にほんご練習帳

思ったことや感じたことを文章に表現する訓練のためやってます。できるだけ毎日続けようと思ってます。

老害にならないための戒め

年をとってくると、だんだん「自分が正しい」 という思い込みが強くなり、 周囲へも主張を押しつけがちになってしまう。 普段からそうならないように気をつけているつもりでも、 結果的にそうなっていることはあるだろう。

なぜそうなるかというと「年をとる=経験を重ねる」 ということでもあり、自分の中で「これが正解」 というのがある程度わかったつもりになっているからだ。加えて、自分より若い人=「 反対意見を言いにくい人」が増えているという環境の問題もある。だから、かなーり細心の注意を払っていないと自覚なく「 落とし穴」にはまっていることになるのだ。

 

そして「正解がわかったつもり」というのがこれまた厄介である。

当然ながら世の中のほとんどの物事において、 絶対の正解なんて存在しない。 それぞれの価値観や考え方によっても大きく変わることがある。

何度説明してもわかってもらえずに、同じことを繰り返したり、 同じ反論をしてくる相手に対して、つい「物分かりが悪い」 とイライラしてしまうことがあるけれど、 そんなときは一回立ち止まってみた方がいい。 物分かりが悪いのではなくて「意見が違う」 かもしれないのだ。相手からすると、 ぼくの意見に納得できないがうまく説明できないとか、 遠慮して言いにくいとか、そういう可能性があるのだ。

「伝わらない」「わかってもらえない」と感じたら、 憤慨する前に落ち着いて「 自分は相手のことをわかろうとしているのか」 と考えられる習慣を身に着けておきたい。

 

若いころの自分が、 今の自分を見ても失望しないような人間でありたいですね。

見せ算の件

 昨年末のM1グランプリ決勝、 最終組であるさや香のネタが終わったとき、ぼくは一瞬「優勝はさや香かな」と思った。笑えるかどうかでいえば、前の2 組の方が圧倒的に笑えたのだが、同業である審査員の人たちは、 さや香のネタを評価するかもしれない、と思ったのだ。

 

結果はそうならなかったのだけど、なぜぼくはあの時「評価されるかも」と思ったのか。 自分の頭の中を整理しておきたい。

 

ほとんどの漫才、お笑いネタというのは「すでにあるもの」をベースにつくられている。

あるあるネタというのはその典型だけど、 ほかにも実在する誰かをいじったり極端にデフォルメしたり、 逆に一般常識を裏切る意外性のボケで笑わせたり、 ということだと思う。決勝の令和ロマンとヤーレンズも、大きく言えばその範疇に収まるものだった。

さや香の「見せ算」はそうではなかった。 世の中に存在しないものを提示する。何の事前知識もないものを、 聴衆の頭の中で想像させゼロから組み立てていって、そこから「外す」ことでボケるという試み。 これを話術のみで行うというのは相当に高度だと思う。

「存在しないもの」をネタにして笑いをとるという意味では、いまやM1で伝説となっている笑い飯の「とりじん」と同じ部類に属する。

 

ではさや香笑い飯の違いは何だったかといえば、笑い飯は「 掛けあい」ができたという点が大きなアドバンテージだったと思う。 聴衆の立場からすると、最初は見たことも聞いたこともない世界観にとまどいを覚えたものの、たたみかけるようなボケの応酬を見ているうちに、だんだんとこのネタの「笑いどころ」を理解できた。最終的には、知らない世界を見せられながら笑うという初めての快感もともない 、爆笑を巻き起こした。

一方でさや香は「一人しゃべり」に終始してしまった。 自然とボケの数は制限される。観ている方からすると「どう笑えばいいのか」をつかめないうちに終わってしまったというのが、今回の決勝だったのだと思う。

 

ウケなかったとはいえ、M1の決勝で「見せ算」を披露したさや香のチャンレンジ精神と、 話術への自信はすごいと思った。

1年前からこのネタを決勝でやると決めていたらしいが、 そのくらいの覚悟がなければできないことだろう。千鳥の大悟が「さや香はかっこよかった」と絶賛したというのも納得できる。

 

さや香の実力はもう誰もが知るところとなっている。今後も「普通に面白い漫才」も見たいけれど、 今回のようにさや香にしかできないネタにチャレンジし、 誰も体験したことのないような笑いを生み出してほしいと期待して いる。

受験その2

長男の高校受験が近づいてきている。


我が家は基本的に、本人の志望校をそのまま尊重するスタンスなの だけど、かなり安全志向の彼は、自分のランクや点数からするとだいぶ余裕がある学校を志望しているので、 特にピリピリした雰囲気はない。


親として「もっと上の高校も目指せるのにな~」ともったいなく思 う気持ちもなくはないけれど、この時期になっても旅行や遊びに行ったりなどそれほど気を遣わずにいられるのは、 正直に言ってありがたい気持ちの方が大きい。

 

それに「なぜ上の高校の方がいいのか」とあらためて考えてみると 、よくわからない、ということもある。
前に自分が書いた文章を読み返してみると「学歴は役に立つことは あっても邪魔になることはなく、選択肢を多くもつために有効」 と書いている。
確かにそう思うのだけど、そのときとはまた状況も違い、ぼくの心理状況も変わってきている。

 

当時は、中3になってもほとんど勉強をしない息子に対して「このまま努力もせずに、安パイの学校に行くことが本当にいいのか」と 漠然とした不安を覚えていた。
でも夏休みから塾に通い始め、いろんな刺激を受けたのか、以前よりは勉強をするようになった。テストの成績も一気に上がり、地域 で一番の高校も狙えるくらいの点数を取るようになってきた。今は 、それなりの努力をした上での「安パイ」狙いなのだ。

 

そんなわけで今は「幸せに生きられるかどうかは、高校や大学のラ ンクと関係ない」という気持ちが大きい。それも元々思っていたこ とではあるのだけれど、最近の息子の頑張りを見て、 より強くなってきたという感じだ。これはつまり、 頑張って結果を出した息子に対して、どんな進路に進もうが「 やるときはやる」という信頼感が強くなったということだと思う。

そうなると、単純に少しでも上の高校を目指すのではなく、自分なりの考えで志望校を決めたことも良かったと思えている。

 

僕の考えとして「幸せへの近道は後悔を減らすこと」ということが ある。
そして後悔を減らすためには、人生の様々な選択において、人に惑わされず「自分で決める」ことが何よりも重要なことだと思ってい る。そうすればたとえ結果が悪くても「自分で決めたことだから仕 方がない」と、切り替えて前を向ける。つまり後悔が少なくてすむのだ。

 

自分で考え、努力し、結果を出せる息子だ。親としては、できるだ け何かを押しつけることなく、本人の意志と判断を見守っていきたいと思う。

 

 

野球について語っておく

 

今さらながら、野球がおもしろい。

 

部活経験もなく、大人になってからたまに草野球をやっている程度なのだけど、我ながら年々バッティング能力が向上している気がする。(残念ながら守備は年齢とともにどんどん衰えてきている実感がある…)

 

生意気なことを言うようだが、ヒットならば狙いにいけばある程度打てる自信がある。

 

ふだん打席の中では(ぼくは左打席なので)「ショートの頭の上」というタイミングで振ることを一番のプライオリティとして意識していた。そうするとミートの確実性があがり、ヒットは打ちやすい。

 

ただしそのタイミングで振ると、長打を打つにはかなりのパワーが必要になる。

 

打球を遠くに飛ばすには、当然ながらバットの遠心力が最大になるところでミートするのが一番効率的なのだが、「ショートの頭の上」打法では、その遠心力が半分くらいしか使えないからだ。

 

実際に、会心の当たりでもセンターオーバーや右中間の深いところまでがせいぜいで、柵越えには至らなかった。

そこで思い切って、これまでの打法を捨てることにした。

 

新打法のポイントはこんな感じだ。

 

・構える際には、できるだけ上半身を脱力する。

 

・バットは高く、後ろに引いておく。(落合の本によると、バッティングはいかに早くトップをつくって準備できるかが何より重要なのである)

 

・投球動作にあわせて足を上げると同時に、バットをさらに後ろに高く持ち上げてトップの態勢をつくる。(足をあげることで体が前に倒れそうになるのを、バットを後ろに引くことでバランスをとるイメージ)

 

・後ろの軸足を中心に、バットを振り下ろしながらその場で回転するイメージで振る。

 

・スイングの際には、軸足の内側から、踏み出す足の内側に体重移動していくイメージで足を動かす。(これまた落合本の教え)

 

・フォロースルーをできるだけ大きく

 

これらの動きの大前提となるのは、とにかく体の力を抜いて「でんでん太鼓」になったイメージで振ること。そして内側からバットを出していく「インサイドアウト」だ。

 

インサイドアウトについては、素振りの際に壁やフェンスの近くに立って振ることで、自然と身につくようになる。

 

これが今年から取り組んでいる新しいフォームだ。

 

今までは、ほとんどタイミングのことしか意識していなかったところから、大きな変化である。

 

実際に、素振りの段階でかなりスイングが強く鋭く変わった感覚があった。

 

バッティングセンターで打った時も、打球に力が伝わっている気がして、手ごたえを得た。

 

そしてついに、今年の実戦2戦目にしてホームランが出たのである。

 

しかもそれはいつもの草野球ではなく、年に一度の会社の野球大会という晴れ舞台。両翼90mはある立派な野球場のライトフェンスを軽々と越えていく完璧な当たりだった。

 

それは最高の快感だったのは間違いないのだけど、ぼくが「野球って面白い」とあらためて思ったのは、その後の草野球の試合である。

 

ホームランですっかり自信を得たぼくは、その日のピッチャーの投球練習を見て「今日も打てそうだな」と感じていた。

 

しかし打席に立つと、全然違った。

 

とにかく変化球の曲がりが鋭く、まったくタイミングが合わない。1打席目は変化球で追い込まれ、ボール球のストレートを降らされて三振。

 

そして2打席目、ぼくは変化球を捨ててストレートを打ちにいくと決めていたが、バッテリーはそれを見透かし、初球・2球目と変化球攻め。またあっという間に追い込まれて3球目はストレート。きたっと思ったがこれまた内角の絶妙なボール球で、バットを止めるのも間に合わずに三振。結局、二打席とも同じパターンでやられてしまった。

 

そしてその次の試合。またしても変化球がいいピッチャーで、タイミングが合わずに2打席ノーヒット1三振。

 

おそらく去年までの打法であれば、バットに当てるくらいはできただろう。運が良ければヒットも打てたかもしれない。しかし今のホームラン狙い打法は、当たれば強い打球になるが、確実性は劣るのだ。ホームランは打ちたいが、三振は悔しい。

 

来年に向けてのテーマは決まった。今のホームラン打法のスイングを維持しながら、タイミングを「ショートの頭の上」にする。

 

これはいまのぼくにとってはかなり難易度が高い。打席の中で意識することが多すぎると、どこかがおろそかになってしまうのだ。これをやるには、まず今のスイングを徹底的に体に覚えさせる必要がある。自然と理想のスイングができる状態になれば、打席ではタイミングに集中できる。冬の間に振り込んで来シーズンに備えようと思う。

 

野球では、自分のスイングと投手のボールという変数の掛け合わせで、無限の結果がうまれる。1打席、1球たりとも同じものはない。その中で、少しでも確率高く良い打球を打つために、工夫をし、トレーニングをする。結果がついてくることもあれば、全然ダメなときもある。ダメならその原因を分析して、克服するためにまた考える。ひとつ克服したら、それまでできたことができなくなることもある。とにかく終わりがない。キリがない。でもそれを繰り返す中で、これまでよりもうまくなった自分を感じられる瞬間がある。そのときの充実感は、他に代えがたいものだ。

 

野球は楽しい。体が動く限り、うまくなっていきたい。

 

 

じゃあ、スーパードライのCMはどうすればよかったのか

ちょっと前の話になるが、 ラグビーワールドカップで日本代表が敗れた直後に、 アサヒビールが「敗退バージョン」のテレビCMを流したことが物 議をかもした。僕もテレビ中継を見ていたので、 リアルタイムでこのCMを目にして「これはないな」 という印象をもったことをよく覚えている。

 

21年の東京オリンピックのときにコカ・コーラが、 テレビ中継でメダル獲得があった直後に綾瀬はるかが出演する「 おめでとうCM」を流したことが話題になった。 このときも賛否両論あったみたいだけれど、 基本的には視聴者も明るい気持ちで観ているタイミングなので、 ネガティブな声はそこまで大きくなかったと記憶している。

 

今回もアサヒビールとしては、 同じノリで勝利と敗退両方のパターンで用意していたのだろうけれ ど、敗退バージョンは思いのほか反発を招いてしまった、 ということなのだろう。

 

あのCMが失敗だったことは疑いがないし、 その理由も語るまでもない気がする。 そこでちょっと考えてみたいと思ったのは「どんなCMなら正解だ ったのか」ということだ。

もちろん、負けた場合には通常のスーパードライのCMを流してお けば無難なのだろうが、その結論はちょっと面白くない。 クリエイティビティを刺激する訓練として、あの場面で「 視聴者に受け入れられる敗退バージョン」のCMとはどんなものな のか、考えてみたいと思った。

 

大きなポイントのひとつに「さも一緒に見ていたかのような演技」 があると思う。この場合の「演技」はイコール「嘘」である。 勝敗どちらのパターンにしても、 これほど明白な嘘を堂々と見せられると、 反発を覚えるのも当然という気がする。

 

それから個人的にあのCMを残念に感じたポイントの1つに、 イチローが出演していたということがある。 日本人アスリートの象徴ともいえる存在のイチローが、 命懸けで戦い敗れたラグビー日本代表に対して、嘘の演技で労う、 という構図が受け入れがたいと感じた。イチローには、 そんな仕事は断ってほしかったと思った。

 

であるなら、あくまでも「イチローらしいリアルさ」で労うCMだ ったらどうだろう。

たとえば生コマーシャル。 リアルタイムで観戦していたイチローが、 その瞬間に思いを発する。そうすれば、同じ「残念!」でも、 はるかに視聴者の気持ちに寄り添うものになった気がする。

 

どうしても事前収録が避けられないのであれば「 アスリートの先輩」として語っていたらどうだろうか。

「同じアスリートとして、 負けたときにかけられる言葉なんてない」「 今はとても乾杯の気分じゃないかもしれないけど、 長い人生においては、負けも大きな糧になる」 というようなメッセージを語る。アサヒビールのCMでありながら 乾杯もビールもなし。そんな潔く振り切ったものであれば、 受け入れられたかもしれない。

 

なんてあれこれ考えてみたけれど、やはりベストは「やらない」 なんだろうなと思う。

スポーツ中継の一番の醍醐味は、 世界中の誰も結末を知らないストーリーをリアルタイムで目撃することにある。勝つにしても負けるにしても、その尊い「 結末の瞬間」において、「商売のチャンス」 をうかがう下心は絶対的に相容れないのだと思う。

 

スポーツイベントのスポンサーになる企業には、 そのあたりをわきまえた度量の大きさをもっていてほしいと願う。

 

拝啓、西武ライオンズ球団社長様

スポーツ新聞などの記事によると、西武ホールディングス株主総会で、ライオンズの高橋光と今井の長髪について「見苦しい。スポーツ選手としてどうかと思う。球団から注意できないものか」という発言があったという。


たった一人の株主が発した意見を、さも大きな問題のように取り上げて騒ぎ立てるマスコミに対してはいつもながら呆れてしまうのだけど、高橋と今井には、圧倒的な結果で意地を見せてほしいと願うばかりである。


それはそれとして、この意見に対して球団社長は「貴重なご意見をいただきましたので、球団として適切に対応、建設的にやってまいりたいと思います」という回答をしたと報道されている。状況を考えると無難な回答だとは思うけれど、ファンの一人としては残念に思った。

世の中にはこの株主のように、正当な理由もなく、個人の服装やおしゃれをする自由を奪おうとする人たちが一定数存在する。そしてなぜかそれが正しい意見かのように報道されている。どこかで誰かがそんな風潮にはっきりとNOを言わなければ、いつまでたっても状況は変わらない。


少なくともライオンズ球団は彼らに髪形の自由を認めているのだから、それは堂々と主張されるべきだったと思う。球団社長はその株主に対して「なぜスポーツ選手は長髪が許されないのか」と問い返してほしかった。多様性に寛容であることが求められる時代に、軍隊のように無個性なファッションを強要されるプロ野球選手が、子どもたちや若者の憧れとなりえるだろうか。そう問いかけてほしかった。


会社は株主のもの、そんな建前よりももっと大切なのは「会社としての社会的な存在意義を発揮する」ということだと思う。プロ野球の球団の存在意義は、ファンに楽しみや生きがい、前向きに生きる力を与えることだ。そのためにはまず選手一人ひとりが、野球を楽しみ、人生を楽しめること。ライオンズはそんな環境づくりを大切にする球団であり続けてほしい。

「他人事」の大事さ

自分的に大発明をしたので備忘としてメモをしておく。

 

糸井重里さんの、「不登校」についてのインタビュー記事を読んでいたときのことだ。

「学校に行っていないことなんて、第三者から見たら『へえ、そうなんだ』くらいのこと」、つまり全然大した問題ではない、という主旨のことばを読んで「そうだよな」と思っていた。

 

そのときふと思った。そういうことってたくさんある。

特に子どものことだ。

不登校だけでなく、勉強や受験、友人関係、身体的特徴、果ては食べ物の好き嫌いまで。親にとって子どもに関する心配は尽きない。あれこれと悩み、子どもに対して口うるさく言ってしまう。

そんなとき「他人の目」になってみるといいのだ、と思った。

 

たとえば高校受験に失敗したとする。本人や親にとってはかなりのショックだろう。その瞬間は将来に悲観的になり、家の中を重苦しい空気が包むかもしれない。

でもそれが他人の家の話だったら。きっと「それは残念だったけど、そういうこともあるよね」という程度の感想だろう。なぜなら長い人生においては、高校受験が大した問題ではないことを知っているからだ。そして、その「他人の感覚」の方がきっと正しい。

 

身長が低くて悩んでいる子どもに親は心を痛めるが、それも他人の子どもの話になると「多少背が低いことなんて、大人になってからは大した問題じゃない」と思う。そして、それがきっと正しい。

 

これは「他人事だから軽く考える」ということではない。

たとえば「いじめにあっている」ということだったらどうだろう。

他人の子どもでも、心から気の毒だと思うし「どんなことをしてでも、その環境から脱け出させるべき」と考えるはずだ。そして、それもきっと正しい。

 

つまり、当事者だとつい近視眼的になり考え過ぎてしまうことでも、他人の目線になれば客観的に冷静に判断できる、ということではないかと思う。

 

あれやこれやと心配をし、つい口出しをしたくなったとき、一度立ち止まって「これが他人の子どもだったらどうだろう」と考えてみることにしよう。

そこで思い浮かぶことが、おそらくその場での最善な判断である可能性が高い。

これは二人の子どもをもつ親として、大発明のライフハックな気がする。