恩師のこと

すっかりお酒も弱くなり、周りからはいずれ老眼になると言われ、歳をとったと感じる今日この頃である。最近、やたら老人たちを意識する。いや、いずれ老人になるんだってことに気づいている。もし明日、老人になったら、生きていく勇気があるのだろうか。そういえば、今朝かな?、老婆が二人、手をつないだまま電車に飛び込んだって。ニュースがテレビで流れてた。過ぎ行く時間は怖い。
僕はいま若者の面倒をみる年齢だ。仕事でそうせざる得ないときがある。教える-教わるって関係は複雑だ。だって、目の前にいるオジサンやらオバサンにまったく幸せそうなオーラがないときに、なんで貴方たちを目指す必要があるのか?と思うことは正論だからだ。歳をとることを無理に前向きに捉えようとする傾向があるけども、それは虚しい。

前向きな話をしよう。

歳をとると、それだけ過去を振り返える時間が増える。僕は、最近、10代後半のときにお世話になった恩師のことを思い出す。その人は、南アフリカで有名な画家だ。僕は絵が下手なのに、画家になりたがっていた。やたら人見知りで、図書館で知らない画家の画集ばかりみる青春だった。反抗的で、勘違いした生意気なガキだった。けど、絵は一生懸命描いてた記憶はある。描くたびに才能のなさが際立っていった。だからこそ、半ばやけくそに、とにかく多くの枚数を描こうとはしていた。
南アフリカの恩師は、それら敗北の結果ひとつひとつに丁寧なコメントをくれた。さらに、なぜか僕を、彼の友人たちとのディナーに同席させた。もちろん、僕はなにも喋ることはない。僕以外は、それなりに社会的地位のある立派な大人たちだったからだ。けども、しつこく何度もディナーに呼ばれた。半ば命令でもあった。

あれから時が経ち、彼が僕にソーシャルスキルを身につけさせようとしていたことが分かる。人はいずれ社会にでる。子供から大人になる。自分を演じる時間が増えていく。彼は、そんな当たり前のことを教えてくれた。大人と同じ席に座らせて、大人の振舞いをみせる。最良の教育だ。
また、こんなこともあった。週末に彼のアトリエに呼ばれた。紅茶を淹れた後、彼は「君は西洋人にも、日本人にもなれないんだ。外国人になる人生を選んだんだ。だから、迷わず外国人の絵を描くべきだ」と僕を諭した。この歳になると、愛のある言葉ほど貴重なものはないことが分かる。

時が経ち、僕は絵描きになることを諦め、サラリーマンになった。さまよえる外国人にもなれなかった。後悔はたくさんある。せめて、あの時、恩師が僕に与えてくれた情熱に相するものを、後輩にも与えたいと思う。迷惑だろうか?時は前に進んでいく。。

headache

この頭痛薬はきっと偽薬で効かないだろう。3錠飲んでも脳幹に雷が落ちるような激痛が走り気が狂いそうになる。茶色いプラスチック容器を壁にぶつけて、額の汗を手のひらで拭った。遠くからブーツがコンクリートを叩く音が聞こえ、更に叫び声も聞こえる。けど、その叫び声が誰の声かは分からない。自分の心の声かもしれないし、単なる幻聴かもしれない。いや、隣の独房に誰かいるかもしれない。その正体不明の叫び声の合間に一定の間隔をとりながら、ブーツの音が聞こえる。誰かが彼を狂わすためにあの音をだしているんだと思っていた。「どうして、君はここにいると思う?その頭痛薬を手渡すのは誰だと思う?そもそも、君は自分を誰だと思う?」。たぶん夜だろう。扉が開き、夕食が支給される。彼は抵抗する気力もないまま、ただ叫ぶ。そして、鎖の首輪でにつながれた身体を壁から引き離そうとする。同い年にみえる緑の軍服を着た青年は、無表情のまま固いポテトサラダが入った銀皿を床に置く。そして、頭痛薬をその隣に置く。扉は閉められて独房は闇の世界に戻る。ラベルには米国産とあるが、何の薬だか書かれていない。勝手に「頭痛薬」と呼んでいるだけであって何の錠剤なのかは分からない。

独房のなかで彼は考える。もう長くはもたない。そして、どうしてここに居るのかが分からない。いや、ここに居る前にどこに居たかが思い出せないから、自分がどこに居たいのか分からない。だから、自分はここで生まれたんじゃないかと思う。けど、それはあり得ない。彼は後頭部に大きな傷があり、それが比較的新しい傷であることを知っていた。あの軍服の男たちはネオナチか何かで、きっと自分は優等生でレジスタンスであったに違いない。高貴な抗議デモの途中で鉄パイプか何かで瀕死の重傷を負ってここで捕らわれているのだ。そうに違いない。「きっと間違ったことはしていないんだ。だけど、ここに居るんだ。だから、正しいのだ」。錯乱する意識と声のなかで、1文字1文字辿るように、自分の正気にその言葉を叩き込もうとする。「ボクハマチガッテイナイ」。ポテトサラダを口に入れてすぐに吐き出す。

ジープを走らせながら、どうやったらその若い男を独房から救い出せるか考えていた。その男はもちろん独房にはいない。東京の整然としたアパートで月50万を払ってプロのジャンキーになっているだけであって人の妄想が画面に映し出される時代において、彼のバッドトリップは単なる厄介な案件でしかなかった。退屈な妄想ほど抜け出すのは難しい。単純な妄想ほど精神エネルギーを使わないから心はその世界に癒着しやすい。最後のドラッグを腕に打つ前に、全財産を私の口座に振り込み治療を予約して逃げた。先に治療代を払って、死ぬか、生きるかを医者に託し、物理的世界から逃げだしたのだ。打つケミカルの種類を丁寧にデータにして、メール添付してきた。もちろん簡単に解ける方程式ではない。そして、それらは簡単に購入できる代物ではなく、彼のように馬鹿で金持ちの親がいるから成立する。ジープは夜の森に入っていく。考えなければ。独房。声。軍服。頭痛薬。ポテトサラダ。ストーリーとイメージだけがモニターに映り、彼がこの世界に戻るのは絶望的だ。
後ろからついてきた助手と硬直した彼を荷台から降ろす。深夜の研究所には誰かいるわけはなく、診察室から自分たちで担架を一度外に持ってくる。何が起きるか分からないので、一応拘束バンドで縛って奥へ運ぶ。助手は深くため息をつく。金曜日の深夜だ。ジャンキーの戯言に付き合う時間帯は過ぎている。

− こんな奴捨てて帰りませんか。

丁寧かつ静かに独り言のようにつぶやく。窓の外から月光が反射する海がみえる。リゾート地なのに起きていることは重苦しい。

− そうはいかないし、多分100年考えても答えはひとつだ。私たちにできるのは、本当の頭痛薬を届けるだけ。そして、その頭痛薬はきっとこれだ。

壁の棚から緑の小瓶をとりだす。悪夢を取り除く薬。抜け出せない妄想にもっと巨大な妄想を注入して、狂気を正気に戻す薬。

− 要するに人体実験に付き合えと。効かなかったら彼はもっと苦しむことになる。それならば、このまま海や森に捨ててしまったほうがいい。

こんなやり取りを遠い昔にしたような気もする。殺すか。あるいは、狂わして生かすか。緑の小瓶にはレモンの香りがする水色の液体。それを注射することは、誰にでもできる。これが治療なのか。注射の準備をする。

− 聞こえていますか。

一応話しかける。反応はない。仮に薬が効いてこの世界に戻ってきても、トリップ前とトリップ後の彼の意識がマッチングする確率は低い。軍服やポテトサラダは、一体何を象徴しているのだろうか。考えても仕方がないのだけど、つまり大きな力に強制的に捕らわれて、そのなかで柔らかい乳房にも似たものに接して、出口をみつけないで迷子でいたいのだ。

− 彼が戻ってきても何も喋り掛けるなよ。

− はい。喋るつもりなんて最初からありませんよ。早くやって、早く帰りましょう。教授。

細長い注射器に水色の液体を入れて、彼の頸動脈に刺す。

扉が鈍い音をたてて扉が開く。彼はかろうじて目を開く。

− 釈放。出て行け。

軍服の青年がまるで機械人形のように命令する。

− 釈放だ。起きろ。出ろ。

首輪はとれている。軍服の青年は彼を強引に廊下にだす。そして、今度は自ら独房にはいり、扉をロックした。その途端、廊下の奥から大量の液体が流れてくる。その液体の刺激臭を嗅いだ途端、何かを思い出した。でも、その感覚はすぐに消えて、液体の中で溺れていた。軍服の青年の顔を思い出した。あれは自分の顔のようにも見えたけど、でももう自分の顔すら知らない。これから自分はきっと溺死するが、それが本当の自分なのかも知らない。薄れゆく意識のなかで、白い乳房を思い出した。あの売春宿であの白い乳房をみたとき、僕は狂う決心をした。そんな記憶が蘇ってきた。この刺激臭。あの太股。でも、もう遅かった。不思議と頭痛はとれていた。

三上晴子 『Worid Membrain - Disposal Containers』 : 不気味なものを保存する

ラディウム−レントゲンヴェルケで開かれた三上晴子 『Worid Membrain - Disposal Containers』で不思議な作品に出会った。実験動物の死骸、放射性廃棄物、注射針などが、原色で不透明のプラスチック製の容器たちに詰められ、更にその容器たちは、透明プラスチックのキャリーケース(のようなもの)の中にギッシリ詰め込まれていた。死骸や注射針は外からみえないし確認できない。ただ、ケースやバックに貼られた英語のステッカーでそのように書かれているだけだ(「触るな!危険:放射性物質」のような)。鑑賞者は中にそれらがそこに在ることを想像するしかない。そもそも、そのステッカーやキャリーケースが実用されているものかすら分からない。重さも軽さも分からない。作品のなんとも言えない不気味さが、何日も頭の片隅に残った。

「検索」して新しい何かを探し、右クリックしてそれらをひたすら「保存」する毎日。自分たちが「保存」したものは、きっと自分たちよりも長く生き残る。重くもなく、軽くもなく、腐らず、錆びず、それらはここに半永久的に在るだろう。プラスチックと2進数で作られたデータは似ていて、唯一無比の本物であると同時に、それぞれ根本的には同じ方程式で作られたフェイクだ。
フロイトは、「すでに投げ捨てられたはずの古い信念の正しさ」が現実になると人のなかに「不気味なものという感情」が生まれるという。*1

わたしたちは誰もが、個人としての発達段階において、原始人のアニミズムに相当する時期を経験してきた。このアニミズムの段階がわたしたちのうちにさまざまな残滓を残しているのであり、それはときにふれて必ず外に現れてこざるをえないのである。

幽霊なんているわけがないのに、ふと何かのきっかけでその存在を感じてしまうような不安。科学的に立証されていることがくつがえされるかもしれない不安。三上のプラスチックたちは、この先も生き続けるし、きっとアクリルなどの絵画よりも長く保存され続けるだろう。兎や注射針などが「在るかもしれない」容器たち。私たちは死ぬけど、彼らは死なない。なぜなら、彼らは人間ではないからだ。けど、彼らが一度アートや「作品」として昇華されると「不気味」な存在感を保つようになる。
原子炉の廃棄物を70メートル以上地下に埋めて、10万年掛けて国で管理するという狂気のニュースが流れる世界に生きている。きっとずっとそうだったのだろう。三上晴子は、世界がその「不気味さ」に耐え切れなくなるのを、静かに予見していたに違いない。*2

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三上晴子展 “Worid Membrain: Disposal Containers”
2016年8月19日(金)〜 30日(火)
ラディウムーレントゲンヴェルケ

*1:フロイト、『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』 (光文社古典新訳文庫

*2:唐突だけど、歳をとって死について頻繁に考えることは自然なことだと思う。未だに自分がいつか死ぬことが信じられない(大丈夫か?)。死への恐怖はあるけど、それと同時に興味もある。一体どんな体験なんだろう。どんな後悔をしながら死ぬのだろう。本当にくだらないことばかり考えるものだ。不老不死なんて苦しいに決まっていて、長引いた現実に飽きてしまい、死ねないことに苦しむ日々を過ごすのだろう。拷問に近い。だから、寿命というのは上手くできた科学なんだと思う。人生は100年できっと充分なのだろう。もし、僕達が永遠に生きるとすれば、それは恐怖でしかない。

『シン・ゴジラ』について

どうして『シン・ゴジラ』を絶賛できないんだろう。
それは、きっと傑作すぎるからだと思う。
傑作を絶賛する必要はなく、傑作は傑作として残る。
多くの人々に絶賛されるわけだから、絶賛する必要はない。
対して欠作はかならずしも傑作ではない。
だから、すぐに評価を得ない。
けれども、傑作以上に欠作の傑作は人の記憶に残る。
欠作の傑作は、トラウマだからだ。

つまり、やはり夏エヴァは来なかった。
綺麗に、語るべきことをすべて語り、抑えるポイントをすべて抑えて、映像もよし、音もよし、デザインもよしの超優等生映画が『シン・ゴジラ』だった。
夏の宿題は終わった。
けれども、それは、いままでの延長線上にしかなかった。

 中村一美 『作品の表現主義性が増していくということは、規律的にコントロールする強化された形式を要す』

このブログのなかでも、何回か中村一美の絵について語ってきました。(蛇足ですが、アーティストや作家をを紹介するときに「先生」と書くべきか、呼び捨てにすべきか迷う。。でも、なんというか、今回は気分で「中村一美」で統一します。「さん」づけしても友達でも知り合いでもないわけだし。日本語難しいですよね。)
今回も中村一美の新作について、少しだけ感想をつぶやきます。自分でもどうして中村一美の絵について語りたくなるか不思議です。でも、ひとつだけ確実なのは、やはりこの突出した「品質」と「危険さ」について記録しなければという想いがあることです。

広尾のKaikai Kiki Galleryで来月4月2日まで開かれている中村一美個展『作品の表現主義性が増していくということは、規律的にコントロールする強化された形式を要する』に行ってきました。冒頭で「語りたくなる」と宣言したばかりですが、今回の展覧会をみて、過去に自分が試みたコンセプトや意味合いを読みとろうという姿勢は間違っていたなと感じました。陳腐な言葉ですが、一言でいって今回発表されている絵画たちは「凄い」に尽きると思います。理屈抜きに絵画として「凄い」。
絵画の良し悪しの基準はもちろん主観に基づいているし、ましてやアートの専門家でもない僕が「凄い」と言ったところで何の意味もないのです。しかし、それにしても、やっぱり、、「凄い」!!!!!(うおー!!!!!)
その「凄い」と思わせる力のひとつは、徹底されたフォーマリズムにあると思います。「良い絵」「悪い絵」の基準のひとつは、「品質」にあるかと思います。そのなかでもフォーマリズムの品質は大事だと思います。中村一美の絵は、すごく丁寧にできていて、繊細なバランスで組み上がっています。そうでなければ、単なる暴力的な絵になるし、もっと言えば、雑な絵になるはずです。でも、紙一重のところで「これ以上の正解はない」という品質(ゴール)まで押し上げている。これは、理屈や屁理屈ではなくて、実践者や労働者だけが絵画の神様との対話によって手に入れられる技術だと思います。なんだかオカルトめいたことを言っていますね。でも、僕の目には中村一美の新作は、オカルトー超自然の領域に入っていました。ある種、懐かしめるはずもないけど懐かしいあの「西洋近代絵画」のようでした。なので、Twitterで「あれは射精だ」という意見があったことは納得できます。セザンヌピカソー抽象表現主義という路線でみれば、確かにそうかもしれない。けれども、現代の多様性受容、アンチマチズモの傾向に反するような「ガチなフォーマリズム」を前に、政治や歴史の概念はぶっ飛んでしまい、ただただペインタリー享楽に溺れてしまう。猛毒であって、媚薬であって、やはりオカルトな絵画だと思うのです。悪い例えですが、エロ本です。でも、エロ本じゃダメなんでしょうか。真っ正面から気持ちイイ絵画。それはどこか懐かしくて、懐かしいからこそ新しいと思うのです。



と、独りよがりに絶賛マスターベションが済んだところで、少し考えたことを書きます。

1)影と痕跡
今回2015年に描かれた『絵巻』シリーズが7点発表されています。そのなかで、フラットな背景に最小限のストロークが舞う作品があります。淡いピンクの上に、混色のストロークがクロスオーバーしています。『存在の鳥』などに比べて、一見とてもシンプルな構図なのですが、各ストロークに対するように薄い色で「ストロークの痕跡」が描かれています。これらは濃い茶色なので、まるで各ストロークの影のようにもみえます。すると、ストロークがフラットな背景から立体的に浮き出てるようにみえて、構図の躍動感が増します。しかし、これらを先述のように「影」とみるか、それとも「痕跡」とみるかによって作品の顔が変わってきます。「影」であるならば、それは現在起きている運動に対するものです。「痕跡」であるならば、それは過去に起きた運動に対するものです。「影」には命はないのですが、命あるもの(ストローク)を追う無の存在です。それは「痕跡」というメタファーでも同じで、焼き付かれて炭や灰となってしまった「痕跡」も、つまりは命はないのだけども、命が別にあったという証拠です。より動的(いまここ)なのが「影」で、より静的(かつて)なのが「痕跡」だと思います。生きたストロークを追うある意味死のストロークたちは、影なのか?痕跡なのか?、明確にさせていないことによって、より複雑な時間や次元のズレを生じさせていると思います。

2)2つの作品の対比
「Super Painting」という造語が許されるならば、今回発表された『存在の鳥303』(2015ー16)と『死を悼みて湿潤の黄瀬やちに立つ者』(2003ー15)は、それだと思います。前者にはエロス、後者にはタナトスの力が漲っていました。


写真や動画では伝わらない迫力がありますので、ぜひ現物をご覧になることをオススメします。
^^Vではでは、またお会いしましょう。


中村一美個展 「作品の表現主義性が増していくということは、規律的にコントロールする強化された形式を要する」
2016年3月8日 – 2016年4月2日
http://gallery-kaikaikiki.com/

こぐま

中島晴矢 「ペネローペの境界」

阿佐ヶ谷TAV GALLERYにて、中島晴矢 「ペネローペの境界」を体験した。被災地の除染作業やテロリズムによって瓦解する世界の普遍性について、作家が真正面からぶつかった展示だった。

入口近くにある『Walk this way』は、エアロスミス・Run-DMCの同タイトルの曲とは対極的に、ポップでもアッパーでもなく、無音のなか、壁のように積み上げられたフレコンバック(汚染土壌を格納する黒い袋)の前を、赤い服を着た1人の女性がひたすら歩き続けるビデオ作品。こんなにストレートに外部(非当事者の立場)から、原発事故の作品を扱ってよいものかと一瞬とまどった。しかし、実はその違和感も作品の一部なのだと思う。パンフレットに、作者自身のことばで、「所詮、東京者の、「観光客(東浩紀)」の視点で。」と記されている。意図的に、あえて第三者として、フレコンバックの山の威圧感や異常さを撮ったのだろう。

奥の部屋の右側には、大きなテキスタイルの作品『New World Border』、正面には、ビデオ作品『ペネローペの境界』、その手前には、足踏みミシン『UNIVERSALISM』、背後にはインストレーション『オデュッセイア』がある。作家は、古代ギリシャ叙事詩オデュッセイア』と自ら被災地で感じたことを、複数のメデュウムを用いてリンクさせる。それは、こじつけでもあり、妄想でもある。しかし、アートが成功しうる瞬間は、その個人のこじつけや妄想に鑑賞者が引き込まれてしまう瞬間にあると思う。その意味では、この部屋の展示は成功していた。

『New World Boarder』は、スベスベな表面をした現代的な作品である。各国の国旗が、迷彩のようなパターンで交じり合っている。柳幸典の『アント・ファーム』のように、国の境界線の曖昧さを問う作品にみえたが、その不気味さは、室内隅に展示されている『Endless Loveless』との対比によって際立たされていた。『Endless Loveless』は、オデュッセウスの妻、ペネローペが織ってはほどき、ほどいては織った「フレコンバックの生地」の作品だ。手作業で織られたデコボコで、漆黒の生地と対峙するのは、機械的に処理されたようにスベスベで色鮮やかな複数の国旗たち。自国の重い現実の黒さと、わざとらしいほどに人工的で鮮やかな国旗たちの不気味さの対比は、遠い距離で起きている現実に目を背けつつ、あきらかに絶対性が瓦解している自国の現実にも対峙できない現代の不安定さを表しているように思えた。

入口の『Walk this way』で歩いていた赤い服の女性が、『ペネローペの境界』のなかでは、足踏みミシンでフレコンバックを織っている。彼女がペネローペだ。夫オデュッセウスの「イラク戦争」からの帰還を待って、フレコンバックを織っては、ほどいている。フレコンバックを織り終わってしまうと、「ゴロツキ」である求婚者たちのひとりと結婚しなければいけないというのが、作者の物語だ。ループするこのビデオ作品のなかで、ペネローペは唄をうたいながら、延々とミシンを踏んでいる。そのミシンの実物が、『UNIVERSALISM』という題名で展示されている。「普遍(Universalism)」から完成「しない」フレコンバックを織り続けている。彼女は虚構であるが故、実物のミシンの前にはいない。後ろを振り向くと、白い砂浜に巨大なフレコンバックとオデュッセウスの首が置いてある。『オデュツセイア』と呼ばれたこの作品にも、虚構と現実の間を行き来する不気味さがある。都内の画廊に置かれた巨大なフレコンバックの中身は何なのか?そしては、苦悶の表情のオデュッセウスは、ループするペネローペを見つめながら、何を想うのか。

作品は、創らないと創られず、ゼロであれば作品ではない。けれども、ゼロ以上の何かが「作品」になってしまうとき、そこには「居心地の悪いわざとらしさ」が生まれるときがある。今回の展示には、それはなかった。あくまでもゼロに近い、けれども、ゼロではない物語を紡ぐことに成功している。複雑なリンクとレイアーで仕掛けられた不気味さが、作者の問題意識と共鳴して、物語を立体化させている。

中島晴矢 個展「ペネローペの境界」[ 6/26 (fry) – 7/12 (sun) ]
http://tavgallery.com/nakajima/

『コンタクト』 砂のことば、希望のことば

久しぶりに観たけど、やっぱりすごくよかった。この映画のなかで電話、メモ、トランシーバー、テレビ、メール、いろいろなツールと言葉(英語)を使ってする他者とのコンタクトとあの浜辺でエリナーにしかわからない妄想による、あるいは現実の宇宙人(父親の姿をした)とのコンタクトはまったく異なるものなんだよね。前者はいわいるコミュニケーションであって、伝達方法と伝達目的がはっきりしているフラットな世界。後者は「言葉にならない」経験であって、確かに言葉で会話はしているけれども、それはコミュニケーションという枠には収まらない個人的な経験。もちろん宇宙人と話すとかありえないことなんだけど、エリナーは潜在的に死んだ父親と宇宙で遭えるという捩れた想いを持った人で、極限状態でその夢が現実と感じただけかもしれない(映画のなかで、実際それが妄想か現実かは明らかにされない。)エリナーは、この「伝わらないし、伝わるはずがないコミュニケーション」について葛藤してきたキャラクターだけど、ラストシーンですごく穏やかな表情で地面の砂を手にのせる。砂は言葉を持たないのだけど、あの幻(あるいは惑星ベガ)の浜辺の砂を思い出して、理屈を超えた誰だかわからない彼(父?宇宙人?妄想?)とコミュニケーションをとる。テロの時代でいろいろ起きているなかで、すこし前向きに捉えれば、つまり言葉には限界があるのだけど、言葉を超えたものには限界はなく、それは「想像力」であると。最後は、エリナーの想像力が彼女の心に平安をもたらした。政治的で言葉が通じない世界で、何に希望があるか、『コンタクト』というコミュニケーションに関するSF映画はみせてくれると思ったのであります。大事なことはいつも言葉にはならないし、ツールも変換してくれない。素晴しい映画です。