忍耐も限界。。。
今は忍耐の時なので、なかなか前に進めずホントにイライラ。
イライラしているので些細なことでイラつく自分がいる。
横入りする老人。
ホームでの電車待ちの時と、郵便局での横入り。
何でこうもあからさまに迷惑をかけるんだろう?
並ぶ、ということに慣れてないのか、他人がいることがわからないのか。
かわいそうな人。
実は、夫は少し発達障がいのようなのだ。
調べた結果(・・・というか私の見立てなので信憑性に欠けるけど)、アスペルガーではないかと。
本人、年齢が高いので(高齢者に近い)、今更「療育」もないだろう、ということでほぼ放置しているのだけど、何とか特性を活かせないかと暗中模索中。
でも、自分の思うことだけを黙々とやり続ける夫を見ていると、こちらがあれこれ言う方が迷惑なのかな、と思ったりして何もできないというのが現実。
今見事に無職の夫の心境が全く読めないで、私は正直仕事に逃げる毎日である。
以前、夫が仕事していた頃、「やることがあると落ち着く」というのを本人が言っていた。
そういえば、クライアントから矢のような催促で仕事があった頃、ただ何も後先を考えずにただ仕事をこなしていた夫を思い出す。
そして
「缶詰工場で働きたい」とも言っていたことを思うと、まるで工場で流れ作業をするように仕事をしていたのかもしれない。
多分、それが一番彼にとっていい仕事のやり方なのかもしれない・・・。
毎日家にいる夫は、家のことは全くできないが、ゴミ出しに関してはこちらもありがたいと思うほどきっちりしてくれる。
ほかはほとんどできないに近い。
洗いものをすれば、茶碗を割る、しかも割った破片を回収しきれない、汚れを残したまま食器棚へ収納する、台所が片付けているけど汚い・・・。
掃除ができない、食事の用意などしたことがない、下着のTシャツを上に着るシャツの上に着ようとしてたことがある、服の着方がわからないのでボタンがいつも段違いになる、前のファスナーがいつも開いている・・・。
数え上げればキリがない。
2つ以上のモノを持たせると、必ず1つは忘れる。
買い物の時、荷物を持たせるとぐしゃぐしゃに持つので、やわらかいものは持たせられない。ケーキの箱を持ってもらうと、横向きになってても気がつかない。
注意力がないのか、なんでぐしゃぐしゃに持つのかわからないし、それを注意すると「こうして持ってないと忘れるから」とか「横向きになるケーキの箱が悪い」とか言うのでモノを持たせることができない。
結局、何もできないのだ。
注意しても、逆ギレされたりするのでそういうことも言えない。
そうして私は彼にモノを頼むことをしなくなる。
難しい話もできなくなるし、夫に仕事のこともここ2年ほど、言ったことはない。
言っても無駄だから。
そういえば、結婚した頃から、ずっと、生活のことや仕事のこと、将来のことなど大事な話をしたことがなかった。
そんなことでいいのか?と思われるかもしれないが、ホントに長い間、「行き当たりバッタリ」で生活してきたように思う。
今、そのツケがまわってきて、大変なことになっているんだけど、本人は全く認知していないようだ。
息子は、他府県の大学に通い、仕送りなしで奨学金で生活している。恨みつらみを言ってもいいのに、何も言わないのは、父親を不憫に思っているということなのだろうか?
そんな息子に対して何も言わない夫に本当に嫌気がさして、ここ2年、本気で許せない日々を過ごしてきた。
許せない。
いや、許そう。
私もちゃんと気がついてあげられなかった。
いやいや、やっぱり生活できないのは夫のせいだ。
そんなことはない、若い頃ちゃんと働いてくれたから今があるんだ・・・
何度この自問自答を繰り返しただろう?
今もまだこの自問自答中ではある。
夫との違和感を感じていたのは、やはり子育てを通して人とのつながりが増えたあたりからだろう。
それまで夫を変わり者だとは思っていたが、そんなにひどくはないと思っていた。
でも、夫が腎臓結石で入退院を繰り返すようになった頃、その言動の不思議さで確信にいたった。
あ、この人ちょっとおかしいわ。
検尿カップを自分のテーブルの前に積み上げる。
深夜うろうろして看護師を驚かす。
時間がきっちりでないと文句を言う。
そんな夫が哀れで不憫だと思うのは健常者の傲慢だろうか?
発達障がい、という言葉を知ったのはそのころで、本やネットで調べて夫の状態と比較してみた。
夫はもしかしたらアスペルガーかもしれない、と思った瞬間、確かに私はホッとしたというのも事実である。
今までの謎が全部解けるような感じがした。
でも、やっぱり「可哀そうだ」と思ってしまったのも事実。
だって、普通の人ができることができないから。
そして「できない」ということで多くの人に馬鹿にされていたから。
それを「可哀そう」という気持ちを抱いてもいいと私は思うんだよ。
「整理した」と言っては、たいして整理されていない自分のテリトリー。
本棚などは縦横に本が入ってて、何が何だかわからないが
「整理しているから触らないで」という。
どこが整理されているのかわからないが、自分なりのルールがあるのだろう。
それを触ると烈火のごとく怒る。
毎日数時間の散歩。
一体どこをほっつき歩いているのか、その間連絡は取れない。
以前、その散歩中にトイレで嘔吐。3時間後何とか家に戻ってきてまた嘔吐するので救急車で運ばれた。
歩くのが遅い。
どうしてだろう?足腰が弱ったのかな、と思ってたら、足に大きな豆ができ、それが痛くて歩けなかったのだという。
それも豆が取れてからようやくそれに気がつき、痛い箇所もわからなかったというからビックリ。
虫歯も、怪我も、「どこが痛いかわからない」と言う。
痛いのはわかるけど、どこ?と聞かれても「わからない」と答える夫は、バカじゃないか?と思われても仕方がないだろう。
実際私は「バカか?コイツ」と何度心の中で舌打ちをしたかわからない。
でも、これは全て、脳の機能障害なのだ・・・とわかったら、何となくそれを受け入れていかねばならないなぁ~・・・と思ったりするのだ。
夫は、自分が「痛いところがわからない」から、みんなそうなのだ、と思っていたという。
自分ができていることが、他の人ができなかったりするので、「他の人間は馬鹿だ」と思っていることが最近わかって、本当にびっくりした。
夫はまさに私が「夫はもしかしてバカか」と思っていたのと同じように私や私以外の人のことをしっかりはっきり「馬鹿である」と思っている。
そのことが一番の衝撃でもあった。
オットが発達障害だとわかって何が一番ショックって、多分それだろうと思う。
「あ、この人、自分以外は馬鹿と思ってるんだ・・・」
すごいよな~・・・。
自分では何一つまともなことができないくせに、周りをバカと思えるその感覚に驚いたのだ。
それが精神疾患を生むこともあるのではないか?
「自分はまともだ、と思っているのに、いつも他人に不当に扱われている」現実に、心が揺さぶられるのは当然のことだろう。
つくづく、自分とは何か?ということは、若いうちから分っておいた方がいい。
でも、それは夫の場合、療育とかそういうことで「矯正」されるものではなく、ただただ親や周りの教育環境で何とかなっていくようなものではなかったか、と思うのだ。
昔は発達障害などというものはなかった。
ちょっと周りと違う子ども、ということで自然淘汰されていったので、さほど目立たなかったのかもしれない。
子どもとはそういうもので、まわりとうまくできるかどうかなんてどうでもよく、オットが子どもの頃などは親は仕事でそれどころではなかったはず。
でも夫の母に聞くとその片鱗はあったりして、ああ、オットが子どもの頃にそういう知識や、知恵があれば・・・と悔やまれてならない。
ただ、そういう子どもだ、という認識があれば・・・。
着るものをちゃんと着れない、夜は歯を磨こう、そういう人としてちゃんと分った方がいい、できた方がいいことぐらいは、親がちゃんと見てあげるべきではないか。
そんな気がする。
それは、療育とか矯正とかそういうものではなく、子どもが親に教えてもらう最低限の生活習慣ではないか?と思うのだ。
それぐらいはちゃんとできるように育てようよ・・・
それすらもちゃんと教えてもらってない夫を私は心底かわいそうだな~と思うのは罪だろうか?
箸の持ち方一つ、他と違うことでからかわれる夫。
それは仕方がないことで、発達障害とは関係がない。
ただ、生活習慣が身についていない、というだけで、障害があろうがなかろうが関係ないと私は思う。
生活習慣ぐらいはきちんと教えてもらおう。嫁に教えられることではない。
でも、今更そんなことを高齢者の夫に言ってどうすればいいのか。
夫の母ももう90である。
そんな母親に、「もう一度生活習慣を教えてあげてくれ」とは言えないし、結局私が言うべきことなんだろうが、高齢者になると頑固者になるので、言っても逆ギレされるのが関の山なので、「言わない」選択に。
今、夫は「放置」されているのと同じ状況で、これを可哀そうというべきなのか自業自得というべきなのか・・・?
そんな夫は、「何も生み出すことができない」人という認識でこのまま死を迎えるだけであるなら、それは生きている意味がないのと同じではないかと思うのだ。
一体、彼に生きる意味はあるのだろうか?
私の自問自答はそこでストップする。
夫に生きる意味はあるのだろうか?
何もできない、何も評価されない、誰も夫に気を留めない、友達もなく、趣味もなく、毎日数時間の散歩と、パソコンをいじって、古い本を読んで終わる毎日。
会話をすれば、マイナスのことばかりを言い、世間は悪い人間ばかりだと言う。
自分以外は頭が悪く、悪い人間ばかりだと思っているので、
何も生み出せず、何も作り出せず、何かを始めることもできない。
こうしたらどう?ああしたらどう?という私の意見は彼の頭を素通りし、「そんなこと自分はしない」と馬鹿にしている。
こういう夫を、可哀そうだと思うのは自然のことだ。
これが発達障害のなせる業であるなら、発達障害というのはないほうがいい。
どうしたら、彼に発達障害があることを認識させることができるのだろうか?
人と違うんだということがわかるにはどうしたらいいんだろうか?
ある程度はわかってはいるが、「ちょっと他と違うだけ」と言われたこともあるので、どうしようもない。
療育も、矯正も彼には無用である。
なぜなら、自分以外は全て悪と思っているから。
発達障害をそのままにし、失敗を数限りなくしていくと人間はこうなる、といういい見本のようなものである。
つくづく、夫は可哀そうである。
救いようのない可哀そうさである。
誰も救えない。
かわいそうな人間である。
それでも夫は「自分は全然可哀そうではない。むしろ周りが可哀そう」と思っている。
またそれが哀れでならない。
発達障がいはかわいそうではない・・・・という意見もあると思うが、あくまでもウチの夫のことなので、可哀そうではないという意見は通用しない。
私は心底夫を可哀そうと思っている。
哀れだと思っている。
でも夫は自分を決して可哀そうなどとは微塵も思ってはいないのだ。
決して、自分を卑下などしてないのだ。
彼の口から謙虚な言葉を聞いたことは一度としてない。
多分、思えないのだと思う。
それが彼の思考なのか、それとも脳の機能障害によるものなのかはわからない。
だから、哀れだ、と私は思う。
夫は哀れな人だと私は心底思う。
はじめまして
KO2です。
コニと読みます。
思ったことが書ける場所がない上に、仕事とプライベートの境界がつきにくい環境なので、このブログではホントにプライベートなことを書いていこうと思っています。
覚書のような感じ?でしょうか。
よろしくお願いします。