【一首評】寄せ返す波のしぐさの優しさにいつ言われてもいいさようなら

寄せ返す波のしぐさの優しさにいつ言われてもいいさようなら

俵万智『サラダ記念日』

 

 ぐっとくる秀歌だと思う。定型から外れることのない言葉が、助詞と句跨りによって波のように響く。〈しぐさ〉で波の擬人化が促されているが、「波」をふらっと来ては帰ってゆく恋人の喩えとして読むというのは読みすぎな気もする。ここは、ただ海辺で佇んでいるとしておくのがよく、あくまで波の〈しぐさ〉をふたりが眺めている。〈寄せ返す波のしぐさの優しさ〉という穏やかな上句から期待する展開とは裏腹に、〈いつ言われてもいいさようなら〉という別れの予感が訪れる。

 

 言葉を使うということ、特に言葉で何かを伝えるということ。「さようなら」は単にその5音を伝達する以上の意味を持ち、私たちはそういう営みを大事にする。そうは言っても、「さようなら」とだけ言ってふたりはそれきり、というわけにもいかず、私たちは別れに戸惑い、言い争い、ぐだぐだしたり、後腐れしたり。「いつ言われてもいい」と思う瞬間に、その言葉が言われることはない。

 

 波の優しさを前にして、「私」は別れを思う。別れをこちらから切り出すことはない。覚悟でもないし、諦めでもない。その間にある無限のスペクトルのなかに、「私」と「君」がいる。こういう切なさに対して、私たちは何ができるだろう。