「聲の形」この世界で生きていく ※ネタバレ有り

 だいぶ前に原作既読の状態で映画「聲の形」を観に行ったので感想。

 小学生時代、石田は耳の聞こえない転校生の西宮にちょっかいを出し、ほかのクラスメートも一緒になって彼女をいじめるようになる。いじめが問題になるとクラスメートはすさまじい掌返しで責任を石田一人に押し付ける。今度は石田がいじめられるようになり、西宮は別の学校へ移ってしまう。人間不信となった石田は西宮をいじめたという醜悪な過去を持つ自分を恥じて、世界の声に耳を塞ぐようになる。自分は周りの人間から嫌われている、蔑まれていると思い込むようになるのだ。彼は手話を覚え西宮に謝ってから自ら命を絶とうとする。

 西宮は自分の障害を受け入れられず、自分の障害のせいで両親が離婚したこと、結絃が男のようにふるまって西宮のことばかり気にして学校に行かなくなったこと、石田のクラスに来たことで石田の周りの人間関係を破壊してしまったことなど、障害のせいで起こった事を自分のせいだと思い、死ぬべき理由として捉えている。石田と出会うずっと前から彼女には自殺願望があった。原作では彼女が、自分に障害が無い「ifの世界」を夢に見るシーンがある。(ここは映画でもちゃんとやったほうがいいと思った。)彼女が真に望んでいた光景だ。そこでは母親を捨てなかった父親がいて、髪を切らなかった結絃がいて、石田達クラスメートと仲良くしている自分がいる。

 

石田と西宮は性格も立場も異なるが、「自分を否定し世界を拒絶する」という点において対になる存在である。石田は西宮の生活を破壊したことをずっと悔んでいて自殺しようとするが、西宮に「またね」という手話をされて、自殺はとりあえず先延ばしになる。西宮は再び石田の人間関係を壊したと思って自殺を図るが、間一髪のところで石田に助けられる。彼に命懸けで命を繋がれた西宮はこの世界で生きること、前を向くことを決める。石田も西宮を助けようとするシーンで本当の決意ができたのかなと思う。西宮の苦しみを知って、西宮が自分には必要だと伝える、そして「生きるのを手伝ってほしい」につながる。

この映画での結末はただ二人が生きることを決意する、ただそれだけなんですよね。石田は耳を塞いでいた手をそっと外して、世界の声を聞く。そこにあるのは別に素晴らしい世界でもなんでもない。サイコパス川井や、小学校時代の担任の武内、島田や、その子分的な存在である広瀬が順風満帆に暮らしてる世界。石田周りの状況はむしろひどくなってる。結絃による投稿で変人扱いされてるし、更に川井にイジメの事実を暴露され飛び降りたと思われてる。「よく学校来れるよなあ」という声も耳に飛び込んでくる。(映画でもあったと思うけどちょっとわかりにくかったような。)でも、周りのすべての人間が自分を忌み嫌っているという、石田の思い込んでいたほどの邪悪な世界ではない、ありのままの光景。それを見つめるようになった。これは別にいじめっ子の救済なんかではないと思います。消えない過去や障害という重い荷物を背負って、それでもお互いのためにも生きていこうとする、その決意が美しいと思いました。

この作品の恋愛要素の存在意義はなんなのかについては自分もずっと考えてました。それは西宮の幸せの可能性なのかなと。

前述の通り石田、そして西宮は別に幸せになったわけじゃない。ただ白紙の未来があるだけ。でも、西宮がこの先石田にアタックして両想いになり穏やかな未来を歩めるかもしれないという可能性を残したのではないかなと思いました。石田にとっては西宮と生きていくということが必ずしも穏やかな幸せじゃないとは思います。仮にまた西宮が告白してそれが届いても、西宮と付き合うのは西宮にとっていいことなのか、西宮は幸せになれるのか、ずっと悩むことになると思う。ファンブックにも「30歳になっても過去の呪縛は残る」みたいなことが書いてあったから、西宮以外が相手でも悩みそうだけど、西宮相手ならなおさら葛藤しそうだよね。

映画は石田の再生という意味でまとまってたけど、西宮もまた同様に前を向けたんだということがちょっとわかりにくかったんじゃないかなと思う。そこが少し惜しかったけど、いい映画だったと思います。音楽も作画も素晴らしかった。