世界を救う読書

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なぜ日本人は一生懸命働くのか? 山本七平「日本資本主義の精神」


「日本人は勤勉だ。」
こう言われて否定する人はいない。
「日本人と言えば勤勉。勤勉と言えば日本人。」であり、「社畜」「ブラック企業」という言葉がはびこるのも、この日本人の勤勉さゆえと言っても過言ではないだろう。むしろそれだけ”奉仕する心”を持つことを誇りにさえ思っているのではないだろうか。
では、ここでさらに一つ質問したい。
「日本人はなぜ勤勉なのだろうか?」。
この質問に答えられる人は少ないのではないだろうか。
その問いに真正面から向き合った人物がいる。それが稀代の評論家、山本七平である。今回は山本七平の著作「日本人的資本主義の精神」を紹介し、なぜ私たち日本人が勤勉に、一所懸命に働くのかについて考えてみたい。そして、その先に勤勉な私たちにとっての幸せな働き方を見出していきたい。 

 

山本七平とは何者か。

本書の著者である山本七平は、大正10年に生まれ、平成3年にこの世を去った昭和を代表する評論家の一人である。当時としては珍しく両親がクリスチャンであり、本人も後にクリスチャンとなった。「七平」という名も神の安息日(日曜)生まれから命名されたものだ。
青年期に太平洋戦争が勃発し、自らも出兵。終戦直後にはマニラの捕虜収容所に収監されている。
この戦争体験は山本に大きな衝撃を与えた。
「なぜ日本人は太平洋戦争に突入しなければならなかったのか」。
山本の戦後の人生はこの問いへの答えを探し続けたものだったと言っても過言ではない。実際、彼の著作の多くは何かしらの形でそのような”戦争に突入しなければならなかった”日本人の精神構造に関わるものが多い。

「何だかわからないが、こうなってしまった」という日本人の特性

本書における山本の視点もまた正にこの山本の問いの上に成り立っているものである。実際山本は本書の冒頭で次のように述べている。

「長所とは裏返せば短所であり、美点は同時に欠点である。このことは、日本に発展をもたらした要因はそのまま、日本を破綻させる要因であり、無自覚にこれに呪縛されているということは『何だかわからないが、こうなってしまった』という発展をもたらすが、同時に『何だかわからないが、こうなってしまった』という破滅をも、もたらしうるからである。
明治のこの無自覚状態は、太平洋戦争に帰結している。一度の失敗は許されても、二度の失敗は許されない。したがって、いま必要なことは、この『呪縛』の対象を分析し、再評価し、再把握して、自らそれを統御することである。」

一見「日本資本主義の精神」というタイトルからは、日本的な資本主義経済の特徴を論じたものであるかのような印象を受ける。だが、それはあくまで取り扱う事象が経済という外形を伴っているに過ぎない。本書であくまでも「”何だかわからないが、こうなってしまった”で済ませ、その分析もしようとしない」という日本人の特性を、資本主義という経済の側面から分析したものである。
その分析のための手法として、本書では社会学の祖とも言われるマックス・ヴェーバーの名著「プロテスタンティズム倫理と資本主義の精神  (通称”プロ倫”)」のアプローチを応用にしている。
というか、乱暴に言ってしまえば、本書は「プロ倫」の日本への焼き直しであるのだが、この分析にはかなり説得力があり、「なぜ自分はこんなに一生懸命働いているんだろう。」と思ったことがある人であれば、おそらく誰もが「なるほど。そういうことだったのか・・・。」と得心することができると思う。
そこで烏煙のようだが、まずはマックス・ヴェーバーの「プロ倫」とはどういった内容であるのかをザッと説明をしたい。

マックス・ヴェーバーとは?

マックス・ヴェーバーは19世紀後半から20世紀前半に活躍したドイツの社会学者である。社会学とは文字通り社会の有り様を研究する学問であるが、近代的社会学マックス・ヴェーバーによって始まったと言っても過言ではない。彼の代表的著作が「プロテスタンティズム倫理と資本主義の精神」である。
この本は産業革命以後、ヨーロッパ文明が他を圧倒するほどの力を身につけた要因を、キリスト教プロテスタントに特有の倫理観と資本主義システムが結びついた点にあると論じたものである。この本については数多くの研究や入門書があるので、気になる方はそれらを参照して頂くとして、ここではざっとあらましだけ書いておくに留めておく。先程述べたように、欧米諸国は18世紀以降、世界史上でも類を見ない発展を遂げた。その根本にあるのが資本主義的経済システムである。資本主義的経済とは国家や民間がお金を投資することでより多くの富を得る経済の形態のこと。この資本主義というシステムが欧米、特に西欧で生まれたのは間違いないが、なぜ西欧で生まれたのだろうか。
その理由の一つとしてヴェーバーが指摘したのが「プロテスタントキリスト教に特有の”倫理観”」である。
日本ではほとんど理解されていないが、同じキリスト教でもカトリックプロテスタントは全く違う。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の概略

16世紀ヨーロッパで始まった宗教改革については、多くの人が歴史の授業で学んだことだろう。
かつて”贖宥状”なる物を買えば死後天国に行けるという宣伝の下、カトリック教会がお金を荒稼ぎしていた時期があった。そのような教会のやり方にマルティン・ルターらが抗議(=プロテスト)したことから、宗教改革が起こり、カトリックプロテスタントに分裂したという話である。
プロテスタントとはこのようなカトリックのお金稼ぎに精を出す姿勢に抗議して生まれたのであるから、彼らの教義は非常に厳格であり、必要以上にお金を稼ぐような”強欲さ”に対して強い嫌悪感を持っている。
ここで多くの方が疑問に思うだろう。
「強欲さに嫌悪感を抱くプロテスタントがなぜ”お金稼ぎ”を肯定する資本主義を生み出すのか?」と。
疑問に思うのは至極まっとうなことであるが、ここには巧妙なレトリックが存在している (最初からそれを狙った訳ではなく、結果的にそうなっただけなのだが)。

プロテスタントカトリックに抗議をした原因の一つはカトリックの堕落、中でも死後の世界が金で買えるというようなデタラメを喧伝したことである。
先程も書いたようにプロテスタントの教義は非常に厳格であり、神は唯一にして絶対の存在である。だから死後、天国に行くか、地獄に行くかはすべて神が決めたことであり、人間にどうこうできる問題ではない。そして、神は決して間違いを犯すようなことはないのだから、死んだあと天国に行くかどうかは既に運命として決定されている。
これはある恐ろしい結論を導き出すことになる。
それは
「天国に行けるように」と願って努力しても無駄。どれだけ神に祈っても、どれだけ善行を重ねても無駄。天国行き or 地獄行きという神の決定は決して覆らない
ということである。

これは実に恐ろしい教義である。
天国や地獄というものが本当に存在するのかどうかは分からない。証明のしようがないのだから、”あるかもしれないし、ないかもしれない”。「信じるかどうかはあなた次第です。」という類のものである。
だが、どれだけ無神論者であろうと死んだ後どうなるかについて多少なりとも漠然とした恐れを抱くのが普通である。それを「どれだけ努力してもあなたは地獄行きです」と言われればどうなるか・・・。
少なくとも当時はその恐怖と孤独さに耐えられる人はおらず、多くの人が「そうは言っても、天国に行ける人は何か他の人と違うところがあるはずだ・・・」と期待をした。
そこで生まれたのが「天職」という考え方である。

神によって救われるかすかな希望”天職”

天職という言葉は私達の日常生活でも流通している言葉にかなり近い意味合いで、「天」とくにキリスト教では「神」から与えられた役目のこと。いささか乱暴に言ってしまうと、プロテスタントではこの「”神から与えられた役目”である天職に力を尽くし成功をすることができれば、それは神によって救われる (可能性がかなり高い)」と解釈している (宗派によって違うため、あくまで”ざっくり言えば”であることは承知して頂きたい)。
したがって、プロテスタントにおいては「欲望のためにお金を稼ぐ」のは忌避すべき行為だが、「神から与えられた役目を正しく懸命に行い、その結果お金を稼ぎ、財をなす」のは正しい行為だと解釈される。

”勤勉さ”が近代を作った

この天職に代表される「神から与えられた役割に邁進することこそが正しい行いである」という考えから、近代的な倫理観・・・すなわち倹約に努めてお金を溜めること、規則正しい生活を送ること、時間を守り有効に活用するといった倫理性が生まれてきたのである。
現代においては、時間を守ることの大切さや、仕事や学業に真面目に取り組む勤勉さは当たり前の倫理観として植え付けられている。しかし、近代以前においては全く当たり前ではなかった。これらは近代以後に生まれた価値観の賜物であり、この倫理観こそが資本主義が発展する基礎となったのだ。このことをヴェーバーはプロ倫において証明したのであった。

かつての日本人には時間を守る習慣はなかった

では、日本ではどうであったのか。
山本はこのヴェーバー日本人にもこのような価値観の転換、すなわちプロテスタンティズムが引き起こしたような倫理観の転換が、日本にも存在したのではないかと推測する。この点に関しては山本の強引な見方があるかもしれないが、無理矢理なこじつけとも言い切れない。

たとえば時間を守ることを例に挙げてみよう。
幕末に日本を訪れたイギリスの外交官アーネスト・サトウなどは、日本人がいかに時間を守らないかを嘆いている。また、昨年の大河ドラマで有名になった渋沢栄一も「論語と算盤」の中で、アメリカ人から日本人が時間を守らないことを厳しく批判されたことを書き記している。
今でこそ日本人の時間の正確さは驚嘆すべきものであるが、それは元々備わっていたものではないのだ。あくまで、明治初期に西洋諸国が発展した理由を研究する中で、彼らの時間を守り、規律正しく働く勤勉さの重要性に気づいた政府がさまざまな工夫を凝らした結果、今の日本人の「時間を守る」という倫理観が定着していったのに過ぎないのである。
そのように考えれば、ヴェーバーが論じたプロ倫的な価値観の転換が日本にも存在したのではないかという山本の推測も一理あるといえるだろう。

日本人の職業観の祖、鈴木正三

では、山本は具体的に日本の歴史のどこにそのような価値観の転換点を見出したのであろうか。
それが戦国時代末期から江戸時代初期の期間であり、西洋のプロテスタントに当たるのが戦後時代末期の鈴木正三 (すずき しょうさん)という禅僧と、江戸中期の石田梅岩 (いしだ ばいがん) という思想家、そして彼らによって生み出された「石門心学 (せきもんしんがく)」という思想/価値観である。鈴木正三はもともと徳川の武将として活躍した人物であったが、戦国時代の終焉とともに僧侶に転じた。長い間続いた戦国時代に疲れ切った当時の人々は、安心して暮らせる平和な世とともに、新しい時代での生き甲斐を熱望していた。その時代要請に応えるために鈴木正三が展開した理論が「四民日用 (しみんにちよう)」という宗教観であった。
細かい解説は本書に譲るが、大雑把に言えば「農民なら農業、手工業者なら手仕事・・・と、誰しもがそれぞれの職業に日々まじめに取り組むことで、仏への道が開かれ、平穏な暮らしを手に入れることができる。」と説いたものである。

結果としての利潤を肯定した石田梅岩

もう一人の石田梅岩は江戸中期の人物である。
いわゆる”商家”で奉公人として長年、現代の”サラリーマン”に近い形で仕事をしていた。そういう意味では市井の人であったのだが、とてつもない読書家だったようで、それが高じて思想家へと転身する。
彼は鈴木正三の「四民日用」という思想に感銘を受け、より江戸時代に受け入れやすい形に読み替えることで発展させた。鈴木正三の時代はいわゆる”中世”の時代であり、神仏の救いという宗教的な価値観から議論が展開されていた。しかし、石田梅岩の時代はすでに戦国時代のような血で血を洗うような抗争はなくなっている。そのため梅岩は、より実利を志向した生き甲斐、やり甲斐を成し遂げるための実践的なアプローチとして、「四民日用」を読み替えていったのであった。特にそれは商売的な成功に関して大きな価値観の転換を行うものだった。

現代でも同じような感覚は残っているが、江戸時代には商売的な成功はまだ”卑しい行為”であると見なす考えが強かった。梅岩も必要以上の利益を得て、それを浪費することは否定している。それは社会の秩序を乱すことになるからである。
だが、商売的な成功そのものは決して卑しいものではない。むしろ周りの人たちのために誠実に仕事に取り組んだ結果として得たお金は尊いものであるとして肯定したのだった。これはまさにプロテスタントにおいて、天職に取り組んだ結果として得た利益が肯定されたのと同じ文脈であると言えるだろう。
山本七平もまたこの点から、鈴木正三と石田梅岩が生み出した
・「四民日用」という職業観、すなわち”自分に与えられた仕事を粛々とこなしていくことこそが、人が歩むべき道である”という倫理観
・必要以上の利益を欲せず、浪費をせず、倹約に励むという生活態度
これらが相まって人々に浸透することで、日本人的な資本主義的倫理観・・・つまり自分の仕事に懸命に取り組み、規律を守り、お金を浪費せずに財を成すことを奨励する価値観を生み出したのだと主張している。

日本人にとっての正しさの根拠とは何か。

ここまで見てきたように、山本七平は西洋におけるプロテスタンティズムの働きを参照しながら、日本においても「四民日用」という職業観が日本における資本主義的精神の発生に大きな影響が与えたと主張している。
だが、ここで疑問に思うのは、仮に山本の言う通りだとしても「日々の仕事に打ち込むことが正しい道である」と信じる根拠はどこにあるのか? ということである。
キリスト教の場合は話が簡単だ。「それこそが神によって救われることの証明になるから」という根拠があるからだ。すわなち西洋社会では”唯一絶対神の存在”が資本主義的倫理観の前提となっているのである。
だが、日本は違う。ほとんどの日本人はそのような絶対神の存在を前提とした世界観は持ち合わせていない。
では、何を根拠にして「四民日用」的倫理観が正しいものだとして、日本社会に浸透したのだろうか?
山本はそれを「共同体」にみている。

なぜ日本人にとって共同体が重要なのか

共同体と一言に言っても、それはさまざまな形態がある。
最小の形態は家族であろうし、最大の形態は国家であろう。当然その間には親戚や幼少期からの友人たち、サークル仲間、あるいは現代であればオンラインゲームの仲間など、様々な共同体の形式が認められる。どのような人間であっても、規模の違いはあれど必ず何かしらの共同体に属しているものである。
このような共同体への帰属は日本に限った話ではなく、世界中の誰にでも同じことが言えるはずだ。だとすれば、なぜそれが日本人の倫理観の基準となるのだろうか。この点についても山本はキリスト教との対比で考えている。
先ほども述べたように、西洋社会ではキリスト教のような”唯一絶対神”を前提としており、一人の人間は個別的に神とつながっている。しかし、日本ではそのような世界観を持っていない。この違いが明確に現れるのが「契約」に関する考え方だ。
我々日本人は契約と言えば「ある人と別の人が取り交わす約束」だと考えられている。だが、これは実は日本人に特殊な考え方である。
キリスト教のみならずイスラム教でもそうなのだが、一神教の世界では「”契約”は”神と人の間”で行われるものであって、人と人の間で行われるものではない」のである。あくまで人が神との契約を履行することで、”結果として”ある人と別の人が約束が遂行されたように見えるのである。これは似ているようであるが、全く異なるものである。
一神教の世界ではすべてにおいて神と個人との契約が前提となっているが、日本人の場合はある人は別の誰かと直接契約を結ぶのであって、そこに神の存在が入る余地はない。だからこそ、ある人が別の人との付き合うにあたっては、「その人がどのような人であるのか」が重要であり、その裏付けとして「その人がどのような共同体に属しているか」が大きな意味を持つのである。
これはすなわち「所属する共同体こそが、その人の価値や意味を左右する」ということを意味する。共同体がその人の保証人としての役割を果たすと言っても良いかもしれない。

日本人の倫理観の根幹としての”共同体”

このような構造ゆえに、日本人の世界観においては”共同体”の性質、そしてその維持は非常に重要な役割を果たす。それ自体が自らの人生を左右する存在となりうるからである。
このような共同体を「維持すること」、あるいは「共同体に自分を受け入れてもらうこと」が日本社会で生きていく上では非常に重要となる。それはあたかもキリスト教の世界において、神に自らの存在を認めてもらえるかどうかというような、自己の存在の根幹に関わることである。
だからこそ、日本社会においてこの”共同体”が、キリスト教における神のように倫理観の基準となり得る。「”神の御名において”正しい行動と言い切れるかどうか」が、すわなち日本では「共同体において認められる行いかどうか」という行動基準に相当するということである。

つまり山本の論によれば
「共同体という日本人の倫理観の根幹に照らし合わせて、日々の仕事に懸命に取り組み、私欲に溺れず、共同体の存続・発展に資することこそが人間として正しい道である。
そして、このような倫理観の下で日々の生活を行うことこそが、日本において資本主義を発展させた精神のあり方である。」
という結論が得られることになろう。
日本人がより善く働くためには何が必要かここまで山本七平の論に従って、日本人がなぜ一生懸命働くのか、その理由について考えてきた。その理由を敢えて一言で言ってしまえば「日本人は自分のためではなく、共同体を維持、発展させるために目の前の仕事に取り組むことこそが正しい行いだと信じているから」と表現して良いだろう。そして、このことは多くの人にとっても合点が行く結論ではないだろうか。
安い賃金で、過酷な労働環境におかれても真面目に働き続ける人が多いのは、まさにこのような職業観が根ざしているからだと思う。
「人はパンのみにて生くるものにあらず。」とはイエス・キリストの言葉であるが、実際人は物質的、金銭的な満足を得さえすれば良いというものではない。物質だけではなく、精神的に満たされることを求めて生きる存在であり、日本人においては、共同体がその役割を果たしているのである。
では、このような日本人の特性を前提として、いかに私達は働くべきなのだろうか。どのようにすれば日本人は幸せに働けるのだろうか。
この点については本書を是非手にとって頂きたいところだが、敢えて簡単に言ってしまえば、「自分が所属する共同体を大切にし、自らの役割をしっかりとこなすことは重要である。だが、それは共同体に従っていれば良いということではない。共同体の価値観を大事にしながらも、自分の頭で考え、悩み、自らの意思で一つひとうの決断を行っていく。そのバランス感覚を養うことこそが重要である。」ということではなかろうか。

当たり前のこと過ぎてがっかりさせてしまったかもしれない。
だが、たとえ得られた結論がありきたりのものであったとしても、自らが立脚する世界観がどのようにして成り立ってきたのかについて、調べ、考えることは決して無駄ではないだろう。少なくともこの本には、私達日本人にとっての「働くことの意味」を改めて考えさせる力が込められていると私は思う。というわけで、今回ご紹介した本はこちら、山本七平著「日本資本主義の精神」でした。
長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(_ _)m

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宿命に立ち向かう人間の美しさを描く、NHKドラマ「カムカムエブリバディ」。

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自他ともに認める”三度の飯より読書好き”の私が珍しくNHKの連続テレビドラマを毎日観ている。我ながら驚くべき事実である(笑)。
そのドラマの名は「カムカムエブリバディ」。

今作の特徴は何と言っても主人公が祖母(上白石萌音)、母(深津絵里)、孫(川栄李奈)と3人が交代して、昭和初期〜平成という長く濃密な時代を描くという点にあるだろう。


正直なところ、私は最近までこの作品のテーマは
NHKが自社のラジオ英会話番組を宣伝すること
・日本政府が進める英語教育の援護射撃をすること
だと考えていた。
それが狙いであることは実際間違いないと思っているが、どうもそれ以上に深いテーマが描かれていることに今更ながら気づいた。
私のブログでは99%が書籍のレビューだが、今回は番外編としてこの「カムカムエブリバディ」というドラマが描く”あるテーマ”について語ってみたい。
そのテーマとはズバリ”宿命”である。

「宿命」とは何か

 

そもそも「宿命」とは何だろうか?

 

宿命という言葉はもともと仏教の用語で「生まれる前から決まっている運命」という意味である。「運命」と近い意味合いだが、違うのは「宿命」には何か自分の力では乗り越えられない大きな力が働いているというニュアンスがあるところだ。

 

たとえば「運命を切り開く」とは言われるが、「宿命を切り開く」とは言わない。運命は自分の力で乗り越えることができるが、宿命はもっと神がかり的な力で方向づけがされているという意味合いが強いため、いわば”逃れられない運命”のような言葉であると言って良いだろう。

宿命に生きた三世代の主人公

本番組「カムカム・エブリバディ」は、まさにこの意味において”宿命に生きた人々”を描いた物語である。

 

初代ヒロインの”安子(上白石萌音)”は、第二次世界大戦というまさに一人の人間の力ではどうしようもない時代において、夫を失いながらも、家族や娘への愛を支えに必死に生き抜いた。

二代目ヒロインの”るい(深津絵里)”は、父親を戦争で失くし、母親からは捨てられたという辛い過去を持つ。さらには幼少時に不慮の事故で負った顔の傷によって、人との交流を極度に避けて生きるようになってしまった女性。しかし、そんな自分をありのままに受け入れてくれる大月錠一郎(オダギリジョー)という生涯の伴侶を得たことで、力強く戦後の時代を生き抜く。

三代目ヒロインの”ひなた (川栄李奈)”は、高度経済成長〜バブル後の不景気の時代に生きた女性。時代の中心的メディアとしてテレビが台頭する中で、すでに斜陽産業となりつつあった”時代劇”にほれ込み、その再興のために遮二無二に努力する。

 

生きた時代も環境も全然違うが、如何ともし難い環境の中で自分が信じる道を懸命に貫こうという強い意思を持っていることは彼女たちに共通して特性である。

主人公とともに宿命に立ち向かう脇役たち

如何ともし難い環境に立ち向かうのは、彼女たち三人のヒロインだけではない。

それ以外のキャラクター達もその多くが”自分の力だけではどうしようもない何か”を抱え、それを乗り越えようと必死に生きている。よくある表現を用いて彼らを表すならば「運命に翻弄されながらも必死に生きた人たち」ということになるだろう。だが、決定的に違うのは彼らが決して”翻弄されるだけではない”というところだ。

 

中世イタリアの政治学者ニコロ・マキャヴェッリが「運命」のことを”女神”と表現したように、運命はときに気まぐれに人々の人生を狂わせる。だが、同じくマキャヴェッリが述べたように「運命の女神は、積極果敢な行動をとる人間に味方する」のである。

 

このドラマのキャラクターたちは様々な運命のいたずらに翻弄され右往左往するだけではない。その運命をさまざまな葛藤の末に自ら受け入れ、その時々でできる最大限のことを積極果敢に行動する。そして、まさにそのような運命だったからこそ得ることができるかけがえのないもの (家族や誇りなど) を、手にしていく。

それは”運命に翻弄された人間の悲劇”のではなく、”自らの宿命を受け入れて懸命に生きる人間の美しさ”を表現していると言えるだろう。

心に残った神回

このドラマには本当に良いシーンが多いのだが、中でも深く印象に残っているシーンがある。それは桃山剣之介という時代劇俳優が人生の中でもっとも大きな仕事を終えた直後、三代目ヒロインの“ひなた”と会話するシーンである。

 

この回の前後では、尾上菊之助が演じる時代劇の超人気俳優「桃山剣之介」という人物が、長年抱き続けた苦悩とそれを乗り越えるシーンが描かれる。

この桃山剣之介というのは正確には”二代目”桃山剣之介であり、自分の父親が”初代”であった。彼が抱えていた苦悩とは初代である父親が遺作となる映画で、息子である自分を配役から外したことであった。

世間では、二代目が当時すでに斜陽産業となりつつあった映画を捨て、テレビというメディアに活躍の場を移したことに対する初代の嫌がらせだと噂されていた。二代目は初代と最後に交わした会話から、そんな子供じみた嫌がらせではなく別の意図があったことを感じ取るが、それが明確にならないまま初代はこの世を去ってしまう。

表向きは「超人気俳優」だが、実は亡くなった父親の真意という「永遠に見つからない答え」を探し求めてもがき続ける、それが二代目・桃山剣之介の姿であった。

 

詳しい内容は省略するが、結果として二代目は初代の内にあた「俺の下で学んでいるだけでは俺を超えることは永遠にできない。本当に俺を超えたいのなら、単なる“二代目・桃山剣之介”ではなく、“自分だけの桃山剣之介”を作ってみせろ。」という、“息子の未来を思い、信じているからこそ敢えて配役から外した”のだという真意を悟ることになる。

そのシーンに三代目ヒロインのひなたが深く関わることになるのだが、その時に桃山剣之介がひなたに掛ける言葉が私の心に深く突き刺さった。それは

「人は志さえあれば、何にでもなりたいものになれるのですよ」

という言葉だ。

人は何にでもなれる。だが、貴方は貴方にしかなれない。

私はこの言葉を聞いた時、”批評の神”と言われた小林秀雄という批評家のある言葉を思い出した。それは次のような言葉である。

人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれてくる。彼は科学者にもなれたろう。軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、しかし彼は彼以外のものにはなれなかった。これは驚くべき事実である (小林秀雄「初期文芸論集」P14)

ここで述べられる科学者、軍人、小説家というのは、単なる職業というよりも人が選ぶことのできる”生き甲斐”あるいは”生きる意味”と解釈するべきものだろう。人は本人が心から望むのであれば、そのようなさまざまな”生きる意味”を自分の人生に見出すことができる (これは「職業として成功する」といったような意味ではないことに注意)。
しかし、人がどのような「生きる意味」を選ぼうとも、それを選ぶためにはそもそもそ彼が彼として存在していなければならない。それはまさに「彼は彼以外のものにはなれなかった」という宿命のことである。
これは一見、桃山剣之介のいった「志があれば何にでもなれる」とは逆の意味のように思われる。しかし、それは「何にでもなれる」という言葉を、職業や肩書などの人から認識される際の区別の様式として捉えることから生じる誤解である。

ストーリーを追っていくと分かるのだが、実はヒロインのひなたが子供の頃、桃山剣之介に「私は侍になりたいんです」と告げ、それに桃山剣之介が「志があればきっとなれますよ」と応えるシーンがあった。
この場合、ひなた自身はいわば職業のような意味合いで「侍になる」と言ったのだが当然昭和の時代になって侍になどなれるはずがない。ではなぜ桃山剣之介は「志があればきっとなれる」と言ったのだろうか?
それは「侍」という職業ではなく「志があれば、侍のような生き方はできる」と人生観の言葉として「侍」を語ったのだ。
人は自分以外の何者かになることはできない。そうであれば、自分があるべき姿とは何かを問い続けることで、自分が存在する意義をきっと見出すことができる。小林秀雄も桃山剣之介も発する言葉が裏返しになっているだけで、実はその伝えようとしていることは同じことなのである。

現代ではよく「何歳になっても遅くない。なりたいものになれるんだ。」と言われる。
二代目・桃山剣之介もまた、この世に生を受けた瞬間には、確かに時代劇俳優以外の何者かになる可能性を持っていたはずである。だが、初代・桃山剣之介の下に生まれ、その置かれた環境の中で育つ内に彼は「二代目・桃山剣之介」以外にはなれないことに気づく。
それは決して“職業選択の自由がない”というような薄っぺらい近代的イデオロギーの話ではない。
父親に憧れ、自らも鍛錬を行っていく中で、そうなることが“自然”であることに気づく。そしてその自然と自らの意思を調和させることで、彼は二代目・桃山剣之介という自らの“宿命”を主体的に受け入れる。ここで初めて彼の生きる意義が成立するのである。桃山剣之介の「志があれば何にでもなれる」とはそのような意味で捉えるべきものであろう。

人は裸で生まれてくるのではない。
この「カムカムエブリバディ」に登場する人物たちのように、誰もが生まれた時から人は何かしらの宿命を背負っている。そして、どれだけ強く望もうとも「彼は彼以外にはなれない」という宿命を受け入れ、自らの意思でその人生を歩むのだ。

宿命を受け入れたとき人生は輝く

だが、それは決して絶望するべきことではない。

その宿命を受け入れ、むしろ「自分がその道を選んだのだ」と自覚的に生きる時、その人の人生は燦然と輝き始める。このドラマの中で度々取り上げられる、ルイ・アームストロング作曲のジャズのスタンダード・ナンバー”On the Sunny Side of the Street. (ひなたの道で)”で生きる人生を歩むことができるのだ。

このドラマで描かれるテーマは、まさにそのような人生讃歌である。

 

放映終了まであと1ヶ月程度。本編はすでに数十年に及ぶ登場人物たちの伏線回収の段階に突入している。今から見始めてどこまで楽しめるのか分からないが、それでも宿命に立ち向かう人間の美しさの片鱗を味わうことはできるのではないだろうか。

 

自分の力だけでは何ともならない様々な状況に追い込まれている人が数多くいる現代にこそ、一人でも多くの人に観て欲しい作品である。

 

という訳で、今回ご紹介したのはこちら。

NHKの連続ドラマ「カムカムエブリバディ」でした。

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m

アインシュタインはなぜバイオリンを弾いたのか?脳と音楽の不思議な関係

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世界中の誰もが知る物理学の天才アルバート・アインシュタイン

だが、彼がヴァイオリンの名手だったことを知る人は意外と少ない。アインシュタインはバッハやモーツァルトなどのいわゆる”クラシック音楽”を非常に好み、ヴァイオリンの演奏もかなりの技術だったという。また彼の妻 (工科大学でアインシュタインと同級生だった) もピアノが堪能で二人で演奏を行うこともあった上、その息子もまた幼少期よりピアノに親しんだという (ちなみにその息子もハーバード大学で工学部の教授を務めた)。

一見するとアインシュタインの物理学的な才能と音楽には何の関係もないように思える。「いかな天才でも趣味の一つくらい持っていても不思議じゃないだろう」。そう一笑にふす向きもあるだろう。

だが、むしろこの音楽に親しんだということこそが、アインシュタインのような天才的な頭脳を作る可能性があるのではないかとする、音楽と脳の関係性について書かれた本がある。

それが今回紹介するこちら

大黒達也 著「音楽する脳」

だ。

 

 

 

音楽を数値化したピュタゴラス

音楽が子供への情操教育、あるいは成人してからの趣味として重用されるのは周知の事実だが、基本的にはその文化的な側面からの評価しかなされないことが多い。
だが、実は音楽とは無縁と思える自然科学分野の歴史を見ると、自ら音楽演奏したり、音楽に造詣が深い人物が数多くいる。特に有名なところでは、高校の数学でも教えられる「三平方の定理」を発見した古代ギリシャ哲学者のピュタゴラスだ。

古代における哲学は現代のような「思想を語る学問」ではなく、科学や数学、音楽などの多岐にわたる”総合学問”だった。そしてそれは宇宙がどのように成り立っているのかを探るためのものであった。

そのような時代にピュタゴラスは当時”リラ”と呼ばれた竪琴において、その弦の長さと音の美しさに法則性があることを見出し、その原理を数学的に証明した (彼が考案した音楽理論は現代の理論にも引き継がれている)。音楽をすることが科学とは未分化であった時代において、その音楽の調和を数学的に明らかにしたことで、彼は「音の調和が数学的に説明できるのであれば、この宇宙の調和をも数学で説明できるはずだ」と信じ、その思想に共感した多くの人達が彼の下に集まったのであった。

いわばピュタゴラスは、音楽という目には見えないが人の心を捉えて離さない”美しいハーモニー”の秘密を数値によって解析することに成功した初めての人物だったのである。

その意味で本書もまた、ピュタゴラスから連綿と引き継がれる科学的アプローチによって音楽を解析するという挑戦に連座するものである。そして、著者が本書で取り扱ったアプローチ、それは本書のタイトルにも表れている「最先端の脳科学」である。

音楽の2つの視点:「脳科学」と「文化」

本書は最先端の脳神経科学の知見に基づき、音楽と脳の関係について解説を行う。たとえば

・音楽を聴くと脳がどのような影響を受けるのか

・音楽を演奏する時、演奏者の脳はどのように活動しているのか

といった内容である。

この記事では、まず音楽を「聴く」「演奏する」という観点での脳と音楽の影響について、本書の仮説を紹介したい。これは音楽の影響を「科学的な側面」から語るものであり、音楽を実際に演奏する私自身にとっても「そう説明されれば確かにそうだな」と合点がいくところも多い。

とは言え、「音楽がどのように脳内で作られ、どのような影響を持つのかを、脳科学で説明できる」と言われても、実際に音楽に携わる私としてはどうも釈然としない。

そこで本書の仮説が脳科学の面から一理あることを認めつつも、音楽に携わる人間の経験から脳科学の理論だけでは説明できない音楽の文化的な側面を語ってみたい。

秘密は脳の「統計学習機能」

まず、一言に脳科学といってもさまざまな分野がある。たとえば人工知能的な分野や、生理学的な分野などだ。本書での著者の視点は脳の学習ネットワークとしてのものであり、人工知能研究的な”いかに人間の知能は発展するのか”という研究の成果が基盤になっている。

中でも著者が注目しているのは「統計学習」という脳の機能である。この「統計学習」について著者は次のように説明している。

人間の脳には『統計学習』という、情報の統計値を無意識に計算して記憶するメカニズムがあり、特に、情報の統計的な「複雑さ (不確実性)」を計測するメカニズムがあると言われています。(P51)

昨今流行りのAI(人工知能)関連での脳科学の研究では、脳の存在意義を「未来を予測するため」だと考えられており、この脳の機能自体は以前から知られているものである。

著者の統計学習は人間が意識していない無意識の領域に置いて、不確実性の高い要素を計測するメカニズムが脳に組み込まれており、それが人間が音楽を創造したり、理解するために重要な意味を持っているというのである。

 

不確実性とは将来の予測が難しい性質のこと。たとえばサイコロの目を予測するのも、サイコロの面が多くなればなるほど予測が難しくなる・・・つまり不確実性が高まるということだ。

よくよく考えてみれば、私たちが生きる現実社会は不確実性で溢れている。一寸先は闇と言うが、その言葉通り私たちは数分先の未来を予測することさえ難しい。そのような環境変化に対していちいち意識的に思考していれば、脳の予測が間に合わない。事態の切迫度によってはその逡巡の間に死んでしまうかもしれない。そのため「私たちの身のまわりで起こるさまざまな現象・事柄の『確率』を自動的に計算し、整理する」(P83)機能が備わっている。それがこの統計学習である。

著者によれば、音楽の発達はこの統計学習による脳の発達とが深く関係しているという。

「脳」と「音楽を聴く」ことの関係

統計学習は近い将来に起こる事象の確率を計算する機能であるが、その精度を高めるためにはより多くの情報、より新しい情報が必要となる。つまり「脳は新しいもの」を欲するようにできているのである。その意味で音楽は脳の欲求を満たすのに適した素材だと言えよう。なぜなら人は音楽にも「新しさ」求める傾向が強いからだ。

もちろん、いわゆる”懐メロ”と呼ばれる曲のように、次の展開が予測でき、その通りの展開が来るからこそ興奮が増す (俗に言う”テンションが上がる”状態) こともある。だが、特定の音楽にしか接していると、不意に訪れる”飽き”を感じたことは誰しもあるだろう。その場合誰もが新しい音楽との出会いを求めるのだが、とは言えこれまで全く接したことのないような極端なジャンルへ転換も難しい。そこでほとんど人が経験するのは、「同じアーティストの別の曲」あるいは「同じジャンルや系統のアーティストの曲」を聴いてみるという方法だ。

この「全く同じではないが、少し違う」という”半歩ずらし”こそが、実は脳の統計学習機能にとって非常に効果的なのである。

今までの経験から全く類推できないような事象は、脳にとって単なるノイズでしかないか、あるいは興味の範疇にすら入らない。だが、ある程度親しみがあるが今までとは少し違う展開が見られる場合、すなわち完全に予測することができず”少し不確実性が高まった刺激”である場合、それは統計学習機能が発達する絶好の栄養素となるのだ。

このような統計学習という脳が持つ機能に対応する形で音楽は発展してきたし、脳もまた音楽の発展に同調する形でより深い思考ができるようになったと言えよう。

これが”音楽を聴く”という観点で見た脳との関係である。

脳と”楽器を演奏すること”の関係

では、冒頭で紹介したアインシュタインのように「音楽を演奏すること」と「脳」との関係はどうなのだろうか。この点においても、著者はやはり脳の統計学習という機能が重要な役割を果たしているという。

楽器を全く演奏したことのない人にとって、楽器を弾ける人が指や手足をバラバラに、しかも物凄いスピードで動かすことに驚嘆し、「自分には絶対にできない。演奏家には特別な才能があるに違いない。」と思うだろう。

だが、実はそんなことは全くない。

実際、私は高校生の時にドラムを始めるまでほとんど音楽に興味がなく、音楽の授業も大嫌いだった人間である。当時ドラムの教えを乞うていた先生にさえ「君には全くセンスがないから、止めた方が良い」と宣告された苦い思い出があるほどだ。そんな私ですら4〜5年みっちり鍛錬を積んだ成果で、プロのミュージシャンと共演することができる程度のレベルに達することができた。

確かに成長する速度や(究極的に突き詰めたレベルでの)センスの違いはあるだろう。

だが、私自身がその例であるように、誰でも訓練することによって楽器をある程度演奏することは可能だ。そのように”脳が成長するから”である。

 

例えば、脳の記憶処理の一つに「作業記憶 (ワーキングメモリー)」というものがある。

これは様々な情報を同時に並べ替えたり、組み合わせたりする記憶のことで、黒板に色々な情報を書き並べて作業しているようなもので「心の黒板」とも言われる (本書P154)。最近の研究では音楽を演奏する人はこのワーキングメモリーがより発達していることが分かっている。つまり、黒板の面積がより広くなっているようなもので、同時に複数の物事を考えたり処理したりする能力が、音楽を演奏しない人よりも優れている傾向があるのだ。

また、脳の中でも人間の理性を司る部位と言われる「前頭前野 (ぜんとうぜんや)」には、自分の意思で何かを計画し、それを実行に移し、反省することで今後の計画や行動に活かす”実行機能”という力があると言われている (本書P156)。

音楽は多くの場合、ある程度制限を課せられた状況 (テンポ、曲のイメージ、他の楽器とのハーモニーに合わせた演奏を求められるなど) の中で、自らの判断し、実行することが必要となる。この環境制約に応じた目まぐるしい思考を繰り返すことにより、前頭前野においても音楽を演奏する人の方がより有意な発達が見られるとのことである。

 

このように音楽は”聴く”、”演奏する”、どちらの観点から見ても脳の発達を促す効果を持つことが最近の研究で明らかになっている。著者はこのような音楽と脳の関係性を説明した上で、教育あるいは認知症脳卒中などの脳疾患へも効果がある可能性を示し、音楽をより広い分野で活用することを本書で提言している。

音楽と言えば昔から趣味や娯楽といった、いわゆる”エンターテインメント”の側面のみが強調されることが多い。だが、著者のような脳科学分野での研究によって、音楽の可能性が広がっていく様は、音楽に携わる人間の一人として非常に嬉しく、心が踊らされる。

脳科学」というと何やら難解そうなイメージだが、著者は素人にもわかりやすいように非常に丁寧に説明しており、門外漢にも親しみやすい内容となっている。是非多くの人に手にとって欲しい一冊である。

 

音楽は「脳」から創られるのか?

ここまで本書で紹介されている「脳と音楽の関係」について紹介してきた。

脳と音楽がお互いに影響を与えながら発展してきたという著者の仮説は非常に興味深い。最新の脳科学の研究結果を踏まえれば、実際そのような発展の系統は存在するのであろう。

だが、私は自分が音楽に携わる者として、やはり自分が感じるある違和感を吐露せざるを得ない。率直に言えば「音楽は個人の”脳”という器官が創り出したものではない」ということだ。

 

著者の仮説に従えば、私たちは「脳という器官が身体に指示を出すことによって創り出している」ということになる。これはすなわち音楽が“人の頭の中”で創り出されるているというのと同義である。だが、これが現実を正確に表現したものでないことは明らかだ (「一理ある」とは言えるが)。それは実際の音楽制作の現場を見れば一目瞭然である。

一つの曲を作り上げる時、演奏家たちは“言葉”によって密接なコミュニケーションを取りながら、曲を少しずつ磨き上げている。それは時には罵倒し合うような激しい感情の衝突さえ生むものであり、「作曲家から演奏者へ」というような一方向的なものではない。音楽とは、その場にそこに集う人たちのコミュニケーションによって、少しずつ形作られていくのが実際のである。言うなれば音楽とは「創り上げられるもの」というよりも「生まれてくるもの」なのだ。

このことは音楽の現場を知っている者にとっては当たり前の事実であり、自らも音楽を演奏する著者であれば知らないはずはない。ではなぜそのような現場の実態をスルーして、「脳という器官が音楽を創り出す」という説を著者は提示するのだろうか。

それは恐らくその矛盾に整合性を持たせているのが統計学習という”無意識”の脳の機能であろう。

つまりこういうことだ。


「確かに音楽は音楽家のコミュニケーションの中で生まれる。だが、そのコミュニケーションとは ”言葉”を使った意思疎通であり、”言葉”もそもそも人間が創り出した道具である。そして、この道具自体もまた統計学習という人間の無意識の機能によって作られ、磨き上げられてきたものである。
したがって、”言葉”という(無意識の産物である)道具を使って意思疎通を図りながら音楽が生まれるのならば、結果として音楽も無意識によって創り上げていると言っても問題ないではないか」と。

 

著者がこのように音楽や言葉を道具だとみなしていることは、本書の中で次のように述べていることから間違いない。

「(人間は生まれた環境によってさまざまな言語を操るという文脈のなかで) どんなに違う言葉であっても、コミュニケーションのツールとして、自分の気持ちを人に伝え理解してもらうための手段として用いるという目的はみな共通しています。」
「言語はそもそも人間の知恵によって生まれたもの」
(上記とも本書P237)

その上、著者は「心はもっと複雑で、本来完全に言葉で表現することができないものです。その反面、音楽は・・・真の心の中を直接的に表現することができる」と述べている。

だが、本当にそうだろうか?

音楽は心のうちを表現できない?

たとえば、19世紀に活躍した音楽評論家にエデュアルト・ハンスリックという人物がいるが、彼はその著書「音楽美論」の中で音楽は感情の上昇や下降といった動きを瞬間的に模倣することはできるとしながら、それでも音楽自体は「いかなる感情も、いかなる情景も、絶対に表現することはできない」と述べている。
言い換えればこういうことだ。
確かに音楽は音量やスピード、旋律の運びによって”感情の動き”や”情景の美しさ”を「模倣すること」は可能である。だが、それは模倣によって自分以外の他者に何かしらの感情を呼び起こすことができるというだけで、”感情や情景それ自体”を表現しているわけではないのだ。

音楽は共有された世界観から生まれる

音を通じて他者に何かしらの感情を喚起することが音楽であるならば、演奏する者とそれを聴く者の間に、文化や社会的価値観、あるいは時代性といったある一定の世界観が共有されていなければならない (極端に言えば、4000年前の人類に現代の音楽を聞かせても、何の感動も引き起こさないだろう。それは4000年前と現代では世界観が異なるからである)。
音楽とはそのような世界観や時代性といったものが演奏者と聴衆の間に共有されていることを前提として、音を使って行われる何かしらの芸術の形態である。だとすれば、やはりそれは「演奏者の心の内を表現した」といったものではなく、演奏者と聴衆が共有する世界観、あるいは彼らの相互的なやり取りの中で”生まれ出てきたもの”でしかあり得ないだろう。


もちろんこの場合の演奏者と聴衆の相互的なやり取りとは、ライブ会場での演奏のような物理的で直接的なものだけを言うのではない。CDにせよ、ダウンロード用コンテンツにせよ演奏者は自分が想像する”私の演奏を聴いてくれる人”を思い浮かべながら、彼らに届けたいという思いを乗せて演奏するのである。一方の聴衆もまた、そのような演奏者の姿に想像を馳せながら、彼の届ける音楽を耳にするのである。
音楽とは決して「演奏者が自分の心のうちを表現するための道具」ではないのである。

まとめ

著者が本書で紹介する統計学習という脳の無意識の機能によって、音楽が発展してきたという仮説は非常に面白い。実際ある側面においては、そういった分析は正しいのだろう。
また、そういった音楽がもたらす脳への影響を活用することで、脳の機能に障害がある人の力になることができるのであれば、それは社会的にも非常に有意義なものであることは間違いない。
だが、その一方でそれは音楽の機能をすべて解析できるということを意味するわけではないことにも留意すべきである。音楽が他者との関わり合いの中で生まれることを鑑みれば、決して”科学”にすべてを還元することができない神秘性を持つことも心に留めておくことも重要である。
そのような敬虔な態度こそが、私たちが音楽という芸術を心から楽しむためにとても大切なことではないだろうかと思う。

 

 

という訳で今回ご紹介した本はこちら

大黒達也 著「音楽する脳」でした。

 

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m

覇権戦争からは誰も逃れられない。荒れ狂う世界を知る上で必読の書、中野剛志「変異する資本主義」。

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経済産業省の現役官僚であり、評論家でもある中野剛志。

この人の放つマジックはいつも私を困らせる。

そのマジックとは、どんな本でも「タイトル」「目次」「まえがき」「あとがき」をチェックしてから買う私だが、”中野剛志”という名前が書いてあれば、自分でも気づかない内に購入させてしまうのである(笑)。

おかしい。

なぜこのような奇怪な現象が起きるのだろうか・・・。

自問自答になるが答えは分かりきっている。

ズバリ、中野氏の著作には100%ハズレがないからである。

人間の目とは対象が大きすぎるとその全貌がつかめないものだ。それどころか眼の前にある存在にすら気づけない。ところが、中野剛志氏の著作はこのような”存在すら気づかない”、もしくは”目の前にあるのに全貌すらつかめない”。そんな壮大なテーマを国内外の最先端の知見を紹介しながら、さまざまな角度から分析を行い、それぞれが持つ奥深さと現実、そしてそれが未来に対してを持つ意味を丁寧に解きほぐしてくれるのである。

今回紹介する著作「変異する資本主義」もまたそのような作品である。

 

 

 

そもそも”資本主義”とは何か?

45万部を超えるベストセラーとなった斉藤幸平の「人新世の資本論」を筆頭に、岸田総理大臣が掲げる「新しい資本主義」など、昨今いろいろな場面で「資本主義」という言葉を目にするようになった。

※人新世の資本論については以前このブログでも取り上げました。

だが、そもそも「資本主義とは何か?」について明確に理解している人は少ない。これは経済学者においても同様で、語る内容や立場、世界観によって微妙に異なってしまうからだ。

 

通常「資本主義」と言えば、日本が高度経済成長期から現在に至るまで経験したような、ある特定の経済の形態のことだと考える人が少なくない。卑近な表現で言えば「お金儲け主義」「自由競争」、これが資本主義だと。だから、日本経済が長い間衰退し続けているのも、そのような”正しい”資本主義の形が崩れているから・・・つまり「自由な競争が行われてない」あるいは「お金儲けがうまくできないような規制がある」ということが原因であると考えられている。岸田首相が掲げる「新しい資本主義」もまた、そのような何か新しい「資本主義の形」を生み出そうという考えが前提として存在している。

だが、本書にいて著者は次のように言っている。

「資本主義とは経済変化の『過程』であり、時間とともに『変異』していくものである。そして、今、それは劇的な『変異』を遂げつつある」

と。

「新しい資本主義」は新しくない?

この著者の主張はジョセフ・アロイス・シュンペーターという経済学者の見解を元にしている。

シュンペーターは19世紀を代表するオーストリアの経済学者で、今では誰も知っている”イノベーション”という概念を提唱したことで有名である。彼は資本主義の本質を企業などの経済主体が利潤獲得のために、イノベーション (新結合) によって古い物を壊し新しい物を創造していく過程 (創造的破壊) にこそあるとし、資本主義は本来的に発展的・動態的性格を持つと説いた。彼のこの「新結合 (イノベーション)」と「創造的破壊」という言葉は、現代でも資本主義を語る上では欠かせない概念となっている (これらの言葉は本来シュンペーターが伝えたかった内容からひとり歩きしている向きがあるが、ここではそこまで踏み込まない)。

それほど資本主義という概念に影響を与えたシュンペーターだが、その一方で、資本主義と対義語として用いられれる「社会主義」に関しては、「生産過程の運営を何らかの公的機関に委ねる制度」という程度の緩やかな定義しか行っていない。いわゆる社会的平等だとか、民主主義的かどうかといったイデオロギー的な意味合いを排除し、純粋に「国家によって生産が運営される経済システム」という程度の考えにとどまっている。誤解を恐れずに言えば、資本主義の理念を語る上で、その対極に位置する物として社会主義を置いたものだと言えよう。

 

本書において著者は、そのシュンペーターの定義を元にしながら、現実の社会経済制度はこれら「資本主義」と「社会主義」の間をゆらゆらと動くバリエーションの違いであると捉えている。つまり、現実の世界の経済は、空にかかる虹の色が7色のグラデーションを描くように、資本主義と社会主義の間でゆらゆらと蠢いているものだと考えているのである。

そのように考えれば、最近取り沙汰される”新しい資本主義”とやらも、その言葉とは裏腹に特に革新的だとか、抜本的だとかそういったセンセーショナルな意味をはらんでいないことになる。そもそも資本主義とはそのようにゆらゆらと蠢くのだから、その”ゆらゆら具合”が多少大きいかどうか、その程度の話でしかないということだ。

「変異」が意味すること

注目したいのは、ゆらゆらと動く資本主義の姿を著者が「変異する」という言葉で表現したことである。

コロナ禍以降この「変異」言葉は頻繁に耳にするようになったが、よく似た言葉で「変化」という言葉がある。これらの違いは何だろうか。なぜ著者はこの本のタイトルを「変化する資本主義」ではなく「変異する資本主義」としたのだろうか?

これらの言葉の字義を考えれば

・「変化」とは、性質や状態が違う物に変わること

・「変異」とは、一つの起源の物に別の性質や形の違いが現れること

である。

より噛み砕いて言えば、「変化」とは一つの物が違う性質に変わっていくものである一方、「変異」とは起源は同じでありながら全く異なる性質に切り替わることである。つまり「変化」には(断続的であったとしても)その変わり方に流れがあるのに対し、「変異」は”突然変異”という言葉で使われるように、全く特質を持ったものに置き換わることである。したがって、「変異」の変わりようには別種の物に飛び移るような明確な断絶があると言えるだろう。

資本主義は”変異せざるを得ない”時

そのように考えると、本書のタイトルが意味するところは、資本主義とは従来持っていた性質や形態と断絶するようにして、突然その性質が変異するという資本主義の特性を言い表したものなのではないかと思われる。

では、なぜ資本主義にはそのような変異が起こるのか?

その答えもまた本書のサブタイトルにおいて表されている。

「The Capitalism.

That is rapidly mutating in the hegemonic war.」

日本語で言えば「資本主義。それは覇権戦争によって急激に変異している。」といったところだろう。

覇権戦争とは日本のみならず海外諸国を含んだ地球規模の”覇権”を巡る戦いのことであり、現下の状況を鑑みれば米中対立を中心として欧州、ロシアをも巻き込んだ国家間の争いのことである。この覇権戦争の渦中の中で資本主義は「rapidly mutating (急激に変異)」しているのであり、それは「新しい資本主義の構築を目指す」などという呑気なことを言っている状況ではない。まさに、全ての国を丸ごと巻き込んで吹きすさぶ猛烈な嵐の中で資本主義は”変異せざるを得ない”時代に世界は変わってしまっているのだという徹底したリアリズムに基づく警告。

それこそが本書の意義である。

全ては知ることから始まる

世の中には、「ビジネスがうまく行っていさえすれば、どの国も話し合いで妥協点を見出すことができるはずだ」と信じている人々が多い。それは日本人だけはなく、現代人だけでもない、かのイマニュエル・カントさえも「永遠平和のために」においてそのような社会を夢想した。だが、現実の社会はそのような姿にはなりえないことを、今の我々の多くが目の当たりにしているのではないだろうか。そして、資本主義というシステムもまた、その現実の中で生き残るために自ら変異を起こしている。

著者は本書において、その資本主義の変異を理解するために、経済学に留まらず、政治学社会学、さらに国際関係論など様々な社会科学的知見を活用し、現在世界で起こっている覇権戦争の様態を多角的に議論している。

その議論の果てに著者はどのような結論を下すのか。

それは是非本書を手にとって目にして頂きたいのだが、一つだけ著者の意図を理解する上で共有しておきたいことがある。

それは著者は「こういう問題があるから、今こそ日本はこのように行動すべきだ」というような安易な処方箋を提示することはしないということだ。本書を読めば現在の日本を取り巻く環境がいかに複雑であり、多義的な問題をはらんでいるのかが嫌というほど骨身に染みるだろう。そのような状況を”一発で打開するような奇跡の薬”は存在しない。これもまた歴然たる事実である。

重要なのは現在の姿を知り、それを理解すること。その上で、今我々にできることは何かを考え、議論することである。古い格言に「知は力なり」という言葉があり、本書もまたこれをモットーとして掲げている。まず何よりも重要なのは「知ること」である。そして、知れば知るほど「知が持つ力の強さ」をも知ることになる。

米中が覇権を争う現在の世界情勢。その嵐の中で日本が歩むべき道を考える上で必読の書だと言えるだろう。

 

 

という訳で今回ご紹介したのはこちら。

中野剛志著「変異する資本主義」でした。

今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございました。

 

浜崎洋介著、”批評の神様”小林秀雄の『人生』論は直観を信じる人生哲学だ。

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”批評の神様”の異名を持つ昭和を代表する批評家、小林秀雄 (1902年誕生。1983年没)。

今では当たり前となった(美術や音楽、文学など)何かの作品を”批評”するという行為を、日本語による近代的スタイルとして確立した人物である。文学に多少なりとも興味がある人であれば、その名を知らぬものはいない。

だが、それほど有名でありながらも、小林自身の評論を通読した人は少ない。なぜなら、小林の批評は非常に難解だとしても知られているからだ。理解するために必要な教養レベルも非常に高い。下手に手をつけても「何を言っているのかさっぱり分からない」というオチが待ち受けている。

 

そんな超難解な小林秀雄の人生論を文芸評論家である浜崎洋介氏が新書で発表された。

その名もズバリ「小林秀雄の『人生』論」。

浜崎氏は複雑な哲学的思考をわかりやすく噛み砕くのに非常に優れている。氏の解説であれば、難解な小林秀雄の思考もきっと私のような庶民にも近づきやすいものであろうと期待して、今作を手に取ってみた。

はてさて、その結末やいかに。

新書ならではのわかり易さと面白さ

というわけで、浜崎洋介氏による小林秀雄論。

「さぁ、聞かれてますよ。面白かったのか。面白くなかったのか。どっちなんだい? 」 (なかやまきんに君風)と問われれば

 

文句なしに面白かった

 

それが率直な感想である。

そもそも今作のような、小林秀雄という人物の人生を俯瞰して評論した「小林秀雄人生論」という試み自体が面白い。

なぜか?

小林秀雄の思想を論じた本や批評は数多くある。

しかし、小林秀雄の作品の難解さ故に、その思想に分け入ると枝葉末節とも言える詳細に囚われやすく、いわゆる「木を見て森を見ず」状態になってしまいがちである。だが、本書では敢えてそのような詳細に立ち入ることを極力控えている。その代わりに、明治末期から昭和中期という激動の時代に生きた小林の人生を、日本という国家が歩んだ道程を交えて概観することで、小林秀雄という人物が生きた意味・・・しかもそれが現代の我々にとってどのような意味を持つのかを、丁寧に分かりやすく示してくれている。だからこそ本書のタイトルは「小林秀雄の人生『論』」、すわなち「小林秀雄の人生を論じた書」なのである。

結論から言えば、小林秀雄にとって”批評”とは単なる作品の解説には留まらない。小林にとって批評とは「その作品になぜ自分は心を動かされたのか。」を考えることであった。そしてそれを通じて、自分を作り上げた日本という環境 (風土、歴史、伝統など) の源を探り、私たち日本人の本質に沿った”日本人にとって幸福な生き方”とは何であるかを問う行為であったのだ。

いわば、小林秀雄の批評を通して”人はどのように生きていくべきか?”という誰もが一度は頭をもたげる問いについて、さまざまな示唆を得ることができるのである。本書によれば、これこそが小林秀雄の批評の最大の魅力であると言えるだろう。

小林秀雄を理解するためのキーワード

本書ではその小林秀雄の批評の意味を知る上で様々な解説や解釈が行われているが、特に重要なのは小林の「直観」という言葉だろう。極言すれば小林の批評はすべて「自分の直観を信じることの重要性を述べたものだ」とさえ言える。

ここで重要になるのは「直観」という言葉の定義である。

現代では”ちょっかん”と言えば「直感」、英語で言うところの「インスピレーション」のことだと解釈されることが多い。このインスピレーションという言葉は、元々キリスト教的に「神からお告げを受ける。(神の)息を吹き込まれる。」という意味である。これには神という絶対的な存在と人間が繋がっているという世界観が前提となっている。この点が小林の言う「直観」と似て非なるところだ。

小林の用いるところの「直観」はその意味とは少し異なる。

気をつけるべきは「観」の時を用いているところだ。これは人生観、宗教観、芸術観といった言葉のように”全体を広く見渡すように見ること”を示している。目の前にあるスマホやパソコンの画面のような特定の何かをジロジロと見つめるのではなく、”自我”という意識を超えて森羅万象を見つめる達観した目で全体を眺める。そのような状態の上で、何かに自分の存在そのものをさらわれるような感覚、それこそが小林の言う「直観」である。

 

なかなか分かりにくい表現だが、本書では著者である浜崎氏が非常にうまい表現で言い換えており、それが現代人には”直感的に”分かりやすいと思う。それはズバリ「惚れること」である。少し長くなるが本書P74から引用しよう。

 

「たとえば、人が人と出会い、付き合っていく場合も同じことです。相手のすべてを分析し、その正確を知り尽くしてから相手と付き合いだすなどということはあり得ない。まず、眼の前の相手に『惚れる』ことから、私たちは彼/彼女との関係を取り結ぼうとし、また、その関係を取り結ぶがゆえに、彼/彼女について知っていくことになるのです。つまり、私たちは『直観』という名の飛躍に頼ることなく、他者を知ることはないのです。」

 

誰かを好きになったことがある人なら、この感覚は誰にも分かるのではないだろうか。クラスの誰かを好きになる時に、クラスの異性全員の性格や外観、親族関係などすべてを調べあげ、自分との相性を徹底的に分析した結果、特定の誰かを好きになるという選択を行うなどということはあり得ない。

いきなり”好き”とはいかなくとも、”何か気になる”というような直観がもたらされることで、はじめてその異性を意識し、好きになる。たとえそれが片思いに終わったとしても、である。

もちろん後付で「好きになった理由」を考えたり、それを相手に伝えることもあるだろう。だが、所詮それは後付でしかない。最初は誰もが”何か分からないけれど”相手に好意を持つ。それが自然であり、当たり前なことである。

直観とは「惚れる」こと。

上に挙げたような「誰かに惚れる」という直観であれば、多くの人が「直観」を信じる」ということの重要性を当たり前のこととして受け取ることができるに違いない。

だが、問題はこれが恋愛ごとのような個人的な経験だけではなく、現実社会で生きている内に「自分の直観を信じる」という力が弱くなっていくということだ。

現代社会では、社会人はもちろん子供たちでさえ、常に自分の行動や判断に対して説明を求められる。そしてその説明は単に自分の個人的主観を述べることではなく、何かしらの客観的根拠・・・特にビジネスにおいては数字的な根拠に基づいたものでなければならない。そうでなければ説明したことにはならないのだ。

たしかに、特殊な場合を除けば一般的に仕事とは他者と協働していその成果を出す必要があり、しかもそれを一回こっきりのまぐれ当たりではなく継続して行っていかなければならない。その意味において、いわゆるビジネスの世界において客観的根拠に基づき他者と何かしらの合意を得て協働しようとする行為は正しい。

だが、そこには一つ大きな落とし穴があることが忘れられがちだ。

もっと直観を信じろ

実はこのことは、奇しくも英語の「consensus (”合意”の意味)」という言葉の語源に同様のことが見てとれる。

consensusの語源はラテン語の「consentire」だが

・conは「together」のように「一緒に、共に」という意味

・sentireは「sense」のように「感じる」という言葉の意味

である。すなわち「共に感じること」こそが「consensus (合意)」のことであり、人と人の精神的な繋がりを含意するものなのである。

すなわち何かのことを誰かと共に行うにあたり「合意を得た」とは、結局”相手と合意したと自分が信じた”だけのことであり、それは自己の精神の中で完結したことに過ぎず、100%完全で、客観的な確証などというものは存在し得ない。結局、人は自らの直観 (たとえば仕事を共にする人に惚れること) に従って行動するしかできないのである。

だからこそ、人がその人生を生きるにあたり最も重要なことは「直観を信じること」・・・換言すれば、自らの直観を信じられるほどに自らの内面を冷静に見つめ、自らを生み出した環境を問うことで、自分という存在を深く掘り下げることなのである。

実際それこそが小林秀雄が自身の批評活動を通して行ったことであった。すなわち、自分が直観した (=惚れた) 作品を丹念に解きほぐすことで、その作品に惚れた自分を見つめ直し、それを批評という形で世に示す。さらにその批評に対する世間の反応を通じて、さらに自分自身と世に生きる人々の本質をも問う。その循環こそが小林秀雄の人生だったと言えるだろう。

 

翻って現代はどうだろうか。

バブル崩壊以降のデフレ社会において、それまで日本で培われて来た共同体内における信頼の価値は失われ、数値で価値を測定できる”貨幣”を稼ぐことに異常なほど価値を置かれるようになった。さらにその貨幣の多寡により人の価値もまた測られる時代になった。それは「直観」という計測不可能なものへの価値を異常なまでに低く押し下げるものとなってしまっている。

果たしてそれは本当に私たちの人生を豊かなものにするのだろうか。

私には小林秀雄が示す「直観」への信頼の価値をもう一度問い直すことが、今の時代だからこそ必要なのではないかと思われてならない。

まとめ

以上、私なりに”直観”という言葉に絞って「小林秀雄の人生論」についての考えを述べてみた。これ以外にも本書は内容は非常に深く、多岐にわたり小林秀雄の人生論を俯瞰したものである。とてもここで全ての感想を述べることはできないが、自らの人生の意義について思い悩んだことのある人であれば、多くの示唆を得ることのできる好著だと思う。

敢えて欠点を挙げるとすれば、浜崎氏本人が解釈する「小林秀雄という人物論」という色合いが強すぎることだろうか。浜崎氏によれば、今作は非常にタイトなスケジュールで書き上げざるを得ず、小林の原典を探り直す時間もなかったそう。小林本人の書いた批評の引用も少なめになっており、浜崎氏の論旨に沿った引用と解釈が散見される。そのため小林秀雄が表現したことなのか、浜崎氏が表現したいことなのかが判別しづらい。

個人的な感想としては「それによって下手な解説本のような”ぶつ切り感”がなく、一つの作品としての面白さや勢いが生まれている」と好意的に受け止めているが、原典を知っている読者には目新しいものがないかもしれないし、「これは小林秀雄ではなく、浜崎自身の意見だろう」と思う箇所も少なくないかもしれない。

だが、他でもない小林秀雄自身が、優れた作品とはさまざまな解釈を読者に許容する”多義性”を持っていることを述べており、その意味では仮に浜崎氏が入り混じっていたとしても、”小林秀雄という人生作品”から抽出した多義的な意味のひとつとして捉えられるべきかと思う。

その点を了解した上で読めば、本書は小林秀雄の思想という奥深い森に分け入っていくために、非常に有用な入門書であることは間違いないだろう。

小林秀雄が近代日本の思想界に残した功績を鑑みれば、西洋哲学や近代思想ではない”日本の思想”に鳴り響く低音 (音楽で言えば目立たない存在だが、ベースという楽器のような役割) を感じ取ろうとすれば必読の書であると言えるのではないだろうか。

 

という訳で今回ご紹介したのはこちら

浜崎洋介小林秀雄の『人生』論」

でした。

長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(_ _)m

ブログ更新が月イチになった理由。文字を書くことへの恐れと超克。

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皆さん、明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い申し上げます。

 

はい。という訳で2021年が終わり、2022年を迎えました。

本当に「やっと2022年になった」というのが私の率直な気持ちです。

個人的な話で恐縮ですが、2021年は本当に辛い一年でした。45歳を超えたので”みんなそんなもんだよ”と言われるかもしれませんが、初頭から年末までずっと体調を崩しがち。体調不良に弄ばれ、仕事も想定外のことが連発。まさに「忍びに忍んだ一年だった」というのが正直なところです。

そのせいにしてはいけないかもしれませんが、ブログの更新も滞りまくり・・・。週イチが2週間に一度になり、秋頃からは何とか月イチ更新は死守したという感じです。

こんなブログでも更新すれば見てくださる方々がいらっしゃるので、その期待(??)に応えたいと何とか頑張りました。私のブログはとにかく長文ばかりなので(笑)、見て頂ける方には本当に感謝しています。ありがたい限りです。

 

さて、そんな大変な2021年でしたが・・・不思議なもので、2021年12月31日に”ゆく年くる年”を見て2022年になった瞬間、何だか憑き物が落ちたような気分になり、少し前向きに物事を考えられるようになりました。

そこでちょっと昨年の反省と今年の抱負みたいなものを語ってみようかと思います。

 

ブログ更新が滞った理由

先程も書いたように2021年はとにかくブログ更新が滞りました。

最大の理由は体調不良によるものですが、もう一つは心理的なものです。

一言で言えば「ブログを書くことが恐くなったから」です。

「大人気ブロガーでもあるまいし、お前程度のブログで何を・・・」と嘲笑されるかもしれませんが(笑)。

恐くなったと言っても批判を受けることが恐いという意味ではありません。”文字”というものの力に恐れを抱くようになったのです。

私のブログを御覧になったことがある方はご存知かと思いますが、このブログでは私が読んだ本の書評、紹介をメインコンテンツにしています。

世の中には様々な本がありますが、その中には人の人生を変えたり、下手をすれば世界そのものを変えてしまうような力を持った本が存在します。私自身にそんな本を書くような力はないけれども、そのような圧倒的な力を持った、”誰かにとって意味のある本”を一人でも多くの人に紹介できたら少しでも社会に貢献できるのかなと思っているからです。

そういう思いもあって、私が紹介する本はかなり”骨太な内容”の物が多いです。忙しいビジネスマンとかだと迂闊に手が出せないような学術書に近い本も取り扱っています。

ブログを始めた頃は「とにかく皆に紹介したい」という気持ちだけでやっていましたが、何冊も紹介しているうちに、そのような骨太の本を私ごときがレビューすることに恐れを感じるようになってきたのです。それはレビュー記事を書くために深く読み込むほどに強くなってきました。私ごときでは太刀打ちできないような深謀遠慮の下、一言一句が丁寧に書かれていることが肌身で感じられるようになり、恐れ多い気持ちになることがとても増えたのです。

 

本当に「お前のブログごときがなんぼのもんじゃい(笑)」という感じなのですが、本の著者に対する敬意と、私の記事を読んでくださる皆さんへの責任感みたいなものが、私の中で積み重なっていき、ますます書きづらくなる・・・。2021年は本当にそんな混沌とした思いに駆られた一年でした。

それでも書きたい。

恐らくここまで読んでくださった方の中には「だったら止めれば良いじゃん」と思う方もいらっしゃるでしょう。全くそのとおりです。ブログなんて誰かに強制されてやるものでもないし、始めるのも終えるのも自分の意思ひとつです。

・・・でも、「書きたい」んですよ。こんなちっぽけなブログでも「嫌になったから止めた」だと絶対に後悔すると思う。少なくとも自分の中で後から「あの時やめたことは正解だった」と納得できる形にはしておかないといけない。そんな風に思いながら、「でもしんどいなー」「でも書きたいな」とかグダグダ悩んでいました。

 

そんなこんなで悶々としている昨年末、ある本に出会いました。

それが浜崎洋介著「小林秀雄の『人生』論」です。

今回の記事はレビューが目的ではありませんので、内容の紹介は割愛します。

ここでは私がこの本との出会いを運命的だと感じた理由だけ少しお話したいと思います。

 

小林秀雄とは”批評の神様”と呼ばれた、昭和の伝説的な文芸評論家です。本書はこの小林秀雄の人生観を浜崎洋介という現代の文芸評論家が探った本です。ややこしいですね。すみません。

ざっくり言いますと

「批評とは”(その対象となる)何か”を論じることではない。その”何か”を通じて『自分の内にある世界』と『自分の外にある世界』がどのように関係しているのかを論じることである。だからこそ批評することとは、必然的に自分自身を見つめることに他ならない。」

というようなことを述べた上で、その”批評する対象”をどう選び、どのように批評するかは畢竟 (ひっきょう) 自分の”直観”に依るしかないのだと言っています。

 

この”直感”が、いわゆるパッと思いつく”直感”ではないところがポイントなのですが、単なる思いつきではなく自分の存在そのものがどうしようもなく引き付けられるような感覚のことです。小林秀雄はそれを『宿命』と呼び、本書の著者である浜崎洋介は『惚れる』ことだと言っています。

これを読んだ時に私は「まさにその通りだ」と”直観”しました。

体調不良で苦しみ、文字を書くことに恐れを抱くようになりながらも、「でも、やっぱり書きたい」というどうしようもない思い。これは私にとっては「文字という存在に関わる宿命」であり、「文字を書くという力に惚れたしまった宿命」と言っても良いのではないかと思ったのです。

 

私ごときの力で、世界を変えるような”力”を持つような大著を書評しようなんて片腹痛いかもしれない。そんな努力は誰の目にも届かないかもしれない。

でも、だからと言って書くことを止めてしまったら、自分の宿命から逃げてしまうことになる。力及ばずとも「文字の力」という自分が惚れたものには全力で取り組むべきだはないか。

そんな風に思えてきたのです。

 

2022年になったからと言って、突然毎日更新するようにはできないと思います。

やっぱり月イチ更新が精一杯かもしれません。

でも「書きたい」という思いがある限り、自分のその気持ちを大事に書き続けるよう努力したい。

その先にきっと何かを見つけることができる

そう信じて今年も頑張って行きたいと思います。

 

 

という訳で、今年もぼちぼち更新して参りますので引き続きご愛顧頂けましたら幸いです。

本年も宜しくお願い申し上げますm(_ _)m

水村美苗著「日本語が亡びるとき」。10年を経て輝く日本語論の名著

突然だが私は古本屋巡りが大好きだ。もちろん普通の書店も好きなのだが、どうしても比較的新しい書籍に重きを置かれるため、「古いけれども、今なお重要な本」に出会い辛いのだ。私にとって古本屋はそのような書店の弱点を補うのに格好の場所であるのだが、またまた運命的な出会いをした名著を発見した。

その本が今回紹介するこちらの本、

水村美苗 著「日本語が亡びるとき

だ。

 

本書が上梓されたのは2008年。今から約13年ほど前になる。当時生まれた子が中学生になる年月である。だが、その内容はいささかも古びていない。それどころか、当時「大袈裟すぎる」と揶揄された内容は、今まさに日本が直面する現実性を帯びてきているとさえ言える。

タイトルだけを見ると「言語」に関心を持つ人をターゲットにした本のようだが、さにあらず。「日本語」をきっかけに日本の文化や社会、そして国家のあり方についてまで幅広く考察されている。言語の問題に限らず「何か最近の日本って大丈夫なのかな。これからどうなっていくのかな。」そんな不安を感じるすべての人にお勧めしたい名著だ。

著者紹介: 一風変わった小説家

著者の水村美苗 (みずむら みなえ) は小説家だが、その経歴は少し変わっている。

出身は東京だが、12歳の時に父親の仕事の都合で渡米。大学までアメリカで教育を受け、イェール大学仏文学専攻。同大学院博士課程修了。プリンストン、ミシガン、スタンフォード大学で日本近代文学を教える。

アメリカ在住歴が長いもののアメリカの文化にはなかなか馴染めなかったようで、そこから逃げるように日本近代文学、とくに夏目漱石の作品を読み漁っていたと本人は語っている。今で言うなら、親の都合でアメリカに連れて行かれた挙句、現実社会に馴染めず引きこもり、アニメやゲームのような二次元の世界にどっぷり浸かりこんだ”オタク女子”といったところか。日本に帰国後に小説家としてデビュー。作品数は少ないものの数々の文学賞を受賞しており、”量より質”を地で行く作家だと言えるだろう。

しかし、今作「日本語が亡びるとき」は小説ではない。自身の小説家としてのキャリアや、文学研究に携わるの仕事の中で感じた、日本語の未来ひいては日本という国そのものの先行きへの不安を世に問うた作品だ。

「日本語が亡びる」の意味

そもそもこのタイトル「日本語が亡びるとき」は、何とも”煽り感”で溢れている(タイトルを決めたのは本人ではなく編集者だが)。

このタイトルを字義通りに受け止めると、多くの人が「日本語を話す人がいなくなる」という意味だと思うだろう。本書が発売された当時も

「日本語を話す人が1億2千万人もいるのだから、それが一人もいなくなるなんてありえない」

「水村の話は飛躍しすぎだ」

といった反応も多かったようだ。

だが、このような批判は的はずれである。なぜなら、著者が本書でいう”日本語が亡びる”というのは、そのような意味とは全く違うからだ。

著者のこの本で言う「日本語が亡びる」という言葉が意味するのは、「日本語が日本という国の中で日常会話としてしか使われない”現地語”と化すこと」である。

すなわち、「勉学や研究、政治経済に関わる分析、果ては国の政策を論じる場など、深い思考や議論が日本語で行われなくなり、英語 (もしくは他の外国語) に取って代わられる状況」を指して”日本語が亡びる”と言っているのである。

3つの種類の言語

では一体どうやったらそのような状況に陥ってしまうのだろうか。

それを考える上で重要になるのが次の3つの概念だ。

○ 普遍語

「世界標準言語」という言い方をした方が分かりやすいかもしれないが、要するに世界の様々な地域や分野 (学問、政治、経済など) で使用される”グローバルな”言語のことであり、現在の”英語”がまさにその地位にある。

○ 国語

特定の国で流通する言語、なかでも近代国家や社会を運営する際に使用される言語のこと。

○ 現地語

知的で複雑な思考や議論をすることができず、いわゆる”日常的な”事柄のみを取り扱う言語のこと。

以上3つである。

 

「国語」と「現地語」の違いは日本ではわかりにくいかもしれない。その理由は他でもない、日本が自分達が普段使う言語と政治や学問の世界で使われる言語が同じであるのが”当たり前”という幸運な社会であるからだ。

一見当たり前のように思われるかもしれないが、世界を見回すとこれは決して”当たり前”ではない。フィリピンやシンガポールなどでは日常で話す言葉は現地語であるが、政治や学問の世界では英語が公用語になっており、英語の素養がない人達には政治の世界で何が語られているのかを理解することができない。「国語=現地語」という構造は”当たり前”ではないのである。

著者がこの本で訴える不安あるいは未来への危惧とは、この「日本語が国語であり現地語でもある」という恵まれた状況が失われること。端的に言えば「日本語が現地語化し、英語(普遍語)が国語化する」ことになるのではないかというものである。

どのようにして”日本語が亡びる”のか?

先程も述べたように、私達日本人は「日本語が日常会話を行う現地語であると共に、高度な思考や議論も行う国語である」という非常に恵まれた環境で育っている。そんな幸福なわれわれ日本人にはそもそも「日本語で高度な思考が行われなくなる」などという事態が想像すらできない。一体全体どうやったらそのような状況が生じるのだろうか。

そのきっかけとなる一つが英語教育への偏重だ。

 

英語教育といえば、小学校や中学校での英語授業をすべて英語で行うことや、より低学年からの英語教育の実施などが思い浮かぶ。”言語はツールではなく、言語こそが思考を規定する”という意味では、英語の早期教育も問題があるのだが、この本の文脈に沿えば大学などの高等教育の英語化の影響が大きい。

昨今では大学などの高等教育においてはすべての講義を英語で行うべきといった極端な論も目にするようになっている。その理由は日本の大学の国際的評価や学術研究力の低下が叫ばれる中

「授業の英語化によって海外からの留学生を呼び込む」

「日本の教育において世界の最先端の研究をスピーディに取り込むことができるようにする」

ことで、その状況を改善しようというものだ。だが、事はそれほど単純ではない。

高等教育の英語化という序曲

仮に大学や大学院といった高等授業を英語で行うようにしたとしよう。

当たり前だが、それは授業で使用するテキストや参考文献の英語化も推し進める。英語で書かれた最先端研究を日本語に翻訳するという手間を省くことで、よりスピーディに、より効率的に世界の研究を取り込むことができるようになるからだ。

それは英語で書かれた専門書の急増と日本語に翻訳した専門書は激減を引き起こすとともに、当然、専門書に関する学術的な議論も英語に基づいて行われる動きを加速させる。

学術的な議論が英語で行われ、それがそのまま海外で通用するようになれば、日本人の研究者も日本語で執筆し、出版する理由が失われ、研究論文なども英文で行われるようになる (これはすでにそうなっている部分がある)。これは日本語が学問などの専門の世界では通用しない言葉に落ちぶれることを意味する。

専門用語の英語化が与える一般社会への影響

もちろんその影響は学術分野にとどまらない。

学術分野の最先端の概念や言葉は、通常数年立って私達一般国民の間にも流通するようになる。しかし、そもそも専門家が日本語に翻訳しないようになれば、日本語は専門的語彙を持たない言語となり、非専門家である一般国民も専門的な概念を英語で理解しなければならなくなる。

たとえば昨今話題となっている「量子コンピュータ」という新しい技術がある。これは量子が持つ”量子のもつれ”や”重ね合わせ”という特性を利用して、従来のコンピューターでは行えなかった演算を行うことができるようになる技術だ。

夢の新技術ということでもてはやされる「量子コンピューター」だが、そもそももし日本語に「量子」という単語が存在しなかったらどうなるだろう。当然我々は「量子コンピュータ」という概念・技術を英語で表記された”Quantum Computing”という言葉で解釈をしなければならなくなる。たとえばこんな風だ。

Quantum Computingとは、quntumが持つquantum entanglementやsuperpositionという特性を活用した技術である」

こう説明されて、果たしてどれだけの日本人がQuantum Computingとやらを理解できるだろうか。「quantum entanglement」とは”量子のもつれ”のことだが、細かい理屈は分からずとも「量子とやらが複雑にからみあって存在している」ことは想像ができる。また「superposition」とは量子の”重ね合わせ”のことだが、これも言葉から何となく「存在が重なりあっているようなことか?」くらいは想像ができる。日本語であればこそ初めて聞く言葉でも何となく意味を想像することができるのだ。

日本語知的劣化の無限ループ

量子コンピュータ自体は、ある意味特殊な概念であり、その影響は限定的なものに留まる。しかし、同じような現象が、政治、経済、あるいは人の生き方などの哲学的分野に及んだ場合はどうなるだろうか。英語という普遍語によって最先端の知識にアクセスできない多くの日本人には、そのような知的考察自体が行えなくなる可能性がある。そして、知的考察を行えない多数の日本人のために、わざわざそれを啓蒙しようなどと考える研究者もほとんど現れないだろう。なぜなら”その時間があったら、英語で自分の研究をした方が得”だからだ。

こうして日本語の知的水準の低下という無限ループが始まるのである。なるほどそのような事態が、突然明日訪れることはあるまい。現在すでに社会人の年齢であれば、彼らが現役世代の間は大丈夫かもしれない。だが、その孫子の時代になればどうだろうか。

現状の英語教育への歪なほどの偏りを見るにつけ、その時は少しずつ近づいているという危惧を覚えるのは著者だけではないだろう。

日本語の亡びは文化の亡び

では、このようにして著者の言う”日本語が亡びる”事態になった場合、何が問題になるのだろうか?

人によっては「日本語が亡びようと日本人が亡びるわけではない。使っている言語が変わるだけの話だろう。」と思う人もいるかもしれない。だったら「日本語が亡びて何が問題なのか?」と。

これについては大きく2つの問題がある。

一つは日本語の亡びは日本文化の亡びるをも意味するということ。

もう一つは民主主義が崩壊してしまうということだ。

 

まず一つ目の問題である「日本文化の亡び」とは何か。

日本の近代文学、特に夏目漱石に一方ならぬ思いを寄せる著者によると、夏目漱石の作品は海外では評価が必ずしも高くないのだろうだ。むしろ海外ではほとんど評価されていないと言った方が良いほどだ。だが、興味深いことに”日本語を深く学習した外国人”には非常に評価が高いらしい。その理由は漱石の言葉巧みな表現は日本語の持つ響きや意味、その言葉によって共有される情景を理解してはじめて心を揺るがされるものであり、それを外国語にそのまま翻訳しても何の面白さもない味気ない文章にしかならないからである。

日本ではよく「言語はコミュニケーションツールだ」と言われるが、言葉とは単なるツールではない。言語こそが世界を作っているのであって、その逆ではないのだ。

かつてある本の中で「”壁”とは『壁』という言葉によって初めてそれと認識される。もし『壁』という言葉がなければ、私達はその存在にすら気づくことができないのだ。」と語っている人物がいたが、正にその通りだ。言語があるからこそ、それに寄り添う形で私たちの知性や感性、世界観が少しずつ築かれてきた。

日本文化も我々が言葉というツールを使って人工的に作ったのではない。日本語という言語が築き上げた世界観が、我々をして日本文化を築かせたのである。

であればこそ、日本語によってこの世界を深く考えることができなくなった時、日本独自の、日本人だからこそ感取できる世界は永遠に失われてしまうだろう。

日本語の現地語化が民主主義を破壊する

日本語が「国語」としての地位を失い「現地語化」することによる、もう一つの問題は、それが民主主義の崩壊を促すことである。

もし日本語が現地語化し、政治や経済、社会に関する思考や議論が普遍語 (英語) で行われるようになると、「社会に参画する普遍語を理解する人々」と「社会に参画できない現地語のみ理解する人々」というように社会が分断されてしまうことになる。

これはすなわち民主主義が崩壊をも意味する。

この場合の民主主義とは単なる制度のことではない。国語による国民的な議論が行われなくなることで、日本国民、とくに非エリート層である多くの国民の意思が社会政策に反映されなくなり、それは国民の連帯意識の減退と相互扶助意識の喪失を招く。

例えば19世紀に活躍したイギリスの社会思想家J.S.ミルは著書『代議制統治論』の中で、次のように述べ、「同胞感情のない国民のあいだにあっては、ことにかれらが異なった言語を読み書きしているばあいには、代議制統治の運用に必要な、統一された世論が存在しえない」と述べているが(J.S.ミル『代議制統治論』P376)、国民が用いる言語が異なれば連帯意識を持つことは非常に難しくなり、民主主義国家の運営は事実上不可能となるだろう。

まとめ

本書を読んでつくづく感じるのは、言語というものが持つ力の強さ。そして、それがあまりにも強く、当たり前であるがゆえに私達は普段まったくその恩恵を感じていないのだという事実だ。

この本では「日本語が亡びる」というセンセーショナルなタイトルを使われたことで、発表当時いわゆる”バズった”本である。しかし、著者は「日本語が亡びる」ことそれ自体を憂いて書かれたものではない。その意味ではいわゆる専門的な"日本語論"ではない。

だが、「日本語が国語としての地位を失う」結果として、日本という国であり地域、そして独自の文化をもったこの社会そのものが失われることを憂いた本であり、その危惧するところは近年ますます現実味を増してきていると言える。だからこそ本書は”今こそ読むべき本”なのである。

 

という訳で今回ご紹介したのはこちら

水村美苗 著「日本語が亡びるとき

でした。

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m

AI確変で一発逆転を狙った文学部の妄想。波頭 亮著「文学部の逆襲」。

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今回は私には珍しく辛口レビューをお届け。

その本がこちら

波頭 亮 (はとう りょう) 著「文学部の逆襲」

だ。

 

私は基本的に本を買う時にはできる限り「まえがき」「あとがき」「目次」などをよく読んで、内容を精査してから買うようにしている。そのため「これは外れた」と思う確率は低いのだが、今回は久々の「大外れ」。

したがって、レビューを書くのも止めておこうと思っていた。

しかし、よくよく読むと、逆に「このような本が出回るような事態が日本の知的水準の停滞につながっているのではないか」という逆転の発送に思い行ったため、今回敢えて「辛口レビュー」ということで投稿することにした次第だ。

というわけで、今回はあえて批判的に読んだ感想として受け止めていただけると幸いだ。

本書の概要

本書における著者の主張はおよそ次のようなものである。

「ここ30年あまりの間、日本は経済的に衰退し、社会にも先の見えない停滞感が充満している。

その理由は資本主義というシステムが機能不全を起こしているからである。資本主義の機能不全とは”富の偏在”のこと。すなわち”富める者はさらに富み、貧しき者はさらに貧しくなる”という格差の拡大だ。

そもそも資本主義とは構造的にそのような富の偏在が起こりやすい特性を持つ(同じスタートラインから始めても、資金力が高い方が有利になる。さらに勝ち組の方には、より多くの資金や人が集まるからである)。だからこそ、富の再分配を適切に行う役目を国家が担ってきた。

ところが、現在はその国家が率先して、富の偏在を拡大する政策ばかりを行っている。なぜなら、巨大な富を持つグローバル企業が国家を懐柔し、メディアを操り、SNSを駆使して、自分たちに有利なように世論を動かし、国家を動かしているからだ。

だが、このような時代の閉塞感を打ち破る事象がいま起こっている。それがAIによる技術革新だ。

AIの発展によってら今後生産性は格段に向上する。人間はほとんど働かなくても豊かさを享受できるようになる。もちろん豊かさの分配もAIによって適切に行われるようになっていくだろう。そうすれば、人間が労働に囚われる意味もなくなる。さらには、今までのような「労働=生きがい」というような価値観は時代遅れになるだろう。

そのような新しい時代には、より内面的な価値を高まる物語。すなわち、人がより良く生きるということ、人間らしく生きていくということはどんな意味があるのかという問いに答えるような新しい”大きな物語”が必要になる。

それに答えるのが哲学、文学、歴史学といった「文学部」の領域である。したがって、これからの新しい時代には、文学部の持つ力が大きな意味を持つことになる。昨今ないがしろにされて来た文学部の逆襲が始まる日も近い。」

以上が本書の筋道である。

率直な感想は・・・

このような主張をご覧になって皆さんはどういう印象を抱くだろうか。

私の率直な感想としては

 

「アホらしい」

 

の一言である。

確かに著者が言う通り現代の資本主義が機能不全に陥っていることは事実であるし、それを解決するためには富の偏在を解消することが必要なのも間違っていない。

だが、それをAIという技術革新によって解決できるという主張は、あまりにもお花畑的な発想ではないだろうか。

なるほどAIによって生産性の飛躍的向上が見込める分野があることは間違いあるまい。デジタルサービスは言わずもがな、例えば製薬の分野においてもAIによって桁違いの開発スピードが見込まれるのは確実だ (仮想世界で実験を行うことで、現実世界での創薬の段階を飛躍的に効率化できる)。

しかしながら、AIは万能ではない。たとえば建設業や農林水産業などの分野では生産性向上は可能にしても、物理的な肉体をAIが持たない以上、その度合いもどこかで頭打ちになるだろう (100年先を視野に入れれば話は別だが)。

ましてや日本のような災害大国であれば、AIが組み立てたストーリーが一瞬で灰燼に帰すことも十分ありえる。そのような事態を想定すれば、もしもの時に人間が代替できるレジリエンス (強靭性) を確保しておかなければならないことは誰にでも想像がつく。

 

その上、著者は「AIの発展によって”どのように”富の再分配が適切に行われるようになるのか?」という具体的な内容については、全く言及していない。つまり結局「何だか知らんけどAIはすごいんだから、うまい解決方法を思いついてくれるだろう。」という程度の主張なのである。

文学部の現在における重要性を説くべし

本書のタイトル「文学部の逆襲」は、以上のような「AIによって資本主義の構造的問題が解決され、お金のために働くことをしなくなった”新しい歴史のステージ”においてこそ、文学部はその本当のちからを発揮するのだ」という意味である。

はっきり言っておこう。

これはまさに一昔前にネット上で散見された

「明日になったら本気出す」

と同じ類である、と。

著者が言っているのは「AIという”機械”が眼前の問題をクリアしてくれたら、文学部にできることがある」ということであり、それはすなわち「現時点で文学部にできることは何もありません」と言っていることと同じなのだ。

 

確かに人間が生きていくために”物語”が必要なのは間違いない。

どんな人間であっても「何かのために生きる」という目的がなくては生きていくことはできないものだ。たとえその目的が「お金」や「名誉」、あるいは「異性にもてること」であったとしても。

どのような怠惰な生き方をしていたとしても、「ただ生命を維持するためだけに生きる」ということは人間にはできない。人間とは必ず自らが生きる意味・・・すなわち物語を求めずにはいられない生き物なのである。

文学、歴史学、あるいは社会学などのいわゆる人文学系の叡智が意味を持つのは、まさにそのような物語の創出である。

それも著者が主張する通りである。

 

だったらその答えを今こそ示すべきではないだろうか。

それができずに「AIによって人類が新しいステージへ立った時にこそ・・・」などと言っている時点で、「文学部なんて何の役に立つのか?」と言われて当然であると思われても仕方があるまい。

現在のような理系学部が重宝され、プログラミングや専門職など即物的な学問が重んじられ、文学部廃止が議論される原因も、まさにそのような人文学部の実力不足にこそあるのではないか。

 

バタイユの「有用性と至高性」

このような意味においては、古典的著書の方がはるかに有意義な考え方を私たちに示してくれる。たとえば、20世紀初頭のフランスの思想家ジョルジュ・バタイユ「有用性」と「至高性」という2つの概念を提唱した。

有用性とは「役に立つこと」である。

資本主義の世界では人々はこの有用性、すなわち役に立つことに重きを置く傾向が強い。しかし、役に立つものというものは逆に言えば”役に立たなくなった時点で価値を失う”ということでもある。

たとえば英会話の能力は現在でこそ”役に立つ”が、近い将来リアルタイムの自動翻訳が行われるようになれば、”役立たず”になり、その価値を失う。

 

これに対して「至高性」とは役に立つかどうかに関わらず価値のあるものを意味する。

この至高性を感じる瞬間とは、何も特別な環境でなければ得られない体験でも、多くのお金がなければ得られないような体験ではない。

労働者が一日の仕事の後に飲む一杯のワインによって与えられることもあれば、「春の朝、貧相な街の通りの光景を不思議に一変させる太陽の産前たる輝き」によってもたらされる

こともあるのだ。

むしろ、そのような何の変哲もない生活の一瞬に”至高性”を見出すような価値観、生き方、広い視座を提供することこそが文学系学問にしかできないことである。プログラミング教育、英語教育など”役に立つもの”に過剰な価値を置く現代社会に異を唱え、”人が生きる上で本当に価値があるもの”を世に問うこと。これこそがいま文学部が世に示すべきことではないだろうか。

 

「明日になったら本気出す」などということを憚りなく公言できるようでは、日本の文学部に日が指すことはないだろう。

 

 

というわけで今回ご紹介したのはこちら

波頭 亮 (はとう りょう) 著「文学部の逆襲」

でした。

今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(_ _)m

アートを知れば言語はもっと楽しくなる。不確実な時代に必要な「”ヴィジュアル”を読みとく技術」。

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YoutubeInstagramTikTok・・・昨今話題となるメディアは動画や写真といったヴィジュアルに訴えるスタイルが主流だ。

だが、プロモーションコンテンツの制作に携わる中で日々感じるのは、「むしろ言葉の重要性が高まっているのではないか」ということだ。

それは消費者に「文章で表現することが重要」という意味だけではない (それはもちろん重要なのだが)。むしろそもそものヴィジュアルを作る段階において、「良質な言語化能力こそが良質なヴィジュアル (動画や写真) を左右する」という意味だ。逆の表現を使えば「良質なヴィジュアルコンテンツを創るには、”何が必要なのか”を適切に言語化できる能力が必要」だということだ。

そんな思いを巡らせていた際に面白い本を見つけたので、今回はその書籍を紹介したいと思う。その書籍がこちら。

吉岡友治 著「ヴィジュアルを読みとく技術」だ。

動画や写真といったヴィジュアルコンテンツの重要性が増す現代においてこそ、それを言語化する技術こそが必要なのだということが分かる好著。ヴィジュアルコンテンツに携わる仕事をしている人に薦めたいのはもちろん、それに携わらなくとも何かを人に伝えることに興味がある人にも楽しめる内容になっている。

まさに苦行。美術苦手な私がアート・ディレクション

まず本題に入る前に、イントロ的に自分の話をさせて欲しい。

自慢じゃないが私はこれでも学生時代の学校の成績は良かった方だ。

小中高通じて通知表はほとんどの教科で「5」。特定の教科を除いて、だが。

その特定の教科とはズバリ

・美術
・音楽
・図画工作
・保健体育
・家庭科
要するに机の上で勉強できない物はすべて苦手だったということだ(笑)。中でも美術や音楽は救いようのないほどセンスの欠片もなかった。ところが、そんな私が音楽業界に身を置き、さらにアートディレクター的な仕事を担当しているのだから、人生はどうなるか分かったもんじゃない。

そんな私がアートディレクションに関わる仕事をしていて何度も「難しい」と感じるのが、デザイナーやカメラマンに「どのようなヴィジュアルが必要なのか」というコンセプトを説明することだ。

多くの人は、アートに関わる人間は直感的な閃きに従って仕事をしていると思っているかもしれないが、それは全く違う。腕の良いデザイナーであればあるほど単なる言葉尻ではなく、「ディレクターが本当に求めている物が何か。」

「なぜディレクターはそのような説明をするのか。」

といった”言葉”の意味と解釈に非常に神経を使う。

逆に腕の悪いデザイナーほど自分の感覚や思い込みに沿った仕事をする。

 

同じ言葉であっても人や使う時と場所によって、その意味は全く異なることが多い。その日の気分によっても全く違う。そのため言葉尻にとらわれた解釈をすると、求められている物と全く違うデザインを出してしまうことも度々ある。だからこそ彼らは”言葉”に非常に神経質になるのだ。

本書では「ヴィジュアルコンテンツ」と「言語」の関係性について度々言及される。それはヴィジュアルを読み解くことは言語によって解釈して伝えることであり、ヴィジュアル化することは言語だけでは表現できないことを視覚的表現によって使えることであるからあるからだ。つまりヴィジュアルと言語とは、お互いが補完関係にあるということである。

「時間に制約される”言語”」と「時間に制約されない”ヴィジュアル”」

したがって、本書では第一章と第二章において、言語とヴィジュアル、それぞれの特性や、長所と短所、さらにそれらの関係性が丁寧に説明されている。この内容が非常に面白い。ヴィジュアルと言語を比較することで、それぞれの持つ特徴が非常にわかりやすく理解できるようになっている。

私がもっとも興味深いと思ったのは「時間性」に関する比較だ。

 

著者によれば「言葉は、いわば一次元的なメディアである。一回につき一つのことしか表せない」。シンプルな文章構造で考えるとわかりやすいのだが、文章では主語が来て、それから述語につながる。それを次々につなげていき、言いたいことにまでつなげたところで一つの文章が完結する。つまり文章は「主語→述語」という一方向にしか流れない表現方法なのだ (もちろん倒置法などのテクニックによって文字の並び順を変えることはあるが、”伝えたいことを表現する”という本来の意味では流れは一方向である)。

一見窮屈なようにも見えるが、この「一方向にしか流れない”不自由さ”」こそが言語の重要な特徴なのだと著者は言う。少し長くなるが非常に興味深いので、引用してみよう。

「さらに重要なのは、この『一方向にしか流れない』不自由さが、人間が生きる時間と同じ構造をしていることだ。時間は、自由に戻ったり、先に飛躍したり横にずれたりはできない。過去から現在、未来と一方向に淡々と流れるだけだ。因果法則もそういう時間に沿って『最初にこうなれば、次はこうなるはずだ』という経験から成り立つ。順序や経過や結末という時間、『こうなれば、こうなるはずだ』という論理という要素を表すには言葉という『一方向にしか流れない』メディアでないとダメなのだ。」

(本書P37 第二章ヴィジュアル・メディアの特徴は何か?)

 

一方、ビジュアル表現にはそのような制限がない。絵画のさまざまな構成要素をどこから見るのか、各要素のどこをつなげて解釈しても自由である。

「だから、過去から現在、未来と流れる因果を表すこともでkない。すべての要素は同時的に存在し、それを見るものが、どのようにたどっていくかによって、体験できる時間構造も変わる。」

この自由さこそがヴィジュアルコンテンツの大きな特徴だといえる。

 

どうだろうか?

このような解釈はヴィジュアルと言葉を対比させたからこそ生まれる見方であり、それぞれの持つ意味や特徴、そしてそれらをどのように使いこなせば良いかを考える上で非常に重要な視点ではないかと思う。

 

”VUCA”の時代に必要な力

ただ、この記事を読んでいる人の中には

「自分の仕事にはヴィジュアルコンテンツなんて関係ない。だからこの本も関係ないよ。」

と思う人もいるだろう。

だが、実はこれからの時代にはどのような仕事に関わっているかなど関係なく、このヴィジュアルを読み解く能力が必要とされているのだ。


最近耳にする言葉に「VUCA」というものがあるが、これは

・Volatility(変動性・不安定さ)

・Uncertainly (不確実性・不確定さ)

・Complexity(複雑性)

・Ambiguity (曖昧性・不明確さ)

という現代社会の不安定さを表す4つのキーワードの頭文字を取ったものだ。

コロナ禍だけでなくリーマンショックや気候変動問題など、今まで予想もしなかった変化が急激に訪れる現代社会の不確実性の高さを表した言葉として人口に膾炙される。

この”不確実性”はよく危険性を表す”リスク”と混同される概念だが、別物である。たとえばフランク・ナイトという有名な経済学者の定義によれば、リスクとは将来起こる確率を数量的に予測できるものであり、不確実性はそのような予測ができない”不測の事態”(戦争などがその典型)のことである。

VUCAの時代とは後者の不確実性が高まっている時代のことだが、このような情勢においては既存の枠組み自体が崩壊する可能性が高いうえ、そのような事象がさまざまな分野で頻発することすらある。

そのような時代で重要になるのは、自ら新しい枠組みで物事を捉え直す視点を持てるかどうか。さらに、それを人に説明できるかどうかである。この力を養うのに有用なのがまさにヴィジュアルを読み解く技術に他ならない。なぜならヴィジュアルを読み解く技術とは、目の前に存在する”何か”の意味を考え、それを自分なりに解釈し、言葉に表すことだからである。

 

誰にでもヴィジュアルは読み解ける

とはいえ、「絵画や写真を読み解くことなんて、センスがある人になんてできないんじゃないの?」としり込みする人も多いだろう。

たしかに写真や絵画のようなアート作品というと、「生まれ持ったセンスで、直感的に作り出す神がかり的な創造物」というイメージが一般的だ。ましてやそこに込められた意味を読み解くとなれば、とても素人には手が出せない領域のように思われる。

だが、ほとんどのアート作品はそのような直感から生まれる物ではない。なぜなら、どのようなアート作品であっても、それ単独で、社会と全く関係なく突然世界に現れるわけではないからである。

アートが人を感動させることがあるのは誰もが認めることだが、その理由はそれが神がかり的な力を備えて強制的に人の心に働きかけているからではない。人が心を動かされる時。それは、その作品にどこか親しみを感じながら、今までに見たものとは画期的に異なっているもの・・・いわばありそうでなかったものを見た時なのだ。この「親しみやすさ」と「画期的な存在感」のバランスをどれだけ保つことができるかが、表現者の技量の見せ所なのだ。

 

かつて中野剛志という評論家がとある本を評して次のように言っていたことがある。

「いわゆる名著というのは、何か突飛な、誰も考えつかなかったことを書いているような本ではない。誰もが心に何となくイメージを持ちながら上手く表現できないこと。それを表現することで、読んだ人が”ああ、そうそう。こういうことを私も言いたかったんだ。”と思うような物。それこそが名著である。」と。

(※記憶を頼りに書いているので、細かい表現は違っているかもしれない。)

 

これは本のような文字表現だけでなく、アートなどのヴィジュアルコンテンツにも当てはまる。あらゆる表現物とは、それ単独で社会と無関係に生み出されるのではなく、あくまで社会の文脈の中で生まれものであり、その作者が社会の中で感じた”何か”を形にしたものである。その社会という共通項があるからこそ、人は表現者が訴えたい何かに共感し、心を動かされるのだ。

したがって、社会に生き、周りの人々との生活を大切にしている人であれば、誰もがヴィジュアルコンテンツを解釈し、それを楽しむことができるはずなのだ。多くの人がそれを実践することができないのは、その”テクニック”を知らないだけ。それを知りさえすれば、誰にでも自分なりのヴィジュアルコンテンツの読み解きかたは可能であり、それはこの不確実な世界を読み解くうえで強力な技術になるに違いない。

 

この本では、それに必要な技術が素人にもわかりやすい平易な文章で解説されている。ヴィジュアル情報の特性やそれを読み解く技術の基本的なアプローチ、そして実際のアート作品を参考にしながら、その実践的な使い方も解説されており、基礎から応用までが一通り概観できるようになっている。

「アート作品を語るなんて無理!」と思う”ど素人”にこそ是非読んでほしい一冊だ。今まで知らなかった新しい世界を楽しめるようになるだろう。

 

というわけで、今回ご紹介したのはこちら。

吉岡友治著「ヴィジュアルを読み解く技術」でした。

今回も長文を最後までお読みいただきありがとうございましたm(__)m

 

デジタル化して本当に大丈夫? 堤未果 著「デジタル・ファシズム」。

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前著『日本が売られる』で人気を馳せた国際ジャーナリスト、堤未果 (つつみ みか)氏。

国際ジャーナリストという肩書に相応しく、日本だけでなく海外 (特にアメリカ) の報道資料、官公資料に基づいたジャーナリスティックな著作が多い。

今回は彼女の新刊『デジタル・ファシズム』をご紹介。

本書の要点

堤氏の著作は日本で普通にメディアに接しているだけでは知りにくい貴重な情報提供してくれるのが特徴。その出典元も明示しているため、"時間の裏を暴く"という記事にありがちな「陰謀論」の書とは一線を画す存在だと。その分析と考察も非常に鋭く、いわゆる大手メディアの情報に染まりがちな一般人にとって非常に価値の高い書となっている。

 

今作で堤氏が取り上げたトピックは、本書のタイトルの通り「デジタル化」だ。

新型コロナ対応において、行政システムのデジタル化の遅れが政府の後手後手の対応に一役買ったこともあり、デジタル化推進は世間的にも一刻も早く推進するべきだという風潮がある。だが、本書の中で著者はそれに安易なデジタル化推進に慎重な立場を取っている。

ざっくり言えば、「”デジタル化=良いこと”と思われがちだが、必ずしも良い面ばかりではない。むしろデジタル化することで、国家や大企業に国民の個人情報は丸裸にされ、個人の権利を奪われる可能性が高い。また、そこにはIT企業と政府との巨大な利権を巡るビジネスの思惑も潜む。デジタルによる徹底的な監視社会の誕生、政府と企業による富の収奪の危険性を回避するためにも、安易なデジタル化に流されず、国民による徹底したチェックが必要だ。」という警鐘を鳴らしている。

個人情報収集ツール「TikTok」の恐ろしさ

本書の中ではそのような危機感を抱かせるに十分なレポートが数多くなされている。

たとえば昨今若者の間で流行っている動画共有アプリ「TikTok」だ。

日本ではあまり話題にならないが、このアプリは元々北京を拠点とする中国企業が開発したものだが、世界の各国から警戒対象に定められている。台湾、香港、インドでは利用が禁止。アメリカでは保護者の同意なく未成年から個人情報を収集していたとして570万ドルの罰金が科せられた。アメリカ国防総省ではすべての兵士にTikTokの利用を禁じられた。

それだけではない。

今年同じくアメリカでプライバシー保護法に違反しているとして、100億円以上に和解金を支払わされたTikTokは「ユーザーから生体識別情報 (顔写真や声紋のような個人を特定する情報)を収集する」と利用規約を更新。アプリをダウロードする際にいちいち利用規約をチェックするユーザーはいないことから、”合法的に”かつ”ユーザーが知らぬ間に”個人情報を収集することを可能とした。

生体認証があれば偽造パスポート、クレジットカード口座などが簡単に作れる。アカウント乗っ取りや詐欺などの材料に使われる可能性も非常に高い。海外の多くの国はTikTokに警戒を強めているが、なんと日本ではTikTokの親会社であるバイトダンスが経団連に正式に加入し、日本の財界や政府の動向に影響を与える力を持つようになってしまっている。

 

このTikTokの件は本書の第一章で取り上げられている事例だが、これだけでもかなりセンセーショナルな内容であることがお分かり頂けるだろう。「若者の間で流行っている」という理由だけでTikTokをビジネスに活用する向きが強いが、より長期的かつ国家戦略という俯瞰的な立場から眺めた場合、そのような単純な思考がどれほど危険をはらむ行為であるかが容易に想像がつくだろう。

本書を読む上での注意点

堤氏の著作は、このように日本で普通にメディアに接しているだけでは知りにくい貴重な情報提供してくれるのが特徴だ。その意味では今作も非常に興味深い内容となっているのだが、一つだけ難点を挙げるとすれば、彼女の書き方の癖によって、読み解くのに若干疲れる著作になっている点だ。

というのは、ジャーナリストであるのだから当たり前かもしれないが、彼女の著作はいつも一冊の本が全体として体系だった書かれ方をしていないことが原因。

各章がデジタルという一つのトピックで関連づけられているものの、それぞれの独立性が高く、関連性が薄い。また、事実の列挙や解説に終始している箇所も多い。著者独自の観点やそれに基づく主張が分かりづらいため、バラバラの記事の寄せ集めのような印象を受ける。

その一方で、膨大な情報が掲載されているだけに、連続して読むと”胸焼け”がしそうになってしまい、著者が調べ上げたことの”面白さ”がいまいち伝わりづらいのが非常に残念だ。

とはいえ、今回の著作では”デジタル化の光と影”という横串を通して、下記のような私たちの生活に関わるさまざまなトピックが取り上げられている。

 

・デジタル庁の利権問題

・スーパーシティに隠された利権構造

・巨大IT企業による個人情報収奪の問題点

スマホ決済などのデジタルマネーを取り巻く企業の闇

・教育のデジタル化の影でボロ儲けするIT企業

などなど。

 

どれもが日本社会のこれからの動きを考える上で非常に有用な知見を得られるのは間違いない。最初から全部読もうとせずに、興味がある章だけを一章ずつ読むなどの工夫した読み方をすれば、”胸やけ”することなく楽しめるのではないかと思う。

 

という訳で今回ご紹介したのはこちら。

堤未果 著「デジタル・ファシズム」でした。

 

 

 

今回も長文を最後までお読み頂きありがとうございましたm(_ _)m

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