悲しみもそのままで。
『君の名前で僕を呼んで』観ました。
素晴らしかった。何が特にってそれはもう主人公エリオの父親が素晴らしい(母親も素晴らしかった)
恋をして、その恋が去って悲しむ息子に
“立ち直りなさい”ではなく、“そのままでいなさい。痛みを葬るな、その悲しみを押し殺すな。そうでないと喜びも同時に死んでしまうから”って。
これは恋愛に限らず、けっこうみんな見誤りがちなとこだと思った。
喜びだけを未来に持っていきたい。
ハッピーだって笑うことのほうが素晴らしい。
確かにそうだけど、悲しみが心を削り取るんじゃなくて、その悲しみを心から必死に掻き出そうとするから心は擦り減っていく。
ありのままでいいんだよ、と。
これを多感で複雑な思春期に言ってくれる父親素晴らしくないですか?
エリオとオリヴァーの恋より、このお父さんに私はだいぶときめいてしまった。
80年代の北イタリア。
映像も、美しかった。夏と、夏の終わりの切なさ。どこかスタンド・バイ・ミーと同じノスタルジーを感じました。
スタンド・バイ・ミーは少年時代のその時でしか経験できないだろう友情を描いてあったけど、君の〜はその恋愛バージョン、というか。
しかしまあ、切なさや“終わり”はどうしてこうも美しく見えてしまうんだろう。
失恋ソングが流行るのと同じことなのかな?
でもどんなに美しくてもやっぱり私は、切なさよりどんなに途中しんどくても、ひたすらハッピーな結末を望んでしまう。
甘ちゃんなのでね。
続編予定あるんだね、この映画。
結末はハッピーかい??
母と娘とおっさんずラブ
母とおっさんずラブを観ようと思ったとき、母は差別のない人だからそこの心配はなかったけど、きっと深い感想は持たず世の中にはそこを問題にしたがる人も多くいて傷ついている人もいる事にまでは思考は至らないだろうなと思っていました。
私は少しそこを語り合いたい気持ちがあったのが正直なところだったけど、一緒に楽しんでくれたらもうそれで十分かなって語り合いは諦めてました。
思考やルールがある程度統一されて均衡や平和を保っている田舎を出て10年以上、たくさんの人、色とりどりの思考に触れて知ってその中で自分はどう思うか、誰の言葉を借りなくてもそれを少しずつでも言えるようになって、年齢も大人と言われるものになって、なんか。
なんか多分私は少し母を追い越した気になってて、色々な社会問題に関して母より私は崇高な考えを持っていると思い込んでました。
崇高とか言ってるその時点でガキなんだけど(笑)
Twitterでつぶやいた通り、おっさんずラブをイッキ見したあと、少しも差別の気持ちはないのか問うた私に母は、何が悪くて何が良いかではなく『自分とまったく同じ人はどこにもいない、それだけのことでしょ』と言いました。
母はこんなに狭い田舎で、情報や捉え方だってテレビのコメンテーターが言ってたことがそのまま浸透するような田舎で、しっかりとブレない自分の答えを持っていて、それを静かに言葉にしました。母を見くびって、なんならどこか見下していた自分が恥ずかしい。だいぶ恥ずかしい。
おっさんずラブも、差別のない人だとは知っていたから楽しんでくれる確信はあったけど、それはエンターテインメントとして楽しんでくれるだろうくらいの気持ちでした。でも違って、静かに察して静かに理解していて、春田の戸惑いも牧の思い遣りも部長や武川さんの強さも私が何回か観てちょっとずつ受け取ったものをたった一度の視聴で全部受け取っていました。
驚いたのが私が初見時苛立った春田の流され優柔不断さを母も感じているだろうと『このハッキリ断れない感じ腹立つでしょ!?(笑)』って口挟んだ時『違うよこれは。追いつかなくて当然だよ。』って。
なんか、めっちゃ悔しかった(笑)
解ってるし!でも初見は気づかないかと思って敢えて代弁しようとしただけだし!って(笑)くそう。
そんな母に誰に一番感情移入した?ってきいたら『けいくん』と。意外。
『へぇ、春田?』
『春田じゃない、けいくん』
『違うよ。あの相手を思って身を引くのがいじらしくて』
『…それ牧な。』
混ざってた(笑)
母は時々冷静で時々天然です。
でも母も武川さんの顔がドドドストライクらしい。血かよ。そこは。
で、部長がかっこよすぎる、蝶子さんの理解が深い、ちずとマロがいい子、牧母、牧父、春田母の気持ちや葛藤も理解できる、そして極めつけに『誰も憎まなくていいね、この話は』って。
……知ってるもぉぉぉん!!!(悔)
私のほうが先に知ってたもぉぉぉん!!!(ガキ)
あー勝てない勝てない。
2018年最後の日、私は今日もおっさんずラブにバラエティに富んだカラフルな感情をもらって楽しく息をしています。ありがとう!
母は初めての視聴から24時間経っていないけど、既に4、5回は『また見たい』と言ってます。
いつでも観れるように、円盤プレゼントしよ。