00年代の30枚 その2

新年、あけましておめでとうございます。
2010年代はどのような時代になるのか?
分かりませんね。そもそも、00年代がどういう時代だったのかもよく分からない。
しかし、00年代について考えることで90年代がどういう時代だったのかが分かってくる。
10年くらい経たないと、「そのとき何が起こっていたのか」みたいなことはよく分からないものです。
では、00年代の30枚の続きです。
 

2003年

Speakerboxxx/The Love Below
Andre 3000 『The Love Below』 (米国)
二枚組のアンドレ3000の方です。ビッグ・ボイの方も別に悪くないのですが、やはりバカな戦争をやっているときにはバカな音楽で盛り上がろう、という感じがする『The Love Below』は素晴らしいです。
これはPV込みで評価したいアルバムですが、特に『Roses』が良かったです。非常に9.11的な何かを象徴しているPVではないかと思います。
同時期の名作PV、ブリトニーの『Toxic』もそうですね。
アメリカという国は戦争をやってないとどこか気合いの入らない困ったところがあるようです。
あと名前を忘れてしまったのですが、OutcastのPVによく出てくるサングラスのお調子者の彼はいいですね。
 
Tasty
ケリス 『Tasty』 (米国)
このアルバムもまたバカっぽくていいです。
やはり『Milkshake』が最高ですが、このPVや『Toxic』なんかを見ても、白人男性は戦争でもやってないと間が持たないというムードが漂っています。
「ケリス萌え」ですね、僕は。
 
Fernanda Porto
フェルナンド・ポルト 『Fernanda Porto』 (ブラジル)
2STEPのというよりドラムンベースの歌物です。ボサノヴァドラムンにアレンジするのはよくありましたが、それをもっと洗練させています。
これと先に挙げたタルヴィン・シンなどについて考えると、90年代に生まれたドラムンベースという音楽がインドからユーラシア大陸を西へ目指し大西洋を渡って南米に行き着くという流れの中から生まれた、歴史と空間を交叉する音楽であるということが分かります。
 
Asect: Dsect
リチャード・ディヴァイ 『Asect: Dsect』 (米国)
一方で、ドラムンベース英米音楽の最果てとして捉えるとこういう音楽になるのではないでしょうか。
この人はピアノを正式に学んでいたようで、他のエレクトロニカのアーティストと比べると音楽の「流れ」が格段にスムーズで、だからこそこのリズムが生きてきます。
西洋音楽の持つ力もやはりまた大きいものだと思わせます。
 
Mitsoura
ミツーラ 『Mitsoura』 (ハンガリー
ジプシーの人です。アラブ的というか独特の世界を現代的にやっています。
2曲目が非常に素晴らしく、浜崎あゆみがいっちゃったような凄い声で歌います。
これを聴くと、浜崎あゆみの声はもっと別な方向に活かすことができると思います。
 

2004年

Med〓lla
ビョーク 『Med〓lla』 (アイスランド
この人は確かに歌は上手いですが、先進的なサウンドとの相性はあまり良くないですね。同じことはUAにも言えますが、人間的な声とエレクトロニカの融合はコンセプトとしてよく分かるものの難しいところがあります。
そこで、全部声で音を創ったらどうよ?という試みは成功していると思います。
 

2005年

Arular
M.I.A. 『Arular』 (英国−スリランカ
ここまで今ひとつ同意され難いセレクトだと思いますが、M.I.A.だけは誰もが納得でしょう。英米の各音楽雑誌から今は亡きスタジオボイス、さらには池田信夫氏にいたるまでが評価しているのだから、00年代を代表するアーティストと言ってもいいかもしれません。
ただしどうも二枚目の方が評価が高いようですが、僕は断然一枚目です。RolandのMC-505で作ったサウンドの面白さは21世紀のダンスミュージックとして相応しいものです。
それにしても、なぜこのような音楽がいきなり出てきたのか?
本人はダンスホール・レゲエの影響を語っていますが、このノリは明らかにレゲエとは異なる。むしろバイレファンキですがサンバのノリとも違いますね。プロデューサーであるディプロの他のアルバムを聴いてもよく分からない。というか、ディプロは本人のユニットを聴いてもあんまり面白くないです。
まあ、こういうのが突然出てくるところが音楽の面白さです。
 
The Last Romance
アラブ・ストラップ 『The Last Romance』 (英国)
00年代の英国の音楽は移民系は別として影が薄くなったように思います。レイブでバカ騒ぎをやっていた頃が花でしたね。
アラブ・ストラップのアルバムなら90年代の方がいいでしょうが、ラストアルバムまでぶつぶつと呟き続けていたところを評価したいと思います。
 

2006年

ULTRA BLUE
宇多田ヒカル 『UTULTRA BLUE』 (日本)
宇多田のアルバムならどれを挙げてもいいのですが、ベスト的な意味でこれを選びます。つまり、『COLORS』、『誰かの願いが叶うころ』、『Be My Last』の3曲が入っているからです。一つのアルバムとしてはあんまり好きではないのですが、この3曲がもしかすると彼女の才能の絶頂期かもしれません。
ただ、『Beautiful World』や『HEART STATION』のような曲はこの3曲の持つ奥深さを聴きやすい曲に昇華していると思います。
 
NUNKI
カヒミ・カリイ 『NUNKI』 (日本)
ジャケットなら『Trapeziste』の方ですが、音楽としてはこちらです。
ノイズや音響やエレクトロニカやフリージャズを意識させることなく、最初からこういう音楽であるということが感じ取れる世界的レベルの作品だと思います。
 

2007年

十七歳
Base Ball Bear 『十七歳』 (日本)
こういう感じのバンドは最近結構いるようですね。昨日の紅白でも見かけました。
しかし、Base Ball Bearほどの曲の、歌詞の、そしてバンドとしての面白さを持った人達はいないでしょう。
僕は音楽(音楽だけに限りませんが)は「ストレート」にやって欲しいと思います。
一例を挙げれば、椎名林檎より矢井田瞳の方がずっといいと思います。矢井田の方が楽しそうに歌っているからです。
このアルバムの一番好きなところは、『愛してる』のベースの歌が下手なところです。
 
BEAUTIFUL SCARS
Kip Hanrahan 『BEAUTIFUL SCARS』 (米国)
ボーカルジャズというか、菊地成孔みたいな人で彼がライナーを書いています。
もともとラテンとジャズの融合のようなことをやっていた人ですね。
かつて”ベーシスト”だったのが、このアルバムでは”ギタリスト”になっていたとか、「流行」とは全く別の意味で大きな流れに乗った傑作です。
 
FLYING SAUCER 1947
HARRY HOSONO & THE WORLD SHYNESS  『FLYING SAUCER 1947』 (日本)
このリストは順位を付けずにやっていますが、もし00年代の1位を選べと言われたら迷うことなくこれを選びます。
細野晴臣の最高傑作を選べと言われてもこれを選びます。
最後の3曲が決定的です。
『夢見る約束』はUAの一番いいボーカルを引き出しています。
昨年の5月3日、日比谷野外音楽堂で本当の葬式をやってくれましたが、ああいうことができるのは細野晴臣だけでしょう。
 
もってけ!セーラーふく Re-Mix001 -7 burning Remixers-
泉こなた(平野綾)他 『もってけ!セーラーふく Re-Mix001 -7 burning Remixers-』 (日本)
らき☆すた問題というのは00年代の重要テーマだと思います。
たかが主題歌、ではないのです。このアニメが実は歌のためのアニメであり、ここで歌われていることこそが事の本質です。
そして、J-POPというのは1985年の『セーラー服を脱がさないで』に始まり、この曲で終わった何かです。
 

2008年

 
BEST FICTION(DVD付)
安室奈美恵 『BEST FICTION』 (日本)
ベストですが、『WHAT A FEELING』(大沢伸一)と『ROCK STEADY』(MURO)が入っているのでこれを選びます。
しかしそれだけではなく、安室奈美恵という人が00年代にここまできたという軌跡としてこれを選ばなければなりません。
DVDのPVを見れば、『WHAT A FEELING』と『ROCK STEADY』に彼女と日本のポピュラーミュージックの一つの偉大な達成が感じ取れるはずです。
 
DOLCE
鈴木亜美 『DOLCE』 (日本)
紅白歌合戦というものがいつ終わったかと考えてみると、2005年、鈴木亜美が『Delightful』を歌ったときじゃないかと思います。
あの持田香織なんてレベルじゃない破壊的なボーカルが歌合戦などという偽りの風習を終焉させたのです。
このアルバムには、中田ヤスタカホフディランの闘いといったような興味深いテーマが詰め込まれています。
 

2009年

CM3
CORNELIUS 『CM3』 (日本)
00年代のCORNELIUSのアルバムはどれも良くできていますが、最後にこれを選びたいと思います。
"Interpretation Remix"である彼のリミックスこそ、90年代を清算的に受け継いだ00年代にふさわしい作品だからです。

00年代の30枚 その1

00年代もあと数十分となりましたが、この十年を振り返るにあたりやはり音楽を通して見るのが肝要だと思い30枚ばかり重要な作品を選んでみました。。
順位は付けずに年ごとに選びます。
まずは、2000年から2003年まで。
 

2000年

Voodoo
D'Angelo 『Voodoo』 (米国)
ヒップホップ以降のR&Bの一つの到達点のようなアルバムです。2000年に到達してしまって、その後の合衆国のR&Bがどうなったかというとご覧の有様です。
適度な歌の下手さが実にいい感じでラップと歌の微妙な融合具合を見せてくれますが、これ以降シンガーとしては活動していないようです。
Roberta Flackの『Feel Like Makin' Love』のカヴァーなんかも素晴らしいです。
また、アフリカ的な部分はラテンの一方のルーツとしての「アフリカ」を感じさせ、そこをすかさず感じ取ったCaetano Velosoがインスパイアされ『Noites Do Norte』というこれもまた名盤を作りました。
 
ジョアン 声とギター
ジョアン・ジルベルト 『ジョアン 声とギター』 (ブラジル)
プロデューサーはCaetano Velosoで、このタイトル(JOAO VOZ E VIOLAO)も彼が付けたのだと思いますが、恐らくは「ドラム&ベース」を意識したのではないでしょうか。
90年代を代表する、というより20世紀の最後の音楽としてのドラムンベースに対するブラジルサイドからの一つの回答だと想像しました。
1959年以降次第にキーが下がり続けるジョアン・ジルベルトの歌は、ついに底に達したようですが、にもかかわらずその重量は減り続けることで、最も軽くかつ最も下であるという驚くべき状態を聴かせてくれます。
 
Outside
Amar 『Outside』 (英国−インド)
UKエイジアンの人ですが、どちらかというとインド風味の米国的R&Bです。
マイナーですが、わりと好きでよく聴きました。
 
Segundo
ファナ・モリーナ 『Segundo』 (アルゼンチン)
いわゆるアルゼンチン音響派です。こういう人は南米でも意外にブラジルにはいなくてアルゼンチンなのです。
エレクトロニクスとアコースティックの融合が素晴らしいです。
 

2001年

ブリトニー
ブリトニー・スピアーズ 『ブリトニー』 (米国)
こういうのを聴くとアメリカ合衆国の底力を感じます。
典型的00年代ポップスのサウンドですが、そこらの音とは全く違います。歌も含めて実にスムーズな音であり、それはスピーカーで聴けば誰でも分かります。英語で歌詞がここまで明瞭に聴き取れる歌というのはちょっとないです。
 
Born to Do It
クレイグ・デイヴィッド 『Born to Do It』 (英国)
いわゆる2STEPの歌物ですが、2STEPがどうのというより英国のR&Bとして大いに可能性を感じさせるものでした。しかし、その後は特に盛り上がることもなく、彼の二枚目も良くなかったです。
でも、このアルバムは非常にいいです。
 
No Compromise
ルーファス・トラウトマン 『No Compromise』 (米国)
ロジャー・トラウトマンの甥です。曲もロジャー・トラウトマンそのままですが、音はサウンドだけ現代的です。
トークボックスファンなら泣ける一枚です。
 
Ha!
タルヴィン・シン 『Ha!』 (インド)
UKエイジアンのタブラ奏者よるドラムンベースです。
タブラ・バヤの伝統的な演奏を聴くと多くの人は、「これはドラムンベースそのものではないか」と感じると思うのですが、その思いのままに現代的なドラムンベースをやってしまった人がタルヴィン・シンです。
したがって、分かりやすいコンセプトと言えば言えるのですが、実際に音になったものを聴くと音楽の歴史と空間が交叉する瞬間に立ち会えます。
  
ファイナル・スタジオ・レコーディングス
ヌスラット・ファテ・アリ・ハーン 『ファイナル・スタジオ・レコーディングス』 (パキスタン
パキスタンが誇るカッワーリーの大歌手です。
晩年の録音なので90年代後半に録られたものでしょう。
「スタジオ・レコーディングス」というだけあってカッワーリーにしては珍しくオンマイクの録音ですが、それがこの音楽の恐るべきモダンな面を垣間見せてくれます。
これこそ未来の音楽ではないか、という気さえします。
 

2002年

Heart & Crime
ジュリー・ドイロン 『Heart & Crime』 (カナダ)
音数の少ないギターやピアノの演奏で歌う非常にシンプルなアルバムです。
静かでいいです。
 
Mtv Unplugged No 2.0
ローリン・ヒル 『Mtv Unplugged No 2.0』 (米国
MTVのUnplugged Liveですが、たんなる企画物ではない極めて重要なアルバムです。
「もう、これでいいじゃないか」と言わんばかりにギター一本で歌うだけのこのアルバムが、その後のR&B/ヒップホップの一つの終焉を決定したように感じさせます。
 
Clone
レオ・コッケ&マイク・ゴードン 『Clone』 (米国)
ジャケットでレオ・コッケは当然12弦ギターを、マイク・ゴードンはリゾネーターベースを演奏していますが、この組み合わせはアコースティックの一つの究極であるような気がします。
 
Finally We Are No One
ムーム 『Finally We Are No One』 (アイスランド
双子(ベルセバのジャケットに出てくる二人)がいた最後のアルバムなのでしょうか?
双子がいなくなるバンドというのがいいですね。村上春樹の世界です。残ったメンバーに羊の着ぐるみを着せてやる必要があります。
しかし、アイスランドというのもおかしな国ですが、日本もこういう素晴らしい音楽が出てくるようなら破産したっていいじゃないかという気もします。
 
その2に続く

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』における絶対に漏らしてはいけない最大のネタバレ

CAUTION!
以下、最大級のネタバレ警報を発令します。
自分はネタバレというのをほとんど気にしませんが、今回のネタバレだけはこれから見る人の映画体験を著しく損なう可能性がありますので、見る予定があって見ていない人は読まないことを強く勧めます。
 
(本文とは無関係のスペースを空けるための動画なので見なくていいです)

(以下本文)
 
封切りから二週間経ち、この映画の感想や批評もだいぶ出てきた。
動員数もかなりいいようで評価も概ね高いと言っていいだろう。むろん、不満のある人も見受けられるが、たいがいが「みんな優しそうで丸くなったこんなエヴァは俺のエヴァじゃない」とかいうものだ。
 
だが、この作品、一つの映画として本当に素晴らしい出来なのだろうか?
確かに、映像美という点からすれば文句なくよく出来ている。特にメカニカルな動き、とりわけ使徒のデザインなどは圧倒的に素晴らしいと思う。
しかし、この点に関しては庵野達のお家芸ともいうべき仕事であって、その凄さはあくまで通常の期待の延長線上にあるもである。アニメやCGのプロが見れば技術力の高さに感動できるのかもしれないが、俺のような素人が見れば「やってる、やってる」と楽しめるだけのものである。
また、話の展開もよくまとまっていると思う。ただしこれも、一度作ったものを検討して再構成するのだから、そんなに難しいことではないはずだ。
さらに言えば、性格が丸くなったキャラクター達の変化に不満がある旧作のファンがいるわけだが、これは物語構成とのバーターであって旧作のようなキャラや人間関係では、今回のように話を破綻なくまとめ上げることは不可能だと思う。
したがって、この点に関しては俺は全く気にならなかった。
 
だとしたら俺はこの映画を、「あーいい映画だな。よく出来ているな。でもなー、やっぱエヴァなんだからもうちょっとこう見ていて意外感や想定外の驚きみたいなものが欲しいな」などと思って見ていたのか。
 
全くそうではないのである。
 
俺は映画が進めば進むほどに、「何なのこれは?どういうつもりなの???」という思いに駆られていったのである。
そして映画が終わるエンディングでは謎が深まりすぎて、『序』においては感動して聴き入っていた宇多田ヒカルの歌が、もう全く耳に入ってこない状態であった。
 
「俺はいったい、今なにを観たのか?」
その思いは『ポニョ』を観たときの比ではない。
 
俺は家に帰り、ブログの感想をはてブエヴァタグをたどって全部読んだ。そのときは俺と同じ思いを共有する人は一人も見つけられなかったのだが、翌日に見つけた。
こちらだが、

日常パートのギャグがスベりまくりだったような。なんかおれまでスベってる感じがしてツラくて、その状況が「なぜオタは自分の身体をアニメ作品にまで延長しますか?」を体現しててさらに嫌だった。BGMのせいでさらに滑ってるところが多かったような。

全く同感である。
ただし、問題は「日常パート」だけではないのだ。
例えば、俺がこの映画で最大の違和感を感じたのが極めて重要な戦闘シーンにおける『今日の日はさようなら』。
だって、あのシーンで、あのタイミングで、あの声で、あの歌って絶対おかしいでしょう。
「え?これ、どういうこと?」って何であんな重要なシーンで思わされるのか?
あるいは、『翼をください』もそう。あのせっかく上手くはまった音楽をぶち壊す膨大な説明台詞って何なのか?ブクマのコメントによると笑いをこらえるのに必死だった人がいたようだが、確かにおかしい。
 
これらはたんに「下手すぎる演出」ということだろうか?
観ているときはよくわからなかったが2日たって、それは違うとしか思えなくなってきた。
 
というのも、例えばシンジが切れるシーン。
今どき本人もやらない小島よしおである(これを指摘しているのもググると一人だけ)。
確かに「そんなの関係ない」という台詞は旧作にもあるが、いくらなんでも小島よしおを2009年も半ばにやる必要性って何なのか?
さらには、これは実際声を上げて笑ってしまったのだが、綾波の「ポカポカ」。日常パートながら極めて重要なシーンであり、一言「ポカポカ」ならば普通に心暖まる台詞である。しかし、ああやって何度も「ポカポカ、ポカポカ」言われると笑うしかなくなってくるのである。
 
以上のことから考えられる結論は一つしかない。
 
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』は壮大なギャグアニメである(ただし、笑えない)*1
 
これはしかし実のところ、それほどおかしなことではない。
というのも、テレビシリーズにおいてアスカ来日以降の中盤はかなりギャグテイストが強くなっており、これが全体から見ると重要な役割を果たしているからだ。
したがって序破Qの中盤である破にギャグを持ってきても、そこには一定の必然性があるのである。
 
だが、ギャグであることのより本質的な理由は次の点である。
今回の『新劇場版』にありがちな批評として、「エヴァはこれまで大量の二次創作や派生作品が作られてきたが、今回の『ヱヴァ』は所詮原作者によるただクオリティが高いだけの二次創作ではないのか?原作者のみなさんは二次創作に膝を屈したんじゃないのか」というのが主に稲葉振一郎などの批評家筋に散見される。
これは確かに最もな意見ではある。
とはいえ、今さら一体どうやって膨大に作られた二次創作を超えられるというのか?何をどうやったって無理なのである。唯一つの方法を除いては。
 
その唯一の方法こそが「笑わせないギャグアニメ」である。
 
そこではどんなにつまらないギャグをやっても誰も「スベってる」とは思わない。誰もギャグだと思っていないからだ。
これはオリジナルだけにできることである。なぜなら、どんなに様々な二次創作があろうともパロディができないのは原理的にオリジナルだけであり、逆に言えば、二次創作とは全てが基本的にパロディだからである(セルフパロディというのもあるが、あれはオリジナルの二次創作への「ゲスト出演」である)。
 
したがって、「二次創作に膝を屈した」というのは間違いである。『ヱヴァ:破』は唯一の方法によって奇跡的に二次創作への『逆行』という今や誰もが逃れようのない罠から逃げ切ったのである。
 
ところで、97年のエヴァと2009年のヱヴァの最大の違いは何であろうか?
両方とも映画館に行った人ならば誰もが感じると思うが、それは観客である。
97年のエヴァの観客は昔のヤマトとかの観客と基本的には同質である。ようするにオタクである。
しかし、2007年の『序』でも感じ、2009年の『破』でさらに驚いたのは「普通の若者」の多さ、しかもカップルが目立ったことである。
97年のエヴァでは観客をスクリーンにまで登場させたのだから、この差異は極めて重要である。というのも、こういう観客相手にエヴァを届けるというのはもう完全に不可能じゃないかと思うからだ。
あの観客が自分をシンジやアスカやレイに重ね合わせるのは絶対に無理である。これまた唯一つの方法を除いては。
 
『序』『破』において、シンジ、レイ、アスカには、旧作でははっきりとしなかった明確な共通テーマがある。
「笑えるようになる/ならなくなる」ということである。
レイは「笑えばいいと思うよ」*2と言われ笑い、アスカは「そっか、私笑えるんだ」と気付き、シンジは「誰とも笑え」なくなった。
つまり、「笑える」「笑えない」はこの映画の極めて重要なテーマであり、観客がシンジ、レイ、アスカに没入するキーとなるものなのである。
 
だとしたら、あの観客の若者達にシンジ、レイ、アスカをアイデンティファイさせるためには一つしか方法がないはずだ。
 
笑えないギャグアニメを見せることで、彼らの笑いを宙づりにすること。
 
このやり方だけが2009年に通用する唯一の方法だったのだ。
 
今の日本は「お笑いの時代」である。俺はあまり興味がないのだがそういうことになっているようだ。
テレビで次から次にお笑いの新人が出てきて、ちょっとしたベテラン芸人は知識人のような扱いを受けたりする。
一方、批評誌では「お笑い特集」が組まれ、批評家は「僕の言ってることはネタがベタか分からない」などと悩み、その予備軍のようなものがテレビのお笑い芸人の真似事をして得意になっているのだから相当にお笑いの時代なのである。
 
そんな時代に最もやってはいけないこと、最大のタブーは「すべること」であると同時に「笑わないこと」である
まさにそれこそがゼロ年代におけるコミュニケーションが抱える最大の問題である。
 
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』はその最大のタブーに挑戦した。
 
「すべったから笑えない」のではない。「すべったことに気づかないくらい笑えない」ギャグアニメ。
 
実は俺は今まで庵野秀明をあまりいい作家だと思っていなかった。
確かに才能はあるが、それほどでもない。宮崎駿の後継としては物足りないなと。
 
だが、笑いを封じられたギャグアニメという『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』は凄まじい。
2009年にこんなやり方があったのかと驚愕するが、決して裏をかかれたというのではない。真正面中の真正面から斬りつけられたようなものである。97年のとき以上に。
 
ゼロ年代の最後の年にこんなことをやられるとは全くの想定外だった。
 
我々は彼に向かって無表情に呟くしかないだろう。
「君、面白いね」と。
真希波・マリ・イラストリアスのように。
 

*1:実際に俺が見た池袋の映画館では上映中一切笑いは起きなかった。

*2:『破』における食事会などを催すレイは「笑えた」後の変化として納得できるものである。その点、「笑えた」後もあまり変わらなかった旧作の方がおかしいのである。

 サンダース大佐の憂鬱

先日の道頓堀川での上半身の発見に続き、下半身も発見されたカーネル・サンダース。一時は、これを綺麗に塗り替えるなどという途方もなく愚かな提案もあったようだが、KFCサイドの意見もあり20年以上の歳月を経て生み出された素晴らしい質感を活かす方向で保存するということで話がまとまり、ほっと胸をなで下ろす次第だ。
ところがここでまた一つ新たな問題が持ち上がった。福井県鯖江市がよせばいいのに当時と同じメガネを寄贈して、これをかけさせろというのだ。
当時と同じだからいいというのは明かな間違いだ。
長い間ヘドロまみれの水中に沈められて生み出された、このサンダース大佐は他の大佐とは全くの別物である。
もし、これを例えばショップに飾るということになった場合、置けるのは「ARTS&SCIENCE」ぐらいではないだろうか?そうなったとき、ソニア・パークは果たして鯖江製のメガネなどかけさせるだろうか?
ありえない、と言っていいだろう。
ソニアなら、やはりローデンストックあたりのヴィンテージを探してくるはずである。

写真は上が鯖江製、下がRODENSTOCKのヴィンテージである。RODENSTOCKの方が黒い縁がツルの部分で止まっているのでシャープな印象を与えている。
確かに、鯖江製の方がサンダースの一見穏和そうなキャラクターにふさわしいかもしれない。だが、サンダースというのはそんなに甘い男ではない。
かつて、マルティン・ハイデッガーは「アウシュビッツはブロイラー工場と同じだ」という恐るべき暴言を吐いたが、そのブロイラー思想を一大産業にまで押し上げた、「暗く血まみれの大地」ケンタッキーの白いスーツの名誉大佐、それがカーネル・サンダースである。
水中で長い年月をかけ表層をそぎ落とし、露わになったそんな男の本質をメガネ一本で誤魔化されてはたまらないのである。
 
話は変わるが、先日、初音ミクのCDが発売になって中島美嘉を抜いたとかいうことで話題になった。順位うんぬんはソニーのインチキ限定販売商法が演出しているのでどうでもいいのだが、「初音ミクの歌がいいと思っている奴は頭がおかしいい」とか言い出す奴が現れ、議論になった。
そこでは主にミクの歌というか声に焦点が置かれ、また、Vocaloidは楽器であるなどという意見も多く見られた。
だが、声の問題に惑わされてはいけない。
ハイデッガーを批判的に読むための重要な注意事項が、初音ミク問題にもあてはまる。
いいですか?
初音ミクが歌う音楽における強力な違和感。それは声にあるのではないのです。
そのトラック、つまり伴奏と声との相対的な齟齬にこそ、本質的な音楽上の「間違い」が生じているのだ。
分かりにくいかもしれないが、例えば、次のようなシチュエーションを想像して欲しい。
 
君がテレビのクイズ番組で珍回答を連発しバカタレントとして人気を博しヤクザ芸人プロデュースで出したCDもバカ売れ、一躍時の人になったとしよう。
そして、ついに中学生のときから憧れていたNIGOの家に招待されることになった。
まずは玄関、等身大のヨーダフィギュアがお出迎えだ。しかしそんなものはほんの前菜。廊下から見えるランドリールームにはカウズの巨大なベアブリックが何体も。「さすが、NIGOさんだぜ。コーラのおまけのベアブリックをトイレに飾ってる俺とは大違い」などと思いながら、いよいよリビングルームの前に。
「これがあのリビングか。部屋の奥にシェル石油の看板と実物のアメ車があって、その前には、そう、ピカピカに磨かれたカーネル・サンダース。ここはガソリンスタンドでもなければ、ケンタッキーフライドチキンでもない。にもかかわらず、そういうものがある世界。俺は今、ついにその憧れの世界に足を踏み入れようとしているのだ」
そうして、リビングの扉を開けた瞬間、眼に飛び込んできたものは・・・
「サンダースじゃねぇ!!」
あの柔和な笑顔と手持ちぶさたな仕草で歓迎してくれるはずのサンダースの代わりに置かれていたのは、毛沢東手帳を掲げる紅衛兵ごとく挑発的なポーズと表情でこちらを見据える涼宮ハルヒ
どのようにリアクションしていいのか戸惑う俺を横目に、
「どうよ?メッセサンオー本店前に置かれていた一点物。プライスは言えないが相当したぜ」と自慢げなNIGOさん。
そうか、これは「外し」ってやつか。
確かに、この広大なリビングの奥には雑誌で見たようにシェル石油の看板にアメ車も置かれている。別に痛車仕様などではない。家具だってプルーヴェのチェアが揃っている。
そんなアメリカンテイストに溢れたこの部屋に一点だけハルヒフィギュアなんぞを置いてちょっと外してみる。ソニア・パークの家の玄関にコケシが飾られているようなものさ。
そうやって一旦は自分を納得させてみたものの、NIGOさんの次の一言で無惨にもそんな俺の理解は打ち崩された。
「これが俺の嫁。毎朝、たまにはポニーテールも似合うぞとか話しかけてるんだ」
「外し」じゃねぇ!その証拠に、隣では本物の嫁、牧瀬里穂がひきつった笑いを浮かべている。
ここは一つ、牧瀬里穂に「するとあれですか、牧瀬さんは対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェースってやつですか?」などと言って雰囲気を和ませるべきだろうか?いや、それはマズい。そんなことを言って牧瀬さんがブチ切れたら大変だ。
どうするんだ、この途方もない違和感。いかんともしがたい空気。
あのアメ車に乗って一刻も早くこのリビングから逃げ出したいぜ!
 
これぐらいの巨大な違和感が、現在、売れているような初音ミクとそのトラックにはあるというわけだ。
つまり、今のVocaloidに欠けているのは、その機械の歌にふさわしい全く新たなトラック。ドラムス、ベース、ギターやらの既存の楽器に囚われない、しかし、今までのテクノとも違う何かなのだ。
そういうトラックで歌わせない限り、Vocaloidは人間の歌の代替物である、という地位から逃れられないのである。

 隠されていたものの表出

1985年以来、道頓堀川に沈められその姿を見せることのなかったカーネル・サンダースが今日、発見された。

桜島も爆発し、これも85年にピークを迎えた活発な火山活動の再開を高らかに宣言するかのようだ。
そして、株価にいたっては85年を通り越し80年代前半あたりの水準をうろつく有様。
この暴力的とも言える80年代の再来は何を意味するのか?
そう言えば、昨日NHKポアンカレ予想とそれを証明したグリゴリー・ペレルマンの特集番組を見た。
その難解極まる証明は全く分からなかったが、非常に面白かったのはペレルマントポロジーではなく微分幾何学と物理学の手法を使って解いてみせたということだ。
その番組では、60年代半ばからトポロジーアメリカで「数学の王者」と呼ばれるようになったと言っていたが、その影響が20年後人文にまで及び、80年代にはトポロジカルな思想でシラケつつノリ、ノリつつシラケるみたいなことがブームになった。
壺の思想
しかし、あの変な管のついた壺談義というのは、青山二郎浅田彰小林秀雄柄谷行人という構造を成していたと思う、トポロジカルな意味で。
壺中居における青山と小林の壺談義の反復。
壺中居と言えば、先日のNHK白洲次郎のドラマで正子の買った紅志野香炉を青山が一喝する場面があったが、あれは本当は「何だこんなもの、夢二じゃないか」と言ったのだ。それでこそ青山じゃないかと思う。亀治朗のあれは芸術は爆発系のそれだ。
初音ミク?何だこんなもの、夢二じゃないか」
あの、夢二的なものの氾濫は一体何なのか?あれじゃ、夢二地獄だよ。
何の話しだったか?
そうだ、道頓堀川カーネル・サンダース
ああいうものを競売に出すべきだね。
差し押さえた木彫りの熊なんて、100円でも誰も買わないのだ。
あれが一つ家にあれば、9,800円の中国イームズしかなくてもNIGOに勝てるのは間違いない。杉本博司当麻寺の古材といい勝負だろう。
「プルーヴェのチェア?、頭がデカくて眼がちいせえなぁ!」とか言えるわけよ、NIGOに。

 白洲次郎物語2

今、見た。
何が凄いって、出ないと思っていた小林秀雄がチョイ役で出演。しかも役者が緒形幹太
小林に昔、「今の役者に秀吉が演じられるわけがない」と大河の豊臣秀吉役を酷評された緒形拳の息子。
実に味わい深いな。
しかし、あんなふうに青山に恐れおののく白洲にグラスをチョンと当てて去って行くキャラなのか?
意外にそうなのかも知れないが、軽いな。もの凄く軽い小林秀雄ライト小林秀雄
亀治朗の青山二郎は、青山というより村上隆を彷彿とさせたな。
村上は今、美術そっちのけで骨董、民藝集めに熱中しているらしい。実に分かりやすいことになっているのだが、亀治朗が次も出るなら、是非とも村上隆を意識した青山を見てみたい。
 
今回は戦中、戦後の話しだが、あの階層の人達の話しとしてはムード的には違うな。
白洲正子なんかは戦争中に一番遊んだんじゃないか?
河上徹太郎がおもちゃのピアノを弾くシーンがあったが、青山二郎疎開先では500枚のレコードをローとハイの二台のスピーカーで小林秀雄なんかとガンガン聴いていたわけだ。
ちょっとしたホームDJ状態。青山二郎こそが渋谷系の先駆けだ。まあ、渋谷なんて青山家の一部だったのかもしれないが。
そういう戦争中の退廃が彼らを育てた、という面がけっこうあるんだな。
「人間は遊んでいるときに一番進歩するものなんだよ」
これはちょっと、緒形幹太が言うとは思えない。
 
ところで、一昨日法務局に行った帰りに、向かいにある江戸城北の丸公園に行ったが、そこで吉田茂銅像を見た。
双眼鏡を持っていたのでよく見てみたが、銅像の吉田は田中角栄と似た雰囲気を持っていた。
昭和の政治家の顔だ。
しかし今、その昭和の政治家の直系、小沢一郎が総理なっていいものかと思う。
彼は秘書が起訴されたら代表を辞めるべきだ。
他の代表経験者の誰かに譲るべきだろう。
それはともかく、北の丸公園には人がいない。
日本の真ん中に人のいない公園があるというのも、これまた日本ならではのことだ。
鳥を観察するのにはいい場所だった。
 
最近の日本はよく分からないことになっている。
本当の混沌というのはこういう状況じゃないのか。「アンポハンタイ!」とかワーワーワーと騒ぐのは分かりやすい状況であって、こういう経済も政治も何だかもう全然意味不明となって、変なのが暗躍する一方、文化的には同じことを繰り返して盛り上げることだけが目的となっているような状況。
先日、堀江貴文のロングインタビューを読んだが、彼はやはりそれなりの人物であって、国は彼のような者を活かすことを考えるべきだ。
そもそも、彼の国策逮捕は結果的には日本における金融の暴走を抑制し、相対的に日本の金融が守られることになった。
人柱として、堀江貴文を評価してもいいんじゃないかと思う。、
だいたい今、白洲次郎みたいな奴がいたら、それは恐らく堀江みたいな男になるはずである。

 白洲次郎物語

今、NHK白洲次郎のドラマを見た。
白洲正子役はCasa BRUTUSで器を買う女優、中谷美紀といういかにもな配役で、「邪魔する者はぶっ殺します」などと言っていたが、「ぶっ殺す」が口癖だったのは本人もよく覚えていない幼児の頃のことだ。
それはともかく、奥田瑛二演じる白州の親父とか、原田芳雄吉田茂とかそれなりに面白かった。
しかし、来週の予告編を見たらとんでもないものが出ていた。
市川亀治郎青山二郎
これはないな。歌舞伎役者なら中村獅童の方がそれっぽいだろう。
しかも、炎を見て「恐いだろう、美しいだろう」とか呟いているのだが、あれは死ぬ間際、半分ボケていた病院での話しだ。
青山だけじゃなく河上徹太郎も出てくるようだが、だとしたら小林秀雄が出てこないのはちょっとおかしい。多分、白州信哉あたりから「小林秀雄だけは勘弁して下さい」みたいなことになったんじゃないだろうか。
次郎や正子のドラマ化は許しても、小林秀雄だけは神聖にして犯すべからずだという最後の砦のような感じだ。
しかし、小林秀雄は見たかった。もちろん、館ひろしが演じるわけだが。
 
だが今、なぜ白洲次郎物語か?
吉田茂の孫で何となく白州次郎っぽい雰囲気を漂わせる麻生太郎応援キャンペーンだろうか?
それとも、あれか?カントリージェントルマン気取りで田舎で陶芸とか畑仕事とかやっている細川護煕がまた新党結成か?
それはないな。