批評のジェノサイズ サブカルチャー最終審判感想

本当は軽音部!のレヴューでもやろうかなと思ったわけですが、

なんかいろいろおもに俺の精神力的な意味での諸事情により、
中止にして宇野常寛更科修一郎の新刊のことでも

というわけで昨日は大学が学園祭だったので、
本屋に行って批評のジェノサイズなる本を買ってから、
部屋にひきこもっていました。
驚異のルサンチマンっぷりですが、僕は元気です。

批評のジェノサイズ―サブカルチャー最終審判

批評のジェノサイズ―サブカルチャー最終審判

とりあえず二時間くらいで読んだのですが
現時点での感想でも書いてみます。

はっきり言うとこの本は宇野さんだけでも
更科さんだけでも成立していない本だと思う。
だからといって互いのいい所が出ているというのでは決してなく、
むしろお互いの悪いところがどちらも前に出ている気がする

じゃあ、何が面白いのかというと
ある意味で東浩紀大塚英志『リアルのゆくえ』

的な
面白さといってもいいかもしれない
といっても二人は別に喧嘩しているわけではない
ただ、単純に温度差があるだけだと思う
その温度差が宇野さんの言説を相対化させながらも特徴を際立たせている

まず、目につくのは二人の語り方の違いである
宇野さんが三言に二言くらいの割合で(笑)を入れるのに対して
更科さんは全くといっていいほど(もしかしたら一度も?)、
(笑)を使っていないということである。
ここからもわかるように常に宇野さんが一人で盛り上がっている感が
全体として見える。

はっきりいって内容自体は『ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

と連載時期も被っていたせいか
基本的には変わらず、語り口も宮台を彷彿とさせる感じの
叩きっぷりではっきりいってかなり食傷気味だ
さらに一昨日、ゼミの文献として発表しなければならないことも
あってゼロ想の方を読み返していたこともあって
まるでエンドレスエイトを八回見せられているような気分になった
しかし、それで盛り上がるハルヒ=宇野を
冷めた目線で見る長門=更科という構図になっていると
思うと意外と面白く読めた
ただ、こんな腐女子でも世界で一人しかしないような
特殊な妄想をしていても仕方がないので
少し話を戻そう、俺

更科はただひたすら批評に絶望したということを繰り返しており、
宇野はそんな腐った批評は変えていくべきだと主張している。
舌鋒するどく、鼻息荒くレイプファンタジー批判などを展開する宇野に
対して更科は連載の最終回まで終始冷めきっている。
個人的に一番面白かったのが連載初回にあたる部分。

宇野 多分そこが僕と更科さんの一番の違いですね。(中略)要するに、僕と更科さんは現状分析では一致するけれど、ゴキブリ駆除の方法論が対極的なんですよ。片や隔離政策、片やじゅうたん爆撃。(後略)
更科 ゴキブリにだって人権はあるよ。だって彼らから見ればオレも論壇というタコツボに潜むゴキブリだからね。居心地はマジ最悪だけどね。p26

他の間違っている奴ら(ゴキブリ)を駆除すれば、批評はよくなるという宇野に対して、俺もお前も結局ゴキブリだよ、というスタンスを更科は終始崩さない。そして連載最終回でももう一度更科は繰り返している。

更科 批評というのは究極のお節介だから、やればやるほど小石がポコポコ飛んでくる。(中略)結局、批評はすべて何かしら党派性の産物でしかない。で、最後に残ったこの連載以外、批評の仕事はすべて整理していたので、これで批評家「更科修一郎」は廃業です。そして、一年間のご愛読ありがとうございました。p271−272

批評というのはすべからく党派性の産物であり、この仕事も批評であったというしめくくりである。
そしてそこからは抜け出すことはできない。
これは宇野常寛の暴力に対する安全な自己反省だろうというレイプファンタジー批判が
宇野自身の暴力性自体を()においてしまっているという問題にも通じる。そして宇野さんはこのことにおそらく自覚的なのだろう。
まさにレイプファンタジー批判というレイプファンタジーである。
だが、更科のような元も子もない言い方はもう廃業を決めている人間にしかできないのかもしれない。
これはある種、未来を諦めている。
だけれども批評って結局レイプファンタジーでしょ?という更科の批判(遺言?)は考えていかなければならない。
その問題と向き合うことで初めて「考えたい人のための批評」にたどり着けるのではないだろうか。

更科だけなら単なるニヒリズム、宇野だけなら食傷気味
二人の温度差によって生まれた本だったと思う。

成熟の不可能性について

とりあえずいまさらですが
夏コミで100円で販売していた「あぐねす」の中のコンテンツのひとつとして書いたものを
なんとなくですが公開しておきます
これにゆるい漫画がいくつか載っているというすごくシュールなものが仕上がりました
ただ、これ自体はほぼ一日か二日で書いたものなので引用とかが非常に適当です
まあ、漫画とか表紙80円ってことでいいよねw
事故って消えたのでもう一回

エヴァのもたらした想像力を巡って
今夏は、『新世紀エヴァンゲリオン』のリメイク第一弾の2007年の序に続いて第二弾の破が発表された。その勢いはとどまることを知らずに興業収入は三十億円をすでに超えている。これは旧劇場版の『新劇場版エヴァンゲリオン』の二作の興業収入を超えるのがほぼ確実であるといわれている。しかし、90年代においての旧劇場版の方が大きな社会現象として感じられるのはなぜだろうか。
もちろん新劇場版の方が未完成であるということを理由の一つとしてあげることはできるだろう。しかし、それ以上に説得的な理由はその時代との関係性とおたくというものに向き合ったというおたく向けの作品であるということにある。エヴァのテレビ版が放映されたのはオウムが地下鉄サリン事件をはじめとした一連の事件を起こした年であるし、PTSDという言葉が注目される一つのきっかけにもなった阪神大震災の起こった年でもある。これらの出来事とエヴァンゲリオンは当時関連づけられて論じられることも多かった。
この新世紀エヴァンゲリオンのストーリーをいまさらここにきている人間に説明するまでもないことなので細かなストーリーは飛ばす。このストーリーは言うまでもなく、父を恐怖しながら母に交わりたいという欲望を持ち、父を殺すというエディプス・コンプレックスをなぞったものである。そして、ストーリーは通常の主人公の成長物語と違い、碇シンジは成熟しないまま物語を終えることになる。そして、この成長をしないというものが95年という時代の思想を反映したものとして読まれていったのである。
この非成熟をめぐる整理としては批評家の宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』の中で展開した議論が秀逸である。宇野によると90年代とは平成不況によって「頑張っても豊かになれない」世の中であるし、「頑張っても意味が見つかる」世の中でもなくなったという。また、「不自由だが暖かい社会」から「自由だが冷たい社会」へと移行した時代であるという(これは宮台の『終わりなき日常を生きろ』で展開された図式を参照するとよりわかりやすいかもしれない)。この時代になったときに「何かをする」ということのインセンティブは少なくなる。そして何かをすることによって他人に傷をつけてしまうという可能性がでてくる。それだったら何もしない方がいいという結論に落ち着いてしまうというのがある種の必然であるという。そこで「−する/しない」自分ではなく、「−である/−でない」自分という評価を望むようになる。社会学でいうアチーブド・ステータス(獲得的性質)からアスクライブドステータス(生得的性質)への移行であるともいえる。これに宇野は心理主義との関連を見出している。
この整理はそのままエヴァのストーリーに対応していることは言うまでもないことである。エヴァの本編は結局シンジがなぜエヴァに乗るのかということの問いに答え続ける物語だといって問題ない。テレビシリーズの序盤でシンジはわけのわからないまま大人におしつけられる形でなし崩し的にエヴァに乗せられており、それに対して恐怖を感じている。しかし、エヴァに乗ることによって人に承認されるということがわかってくる。そこでエヴァに進んで乗るようになる。中盤のストーリーはそうしたシンジがエヴァに乗ることに関して功の側面を強調している。しかし、後半になって言われるままにエヴァに乗っているうちにトウジやアスカ、カヲルなど周りの人間を傷つけてしまう。そこでエヴァに乗らない自分を認めて欲しいという願望を持つようになる。この「エヴァに乗る/乗らない」というのをそのまま先述した「−する/しない」という図式にあてはめられる。こうしてエヴァの最終二話は、こうであるという自分を承認してほしいという願望をシンジが吐露し、最後に「僕はここにいてもいいんだ」という自己認識をして終了するという自己啓発セミナー的といってもよい終わり方をしている。これはある意味で成熟しなくてもいいという終わりである。
だが、本当に「成熟」はしなくてもいいのだろうか。宇野はこの引きこもりの思想をレイプファンタジーの古い思想だとしりぞけており、代わりにゼロ年代の想像力というバトルロワイヤルなどのサバイバル的なものの代等をあげている。しかし、こうした方向性とは違う方向でこの成熟の困難さとそれでも成熟しなければならないということを主張した作品が2000−05年の間にオタク文化の中でも何作か作られている。本論ではその作品に注目しながら議論を展開していく。ここでは、村上作品『CLANNAD』『クレヨンしんちゃん』『こどものじかん』『絶対可憐チルドレン』などを取り上げながら論じていく。
セカイ系前史 村上春樹を巡って
宇野常寛が批判する90年代の亡霊というセカイ系に関して少し整理しておく必要があるだろう。そこで、東浩紀セカイ系に関する言説を参照してみることにしよう。東によると、セカイ系とは「主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(『きみとぼく』)を、社会のような中間項の描写を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』といった存在論的に直結させるような想像力を意味している」(『ゲーム的リアリズムの誕生』p96)ものであるという。
こうしたセカイ系と呼ばれるジャンルはしばしばポストエヴァンゲリオンと呼ばれることもあり、ライトノベルでこうした想像力に大きな影響力を与えた作品に上遠野の『ブギーポップシリーズ』(電撃文庫)がある。この想像力のわかりやすい起源をあげるならば村上春樹の初期から中期にかけての作品、とりわけ『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』に求めることができるだろう。この本は「ぼく」が壁に囲まれた街にいるという「世界の終り」と「私」が謎の陰謀に巻き込まれるという「ハードボイルドワンダーランド」の二つの世界が交錯する形で展開される。物語の終盤になって、「世界の終り」(終わらないミクロな日常の関係と世界の終り)は、「ハードボイルドワンダーランド」(=中間共同体を含んだ社会)の「私」の脳内世界のようなものであり、最後に「影」(=社会的自己)をとり戻しその脳内世界から出るかどうかという選択を「僕」は迫られることになる。そこで「僕」は自分の作り出した世界とそこにいる女の子に責任を取っていくために自分の脳内世界にとどまっていこうとする。しかし、この脳内世界だけに責任をとるというのは、柄谷行人が指摘するように、無責任のことに他ならない。
こうした欺瞞をより明示的に示すのが、村上春樹最大のヒット作品の一つである『ノルウェイの森』である。この小説の中で主人公の「僕」は、恋人を失った直子と関係を持ったことに傷つけてしまったと思いこみ、それに対して身勝手な「責任」を負おうとする。そして、やや辛辣な言い方をするならば、「僕」はその身勝手な「責任」を口実にして自らの世界にひきこもっていく。そして最後には、直子を永遠に失ってしまう。そしてすべてが終わった後に緑と向き合おうと電話をかけたときに自分はどこにいるのだろうかということに途方に暮れてしまう。
ここから読み込める想像力というのは簡単にいって二つのことである。まず、例え大切な関係だと思い込んでいても結局は他者を自分の頭の中にいるだけの存在、すなわちキャラクターとして想像するしかなく、実際の相手の内面はブラックボックスのままであるということだ。もう一つはそうした想像的なキャラクターであるとしても自己の内面をそれに仮託しないと主体としてたつことができないというものである。
こうしたストーリーと上述したセカイ系の定義やエヴァンゲリオンとの関連を見出すことはそう難しいことではないだろう。しかし、ここで注目したいのはこうした想像力が現代のいくつかの作品とどのように関係しているのかということである。ここまであげた村上の作品もエヴァにも共通する主題をあげるとするならば、「僕がありのままでいるには」という主題である。そこで、エヴァのテレビ版最終話での「ボクはここにいてもいいんだ」という自己肯定・非成熟のセリフをキーワードにしながらポストエヴァンゲリオンに関するいくつかの作品を読み解いていきたい。
3親になるという想像力を巡って KEY作品
この村上―エヴァ的な想像力を最もダイレクトに受け継いだ作品の一つとして美少女ゲームメーカーの一つであるKEYの一連の作品をあげることができる。例えば実質、KEYとしての単独作品の一作目としてでたKANONにはかなりわかりやすく、前述してきた作品の影響を見ることができる。このゲームの主人公は7年ぶりに舞台となる街に帰ってくる。裕一は、実は5人のうち4人のヒロインと7年前にであっている。だが、彼はその記憶を失っており、そのヒロインとコミュニケーションをとっているうちにそのトラウマを思い出し、それを乗り越えて成熟するという構成をとっている。メインヒロインである月宮あゆとのラストシーン間際の「一つだけお願いがあります。ぼくのことを忘れてください」というセリフは、『ノルウェイの森』で直子が「僕」に対して言った「お願いがあるの。私のことを覚えていてほしいの」というセリフを意識したものである。こうした影響もそうだが、セカイ系という文脈で語るのならKEY作品の中でKANON以上に無視することができないのは、AIRとCLANNADである。
AIRに関しては東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』を参照しながら説明しよう。AIRは、三部構成をとっていた物語である。そのすべてのチャプター・すべてのルートにおいて、疑似家族という主題をとっている。はじめのDREAM編は三つのルートが存在するが、それらのすべてが疑似母と疑似娘のような関係を営んでいる二人のヒロインのところに主人公が入っていき疑似的な父という構成をとっている。そして基本的にそのうちの二つのルートではある程度こうしたところに収まるということに成功する。だが、メインヒロインである神尾観鈴と彼女をひきとった叔母の晴子とのあいだにたって「父」になることは失敗する。次のSUMMER編は、DREAM編の前日談であり、(厳密には違うが)前世のような世界が描かれる。そしてここでも結局、少女を救うことに失敗する。そしてこのゲームの本編といってもよい後日談であるAIR編は、プレイヤーがカラスになって世界にコミットメントできないさまを描いている(ここで東は「父の不在」と「プレイヤーの不在」が重なり合っていると論じている)。そこでカラス=プレイヤーは晴子と観鈴が心を通わせ、実の父である啓介よりも晴子を選ぶ様子や、それでも観鈴を失ってしまうということを観察する。ここでは父になることの困難さ・不可能性が描かれている。これはある意味でひきこもることの極点であるといえる。
これに対してCLANNADはこれとは逆の構成をとる。ここでは特にアニメ版のCLANNADに着目しながら論を展開させてゆきたい。アニメ版CLANNADでは、村上春樹の「世界の終り」を思わせるような幻想世界と学園ものの日常的な世界が交錯される形で話が構成されている。主人公である岡崎智也は早くに母親を亡くし、父一人のもとで育つことになる。だが、父は母を亡くしたショックのために智也と向き合うことを拒絶しており、親子の間は冷めきったものであった。しかし、智也はある日学校に向かう途中で古河渚という病弱な少女と出会うことになる。そして紆余曲折を経ながら主人公である岡崎智也は、メインヒロインである古川渚と結ばれることになる。
通常のギャルゲーではここでハッピーエンドになるのだろうが、このアニメではその先を描写するのに前期と同じクール数である2クールを用意している。そこで描かれるメインの話は智也が渚のために今までいい加減に暮らしてきたことを改めて、勤勉に働いている様子が描かれる。そして二人のあいだにとうとう子供ができることになる。しかし、元々病弱であった渚は出産に耐えるだけの体力を持ち合わせておらず、子供を産むと同時に命を落としてしまう。以来、彼は渚の父母に娘の汐を預け、五年ほど自堕落な生活を送っていくことになる。だが、周りの働きかけによって彼は汐に向き合うことになる。そしてこのときになってはじめて、汐に向き合おうとしなかった自分の姿が、あれほど嫌だと思っていた父の姿と同じであることに気づくことになる。そして父とも向き合っていこうとするのである。しかし、こうして渚を失ってしまったということを受け入れかけたにも関わらず、今度は汐をも失ってしまう。そこで智也はこうした不運を嘆くことになる。そして、回想の中で渚に一つの問いをぶつけられることになる。このような悲しい思い、喪失感を抱くのであれば、渚とは出会わないほうがよかったのであろうか、と。そこで、それでも出会うべきであったという結論にたどり着く。ふと気づくと智也は出産直前の渚の前にいる。そしてその出産は母子ともに健康なまま終わる。そうしたハッピーエンドが用意されているが、それがなんであったのかは明確には語られていない。
この物語では智也が成熟する様が描かれている。ここでいう成熟とはなんであろうか。それはただ年齢が大人になるということだけを意味するのではない。例えば一時期流行った言葉にアダルトチルドレン(AC)という言葉がある。これは幼児期のトラウマなどを原因としてそこで成熟がとまってしまった人間のことをさす言葉であるが、そうした言葉の流通によってプチACや自称ACが大量に発生している。それはAギデンズの言う再帰的近代(社会の流動化によって従来的な共同体が自己を決定してくれなくなったことによって、自分自身で自己像を決定しなければならなくなった時代)に特有の適応不全であるといえる。そして指摘するまでもないが、これは前述したセカイ系の話とも引き寄せて考えるべき問題である。セカイ系的な物語がはやったのは、こうした自己の人生を自分のものとして受け入れることができなくなったからである。つまり、ここでは本人の自己努力よりも確率が優先してしまう世界である。例えばCLANNADの智也もAIRの往人も本人の努力とは全く関係なく大切な人を救うことができなかった。それでも人生を引き受けなかったのが、啓介や往人であり、それでも引き受けたのが智也なのだ。少し、蛇足的な余談になるが、出崎監督によるAIR劇場版はいろいろな点で本質をはずしているが、中でも往人が啓介を殴り、説教をするというオリジナルシーンを入れていることに問題を感じる。ここまでの議論をおっていけばわかるように往人に彼を殴る権利は明らかに存在しない。
では、こうしたそれでも成熟しなければならないとなったのはなぜだろうか。それはすごく単純化してしまえば90年代に思春期だった少年・若者もそろそろ家族を持たなければならなくなったという非常に世俗的な現実があるからだ。テレビ放映当時、シンジくんと同い年だった少年はもうすぐ30歳にならなければならないのだから。そこでここからはそうした視点からいくつか作品を眺めていこう。
4非成熟としてのノスタルジークレヨンしんちゃん モーレツ大人帝国』
ここでややセカイ系とは、文脈がずれることになるかもしれないが、2000年代に流行したノスタルジーブームに触れてみることにする。それはセカイ系が流行する土壌とノスタルジーブームが起こる土壌というのはある程度連結したものであるように思われるからだ。セカイ系の成熟せずトラウマのせいにすることや、「自分はなんなのか」という「―である」自分を探そうとする自分探しの構造とノスタルジーの構造というのは本質的には同様の想像力からきている。それは一言でいうならば、現在を否定して未来をみようとしないために過去を利用してくるという構造であるといえる。
A・ギデンズが『モダニティと自己アイデンティティ』の中で指摘した現代でのアイデンティティの在り方として再帰的に自己物語というものを語っていかなければならないという。それは「過去の生活史を選び取り現在に結び付け、未来への予期へと繋げていく」というものである。しかし現代社会というのはこうした選び取った物語(ドミナントストーリー)を語る一方で、個々の選択肢はフラットなものに感じられ、無限にあった「こうであったかもしれない」選択肢(ユニークアウトカム)というものがちらつくようになる。このように現在を見るために、過去というものを過剰に参照してしまうがゆえに未来への想像力というものをポジティブなものとしてとらえられないのである。ここでの過去の参照のされかたはそこでは、ポジティブなものであった場合は「−なのに」であり、ネガティブなものであった場合には「−だから」ということになる。つまり、それが美しい思い出である場合には「昔はよかった」のに「今はダメで未来に希望が持てない」というノスタルジーになり、トラウマなどの悪いものの場合には、「こんな悪いことがあった」のだから「今はダメで未来に希望が持てない」というようになるということである。結局、『オールウェイズ三丁目の夕日』なども非成熟のためのリソースとして使われているのである。
そのことに非常に自覚的だったのが原恵一監督の『クレヨンしんちゃん―モーレツ大人帝国』である。この映画が2001年の春、すなわち新世紀になって初めて封切られたクレヨンしんちゃん映画であるということも文脈として確認しておくべきである。ストーリーはいかのようなものである。しんちゃん達が住む春日部市の「郊外」に「20世紀博」という新興のテーマパークが建てられる。そこでは1970年代の日本のあらゆるものが集められ、このパークのキャッチフレーズは「あらゆる思い出に出会える場所」というものである。そしてしんちゃんの父のひろしと母みさえはこのテーマパークに夢中になっていく。みさえ、ひろしだけでなく町中の大人たちがこのテーマパークに夢中になっていく。そしてある日を堺に大人たちは自分たちが子供のころに戻ってしまい、ハーメルンの笛吹きのように街からいなくなってしまう。実はこのテーマパークは秘密組織「イエスタデイズワンスモア」の用意したものであり、彼らは20世紀の温かい心を持っていたあのころに戻すという理想をもとにこうした計画をたてていたのである。これに対してしんちゃんは、「21世紀はオラが守る」といって立ち上がるのである。
このストーリーは単純なノスタルジー批判ととらえることには違和感を覚える。原のこの映画に対する態度というのは非常に両義的なのである。原自身はもしかしたらこのノスタルジーでもいいと思っていたのかもしれない。大人をターゲットにしたアニメーションではそれでよかったのかもしれない。現に原はインタビューの中で「(ワンスモアの首領
の)ケンはぼくのそういう気分が乗り移ったキャラクターだ」と語っている。しかし、この映画がクレヨンしんちゃんであるということに意味がある。ここで原がこのノスタルジーの方を選んでしまったら、自分がこどもたちにとってのイエスタデイズワンスモアと同じになってしまう。そこでこの映画で最も重要なクライマックスの部分でしんちゃんにこうした安住的なノスタルジーを批判させる。
「イエスタデイズワンスモア」の思想というのは大人たちが子供のようにふるまったことからもわかるように先述したACとある意味では同根のものである。そうした思想に対してしんちゃんははっきりと「ずるいぞ」と言う。なぜなら大人はそうやって自分のからに閉じこもっていればいいのかもしれないが、しんちゃん達にはそのノスタルジーの対象さえもないからである。そしてガムシャラに「イエスタデイズワンスモア」と戦う。そしてケンとその恋人が、なぜ美しい過去よりもこんな醜い現代や閉塞した未来を望むのかということを聞くとしんのすけはこう答える。「オラ、とうちゃんやかあちゃんや、ひまわりやシロと、もっと一緒にいたいから。・・・・・・喧嘩しても頭きたりしても一緒がいいから。あとは、オラ、オトナになりたいから。オトナになって、おねいさんみたいなきれいなおねいさんと、いっぱいお付き合いしたいから」
「子供のままでいいじゃん」という非成熟は当該世代が若者のうちはそれでいいのかもしれない。だが、それが一つ下の世代を持ったときに問題が生じる。つまり「大人にならない」というのは当事者の選択だが、それが子供を持った時にはその子供にどう接すればいいのか、子供が「大人になる」という選択肢そのものを閉ざしてしまうのではないだろうか。そこで本論考の最終節ではこうしたことがテーマとなった二つの漫画を紹介しよう。

最終節で取り扱う漫画は、椎名高志の『絶対可憐チルドレン』と私屋カヲルの『こどものじかん』である。絶対可憐チルドレン(以下、絶チル)は初出の読み切り版が03年7月で、それから2004年の後半に短期連載四話のあと2005年の中旬から正式な連載をはじめている。こどものじかんの方は2005年5月のコミックハイ!が初出となっておりどちらも現在でも連載が継続している。この両者の構成は絶チルがSFであり、やや難しいテーマを扱ってはいるが、非常に酷似している。それは若手の青年が三人の問題児である少女に振り回されながらも、その少女たちが道を誤らないように指導していくというものである。このある意味でロリコン向け漫画としかいいようがない漫画には共通した大人になれないAC的な大人がその少女たちと深い関わりを持っているというところも共通している。そしてどちらもただ、ソイツが間違っていると指摘したり、絶チルであれば相手を倒せば解決するという問題ではない。
その前に簡単に二つの作品のストーリーとキャラクターを確認しておくことにしよう。
こどものじかんの主人公は小学校に赴任していきなり三年生の担任を持つことになった青木は問題児、九重りん・鏡黒・宇佐美々の三人の問題児に振り回されることになる。とくにりんは、普段は青木をネタのようにいじってまとわりついているが、そのまとわりつきは恋愛感情半分、依存半分という感情をぶつけてくる。そして、りんは母を亡くしており、母の恋人であったレイジと暮らしている。そんなリンにどこまで踏み込み、どこまで踏み込まないかということを迷うことになる。
絶チルはいまから若干近未来という設定のSF世界である。この世界ではエスパーが一定の割合で存在し、それが人的な資源として使われると同時に畏怖の対象でもあるという設定である。そして18歳にして学位を二つ取得している天才皆本光一(20歳)は、日本国内でたった三人だけ存在するレベル7のエスパーの教育係を任されることになる。しかし、そのレベル7のエスパーたち(葵、紫穂、薫)ザ・チルドレンは10歳の少女であった。少女たちに振り回されながら、彼女たちが間違った道に進まない方に導こうとする。しかし、この物語は短期連載の第三話において薫たちがエスパーたちを率いてノーマルに対して反乱をおこすテロリストのリーダーとして君臨するという的中率100%(といわれている)レベル7の予知能力者(プレゴク)のイルカの伊号の予知という複線があまれる。そして彼女たちの誘惑者として反ノーマルのエスパー組織パンドラのリーダーである兵部京介が誘惑をしかけるという構造をとっている。
以上が二つの物語の構造であり、この物語は大まかに言ってしまえば二つの主題に分けることができる。それは「子どもでいられない子ども」(=問題児三人、チルドレン)と「大人になれない大人」(=レイジ、兵部)という問題である。そしてこの両者が絡み合う問題に主人公が向き合うというのがこの物語の主題である。この主人公ははっきりいってしまえばレイジや兵部に比べて圧倒的に正しい。だが、ここで問題なのは相手が間違えているといえば解決させることができるという問題ではないということである。ここでキーワードになるのが、本連載の一話で薫に対して皆本が言った「君は、ここにいていいんだ」というセリフである。
「大人になれない大人」、いうなれば「僕はここにいてもいいんだ」(=子供でいいんだ)という形でしか、自己規定ができなかった存在をどうすればいいのかという話である。レイジも兵部も典型的なトラウマによって大人(ノーマル)に対して強力な敵対意識を持っている。レイジの場合、自分の家庭を憎悪しながら育ち、リンの母である秋に失った母の面影を重ねていた。しかし、その秋がしんだあとはその秋にリンを重ねてみながら育てるという歪んだ愛情を抱いている。兵部の場合は、少年のころから軍に所属しており国のために闘っていたが、伊号の予知でパンドラのリーダーになるという予言を避けるために信じていた上官に射殺されそうになるというまさに予言の自己実現的な体験をしており、それからすべてのノーマルに憎しみを抱き、同じような境遇にあるチルドレン(とりわけ予知の中で皆本に射殺される薫)に自らを重ねている。だが、こうした感情を抱くようになったのはそうせざるを得ない環境があったからである。それを無視して成熟せよということはなんの意味ももたないのだ。
言葉の上では似ているがこの「僕はここにいてもいいんだ」ということと「君はここにいてもいいんだ」といってあげることの間には大きな差異がある。だが、皆本も(もともと人格者ではあったが)始めからこういうことが言えたわけではない。彼がそれを言えたのは、皆本も小さいころから特別教育プログラムに通わされ「子供でいられなかった子供」であった。そんな彼に対してたまたま同じ言葉を言ってもらえたからだ。
現代では、子供を子供として扱うことがますます困難になっている。それは「僕はここにいてもいいんだ」と一人つぶやき続け、自分の延長としてしか子供を見ることができないとう環境にあるからだ。誰かが「君はここにいてもいいんだ」と語りかけてあげることが必要なのである。
参考文献(略称)
浅羽通明『昭和三十年代主義』

昭和三十年代主義―もう成長しない日本

昭和三十年代主義―もう成長しない日本

東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生東浩紀編『コンテンツの思想』
コンテンツの思想―マンガ・アニメ・ライトノベル

コンテンツの思想―マンガ・アニメ・ライトノベル

宇野常寛ゼロ年代の想像力
ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

土井隆義『個性を煽られる子どもたち』速水健朗『自分探しが止まらない』
自分探しが止まらない (SB新書)

自分探しが止まらない (SB新書)

宮台真司『終わりなき日常を生きろ』アンソニー・ギデンズ『親密性の変容』
親密性の変容

親密性の変容

          『モダニティと自己アイデンティティ
モダニティと自己アイデンティティ―後期近代における自己と社会

モダニティと自己アイデンティティ―後期近代における自己と社会

創作意欲、BGM作成

コミックマーケットに個人的にも初めて参加しました。
ダビソンです。

参加と言ってもISCには2、30分顔を出しただけなのでアレですが・・・
そちらについては他の人の書き込みを待ちましょう。

今回の参加でたくさんの創作物、サークルに刺激を受けました。本当に皆さんすごいと思います。
そんなわけで久しぶりの曲作り。創作意欲が沸いているうちにね。
構想1分、製作丸1日。


ハンバーガーが4個分の4拍子』
Download


残念ながら 近年稀に見るクソ曲が出来てしまいました。
ちなみに最後まで聞くとラスボスに会えます。
生の楽器とは違うんだし、ちゃんと方向を定めて曲を作っていかないとダメだ。。。
あとシンセの音の厚みに頼ってしまっている。


今回はトラックのイベント毎のコード変化、細かいVol・Pan調整、マスターエフェクト等を勉強しました。基本は一通りこなした感じ。あとは機材と経験です。
オリジナルも良いけど、まずはカバーやアレンジを通じてDTMを修得していかなくては!

とりあえず宣伝(コミックマーケット76)

ISCでコミックマーケット76に出品いたしますのでお知らせするのです
二日目8月15日(土曜日)で東地区Pブロック 36bです
その日によろしかったらちらっとでもお越しください

本当は二冊出品するうちの一冊は、ちゃんと出版会社に頼もうと思っていたのですが、
締め切りに間に合いそうもなかったので二冊ともコピー閉じ本にする予定です。
といっても今回が初出品なのでどんな感じでできるのかまだわからない状態なんですがね

で、コンテンツの内容に関して
一冊(メインの方)
ひぐらしのなく頃に』二次創作小説のギャグものです
タイトルは祝い殺し編です
とりあえずメンバーの何人かでいったんセリフふぁけの第一稿をもちより、
それを最後に自分が文体合わせとか、地の文を書いたりとかの作業をし、
表紙・挿絵とレイアウトをジョニーエスさんにお任せしました
大体23、000文字くらいの無駄に長くてかなりカオスな内容ですが、
ぜひごらんください

もう一冊はメンバーの何人かが持ってきた原稿をまとめた雑記集です
タイトルはあぐねす!というかなりリスキーなタイトルです
ティナさんとせぐせぐさんは四コマ的なものを書くそうです
紀歩実さんが何か書くと聞いていますが、なにを書くかは決めてません
自分は評論を一本か二本のせる予定です
内容は
絶チルこじかクラナドエヴァを接続させる話か
ひぐらしをキャラという視点から読む話か
2009年に発表されたいくつかの作品(エヴァ破・コナンの劇場版とルパンスペシャル・1Q84うみねこエンドレスエイトとか)を繋げながら論じてみるもの
にする予定です

エヴァンゲリヲン破感想(多分1)

とりあえず旧版については長いの書いたので貼りhttp://d.hatena.ne.jp/ISC/20090221/1235197354

やっとエヴァンゲリヲン新劇場版破をやっと見ました。
あとでなんかまとめて書きたいんですけれどもとりあえず感想程度に。まだ一回見ただけなのでいまいち頭が整理できていません。
で、書き終わって気付いたららあんまりネタバレ配慮してないのに気付いたらほとんどネタバレしてませんでしたね。
やはり前評判通り映像や音響がすごかったです。そして案の定、新キャラがかなりキテましたね率直にいってかなりツボです。
とりあえず、その新キャラクターの感想から
いきなり非常にインパクトの強い感じで登場したマリですが、いわゆるエヴァにこれまでほとんど出てこなかった「生きるということ」「何かするということ」にポジティブな人間です。東浩紀さんがブログでマリを西尾維新的キャラみたいに表現していましたが、まさに西尾維新の『戯言シリーズ』の匂宮出夢に近いキャラで身体感覚的・動物的なキャラとして描かれています。結局、エヴァのテレビシリーズの原理というのは、シンジくんが「エヴァに乗る」=社会にコミットメントするかどうかということを話の原理にしていました。この世界にコミットメントするのかどうかという話で何かをするには個々の理由がなければそういうことをしてはいけないという原理によって話が展開しました。一見エヴァに乗ることに躊躇がないように見えるアスカも理由に縛られてのっていました。テレビ版エヴァも劇場版エヴァも「エヴァに乗らなくていい」(=引きこもってもいい・逃げてもいい)のかということを結局のところは最後の問いとしてぶるけている気がするわけです。そして、シンジくんは「エヴァに乗る」=「これをする自分」ではなく、「エヴァに乗らない」=「こうである自分」を認めて欲しいという願望を持っていたわけです(そしてそんな自分を認めてくれるのは母親以外にはありえないわけですね)。これと違い、「楽しいからイイ」「生きているだっけでめっけもん」という真稀波は、エヴァの世界の外部的なキャラクターだといってもいいのではないでしょうか。彼女は大人に押し付けられて「エヴァにのり」その理由を葛藤するという行動原理ではなく、そこに楽しいから「エヴァに乗る」というゲームに参入するということをしていたわけです。だから、その性もあって彼女を破のストーリーに組み込んで話すということは意外に難しい気がします。
ただ、やはりアスカではなくて新キャラクターを出したことにはそれなりに意味のあることであるという気もするので、その点に関して考えてみるとマリがエヴァに出てきた意味というのは二つあるのかな、という感じがしました。一つは先述したようにエヴァに乗る理由を巡るものです。これは批評家の宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』の中で指摘した90年代的なセカイ系(=ひきこもり系)から00年代的な決断主義系(=サヴァイブ系)への移行という言葉で要約できるものである気がします(実はこれも微妙に違う気もするのですが、ここではとりあえず省略しておきます)。もう一つの機能としてはマリが作劇上の意味でも物語の構造的な意味でもアスカのカウンターパートとして機能しているということが大きいです。アスカはエヴァに乗ることに関して躊躇のないキャラとしてはじめは描かれており、後半になるにつれてそんな彼女もトラウマを持っており、彼女なりの理由があったことが語られるわけです(ちなみにアスカのトラウマ話はRDレインの『引き裂かれた自己』という分裂症を扱った精神分析の本にほとんどそのままの症例がでてきます)。それでもアスカというのはエヴァという物語の外部的な場所に常に居続けました。けれども、そのアスカの立ち位置をマリが奪ったことによって、アスカは必然的に物語の内部に入り込んでこざるを得なくなりました。だから初めは伏せられていたアスカの内面やトラウマは様々なガジェットによって即表現されていました。例えば人形もそうですが、アスカがずっと携帯ゲーム機をやっているのもシンジのウォークマンと類似した意味がある気がします。携帯ゲーム機っていうのは開いているように見えて実はすごく閉じたメディアです。非常にアスカっぽいアイテムな訳ですね。中盤の学園エヴァ的・碇シンジ育成計画な場面もその延長線上で読解できる気がしますが、今回はおいておきます。アスカの立ち位置が奪われたら当然のことながら旧劇場版の結末にはなりません。なぜならエヴァの結末というのはエヴァの内部(=綾波)と同化するのではなく、「気持ち悪い」といわれるかもしれないエヴァの外部(=アスカ)を選ぶという結論だったわけです。ただ、その外部をマリが奪ってしまった以上そのロジックはもう使えなくなったわけです。では、アスカの代わりにマリがそういう位置を占めるキャラになるのかというとそうはならないと思うんですね。それだとただの縮小再生産ですからね。やっぱりアスカ・ミサト・レイは間違いなく重要キャラであり続けると思うわけです。

さて次はミサト、アスカとレイの学園シーン・ゲンドウの話とかシンジくんは変わったのか問題なんかの感想も書きますかね

児童ポルノ法に関して

予め断わっておくが自分は法学専攻ではないので法律の知識は
一年生のレベルで止まっている
だから、ここから書くことはやや適切ではないのかもしれない
あと表現とか特に気にしないので卑猥な言葉が嫌いな人はゲラウヒア

児童ポルノ法の改正に関する国会での審議の様子を
映像でみた

これを見て思ったのは
単純所持規制の自民党案は定義が曖昧すぎるが
結局のところ対抗勢力が表向きにはないので
定義づけがきちんとなされた上で所持禁止に落ち着くのだろうという気がする
(規制派、反対派という区分けがネット上ではなされているが与党案と野党案の対立なので、そういった対立軸は適切ではない)

とりあえずこの法律をめぐる問題として最初にあげておかなければならないのが
なんのために規制をするのかという問題である

批評家の東浩紀も言っていたと思うが
児童ポルノの規制には大きく分けて二つのロジックがあるはずである

児童ポルノが作られることによって実在の児童が被害にあっている
例え作ることを禁じても需要がある限りアンダーグラウンドなルートや海外で
制作され続け、ネット上にデータとして残り・増え続ける
だから需要の方に制限をかけるというものである

児童を好きだと言っている人間は性犯罪をする率が高いので、そうした欲望を喚起するものは取り締まることによって性犯罪が減るはずであるというもの。

1のロジックで押し通される限りにおいては一定の正当性があるように思われる
2のロジックに関してはラべリング理論や予言の自己成就・メディア論的な観点からも当然に反論することが可能である
ただ、与党側が準児童ポルノをあげるときには当然2のことも考えられている
だから、オタクはこの2に対する反論(すなわち二次元と三次元を切り離す論理)を考えていくべきである

1に関する根本的な反論というのはやはりそう簡単には思い浮かばない
だから、どこまでが児童ポルノなのかということと
所持しているということの定義に関して論じざるを得ない
つまり、審議の繰り返しになるので詳しくは言わないが
取り締まってもいいけど定義をちゃんとして
冤罪とかもなくしてくださいね、という方向である

ただ、この審議を聞いていて個人的にはいくつか疑問が起こる
まず、個人が児童ポルノを所持しているかどうかということを
どうやって捜査するのかということである
国家権力が人の個人生活にどこまで立ち入っていいのかという問題である

もうひとつ感じるのが
どこからがポルノかという定義は確かに大切だが
これと似ているが異なった問題としてもう一つ考えなければならないのは
取得する側の視点である
つまり、これが「ポルノである」とは認識して取得したが
児童ポルノである」とは認識していなかったという場合である
実際にそうした画像や動画をダウンロードするときに
被写体である少女が17歳であるのか19歳であるのかということを
いかにして見極めるのかというものである
当然、現行法上では準児童ポルノは容認されている
そこで準児童ポルノのつもりで取得したjkものなどが
本当にjkだった場合にどうするのかという問題である
そういう調査が正確にできるのだろうか
こういうものが容認されるならば取り締まり効果は全くないだろうし
容認されないならばかなり危険なものであることは言うまでもない

ひぐらしと『キャラ化する/される子供たち』

やたら長い文章をコピペしたあと長らく放置しすぎたので軽く更新

とりあえず新刊を買ったので紹介とそれを買って思いついた妄想でも

まだいまいち詰められていない気がする・そしてどっちかっていうとこれ竜騎士07インタビュー評じゃないかという
気がしないでもないけれどひとまず気にしないでおく

『キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像』

2009年6月に出た土井隆義先生(以下敬称略しちゃまずい気がするwけど略すのです)の新刊『キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像』が面白い。基本的には、『アキハバラ発〈00年代への問い〉』にのっていた文章をベースに膨らまされているという印象で、ほかにもいくつか授業などで聞いたことがある内容が多かったが一冊の本にまとまってみると違った印象を受けるものなのだなと考えたりした。
ケータイの圏外と自分のトライブ以外への想像力の欠如やキャラの概念をキーワードにアキハバラのKの事件などの犯罪を中心とした現代社会の諸問題を読み解いている。Kの事件は自分と同じ立場にありながらリアルが充実したものに対して向いていたという。そして自分の周りの人間関係には過剰にケアしあっていたことも指摘している。ここでは人間関係のトライブのタコつぼ化と自分のトライブの中のものとのコミュニケーションに過剰に気を使うようになっている様が描かれる。そうしたトライブ内の人間関係の衝突を避ける(やさしい関係)ために人間関係のキャラ化といった現象が起こっているのである。
このように順番に内容を要約してもいいのだが、短い本なのでその必要もないだろうから、この本を読みながら自分の脳内に受信された電波のことでも書こうかなと思う。自分の関心とも関係するのだろうが、この本を読みながら自分の頭の中をよぎっていたのは、少年犯罪の問題や現代社会の人間関係の具体的な問題ではなく、ゲーム『ひぐらしのなく頃に』であった。といっても、別に少年犯罪とひぐらしを短絡させるだとかそういう意図はもちろんのことない。考えていたのは、ひぐらしというのが昭和58年という世界観を下敷きにしていながらやはり現代的な作品なのだなということだった。(余談だが、宇野さんはひぐらしを評価しているのだろうか、していないのだろうか。『ゼロ年代の想像力』では触れられていなかったがどちらに評価していてもおかしくない気がする。)
ひぐらしの怖さとしてファウストのインタヴューで竜騎士があげていたことが、土井の論と親和しているように感じられたからだ。一般的にひぐらしは80年代という世界観が恐怖を引き立てているといわれるが、実はひぐらし前半部の恐怖というのはむしろ非常に現代的な恐怖なのである。引用をすると長くなるので省略するが、ギャルゲー的な世界観のお約束を逆手にとったところに『ひぐらしのなく頃に』の怖さがあるというものである。ギャルゲー的な世界観というのは一人称のボクの視点だけから世界を見ており、それを中心にキャラが配置されているというものである。これに関しては、例えばツンデレというキャラの属性を考えてみればわかりやすいと思う。ツンデレというのも諸説あるが(ちなみに誰かといるときはツンツンだけど二人きりになるとデレるという定義は絶対に違うとは個人的には思うw)、オーソドックスなツンデレキャラをイメージしてもらえばわかると思う。ツンデレというのは主人公の視点から位置づけられないと意味を持たない記号である。ツンデレというときに主人公以外にデレるということは基本的には想定はされていない。例えば主人公がいないところでのガールズトークでは、こうしたキャラはツンデレとしてのキャラを発揮できない。そこではその少女には別のキャラが割り当てられているはずである。しかし、ギャルゲーではひとまずこうした視点の固定化を行ってその少女はツンデレということにして話を進めていくものである。そして、固定化した視点で見ていたときにキャラが自分と接していない部分で勝手に動いていくということにひぐらしの怖さがあるという。つまり、自分と接していないときのキャラというのがわからないから怖いのである。ひぐらしではクラスメートの同じ部活の女の子というキャラが実は自分の知らないところではそうしたキャラとして動いていないという恐怖である。別の関係(転校したてで圭一にはわからない村での関係)においては全然違う役割を各少女たちが持っており、自分にはそれがわからないから圭一は鬼隠しにおいて疑心暗鬼になるのである。東浩紀氏がいつかのブログで書いていたと思うが(確か再移転前)、我々は他者をキャラとしてしか捉えられなくなっていることならではの怖さなのである。土井の本に戻るならば閉塞したトライブにあって自分のトライブの外への想像力が欠如していると同時に、トライブの内部の人間をキャラとしか捉えられないという世界にピッタリとした恐怖なのだと思う。