本と絵画とリベラルアーツ

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【本の紹介】竹内薫『自分はバカかもしれないと思ったときに読む本』

オススメ度:★★★★☆

フィードバックがないと人はバカになる(p.96)

 

竹内薫『自分はバカかもしれないと思ったときに読む本』

 

 

 本書のエッセンス
・バカだと思われているとバカに育つ
・フィードバックを受けないとバカになっていく

 

感想

仕事量と責任の負荷に負け、初めて鬱っぽい気持ちを味わった。

寝ても寝ても疲れがとれず、常に頭が徹夜明けのようにぼーっとしている。簡単なことでも集中力が続かず、凡ミスが繰り返される。活字が頭に入らなくなり、説明を聞いていてもすぐに文脈を捉えられなくなる。

いつ治るかわからない不調に、身体の芯が冷えるような恐怖を感じた。

 

…という背景がありこの本を手に取った。

上記の理由から「バカ病」にかかったときの特効薬のようなものを期待して読み始めたが、趣旨としてはすこし期待したものからずれていた。

どちらかといえば慢性的なバカに向けた漢方のような本だった。

 

本書ではまず「バカ」が思い込みからつくられることを指摘し、勘違いを解きほぐしていく。

自分のことを「バカ」だと持っている人は生まれながらにしてバカだと勘違いしているが、実際にはそうではない。成長過程で親や教師など周囲から「バカな子」として扱われた結果バカだと思い込んだ人が出来上がるという、レッテル効果のような要因から生じる。

 

ではこの勘違いを看破したうえで、社会の中でバカどのように形成されてしまうか。

竹内氏はその要因を「フィードバックの有無」に見出す。

つきつめると、この社会のなかでバカかそうでないかを分けるのは、どれだけフィードバックを受けられるかってことなんですよね。フィードバックを受けることによって自己修正がどれだけできるか、行動をどれだけ変えられるかということで、たぶんバカかそうでないかが決まるんですよ。(p.98)

他人からフィードバックが得られるということは、PDCAサイクルでいえばCheckの精度が上がることである。このCheckがうまく機能しなくなっていけば、必然的にActionが頓珍漢な方向へ行き、成果のクオリティ低下につながる。

しかし他者からのフィードバックが入らない限り、クオリティの低下にさえ気が付けない。この状態は言うまでもなく愚かであり、バカだと言える。

 

新人のうちはフィードバックの機会に恵まれているが、年次や役職が上がれば指摘してもらえる機会が減る。

このような状況になったとき、積極的にフィードバックをもらいに行き、謙虚な姿勢で受け止められるかどうかがその人の伸びしろになるのだと理解した。

 

 

 

【本の紹介】一條次郎『ざんねんなスパイ』

オススメ度:★★★★☆

 

一條次郎『ざんねんなスパイ』

 

 

 本書のエッセンス
・ドタバタ劇系
・73歳の実務未経験のスパイが市長暗殺を命じられる

 

感想

73歳でこれまで一度もミッションに呼ばれたことないスパイ・ルーキーが、二ホーン国のある市長の暗殺を命じられるが、親友になってしまう。

突拍子のない設定から始まるこの物語は、喋る巨大なリス、キリストの訪問、空き巣を働く隣人と、次々出てくるさらなる突拍子のない設定によりカオスに突入していく。

 

クライマックスに入ると、病気の時に見る夢を見ているような感覚に陥る。

 

読み始めて、正直言ってあまり好きなタイプな小説だなと思った。どちらかといえば心情の機微を感じられる小説が好きで、設定で読ませるタイプの小説は得意ではない。

読み始めて序盤は、ハズレだったかなあと思うこともあった。

 

しかし読み進めていくうちに、読む手が止まらなくなっていることに気がついた。

この小説は設定で読ませるタイプであるにもかかわらず、最後まで読ませるパワーがあったのだ

もう少し正確にいえば、カオスを読まされている時にもう少し読めばカオスを抜けてスッキリするのではないかという期待感を常に持たされていた。

 

好みの分かれる小説ではあるが、森見登美彦や万城目学のような小説が好きな人にはハマる気がした。

 

 

【本の紹介】太宰治『津軽』

オススメ度:★★★☆☆

いつ死ぬかわからんし、などと相手に興覚めさせるような事は言えなかった。(p.172)

 

太宰治『津軽』

 

 

 本書のエッセンス
・太宰の死の4年前に書かれた
・故郷津軽をめぐる
・真の目的は母代わりの"たけ"と人生の最後に会うこと

 

たった一つの旅の目的

没する数年前の太宰が、小山書店の依頼を受けて書いた旅行記的なエッセイ。

生まれ故郷を訪れ、旧友や知人と共に津軽のあちらこちらを周るが、正直最後の目的地を訪れるまで面白いと感じられなかった

読み途中ではこの本が太宰治の作品の中で評価されているのかと、いささか疑心を抱いた。

 

新たな地を訪れるたびに事典から引用したような(なかには実際に引用している箇所もあるが)文章が続き、正直青森にそこまで関心のない自分としては読み飛ばそうかと思うほどだった。

しかし一番最後の目的地での出来事を読み、「なんだ、そういうことだったのか」とすべて納得がいった

 

***

 

この旅のおわりに、太宰は自分の子守りを担当してくれていた「たけ」の元を訪れる。

訪れるといっても住んでいる村がわかっているだけで、詳しい住所や最近の動向もわかっていない。

 

朝早く起こしてもらい、太宰は1日に1本しかないバスに乗り小泊村に向かった。

村へ着くと太宰は見境なく村民に声をかけ、たけの住む家を探す。

 

そうしてやっとのことで家を突き止めるが、戸には鍵がかかっており、どうやら留守のようである。

 

半ば諦めかけるが、わずかな望みにかけて捜索を続けていると、その日は村の学校の運動会へ出ていることがわかる。

太宰は学校を訪れ、たけと数十年ぶりに再会する。

 

旧家の生まれの太宰にとって、家族とは厳かな存在であり、甘えられる対象ではなかった。そんな太宰にとって肩の荷を下ろして話せる間が女中や使用人であり、そのなかでも子守がかりのたけには母にちかい特別な感情を抱いていた。

 

『津軽』の冒頭で太宰はこのようなことを言っている。

「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、長塚節三十七、芥川龍之介三十六、嘉村磯多三十七」

「それは、何の事なの?」

「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでいる。おれもそろそろ、そのとしだ。作家にとって、これくらいの年齢の時が、一ばん大事で」(p.32)

実際に太宰が自死したのはこの旅から4年後のことだが、この時点で太宰の頭の中では人生の最後がよぎっていたことは間違いない。

そして人生が終わる想像をしたとき、太宰の頭をかすめたのが母代わりであった、たけのことであった。

 

つまりこの小説もこの旅も、目的はただ一つ。母としてのたけにもう一度会うことだけであった。太宰はただたけに会う口実をつくるためだけに津軽を一周し、小説を一冊書き上げたのだ。

そう気が付いたとき、会えてよかったなと心から思った。そして会った以上、太宰が死ぬのも時間の問題だったのだろう。

 

 

 

【本の紹介】山口周『外資系コンサルのスライド作成術』

オススメ度:★★★★☆

 

山口周『外資系コンサルのスライド作成術』

 

 本書のエッセンス
・紙が先、パワーポイントが後
・インクの量=情報量であり、情報量の増加は必ずしもわかりやすさではない
・色は3色まで、基本はモノクロで100%の完成度までもっていける

 

まとめ

外資系コンサルの一線で活躍している山口周氏による、パワーポイントのスライド作成の技術をまとめた本。

小手先のテクニックで複雑な図をつくるのではなく、基礎の基礎をおさえていくことで汎用性の高いスキルを身に着けることを目的にしている。

 

本ブログでは本書で解説されているポイントのうち、個人的に重要だなというものに絞って記載している。詳細な点やここで掲載していないものについては実際に本を購入し確かめていただきたい。

 

スライド作成の順番
①ページ番号をつける
②メッセージを書く
③出所を書く
④グラフ/チャートのタイトルを書く
⑤グラフ/チャートを書く
⑥脚注をつける

 

チャートの作り方
・非冗長性:スライドに同じ言葉を何度も登場させず、因数分解の思想でまとめる
 ・矢印は起点と終点を明確にする
 ・矢印は延長線上にあるものすべてに影響を及ぼす
・2次元以内に表現を留める。帰る場合は2次元×nの形で表現する(横並びではなく、菱形にして多重にする)

 

プレグナンツの法則
・近接の要因:近くにあるものをグループとして認識する
・閉合の要因:閉じあっているものをグループとして認識する
・グーテンベルクダイアグラム:スライドの視点が左上から右下に流れ、特に右上には意識が行きにくい

 

細かいポイント
・文字の大きさは12pt以上
・メッセージは2行以内
・メッセージ→ストーリー→スライド作成の順番で行う
紙が先、パワーポイントが後
色は3色まで
・よりシンプルに
・スライドのSN比を高める=信号に対するノイズを減らす
・インク量=情報量

 

【ゴールドマン・サックス】清水大吾『資本主義の中心で、資本主義を変える』

オススメ度:★★☆☆☆

 

清水大吾『資本主義の中心で、資本主義を変える』

 本書のエッセンス
・GSの中で持続可能な社会を目指して闘った男の話
・具体的には政策保有株式解消を目指していた
・「資本主義」の分析が不十分に感じられた

 

感想

世界最強の投資銀行とも呼ばれるゴールドマン・サックス出身の筆者が、資本主義に疑問を感じ、変革のため獅子奮迅のごとく闘い続けた話。

 

筆者の現在の資本主義に対する課題感とそれを変えたいという熱量は感じられたが、資本主義の解説の部分に弱さを感じた。

もちろん本書の目的が資本主義の解説ではなく、同じく課題感をもっている人たちに火をつける点に重きを置かれていることは理解できるが、それを踏まえた上でも資本主義の解説が空疎で、その部分の納得感がないがためにメインの主張もあまり刺さらなかった。

 

本書における資本主義の解説の薄さは大きく2点あると思う。

一つはシンプルな資本主義への解像度の低さである。

筆者は資本主義の本質を「所有の自由×自由経済」だとし、後発的な、歴史的にトッピングされた要素として①成長の目的化②会社の神聖化③時間軸の短期化を挙げている。

例えばこのうち①成長の目的化について、所有の自由と自由経済のもとで生じた今日競争の副産物として成長が、次第に手段から目的に転化したとし、以下のように述べている。

資本主義そのものではなく、「成長の目的化」が問題なのだ。(p.50)

 

しかし実際には所有の自由と自由経済のもとでは遅かれ早かれ金融が生まれ、金融は利息を生み、利息は企業に成長を強いることになる。すなわち、資本主義において「成長の目的化」は必然的に起きるものであるのだから、資本主義から「成長の目的化」だけを抜き出し捨象することはできないはずだ。

 

二つ目は筆者の思い描く理想的な社会に矛盾があることだ。筆者は現在の資本主義と中途半端になっている日本経済についてどちらも批判したうえで、一方それぞれにも良い点があることに言及している。そしてそれらのいいとこどりした社会が理想だと述べている。

欧米的な価値観をそのまま受け入れるのではなく、日本的な良さを残しながら有用な部分だけを取り入れるというしたたかさが必要だ。(p.146)

 

しかし社会の良さと悪さは、往々にして同じ構造から生まれているものである。

欧米人の説明責任と裁判で勝てば正しいという思想は同じ先鋭化した資本主義から来ているものであるし、日本のおおらかさとなれ合いは同じ中途半端な資本主義からきている。

それならば異なる構造から生まれる良し悪しの良いところ取りをすることはできないのではないだろうか。

 

筆者の名誉のために書き添えておくと、おそらく筆者はすこぶる頭がよく実際には資本主義についてより厳密な洞察を持っている。それを大衆向けの本として内容をデフォルメした結果がこれなのだと推察される。したがって本ブログで主張している資本主義への解像度の低さとは、筆者本人の理解度の問題ではなく、あくまで紙面上の話である点をご留意いただきたい。

 

***

 

本書の本題からは少しずれるが、筆者の文章を読んで内部監査部門に興味をもったので該当箇所を備忘として記載しておく。

優れた企業文化の醸成の文脈で、筆者が内部監査部門をもっと評価すべきだという話がでてくる。

内部監査というのは、企業の不正防止や業務効率化のサポートを目的とした部門だ。裏方中の裏方と思われている節もあるが、ビジネスを誰よりも理解したうえで、営業部門が気づいていない落とし穴を事前に見つけて対策を講じてくれる。(p.177)

これまで関心なかったが、業務コンサルに近く面白い業務なのではないかと感じた。

 

資本主義分析という面では物足りなさを感じたが、全体を通してやはり一流企業の第一線で活躍する人間の熱量の高さとバイタリティを感じさせられた。思想はどうあれ、こういった熱の感じられる人間が私は好きなんだなと改めて思った。

 

 

 

【諦めかけたあなたへ】太宰治『走れメロス』【感想】

オススメ度:★★★★★

私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ!メロス。(p.177)

 

太宰治『走れメロス』

著者:太宰治(1909〜1948)

東京帝国大学仏文科中退。本名は津島修司。自殺未遂、麻薬中毒と破滅的な生活を送りながら作品を次々に執筆。1948年未完の『グッド・バイ』を残し愛人と玉川上水にて入水自殺した

 本書のエッセンス
・この一冊で太宰が天才だとわかった
・短編集全体で太宰の随筆と作品が入れ子の関係として楽しめる
・『走れメロス』は仕事で挫けそうになった時にオススメ

 

感想

この一冊を読んで、太宰はほんとうに天才なんだとわかった

 

『人間失格』『斜陽』『ヴィヨンの妻』に続く太宰治4冊目として『走れメロス』を読んだ。

『走れメロス』(新潮文庫)は表題作『走れメロス』を含む9編から成る短編集で、主に中期太宰の作品を中心に構成されている。

 

この短編集の完成度を確固たるものにしているのが、全体の構成である。

もちろん、収録作品それぞれのクオリティが高いのももちろんだが、それ以上に頭から読み進める中でどんどんと太宰を理解し、引き込まれ、ファンにさせられてゆく。

 

巻頭作品は『ダス・ゲマイネ』という、25歳の大学生の初恋や仲間たちとの悩みや葛藤を描いた作品。

イメージとしては森見登美彦に近い読み味がある。自意識に苛まれた青春を軽快に描いた作品で、当時の言葉遣い、例えばテエブルやニュウスといったものに無理なく慣れることができる。

ちなみにこの作品には太宰治という名前の新人作家も登場する。

 

続いて『満願』という3ページの超短編でひといきついたあと、『富嶽百景』という随筆にはいる。『富嶽百景』は作家の井伏鱒二がこもって仕事をしていた甲府の茶屋に太宰も泊まり込み、しばしの間の執筆活動や来客とのやりとり、結婚の様子を記した作品である。

この随筆で読者は太宰という人間のプライベートな一面に触れ、より身近に感じられるようになる。

 

さあここまでで読者は太宰作品を味わう"下地"ができた状態になる。そうしてここから傑作『女生徒』『駆込み訴え』『走れメロス』という怒涛の作品に一気に引き込まれてゆく。

 

『女生徒』はある女生徒目線で全編書かれた短編作品で、太宰の少女の感情への解像度の高さに度肝を抜かれる。

 

主人公の少女が鏡で自分の目を見ながら物思いにふけるシーンで、

青い湖のような目、青い草原に寝て青空を見ているような目、どきどき雲が流れて写る。鳥の影まで、はっきり写る。美しい目のにとと沢山逢ってみたい。(p.87)

と可憐で少女らしい一面を見せたかと思えば、次のページでは

おまえは誰にも可愛がられないのだから、早く死ねばいい。(p.88)

と語り(おまえ=ペットの犬のカア)、

私は、カアだけではなく、人にもいけないことをする子なんだ。人を困らせて、刺戟する、ほんとうに厭な子なんだ。縁側に腰かけて、ジャピイの頭を撫でてやりながら、目に浸みる青葉を見ていると、情けなくなって、土の上に坐りたいような気持ちになった。(p.88)

自分の個性みたいなものを、本当は、こっそり愛しているのだけれども、愛していきたいとは思うのだけど、それをはっきり自分のものとして体現するのは、おっかないのだ。(p.99)

 

とその直後には一転自己嫌悪に陥る。このロマンチックさと残酷さ、そして自己愛と自己不振という不安定さはすべてが三位一体のように少女に備わっている性質であり、それらを見事すぎるまでに描いている。

 

電車の中でお気にいりの風呂敷を膝の上に出したシーンでは

電車の中の人にも見てもらいたいけれど、誰も見ない。この可愛い風呂敷を、ただ、ちょっと見つめてさえ下さったら、私は、その人のところにお嫁に行くことをきめてもいい。(p.102)

と表現し、風呂敷一枚からこんな文書が書けるのかと衝撃を受けた

これが天才の文章なのかと確信し、畏怖するほどすばらしい作品だった。

 

次は『駆込み訴え』という、男が激しく興奮した様子である男を殺してほしいと打ち明けるシーンからはじまる作品である。読み始めはなんの話をしているのかわからない状況からはじまり、次第にパズルのピースが埋まるように全体像が浮かび上がってくるのが面白くてたまらない。

ミステリーにも近いこの作品の詳細はぜひ実際に読んで確かめてもらいたい。

 

そして次が誰しもが知る『走れメロス』である。

メロスと親友セリヌンティウスの友情にフォーカスされがちな作品だが、私が強く惹かれたのはメロスが王のもとに向かう途中、あまりの辛さに諦めかけたシーンである。

 

濁流を超え、山賊を退け走り続けたメロスであったが、あまりの披露に心が折れかける。

身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不釣り会いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣食った。私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。

 

もう自分は十分頑張った、頑張ってダメだったのだから非難されるいわれはないと自分を正当化し、足を止めてしまう。決心が揺らいだわけではない、ただもう無理なのだと諦めようとする。

しかしそのとき、水の流れる音を耳にする。メロスは静かに近づき、その水をひと掬い飲みほす。するとメロスのなかに一筋の光がさし、希望が戻る。

日没までは、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいいことは言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ!メロス。(p.177)

 

そしてメロスはさっきまでのネガティブは"悪い夢"だと切り捨て、友の元へ一目散に向かう。

 

疲労困憊のなかで、始めの決意自体は変わっていないものの達成に対する執念がゆらぎ、静かに自分を正当化する様、そしてそこからハッと目覚めて執念の炎を再び燃やすまでの心理状況の変化に心から共感できた。

仕事がつらくいつまでも終わらないとき、もういいかと思うときがある。これだけ頑張った、頑張ったうえでダメならみんな認めてくれるだろうと弱気になる。

しかしそんなとき、ふとしたきっかけでもう一度頑張れると気がある。たとえばオフィスの窓から夜遅くまで頑張っている他の会社の窓からもれた光が見えたり、過去のお客さんの言葉を思い出したりと、意図しない瞬間が、"悪い夢"から目を覚まさせ、もう一度頑張る勇気をくれる。

 

学生時代読んだときには味わえなかった、逆境をがんばる今だからこそ感じられた文章に心打たれた。

 

ここからの3作品は再び太宰の随筆である。

『東京八景』は青森から東京へ出てきて、人生がどうしようもなくうまくいかず、周りに生かされているなかでもクズを治せない太宰の辛い日々とそこから立ち直るまでを描写した随筆である。

大学も留年を繰り返し、長兄にうそをつきながら仕送りを請うなかでこれまでのことを全て遺書に残そうと『晩年』に取り掛かる。

警察の世話になり、住みかを転々とし、薬に手をだしどうしようもなかった太宰が立ち直っていく。

 

そして『帰去来』『故郷』は恩人に手引かれて勘当されていた故郷の青森に帰ったときの様子が描かれており、太宰と実家との関係性がよくわかる作品になっている。

 

***

 

この一冊で、東京に出てから堕落し、苦悩しながらも作品を発表し、『女生徒』『駆込み訴え』『走れメロス』という傑作を書き上げ、故郷に再び戻るという太宰の半生と才能をどちらも味わうことができる。

『人間失格』や『斜陽』から太宰に入った人は後期太宰の暗い側面のイメージが強いかもしれないが、この『走れメロス』を読むことで、それ以外の太宰の一面に触れることができると思う。

 

きっと今後もなんども読み返すと確信した一冊になった。

 

 

【本の紹介】太宰治『ヴィヨンの妻』

オススメ度:★★★★☆

「僕はね、キザのようですけど、死にたくて、仕様が無いんです。生れた時から、死ぬことばかり考えたいたんだ。皆んなのためにも、死んだ方がいいんです。それはもう、たしかなんだ。それでいて、なかなか死なない。へんな、こわい神様みたいなものが、僕の死ぬのを引きとめるのです」(p.138)

 

太宰治『ヴィヨンの妻』

著者:太宰治(1909〜1948)

東京帝国大学仏文科中退。本名は津島修司。自殺未遂、麻薬中毒と破滅的な生活を送りながら作品を次々に執筆。1948年未完の『グッド・バイ』を残し愛人と玉川上水にて入水自殺した。

 

 本書のエッセンス
・人間の弱さと矛盾とその肯定

 

あらすじ

クリスマスイブの夜中、妻と4歳の子供の待つ家に夫が息を荒らしながら帰ってきた。泥酔し深夜に帰ることはままあるが、その日はいやに優しく様子が違った。

しばらくして玄関口に4,50歳の夫婦が怒り心頭でやってきた。咄嗟に逃げだそうとする夫を男が止めると、夫はジャックナイフをちらつかせ逃亡した。

妻は夫婦を家に上げ、話を聞くことにした。

夫婦によると2人は中野で小料理屋を経営しており、その店で夫が現金の盗みを働いたらしい。夫は元々バーの年増女に連れられ訪れ、それ以降そこの常連となっていたが、"つけ"も散々溜まり夫婦は困っていた。

妻は明日中にお金を工面して返すから警察沙汰は待って欲しいと頼み、夫婦に引き上げてもらった。

次の日妻はとりたてて策もなかったが子供を連れ小料理屋に行き、今日中に必ず払えるアテがついた、今日は自分が人質となってお店を手伝わせて欲しいと伝えてそのようになった。

夜九時をすこしすぎたころ、綺麗な女性をつれた仮面の男がやってきた。夫であった。

夫も妻に気がついた様子だったがスルーしていると、つれの女性から店のご主人を呼んで欲しいと告げられた。

三十分足らず会話したのち、その女性の立替でどろぼうしたお金はすっかり返済された。つけの料金は妻がこのお店で働き返すことになった。

 

感想

太宰の(特に後期の)作品からは、人の弱さと矛盾とその肯定が多くテーマになっていると感じられる。

 

表題作である『ヴィヨンの妻』の主人公の夫は、弱く矛盾をかかえた人間である。

 

年末に小料理屋からお金を奪い、その金で京橋のバーでクリスマス・プレゼントだと言って散財する。

結局盗んだお金はバーのマダムに建て替えてもらうのだが、そんな挙句妻に金を盗んだのは、妻子にいいお正月をさせたかったからで人非人ではないと話す。

 

ほんとうに妻子のことを思うならば、バーで散財など到底できないのではないかと思われてしまうが、ここに人間の矛盾がある。

夫はきっと、ほんとうに妻子のことを心の奥底で大切にしているが、それを行動に起こし続けるだけの勇気がないのだ。そしてこの理解されない矛盾に良心の呵責を感じている。

弱さと矛盾はこのときだけの話ではなく、おそらく彼の人生の間ずっとついて周り、これからも繰り返される。

「僕はね、キザのようですけど、死にたくて、仕様が無いんです。生れた時から、死ぬことばかり考えたいたんだ。皆んなのためにも、死んだ方がいいんです。それはもう、たしかなんだ。それでいて、なかなか死なない。へんな、こわい神様みたいなものが、僕の死ぬのを引きとめるのです」(p.138)

 

読み手は夫の矛盾を不快に思ういっぽうで、自分の中にも同じような矛盾があることに気が付かされる。

弱さと矛盾を自分の中に認めながらも、作中の夫婦のように生きてゆけることが分かってくる。

 

人間は弱い。ときに目の前の現実から逃げたり、目を背けたり、ごまかしたりする。

その度に自分の中に生まれる矛盾と折り合いをつけ、自分のイヤな部分を知りながらも生きていく。

 

このことに気がつき、他人を赦し自分を赦すことで生きやすさを獲得できるのではないだろうか。