気づいたときが綴り時

下書きを溜めこまないのが目標。不定期更新

ごめんね。

 

FC限定公開で且つ、『誰に共有することなく読んでいただけると。。。。』という文言があったので、Twitterに長々と書くのではなくこのような形をとりました。

 

2016年頃から好きで、この人たちの楽曲、人生観、人柄、愛に沢山救われてきて今があると言えるくらい大好きなアーティスト。

彼ら〈Mrs. GREEN APPLE〉が新たなステップに進むためにフェーズ1としての活動を完結させて活動を休止すると宣言したのが2020年の7月8日。

 

休止前の彼らは、ツアーの最終公演で次のツアーを発表するのが定番になっていたくらい、次から次へとバンドのビジョンを広げて精力的に活動していました。

しかもツアーは毎回のように新しい驚きが盛り込まれていて、インタビューを覗けば何年も前から計画されていた構想だと明かされていたりして、(この人たち、私たちの何年先を生きてるんだろう?)と思っていたくらい。

 

常に新鮮で、「バンド」という枠を超えた楽曲やステージを生み出すあざやかな手腕に、今度はどんなことを考えているんだろう!といつもワクワクさせられていました。

 

だから、

活動休止する時も大がかりな何かを創作するために必要なんだと思って、何ひとつ不安はありませんでした。

フェーズ1のラストを飾るべく、『5』というベストアルバムが制作されて、そこでも彼らは「スターダム」という曲を披露して過去の伏線回収をしてみせた。

 

彼らの歌う「心配ないよわかってるから」にすごく安心していた。

 

余りにも強すぎて、あざやかな幕引きすぎて気付けなかったよ。

 

 

ごめんね。

 

 

 

2018年、

ENSEMBLE TOURを終えたある時期、

元貴くんが急にSNSを更新しなくなって

4キロ痩せたとの話もあり

ファンがとても心配したことがありました。

 

 

2018年11月17日、

ゼンジン未到とプロテスト ~回帰編 ~というライブハウスツアーの初日で

元貴くんの姿を見て安堵したことを覚えています。

元貴くんはこの日、元気?ときかれて、正直に

「ちょっと元気。」と笑っていたっけ。

 

 

2020年2月16日、

エデンの園というツアーの最終公演でひろぱが号泣。

ステージで泣くことも珍しいのに

ファンに向けて挨拶の言葉を紡ぎながらポロポロとかじゃなくて、嗚咽ってくらいに泣いてしまったひろぱ。

元貴くん以外のメンバーもみんな、感極まった様子だったこと。

 

全部覚えています。

 

 

 

だからとても寂しい気持ちになった。

みんなが知りたがって、説明してくれないことに距離を感じていた「真実」とやらはこんなにもくるしいものだったのか、と。

 

すべてを話して休むという選択肢、

当時の彼らにはなくて

5人必死に手を取り合って、何とかその危機を乗り越えようと2年間もそんな強がりをさせてしまっていたんだな、って。

 

プロとしては物凄く立派なこと。

だけど、何もかもうまくなんていかないものでそんな事とも知らずに心を痛めた時間がファンにはあって

それぞれの事情はあったにしても

すれ違ってしまっていたことが悲しい。

 

フェーズ1、フェーズ2という概念もソロ活動も

抱え込んでしまった弱い部分をファンに見せてしまうことなく、ミセスの音楽活動存続の道を模索した結果の産物だったこと。

 

できることなら活動休止したくなかった

メンバーの手を離したくなかった

 

誰よりも元貴くんがそう思って今日までの日を過ごしていたこと

 

私には想像もできないことでした。

 

 

 

2020年、辛かったね。

私も辛い。このコロナという世界線

そんな中、2021年3月まで毎週ラジオで寄り添ってくれていたね。

時には優しくギターを鳴らして、歌ってくれたね。

貴方はいつも人のためにはいくらでも強くなれる人だったんだ

 

 

 

 

いつぶりに見たのかな、今まで見たことあったのかな。元貴くんの素直な感情の吐露を。

丁寧に絡まりすぎた糸をほどくように思いを伝えてくれる言葉。

めちゃめちゃずっしりきて、泣いた、ごめん。

 

 

 

 

 

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

髙氏の声が画面から聞こえてくるようで

5人の決断は私なりに噛み締めた。

 

 

 

忘れてないよ

 

また会えて嬉しい。

 

 

 

 

燃えよ剣。

観てきました。

 

日本で今も熱く愛されている人々が、本当に目の前で生きているようだった。

好「演」という言葉が逆に失礼なのではと思うほど、近藤勇土方歳三沖田総司の動く姿や関係性がそのものに見えていた。

殺陣のシーン。土方歳三は腕っぷしが強く、叩き斬るような一撃で人を圧倒する剣さばき。対して沖田総司は、身のこなしの軽さと気高く洗練された鋭い剣使いが魅力。

剣を振るう姿とは真逆に、仲間と話すときはいつも穏やかに楽しげな沖田が私は好きでした。

 

彼は士道や世の中の為というより、大切な仲間の道を切り開くために迷いなく剣を振る男に見えました。だからこそ、山南さんの介錯ののちに病床で「この剣が切ったのは山南さんだけです。」と話す沖田は哀しかった。

晩年は新撰組がくるしい状況ながら共に戦うこともできず、独りで、誰にも看取られずにこの世を去ってしまう。病床に伏せってからは、誰もが知っている沖田総司のその時が迫るのを見守るしかなかったけれど

透けて消えてしまいそうな姿に変わり果てても、明るい声で仲間の戦況を気にかける沖田の中に侍を感じました。

 

幕末の世の流れは壮絶で、昨日の正義が明日には悪とされる目まぐるしさです。

おのれの剣を振るう意味を考え続けた近藤 •土方の衝突と運命は、「逸話」「物語」として片付けることのできない辛さでした。なぜって、この世は国を護ってきたヒーローのような人々が報われ続ける場所ではなかったから。

この映画を観れば、新撰組の生き様にかならず心を揺さぶられる。でもその一方で、攘夷派の目線でこの人たちを見るなら決して正しい選択ばかりとは言えない。

嫌われる覚悟、命の行き先を自分の手で決める覚悟。

正しさを論じることよりも、覚悟を持って自分で道を選ぶこと。結局どの時代でもそれが人間のあるべき姿なのだと思う。

 

 

最後に。

剣を握る者たちと、俳優という人たちはきっと共通している。

俳優さんは「この人として生きる」と決めたら最後、どんな姿になってもその身に魂を宿す。「こう生きる」と決めたサムライが、自分の身を賭して戦いに赴くように。

 

 

 

 

誕生日

9月は、自分と、それからとても大切な人が誕生日でした。

いつのまにか大好きになった、太陽いっぱいの夏が終ってすぐのこと。楽しいことって終わりを感じるとたまらなく寂しくなってしまう。

でも、冬のおわりから徐々に高まっていく暖かい季節に向けてのうれしさみたいなものは、この9月のお陰で少しだけ長く息をしている。

 

***

 

生まれて約四半世紀の時が流れて

大人になってみればなるほど、ここまで自分一人でしてきたことなど何も無いと気付くことだらけだった。

いまの自分を造っているのは、昨日のあれ、のような出来事ではなく、食べたものが命に変わっていくように細長く積み重ねた日々だ。

長いこと実家ぐらしをしていた私だ、

お母さんが作ってくれていたゴハンや生活環境のお陰でいまはまだ元気なんだろう

ここからは、自分で近い将来に生きる私を養っていかなければ。

 

 

とても大切に育ててもらったと思う、

小さい頃を今振り返っても。

周囲の人の愛情というのは小さい頃がピークで、大人になればなるほど本当に一部の人しか自分を見てくれなくなって

なんだか遠い昔の温かさのように思えるけど実は違う気がしてる。

それを最近は、誕生日の度に感じます。

 

いつも歌から言葉を借りてしまうけど、これが今わたしの中に流れていることばだから

わかりやすいと思う。

書いてしまおう。

 

Five hundred twenty-five thousand
Six hundred minutes
Five hundred twenty-five thousand
Moments so dear
Five hundred twenty-five thousand
Six hundred minutes
How do you measure
Measure a year?

 

In daylights
In sunsets
In midnights
In cups of coffee
In inches
In miles
In laughter
In strife
In five hundred twenty-five thousand
Six hundred minutes
How do you measure
A year in the life

 

How about love?
How about love?
How about love?
Measure in love
Seasons of love
Seasons of love

 

アメリカのドラマ『Glee』で知った、Seasons of Loveという曲。

一年、52万5600分という大切な時間。

人生における一年を語るには何をものさしにすれば良いのだろう、

夕焼けの回数?コーヒーを飲んだ回数?それとも笑った回数?

いや

愛で測るのはどうだろうか

愛という季節ではかろう。

 

 

そんな歌。

The Quarterback という回で

何に向けられた歌なのかはみている人は全員分かっている、そんな冒頭の

どんな言葉も今の気持ちを表現するに値しない、そんな場面で

物語と、そこにあった本物の人生に対して歌われる言葉一つ一つに涙がとまらなくなった。大好きな曲だ。

 

 

 

一つ歳を重ねるたびに、

 

その一年を支えてくれた人たちの顔が浮かぶ。

いつもお世話になっている人は大体決まっているけど、なかにはほんの少しの関わりの中で心を寄せてくれた人なんかもいて

 

一つ年を重ねるたびに、

 

わたしの人生に愛が蓄積されていく、

そんなふうに思うようになったよ。

 

トンボは理想の男の子。

 

このまえの金曜ロードショー

 

 

魔女の宅急便

 

 

 

何回みてもどんなに感動しても細かいことは忘れちゃうタイプなので

「(どこがかは覚えてないけど) 魔女宅いいよな〜好きなんだよな〜 」と思いながら見ていて

 

思い出しました

 

やっぱりジブリ作品大好き、

登場人物が魅力的だし

舞台に描かれている街も人も。

エッセンスとして、大人が忘れちゃったような気持ちが散りばめられているところとか。

 

音楽を聴けば、キキに会えるような

自分がキキになったような気すらしてきますよね。

かならず といっていいほど、印象に残る曲が添えられているのもジブリ作品の特徴と思っています

 

 

 

 

 

 

それじゃあ、具体的に好きなところを。

 

 

 

〜魔女ノ宅急便ノスゝメ〜

 

♦︎ ジジが可愛い(ド定番 )

キキの家族。お友達。どこへ行くにも一緒

魔女にペットとして飼われている猫、という感じでは全然なくて、

作中では心配したりジョークを言ったり率直な気持ちを言ったり(今の本当にあの人の孫?ベッ!)

キキと軽快な「日常会話」を繰り広げます。

ホットケーキを食べる習慣はないけどジジのためにホットケーキを焼きたいし

一緒に仕事したいし一緒にどこへでも出かけたい。

 ジジは、キキ自身の心の声だという話もあるけど

どうなんだろう。わたしの心の声もジジだったら可愛いのに。

ちなみにウチには、お人形のフリをし続ける(?)ジジがいます

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♦︎ トンボ (ここ大事)

トンボってジブリの他の男性キャラクターに負けないくらい魅力的だし、素敵な子だと思うのに

魔女の宅急便 トンボ 好き」

魔女の宅急便 トンボ 男 理想」

魔女の宅急便 トンボ 魅力」

とか

検索しても全然ヒットしないから本当に驚きました。なぜなの。

(たしかに見た目は千と千尋の彼やハウルハウルと比べたら普通の男の子ではあります。巷では( ☍̱ )を探せに似てるとか言われる始末だ)

わたしが彼を好きな理由は、

【まっすぐなコミュニケーションをしてくれるから】です。

 これは

恋の構成成分が “好き。だから仲良くなりたい!” でできてる

10代特有の素直さだとも思うけども、トンボは 自分が傷つくとか、どう見られるとか、恥ずかしいとか

自分が行動するデメリットなんかまるで考えちゃいない。

真っ向勝負でパーティーに誘って、

行かないと言われても

 

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張り切って正装して、雨のなか ずっと待ってます。

交友関係が派手な人気者で、

魔女子サァーン!

なんて呼ぶからキキには不良(?)と思われてしまってるけど、

行動を見ていればキキと仲良くなりたいだけなのは一目瞭然!

大人になると、人はどうも考えることが複雑になって

考えすぎてしまったり

素直になれなかったり。

駆け引きしてみたり相手の腹の内を勘ぐることに躍起になって疲れてしまったり。

だから、わかりやすいアプローチとか誠実さとか、こういうまっすぐなコミュニケーションはつねに求めているし

きゅんとしてしまいます。

 

 

♦︎ ひとり立ちの物語

一人前の魔女になる。

それは、「一人で生計を立てること」と「自分がなりたいものになること」の2つの意味を持ったテーマ。

 

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やさしさに包まれたなら

この歌が本当に大好き。

自分があたりまえと思っていた生活が、すべて守られ、与えられてできていたものだと気づくのは

たぶん、家をでるとき。

なんでも揃っていたあの環境から

なんにもないワンルームへ引っ越して

なんにもできない自分から

なにかができる自分になりたくてもがく、

そのとき。

うまくいかないことがあっても、人との関わりの中で前の向きかたを学んでいって、ちょっと逞しくなる。

 

そんな、人生のなかで繰り返しおきる成長の物語の断片なのです。この物語は。 

 

 

 

#トンボ #魅力 #魔女の宅急便

ハッシュタグいっぱいつけときます。ふはは。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年・末

2017おわりました。

 

2018始まりました

 

平成30年です。

天皇陛下の退位が‘19年4月30日に決まっているので

平成の世も残り1年4ヶ月

翌年には東京オリンピックが待機

 

やっぱり、この辺で少なからず何かが失われて何かが始まるんでしょうなあ。

(´-`).。oO(できたらここでgo!go!vanillas の平成ペインを聴いてほしい)

バニラズ の「平成ペイン」は、昭和から平成を生きてる人タチと 平成に生まれて平成を生きてる人タチを合わせて ”平成” とうたっている曲なんですが

この曲生まれてて良かったなって思います。

きっとこの先の人には歌詞に織り込まれた時代の"雰囲気”が分からなかったりするんだろうな、なんて思いながら

生まれてこのかた平成を生きてきた平成っ子にとってはアンセム

経済と教育は真っ暗闇な時代だったかもしれないけど

それでも

自分の生まれた平成が愛しく思えます

 

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 .

 .

 .

 

 

2017年の年末は初めて、できなかったことへの後悔より歩を緩めずもっと先に進んでいきたい気持ちで終われた年でした。

現状に満足した訳ではないけど、かといってどこかの時点に戻りたい気持ちはない。やらねばならないことは来年やってやるぞという気持ち。

総じて、やりたいと思ったことはできていたかな。

 

ただこのブログに関して言えば

 

やっぱり 記事を書き溜めてしまっているのでもうちょっとその時点で更新したいなーっていうのはあります。

大体、文章の手直しをしているうちに次のイベントに突入している。

 


2017年はそんな感じでしたが

今年に入って思っていることは、お正月休み返上で働いている人と年末年始のお母さんは本当に偉い   ってこと。

世の人全ての休みが重なっていたら社会回りませんし、休みの人の楽しみも運営できません。

そして お母さんには正月休みも冬季休暇もないんだよなあ。

うちのお母さん見てて痛感しています。有難い。

 

 

 

スイッチが入るとき

私にとってスイッチが入るときはいつも、「くやしい」と思った時だったと思う。

「負けてたまるか」と思う時。

怒りもつよいエネルギーだけど、

誰かにぶつけてもいやな気持ちになるだけ。

 

でも、くやしい という気持ちは一気に放出したくなる。

そのためになにか行動をしたくなる。

自分にもなにかできるはず、と思う。

 

どんなに希望を持とうとしても自信は溜まらないのに

くやしい気持ちはそれを飛び越していく力があるなあと思うよ

 

泣きたいと思ったはずのできごとの根っこには

くやしい があるのかも。と思います。それに気づけたらあとはアクセルを踏むだけだね。

 

 

どうせ人と比べるなら、その人を超えるまで、だ

 

 

 

 

黒と白

先週、友達の舞台をみてきました。

 

私にとって友達は 全然連絡をとっていなくても

会えばついつい話し込むような人たちで

あんなにひとつのことしかしていなかったのが

それぞれに人生歩んでいるんだねえ。と思ったら

おもしろかったし居心地が良かった。

 

一点の強い個性が華やかで、なにをしてもその人とわかる

「黒」

 

驚くほどクセがなく繊細で、何者にもなれる

「白」

 

 

 

どちらも悩みの種になったりするけど

それでも強烈に素晴らしかった。

 

黒はどこにいてもそれとわかってクセになるし

白は美しくて、いつまででも見ていたくなった。