ワイドショーのようなTwitterの世界
Twitterは地獄だ。
毎日毎日、新しい情報が常に提供され流れ続ける。それは拡散され、叩かれ、訳知り顔で語られ、消費されていく。
Twitter上では誰もが専門家であり評論家だ。誰が何を書いたところで所詮それはつぶやきでしかない。当たり前だ。それがTwitterなのだから。
例えそれが的はずれであっても間違っていたとしても、そんなことはつゆ知らず、新たな情報に押し流され忘れ去られていく。
まるでテレビのワイドショーそのものだ。そんな不愉快なテレビ番組が嫌いでネットに入り浸っていたはずなのに、そこはテレビの世界と何ら変わりはなかった。テレビで見るだけだった出演者陣になろうと思えばなれること以外は。
楽しくて仕方ないのだろう。なんだって誰もがワイドショーの席に座る専門家のような立ち位置へ行けるのだから。そこに座って何か喋ろうとそれに何の責任も求められない。
そうして今日も新たな矛先となるニュースが舞い降りる。Twitterのトレンド欄は怒りに身を任せたツイートで溢れ、立派なサンドバッグとなり、叩かれていく。
抜け出さなければ。
こんな狂気のようなTwitterという世界から抜け出さなければ。
そうしないと、自分は、自分が嫌いだったワイドショーという世界、そしてそれを楽しみ喜んで視聴する最低な大人になってしまう。
あの世界にいる人々は誰もが自分はまともであると信じ込んでいる。自分はそれが恐ろしくてたまらない。
地獄のようなTwitter。地獄のような人々。狂気に溢れたネットの世界から抜け出したい。
引きこもりニートを脱出できたとして、その後どうするの?
今、引きこもりニートとして何もせず過ごしているのだけれど、そんなゴミクズでも時々引きこもりニートから脱出したいという気持ちにはなる。
いつまでも続けられる物ではないことは、人の気も知らず罵声を浴びせかけるようなカウンセラーと呼ばれている自分にとっては敵でしかない存在から言われなくとも、当然自覚はしているのだ。
だが、引きこもりニートを脱出できたとして、その先どうするのか。
もし、万が一、今の自分に引きこもりニートを脱出できる手段があったとして、それを行い脱出できたとして、それが今までの過去を帳消しにするものではない。
小さい頃から受け続けてきた心の傷も、希死念慮も、無力感も、全てそのまま。
リセットされるわけでもないのに、苦しみながら生きるための行動をする理由とは?
もしかしたら、引きこもりニートを脱出する際にその悩みは解消される可能性があるかもしれない。でも自分はそれを到底信じることができない。
死ぬことが一番の目標として小学生の頃からただ流されて生き続けてきた生き方が全く正反対に変わるような出来事があるとでも言うのだろうか。
自分は社会復帰できる気がしない。社会復帰してもその先には何もない。自殺しか見えないし、見ることができない。それ以外何も考えることはできない。
どうせ誰も分かってなどくれない。自己責任と努力不足と甘えという単語で自分の思想は全て否定することができるからだ。
だから自分は諦めるしかない。諦めという方法しかない。諦めて自殺する日まで無意味に過ごして、こうしてまた早朝に吐瀉物のような文章を汚物入れのようなブログにぶちまけようとしている。
何もかもが違う。全て無かったことにしたい。なぜ生まれてきてしまったの?