#香椎台 木もれ日日記

香椎宮の森の木陰で、広い空をながめながら日々の思いを綴ります

ある物語り

もし私が死ななければならないのなら

あなたは生きなければならない

私の物語を話すために

私の持ち物を売り

ひと切れの布を買い

少しの糸を買うために

(白く長い尾をもったそれを作って)

 

ガザのどこかにいる一人の子どものために

天空をじっと見つめながら

炎の中に去った父を待ち続けている

 彼の肉体にさえ、彼自身にさえ

 誰にも別れを告げず、去った…

 

空高く舞い上がる

あなたの作った凧を見上げ

愛を呼び戻す天使がそこにあることを

束の間に思いを馳せて

 

もし私が死ななければならないのなら

それが希望をもたらすように

それが語り継がれるものであるように

 

 2023年12月6日、この詩をあらわしたガザの詩人、リファト・アルアライールイスラエル軍によって殺害された。思潮社現代詩手帖』に訳詩が掲載されている。少々、違和感をもったので、英語詩をあらためて訳してみた。冗長な物語ではなく、詩の形でより痛切な思いが伝わる。その情景や状況、思いにふれるように。

法で愛情を裁けるだろうか その2

 


 毎日、どこかで何かしら事件が起き、報道される。テレビの事件ものドラマでもいいけれど、犯人をめぐって捜査、あるいは推理のあげくもっとも利益を得るものが怪しいとなる。(異常心理や怨恨、強盗などをのぞいて)

 それに倣って、このほど国会で通った「離婚後『共同親権』」法を考えてみる。いったい誰が利益を得るのだろうか。たしかお題目は「子の利益のため」とはいっていたものの、はたしてそうなのか。もとより法案提出するだけの現実の必要性(立法事実)は乏しいと指摘されてきただけに、慎重に考える必要がある。

 テレビや新聞、ネットではこれまでメリット、デメリットとして並べられていた。

 でもここで頭をすっきりさせて考えてみる。結婚して子どもができて、それぞれが親になるとする。実際の養育割合は各家庭でさまざまで、軽重はあるものの父母それぞれ子に対する責任は一生変わりない。離婚して親権があってもなくても。

 離婚したとしても養育にあたるのは、母親がほとんどという現実。子にとっての母性の大切さは言うまでもない。働いたとしても経済格差による困窮というのも多くの現実だ。そして別居親(多くは父親)からの養育費は子の成長にとって欠かせないし、責任の一端である。しかし未払い、小額といった問題も少なくない。

 法案が通って別居親から、これで面会が思うようにやれる(ひどいのは「連れ去りの黒歴史がこれで終わる」というのもあった)などの声が多い。実際、子の進学、医療など様々な局面でのくちばしが入り、そして同意が得られず裁判が頻発することが憂慮される。そこには養育親、医療、家裁などの負担は微塵も考えられない! 子育ての苦労は省みられない。当然、子の心の平穏はおびやかされる。

 この問題は離婚家庭だけでなく、これから結婚を目の前にしている人々にも、大きく家庭のあり方に影響していくことになりはしないか。参議院付帯決議でも指摘されているところだ。推進勢力をよくみるなら、朝ドラの「虎に翼」に描かれた、とてつもない家父長制であった旧民法の世界に逆戻りしかねない。共同して親の責任を果たすのは当然のことだけど、共同が困難なのも現実。男女の現実をみるなら、すぐれてジェンダーの問題でもある。

 裁判所によって合意なき共同親権を強制されるなら、まさに法が愛情を裁くことになりかねない。

 

戦争を知らない子どもたち、ではない…

 わたしは子どもの頃、ラジオから流れる軍歌の勇ましいメロデイが気に入り、よく歌っては母から強く叱られていた。父親は戦後、太平洋上のサイパン島から引き揚げ、山奥の開拓農民となっていた。農家の次男坊にとって耕地はない。ちなみにすぐそばのテニアン島は、占領した米軍のB52機が原爆を乗せ飛び立ったところだ。アメリカは原爆を日本に投下し往復できる航続可能距離の拠点を確保していた。

 ベトナム戦争たけなわの頃、高校の文化祭で戦争に関するプランを立ち上げた。「戦争」って何だろう、と問わずにはいられなかった。新聞や学校、町の図書館、町でたった一つの本屋と資料を漁ったが、もとより基礎的な教養はとぼしく、得られる情報は少なく、あえなくとん挫した。町立図書館の司書の方は、調査の趣旨を汲んでいただき、欲しい書籍をなんでも購入してよいと、本屋に連絡までしていただいたのに…。

 それから3年後の1975年、新聞紙上でベトナムアメリカに勝利したとの報に接した。私の気分はたまらなく高揚した。おそらくそのとき、多くの国民が感じた気持ちだったと思う。

 そして1979年、赤旗の高野功記者が中越国境で中国軍に狙撃されたとのニュースを見た。その時、なぜか私の眼からとめどなく涙が流れだし、紙面を濡らした。よし、あとに続く国際ジャーナリストになろう、との決意が生まれた瞬間だった。どうして戦争が終わったはずの地で、銃撃を受けなければならなかったのか、記者は何を明らかにしようと赴いたのか、など何もわからないまま、いやそれだからこそ自分ながらに真実を明らかに追及するジャーナリストを目指そうとしたのだった。

 その後、残念ながらその志とは別の道に進まざるを得なかったが、ようやく最近、ある一書を読む機会に恵まれた。中村梧郎著「記者狙撃ーベトナム戦争ウクライナー」だ。当時の国際的な背景がよくわかる。氏は「母は枯葉剤を浴びた」などの著作で知られる著名なフォトジャーナリスト。高野記者とは運命のいたずらというべきか、前後して緊張漂う国境を取材すべく現地に赴いたものの、先行していた氏の車が事故にあい、後続の高野記者の車が先頭にたったと思うまもなく、潜んでいた中国軍の小銃と機関銃の銃撃にあい、高野記者は即時に頭を狙撃されたのだった。

 著書には、中村氏のその後の生き延びられた経過や、長らくの自責の念、PTSDなどに襲われてきたことなどが綴られている。そして、今を生きるものとして、ウクライナ、ガザの戦争、惨状についてふれ、戦争と平和への原則的な理解、私たちのとるべき道を指し示してくれる。今に至るも、この瞬間も地球上の様々な戦地で、なぜジャーナリストが殺され続けるのか、そして今日、たてつづけに制定された戦争立法についても、その意味を考えさせてくれる好著だ。

氏は40年を経てようやくペンをとることができたー。

 

法で愛情を裁けるのだろうか

 なぜか、テレビでも新聞でもネットでも静かだ。イクメンやコマーシャルで流される幸せそうな家庭像は、どれだけの一般的なものなんだろう。いや、そうした映像とはかけ離れてしまった家庭は、数的にも比率としてもまだ少ないのかも知れない。にしても、そうした人々は決しておろそかにはできない、と思う。いわゆる「共同親権」のこと。

 まずは教科書がやられ、学校現場の荒廃がいわれ、近年、さらには教員を育てる大学までねらわれて改悪されつつある。そしてこのたびは家庭のあり方までかきまわされようとしているのに。一番の被害者は未来ある子どもたちだ。

 本年4月16日、自・公・立・維の修正による離婚後「共同親権」を導入する民法改定案が4党などの賛成で衆院本会議で可決された。条文案が示されたのは、わずか1ヵ月前。先立つ法務委員会は6日間(21時間)のみ。

 立民が提示した修正案「父母の合意がない場合には共同親権を認めない」等はなく、親権の用語問題、子どもの意見表明権などは顧みられなかった。離婚後でも家裁の判断で父母の同意がないまま「共同親権」が決定されかねない。なぜならDV等の実態を立証することは困難であり、ただでさえ人的・体制的にも大変な家裁の負担は増すばかりで、それどころか訴えの激増は避けられないと予想されている。

 片方の親の同意がないままの、子どもの就学、医療など「急迫」時に迫られる意思決定についての検討は不十分で、医療現場に多大な負担をかけるばかりか、子どもの志望や「命」すら危険に導きかねない内容は、どれだけ国民に広く知らされているだろうか。

 欧米の国では常識だ、等々。法制度や実態が知らされないまま機械的にあてはめようとする。ジェンダーとはほど遠く、古い男性優位の意識がみえかくれしているように思えて仕方がない。

 自民党野田聖子少子化担当相ですら、「党全体としての議論はほとんどやっていない状態だ。中身が周知されていない」として採決時には起立しなかった。

 日本共産党、れいわは反対の論陣を張った。共産党の仁比参院議員は「愛情の強制はできない。こどもの意思に反する強制はこどもを傷つけることになる」と主張した。家庭のあり方が激変しかねない、「共同親権」の意味を十分に国民の議論にゆだねるべきであり、拙速な決定には異議あることを示していく必要があると思われる。

 

京都を旅して、いま

 先年、初夏の京都へ旅し、歩きまわったことがある。嵐山の緑濃い竹林の道を抜けてたどり着いたところが、化野(あだしの)念仏寺だった。小雨ふるなか、境内に白い墓石が数限りなく点在している一角に、件の六地蔵がひっそりと建っていた。正確には「六面六体地蔵」といい、仏教でいう、すべての衆生が生前の業の報いによっておもむ く六種の輪廻の世界を表しているという。

 すなわち地獄、畜生、修羅、天道、人間、餓鬼の六道。ぐるっと回ってなにげなく見ていると、そのうちの餓鬼の像がなんともいえない表情でしばらく見入ってしまった。ほかはいろんな仕種であったり、表情にも違いがあるけれど、餓鬼は両手を合わせ、なにごとかひたすらに祈っているようで、安らかな顔にも見える。阿修羅の像とは違うけれど、通じるように感じられた。

 人間の基本的な欲には、食欲、睡眠、呼吸、性欲、排泄などがあるが、およそ最も基本的なものは「食欲」ではないかなと思う。それは人間に限らず、動物にも植物にもいえて、エネルギーとなるものを取り込むことなしには生存できず、ミクロの世界でいえば細胞の次元でもいえる。そして種の生存のためには生殖(性欲)。

 「普通に食べられればだいじょうぶですよ」なんて、小児科の先生もいわれる。その点、うちのチビちゃんは例え熱があろうと、食欲が衰えることはまずなく、あっても数本の指で数えられるくらい。周囲もそうした姿をみて、とりあえずホッとする次第…。

 ひるがえって、特に今のガザでの惨状は目をおおうばかり。人口構成でも男性成人は比較的すくなく(殺されたり、投獄されたり…)、半分以上は成人に満たない層といわれる。しわ寄せは弱者にいき、住居どころか病院も破壊され、食糧も乏しい。乳幼児に大人の少ない食物をまわそうにも無く、次々に死んでるという。国連援助のトラックに食物を求めて次々と群がる。それをイスラエルは銃撃の対象にして殺害している。

 遠い日本では、今国会にとうとう農基法(食料・農業・農村基本法ほか関連法案)改悪案が閣議決定され、国会に提出されている(2024.2.27)。とりわけ「食料供給困難事態対策法案」はひどい。食料輸入が困難になったら(おそらく戦争など)、農家にイモなどを作らせるという。花農家にも。食料自給の柱は投げすてて、違反したら罰則付き。作物の種や肥料などは大きく外国に依存しているし、それらを勘定に入れれば自給率は10%前後ともいわれるのに!

 世界の(外国の)できごとは、この遠い日本の台所、私たちの胃袋に直結していることは間違いなく、値上げラッシュの店頭を漫然とながめるばかりではすまない。

 

春を告げる花

 息子が小さかった頃、毎朝、ほうきを持って庭や家の前の道路をそうじするのが課せられた仕事だった。春には小さい花がたくさん積もって、彼はブツブツ文句を言いながら、時には怒りながらほうきをふりまわしていた。

 そう、庭には年々大きくなるミモザの木があったから。青空には黄金色の花々がよく似合っていた。花言葉として、感謝、友情、密かな愛、エレガンスなどがある。もっとも彼にとっては迷惑な花でしかなかったかもしれない。

 3月8日は「国際女性デー(International Woman's Day)」。1904年3月8日、ニューヨークの女性たちが参政権を求めてデモを行った日だ。それを記念して国際的に女性の様々なイベントが行われている。それのシンボリックな花でもある。またヨーロッパでは”春を告げる花”とも言われている。

 1923年、日本で初めて国際女性デーをお祝いした運動の創始者・櫛田ふきさんが、「戦争中、『女性に参政権を』という運動は大変な弾圧の中だった。小さい家でろうそくの灯りで花を見ながら、思いを同じくする女性たちが決意を固め合った」と語っていたという。日本婦人団体連合会婦団連)の会長など、数々の女性運動、社会運動を担ってこられた方だ。

 近年、ジェンダー意識の高まりとともに数々のイッシューをもって多くの女性たちが立ち上がってきている。旧態依然の芸能界や政界など、課題は古くもあり新たなものもあり。それらはまた男性にとっての課題でもある。

 

あなたの中の「鬼さん」は?

 のっけから鬼さんにまつわるお話です。

 国連には国際法に基づく裁判所として「国際刑事裁判所ICC)」と「国際司法裁判所(ICJ)」があります。日本人の赤根智子判事が加わる国際刑事裁判所は、昨年3月、ウクライナ侵攻をめぐり、プーチン氏に逮捕状を出しました。逮捕容疑は、占領地域のウクライナの子どもたちをロシアに移送したことが“国際法上の戦争犯罪にあたる”というものです。これに対し反発を強めるロシアは、同年5月、赤根判事らICCの判事3人を指名手配する報復措置に出ました。(下記、NHK報道より)

 ロシア政府が戦争犯罪の疑いでプーチン大統領などに逮捕状を出したICC国際刑事裁判所の日本人裁判官を指名手配したとロシアの国営通信社が伝えました。ロシアの国営通信社は27日、ロシア内務省の指名手配リストにICCの赤根智子裁判官が掲載されたと伝えました。
 具体的にどのような容疑で指名手配したのかは明らかになっていませんが、ICCはことし3月、ロシアがウクライナの占領地域から子どもたちをロシア側に移送したことをめぐり、国際法上の戦争犯罪の疑いでプーチン大統領など2人に逮捕状を出しました。これに対しロシアの連邦捜査委員会は、3月、赤根裁判官を含む4人に対して刑事手続きを開始し、これまでに主任検察官らを本人不在のまま起訴したと発表していました。

 そして昨年末の26日、今度は国際司法裁判所(ICJ)が南アフリカの訴えにより、パレスチナガザ地区イスラエルが国際条約違反のジェノサイド(集団殺害)を行っているとした訴訟で、イスラエルにジェノサイド防止のためのあらゆる措置をとることを命じました。軍事作戦の即時停止までは名言していませんが。

 イスラエルのネタニヤフ首相は、そうした非難は虚偽であるだけでなく、言語道断として拒否しました。

 ーーこれらの二つのことは当事者こそ違いますが、至極まっとうな判断が下されたと思われるものの、被告側は反発し拒否するどころか前者は裁判官を指名手配するとまで言っています。逆恨みもいいところです。問題はそうしたやりとりをする瞬間も多くの人が攻撃され殺されているということ。二つの裁判所はその現実を直視し、直ちにやめなさい、と言っているのです。

 当事者及び背後には米、ロなど大国の思惑、戦略があるともいわれます。さて、日本という国はどうするのでしょうか。無関係とはいえないし、なによりも平和憲法をもつ国の発言の重みは少なくないはずですが…。あっちはだめで、こっちはいい、なんて言う二枚舌(二重基準といいます)の立場は見透かされ、信頼されません。大国に振り回されず、自分の言葉で平和への道を言うことです。

 おりしも2月3日は節分の日。幼稚園や保育園では鬼に扮した先生や大人に、豆を投げて追い払う行事が多いようです。由来はいろいろで、やり方も様々なようですが、「鬼」は仏教の教えからくるようで、「人間の心にある煩悩の象徴」とか。自分の心のなかを反省する機会になればいいですね。大国の(もちろん日本も)指導者にぜひ振り返ってほしいものです。「戦争ってこわいし、いやよねーっ!」