしなくても日本でも学べる。そして、学生でなくとも学べる。
冒頭のAT・カーニー日本代表である岸田氏が述べている「ストリート・リベラルアーツ」からまずは始めようじゃないか。
それはつまり読書。
リベラルアーツ = Learn how to learn
全然、教養が足りない。もっと色んな世界が知りたい。誰かが言っていた、「読書は旅」だと。海を渡らずとも、時間を超えずとも歴史と世界を知ることができるからだろう。
文学や歴史についてはほとんど読まずに来てしまった。マンガもほとんど読んでこなかったから、読もう。
もっと世界で会話ができるようになるためには知らないといけないことが山ほどある。
日本人として、世界で会話できるために、
今日から"ストリート"リベラルアーツを始めよう。
震災…一番の支援とは何だろうか?
一番の支援は何だろうか。