村上隆はなぜストリートアートを始めたのか? “サンプリング”する現代美術家たち

 

“ストリートシーン”が広がっている。

 

それは、たとえば、

10代を中心としたMCラップバトルの盛り上がり、

ストリートファッションがマスに届き始めていて、

海外ではヒップホップの手法のひとつである“トラップ”が流行し、音楽シーンをラッパーたちが席巻している。

 

あと、全然関係ないけど、「インスタスポット」として街中のグラフィティが注目されてるのもおもしろいなと思った。

調べたらむちゃくちゃカッコいいグラフィティをやってる人たちがいて、勝手にテンション上がったりとかしてる。

 

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コレ↑とかむちゃくちゃカッコよくないですか?  

 

 

社会的にも、

僕個人としても、

ストリートカルチャーの熱量が高まっている中で、

 

現代美術家村上隆がストリートアートを始めました。

 

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「なんでだろう?」という素朴な疑問。

 

村上隆といえば、ご存知のように、アニメや漫画などのオタクカルチャーを現代アートに組み込んで、世界的に評価されている現代美術家です。

 

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 ↑こういうやつ。

 

とはいえ、もともと、グラフィティは好きだったようで、Kaikai Kiki GalleryやHidari Zingaroといったギャラリーでグラフィティアーティストの展示会も企画・発信していた村上隆

 

村上隆がグラフィティを始めて、しかもコレが「めっちゃカッコいいじゃん」となったのだけど、オタクカルチャー → ストリートカルチャーの流れが正直理解できず(五百羅漢図はややこしくなるので一旦なしで)、「なんでだろう?」と不思議でした。

 

 

「なるほど」と思ったのは、この記事のおかげで。 

i-d.vice.com

ストリートウェアの有名ブランド — Supreme、Stüssy、A Bathing ApeそしてPalace — が、メインストリームのファッション界に危険なほど接近してきている。

 

 

欧米のファッションシーンにおいて大きな変化が起こっています。 

 

それは、ストリートファッションの侵略。 

サブカルチャーであったストリートファッションに、メインカルチャーであるハイファッションが接近しているという社会的な流れ。

 

代表的な事例は、日本でも話題となったSupremeとLouis Vuittonとのコラボです。

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再び登場──LOUIS VUITTON x SUPREME - オンライン・マガジン「LV NOW」|ルイ・ヴィトン公式サイト

 

いろいろな見方があって、いろいろな事情があるけど、

サブカルチャーメインカルチャーを食った瞬間だと思う。

 

そもそも、村上隆Louis Vuittonとコラボした過去があったりもするわけだけど、

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Takashi Murakami and Louis Vuitton Are Discontinuing Their Multicolore Monogram Collection | HYPEBEAST

 

なによりも、この「サブカルチャー」と「メインカルチャー」の関係性こそが、村上隆がアート作品として表現しているコトのひとつです。

 

つまり、

現代アートというハイカルチャーに対して、アニメや漫画のサブカルチャーを武器として背負い、

そして、欧米中心主義の現代アートシーンに、非欧米人である日本人として闘いを挑みました。

 

欧米独自の理論構築によって堅牢なシステムと化している現代アートシーンに対して、村上隆は、むしろメイン(欧米)とサブ(アジア)の構造を戦略的に利用し、ハックして、メインカルチャーのシステムに対して一撃をぶち込んだ。

  

だからこそ、ストリートファッション(サブカルチャー)が、ハイファッション(メインカルチャー)に侵食した現象に、村上隆は正しく誠実に反応した。

 

という結論なんだけど、

このあともう少し詳細に語っていきます。

 

村上隆の“サンプリング・アート” 

 

まずは、欧米が支配するアートシーンにおける村上隆の戦略(立ち位置)について。

 

1980年代以降、欧米のアートシーンでは、「シミュレーショニズム」という表現手法が流行っていました。これは「印象派(ゴッホ)」とか「ポップアート(アンディー・ウォーホル)」みたいなアートのジャンルのひとつだと思ってくれればいい。

 

「シミュレーショニズム」は、「あなたが観て感じた唯一無二の世界を描け」みたいなゴッホなどの19世紀を経て、大量生産大量消費という「オリジナルよりもコピー」に対する需要が高まった20世紀に生まれたアイデアです。

例えば、バッグが大量に生産されて誰もがバッグを所有できるようになると、今度は自社のバッグを買ってもらうために他社との差異をつけるため、いわゆる“ブランド”が生まれました。

 

“ブランド”とは、物体ではなく、イメージや記号です。

 

そういったイメージや記号に注目して、それらを利用(正確には、コピー、盗用、引用 ※1)して新しい作品を生み出すという試みが「シミュレーショニズム」です。

(※1 ちなみに、今回はストリートカルチャーの話でもあるので、本記事については、1970年代以降のヒップホップから生まれた“サンプリング”という単語を使うことにします)

 

例えば、20世紀において成功した現代美術家のひとりであるジェフ・クーンズも、「シミュレーショニズム」の美術家です。

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Jeff Koons - Artwork: Balloon Dog

 

キッチュ(「けばけばしさ」や「古臭さ」や「安っぽさ」)」というキーワードで語られることの多いジェフ・クーンズの作品は、大量生産大量消費社会において生まれた(アメリカの一般家庭の)どこにでもありそうなオモチャなどの“イメージ”を現代アートにサンプリングした。

 

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Jeff Koons - Artwork: Titi

 

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Jeff Koons - Artwork: Popeye

 

「じゃあ、日本人ならどういうシミュレーショニズムを行うべきか?」と、村上隆が問いを立てたかどうかは知らないけど、彼がサンプリングしたイメージこそが、日本のアニメや漫画の“イメージ”や“記号”です。

  

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ヒップホップでは、サンプリングという手法があり、過去あるいは最近流行っている楽曲やほかのラッパーの発言を、現状のシチュエーションに上手く置き換えてラップすることで、高く評価される文化があります。

 

ともすれば、文脈依存しがちで、「知らないとわからない」ことになってしまうけど、そこの情報の重なりを楽しむ高度な遊びは、一種のゲームとして、現代アートやヒップホップの魅力のひとつに思えます。

 

サブカルチャー側であることを徹底的に演じること

 

情報の重なりという視点で言うと、 

村上隆は、さらに、遠近法を主とした欧米の空間把握に対して、日本独特の平面的な空間把握を提示するという対比を重ねています。

そうすることで、日本人ならではの作品として、ほかの欧米の現代美術家との差別化を図った。

また、現代アートに対するアニメや漫画などの“ハイカルチャーサブカルチャーの関係性”に加えて、現代アートの中心地である欧米に対する日本という“中心と周縁の関係性”といった「あなたたち(欧米人)からは決して生まれない表現、その差異」を徹底的に強調することで、作品のオリジナリティを獲得しました。

 

「バックグラウンドを含めて、あらゆる要素を査定するんですよ。(中略)言っちゃ悪いがこちらは乞食なんで。サーカスの小人と同じ扱いだったら僕を見てもらってもいいけど、それ以外の何者でもない」ということ。それで向こうとしてもある意味、安心して僕を受け入れることができたわけです。ああ猿回しをやる集団か、それなら面白いからやってもらおうということです。
(「村上隆完全読本 美術手帖全記事1992-2012 (BT BOOKS) P89」より)。

 

上記のように、欧米での自身の立場を語る村上隆

この引用部分の前後のインタビュー内容からも想像するに、現在のアートシーンは、やはり欧米中心であり、日本人であることがすでにハンデを負うことになるのかもしれない。

だから、そうであることを利用して、(言い方は非常に悪いのだけど)イエローモンキーとして、戦略的に表現活動を行なっている。

 

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だからこそ、欧米のファッションシーンで起こっていたサブとメインのムーブメントに反応し、その要素を作品に組み込むことはブレのない一貫したパフォーマンスとなる。

 

村上隆は、グラフィティ文化をサンプリングすることで、サブとメインの関係性を表現し続けている。

 

あるいは、そこには、1980年代に時代の寵児となった黒人のグラフィティアーティストであるジャン=ミシェル・バスキアとも重なる部分もあるように思う。

 

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早世の天才画家 Jean-Michel Basquiat(ジャン=ミシェル・バスキア)の作品と生涯

 

イエローモンキーだなんていう時代錯誤な言葉を使ったけど、ある種のトリックスターとして、2008年には『タイム』誌が選ぶ「世界で最も影響力のある100人」に選出されたりとかむちゃくちゃカッコいいんですよ...!

 

また、大量生産大量消費によって「ブランド」が生まれ、そして、「シミュレーショニズム」が生まれた歴史をふまえると、村上隆Louis Vuittonとコラボしているのは、皮肉が効いてるというか、共犯関係的な遊びにも感じられて、大人ってカッコいいなーと思いました。

ちなみに、「シミュレーショニズム」の作家であるジェフ・クーンズもLouis Vuittonとコラボしています。

 

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オタクカルチャーや五百羅漢図など、日本を軸とした作品を手がけてきた村上隆が、今回のストリートアートによって、そこから脱して、より広い主語でサブとメインの構造を扱えるようになったと思っています。

 

・注目のグラフィティアーティストたち

 

あと、コレは完全にぼくの予想というか、村上隆ファンなので深読みしすぎでは?という感じでもあるんだけど、上記のグラフィティアートの制作過程で、日本のアートシーンの問題をも作品に重ねていると思ってて、それがすごいなと。

 

日本のアートシーンの問題は、シーンを成立させるほどにはアート作品が売れないということにある。

結果として、美術系予備校や貸し画廊といった美術家になりたい人を対象にしたアートビジネスが欧米と比べて発達している。

 

ギャラリー運営や若手アーティストの登竜門的な祭典『GEISAI』などを通じて、若手の育成・発信にも挑戦していた村上隆にとって、自作品にほかのグラフィティアーティストを起用することは、育成としても発信としても無駄がないように思える。

 

大事なのは、技術や思想もだけど、海外のマーケットに食い込むためのコミュニケーション能力、つまり“社交力”であって、経済界で財を築き上げた富豪や巨額のアート作品を売り歩くギャラリストといった“曲者たち”を相手に「いいね!」って言ってもらうための立ち回りが大事なのかもしれない。

 

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左が村上隆の作品に参加しているグラフィティアーティストのMADSAKI。

 

村上隆の作品に関わることは、クレジットとして若手作家のプレゼンテーションになるし、同時に、オープニングパーティーにも呼ばれて実際の社交の場に参加できたりもするので、そういう意味で、新しいアプローチだと思ってる。

 

日本のアートシーンがいまひとつ閉塞感から脱しきれないのは、それを打破するためのコネクションがないからで、欧米で認められたからこそ成せる村上隆の方法論は、日本の現代アートシーンとの対比としてもおもしろいアイデアです。

 

 

以下、せっかくなので、Hidari Zingaroで開催された展覧会と、

そこに参加してたカッコいいグラフィティアーティストの3人を紹介して終わります。

 

hidari-zingaro.jp

 

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あと、ほんと全然関係ないけど、

KAI-YOUの記事で、SEEDAが「登録者数10万人越したら村上隆さんに来てほしい」って言ってるのむちゃくちゃおもしろいのでぜひ実現してほしいと思った。

kai-you.net

Chim↑Pom個展『Sukurappu ando Birudo プロジェクト 道が拓ける』がむちゃくちゃよかったのでみんなも行ってみてくれ。

 

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道が拓ける | Chim↑Pom with 周防貴之

 

もう終わってるけどな。

 

 

 (…いや、ほんとすいません………)

もちろん会期中にブログ出せたらよかったんですが(会期も延長した)、書くにあたり調べなきゃいけないことがあったり、スプラトゥーン2がおもしろすぎたりと、ぶっちゃけサボってたらもうこんな時期に…

 

それでも、8月のChim↑Pomの個展『Sukurappu ando Birudo プロジェクト 道が拓ける』を観にいって、「めちゃくちゃカッコいい…!」ってテンション上がって、このカッコよさはどうにかして伝えたいなーと思ってました(ジョイコンを握りしめながら)。

 

Chim↑Pom先輩!もう一生ついていきます!!!」って感じで惚れました。まじでカッコいいです。

 

 (あまりのカッコよさに語彙力が崩壊した感想ツイート)

 

Chim↑Pomは、

「お騒がせアート集団」とか言われたり、

Googleで「Chim↑Pom」を検索すると、予測変換で「Chim↑Pom 嫌い」って出てきたりする。

例えば、渋谷でノラネズミを捕獲し、剥製にして「ピカチュウ」にしちゃう作品『SUPER RAT』とか、コレ現代ならもう完全に炎上案件ですし、

 

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SUPER RAT | Chim↑Pom

 

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SUPER RAT (diorama) 2008 渋谷で捕獲したネズミの剥製(5匹)、渋谷の街のジオラマ、ビデオ、モニター、ほか 136×Ø87cm Photo: 梅川良満
SUPER RAT | Chim↑Pom

 

Chim↑Pomを嫌悪する人がいるのはよくわかります。

 

わかりますよ。

けど、渋谷の路上でネズミを追っかけ回してた若いチンピラ集団(失礼)が、10年のときを経て、他の追随を許さないようなぶっ飛んだ「強烈な一撃」を、欧米が支配をするアートワールドに対してぶちかました。

 

そのカッコよさを、「なぜカッコいいと思ったのか?」を、知ってほしいし理解してほしいし共感してほしい。

 

Chim↑Pomはいいぞ….」って言いたいだけなのに、いつも通りアホみたいに長文になってしまったのでわりと死にたい。

 

個展の会場をビルごとぶっ潰したChim↑Pom

 

そもそも「アート」ってご存知ですか?

 

いちど前提を共有したいのですが、

「アート」は、「好きなものを表現するモノ」です(異論は認める)。

ただし、その「好きなもの」とか「心地いいモノ」は、時代や環境によって変わってくる。

 

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www.moae.jp

 

(↑ 時代や環境によって人々の好きなモノが変わる例として秀逸すぎるやつ)

 

好きなモノは、時代や環境による影響が大きい。

つまり、「好きなモノ」の理由を突き詰めると、"個人的な快感原則"から、"時代や環境"にスケールアップする。

 

例えば、アニメが好きだった現代美術家村上隆は、そもそも「アニメを楽しむ日本人(=オタク)とは何か」を考えて、(好き嫌いというよりも)その回答を現代アートとして表現した。

だからこそ、海外のアートシーンで高い評価を獲得したのだと考えています(ひとつの要素として)。

 

では、Chim↑Pomはどういう立ち位置になるのか?

 

今展は、去年(2016年)の10月に開催されたChim↑Pomさんの個展『「また明日も観てくれるかな?」~So see you again tomorrow, too?~』の続編となる展覧会です。

 

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So see you again tomorrow, too? | Chim↑Pom

 

 

10月の個展は、新宿歌舞伎町で行われた展覧会で、会場は解体予定のビル。作品はChim↑Pomの初期代表作『Black Of Death』や、上記の『SUPER RAT』のジオラマ作品、歌舞伎町から発想を得た新作まで幅広い作品が並んでいました。

 

『Sukurappu ando Birudo プロジェクト 道が拓ける』では、歌舞伎町での展覧会をそのままビルごとぶっ潰して、その作品の残骸やビルの瓦礫を高円寺のキタコレビルに運んで、作品として再構成するという展覧会でした。

 

会場の高円寺・キタコレビルは、築約70年のバラックのような建物であり、2014年からはChim↑Pomのスタジオ兼ギャラリーとして機能している場所です。

その「自分ん家的な場所」に道を通した作品『Chim↑Pom通り』は、歌舞伎町のビルの瓦礫を埋め立てて舗装して、公共の道を作りました。
(正確には、そのほかにも渋谷パルコ、旧国立競技場の解体工事で出た瓦礫も使っている)

 

ほかにもいくつか作品はありますが、とりあえず今回は『SUPER RAT -Scrap & Build-』という作品を中心に話を進めます。

というのも、この作品が、一連のプロジェクトのタイトルにもある「スクラップ&ビルド」を体現している作品なので。

 

『SUPER RAT -Scrap & Build-』は、『SUPER RAT』のジオラマが歌舞伎町となったバージョンですが、作品は歌舞伎町のビル解体と一緒に、無残にも破壊されてボロボロになっていました。

 

で、会場でこの作品を観て「なんだこれやべえな」って思ったんですけど、その崩壊した都市・歌舞伎町のジオラマ作品の中に、生きたネズミがいました。

 

崩壊した都市(ジオラマ)と、

身動き一つしない死んだネズミ(剥製)と、

作品の中を自由気ままに動き回る、生きたネズミ。

 

なんていうか、この対比がもはや切なすぎて「うおおお………」ってなりました。

 

いや、だってこれはもう、まさに「スクラップ&ビルド」だから。

2020年のオリンピックに向けた再開発として、ビルが「スクラップ&ビルド」がされているTOKYOのオマージュである一方で、「スクラップ&ビルド」は、戦後復興のときのキーワードでもある。

 

それはつまり、

焼け野原となった都市を、

1からもういちど築き上げること。 

 

そして、死んだ街のなかに、

生きたネズミがいるということ。

 

『SUPER RAT』は、路上でネズミを追っかけ回してた若いアーティスト集団のポートレートとして始まった作品です。

 

しかし、ふと気がつけば、それは"日本人"のポートレート作品としても機能している。

 

少なくとも、

2011年を経て、2017年を生きている私は、炎上案件だったネズミの剥製が、"ここ"で接続してきたモノの重さに呻き声を上げつつ、それを背負って立つChim↑Pomのカッコよさに惚れました。

 

個人の“何か”が時代と重なる瞬間が、僕はとてもカッコいいと思っている。

 

 

アートはポケモンみたいなもんで

 

もうひとつ、別の視点で今展に触れてみます。

 

まず、現代アートには、バトル漫画みたいな側面があって(そこが好きなんですが)、作品ひとつひとつが必殺技、能力名みたいなもんだと思ってます。

そして、いわゆる「アートの文脈」というモノは“属性”です。“属性”のポピュラーな例だと、火属性とか水属性と草属性とか。

 

もう少し具体的にいうと、美術史には時代ごとの傾向みたいなモノがあって、例えば「ポップアート」「シュルレアリスム」「ランドアート」とかがあって、この括弧書きが属性みたいだな、と。

 

もっと具体的な話をすると、
例えば、「ミニマリズム」という“属性”がある。

ミニマリズム」は、1920年ぐらいに生まれた“属性”で、それぞれの“属性”には誕生秘話があって、それぞれの時代とリンクしててこれがまたおもしろいところなんですが、吐きそうになるほど複雑なので今回は割愛します。

一応、こういうのです。

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‘Untitled’, Donald Judd, 1980 | Tate

 ミニマリズムポケモンみたいなもんですね)

 

また、現代アートには、過去に行なわれた表現をさらに新しく展開することで高く評価されるという側面があります(進化みたいなもんですね)。

 

例えば、ジェフ・クーンズの作品『Three Ball 50/50 Tank (Spalding Dr. J Silver Series)』は、「ミニマリズム」と、日常品(バスケットボール)をアートに利用する「ポップアート」の2つの属性を組み合わせて、能力を発動しています。(能力名:『Three Ball 50/50 Tank (Spalding Dr. J Silver Series)』)

 

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Jeff Koons - Artwork: Three Ball 50/50 Tank (Spalding Dr. J Silver Series)

 

あるいは、ダミアン・ハーストの作品『The Physical Impossibility of Death in the Mind of Someone Living, 1991』も、同じ属性の組み合わせかと思います(かつ、そこに動物の剥製を持ってくるというトチ狂ったアイデアが最高にカッコいいわけですが)。

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The Physical Impossibility of Death in the Mind of Someone Living - Damien Hirst

 

この“属性”が「現代アートは難しい」と言われる原因のひとつで、"ルール"でもあり、「知ってるともっと楽しくなる」要素です。

 

たとえば、去年、一大ブームを巻き起こしたMCラップバトルでは、勝敗を決する要素として、韻とフロウがあります。だけど、観客が湧くのはそれだけじゃない。明文化できない熱量だったり、対戦相手との関係性から生まれる言葉の応酬に心を打たれたりする。

 

“属性”(=「アートの文脈」)は、韻やフロウに近い気がしています。つまり、玄人向け。知ってるとより楽しめるモノ。感覚的にスゴイと思っても、何がどうスゴイのかを説明できるかどうかは別問題です(MCバトルを観始めたときは「あのフロウがやばい」って言われても、そもそも「フロウ」ってなんだよって思ってました)。

「いまのフロウはやばかった!」みたいな感覚が、Chim↑Pomの個展でもあって、それを伝えたいという話です。


今展の“属性”で、特筆したいのは「アプロプリエーション」で、「いまのアプロプリエーションはやばかった!」みたいな感覚があったんです。

 

「は?なに、専門用語だしてイキってんだよ?」って思うかもしれませんが…!まじでちょっと話を聞いてほしい。

 

まず、「アプロプリエーション」(appropriation、盗用)は、1980年代に発生した“属性”で、過去の著名な芸術作品や商業広告などの既存のイメージを作品に利用しながらも、もともとのイメージとは違う、別のイメージに再構築する手法です。

 

たとえば、シンディー・シャーマンという作家がその初期代表作家として名前がよく上がります。

シンディー・シャーマンは、広告写真のイメージを再構築し、別のイメージに置き換えました。つまり、広告写真っぽいイメージを、シンディー・シャーマン自身のポートレイト作品に導入して撮影したのです。

そうすることで、誰もがどこかで見たことのあるようなイメージとなると同時に、広告シーンにおける"女性像"を浮き彫りにしました。

それは「女性はこうであるべき」というような社会的な固定観念の裏返しです。その社会的な女性像を押し付ける風潮は、現代日本でも度々問題になりますが、そういった固定観念に対して一石を投じる表現でした。

 

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MoMA | Cindy Sherman | Gallery 2

 

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MoMA | Cindy Sherman | Gallery 2

 

Chim↑Pomは、この「アプロプリエーション」という属性を、巧みに、あるいは大胆に今展で導入してきました。

既存のイメージを再構築して、別のイメージに置き換える「アプロプリエーション」。

 

ここでChim↑Pomがアプロプリエーション(盗用し、イメージを別のものに)したのは、ひとつまえの展覧会(『明日もまた見てくれるかな?』)であり、その新宿の雑居ビルです。

 

これがもう、なんていうか、ただただシンプルに「やばすぎる」としか言えないし、Chim↑Pomほんと最高…カッコいいとしか…(語彙力の敗北)。

え、だって、自分たちで開催した展覧会をビルごとぶっ潰して、その巨大な瓦礫たちを素材とするっていうそのありえん規模感まじでぶっ飛んでて最高じゃないですか?

便器やブリロボックスといった既存のモノを別の文脈に置いてアートにする手法は、みんなが大好きなマルセル・デュシャンもアンディー・ウォーホルもやってるけど、その手法をChim↑Pomらしく、脳みそを鉄バットでスパコーーーンっ!とぶっ飛ばされるような常識はずれなインパクトでやってのけてて、それはもうほんと笑いながら「すげーな」って感動するような凄まじさ。

 

だって、この質量ですよ?

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The Road Show 2017
都内各地から集められた廃材と土による土壌モノリス、アクリル、キタコレビルの地下
photo:Kenji Morita
©Chim↑Pom Courtesy of the artist and MUJIN-TO Production, Tokyo

http://chimpom.jp/project/michi.html#k8

(会場の地下にある作品『The Road Show』。会場の土台は瓦礫を積み重ねて作っているが、それを真横から観ることができる作品)

 

破壊したビルの小石をチョロっと使ってすまし顔で「新作だぜ?」とかそんなレベルじゃなくて、場所をひとつ再構築して、しかも"道"っていうChim↑Pomにとって重要なテーマにもしっかりと接続してる。

 

「今までにないモノが観たい」というモチベーションでアート作品を日々観て回ってる僕としては、質量は特に大事で、肌感でやばさが実感できるモノ(とにかくでかいとか)はそれだけでもうテンション上がって脳汁ドバドバ出るっていう個人的な性癖もあるけど。

 

とりあえず、「このアプロプリエーションはやばい…!」っていう感覚。

しかも、欧米がルールとなるアートワールド(デュシャンやウォーホル)に対して、アホみたいなスケールでバチバチに殴りかかってて、重たい破格な一撃として、新しい表現展開として、評価されてくれ…!って思うわけです。

 

Chim↑Pomはいいぞ...

 

つまり、コレが↑言いたかった...!

 

...「カッコいい」モノって世の中たくさんあるけど、同時に、「強い」モノってあんまり知らなかったので、いつも以上にテンション上がりました。

10年続けて、しっかりと結果も出してて、それでこういう規模感に到達できるっていうのがなんだかいいことだな、と。

 

また、蛇足ですが、「スクラップ&ビルド」は、キュレーターであり、アートワールドの重要人物であるハンス・ウルリッヒ・オブリストが注目する「メタボリズム」にも通じるものがあると思っていて、

プロジェクト・ジャパン メタボリズムは語る…

プロジェクト・ジャパン メタボリズムは語る…

 

 

 “ここ”にも接続できるし、むしろ今回接続できたんじゃないかと勝手に喜んでますよ、僕は。

(このハンス・ウルリッヒ・オブリストは、ロンドンの美術雑誌『ArtReview』が毎年発表する「現代アート界で最も影響力のある人々」のランキングで、2016年度1位を獲得した人物です。 Power 100 / ArtReview

 

っていうことで、一応、展覧会を動画でいい感じにまとめたモノ(公式)があったので、共有しておきますね。2つの展覧会の雰囲気がなんとなくわかります。

 

www.youtube.com

 

社会的評価(主に、金銭面)がもっと上がることで、今後の作品展開もおもしろくなるだろうし、Chim↑Pomのカッコよさが伝わるといいなー。

 

 

 という話でした。

人生ではじめて感情を止めたいと思った演劇の話 | マームとジプシー『sheep sleep sharp』

 

「人生でいちばん感動した瞬間は?」

 と聞かれたら、

豊島美術館内藤礼さんの作品を観たとき」と答えるようにしている。

 

http://benesse-artsite.jp/art/assets_c/2015/10/teshima_museum_top-thumb-1440x967-152.jpg

benesse-artsite.jp

 

豊島美術館は、とてもきれいで、穏やかで、静かで、

内藤礼さんの『母型』は、一瞬一秒たりとも同じ表情を見せない。

だからこそ、ずっと観ていたいと思える、ここにいたいと思える、とてもワクワクするような場所だ。

でも、「きれいだな」「素敵だな」と思う一方で、こんな場所を作ってしまうヒトに対して、ちょっとした恐怖感も覚えた。それほど、豊島美術館は、この世界にとって異質だった。

 

だから、

「人生でいちばん感動した瞬間は?」

と聞かれたら、

豊島美術館内藤礼さんの作品を観たとき」と答えるようにしようと思った。

 

それが、たしか、2013年とかその頃。

 

それから4年経って、2017年の5月初旬。

新宿のLUMINE0で、マームとジプシーの『sheep sleep sharp』を観た僕は、

 

「人生でいちばん感情がやばかった瞬間は?」

と聞かれたら、

「マームとジプシーの『sheep sleep sharp』を観たとき」と、今後は答えることに決めた。

 

https://obs.line-scdn.net/hd1eAuJJIJx91VDQROgIgZiQmMSd0WCxOZQx0cHU9bSxwDXgYNFdxfn9tYCcmW3lOYFgxf346MiZ2WA/m800x1200

sheep-sleep-sharp

 

「マームとジプシー」とボク

 

『sheep sleep sharp』は、藤田貴大さんが脚本と演出を務める演劇団体「マームとジプシー」による演劇作品。

 

演劇を観るのは、これが3回目。

 

ひとつはコレ。

www.parco-play.com

 

窪塚洋介 × イサム・ノグチ」という組み合わせに惹かれて観に行った記憶がある。

 

そして、もうひとつがコレ。

mum-gypsy.com

 

これは知り合いに誘われて観に行った。

 

寺山修司 × マームとジプシー」という組み合わせ。

“才能”にそもそも興味があるので、寺山修司は当然として、マームとジプシーの藤田貴大さんという若い演出家がいるということは、なんとなく知ってはいた。

 

『書を捨てよ町へ出よう』のときは、独特なリズムの台詞まわしに「なんだこりゃ、すげーな」と感じつつも、アジテーションとして、演劇はやっぱり優れているんだなーっていうことが強く印象に残った。

 

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 【ELLE】 「ミナ ペルホネン」長江 青の日記| 「書を捨てよ町へ出よう」マームとジプシー|エル公式ブログ

 

最後の、拳銃を撃つ瞬間、なによりも“身体”が高揚したことを今でも覚えている。

感情ではなく、“身体”が高揚した。あるいは、反応した。

それは、高揚というよりも、何かに突き動かされるような熱量に犯された瞬間だったのかもしれない。

 

『書を捨てよ町へ出よう』の舞台は、学生運動が盛んだった70年代(だったと記憶している)。

もしも僕が、政治や社会に対する鬱屈とした感情が漂う70年代に生きていて、敵対すべき憎悪の対象もしっかりと見定めていて、その時代にマームとジプシーの『書を捨てよ町へ出よう』を観ていたとしたら。

きっと、僕は、最後の銃声に触発され、劇場を駆け出して、銃を片手にテロルへと突撃していたに違いない。

 

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書を捨てよ町へ出よう | マームとジプシー

 

と、妄想する程度には、『書を捨てよ町へ出よう』の最後の銃声と、そこに至るまでの不思議な物語や演出によって、僕の感情はかき乱されていて、前後不覚というか、完全に僕のコントロール下を離れてしまっていた。

 

とにかく、あの銃声がすごくよかった。

つまり、「音は、耳だけでなく、皮膚でも感じられる」ということを実感した瞬間だった。

 

それは同時に、演劇だからこそでもあって、

「演劇っておもしろい(すごい)(やばい)かも…」

と思ったのがそのとき(いやまあ、世の中的にはもう散々っぱら言われてることですが...)。

 

 

それをきっかけとして「行こうかな」と思っていた次の『蜷川幸雄 × 藤田貴大』は、ご存知の通り、上演延期になってしまって。

そこから、一旦、演劇に触れる機会はなくなり、1年半ぐらいが経った。

 

が、ちょうど『sheep sleep sharp』の公演が始まるってことで、そのことに気付いたのがとある日の12時頃とかで、チケットの販売もその日の12時頃とかだったので、「あ、買える」と思って、買った。即座に。

 

そして、観に行った。

 

結果、むちゃくちゃよかった。

「人生でいちばん感情がやばかった瞬間は?」と聞かれたら、「マームとジプシーの『sheep sleep sharp』を観たとき」と、今後は答えよう!と固く誓うほどに。

 

豊島美術館のすごさは観に行ったことのあるひとはわかると思うけど、“あの美術館”と同列に語りたくなるほど「まじでやばかった」です。

 

もちろん、それぞれから感じ取った感覚はまったくの別モノではあるけれど、僕が人生で出会ったマスターピースBEST3は、今のところ、『豊島美術館(内藤礼「母型」)』と『sheep sleep sharp』です(3つ目はまだ空位)。

 

ヒトは、たとえ「嫌だ!」と叫んでも、感情が動く

 

『書を捨てよ町へ出よう』とは違って、『sheep sleep sharp』は、マームとジプシーの藤田貴大さんによる完全オリジナル作品。

閉鎖的な空間が理屈や個人的な感情を超えて奇妙な狂気を生み出すような、そんな作品でした。

 

物語については、正直、「アレは一体なんだったのか?」と、もっとちゃんとゆっくりと考えたいなーって感じではありますが(ただ、ヒントがないのでもう一回観たい)、劇中はもうただただ夢中になって、あの舞台を、観ていた。

 

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女優の青柳いづみさんが、静かに(しかし、確実に異様に)行儀よく椅子に座っているところから物語はスタートした。結局、その静けさと異様さは、終始、劇場に蔓延しへばり付いていたわけだけど。

 

そんな鬱々とした演劇のラストに、ある種のカタストロフィーとして、

www.youtube.com

コレ↑が流れたときは、もう本当に気が狂いそうだった。

 

というのも、

「というのも」というか、

 

『sheep sleep sharp』と対峙している間ずっと、役者の動きや仕草、台詞、そのイントネーション、BGM、物語のテンポ、絶叫、灯り、繰り返される会話など、そういった演劇が積み重ねる要素ひとつひとつに、感情が何かの反応をしていた。

嫌でも反応する。どこか奇妙な"それら"にどうしようもなく反応する。勝手に、感情が。嫌でも。

正直、死ぬかと思った。

 

ご存知の通り、ヒトは外的変化に影響を受けて、勝手に感情が動くもんだ。

 

そして、演劇は、映画や漫画と違って、いくつかの物語・現象・外的変化が、同じ瞬間に同じ舞台で起こっても、成立するんだと実感した。

漫画や映画は、1コマずつ物語と感情が進んでいく直線的な芸術作品だ。

つまり、1コマ・1フレームに詰め込められる情報量には限界がある。破綻するから。

 

しかし、演劇は違う(と思った)。

まったく違う感情の物語であっても、同じ瞬間に同じ舞台でも成立しうる。

だから、「悲しい」とか「やばい」とか「かっこいい」とか、アホみたいな量の、別々の感情がぶわっと一気に押し寄せる。眼や耳、そして皮膚によって。

たとえ「嫌だ」「やめろ」と叫んでも。

 

それに加えて、『sheep sleep sharp』には、奇妙で独特な、役者の動きや仕草、台詞、そのイントネーション、BGM、物語のテンポ、絶叫、灯り、繰り返される会話がある。つまり、藤田さんの演出だ。ひとつひとつが感情を逆なでる。

それらが、小さな町で起こった、少女による連続殺人の物語とリンクする。

 

www.youtube.com

 

そして、そのラストで、この曲だ。

「違う、違う、そうじゃない。そうじゃないはずだ!」と思いながらも、

「この物語は残酷だったはずだ、救いなんてどこにもなかったはずだ」と思いながらも、

それでも、最後になってようやく、たしかに希望をどこかに見出したような視点もあった。

 

絶望の感情と、希望の感情。

そういうぐちゃぐちゃとした感覚。

なんというか、笑いすぎて(息ができなくて)死にそうになることがあるけど、『sheep sleep sharp』は、それに近い感覚だったというか、感情(感動ではなく)が止まらなくて、観ていて本当に苦しかった。死ぬかと思った。やばかった。

 

それは、きっと、“場の空気”(という抽象的な言葉ですまん)を、眼や耳、そして皮膚で感じられる(感じざるをえない)演劇だからこそなんだろうなって。

 

 

 

『sheep sleep sharp』は、ほんとに、ほんとに、よかった。

いまだに、ちょっとまだ引きずってる。「あれはなんだったんだろう?」とか、ふとあのときの感覚を思い出して、ドキドキしたりしてる。

 

だから、「人生でいちばん感情がやばかった瞬間は?」 と聞かれたら、

「マームとジプシーの『sheep sleep sharp』を観たとき」と、今後は答えることに決めました。

 ほんとによかったです。

ゴスロリのかわいい女の子と仲良くデートしたい

 

ゴスロリのかわいい女の子と仲良くデートしたりお付き合いしたりできるのかな」ってふと思いました。

というのも、たまたま機会があって、ラフォーレ原宿に1日中つっ立っていたことがあったんだけど、そこですれ違ったゴスロリなあの子たちとぼくのファッションが、あまりにも違いすぎたから。

 

news.yahoo.co.jp

「個性」とか「自分らしく」とかそういうの大事だよねみたいな流れには全力でヘドバン肯定するし、「いやむしろもうそれしかないでしょ」って思うし、上記のりゅうちぇるさんとかスッゲーかっこいいなって思うけど、同時に、ちょっと怖いというか、「どうしようかな」って思ってる。

 

この「どうしようかな」という煮え切らない感じは、「アニメ好き同士で会話を始めると結局どこかでズレが生じ始める問題」に直面したときの感覚に近い。「アニメ好きなんだ!」「攻殻機動隊、いいよね!」「わかる!」「少佐かっこいい!」「わかる!」「少佐とサイトーの戦闘シーン最高!」「は?」「え?」となる現象。

 

「好きなもの」って突き詰めると、どこかで他人と共感し合えなくなる。

僕はあの瞬間がたまらなく嫌いだ。

それは、言わずもがな、「個性」も同様。

もちろん、コアな層同士で共感し合えるフェーズは確実にある。インターネットによって繋がりやすい時代にもなっている。でも、そこでさらに先に進むと、だんだんとコアな層もいなくなってきて、最後にはきっと一人ぼっちになる。

 

ここで「どうしようかな」って思う。

いや別に僕がどうにかできる問題でもないしどうにかできたところでどうにかするつもりもないんだけど、「どうしようかな」と思ってる。ひとつの思考実験として。

 

いわゆる“大きな物語”が死に絶えて、さらに「ブロックチェーン」とかいう“中央”に対して中指を突き立てるようなテクノロジーが今後何十年かで世界を席巻するらしいのだ。

本当かどうか知らないけど、個人的にはくそおもしろそうだなと思う。

 

それは、テクノロジーやそれを先導する覇権国家・アメリカと相性のいい「DIY」精神が根っこにあるから、きっとそのうち実現するに違いない。

日本だとひとつのライフスタイルとして歓迎されている「DIY」精神が、例えば「民主主義」という精神と同じくらいの破壊力をもって、大波のような勢いで世界を覆い尽くすことに期待したい。

 

辿り着く先は、

「個の自立」=「Do It Yourself」。

精神的にも、システムとしても、きっと個々の物語が強くなる。

 

そして、究極的には、僕らは語るための共通言語がなくなる。

 

 

きっと言語も同じだろう。

もっとキラキラした言語で会話したいという人はいるはずだ。

(ちなみに僕は、キラキラとしたお金も言語も興味ないです。oh...つまり、流通やコミュニケーションが死ぬ)

 

みんなが大好き中つ国のトールキンさんは、架空言語の創作者だ(いいぞもっとやれ)

dic.pixiv.net

 

みんなが大好き「バベルの塔」。

曰く、「神に近づきすぎた人類は、言語を乱され、そうして散り散りになった」という。

「ブリューゲル「バベルの塔」展」の画像検索結果

www.tobikan.jp

(ちなみに今年の展覧会で楽しみなひとつ〜〜〜)

 

以前のブログで、「アートとして“分断”に対抗する戦略を生み出したアセンブル最高!」みたいな記事を書いたけど、「個性を大切に」という謳い文句は「イエス!“分断”最高!」と高らかに宣言しているようなもんだ。

 

girlschannel.net

 

もしも“分断”がトランプ政権的な拒絶と排除の世界へと繋がるのだとしたら、例えば「量産型女子大生」たちは、“分断”に対抗するためのひとつの方法かもしれない。“経済”というシステムを導入することで、僕たちはまた再びひとつになれるのかもしれないと妄想する。

「没個性」と言われがちなユニクロだけど、いや「没個性」だからこそ、みんながみんなユニクロを着る世界になったならば、ターバンを頭に巻いた人たちとコミュニケーションするよりもきっとそのハードルは低いはずだ。

 

いやいやでもね、と。
それじゃあダメだよね?というのが世論だ(そう思いたい)。

 

だから「どうしようかな」と思う。

「少佐とサイトーの戦闘シーン」がいかに最高か?を説明するべきだろうか?

攻殻機動隊』が以降の作品に与えた影響がいかに素晴らしいか?を説明されるべきだろうか?

 

説明されて、いかに素晴らしいかを理解して、

しかし、共感できなかったとしたら「どうしようかなーーー」。

もちろん理解できればそれでいいんだろうけど、それだけだとなんだかちょっと寂しいなあって思う。

 

 だから、もしも「どうにかできる」のであれば、「どうにかしたい」わけです。(前言撤回)

 

とはいえ現状、ほぼノーアイデアなんだけど、

キュレーターの上妻さんによる試みはおもしろそうだなーと思う。

人類は初めから今の形で自動車を知っていたわけではない。
そのようなイデアは存在しなかった。
幾何学、物理学、工学、化学、車輪、蒸気機関の発明が、それぞれの潜在的な課題を湛え、それらが出会い、結合することで、蒸気自動車を生み出したのである。by上妻世海
 

ekrits.jp

 

幾何学」「物理学」「工学」「化学」「車輪」「蒸気機関の発明」の各学問や開発が、例えば分断された個性だとすれば、こういう繋がり方はアリだと思った。寂しくない。

こうやって異なるジャンルでもどうにか繋がって、“蒸気自動車”が誕生しちゃって、みんなでハイタッチできるなら、たぶんきっと寂しくない。

 

「」の中を、芸術家に据え置いて、

蒸気機関車”としての展覧会を企画し模索しているのが上妻さん、という認識です。

 

「何が生まれるんだ!?」というワクワク感がやばい。

「今まで観たことのないモノが観たい勢」としての期待も大きい。

今ここ、クソッタレな現実に存在してない“何か”を観たい、触れたい勢として。

(まじでおなしゃすという気持ち。楽しみ) 

 

期待しつつも「どうしようかな」とモヤモヤしている。

究極的には「ゴスロリのかわいい女の子と仲良くデートしたりお付き合いしたりできるのかな」という話なんだけどな。

 

i-d.vice.com

 

「ヒトがイルカを出産する」という未来がまじSFすぎて最高すぎるし切なすぎる。『長谷川愛 展 Second Annunciation』

 

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as-axiom.com

 

Ai Hasegawa Second Annunciation

長谷川愛 第二受胎告知

2017 01.28-02.25

 

「見たことのないモノが見たい」という欲望がたぶん強い。飽き性なんだろうとも思う。“それ”は、理解と共感という枠を踏み越えて、決壊したダムのように頭の中へと流れ込んでくる。その瞬間がすごく心地いい。

「おいおい、なんだこりゃ」と思って、「は?くそやべえな」と笑う。脳みそを鉄バットで思いっきりぶっ飛ばされるような、そういう爽快感。それが何かなんていう些細なことは一切気にせずとりあえず笑っちゃうようなおもしろさ。

 

人間やその他の生き物の遺伝子を操って、改変し、“美”の歴史を塗り替えていくバイオアートという領域が進行しつつある。

20世紀に、マルセル・デュシャンが便器を、ロバート・ラウシェンバーグが山羊の剥製とタイヤを、“美”の歴史に取り込んだことで、絵の具や石像でなくても、それは美術でありアートであると認められた。

それから、100年という短い月日が流れ、人類は、遺伝子操作を始めたとしたバイオテクノロジーを、“美”の歴史に組み込み始めている。

 

 ロバート・ラウシェンバーグモノグラム

 

前回の記事(“分断”と闘う建築家集団・アセンブル/『アセンブル 共同体の幻想と未来展』 - ヒーロー見参!!)で述べたように、iPhoneを起源として、僕たちはテクノロジーに対して「このクソッタレな現実を変えてくれるかもしれない」という期待を抱いた。

概念ではなく、実体のあるモノを。民主主義という理想や「自由・平等・友愛」という大義が、経済的困窮という実体のある現実と対峙して敗れ去ったことは、2016年末、移民排斥を唱える米国大統領の誕生によって証明された。

 

実体のあるテクノロジーに対する僕たちの期待は、メディアアート界隈の盛り上がりと呼応しつつも、同時に、バイオテクノロジーにも波及している。それは偶然といえば偶然なんだけど、2006年の「iPS細胞」や2013年の遺伝子編集技術「CRISPR/Cas9」の誕生などを例として、2000年代以降は、バイオテクノロジーが僕たちの期待に耐えうるほどの強度を持ち始めている。

 

『私はイルカを生みたい』... 

 

そうした流れの中で、バイオアーティストのひとり・長谷川愛さんは、2013年に「ヒトがイルカを産むことができる未来(=フィクション)」を作り出した。

 

『私はイルカを生みたい (I Wanna Deliver a Dolphin...)』

vimeo.com

 

ジレンマチャート。© Ai Hasegawa

長谷川愛 | 「人がイルカの子どもを生む」という想像力と、社会の多様性について « INNOVATION INSIGHTS

 

「よかったですね!素敵な人生を歩んで下さい!」というテンションとかまじで最高にマッド。超クール。人類の幸せをサポートするよう設計されたAIが理路整然と「人類淘汰こそが人類の幸せなんだよ!」と主張してくるような、そこはかとなく漂う薄気味悪さがある。

ヒトがイルカを出産するという未来は、僕の理解と共感の範疇を超えていて「なんだこれ、くそやべえな」と笑うしかなかった。ああ、最高。

 

「私はイルカを産みたい…」という作品は、私が30歳になり、出産に対して真摯に向き合わなければならない時期に環境問題が多くニュースに取り上げられていて、人口過多と食料問題のほか、「そもそもこれ以上人間は必要ないのではないか?こんなに破壊されてゆく環境に子供は強制的に産み落とされて幸せなのだろうか?」などを考えさせられました。
by長谷川愛SHIFT 日本語版 | PEOPLE | 長谷川 愛

 

「ああ、くそやべえな」と苦笑しながらも、それでも、僕らが直面している現実の問題は切実だ。LGBTによる結婚・出産をテーマにした『(不)可能な子供、01:朝子とモリガの場合』という作品もまた、排斥よりも多様性を願う人々にとっては、どうしようもなく“美しい”作品だろうと思う。

 『(不)可能な子供、01:朝子とモリガの場合』© Ai Hasegawa

『(不)可能な子供、01:朝子とモリガの場合』。実在する同性カップルの一部の遺伝情報からできうる子どもの遺伝データをランダムに生成し、それをもとに「家族写真」を制作した。現在の科学技術ではまだ不可能な「同性間の子ども」の可能性を示唆している。© Ai Hasegawa

長谷川愛 | 「人がイルカの子どもを生む」という想像力と、社会の多様性について « INNOVATION INSIGHTS

 

一方で、ダミアン・ハーストがダイヤモンドで塗り固めたドクロを生み出すような時代において、僕らのファッションがユニクロで覆い尽くされている時代において、理想や大義を捨ててまで経済的な安定を求める人たちに失望する権利なんて持っちゃいないし、あまつさえ見下すことなんて出来やしない。

 

 

Damien Hirst『For the Love of God』 2007 171 x 127 x 190 mm | 6.7 x 5 x 7.5 in Diamond Skulls

For the Love of God - Damien Hirst

 

「1+1=2」という残酷さ

 

LGBTの問題にしても経済的弱者の問題にしても、ああだこうだと訴える正論は糞ほどあって、それは合せ鏡のように、クソッタレな現実を映し出している。言葉を尽くせば人殺しだって正当化できる“理屈”というやつは、ものすごくたちが悪い。

だけど、その醜悪さがSFという物語においては、凶悪で魅力的な敵として立ち上がってくる。Science Fictionの醍醐味はまさにここで、科学(理屈の積み重ね)と人間の感情が衝突し、ぐちゃぐちゃと混ざり合うところにある。

つまり、「1+1=2」という絶対的で動かしようのない理屈が持っている残酷さ。「1+1=2は嫌なんだ!頼むからやめてくれ!!!」と血管がぶ千切れるほど叫んですがりついて喉を潰しても、「1+1」は「2」だ。

 

「出産と人口増加」「LGBTの広がり」といったテーマを扱う長谷川愛さんの作品が「ああ、素晴らしいなあ」と思うのは、どうしようもなく正論な現実問題がその根底に眠っているからだ。僕の感情がまだ少し「ヒトがイルカを出産する未来」に違和感を覚えていたとしても、その現実は否が応にも進行する。どれだけ必死になって「嫌だ!」と叫んでも、残酷な現実は感情を押し潰して進行する。そのどうしようもなくやるせない感じや切実さが僕は好きだ。

 

現実が僕たちの“美”の概念を更新する。倫理的に、あるいは身体的にまだまだ抵抗が根強く残るバイオという領域において、それでも、待ったを許さず進行する現実があって、テクノロジーが誰かにとってのフィクション(=美の概念)を生み出している。

例えば、LGBTの人たちが抱えている居心地悪さは、今もまだ彼らを自殺に追い込むほどの暴力性を持っている。そういった、じわりじわりと忍び寄る残酷さが長谷川愛さんの作品には潜んでいて、同時に、テクノロジーに対する僕たちの期待が再現されている。

 

どこまでも正しく美術史を更新しながら、

僕の大好きなSFの魅力を内包しつつも、

「ヒトがイルカを出産する」みたいなぶっ飛んだフィクションも展開する長谷川愛さんの作品たち。

いや、もう最高すぎる。

 

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Patricia Piccinini at the opening of the In The Flesh exhibtion at the National Portrait Gallery. Photo Jay Cronan 

Weird, wonderful art of Patricia Piccinini | Newcastle Herald

 

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Vincent Fournier『CLOUDY TRAVELLING DOG』

Photography – Vincent Fournier

 

あるいは、これこそがバイオアートの魅力だと思う。

もっともっと、倫理的にも身体的にもぶっ飛んでいて、 どうしたって受け入れ難いけれど、「ああ、でもほんとそうだよな...」と葛藤するような、バイオアートが日本でも生まれてくれるといいな。

 

twitter.com

 長谷川 愛|Ai Hasegawa
国際情報科学芸術アカデミーIAMAS)、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートRCA)などでメディアアートやデザインを学ぶ。2014〜2016年までMITメディアラボにてMaster of Science修了。『(不)可能な子供』で第19回文化庁メディア芸術祭アート部門優秀賞受賞。同作品を森美術館六本木クロッシング2016展:僕の身体、あなたの声』、 Ars Electronica 2016 『RADICAL ATOMS and the alchemists of our time』に出展。世界各国で作品展示を行い多数受賞している。

 

“分断”と闘う建築家集団・アセンブル/『アセンブル 共同体の幻想と未来展』

 

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www.vogue.co.jp

 

芸術とは、

「ああだったらいいのに、こうだったらいいのに」という“理想”がまずあって、それがたとえフィクションだとしても、何かのかたちとして出現させようとすること(かもしれないと考えている)。

 

かつては、絵画や彫刻を通じてその“理想”を描いてきたわけだけど、ある意味で有名な便器おじさんことマルセル・デュシャンによって、「アイデアなどのかたちのないモノであっても、ひとはそこに理想を見出してすがりつくよね!」という方向性が提示されて(僕の仮説ですが)、少なくとも絵画や彫刻というジャンルを越えて、アート作品が多様化し始めたのが20世紀初頭。

例えば、「働けば誰もが自由にモノを買える」という資本主義的なアイデアは、フロンティアの開拓によって発展したアメリカにとっては、まさに“理想”だったわけで、20世紀のアメリカ人が大量生産大量消費の時代を嬉々として受け入れたのは、共産主義の脅威とも相まって、その“理想”と合致したからだと思う。そうして大量生産大量消費というアメリカ国民の“理想”を、フィクションとして出現させたのがアンディー・ウォーホル。

 

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マルセル・デュシャン『泉』

 

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( Andy Warhol and Screenprinting - ASU    BOOKARTS  

 

という補助線を少し引いてから、表参道のGYREで開催された『アセンブル 共同体の幻想と未来展』がすごく良かったという話と、そのアセンブルがイギリスで最も権威のある美術賞ターナー賞を受賞した理由を、書いてみようと思う。

 

そもそも、2015年12月にターナー賞を「地域再生に貢献したイギリスの建築家集団・アセンブル」が獲得したと聞いたとき、正直、「は?」と思った。

栄誉ある国際的な美術賞を、建築家が受賞したというのがまず「え?」だけど、それ以上に、ターナー賞といえば、僕の大好きなダミアン・ハーストが95年に受賞した素晴らしい賞であり、パンクとロックの精神を王として(違う)築き上げられた偉大なる大英帝国において、そんな福祉活動じみた優等生なアート作品が選ばれるなんて...と失望したわけです。鬱々としたダーティーな雰囲気で曇り空がお似合いのイギリス人は、サメのホルマリン漬けでも出しておけ、とそういう言い分である。

 

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『生者の心における死の物理的な不可能』(1991年)

( 【完全解説】ダミアン・ハースト「生と死」 - 山田視覚芸術研究室 / 前衛芸術と現代美術のデータベース )

 

もはや心の中で中指を突き立てながらも、「とはいえ、ターナー賞というすごい賞をとった人たちの展覧会ならば観るだけ観ておかないとなー...」と会場に足を運んでみたわけですが、これがまあ素晴らしかったというオチなんですよ。

最近考えていたことと似ていた、という妙な言い方で褒めますけど、アセンブルの作品には以前の記事( どうして現代アートは数千万円・数億円もするのか? - ヒーロー見参!! )で書いた現代アートのおもしろいところがありありと含まれていて、やっぱりうんおもしろいなーとしみじみ思ったわけです。

 

建築家集団・アセンブル

そのおもしろさのキーワードは、

DIY』『実践』『公共圏』。

 

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( Assemble and Study O Portable for Icon – harryborden.co.uk )

 

まずは、アセンブルについて

 

アセンブル 共同体の幻想と未来展』では、アセンブルが手がけた建築的プロジェクトのうち、ターナー賞で受賞対象ともなったリバプールのトックステス、グランビー・フォー・ストリーツでの活動が主に作品として展示されていた。

前提として、このグランビー地区は、かつては造船業で栄えた地区だったが、1970年代の経済不況と1980年代の暴動、また自治体による住宅の強制買収によって多くの住民たちが土地を追われ、廃屋が立ち並ぶ荒廃した地区になったという。

それでも、ヴィクトリア朝の美しい街並みが残るグランビーを守ろうと、市民たちが20年もの間ずっと奮闘し続けている。そういった動きの中で、アセンブルは、グランビーにあるケアンズ・ストリートの廃屋を修復するプロジェクトを依頼される。

 

展覧会の会場では、そのプロジェクトの様々な取り組みが、写真作品や映像作品、模型やイメージイラストなどによって幅広く紹介されていた。中でも、廃屋の瓦礫を再利用して住宅の内装とするインテリアプロダクトが不思議と心惹かれるような素朴な質感で、観ていてとても心地よかった。というか、写真や映像もだけど、根本的に見せ方が上手いので、ビジュアルとしてもワクワクできるような素晴らしい展示だったことは、とても嬉しい誤算だった。

 

 

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( Assemble wins 2015 Turner Prize )

インテリアプロダクトを撮影したコレ↑とか展示されてたけど、なんか遠近感(?)が妙で、浮遊感がありながらも柔らかい色調なので、すごく観ていて心地よかった。

 

アセンブルは、住民たちと一緒になって、荒廃とした地域を再生させていく。

彼らが考案したインテリアプロダクトは、瓦礫を材料として作るものだから誰でも実践することができて、そのレシピも展示されていた。また、そのプロダクトを手作りするための工房「グランビー・ワークショップ」もアセンブルによって設立されている。完成したプロダクトはネットで販売できて、その収益をグランビーの地域再生活動に還元するシステムも構築したという。

 

ここに、アセンブルのおもしろさがある。

それが『DIY』と『実践』というキーワード。

 

「◯◯のときにすべき10の方法」が好きな現代人

 

最近、『DIY』というアイデアがむちゃくちゃおもしろいぞとマイブームでして、コレについても色々と語りたいことがあるんだけど、たぶん本筋から逸れるのでそれは別記事で書くとして、とりあえず、2つ目の『実践』について説明します。つまり、「『実践』は美しい」んです。

 

「『実践』は美しい」....と言うと、えーと、「アートは日々の生活を豊かにする」みたいなふわっとしたノリになっちゃって、それはあまり好きじゃないので、もう少し具体的に言うと、美しいモノというのは「あ、コレなんかいいなー」と心惹かれるモノであり(仮説ですが...)、『実践』とは具体的な方法論のことで、つまり、身近な例でいうと、「◯◯のときにすべき10の方法」みたいなことです。

現代において人々が何に心惹かれるか?というと、僕たちは問題に対する具体的な解決策が大好きです。現代は「この絵すごく綺麗ですね。でも、これを買ったところで何かの役に立つんですか?」という時代です。

iPhone以降、やっぱり僕たちは、テクノロジーが詰まったガジェットに対して少なからぬ期待を持っていると思います。手のひらサイズの機械が僕たちの生活をガラリと変えてしまったという衝撃は、きっと薄く伸ばされたペーストのように僕たちの心にじわりと密かに浸透しているし、同時に、そうではないモノへの期待値を大きく下げてしまった。テクノロジーによって、クソッタレな現実が「きっと良くなるだろう」だ。

 

僕たちの生活を具体的に変えうる何かに対する期待。

それは、テクノロジーであり、方法論を語る文章その他であり、『実践』である。

 

「何かに対する期待」「ああだったらいいのに、こうだったらいいのに」という現代の“理想”が、アートというフィクションの世界では、「コンテンポラリー・アート・プラクティス」という美術史上の動向として生まれています。

 

美術手帖「特集 コンテンポラリー・アート・プラクティス」
紛争やテロ、難民問題で揺れる政治情勢に、不透明さを増す世界経済。
表現の自由に対する規制も強まるなか、各地で起きている諸問題に対して、アーティストはどのような実践を行っているのか。
社会的使命を帯びた3人のアーティストたち−−
艾未未アイ・ウェイウェイ)、ヴォルフガング・ティルマンス、ヒト・シュタイエルのインタビューでは、 芸術を拡張し時代と対峙する表現について話を聞き、さらに各都市での実践例や理論を通して世界と関係するための、アート・プラクティスの最新動向を検証する。by美術手帖2016年6月号

www.bijutsu.press

 

その『実践』が、

『アート・プラクティス』のひとつが、

アセンブルの活動であると言うこともできます。

 

『実践』という“アートの文脈”を踏まえているからこそアセンブルはおもしろいとも言えるし、具体的な方法論が求められる時代だからアセンブルのような集団が生まれたとも言えるし、ターナー賞の審査委員たちがアセンブルを『実践』という“アートの文脈”に組み込んだとも言えます。

これはもう卵が先か鶏が先かみたいなもんだと思いますが、僕たちには無意識のうちに心惹かれているモノがあって、それはどうしたって時代の変化とは不可分です。つまり、“アートの文脈”は世界史と連動しているしせざるを得ないし、そこがむちゃくちゃおもしろいしカッコいいわけです。

 

例えば、グランビーの環境と似たどこか寂れた地区があるとすれば、アセンブルによるインテリアプロダクトの方法論は、別のドコカの地区にとってそのまま“希望”になり得るわけです。それはとても“美しい”と言えるのではないでしょうか。逆に言うと、同時代ながらもココジャナイドコカであれば、それはフィクションになってしまうというちょっと悲しい話でもありますが。

 

“分断”された世界で闘う建築家集団・アセンブル

 

アセンブルのことが「ああ、むちゃくちゃカッコいいなー、素敵だなー」と思ったのは、もちろん上記の『実践』についての話もあるんだけど、それ以上に、彼らの活動の根本的な想いとして存在する『公共圏』の話がもう最高すぎた。

正直、僕も会場で展覧会の趣旨を読むまでは全然知らなくて、それを読んで始めて、「あ、この人たちスゲー人たちだ」と思ったもんで、なので、以下に「あ、スゲー」って思った箇所を引用します。

 

アセンブル》は地域団体の活動に加え、同地域の住宅や公共空間を改善する活動に取り組んでいる。彼らは、まさに「市民的公共性」を唱えるドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスらの「公共圏」という思想の実践を精力的に行なっているのだ。

但し、ハーバーマスの西洋近代的な理性中心主義に止まらず、むしろハンナ・アーレントの「複数性を包括する空間」という「共通空間」を構築するために地元に根ざしたコミュニティを再生していくことを目指している。

 

んで、このあとに「18世紀のヨーロッパでは〜」とかって『公共圏』について話が進むんだけど、いや、でも、僕はもう「複数性を包括する」というフレーズだけでご飯を3杯は食べられるぞというテンションで、妄想が勝手に始まっていた。ハンナ・アーレントについては、映画『ハンナ・アーレント』を観ただけで全然知らないんだけど、結局「複数性」というのは、「わたし」と「わたしとは全然違うあなた」のことだと思うんですよ。たぶん。

アセンブルが目指すところは、「わたし」と「わたしとは全然違うあなた」が一緒にいることができるコミュニティを作ることであり、そのための『実践』の数々ということなんだろうと。

 

なんていうか、「お前、俺と全然違うけどスゲーな!最高だな!😆😆😆」というコミュニケーションがあってもいいと思うんですよ。だから、最近は、ボーダー(境界線)について「どうしたもんか...」と思うことが多くて、だからこそ「複数性」というフレーズに「あ!これかもしれない!」と反応したのかも。

 

きっと、グランビーの住民たちも、経済的・政治的な理由によって“分断”を余儀なくされた人たちだったんだと思う。それは物理的にも精神的にも。

 

トランプ政権をひとつの象徴として、世界が“分断”され始めている現代において、アセンブルが『実践』の中に仕込んだ「複数性を包括する」という想いは、ことさら力強い意味を持ってくる。

トランプ大統領を支持する白人層だって、彼らの生活(=現実)が豊かであったなら、わざわざ“分断”を望むことはなかったはずで(そう思いたい)。

だからこそ、アセンブルの成功例は、僕たちにとっての「ああだったらいいのに、こうだったらいいのに」という理想になり得るし、アメリカとメキシコの“分断”にとってもフィクションでしかないけれど、フィクションだからこそ、「いつかきっと」という希望にもなるんじゃないかって。

 

アセンブルターナー賞を受賞したのは2015年12月で、いよいよ世界が不穏な空気に包まれていて、「わたし」と「わたしと全然違うあなた」との間に壁が生まれることで“分断”の時代に突入している2017年。
やるせないような、どうしようもなく残酷でクソッタレな現実に直面すると、それに対して理想が生まれてくることが常で、アートがおもしろいのは、やっぱりひとつにはこの部分で、世界史と切っても切れない関係性があるところだと思う。

 

ハンナ・アーレントが闘った、ナチス・ドイツという恐怖の歴史。

それに対抗するための「複数性を内包する」という思想。

その思想を受け継ぎ、この残酷な世界で『実践』を行う建築家集団・アセンブル

 

だからこそ僕は、もちろんサメのホルマリン漬けも好きだけど、アセンブルターナー賞を受賞したことに納得し、なんだかちょっと切実に、嬉しくも思ったわけです。

 

 

 

 

人知れず妄想した世界があるやつは強い。大童澄瞳『映像研には手を出すな!』

 

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spi-net.jp

↑漫画です、むちゃくちゃおもしろいです。

以下↓の試し読みで、「なんだかおもしろそうだな」と思った方はとりあえず読むべき。その期待値の3倍はおもしろいから。ソースは僕。

spi.tameshiyo.me

 

ストーリーとしては、

日々「最強の世界」を妄想している(しかも一つじゃない)設定厨女子・浅草氏と、

儲け話が大好きでクレバーな軍師系女子(美脚)・金森氏と、

カリスマモデルで爆大富豪なのにアニメーション(動き)に異常な熱意を見せる女子・水崎氏

の女子高生3人がどんちゃん騒ぎを繰り広げるアニメ制作漫画。

 

作家は、大童澄瞳さん。現在、23歳。

twitter.com

 

 

お前は、風車が回っていることに感動したことがあるか?

 

「最強の世界」をアニメで実現させたい!という女子高生が様々な困難を乗り越えてそれを成し遂げるという王道のストーリーなので、1巻の「こいつら、予算なくてもやるタイプじゃん」というセリフにはもうニヤニヤしまくりです。そこに辿り着くためのセリフのないコマや鑑賞後の観衆の描写は、感情の高鳴りをひとつひとつ丁寧に積み重ねてじわりじわりとくるように上手く演出されていて「ああ、こいつらまじでやべえもんを作ったんだな...」とむちゃくちゃ胸が熱くなる。

 

つまり、単純な話、漫画としての見せ方がすげー上手い。

このコマで、あるいはこのストーリーで、読み手にどういう印象を与えたいか?というキャラの表情やコマ割りがすごく上手い。暴力的に上手い。

いま、コレ書いててふと思ったけど、

この漫画は、たぶん、セリフがなくても成立すると思う。

少なくともある程度の感慨は得られると思うし、例えば「1巻丸ごと試し読み!ただし、一切のセリフなし!」とかでも購入者爆増するんじゃねーかなってぐらいすごいし、いやソレは完全に思い付きだし漫画の技術的な話はそこまで詳しくないけど、そう思っちゃうぐらいやばいよ!っていう話です。

 

っていうのもさ、1巻の中盤で風車が回るシーンがあるんだけど、このシーンがむちゃくちゃカッコいいんですよ。人生で初めて風車が回ってることに感動した。風車やばいって思った。

 

完璧だ、と思った。

 

一枚絵としてのカッコよさがまずあって、

それをよりカッコよく魅せるための、導入としての、ひとつ前のページがまた素晴らしい。

 

トンネルをくぐって、

広い空間に出たというイメージが生まれて、

「これが我々の作る、最強の風車だ」という浅草氏のセリフと表情を経て、

最後に、“舞うもの”が舞い、巨大な風車が回っているシーンが現れる。

 

この一連の流れがもう暴力的に上手い。

漫画のコマ割りとか、その他なんか色んなモノがむちゃくちゃ上手い。

やべえ!風車カッコいい!と感動せざるをえない。

 

 

そして、

完璧だ、と思った理由がもうひとつ。

 

「あの辺に建てた団地に穴を開けて滝を作る!」
「滝!?」
「今からですか」
(中略)
「担いで走れ!爆発するぞ!」
「なぬ!?」
by大童澄瞳『映像研には手を出すな!』

 

というこの↑会話が、この漫画のスゴさのすべてを表しているんだけども、

そもそも、風車のシーンは、金森氏が浅草氏に対して「風車のプロペラが回っているアニメーションを作れ」と命令したのがきっかけであって、“滝を描く必要性は一切ない”

なのに、浅草氏は、飛行船で団地に突っ込み、大爆発のなか、命からがら逃げ出してまで、滝を作った。

 

「私の考えた最強の世界を描きたい」という浅草氏の言葉に嘘偽りはなくて、

風車が回るシーンを描きながらも、それに飽き足らず、風車が存在している世界そのものも描く。

「最強の世界」のためだけに、ただただ純粋に己のすべてを注ぎ込むその姿勢や過剰さは、まさにそれこそがクリエイターであって、ほんとうに、ほんとうにカッコいい。

浅草氏には誰に言われずとも実現したい世界があるんだよ。そこに向かってただひた走る。そういうモノがあるやつは、強いし、カッコいいんだって改めて思った。

 

だからこそ、この風車が回るシーンは、『映像研には手を出すな!』の象徴として、完璧だと思った。

この漫画の軸である浅草氏の欲望が、これでもか!とばかりにエンジン全開でフル稼働し、漫画としての表現力の高さと相まって、むちゃくちゃテンション上がる迫力のあるシーンに仕上がっている。

また、彼女たちが作ったアニメーションの世界と現実世界が、ツッコミなし・魔法なしで、リンクし連動しフィードバックされてごっちゃになるという奇妙で素晴らしい漫画表現によって、彼女たちの情熱あるいは無邪気さは、手に汗握るひとつの冒険物語として伝わってくる。いい漫画だよ、ほんとに。

 

キャラのディテールが濃すぎて病みつきになった

 

で、まだある。この漫画の素晴らしいところはまだある。だから、やばいんだよ。 

とりあえず1巻は、3人の才能の片鱗が大暴れする回なわけだけど(片鱗なのに大暴れするというむちゃくちゃ最高な展開ですよ、完璧に合わさったら...と思うとワクワクしかない)、

「我々にはジブリやディズニーのようなブランドもないので、ジャンルで宣伝しないと金になりませんよ」とか「アニメーションは動いてナンボなんだあああ!」とか「『未来少年コナン』これでいいかな」とか、

キャラクターひとりひとりがいい味出しすぎてて、なんというか、何度でも読み返したくなるような中毒性がある。細かいんだよ、キャラクターの描写が。そのディテールの積み重ねが、そのキャラクターあるいは空気感を作るわけだけど、その3人の掛け合いがしかも笑えるというのはもうなによりも作家のセンスで「こいつらの会話をもっと聴いていたいなー」と思えることがまずスゴくて、そして、その3人の個性がちゃんとぶつかり合いながら物語として進んでいる感じがすごくいい。個々が勝手に動いているのになんやかんやで話が進むちょっとした群像劇みたい。

 

また、試し読みで期待していなかった嬉しい誤算としては、困難を乗り越える解決策がアニメ制作上かなり現実的だということ(...たぶん)。高校生によるアニメ制作漫画だと思ってなめてかかるといい意味で痛い目を見ます。納期と予算があって、それをシビアに管理する金森氏の存在がかなりいい誤算だった。

「その中でどうやって闘うか?」とか「アニメとしてどうやって良いモノを作るか?」とか、そういうことに対してのアイデアが痛快でまた素晴らしい。アニメ製作者からしてみれば常識かもしれないけど、僕は「うおおおオーーーーー!!!浅草おまえって奴はああああああーーーーー!!!!」と漫画を握りしめて歓喜するなどしました。

 

彼女たちのクラウドファンディングがあったら秒で応援する

 

いやほんとに。

フィクションのキャラクターだけど、全力で応援したくなった。

試行錯誤でああだこうだと手探りで、だけど3人とも「こうしたい、ああしたい」という欲望は強く持っていて、その純粋な欲望にグイグイと引っ張られて物語が進んでいく。3人の欲望はそれぞれで違うからその道筋はジグザグなんだけど、上手くバランスを取って少しずつ課題を乗り越えていくことで、その欲望たちがたったひとつの“ナニカ”として結集し、本人たちも想像していないような“ドコカ”に辿り着こうとしている感じがすごくカッコいい。

でも、だけど、何度もしつこく言うようだけど、それはホントに片鱗でしかない。全然まだまだ。「おもしろそうな漫画だなー」と期待して読み始めると、読み終わる頃には「こいつらすげーオモシロイやつらだなー」と、浅草・金森・水崎の3人に対して期待感が高まり、ものすごくワクワクしている自分がいた。「こいつらならすげーことをやってくれそうだぞ」と。漫画に期待して読み始めたらキャラクターに期待していた、みたいな、、、なんというか、言っていることは全く同じなんだけど、だからこそあえて何度も言うけど、おもしろそうな“漫画”だと期待して読み始めたら、いつの間にか、この3人が生み出す“世界”を、もっともっと観たい!観てみたい!と期待して、ワクワクするようになっていた。

 

みたいな、そういう漫画!

つまり、むちゃくちゃカッコいい漫画です。

次巻もすげー期待!(いいぞ、もっとやれ。)

 

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『映像研には手を出すな!』大童澄瞳|赤鮫が行く‼︎

 

とりあえず、

まだ読んでいない人は、試し読みをぜひ!↓

spi.tameshiyo.me