読者のみなさま、今までありがとうございました。 (BOOK&coffee更新終了のお知らせ)
いつも読んでいただきありがとうございます。
突然ですが、読者のみなさまに大切なお知らせがございます。
誠に勝手ながらこの度、このBOOK&coffeeの記事更新を終了し、サイトを閉鎖する決断に至りました。
理由はわたしの力量不足です。BOOK&coffeeに掲げているコンセプトを再現するためには、一度更新を中断し、BOOK&coffeeに掲げている構想立ち上げに必要な力を育てるために、筆者自身の修行に集中したいという理由が今回の決断の大きな背景です。
BOOK&coffeeを育てることをあきらめたわけではありません。いつか必ずBOOK&coffeeに込めた想いは違うカタチで実現させます。
今後の活動はしばらく2ndBlogとしていたnoteで自由にのびのびとやっていきます!
というわけで、BOOK&coffeeの更新はこれで最後となりますが、ライティングを始め、わたしのコンテンツづくりをやめる気はまったくありません!
2019年1月7日にこのサイトを立ち上げてこれまで続けてこれたのも、読者のみなさまがいてくださったからに他なりません!引き続きこれからの活動においてもお楽しみいただけると幸いです。
本当にありがとうございました。短い間でしたがこの期間で学んだことを生かして今よりももっと上のステージに行けるようにこれからも頑張っていきます。
もちろん、これまで以上に読者のみなさまにコンテンツを通じて持ち帰っていただける「なにか」を充実できるようにしばらくはnoteを中心に活動していきますので、引き続き応援していただけると嬉しいです!
最後に、このBOOK&coffee作成のためにユニークなプロフィール用画像を描いてくださった似顔絵師バーバラさんとブログの顔にもなっている素敵なアイキャッチ画像を描いてくださったみるとんさんを始め、協力者の友人各位には感謝の気持ちでいっぱいです。
みなさま本当に、ありがとうございました!!!
(このへんでしばらく、coffee breakといたしましょう。☕️)
K5(BOOK&coffee Owner.)
わたしはシャワーをあきらめた!?
わたしはシャワー人間をあきらめることにした!
「シャワー人間」という言葉はわたしの造語。
まずシャワー人間について説明する。1日の終わりに今日1日頑張った身体を綺麗さっぱり洗い流すお風呂タイムを、シャワーだけで済ませる人のことを勝手にそう呼んでいる。
わたしはつい最近までこのシャワー人間だった。
なぜお風呂に入らずシャワーだけで済ますのか?次にその理由を説明しよう。こんな理由をあげることができる。
- 経済的
- 時短
- お風呂はいろいろ面倒くさい
お風呂よりもシャワーだけで済ました方が水道光熱費のコストを安く抑えることができる。お金の面だけでなく時間という点でも同じで、お風呂にはいるよりも時間を費やさなくて済むし、その分読書の時間など他の時間にあてることができる。
そして、3番めの理由がわたしにとってはかつてはウエイトが高かった部分。根っからの面倒くさがりだった。
何が面倒かといえば、浴槽の掃除や、お湯がたまるまで管理したり(家が古かったのでお湯のたまり具合を確認して自分でお湯の出をとめにいく必要があった)が該当する。
幼い頃はお風呂にはよく入っていた。
しかし、冗談抜きで中高時代のある時をさかいに少なくとも5年間ほど年中シャワーで過ごしていた。年に10回くらいしかお風呂に浸っていた記憶がない。いや、本当に10回でも多く見積もっている可能性がある。
ただ、ついにその生活に終止符が打たれることになった。去年(2018年)の秋が終わる頃くらいにその生活を一変させるあるきっかけが生じたのだ。
では今の生活はというと、結論から申しあげれば、わたしは今お風呂に入る時間がちょっとしたイベント感覚になっており、楽しみというか娯楽というかとにかくその魅力の虜になっているのだ。
つまり、わたしはシャワーをあきらめたのである。
なぜシャワーをあきらめたのか。
以前のわたしのようなシャワー人間は意外と少なくないと思う。例えば同年代の知人にお風呂タイムをどうしているかと話を聞いても、お風呂に浸からずにシャワーだけで済ます人は一定数いる。
また、近年の新築アパートは浴槽を取り付けることを省き、シャワーだけの設置にするところも出てきている。お風呂のニーズはやはり別れる傾向にあるようだ。もしかしたら間取りの関係もあるのかもしれないが、いずれにせよ、無視できない部分であろう。
さて、わたしがシャワーをあきらめた理由はお風呂の効用があまりにもすごすぎてそのために費やすコストをコストと思わなくなったことが大きい。それにより、面倒くさいという感覚が一気に緩和されたのだ。
そもそもお風呂につかるきっかけとなったのは何かと言うと、話はわたしが腰痛に悩まされたことから始まる。
わたしの生活はデスクワークが中心でバイトは肉体労働を選んでいるので、腰に負担がかかる生活を長い間していたことになる。しばらくは何も違和感なく過ごせていたのだが、昨年の冬あたりからそのツケが一気に襲ってきた。ついに腰痛に悩まされることになる。
その悪夢の始まりはバイトのとき、ゴミ箱のポリ袋を取り替えている際中だった。わたしが中腰で作業をしていてそのまましゃがんで作業をしようとしたときのことだ。そのとき、今までたまっていた疲労がピークを迎えたのだろう、しゃがむ瞬間、一気に腰に電気が走った。ピキッという効果音は腰から脊椎を伝って確かに聞かせられた。おかげでしばらく動けなかった。
ちょっと落ち着いて歩けるようになったかと思えば、地を踏みしめるたびに腰がいちいちピキる。そう、ぎっくり腰の通告がなされたことをこのときに気づいたのだ。
この悩みを友人に話し、アドバイスをいただいた。その中でもすぐに取りかかれると思ったものこそ今回の内容だったというわけだ。
以降、すっかり腰痛は改善されることになるのだが、実は腰痛以外にもお風呂に入る習慣で実感した効果はそれだけではとどまらなかった。
次こそが本題。
お風呂の効用
今回のメインディッシュはここだ。みなさんにシェアしたいのはこのお風呂の効用である。特にシャワー人間としての自覚ある方に向けての内容となるだろう。
ではまずはその効用をまとめてご覧いただきたい。
- 寝つきが良くなる
- お通じが良くなった
- 健康状態を維持できる
- ストレス解消になる
- 頭の整理ができる
- 身体が疲れにくくなっている
- 肌ツヤが良くなっている
以上の7つである。次にシャワーで済ませている時と比較しての実感を言葉にしてみよう。
- 寝つきが良くなる
→ベッドに横たわってから眠りにつくまでがとてもスムーズ。翌朝の目覚めも良い。不眠症のような症状に悩まされることは少なくなった。(考え事がモヤモヤ頭にこびりついているときや翌日に大きなイベントが控えている場合は寝られなくなる。最近はこの悩みから解放されている。)
- お通じが良くなった
→特に女性には嬉しいニュースかもしれない。お風呂に入り出してからお通じのサイクルが規則的になってきたのと、きちんとデトックスされている実感もある。これをきっかけに食事の面や生活リズムにも健康意識を向けるようにもなった。
- 健康状態を維持できる
→この効果には特に驚いているのだが、風邪をひきにくくなっているのだ。それと、わたしはアレルギー性鼻炎に毎年悩まされる時期が定期的におとずれるのだが、しばらくその症状とは縁がない。筋トレをしているという要因も無視はできないがシャワーのときより体温が比較的温かい状態を長持ちできることで、免疫機能が強くなっていると思われる。
- ストレス解消になる
→間違いなくシャワーよりも癒しの効果が高い。いや、もう本当に圧倒的に高い。イライラやモヤモヤをとても緩らげてくれる。湯上り後はほぼ100%トゲトゲした、ネチネチした感情は残っていない。
- 頭の整理ができる
→リラックス効果とあわせて創造的な時間を過ごすことにもうってつけ。わたしはよく1日の出来事をふりかえったり、アイデアの整理にこの時間を利用している。
- 身体が疲れにくくなっている
→これも嬉しい部分で、体力の回復がエグい。この効果のおかげでデスクワーク後の週6バイトのハードワークでもこなすことができるようになった。(以前は週3〜4勤務でバテてた。)
- 肌ツヤが良くなっている
→肌ツヤはもちろん、髪の毛もツヤツヤ、ドライヤー後はふわっふわになる。ちょっとした変化だが個人的にはかなり嬉しい部分。
まとめ
いかがだっただろうか。
腰痛だけでなく、日々の健康面のベースを強くすることにお風呂はうってつけであることを今回の内容でお伝えしたかった。
デメリットをあげるとするならば、やはり水道光熱費は1日あたり多く見積もって100円ほど高くなってしまう。とはいえ、コスパは非常に優れている。むしろ必要投資くらいの感覚であって良いとさえ思う。
あとは毎回のお風呂掃除や入浴剤等の出費が増えてしまうことだろう。
お風呂によってかさむ出費を気にしなくても良いのであればぜひお風呂に浸かる生活に変えてみてはどうだろうか。
わたしの場合は今は節約モードなので3日に一度はシャワーで済ませるようにしている。それでも効果は十分実感することができている。(...シャワーあきらめてないやんか!)
参考になれば幸いである。
(そろそろcoffee breakとしましょう...☕️)
※最後まで読んでくださり、ありがとうございました。次回もお楽しみに。
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「わかりやすい」を考えてみた。(後編2/2)
「情報を整理する力」とは何か
本題に入る前に改めてそもそも「情報を整理する力」とは何かを説明する。
情報を整理する力とはその言葉の通り数ある情報を何らかの目的や基準に沿って整理する力のことをいう。
基準が料理であれば料理に関する情報をまずはピックアップし、その中でもカレーライスが作りたいとなれば必要な材料や調理手順を調べる必要がある。
あとは「材料」や「調理手順」という項目に沿って情報をまとめ、行動に移しやすいように準備しておけば美味しいカレーライス作りに励むことができるだろう。
このように、膨大な情報はまず何かしら「フィルター」をもうけなければ整理することはできない。
そして、情報を集める根本的な理由に必ず目的を達成するための「行動」があるはずだ。
その「行動」を充実させるために情報を整理するのだ。情報を整理する力とはそのための大切な準備段階であり、「行動」の質を決める大きな要因になる。
前編で述べたとおり、この段階をおろそかにしてしまうと例えばブログの執筆活動を充実させることは難しくなる。逆を言えば、この準備を制すことができれば、自分の思い描く「行動」をデザインすることが可能となるのである。
「情報を整理する力」に必要な3つの能力
本題に入ろう。
「情報を整理する力」はどうすれば鍛えることができるのだろうか。
ここでは私が実際にライティング活動の経験において、効果があったと実感できていることだけをシェアしたい。参考にしていただければ幸いである。
まず最初に、情報を整理する力を鍛えるにあたって頭に入れておいていただきたい3つの必須能力がある。
これはわたしなりの理解なので、違うと思ったところはみなさんなりの解釈に置き換えてもらいたい。
次の3つがそれである。
①情報収集力
②情報編集力
③体力
続いて、順に説明しよう。
①情報収集力
→情報を集める力のこと。例えばインターネット検索はもちろん、普段の会話や読書といった方法によって情報を集めることができる。また、自分の経験や教養の深さによって左右される情報のアンテナもここではアドバンテージになる。
②情報編集力
→①の情報のアンテナのように、情報をカスタマイズする力のことをさす。カスタマイズには具体と抽象の行き来や、情報を捉える視点、さらに実際に行動にうつす際に思い描いているイメージを正確にアウトプットできる器用さといったものが含まれる。
※情報のアンテナとは1つの情報から得ることができる関連情報の数を決める受容のキャパシティのことをさす。例えば、料理1つをとっても捉え方によってはゲームだったり段取りの重要性を学ぶ例としても捉えられるように、1つも物事から関連する具体例を導いたり、抽象化して一言にまとめる能力がそれである。よって、この情報編集力が高ければ高いほど、情報収集力も自ずと高くなるといってもいい。
③体力
→体力とは自身の体調やパフォーマンス能力のことだ。例えば睡眠はここでは大変重要なポイントになる。睡眠不足だと、頭のパフォーマンスががくっと下がり、情報を整理するにあたって必要な集中力を欠いてしまう原因になる。
情報を整理する力を鍛えよう
情報を整理する力を鍛えるためには紹介した3つの能力を鍛えれば良い。
①情報収集力を鍛える
→まずは情報を収集する「クセ」をつける必要がある。そのために鍵となるのが「好奇心」だ。例えば、経済の仕組みや人間のカラダのメカニズム、船はなぜあんなに大きいのに海に浮かんだまま進むことができるんだろうといったように、日頃見ている世界に対して「なんでだろう?」と思うことが大事になる。ぜひ童心に帰ろう。 この「なんで?」が情報のアンテナにつながり、やがて知りたくてたまらなくなったとき、自然と手は動いているはずだ。
手が動き出しとき、わたしがいつもやっていることは次のようなものがあげられる。
- 本屋(図書館)に行く
- 詳しそうな人に聞く
- インターネットで調べる
- 本を買う
わたしは本が好きなので書籍を買うことはもちろん、本屋さんでいくつかの本をつまみ読みしながら知見を深めたり興味の芽を育てることが多い。もちろんインターネットも利用するが、インターネットだと書籍に比べて情報の信ぴょう性はどうしても下がってしまうのでその中でも信頼できるメディアや論文といったものに絞ったりもしている。表面的な内容か本質的な内容なのかをきちんと確かめるためだ。詳しい人に聞くこともおすすめで、書籍などとは違ってこちらの理解に合わせて柔軟に情報をカスタマイズして教えていただけたり、別の関心分野が見つかるきっかけにもなる。
②情報編集力を鍛える
→情報編集力は次の項目を主にトレーニングすることになる。
- 書く・話す・実行する
- 具体化・抽象化トレーニング
- いい文章に触れる
- 書く・話す・実行する
→アウトプットすることで頭の整理はもちろん、思考をブラッシュアップすることにもつながる。さらに、他者に向けて情報発信することで相手の立場でものごとを考える訓練にもなるので、自然と編集に身が入る。あとは、机上での作業だけでなく、実際に集めた情報を使って何か実行に移すことで「経験」に転化することを重ねていこう。そうすることで日々の思考を横に広げたり、縦に深く掘り進めたりする能力を手に入れることにつながる。具体的にはブログ活動はこの3つの要素を取り入れることができるので非常におすすめである。
- 具体化・抽象化トレーニング
→具体化は「例えば〜」と身近な例に置き換える力、抽象化は「要するに〜だよね」と複数の具体例に共通して言えることを一言にまとめる力を指す。
わたしが実際にトレーニングにあたって参考にしている書籍を紹介したい。これらを読んで実行してみて欲しい。
『メモの魔力 The Magic of Memos』(著:前田裕二)
→話題になっている書籍なので手にしている人は多いだろう。前田さんが実際に行なっている「メモ」について詳しく丁寧にその方法と効果を学ぶことができる。そして何と言ってもわかりにくい「抽象化」について、どうすればできるのかをシンプルかつ簡単に学ぶことが可能で、本を読んだあと学んだ内容を実行できる内容に仕上がっているのがこの本の素晴らしいところ。
『外資系コンサルが教える 読書を仕事につなげる技術』(著:山口周)
→『世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか』の著者、山口周さんの書籍で日々の読書を仕事に生かす技術が学べる。山口さんの言葉を拝借するならば「知的戦闘力」を鍛えることで、情報に対するリテラシーを高めるために参考になるヒントを学べる良書。
・いい文章に触れる
→具体的には本を浴びるように読むことで、書籍に盛り込まれている編集技術や言語表現、また本の内容を一気にインストールすることで情報を取り扱う能力を皮膚感覚で学びながら、自分のセンスに落とし込むことができる。
本選びもカギになるが、最初はとにかくたくさんの文章に触れることで情報を浴びるクセを身につける。知識量をどんどんたくわえて、情報編集の基礎体力を鍛えることを目指す。
③体力
→よく寝る。睡眠が一番大切といってもいい。あとは、たくさんの情報に触れて、自分だったらこの情報をどう捉えるのか、ここから言えることは何か?といった日々の思考によって、考える体力を身に付けることも大事になる。
是非参考にしてみてほしい。
(そろそろcoffee breakとしましょう...☕️)
※最後まで読んでくださり、ありがとうございました。次回もお楽しみに。
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「わかりやすい」を考えてみた(前編1/2)
わかりやすさの根元にあるもの
読者の方から「読みやすい」「わかりやすい」という言葉をよくいただく。
いつも読んでくださりありがとうございます。そんな声をもらえるたびに執筆活動がどんどん楽しくなってくるものです。
さて、頂戴したお声を分析すると「わかりやすい」という評価がトップとなった。
せっかくなので、この「わかりやすい」という言葉につながっている要因がなんなのかをちょっとだけ考えてみた。
私が「わかりやすい」という言葉に当てはまる人物についてやその人のコンテンツを調べてみた結果、とてもシンプルな答えにたどり着いた。
結論を述べてしまおう。
「わかりやすさ」の根源となっているもの、それは「情報を整理する力」である。
情報を整理する力
結論自体は、何も新しい話ではないとは思うし、私も再認識という感覚の方が強い。
だが、この結論は強く頷けるものとなった。より理解が深まった理由は、ありがたいことにこのブログを始めライター活動の機会があるからこそ見つけられた。
理由を述べていこう。
普段は何かのコンテンツに対して「わかりやすい」と口にするときは「受け手」という立場からの発言になっている場合がほとんどである。
つまり、コンテンツ発信者がいてそれを受け止める側として「わかりやすい」と評価をする機会がほとんどだということ。
逆に、ブログやライティングをするとなれば「発信者」側に立てる。
面白いのはここから。
発信者側として実際にコンテンツを作成する際、筆がスルスルとスムーズに進むときと手が止まってしまうときの大きく2パターンがあるが、手が止まってしまうときの記事の内容は大抵よくないことが多いし、実際の読み手の反応もイマイチである。
では、なぜイマイチになってしまうかといえば「わかりにくい」からである。
実際に読んでいてどうだった?と聞けば「何が言いたいのかがあまりつかめなかった」とか「(文章が)長くて疲れる」とかそんな声が漏れているのだ。
さらに、いざその人に「実はこれってこういう内容で〜」と説明しようとしても、うまく言葉にできなかったり、自分でも何をいっているのかわからなかったりするのだ。
これが何を示唆しているのかはもうお分かりであろう。
そう、「情報の整理不足」である。つまり、なんとなくしか理解していないか、本質がつかめていないといった要因が「わかりにくい」という声につながってしまうのだ。
そりゃそうだ。自分でも深く理解できていないことをアウトプットしても、それが他者にどう伝わるかなんてたかが知れている。
しかし、自分が誰かに何かを伝えようとしたとき、このトラップに引っかかっている人は少なくない気がする。
例えば、いつも話が長くなってしまう人や作成資料が読みにくいと言われる人は「情報整理が足りていない」ことを疑ってみた方が良いだろう。
きちんと情報が頭の中で整理されていれば、かなりの長文がシンプルな一文で言い換えられるものだ。
さらに情報が整理されていればだらだらと文章を書かずに、ピンポイントに絞ってその言いたいことを補足する文章を付け加えることもできる。結果的に全体的にシンプルなレイアウトに仕上がるのだ。
文章を書くのが苦手な人もこの話は他人事ではない。
文章を書くのが苦手という人は、実は文章を書くのが苦手なのではなくて「情報を整理する力」がそもそも身についていない可能性が高いからだ。
というのも、私も本来、文章を書くのが苦手だったし、そもそも面倒くさいと思うタイプで、人前で話をするときも長文になってしまうことが多かった。
今も当時よりも改善はされてきただろうが、やはりその悪い癖が出てしまうときはある。話をしていて「巻いて」って合図をされたり、LINEに「長文すみません」を書き添えることと縁が切れているわけではない。まだまだ修行中の身なのである。
もし同じような境遇にいる方は「情報を整理する力」を鍛えることを強くお薦めする。
ではどうやってその力を鍛えればいいのだろうか。
次回は私の体験をもとに、その話を具体的に掘り下げてみたい。
後編へ続く...。
(そろそろcoffee breakとしましょう...☕️)
※最後まで読んでくださり、ありがとうございました。次回もお楽しみに。
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「過去」は単なる「解釈」にすぎない(2/2後編)
(前編の続きから)
なぜなら、この人物Aは変わりたいと意識的には思っているのだろうが、「本当は変わりたくない」というのがこの人の答えだからだ。
そう判断できる理由こそ「解釈」を見れば一目瞭然である。その「解釈」によって見られる結果が、「いま」の自分を肯定しているか否定しているかを見ればいい。
この視点から見れば、人物Aは「家が貧乏である」→「だから、いまの自分が不幸なのは正しいことだ(仕方がないことだ)」という判断を下している。つまり、「いま」の自分を肯定している。
より冷徹な人物からはこうも捉えられてしまうだろう。「この人物は貧乏とうたっているが、それは話の仮面として使っているのだろう。美しいストーリーにしたてるその話の展開は見事だ。一方で、実際は本当はやればできるといった根拠なき慢心を隠しているようにも見える。君が自覚している努力不足を、みんながいる場で否定されたくないだろうからね。」とも。
そう、人物Aは自分に満足していないのかと思いきや、実はその逆なのだ。
「いま」の自分でOKとする「解釈」をしている限りは、「いま」の自分に満足しているといえてしまう。
ということは、人物Aに前進や成長といった展開は果たして望めるだろうか。
そう考えたときの着地地点が前述した結論というわけだ。
一方で人物Bを見てみよう。人物Bは「目標に到達するまでには時間がかかることを自覚しつつ、その目標への道は自分に開かれているものだ」と考えている。
「どうせ自分なんかが、あの人のようになれるはずがない」とは思っていない。
つまり、人物Bは「いま」の自分を否定していることがわかる。ただ、ここで見誤ってはいけないのはこの人物Bの場合でも「いま」の自分には満足しているという点だ。
あくまでも注目すべきは「解釈」であり、そのフィルターを通した上での評価である。
人物Bは「いま」の自分が置かれている環境や状況は正しく認識しており、その事実をきちんと飲み込んでいる。
ただ「意味付け」によっての評価は、「いま」の自分は否定しており、これからやってくるありたい自分の方を肯定している。
それとは別に、「いま」の自分の姿には満足もしているのだ。
自分が本来ありたい姿は「いま」の自分ではなく、これから先にやってくる自分にあるとしているのである。
人物Bがもし「いま」の自分に満足できていなければ、こうも「貧乏」であるという現実に対してポジティブにはならないと思われる。むしろ、悲観的にとらえているだろう。
そうなったとき例えば次のような声を漏らしていたかもしれない。
「いつまでたっても家庭環境には不満がある。許せない、どうして私がこんな目にあうのだ。もういい、どうにかしてこの状況を打破してみせる。」
こうなると前向きではあるのだろうが、やはりニュアンスが変わってくる。「いま」の自分に満足できていなければ、過去を否定してしまうのだ。
自分には似合わない事実は受け入れられず、遠ざけてしまうことになってしまう。
こうなった場合、人は if(もし〜だったら)と妄想にふけることになりかねない。しかし、現実を直視しない限りは前に進むことはできないのだから、やはり過去をきちんと受け入れられるかどうかも、ここでは重要なポイントになる。
「人間はいつでも、自己を決定できる存在である」
今回の考え方は上記の言葉を残したアルフレッド・アドラーが提唱した理論に基づいている。興味がある人はぜひもっと彼の考えに触れてみてほしい。
さて、話を戻そう。
先ほどの人物AとBが目の前にいるとする。もしあなたが投資家であれば、どちらの将来を応援したいと思うだろうか。
そう考えたとき、それぞれの人物に「いま」の自分に対してどんな「解釈」を持っているかを聞き出してみるといいだろう。
「もし自分が裕福だったら...」と可能性の中に生きようとしているのか、「貧乏だからこそ、学べることもたくさんあった。これからは〜」とハンデを前向きにとらえて歩みを進めようとしているのか、じっくりと話を聞くのだ。
大事なのは、過去が「いま」を決めているのではないという極めて現実的な視点を忘れてはならないことである。
過去に「いま」を決めさせてはならない。「いま」が過去を決めるのだ。
私たちは自由に、積み重ねてきた「いま」に「解釈」を与えることができる。
過去を編集し放題の永年使用可能なプレミアチケットを持っているのだ。
人は現在の目的に沿って生きている生き物である。その原理はみずから退かない限り、私たちを裏切ることはない。
※今回はあくまでも考え方の1つである。ご自身の状況に合わせて、役立ててもらえれば幸いです。
(そろそろcoffee breakとしましょう...☕️)
※最後まで読んでくださり、ありがとうございました。次回もお楽しみに。
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「過去」は単なる「解釈」にすぎない (前編1/2)
「過去」というものは本当は存在しない
私たちは常に「いま」をいきている。
時間は有限であり、たった1秒前の「いま」でさえ、もう2度と私たちのもとへは帰ってくることはない。
私たちは過ぎ去った「いま」を「過去」と呼ぶ。
時間は取り戻せないが故に、「いま」という時間を自分が満足のいくものに彩ることに、人は一生懸命になる。
特に、「青春」という名の作品づくりに若い世代は生を見出している。
とはいえ、みんながみんな、その作品づくりに成功するわけではない。
何を持って成功と呼ぶのかは人によって違うだろう。
多くは自分が「いま」から1ヶ月前、1年前のことをふり返ったとき、その思い出なるものが満足できるものだったのか、否かが最終的な尺度になっているような気がする。というか、振り返るそのときには細かいことは忘れてしまっている。
だから結果的に満足だったかどうかだけが大事なのではないかという結論だ。少なくとも、私の感覚はそうである。
例えば、
満足できたとき、その過去に対して人はよく「あの時はよかったね」という。
満足できなかったとき、その過去に対して人はよく「今も後悔しているんだ」という。
問題は満足できなかったとき、だ。
よろしくないのは、「今も後悔している」の「今も」とあるように、過ぎ去った「いま」を「いま」この瞬間までひきずっているパターンだ。
しかし、大事にひきずってきたその「過去」とやらは、ただの幻想に過ぎない。
「過去」は存在しない、あるのは「解釈」のみ
「自分はついていない...、家は貧乏だし、友達もいないし...」
「あー、あのときもっと必死に勉強していればこんなアホみたいな人生送っていないんだけどな...」
確かにこのような声のように、人それぞれ、自分の中に満足できない事実があるのは否めない。
しかし、過去に執着し続けても意味がないこともそれ同等の事実だ。なぜなら冒頭に述べたとおり、「過去」と呼んでいるものは2度と戻ってこないからだ。やりなおしが通用しないのである。
改めて、私たちが「過去」と呼んでいるものは一体なんなのだろう。
実は「過去」とは、「いま」の自分がその時点(にあった出来事や環境・状況)に対しておこなっている自己評価の結集、つまり「解釈」なのだ。
そう、単なる「意味付け」にすぎない。
ここからは少し哲学的な話になるが、なぜそのような意味付けをおこなうのかをまずは考えよう。
答えはシンプルだ。
私たちは過ぎ去った「いま」を意味付けすることで、「いま」の自分を正当化しているのだ。
例えば、家庭環境が貧乏で現在もその環境は変わっていない人物AとBがいたとしよう。
両者は「お金」の面で苦労することが多いだろうと予測がつく。
人物Aの口癖は「なんでいつも自分ばかりこんな目に...。ああ、自分が貧乏な家で生まれていなければこんなことにはならなかったのに....」だ。他人と自分を比べることが仕事であると言っても過言ではないほどそれが習慣になっており、口癖の数だけ自己嫌悪に陥っている。
一方で人物Bは「かっこいいな、あの人。自分もあの人のようになりたい!いますぐは難しいかもしれないけれど、いつかきっと追いついてみせる!」と自分を鼓舞している。憧れの人物に少しでも近づけるようハンデを乗り越え、一歩ずつ歩を進めようという勢いを感じる。
人物AとB、共に家庭環境に大差はない。しかし、今日まで積み重ねてきた「いま」への捉え方は、まったく正反対といえる。
人物Aは「いま」の自分の不幸の理由として「貧乏な家で生まれたから」と言っている。声の内容からして「いま」の自分を変えたいと願っているに違いない。
だが、残念ながらこの人物はしばらくはこのまま平行線であろう。
後編に続く...。
(そろそろcoffee breakとしましょう...☕️)
※ 今回から文体を変更してお送りします。
※次回の更新は2019/03/22です、お楽しみに。
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読書について考える
読書とはなにかを考えていく
本を習慣的に読むようになってしばらく経ったある日、そもそも「読書」とは何かといったことを考えるようになりました。
もうその問いを考え始めてかれこれ1年以上は経っていると思うのですが、いまだにこれといった答えは持っていません。ある日には「自分に向き合い、自分とのコミュニケーションを楽しむための遊び」という答えがしっくりきたかと思えば、月日が経てばやっぱり違うと思うようになる、そんな繰り返しです。
つまり、これは答えのない問題というかその時々の文脈に応じて読書とは何かという問いは変化するものなのだと思っています。なんのために本を読むのか、それは最終的にはその時点での根元にある自分の「欲求」にフィットするものがおそらくしっくりとくるわけで、その欲求は常に変化するものだから、これといった答えを出すものではないなと割り切っています。
さて、しばらくブログの更新をできずにいてモヤモヤしていたのですが、実は自分のキャリアについて整理しつつじっくりと考える時間にあてていました。
ここ最近は方法論ばかりがつらつらと並んだいわゆる「テクニック本」のようなものばかりに目がいってしまっていて、本質的な問いを考える書物とはあまり向き合っていませんでした。
そんな本のバイキングに満足し、ようやくひと段落ついたところで落ち着いた読書を楽しみたいと思いました。そんな中手に取ったのが松岡正剛(まつおかせいごう)さんの『多読術』という本です。
なぜこの本を取ったかといえば松岡正剛さんがどんな人なのか気になっていたから。
彼の著書は何冊かわたしの本棚にはありました。しかし、当時まだ読書経験が浅い自分にとっては内容が難しく、ずっと食わず嫌いな状態のままでいました。だから、好き嫌い言わず出されたものは食べなさいではないですが、もう一度読んでみましょうと自分に言い聞かせたわけです。
『多読術』はQA形式のレイアウトで読みやすそうな印象を受けたのと、内容それ自体にも興味があったのでまずはこの本からスタートという経緯。
この本を手に取ってちらっとみた背表紙には次のような文句がありました。
読書の楽しみを知れば、自然と本はたくさん読めます。
著者の読書遍歴を振り返り、日頃の読書の方法を紹介。
本書を読めば自分に適した読書スタイルがきっと見つかります。
読書の達人による多読のコツを伝授。
これをみて、読書に精通しておられる著者が日々書物とどのように向き合っているのかを知りたくなったのです。
そんなこんなで、読み進めていくうちに自分に突きつけられたのが冒頭の「読書とは何か」という問いでした。
改めてこの問いに立ち向かってみることにします。
読書をするとバカになる?
いきなり読書の悪い部分から考えてみようと思います。
今振り返っても本がなければ自分は路頭に迷っていただろうといっても過言ではないくらいその存在はわたしの中では大きなものです。
しかし、読書は一方で危ないツールとして捉えている部分があります。
わたしの本の位置づけを考えてみますと、わたしにとって本とは「誘惑」です。
大げさにいえば、世の中にはこういう考え方もあるしこういう方法論もあるんだけど、とってもいいでしょう?よかったら真似してみない?今日からやってみない?とまるで営業トークをずっと聞かされているような状況がわたしが捉えている読書です。
そして、あれもいいしこれもいい、けれど「あなたはどうしたいですか?」ということを最終的には問われることになります。この一連の流れが本を読むということです。
押し売りのような営業トークでせめてきたり、あるいは紳士的な対応で接してくれたりと本によって様々ですが、営業というたとえに限らず、いろんな角度から「あなたはどうしたいの?」ということを聞かれているような感覚が最近のわたしの読書にはあります。
注意すべきは本を読んでいると、「あれもいいしこれもいい」という風に感じてしまうことです。しかし中にはハズレがあります。そこを見分けないといけません。欲に任せてあれもこれも欲張ってしまうと路頭に迷ってしまいます。
なぜ欲張ると路頭に迷うのか、それは「自分の基準」を見失ってしまうからです。
例えばものを1つお店で買うシーンを考えると、私たちはこれに1000円支払う価値があるのかないのかということを考えているはずです。払う払わないという判断は、「自分にとって今買うべき理由があるか・ないか」をきちんと持っているからこそできるものだと思います。
しかし、欲に任せた状態とはいわばこうした買い物において金銭感覚が麻痺してしまっている状態です。あれも欲しいこれも欲しいとものを買っていく習慣の持ち主は、よっぽどな収入がない限りはやがて資金が尽きてしまうでしょう。
読書も同じで、あの人の考え方がいいから真似しよう、この人のテクニックがいいから今日からやってみようというのは悪いことではないのですが、これが習慣になっていると危険です。
なぜなら、「考える」作業を怠っているからです。他人の思考や方法論の上部だけをなぞるのではなく、今なぜそれを自分に取り入れるのか、それを参考にすることで何を実現しようとしているのか、というようなことを「考える」時間をつくることが読書では必要だと思います。
わたしは以前まるで知識コレクターになったかのように答え集めのような本の読み方をしていたことがあり、そのような読み方をしていたがゆえに後悔してしまったことがいくつもあります。
考え方が偏屈になったり、深い思考ができなくなっていたり、大事な意思決定場面で集めていたはずの答えは実際には何も参考にならずただの飾りにすぎなかったことに気づいたりとあげればきりがありません。もちろん、今もその後遺症で苦しむことがあります。
要するに、「思考のツール」として本を読むことができなければ、ただの「頭でっかち」にしかならないのです。
大事なのは「自分がどうしたいのか」という核なる価値観や信念を磨くために読書をするということ。わたしはそこを大事にしています。
(今回はこのへんでcoffee breakとしましょう...☕️)
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