bey’s blog

皆にブログを始めてほしすぎて自分がブログを始めました。

夢小説の話

 はてなブログのパスワードを忘れて設定し直すのも面倒で放置していたら最後の更新から3ヶ月経っていた。お久しぶりです。ベイです。

 

 今日は夢小説 (pixiv百科事典に飛びます)の話。

夢小説の中でも特に自己を特定キャラクターの恋愛対象として物語に入れ込むタイプの夢小説の話です。

取り敢えず先になんで今夢小説の話をしようと思ったかを説明します。

 

 今日の昼間に色々なバーチャルYouTuber(以下VTuber)の方の配信の切り抜きを見ていたら、ある方(以下"A"さんとする)が

「皆妄想の中で自分と恋愛関係だったことある?もしあるならどんな感じだったか教えて欲しい、人の妄想とか聞くの好きだから」

みたいなことを仰って、ファンの妄想の内容をマシュマロで送ってもらって読む、という動画に行き着いたんですよ。

その動画内で送られてきたマシュマロの中に

"自分がAさんに肉欲を向けていることがAさんにバレて、蔑まれつつ肉体をいじめられる(意味深)"

的な内容のものがあって(注1)、それに対してAさんが

「同人誌の展開やめぇや!別に僕じゃなくていいじゃんそれ!!あ、でも僕が好きだから僕であるべきなのか」

と仰っていたんですよね。

私はこの「別に僕じゃなくていいじゃんそれ!あ、でも僕が好きだから僕であるべきなのか」という言葉を聞いて本当に仰る通りだよな、と心動かされ、夢小説についてのブログを書きたくなりました。

 

 前ブログに書いたかもしれないし私の友人は大体知っていると思うんだけど、私は夢小説畑の人間ではありません。

他者のキャラクター解釈を聞くのは好きだから、もし〇〇が〜〜の状況に置かれたらどうするかとか、〇〇と△△が付き合っていたらとか、○○に恋人がいたらとかそういう二次創作全般聞いたり読んだりするのは好きだし、地雷がない雑食だから友人からは節操無しの消費者だと思われているし、夢小説も全然読めるんだけど、"自己を投影して疑似恋愛小説を読みたい!"みたいな気持ちは無い。

乙女ゲーとかギャルゲーもやってた方なんだけど、あれも自分とは別人格として楽しんでいたから多分そういう自己投影みたいなもんに適性がないんだと思う。

どうぶつの森とかは主人公を己の望む形として投影していた気がするけどそれも喋らない主人公だからできたことだよね多分……

 

まぁでもとにかく夢主(夢小説の主人公の意≒自分)とキャラクターが恋愛関係になるような二次創作を選びとってたくさん見ることってほとんど無い。 (「ほとんど」と書いたのはトンデモ恋愛体質のキャラクターの場合"恋愛関係にならない"ことの方が不自然になる場合があるからです)

そんな感じなら夢小説なんてわざわざ読むなよって話かもしれないんだけど、私モブ視点の二次創作というものにはかなり興味があるんですよ。

エル〇〇ン・スミスやマイ〇〇フト・ホ〇〇ズと政略結婚を余儀なくされ切り捨てられる嫁(扱いはほぼモブ)が主人公の夢小説とか、衛〇〇嗣の愛人A視点の夢小説とかはメチャメチャ読みたい。こういうモブになる夢小説も真っ当な(?)恋愛モノみたいに一応ジャンルとして確立されているはず。知らんけど。

 

 なんでこういうものなら読みたいのかというと多分

"代替の利かない存在としてキャラクターに影響を与える人格"

が介入することで起こるストーリーでなく、

"人物としては代替が利きまくるけど、特殊な立場(キャラクターの婚姻者等)を得ることによってキャラクターの人格にはさほど影響を及ぼさず、しかし特殊な視点でキャラクターを観察できる存在"

から見たキャラクターの在り方を見ることで筆者がそのキャラクターをどのように解釈しているのかを知りたいからだと思う。(文がややこしくて申し訳ない)

 

例えば、情に厚いキャラクターなら、

(特別好意がなかった相手でも婚姻関係を結んだからには優しくするだろうけど、この筆者様の解釈するこのキャラの優しさはどんなもんなのかな)

とか、野望を叶える過程で死が確定しているキャラクターなら、

(どれくらい死後夢主に迷惑がかからないように生前に準備をしているかで筆者様がどれくらいキャラクターが自己中心的であると考えているか分かるな)

とか。

もし解釈が一致していたら(やっぱりこのキャラクターはそういう最低さの持ち主だよな……!)という共感でめっちゃキマるしアガる。

解釈が一致したときの興奮ってどこからくる何なんだろうね。好みの味付けの料理が出てきたときの感動に近いものか?

 

(勿論キャラクターに影響を与えるほどの人格がある夢主の作品でも筆者様のキャラクターに対する解釈を感じることができる良作は沢山あるんだけど、唯一無二の相手から与えられる影響を描くためにはそれなりの説得力が必要になり、必然的にストーリーも長くなり、私は愚かで移り気なオタクだから読まながちなんですよね……)

 

 そんでここからがやっと今日の本題に近い話(だし最悪の話)なんだけど、私は上記みたいな感じだから他者が書いた夢小説を読んでいる最中に

(この夢、相手がこのキャラクターである意味ってあるか?)

と思ってしまうことがあるんですよ。

 

こう書くとマジで最悪なんだけど決して他者を否定する意図はないと改めて表明しておくね。

 

(自己投影恋愛系統の)"夢小説"というジャンルであるなら、夢主がその小説中に描かれたような存在である意味、必然性は絶対にあるじゃん。夢小説の主人公って夢主であって夢主がなんとかなるための物語でしょ?多分。筆者様の書きたかった存在が恐らく殆どそのまま投影されているはずだし。

だから夢主がどんなにチートだろうとなんだろうと全然なんとも思わないんだけど、

(この夢主がこのキャラクターと出会ってこういう風になるの、何故だ?こういう優しさを期待するなら☆☆(別キャラ)の方が適任では?)

みたいなことを考えてしまうときがあるんだ。

 

勿論そんなこと筆者様には言わないし二次創作である限り筆者様の想定する正しさが正しいと思うんだけど。

でもそうなると(この筆者様には私に見えているのとは違うようにこのキャラクターが見えているようだけれど、一体どういう解釈をしているんだろう?)みたいな方に興味が持っていかれちゃうんだよね。

 

 そこで冒頭の話に戻るんだけど、どのような過程を経るにせよ「別に僕じゃなくていいじゃんそれ!あ、でも僕が好きだから僕であるべきなのか」という言葉にあらわれるような、"己がそのようであれと望むからそのようであれ"ということが二次創作においての真理だなと改めて思ったんですよ。私の"夢小説"という土台に対する考えが足りなかったなと。

人間関係においてどのようなことが起こり得るかって九割九分九厘は己の手中に無い事象に左右されているじゃないですか。

それこそどこで生まれてどのように育ち、どんな言語を母語として用いるかでコミュニケーションをとりがちな相手って全世界の中で割と限定されてしまうと思うし、コミュニケーションを取るには己からのアクションも必要だけど相手が受容してくれることも必要だし。

そういう偶然が積み重なった上で人間は他者に好意や嫌悪感を持っているわけじゃないですか。

 

私には今好きな人間が多くいるし、好きになったきっかけは多分言葉にして説明できる要素の集合だけれど、その要素を全て兼ね備えた人間が今新たに自分の目の前に現れても、既に好きな人間達に対する愛着みたいなものをそう簡単にポイっとは捨てられないと思う。

恋愛色の強い夢小説についても同じようなところがあるのではないか?という。

私が現実世界の恋愛と縁遠いからその発想を忘れていたところもあると思う。

 

例えば私は言峰綺礼のことをとんでもなく可愛いと思っているし大好きだけれど、言峰綺礼と恋愛関係になりたいとは思わないし、言峰綺礼にいわゆる"恋愛"が可能だとも別に思っていない。 なんなら懸想して幸せだろうと思うのはクー・フーリン(ランサー)だし。

恋愛関係に発展することができる言峰綺礼は多分私が今可愛いと思っている要素が欠けてしまっているとすら思う。

そういう風にキャラクターを解釈して、ある程度要素をまとめて可愛がっているから"この夢、相手がこのキャラクターである意味ってあるか?"という疑問を抱いてしまうことがあったんだと思うんだよ。

 

夢小説の中の恋愛って普通の恋愛と(多分)違って、

出会う→好きになる→恋愛関係に発展する

という流れじゃなくて

キャラクターとして認識する→好きになる→夢小説のなかで恋愛関係に発展する

ということができるわけじゃないですか。

 

"恋愛関係に陥る(≒関係を深めていく)に当たって、こういうときにこうであるあなたが好き"

というのではなくて、

"あなたが好きだからこういう(例:恋愛)関係に陥りたい/陥らせたいのだ"

ということが一方的に可能なのがもしかしたら二次創作特異的にいいところなのかも、と「別に僕じゃなくていいじゃんそれ!あ、でも僕が好きだから僕であるべきなのか」という発言を聞いて思った、というのが今日の『夢小説の話』で言いたかったことです。

 

 いやこういう風に解釈するならどこまでを"キャラクター"の本質とし、どこを好きになったらキャラクターを好きになったと言えるのか、どのような要素がキャラクターから剥ぎ取り可能なのか、みたいな議論が始まっちゃうのがオタク達の心持ちかとは思うんだけど、今日その話もするとキリがないから取り敢えず許して流してほしい。

原作から離れて何かしらの想像をしたら我々は同じ穴かせいぜい隣の穴の狢だしね……

 

とにかく恋愛系の夢小説において"このキャラクターとこの夢主である必然性があるのか"というのは多分愚問だなと思ったんです。恋愛って多分必然性が無いからね。わからんけど。

"恋愛関係にある"ということが逆に必然性を生んでいる、あるいは、普遍性を生んでいるなかで今はこの2人のこの関係にフォーカスが当たっている、みたいに思うのがいいのかなと思ったというお話でした。

 

 夢小説と現実の恋愛を並列に語る前述がキモいし"人気作品の人気キャラクターである彼/彼女との恋愛"が意味を持ってしまうみたいなところも多分あるんだけどキリがないからちょっと今日はここでやめます。

 

久々に更新したと思ったら地獄の乱長文でごめん。

おやすみなさい!

 

 

(注1)肉体関係を持つ妄想等にも嫌悪感がないから送ってくれとVTuberさんが仰っていたのでこのマシュマロ主様に罪はありません

 

『三文小説』の話

 他人に気安くブログ書いてくれと言ったくせに自分が全然ブログを更新できていません。ベイです。

 

 今日は苦し紛れに最近聞いた音楽にまつわるオタクトークをします。

今言う"オタク"っていうのは音楽オタクじゃなくて私が今までブログに書いてきたような所謂アニメゲーム漫画等の"オタク"ね。

 

 最近、Apple Musicで「J-Pop Now Radio」っていうラジオ番組の配信が始まったんですよ。皆さん聞いたことありますかね?

司会は落合健太郎さん、初週のゲストは米津玄師さんでした。

 

話がそれちゃうんですけど、米津玄師の最新アルバム『STRAY SHEEP』、滅茶苦茶良くないですか?

私は彼がハチとして活動しニコニコ動画に曲をアップロードしていた時代が正にニコニコ/ボカロ漬けだったのでその頃彼の曲をよくきいていました。『diorama』も発売時に買った。

でも最近は放っておいても耳に入るような代表曲しかきいていませんでした。

しかし『STRAY SHEEP』の発売と共にサブスクが解禁されたので、折角だからと『STRAY SHEEP』を再生してみたら冒頭の『カムパネルラ』が好みで、そのままアルバム再生していたらアルバム丸ごとオタク好きがしそ〜〜〜〜な感じで最高だったのでそのまま私の中で米津玄師が再燃してしまいました。

音楽には全く詳しくないからなにがオタク好きがしそうと思ったのかとかを明文化することはできないのだけれどとにかく昔米津が好きだった人に是非聴いてほしいアルバムだなと思います。このアルバムとか米津の話は今度するわ。多分。

因みに私が今までのアルバム曲の中で特に好きだったのは『首なし閑古鳥』です。閑話休題

 

そんなんで米津が再燃していたからゲストが米津だと知って「J-Pop Now Radio」を聞いてみることにしました。色々喋っていたけれどまた脱線するから割愛します。

そのラジオの中で流れた曲のうち1曲が『三文小説』だったんですよね。

この曲を聞いたときに滅茶苦茶耳に残ったんですよ。

藤井風の『青春病』とかも残ったけど。藤井風の曲はなんというか"こういうことを今態々こういう形態で言うのすごいな"みたいな気持ちで聞いてる。今日はこれも割愛。

 

取り敢えず曲のリンク貼っておくか。

youtu.be

歌詞全文へのリンクも貼っておきます。

三文小説 King Gnu 歌詞情報 - うたまっぷ 歌詞無料検索

 

この曲の冒頭部、

この世界の誰もが 君を忘れ去っても

随分老けたねって 今日も隣で笑うから

 

怯えなくて良いんだよ

そのままの君で良いんだよ

増えた皺の数を隣で数えながら

を聞いたときに"なんって闇のオタク御用達みたいな歌なんだ!?"と感動したんですよね。

初めてここまで聞いた段階でバチバチのBAD END感を受信して興奮してしまって、オタク仲間に「三文小説聞いて自分の好きなカップル/コンビ等の何に当てはまると思うか教えて!あるいはハッピーエンドと感じるかバッドエンドと感じるかだけでもいいから!!」と大騒ぎしました。

 

前述してしまいましたけど私はこの曲を聞いたときになんて好みのバッドエンド曲なんだ!と思ったんですよね。まず

この世界の誰もが 君を忘れ去っても

随分老けたねって 今日も隣で笑うから

 の部分だけで同じ速度で老いたりできない2人の話だと思ったんですよ。

かたや若いままの自分と、かたや老いて同時代の仲間たちの殆どを失った君。

君だけが老いていくことを自分は諦観して微笑んでいる

怯えなくて良いんだよ

そのままの君で良いんだよ

増えた皺の数を隣で数えながら

 君は自分を置いていくが、君まで老いられなくなるようなことはなくていい。

ただ君には皺が増えたのを自分は隣で数えている

 

みたいな話だと思ったんですよね。

その先の歌詞にしても

「何度でも書き直すよ」と聞いて幸せを探して幸せになれないループもの??と思ったし、

「この小説の果てのその先を書き足すよ」に遺される者の辛さを想像したし、

「過ちだと分かっていても尚描き続けたい物語があるよ」に執着心というものの辛さを見たし、

「あゝ 駄文ばかりの(中略)救われる僕がいるから」にも執着心の辛さと好意の輝きを見たし、

2番Aメロにしても歳を重ねて様々なことができなくなる君とあの頃のまま残された"自分"を想像して眩しさと辛さに苦しくなったし、

「あゝ 立ち尽くした(中略)微笑んだ君がいるから」にも時が経って背中を強く押すことができるようになった自分と今はもういない君の微笑みを思い出す情景とかを思い浮かべたし、

兎に角"同じ時間を歩めない2人"を真っ先に想像したんですよね。

私の大騒ぎに付き合ってくれたオタク仲間2人は「ロイ○とゼロ○にぴったりだと思う」と言っていた。分かるぜ……!あの2人もともに歩めないからな…………

しかもこれ、別に私が「この曲、共に時を過ごせない2人の話じゃない?」とか言って誘導尋問したわけじゃなくてオタク仲間に意見を求めたら勝手に(?)言い出してくれたから本当に類で友を呼んでんなと思いました。

 

なんですけど、ごく親しいオタク仲間以外の人がどんな解釈をするのかも知りたくてTwitterやらYoutubeやらでも頻繁に「三文小説」で検索をかけていたんですよね。

それこそ『35歳の少女』見ている人間にだけ見えている何かがあるかもしれないし。(今まで全く触れていませんでしたが『三文小説』は『35歳の少女』というドラマの主題歌として書き下ろされた曲です。私は見ていませんが重い話らしい。タイトルからして重いか。)

それで検索にひっかかったのがこれ。

【King Gnu-三文小説】に隠された理想のパートナー選びの心理学

 メンタリストのDaiGoさんの動画です。動画いくつも埋め込むと重くなるらしいからタイトルリンクで許してほしい。

 

この動画の冒頭でDaiGoさんが「この曲の中にずっと連れ添う存在の選び方が全部入っている」(意訳)と仰っていてもうその時点で己には無い発想だったから滅茶苦茶ウケたんですよね。これはDaiGoさんを笑っているとかいうわけではなく、自分の発想がオタクすぎて。

人の収益化されてる動画の内容をそんな長々書くわけにもいかないし、等速で聞いても19分半強しかない動画だから興味があったら皆さんにも見てみていただきたいんですけど、なんというか

「三文小説のように思えてしまう人生でも、互いに依存しすぎず、相手の些細なところに感謝することができ、辛いことも話し合い、乗り越え、老化を共に歩み、笑っていける人、老化の恐怖をともに超えていける、誠実な人と添い遂げるのがよい」

みたいなことを仰っているんですよね。マジで私がさっき言ったようなこととは違いすぎてウケません??

私の中の三文小説の登場人物、老化を共に歩かんし、"自分”にあるのは片側の死という恐怖を乗り越えるというより恐怖があってもなお可能なだけ隣にいたいという逃避や執着心だし、老いていけない自分がこれからの生を過ごすための縁としてとんでもなく依存しているし、多分老いない者と老いる者のコンビ/カップリングって現実だったら三文小説じゃないし、互いの存在があることが幸いだけれどそれが辛いんだから乗り越えられようもないし……みたいな。

後この動画の中で「恋のときめきみたいなものは3年しか持たなくて、3年の間は愛任せでもうまくいくけどその先を共に過ごせるかが重要」みたいな話があったけど私は最悪のオタクだから割と「3年しか恋が持たないなら3年のうちに心中でもしろ」と思ってしまうし。

 

 なんというか、曲1つとってきても普段自分がいる/意識しているコンテクストによって捉え方が全然変わるのって面白いよなぁ、という話でした。

うまいこと文章が纏まっていない気がするけど苦し紛れ更新だから勘弁してください。

 

おやすみなさい 

 

 

 

映画『劇場』をみた(小説も読んだ)

 ゲームと課題とぼんやりした不安に追われているうちに1ヶ月経ってた、嘘だろ

 

本当はもっと他に書こうとした記事があるんですけど、まったく完成する気配がないのでなんちゃって感想文を上げてお茶を濁します。

 

 皆さん映画『劇場』みました?

又吉直樹作の同題小説の映画化作品。

Amazon Prime Videoで映画館と同時公開されたとかいうやつ。

最近SNS等でちょっと話題になってましたよね。

 

私は又吉さんのファンというわけでもないし、彼の小説は芥川賞受賞作である『火花』しか読んだことがなかったんですけど(しかももう完全に内容を忘れた 記憶力が死んでいるので)、

知り合いがブログ書いていたネタバレを含んだ感想を読みたいがために映画『劇場』見ることにしました。

 

自分が特別好きになるだろうと思っていないものって、好きになるかもしれないなと思っているものより気楽に見られるよね。

この言い方はなんか良くない気がするけどなんというの、フラットな感情で見始められる。

"自分が好きなもの"、"恐らく自分が好きなもの"、"自分の好きな人が勧めてくれたもの"とかを見ようとするのって滅茶苦茶気力体力を消費しませんか?

全力で見たいからこそ敬遠してしまいがちになるというか……そんなことを言ってばかりいると人生終わっちゃうんでやる気を出して色々消費しなくちゃいけないんですけど。

 

 まぁでもとにかくそんな理由で『劇場』をみようと決めました。

なんだけど、私はミーハーのくせに面倒なオタクだから(文章にすると本当に最悪すぎてウケるな)、現代日本語が原作のものは原作を見てからその他の媒体を見たいと思ってしまうんだよね。
だから取り敢えずKindleで小説の方の『劇場』を買った。そんで4時間くらいで読んだ。

 

ここから先がやっと『劇場』の感想を含む記事の本文です。小説/映画ともにネタバレもします。

 

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ファフナーを通して自分の性格の悪さを思う

 この前ゴリゴリに酒を入れて記事書いて投稿したと思ったらできてなかったし下書きも残ってなくて復元するやる気もないから2回連続ファフナーの話をする。

 

 TwitterにURL載っけなかったから前の記事読んでる人いないと思うんだけど、前回の記事「恋とはどんなものかしら - bey’s blog」で私はアニメ蒼穹のファフナーシリーズを一気見して印象に残ったシーンの話をした。

ファフナーは面白いから皆見るといい。今なら見ている仲間も沢山いるし。

 

 

この記事の中で私はとあるキャラの消えざまについて色々書いたんだよね。それでどうしてそのキャラの消えざまがそんなに心に残っているのかぼんやり考えていたのでその話。前回と重複しているところも多いと思う。

一応ネタバレを避けて書けるように消えたキャラを仮にAとおく。

後これが分からないと何も分からないと思うからファフナーの内容をざっっっっくり書くと、フェストゥムと呼ばれる地球外から侵攻してきた何かからヒトを守るために少年少女がファフナーと呼ばれるものに乗って戦う話です。

そして私はこれをEXODUSというシリーズまでしか見ておらず、その後Aが復活する可能性が0とはいえないからあんま気負わず読んでくれ。

 

その話の中でAは自分の暮らす場所、大切な人達、それが存続する未来を守るために己が消える未来を選択するんですよね。

Aには好きな人間がいて、Aが選べる未来の中にはその好きな人間と己だけが生き残る、というものもあったんだけど、Aはそれを選ばなかった。

 

選ばないだけならいいんですけど、Aは好きな人間に「生きよう、2人で。皆の分も」と言われる未来を選択しないというシーンで

「私が心のどこかで望んでしまった未来なんだ。本当の望みかもしれないけれど、私の探していた未来じゃない。私はその未来を選べない。お前といられる未来があった。それだけで、いいんだ」

 

と言うんだよね。私にはそれが本当に悲しくて…… 

人間皆、もっとエゴイストであってほしい。

お前の本当の望みをお前が叶えないなら一体誰が叶えてくれるんだよ?

一方で"自分の暮らす場所、大切な人たち、それが存続する未来"も絶対にAが望む未来の形であるとは思うんだけど。それでも自分の命と"自分のある側面における本当の望み"を捨ててまで世界の未来を目指していく、みたいな姿勢、私にはとても幸せに思えなくて……

ファフナー世界線だとちょっと話は別なんですけど(詳しく話すと長くなるから皆アニメ見てくれ)、自分が死んだ後に残る希望と自分が死ぬ迄の幸せを天秤にかけて希望を選択するその精神が自分の理解を超えていて怖い、みたいなところが多分ある。

 

「未来のため己の死を厭わず戦う」ということなら分かる。己に未来を掴めるかもしれない力があるなら、それを使うというのは多くの場合力を使う本人にとっても希望であると思うから。

自死特攻をしかけるというのも、その時点で己に出来得る最大のことがそれなら選択するのはわかる。

ただ、Aは「自分が生きていて、好きな人間が少なくとも1人生きていて、その先どう転ぶかわからない未来」を捨てて自分のいない未来を選ぶというのが………… こういうのって、前に書いた2つとはまたちょっと毛色が違くないですか?確実に生きることができて、かつそれが「心のどこかで望んでしまった未来」「本当の望み」であるとまで認めているのにそれを選択しないってかなり苦しいことだと思うんですよね……

 

しかもAが消えるシーンの挿入歌について製作側が

「愛すること」のイントロ箇所。
実は制作当初Peace of mindのような綺麗な明るい旋律で○○○を送り出したかった。しかし制作サイドから「○○○の中に実はまだ戸惑いと無念さがあるまま逝く」と聞いて
急遽マイナー調に『戸惑い』を入れてイントロ作り直した。これは能戸Pのおかげ。

記事中でAと示している人の名前を○○○で置き換えました(元ツイ)

と仰っていて更に悲しんだ。戸惑いと無念さを抱えながら己の死を選択するって…………完全に割り切った自死、というのもよく分からないけどさ…………

 

それでその挿入歌の歌詞を見ているときに、私はそもそもこのシーンが示すような美しさと反りが合っていないんだなと思ったんです。今日の本題はここから。

歌詞全文は歌詞検索サイトへのリンクを貼っておきます。

angela 愛すること 歌詞 - 歌ネット

 

んでその中で私が"反りが合っていないな"と思ったのは

生まれた意味を 狂おしいほど

分かっていく こんな夜は

と、

探し続けた夢は枯れても 心はここにあるよ

です。

 

そもそも"生まれた意味"なんてもんはないと思っているから…… しかも痛んだり苦しんだりしながら前に進んでいくことが"生まれた意味"だとしたらそんなもんは生まれない方がいいだろ、と思ってしまう。

それにもし"生まれた意味"とやらがあるとするなら見つけるんじゃなくてお前が勝手に決めてほしい。お前の"生"じゃん……

ファフナーの皆、自分の命の正しい使い方を見つけて使っていっている感じが苦しい。

勿論その"正しい使い方"を選択しているのは彼らであって、その生き方が美しくないということは全くないんだけど、だからこそ見ているこちらは苦しい。

"正しいこと"を良しとするなら別に精神なんていらないじゃん、心なんて無いまま正しくある方が苦しまなくて済むよ…………

 

そして「探し続けた……」の方が割と救いようなく反りが合ってないポイントなんだけど

探し続けた夢は枯れても心はここにある

くらいなら心だってここに無い方がよくない?と私は思ってしまうんだわ。"心がある"ということを肯定的にとらえられない。 無いなら無い方がいいだろ。心なんてなければ夢を探さなくて済んだんだぞ。

 

 

こうしてまたゴチャゴチャ書いたけど上に私が書いたことは全く正しく無いんですよ。

 

ファフナーに出てくる敵(フェストゥム)は地球外の何がしかで、思考とかの在り方が我々人類とはそもそも違うんだけど、フェストゥムって途中で「人々が苦しそうだからみなごろしにしちゃおっかなと思った!」みたいなことを言うんだよね(曖昧な記憶だし超適当な意訳だから誤解を生んでいたらごめんなさい)

私にはそういう精神性の方がよっぽど"わかる"。

後ヒトを知る中で痛みを知ったときに「我々を無へ戻せ」って言うんだよね……それも"わかる"。

 

他の作品でもよく"他者との境界/意識・認識の在り方"みたいなものって題材になるけどファフナーにもそういうところがあって、共に生きるための痛みだとか、互いが個であるから生じる痛みだとかの話がなされている。

そんな中で生きていくことの持つ意味や希望がこの物語の中には煌めいているんだと思う。

 

でも私は基本的な思考がフェストゥム側なんだよね。苦しみを無くすためには苦しむものたちを消してしまいましょう、という。

人間が人間であることを基本的に不幸だと思っている。

 

Twitterで"私は人権を奪うことを愛としてしまいがちだ"みたいなことを言った(人権侵害を良しとする気は勿論全く無い)ことがあるんだけど、そういうのも多分この思考からきている。

"人の美しさ"みたいなものの存在も確かに分かるんだけど、その素晴らしさと"痛みと苦しみのない無"だったら絶対無の方が良いとも思っている。意識が消えたら何も認識できないのに、その先に残る美しさが消えた本人にとっても有意味であるとは思えないというか…… 要はどうせ死ぬんだぞ、みたいに思っているというか…………

人でないものになって、何も考えずにいる方が絶対幸せだと思っている節があるから人権を奪うことを愛としてしまいがち。

 

自分が人間である癖にそういうことを思うのってなんというかこう凄く馬鹿みたいだよね。

 

だから私の最悪なフィルターを通すとこうなってしまうというだけでファフナーは面白いし未だに人気アニメなだけあってもっと見るべき素敵なところがあるんだよ……

ファフナーを見ていると自分で伝えること、選ぶこととかが大切だというメッセージを感じる」

みたいなことを書いている人がいて、私もそれを読んでいるときはわかるな、と思ったんだ……でも自分のスルッと感じ取れるところだけを書くとどうしてもこうなってしまう……

 

今更当たり前だけど物語の感想って物語そのものよりも感想を書いている人間の在り方を示すよな。

 

ちょっともう朝だから無理やり〆めますけど、私の望みは「皆もっと自分勝手に生きてくれ、どうせお前も死ぬんだから」です。

 

 

恋とはどんなものかしら

 タイトルをフィガロの結婚のvoi che sapeteから取ってきておきながら今日はなんと蒼穹のファフナーの話をします。バチバチオタクトークですね。ごめんなさい(?)

 

蒼穹のファフナー、ご存知でしょうか。

最初のエピソードをやったのは2000年台前半だけど未だに新エピソードが出ている作品です。1番新しいのが「THE BEYOND」ってついてるやつ。今それより前のシリーズ作品がYouTubeの公式アカウントで無料公開されています。私はそれをこの前一気見した。

(これ最初に書いたの2020/05/29だったんだけどぼーっとしてたらネトフリでも配信されだしたよ……)

 

ファフナー、無印については確かリアタイで見てたし、キッズステーションだかアニマックスだかでやってるのを録画した記憶もあるから多分まだ家のどこかにDVDが残っていると思う。でも話の詳細は忘れているところが結構あった。EXODUSは当時友人に勧められてちょっとは見たと思うんだけど完全に記憶を失ってました。

なってない人間だから昔好きだと思って見ていたものとか読んだ本とかの記憶が殆ど無いんだよね…… オタクの才能がない……

 

オタクの才能がないことについては自分1人で十分反省したしそんな話はしてもしょうがないから今日は改めてファフナーを見た感想の話をするわよ。滅茶苦茶ネタバレするのでネタバレが嫌な方は読まないでください。

 

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好意で目は曇るのか?という話

 今回はこの前Youtuber(?)のゲーム配信を見ていて思ったことについての話。

 

 私が見た配信をやっていた人を仮にNさんとする。

私がNさんを知ったのはゲーム配信じゃなくてTwitterだったんですよ。

ゲーム配信もやっているのは知っていたんだけど、今までやっていたゲームは自分でやってから見た方がいいかな、と思うやつだったから見ていなかった。

でもこの前やっていたゲームはCooking Simulatorだったんですね。

Cooking Simulatorで検索するといくつか実況動画とかが上がっているのが見られると思うんだけど、あれって大騒ぎしながらやる分には楽しいけど自分でやろうという気にはあまりならなくない?

そもそも私が最近ゲームをやっていないからゲームに対してのモチベが低い、というところもあるのかもしれないけど…… 

 

取り敢えずNさんがCooking Simulatorの生配信をしているのを発見して、これならいいか、と思って見ていたんです。

でも元々ゲーム配信を生業とする人の配信では無いし、私がNさんが好きである、という前提がなければ特に面白いということもなかったと思うんですね。

面白いということもない配信をそれでも私は1時間くらい見続けていて、途中でふと"これって「好意で目が曇っている」という状況なんだろうか?"と思った瞬間があったんです。

 

 「好意で目が曇る」とか「ハロー効果」とか、ちょっと違う話になると思うけれど「恋は盲目」とかって言うじゃん。

自分が好ましく思っている人の配信を"好きな人がやっているという前提がなければ特別面白くない"と思いつつも見続けるのって、要はそういう"公平な目で見たときには正しく無い感覚"なのか?という気持ちになって、もしそうだとしたら凄く嫌だな、と思ったんですよ。

好きな人の信者みたいになってしまって、面白い/面白くないとか一理ある/ないみたいな判断がその人がひどくよく見える側に偏ってしまったら怖くない?

その人を好きなはずの私がその人の正しくない見解を擁護したり、その人の言葉を極度に好意的に解釈したりしたらそれはなんというか、誤解が誤解を招く、みたいな最悪な状況を招きそうじゃんね……

 

 でも結局すぐに「自分が好ましく思っている人の配信を"好きな人がやっているという前提がなければ特別面白くない"と思いつつも見続ける」こと自体は「好意で目が曇る」とかとは全く別だな、と思い直しました。

というかよく考えたら全然違うんだよな。あまりそういうことを深く考えたことがなかったから一瞬迷ってしまっただけで。

 

私がNさんのことを好きなのって、端的に言えば"書く/喋ることが面白いから"なんですけど、Nさんを面白いと思う理由には"文脈"もあるんですよ。

なんというか、例えばTLに流れてきた1ツイートだけを見て「面白!」と思ってふぁぼした場合って、そのツイート主の人柄とかはあまり気にしないことが多いじゃないですか。

「予想だにしないアクシデントがウケる!」とか「言葉のインパクトが面白い!」とか。

そういう笑いって人柄を知らなくても"ウケる"し、1ツイートが面白いだけでその人に興味を持っていたらキリがないくらいTwitterには面白ツイートが溢れている。

 

Nさんについては、"面白いことを沢山言っているから"という理由で動向を追っているうちにその人自身にも興味が出てきたんですよね。面白いことを仰る言葉の端々から感じられる優しさとか、面白い観点とか、似ているように感じられた感性とかを見ているうちに。

そしてそういう細かい部分を知ってからNさんのツイートやら配信やらを見ると、今までより更に味わい深く感じられることがあるんです。

簡単に"好き"とは言わない人がわざわざ"好き"と言っているのだから本当にこのコンテンツが好きなのだな、とか、簡単だがともすれば範囲を狭めて曲解されかねない言葉(恋人というと即異性愛を想像される、みたいな)を使わずにこういう表現をしているのはこの人が指したいものはその曲解のうちにおさまらないものを含んでいるんだな、とか。

"Nさんがこういう言葉を使うから"という"文脈"を込みにして、その人の面白さを感じているんですよね。

 

これ、私は具体的な文言を思い浮かべて喋っているからアレだけどブログだけを読んでいる人間には伝わらないかな……

なんというか、"普段は態度でしか示されていない好意を改めて言葉で示されたとき、わざわざ言葉にしたいと思うような何かが今相手の中にあるのだと感じて嬉しい"と当たらずも遠からずなアレだよ多分。そういうシチュエーションに出会したことがないから知らんけど。(上記のようなことを言ったくせに自分の例えが雑なの良くないね、ごめん)

 

 まあでもそういう風に、好きな人間が言っていることを精度よく感じて解釈するには"情報"が必要になるじゃないですか。

学校に通っているときに、小説とかを解釈する際に作者の周辺情報を調べさせられることなかった?ああいう感じで。

作者が裕福な家に生まれていて、その作者が当時の裕福な家庭の生活を描いているのならば"裕福な家庭"のレベルを資料で調べて出てくる生活を想像して殆ど間違い無いだろう、みたいな。まぁそんなもん学校で読まされるようなもの書いている人はおおよそしっかり裏をとってるもんだけど、これも下手なたとえとして許してほしい。

後、作者がどのような教育を受けていたかで変わる表現や感性というものもあるじゃん。力こそ正義と思って生きてきた人間と力が諸悪の根源と思って生きてきた人間のすれ違い、みたいなさ。今日微妙なたとえしか思いつかないな。

でもとにかく他人が書いたものを正しく解釈するためには意識的にせよ無意識的にせよかけられたバイアスを読む側が意識しなくてはいけない。

私は調べ学習をめちゃくちゃサボっていたクチなんですけどね……

 

話が逸れかけたけど、とにかく自分が面白いと思っている好きな人の面白さをよりよく分かるためには"情報"が必要で、"情報"を得るためには"好きな人の発するコンテンツなら知らない人がそれほど面白いと思わないであろうものでも見たい"という気持ちはあって当然のものだな、と思ったんですよ。

 

さっき「私がNさんが好きである、という前提がなければ特に面白いということもなかったと思う」と書いたけれど、それはつまり"Nさんが好き"という前提がある私にとってその放送は面白いものだったということでもあるんだよね。

"笑えるポイントが次々と用意されていて、それを隙間なくぽんぽん与えられ、お腹を抱えて笑える"

みたいな"ウケる"面白さではなくても、そのゲームをしているときの振る舞いだとかパっと発された言葉だとかから私はNさんに対する何かしらの"情報"を得られていて、

"自分の好きな人間は(少なくとも今このときは)こういうときにこういう言動をするんだな"

という方向性でその人の解像度を上げている、みたいな。

そしてその人の解像度が上がることで私はよりその人の生み出すその他のコンテンツを楽しめるようになる、みたいな。

 

だからその人の放送を見続けたという行動は「好意で目が曇った」わけではないなというのが書き出しに対する結論。オタクは好きなものに対して詳しくなりたがるものだし。

 

ただ恐れるべきは与えられた"情報"の解釈を自分の持つ"好意"にとって都合よく捻じ曲げることがあり得るということですね。

それこそ本当に最悪のハロー効果みたいに。

1つの"情報"の解釈を間違えることによって像が歪み、歪んだ方向に向けて次の"情報"を解釈し…… みたいなことを繰り返すと好きな人のサイテーな虚像を追うことになるからな。

しかもそういう人って多分結構いるよね。

今なんか例を出そうと思ったけどそれほど角が立たなそうなもので思いついたのが「飛影はそんなこと言わない」だけだったしアレはマジで「飛影はそんなこと言わない」から全然例示できん。ダメだ。

後、自分が好意を持っているものや人間の一部分を見て「好きじゃ無い」と言われることで全く趣味が合わないと思うのも間違いだよな。物事は多面的でグラデーションがあるから……

 

とりあえず一旦この話の締めとしては

「好意で即目が曇ることはないが、目が曇らないように努力することは必要」

だな。今のところNさんに対して解釈違いだ、とか思ったことはないし今日この記事を書きながら考えていてもそれほど意味不明な虚像を追いかけているわけではないと思ったんだけど、そういう状態が一番危険そうだから……

好きな人間の好きな部分は好きな人間を構成する要素の1つにすぎない、ということを忘れないでいたいね。

 

おやすみなさい!

 

ふじょしすごろくはいいぞ

 今日は昔やって滅茶苦茶楽しかった遊びの話。

ただ題名から分かる通りのオタクトークなので見たくない人は見ないでくださいね……

 

 私が今話題に出そうとしているふじょしすごろくは最近バズってたやつじゃなくてこれ

 なんですけど。これもかなり流行っていたよね。皆さん、やったことありますか?

雑に説明すると、すごろくをやる人がそれぞれ自分が喋る推しCPを決め、自分が止まったマスに書かれている質問について話し(いつから付き合ってる?/告白はどちらから?等)、通常のすごろくと同じようにあがりを目指すっていう遊び。

 

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