人間はいつか死ぬけど、その意味は今は分からぬままで
人が生まれたからには、必ずそれとセットで死が存在する。
いつかは心臓が止まり、全てを失うことを前提として僕たちは生きている。
そんな当たり前のことを受け入れることに、僕たちはすごく時間がかかる。
この命が消えていくこと、その感覚を現実として理解することは難しい。
人生は永遠に続くのではないかと常に錯覚する。そうなると、周りにどう思われるとか、認められたい成功したいとか、自分ではない周りの何かに振り回される。
永遠に続く命なら、それも大切かもしれない。だけれども、僕たちは永遠ではない。
限りある時間。
友人や家族の死をもって、それを教えられる。
彼らの死は間違いなく僕たちに強い影響を与えている。
それは言葉ではなく、体感としての【死】命の有限性。
それを感じるだけで本当に大切なことが見えてくる。自分を偽り生きていくこと、誰かや何かに合わせ生きていくことの無意味さに気づく。
何のために生まれ生きていくのか。
俺にとってそれはまだはっきりとしたものではない。
だけど、それは誰かや何かに決められたことではないことは確かだ。
自分の中にある価値ですこしずつ歩む日々の中で、日々の小さな決断の積み重ねの先に、それが見えてくると思う。
季節の変化に敏感なのは加齢のシグナル
季節が変わったり、お祝い事があったり、生活していく中で起こる変化。
一度きりのものもあれば、毎年巡ってくるものもある。
静かやけど確かに進む時間の中で、自然と生まれる慣習やならわし。
夏にすること、キャンプへ行く。春にすること、あの公園へ行く。お正月、みんなとずっと一緒にいる。
そうゆう生活のサイクルに安心する。
時の流れを感じ、同じようで違う特別な今日を思う。
愛を『受け取る』チカラ|キューブラー・ロスと遠藤周作
遠藤周作のエッセイで知った精神科医のキューブラーロス。
なんだか気になったので、YouTubeで彼女を取り上げたドキュメンタリー番組を見た。
現代社会で行われる延命措置や安楽死に反対し、彼女は自然死を勧める。人が死んでゆくことを、人が操作すべきではない、と。
その生涯を、死に近い多くの患者たちと向き合い過ごした彼女の人生。
死への探求がどんどん深くなり、それも原因となり、離婚。
精神科医として、患者たちをサポートするために世界中へ飛び回り、自分の家族のもとには殆ど帰ることがなかったという。
そして、避けることのできない自らの死に向き合う彼女の晩年。
晩年のインタビューで彼女は、
『人生に大切なことは愛を与えること、そして愛を受け入れること』と話していた。
そして、
『私は愛を受け入れることに関しては落第よ。』と。
彼女の言う、『愛を受け入れる』というのは一体どういう事なのだろう。愛される、自分自身の価値を受け入れる、ということであるのかな。
『愛とは何?』そう問われた彼女は、
『言葉にできないものよ。あなたがそれを知っているなら分かるし、知らないのなら分からないわ。』と答えていた。
迷い揺れ動く生き方が、人間らしく美しいと思えた。