キライなもの

不満や不平を言わずに溜め込んでいると、気付かないうちに不健康になっていることがある。

自分は小さいころから、感情の振れ幅が大きい人間が多くて諍いの絶えない環境にいたおかげで、自分には「事なかれ主義」がすっかり定着した。おかげで声を荒げる人間がいても吃驚することなくのほほんとしていられたり、相手の言葉の勢いがどれだけ強くても平静でいられるようになった。いちいち相手の感情に振り回されていたらたまらないからだ。相手がどれだけ悲観的でいようが、不安がっていようが、どれだけ怒りに震えていようが、自分が同じ気持ちになっていたらただ疲れてしまうだけだ。小さい頃にあれこれあった結果、自分には感情を荒げない癖がついた。

ただ、感情を前面に出さない生き方というのは、人間として歪んでいる。弊害なんていくつもある。

マイナスの感情を外に出さないということは、生まれたそのもやもやは自分の中にしまわれることになる。いつまでもそれをしまっておくと、それはそのうち腐っていく。腐ったそれらは、やがて異臭を放ち始める。それも吸収限界が来ると、ある日それが暴発することもある。ろくなことがない。「感情のコントロール」などとは、表面上は似ていても実際には非なるものだ。

問題は自分だけではない、相手にもある。怒ってばかりの人間を相手にするのは疲れるものだが、かといって、怒らないだけの人間を相手にしていても実際にはわりと疲れるものだ。話していても怒ることがないものだから、なにかその人にとって良くないことをしてしまったとしてもそれに気付くことができない。相手は実は怒っているけれどそれが表層に表れないのだからわかるはずがない。しかも、いつか知らないうちに限界がきて、急に怒り出す可能性も捨てきれないのだ。自分も過去に友人から「お前の怒るポイントがわからない」と言われたことがある。

 

誰もが幸せを願う話

目まぐるしく変わる人間社会のなかで、人はだいたいの欲求を満たせるようになってきている。周りは食べるものであふれ、着るものには困らず、雨風をしのげる家もある。

 

けれど、人間は貪欲なもので、生きていく上で必要十分なものが満たされていたとしても満足することがない。それが人間の求める第3の社会的欲求だ。

 

誰もが幸せでありたいと願って生きている。

流行りの服があればそこに飛び付き、有名ミュージシャンが一世を風靡すればライブへいくことがイコール幸せということになり、人気者のところへ我先にと押し寄せ、能力を持った人間に固執し、誰かに依存して、あるいは誰か彼かに振り回されて生きている。幸せというのが、社会や人から与えられるものだと、本気でそう考えている人間もいる。

 

冗談じゃない。

 

自分の生き方が、誰かによって決められることほど嫌なことはない。どんな環境で生きていくにしろ、自分で決めてこその人生だということに間違いはない。幸せは自分で探すものであり、誰かに「これが君の幸せだよ」などと決められては堪らない。

 

けれど、幸せというのが、もはや何なのかわからなくなってきている。最新のゲームを買って、周りと楽しめたら幸せか?お得に買い物ができたら幸せか? 好きな人と一緒に過ごせることが幸せか? 地位を築いていろんな人に慕われるのが幸せか? なにか、自分が履き違えているような気がしてならない。

 

幸せって、いったいどんなことをいうんだろう。

こもりたい人の話

今現在、姉夫婦が家に帰省している。そもそも家がせまいので、元々自分には自分の部屋と呼べるようなものはなく、家の中で区切ると呼べるようなものは、1階と2階の間くらいなものだ。2階を何とか自分のスペースにするとして、1階ではにぎやかな会話が行われており、かつ声も楽しそうな音も全部2階には漏れてくるものだから、たまらない。

 

自分には周りからいじられる気質があるが、その反面、「ここから先には絶対入ってくんな領域」というものがある。

 

普段いる大学の研究室なら問題ない。「基本的には実験の邪魔をしないようにする」「しゃべりたければお茶部屋でする」「ねむければ図書館でなんとかなる」などのいろんな自由が利くのだ。

 

だが、家の中だとどうか。

 

「親戚が家に来ているのだからもてなさなければならない空気」「楽しくしていなければならない空気」「明るく振舞わなければならない空気」「暗い話をしてはいけない空気」「常に話し相手をしていないといけない空気」「特別なご飯でも作らなければならない空気」「どこかに連れて行ってあげなければならない空気」などの様々な空気をひしひしと感じる羽目になる。

普段は気楽にしている母親は、いつもと比べて声が30Hzほど高くなっているし、ちゃんと1階にきてお話をしなさいとか言うし、テレビをみんなで見てるんだから洗い物はするななんて言うし、言われて2階に戻って作業をしているとテレビの音が意外と大きくて作業に集中できない上に「音量下げろ」なんて言えない空気、、、

 

「ここから先には絶対入ってくんな領域」を持つ自分としてはとてもとてもたまらない空間なのだ。

 

自分は、一緒に話そうと思えない人たちと話すことはないし、自分のしたいことを曲げてまで誰かに付き合って時間をつぶしたくもないし、同じ時間を共有しようとも思えない。生来の快楽主義者である自分は、「やりたくないことはやらない」「したいことをする」「気になることを調べる」「気分屋を通す」で生きてきたのだ。そんな人間には、1日の中で必ず半永久と思えるひとりの時間が必要になる。

 

そこに姉夫婦の帰省ときた。だからたまらないのだ。無理やり用事でも作って、別の場所にひきこもりたくなる。自分みたいな集団で生きることに向いていない人間は、これからどんな生活を送るんだろうと、今はまだ気づきたくないこれからの現実に目を背けたままでいる。

話して伝えるか、書いて伝えるか

最近まで就活をしていて、「自分の得意なことってなんだろう、苦手ってなんだろう」ってことについて、友達とLINEでペラペラ喋っているうちに、あることがわかってきて、友達がこんなことを言い出した。

 

「お前って、電話のときのほうが頭回るよな」

 

あれ確かに、と思った。

面と向かって話すと、友達の表情とか、そもそも周りの環境とか、このあとの予定とか、その他いろんなことが頭にあって、あまり会話に集中できていないような気がする。結果、的外れなことを言って相手を困らせたりすることが多いような気がする。

一方で、電話の場合は、まず周りの環境を気にしないでいいような環境をはじめから設定するので周囲は気にならないし、電話中も相手の声だけに集中できる。相手の感情は表情や動作からではなくて、声だけに集中して読み取れればだいじょうぶ。

つまるところ、自分は会話をするときに、感覚器官ひとつのみを使って話をするほうが、よっぽど得意だと、そういうことらしい。

 

しかし一方で友達は、「話すのは得意だが、書くのは苦手」だという。面接とかなんかは全然いけるのに、ESを書くとなると、まとまらない文章になってしまいがちだそうだ。

友達は自分とは真逆で、相手からの情報、つまり言葉・話し方・表情・手振りなど、いろんな情報を複数の感覚器官を使って同時に受信して総合的に処理することが得意だと、どうもそういうことらしく、LINEをしているときでも、相手の表情が見えず、文面のみだとかなり不安だという。

しかし、こんなにも要領がいいくせに、文章を書くとなると途端によくわからないことを書いてしまうという。実際にESを見せてもらったが、どうも文体にまとまりがなかった。そこまで文章を書くのが苦手というわけではない自分にとって、この現象はどうにも不可解で、要領のいいコイツがなんで書き物をするのが苦手なんだろう、としばらく悩む時間ができた。

 

自分が考えるに、ものごとの理解のしかたが、自分と友達では根本的に違うんだろうと思う。

要領のよろしくない自分にとって、難しいことを処理するときには、頭の中だけで考えず、紙に書いたりして、脳内の作業をなるべく外部に出力して、脳の外部で作業することでなんとか生きてきた。

おそらく友達はそこまでしなくても脳内だけでこれまで賄えてきたので、紙に書いて考える機会が自分と比べて少なかったんじゃないかと思う。

 

話がどこに落ち着くかわかんなくなってきてしまったけれど、友達と話していて、考え方や得意不得意がここまで違うことに気付けて、ものすごく面白かった、という話。

覚え書きとしてのはてな

Twitterはてなblogの存在を知りました。

なにかきっかけがあって、書きたいことが出てくると、今まではTwitterアカウントでちょびちょびと書いていたんですが、自分の場合はかなーり話が長くなってしまうので、これからはここにかきこんでいこうと思います。

書く内容は、人と人の話、好きな音楽の話、大事だなー、大事にしたいなと思ったこと、印象に残っていて是非書き留めたいと思ったことについて、つらつらと、だらだらと書いていこうと思います。

自分はベースの部分が阿呆で出来ているので、たまにおかしな発言をすると思いますが、ツッコミがあれば是非是非ください。では、これからお願いいたします。