次のステージへ。(1)

 今はこういう話を書いている場合ではないのだが、考えをまとめるためにも書く必要がありそうなので、備忘録的に。
 この2月10日に公開された診療報酬改定の中身について検討する。
 精神利用についての問題はいくつもある。
 まずは「向精神薬の適切な処方の促進」という、226〜230ページの内容。
 問題点としては、「一回に処方できる向精神薬の種類が更に狭められたこと」に尽きる。前回の診療報酬改定で、同時に処方する向精神薬の数(種類)が一定以上になると、処方料、処方せん料、薬剤料が減点される制度が導入された。多剤併用の問題点が指摘されて久しく、7種類以上の内服薬を処方した場合に「減点」されるという意味不明な制度が最初に導入されたが、これに続く対策であろう。これは全く根拠のない数値で一律に「減点」をするのだから、医療者側も治療を受ける側も不利益が大きい。健康診断などで「病気」を見つけ出しておきながら、その「病気」の治療が一カ所の診療科目では完結しないような制限を設けるのだ。医者の資格があれば、自分の専門科目や得意科目以外の分野でも、治療や処方が許されているから、例えば精神科医の私でも、整形外科領域の内服薬、例えば腰痛のための鎮痛剤を処方できる。しかし、「損はしたくない」という人間として当然の欲求に従えば、6種類までの処方に納めたくなるのは当たり前だ。だから「うちでは処方できません」とお断りしなければいけないケースもあろう。しかし、腰痛がひどければ、その方は当然整形外科を受診して鎮痛剤を処方してもらう必要があるから、余計に診察を受けなければいけない。もちろん、私が誤診している可能性もあるから、専門の医師に診察を受けていただくことに異議はない。しかし、既に診断と治療が決まっていて、経過を見ながら同じ処方を続けていく場合は非常に多い。高血圧や脂質代謝異常などはその格好の例であるが、その場合はわざわざ専門の医師を訪ねる必要もない。けれど診察を受けるとなれば、診察料や処方せん発行の料金、そして医者と患者さん双方の時間が消費されていく。国を挙げて「総合診療科」や「かかりつけ医」を推進しておきながら、結局は医療機関の収入面でその制度の足を引っ張っていることに、お役人達は全く気づいていないようだ。第一、受診する医療機関が複数になれば、患者さんの服用する薬を把握できなくなるから、重複した内容の処方も増える。それを防ぐために「かかりつけ薬局」を推進しているのだとすれば、全くのナンセンスだ。医療費を余計に増やしているのは国の政策だと言い切って差し支えないだろう。確かに一人の医者が多くの分野に精通するのは困難だろうが、「かかりつけ医」を推進するなら、処方する内容について国が口出しすべきではない。患者さんにしても、あちこちの「かかりつけ医」を掛け持ちするくらいなら、一カ所でまとめで受診できる大きな病院を選択するに決まっている。小売店を駆け巡るよりも、大型店舗が好まれるのと同じ原理だ。
 だから大病院に患者さんが集中していくのは当然なのだが、国はそれも認めない方向だ。「紹介状なしの大病院受診時の定額負担の導入」、160〜161ページをみると、これまでのように「紹介状無しに大病院を受診」したら、初診料に「定額負担」として5000円以上を請求される上に、今後は二度目以降の受診でも、毎回2500円以上を請求されるというのだ。「かかりつけ医」が7種類以上の処方をしない場合に限らないが、大病院の方が診断や治療に適している場合も当然ある。しかし、一旦、「小さな」規模の病医院を経由しなければ大病院に受診できなくなった。「小さな」医療機関が、「自分たちは大病院の窓口でもある」という認識を強く持っていれば良いだろうが、下手をするとただの「窓口」に成り下がる可能性が十分にあるから、「紹介」を快く思わない医者も出てくるだろう。先の小売店のたとえでいえば、「うちでは商品を一度に売れないので、大型店舗をご案内」するのだ。小売店のお得意様であればそういう対応は以前からしてきているだろうが、一見さんに対して同じ対応をとると、「あそこでは十分な対応をしてくれない」といわれるリスクも含むから嫌がられて当然であろう。もちろん、「命」を扱う医療機関を「商品」を扱う小売店と同列に論じることはできないが、しかし、どちらも収入を得るための仕事である以上、収入減に繋がる行為は差し控えたいはずだ。こう書くと「医者は高額所得者なのに何を言ってるんだ!」と怒られるのだろうが、開業医を個人事業主だという視点で見ればいかがだろうか。収入を得るための職業でもあるし、医者とは言え家族も居る。当然、子どもも高齢者も養わなければいけない。自分も納得のいかない生活をしてまで、社会貢献するのは一般には難しいのではないのか。そう考えると、開業医が年収3000万円というのは確かに高額所得かもしれないが、個人事業主にはさらに高額所得者が少なくない。医者だけが批判されるのは、ある意味情報操作だとしか思えないが、いかがだろうか。第一、その「高額所得」には、経費として申告できないような、新たな医学知識を仕入れるための自己投資を含んでいるから、決して「裕福」ではないのだ。患者さんの治療を十分にしている限り、医者が儲けを追求しても、追求しなくても、それは医療とは関係ない部分でしかない。
 話が逸れた。
 私の専門分野である、子どもの精神科についても、「改悪」が為されている。「専門的な児童・思春期精神科外来医療の評価」、231〜232ページ。
 「児童・思春期の患者に専門的な精神科医療を提供している保険医療機関を評価する」という基本理念は素晴らしい。しかし、「評価」されるのは「特定機能病院や児童・思春期精神科の専門的な外来診療を提供している保険医療機関」、つまり大雑把に言えば、前者は「大病院」であり、後者は「児童思春期専門医療機関」である。しかも「評価」される施設の基本条件が、「精神保健指定医に指定されてから5年以上主として児童・思春期の患者の精神医療に従事した経験を有する専任の常勤医師及び児童・思春期の患者の精神医療に従事した経験1年以上を含む精神科の経験3年以上の専任の常勤医師が、それぞれ1名以上勤務」している医療機関だけだ。少なくとも児童思春期を専属で担当する医師が2人以上居る医療機関が日本にどれほどあるだろうか。さらに条件は続き、児童思春期精神科専任の精神保健福祉士、同じく臨床心理技術者(心理士)が各1名以上いなければいけないという。これは相当に大規模な医療機関でしかできない配置だ。その上、最近の半年間にカウンセリングを行った16歳未満の患者さんが平均で月に40人以上いること、診療所では若干内容が異なり、最近半年にカウンセリングを行った患者さんが全体の半数以上であること、と決められてしまった。「カウンセリング(本文には精神療法と記載してある)」をどういう内容と規定するかによるが、16歳未満の患者さんでは、大人の患者さんとは違い、保護者の話や、児童生徒であれば教育機関の担当者の話も聞く必要が出てくる。保護者の話は「家族の精神療法」という概念があるのでカウンセリングに含めることもあるかもしれないが、教育機関の担当者との話は、普通、カウンセリングではない。医者も教師も忙しいから大抵は電話連絡で済ませるが、時には相手の勤務先に出向いて面と向かって相談する必要もある。しかしこれは全く「条件」に含まれていない。あくまでも医者が病医院で行った行為についてのみが、「評価」を受ける条件である。現場を知っている者としては、「ふざけるな!」といいたいところだ。第一、スタッフが沢山いれば、医者一人の労力は少なくても済むが、診療所では基本的に医者が全てを担当するから、数倍以上の労力が必要だ。しかし人手が不足していることを理由に「評価」されない。私のように細々と子どもの診療を続けているのは、採算という面でいえば、全く評価されないどころか、大赤字を覚悟しなければやっていけないのだ。それでも私は続けるだろうが、「続けない」という選択をする医師も出てくるだろう。Facebookにしたって、「いいね」が全く押されなければ退会したくもなる。ましてや、収入に直結する問題だ。これも結局は「大病院志向」を後押しする内容になっているのは、もう呆れるしかない。
 診療報酬改定の度につぶやく、お決まりの内容になってしまったが、まずは半分程度吐き出せたかもしれないので、一旦、中断します。

リアルでのコミュニケーションと、ネットでのそれの混同

 SNSをはじめとするネット上の対人関係への否定的な意見が目立つようになって久しい。
 昨日(2016/01/16)の東京新聞にも、日本エレキテル連合中野聡子さんの記事があった。タイトルは「SNSをやめてみた」。そこには匿名での言葉の暴力でとても嫌な思いをしたが、握手会等で実際に合う人からはそういう嫌な思いをしたことがない。「生身の人々の優しさはプラスのエネルギーに変換できたのに、SNSで受けた汚い言葉には彼ら同様に汚い言葉で返すことしか出来」ず、自分自身も匿名の存在になってしまった。相方は冷静に賢くSNSとつき合っているが、自分はSNSの利用をやめた、とある。
 香山リカ著の「ソーシャルメディアの何が気持ち悪いのか (朝日新書)」を以前に斜め読みしたときも感じたことだが、少なくともお二人はSNSソーシャルメディアあるいはインターネットでのコミュニケーションを誤認している。あるいは誰もがネットでは匿名で無責任に発言が出来るのが問題の根底にあると言うが、匿名での発言はマスコミとて同じである。今でこそ新聞記事には記者名が添えられているが、その他のテレビを含めたメディアでは、配信する内容の責任者の名前は一切出てこない。「●●新聞社」とか「なんとかテレビ局」というインフラは明確だが、その中身は全て匿名の世界だ。せいぜいタレントという職種の人たちだけが「芸名」を出している程度。だから少なくとも日本のメディアは、基本的に匿名のコミュニケーションを基本にしている。
 では、何がネットとそれ以外のメディアで異なるのか。それは発言の容易さでしかない。後者は一定の団体に所属しない限りコンテンツを提供する側になれないが、前者は環境さえ整えれば誰でも発言が可能になる。それを気軽さというか安易というか無責任というかは、その発言内容によるしかない。
 同じく昨日(2016/01/16)の東京新聞には、ネットが炎上する利用を分析したコラムがある。ちなみに「ネットで何が・・・」と言うタイトルのコラムには「ニュースサイト編集者・中川淳一郎」と署名が入っている。さて、タイトルとは違って、コラムの冒頭はテレビ番組での学者の一言に批判が集まっていることから始まる。テレビ番組に対する意見は、従来は電話、ファックス、葉書でしか寄せることが出来なかったが、今は専らネットが利用されているから、実に反応が早い。なぜ炎上したのかについては、「生まれ持っての特性についてネットでやゆするようなことをしてはいけない」という、ジャーナリストと中川氏がテレビ系のネット放送での対談中の結論を引用しているが、これは何もネットに限ったことではない。リアルの世界でのモラルでもある。
 では、リアル世界ではモラルが保たれていて、ネットでは保たれていないからSNSなどが乱れ、あるいは炎上が起こるのか。そうではない。
 2016/01/14の東京新聞、読者からの投書を掲載する頁のコラムに「応答室だより」がある。これも石川徹也氏の署名がある。この日は2016/01/05の「子育てしずらい世の中」という記事への反響の大きさを扱っている。元記事には「混雑したバスの中で泣き出してしまった5歳の子どもに対して、同乗していた高齢者や30歳前後の男性が『うるさい』と怒鳴った」という内容だそうだ。元記事の筆者は「公共の場でのルールを守れずに申し訳なかった」と書く一方で「かなりのショック」を受けている。石川氏は、元記事への賛否両論を引用しつつ「公共の場では、相手の立場に立った思いやりが一番重要だと感じています」と結ぶ。言い換えれば、モラルの重要性を再認識しなければいけないと喚起したのだと思う。子どもの泣き声に対する感じ方は様々であろう。しかし5歳とはいえ、既に自分の意思を持って生きているのだし、母親一人だけで子どもに対するしつけが完結するものではないのは了解頂けると思うが、それでも事に付け、子どもに対する責任は保護者、特に母親に押しつけられてしまう。2015/09/28に福山雅治さんが結婚したとき、菅義偉官房長官は2015/09/29のフジテレビ番組で、「この結婚を機に、ママさんたちがいっしょに子供を産みたいという形で国家に貢献してくれればいいなと思っている」と述べた。菅氏はその後の記者会見で「結婚は出産が前提だと取られかねない」との質問を受け「国民から大変人気の高いカップルで、世の中が明るくなり、幸せな気分になってくれればいいなと思った中での発言だ」と釈明した(産経ニュース http://www.sankei.com/politics/news/150929/plt1509290016-n1.html より引用)。大量の人間にメッセージを届けられるメディアで、国家の中枢部分にいる人間がこのように発言するのだから、国民の意識はその方向に操作される可能性が大きい。その上、家にいる女性を「活用」する場は社会だとして、女性の社会進出を後押しする政策を立てているのもこの政権であるが、そのための保育所の整備は杜撰である。保育士が不足しているという認識で、准保育士なるものを作ろうとしたが、保育士の資格を持った人は決して少なくない。現場にいられないのは保育士自身が子育てに手を取られてしまうこと、そして保育で得られる収入の少なさが大きな理由であろう。父親の育児休暇取得率は、1%にすら届かない状態だ。こういった国の制度を見ても、結局、子育てを女性の手で完結させようという下心が見え見えである。その中に「モラル」を気にかける素地が生まれるであろうか。
 リアルにおける対人関係の悪化が、ネットに波及しているだけであるのに、それをネットの「何か」の責任に転嫁するのは、いい加減もうやめた方が良い。
 中野聡子さんの話にもどすが、第一、タレントの握手会に足を運ぶのは、そのタレントに行為や興味を持っている人間だけであるから、そもそもが好意的な雰囲気しか生まれないはずだ。しかし、ネットでは中野さんも「匿名」もしくはそれに近い存在であり、また、わざわざ足を運ばなくても容易に発言を届けられる以上、中野さんに好意的じゃない人からの発言も届く。言ってみれば、中野さんが言うリアルの世界は同好の士が集まる場で、ネットの世界は開かれた場である。悪く言えば、世間の冷たい風に晒されるのは耐えられないので、ぬくぬくとした温室内でコミュニケーションだけを求めて社会から閉じこもったのだと言える。
 ネットを利用すれば遠方の相手とも瞬時に容易にコミュニケーションが取れるので、リアルのコミュニケーションより優れている、あるいは「上」の手段に見えるようだが、結局は周囲の影響を遮断した世界でのコミュニケーションでしかない。だが、それはメールに限ったことだ。
 SNSは全く違う。それぞれが同じ立場で平等に発言できる以上、周囲からの予想外の反応を覚悟しなければいけない。それは実はリアル世界で言えば、公の場でのコミュニケーションに相当するだろう。そういった意味ではSNSを毛嫌いするのは、今後のコミュニケーション能力を考える上でマイナスにしかならないようにもうが、いかがだろうか。
 

2016年 診療報酬改正 中間報告? への感傷

 次年度の医療費改定に向けた厚労省の会議が進行中だが、その中間報告のようなものが先日、公表された。その中で精神医療に関する部分が以下だ。http://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-12404000-Hokenkyoku-Iryouka/0000102476.pdf

 その見出しを掲載すると、
 1.長期入院患者の地域移行等について
 2.身体合併症について
 3.児童・思春期の精神医療について
 4.薬物依存症について
 5.認知症対策について
 6.抗精神病薬の減薬にかかる取組について
 7.精神科デイ・ケア等について
の7つ。順次見ていく。

1. 長期入院患者の地域移行等について
  厚労省の資料に依れば、
  a)入院期間が1年以上の患者は減っているが、65歳以上の高齢者に限るとその数は増加している。
  b)入院期間が1年以上の患者の退院のうち、死亡退院の数は増加している。
 ということですが、補足として、入院者数と入院期間のグラフから、H12年度H24年を比較すると、
  c)入院期間1年未満は約7千人増加して105,074人になっている。
 H24年6月30日時点でのデータでは
  d)入院1年以上の人数は依然として20万人を超えている(H12年は23.4万人)。
 ふたたび厚労省資料に依れば、
  e)入院1年以上の方の退院のうち、約2.8万人(約62%)が死亡退院または転科・転院。

  こういう現状を踏まえて、H26年春に入院患者を地域移行する(退院)ための指針が出されたが、要するに「企業努力を行え」、「努力は評価する(医療収入につなげる)」という内容。そもそも医療機関自体が、これまで公共性を持つものとして採算性を強調されてきていないため、いきなりの「企業努力」は難しい上、性急な措置である。もちろん、これまでてこ入れをしてこなかった厚労省の怠慢と、私企業として利益を優先する面を省みなかった医療機関にも重大なもんだがあるのはいわずもがな。元はといえば、精神病院法で私企業の参入を大きく打ち出した国の政策ミスがそこにある。「手薄な分野は民間に任せる」という常套手段が今の精神医療の間違いの基礎を生んでいる。
  厚労省の資料に依れば、「企業努力」の内容としては、「精神科救急等に人員・治療機能を集約することが原則」という。それゆえ、最近は「精神科スーパー救急」なる名称が大流行している。これが実際にどう機能しているのか、つまり、救急対応のみで回復できているのか、あるいは結局は窓口が変わっただけで、入院に繋がる対応に終わっているのかの評価が必要だろう。
  また、資料の中には、相変わらず「地域移行の体制が整わないので退院できない」という、重症ではないケースが入院者数の40%にのぼっていることも、アンケート(ナンだろうか?)によって調査されている。これは40年前にヴァザーリア法を制定して精神病院をほぼなくしてしまったイタリアの関係者の言によれば、精神障害者が地域で生活するということは、「哲学」がなければ実現しないという。けだし名言である。精神障害者であったも、人間らしい生活を営む権利があるというヴァザーリアの「哲学」が、果たして日本に存在するのだろうか?

2.身体合併症について
 このところの傾向としては、総合病院にあった精神科の病棟が急速に消滅して、外来だけになっていることが目立つ。つまり、総合病院とは言え、精神科に限れば診療所並みの対応しか出来ない状態。
 では、精神病院では身体疾患を診れるのかと言えば、大雑把に言えばNOである。身体科の医師が精神疾患は「専門外だから診られない」のと同様に、精神科医も「身体疾患は専門外」なので「診ることはできない」。だからこそ総合病院にある精神科病棟は重要だったのだが、結局は、採算が取れない、手間がかかるなどの理由で廃止されていった。身体疾患と違い、血液検査や画像検査で参考資料が得られるわけではないため、職人技と言っていいほどの熟練した診察技術が必要なのに、診療報酬は検査をどれほど行ったか、処置をどれだけ行ったか、などで計算されてしまうので、精神科では収入を得る手段がない。辛うじて導入された「通院・入院精神療法」も、一定時間で報酬の値段が変わり、昨年からは指定医と指定医以外の医師で報酬に差がつき始めた。
 指定医はそもそも強制的に行動を拘束しての治療が必要か否かを判断するだけのための資格であったが、いつの間にか診療技術の担保にされている。とはいえ、診療技術についての実技試験は全くなく、どのような患者を診たのか治療したのかというレポートと、筆記試験で資格取得の可否が決められている。厳密に運用されれば取得は困難だろうが、この春発覚した聖マリアンナ医科大精神科のように、レポートのコピペは日常茶飯事ではないかと思われる。私自身は指定医取得に興味が一切ないので、そのプロセスに関わったことがないので、あくまでも「印象」程度の意見だが。
 いずれにしても、先達がようやくのことで確保した総合病院の精神科病棟を報酬を出さないことで簡単に消滅させておいて、今さらお金を出すから再開を、なんて虫が良すぎる話である。

 参考までに精神科病院に勤務する身体科の医師の割合が、先のPDF資料の34頁に掲載されている。あまりにバカバカしい比較なのでここでは数字を出さないが、精神科に入院したら、身体疾患の治療はまず諦めなければいけないほどの数値である。なお、36頁には「精神疾患を有する救急患者の受け入れを断る理由」の72.8%が、「専門外で対応が難しい」である。身体疾患をこういう理由で受け入れできないとしたら、救急病院としての機能は果たさないはずだが、精神疾患では許されてきている。要するに精神疾患だと診断されたら、救急病院へは受診できないと覚悟するしかない状態だ。

 その後、自殺企図者の対策も揚げているが、はっきり言って、生きていたいと思えるような世の中にしてくれなければ、自殺企図者は絶対に減らない。最近はブラック企業による超過勤務での「うつ」が、受診者の中に非常に多くなっている。そうじゃなくても経済成長が見込めない世の中で、若者は働く意欲どころか、生きていく意欲も持てない状態だ。更にセーフティーネットとしての老齢年金は崩壊寸前なのに年金の支払いを求めてくるし、生活保護は壊滅状態。貧困対策も十分に打ち出すことなく、国民からの寄付を呼びかける始末。貧困状態にある国民が、何を寄付すれば良いのだろうか。その上、H28年には、更に企業への税金を減額するという。これまでの経緯から言えば、企業の利益が労働者に還元されたことはなく、一部の高額所得者がより高額所得者になっていくばかりなのは、容易に想像が付く。今年流行したピケティ教授の理論に反する動きばかりだ。これでは世をはかなんで死にたくなってもおかしくない。そうじゃなくても「うつ病」の発症要因が蔓延している。原因対策を施さずに、対症療法だけを頑張れというのはおかしな話しでしかない。

3.児童・思春期の精神医療について
 資料68頁に依れば、「児童・思春期患者への専門的な外来診療の提供体制を確保する観点から、児童・思春期精神科の入 院医療体制にかかわらず、専門的な医療機関における精神療法について評価することとしてはどうか。」とある。要するに、15歳未満の患者が50%を越える、「児童・思春期専門」の医療機関に対しては、入院施設の有無を問わず、報酬を増額することを検討しているように見える。これは一方では、それ以外の医療機関への報酬は減額することを意味する。なぜなら、医療費削減を強く打ち出している以上、増額分を減額分と最低限相殺しなければいけないからだ。資料の65,66頁を見れば一目瞭然だが、「専門」医療機関は全国で140施設で、資料には月に20人未満の児童・思春期患者を診察している施設は含まれていないが、それでも「専門」以外の施設は600を越えている。資料にも指摘されているが、児童・思春期の診察は1人当たり1回に1時間程度はかかる。現状では、収入となる額で言えば3500円の増額があるが、その程度の報酬であれば、成人の患者は1時間に最低数人診察できるから比較で言えばひどい赤字になっている。それを増額分を0にするなら、経営上成り立たない施設も出てくるであろう。医療従事者といえども生きていく為には収入が必要である。当然、「専門」施設へどうぞ、と誘導することになるから、おそらく、「専門」施設の激務たるや今以上になるであろう。果たしてそこ激務に耐えられる人間がこの世にいるのだろうか・・・。早晩、今の「大病院から診療所へ」という方向性を打ち出すことになり、例えば「児童・思春期専門」施設の敷居が高くなるだけであり、当然、収入が増えないのに「専門」外の施設で診察することが強要され、治療の質は大きく落ちることになるはずだ。そんなことも分からないようでは、医療政策を立てる立場にいて欲しくないのだが。

4.薬物依存症について
 「薬物依存」の診断そのものに異論があるので、ここはパス。

5.認知症対策について
 精神科が扱っている疾患のほぼ全ては、「身体的変化が明らかではない」疾患であるが、認知症についてはそうは言えない。精神科で関わることによって、認知症への偏見が強まる恐れが強いので、新オレンジプランへは賛同できない。結局、患者を地域へ戻して、ガラガラになった病棟へ認知症患者を誘導するというだけの方策に過ぎない。資料では診断を十分の性格に下す重要性を述べているが、認知症の診断のためには画像診断と神経学的診察が必須である以上、精神科医には実行不可能だと思われるが、いかがなものか。

6.抗精神病薬の減薬にかかる取組について
 ここも大いに異論がある。
 「依存」ばかりが重要視されたために、抗不安薬(いわゆる安定剤)を十分に使わず、安易に抗精神病薬に切り替える精神科医が多すぎる。いかに小児といえども、体重が30kgの男児の不安にブロマゼパムを1日3mgだけ処方し、それで不安が収束しない場合に新世代の抗精神病薬に切り替えるなどのケースが散見されるが、30kgの人間に処方できるブロマゼパムは10mgを越えるはずだ。十分量処方しなければ効果は全く出ない。不十分に投与された抗生物質が役に立たないのと同様だ。患者・患児は「薬は効かないものだ」ということを学習させられるだけで、百害あって一利もない。こういう処方をし続ければ、いずれ抗不安薬は「淘汰」できるだろうが、薬物が「効かない」患者も増え、結局は医療崩壊に至るだけだ。今の世界の常識が、未来も常識であるという保証はどこにもない。そこを明確にしなければ、抗精神病薬の代わりに、他の治療法で患者を縛り付けることになるだけだろう。

7.精神科デイ・ケア等について
 薬物治療に変わるものとして期待されていたものが、あっさり潰されていくのだ。曰く「1年以上行っても効果がない」。果たしてそうなのだろうか?。効果がないのは方法が間違っているからではないのか?。そういう修正を重ねて、適切な治療法が生まれるはずなのに、医療費削減の旗印の下、全てが削られてくのだ。

 なんだか書いているうちに感傷的になってしまい、論理的な批判が出来なくなってしまったが、本当にお粗末な診療報酬改正になりそうなのは間違いがない。今後、一時期は高齢者が増え、認知症の治療が重要性を帯びるが、その時期に、十分な対処が出来る技量を持った精神科医師が増えるような魅力的な診療報酬改正を、今、行っておかなければ、間に合わないのは目に見えているし、その後は、ふたたび若者の割合が増えるわけだから、その時代も見越して、医師を養成しなければいけない。しかし、相変わらずその場しのぎの診療報酬改正だし、医療機関も目先の改正に右往左往するだけで、その先のビジョンを持っているところが実に少ない。国民の健康をになうという重要な任務がある以上、目先の利益追求だけではいけないと思うのは、私だけなのだろうか。

「誤診」とブラック企業

 昨日(2015/08/21)の東京新聞朝刊に、『レビー小体型認知症なのに「うつ病」』という見出しでの記事があった。うつ病はともかく、「レビー小体型認知症」という病気は馴染みのないものであろうから、まずは簡単に解説したい。
 情報元は「認知症ねっと(https://info.ninchisho.net/)」である。
 先に述べておくが、今の日本で、無料で有用なサービスを受けられると言うことはありえない。利用料金が無料だとすれば、それは他の誰かがスポンサーになっているか、利用することで何らかの金銭以外の対価を提供していることになる。スポンサーにとっても、それだけのメリットがあるから金銭を提供しているわけで、例えばそれは広告を掲示して貰うことだったり、社名などを掲載することで知名度を上げることだったりである。何度も利用することでスポンサー名を刷り込まれるというリスクや、自分が提供した対価を活用されるというリスクを追う必要があるのは仕方ないことで、だからそういうリスクも含めて、肝に銘じつつ情報を手に入れる必要がある。しかし最近は、スポンサー名などを表に出さないようにしているサイトも増えてきているから、そういった表示がないからと言って、全くリスクがないサイト、つまり全てを信頼して利用できるとは限らないことも肝に銘じる必要がある。もちろん、私個人が「認知症ねっと」に対して悪意を持っているワケでもないので、それも肝に銘じて頂きたい。
 さて、こちらの情報に依れば、レビー小体型認知症は1976年(昭和51年)に発見されたという。実に40年ほど前になる。それほど長い歴史があるのに、誤診がはびこっているとは何事だ、と思われる方も沢山いることと思う。もっともだと思う。私の専門分野の一つ、小児精神科の分野で、いま、最も有名になったのは発達障害だと思うが、その発端になったのは自閉症の発見であるが、これが1943年(昭和18年)のこと。今から70年前である。単純に数字だけ比較するのは意味が無いとは思うが、それにしても発見から随分時間がかかって、ようやく世間でも認識されるようになった。もちろん、小児精神科医・児童精神科医は早くから知っていたが、一般の精神科医が診療場面で「発達障害の方」として出会うことはごく珍しいことで、今から振り返れば、つまりは「誤診」されていたのだと考えて良い。残念なことに、今でも「誤診」される例は、恐らく少なくないであろう。そこには幾つもの難しさが重なっている。

 一つは、経験の少なさであろう。随分と分野が違うが、インフルエンザの診断も同じ側面がある。地域で流行しているのが明らかであれば、インフルエンザと診断するのは必ずしも難しくない。「インフルエンザの可能性も考えなければいけない」という知識が、医者の頭に中に浮かんでいるからだ。冬の乾燥した季節で、その上、同居している家族にインフルエンザの患者がいれば、尚更、疑ってかかるから、診断は更に簡単で、確実になる。ところが、この暑い夏の時期に、「節々が痛くて、比較的高い熱が出て、なんとなく風邪のような症状で」という方がみえたらどうであろうか。「常識的」には夏にはインフルエンザにかかることはないと思うだろうから、少なくとも真っ先にインフルエンザを考えることはない。しかし、実際には夏にもインフルエンザの流行が生じることは、10数年前に報告があるし、実際に都内でも流行しつつある。先週も同じような症状の方が数人おみえになった。迅速診断キットで確認でもすれば良いのだろうが、特別な場合を除いて意味が無いと私は考えているし、実際に手元にはなかったので行っていない。その「意味」については別の機会に述べたいと思う。
 「常識的」だと考えるのは、それまでの医者の経験や手に入れた情報次第である。経験を身につけるという作業は、たいてい同じで、それは英単語を覚えるのと同じレベルだ。一度や二度で覚えられるものもあれば、何度暗唱しても、書き殴っても覚えられないものもある。しかし、たいていは後者で、一、二度で覚えられることが稀だというのはおわかり頂けるだろう。それは医者にとっても同じで、一人か二人の患者さんを診察しても、全体像がつかめることは珍しい。全体像というのは、どういう時期にどんな症状が出て、その先どうなっていくか、あるいはこれまでにどういう症状が出ているはずか、という症状の経過とか、今出ている症状が本当に病的なものであるかという程度の評価である。もちろん、必要な知識を蓄えたとしても「百聞は一見にしかず」で、実際に自分の五感で経験したことに優るものはない。しかも情報の真偽は、医学に限らず常に変わっていくから、いくら沢山の情報があふれていても、結局は自分自身で確信を持って診断をするには、随分と経験が必要になってくる。

 二つ目は、治療法の選択肢の問題。医者の真っ先に揚げられる任務が病気の治療であることに異論はないだろう。逆に言えば、治療法が見つかってない病気については、医者とて無力である。もちろん、診断だけ付けて様子をみるという、両者の中間状態はあるが、おそらく医者にとっても、患者さんにとっても、様子を見続けるのは大きな苦痛になる。治せないという医者の苦悩と、治してくれないという医者に対する患者さんの不信感。そういったものを診察室で醸し出しながら、年月をかけてお付き合いをするのは、医者には、そしてもしかしたら患者さんにも、相当な度量が求められる。
 レビー小体型認知症の発見こそ、40年前だが、その治療に役立つ薬が厚生労働省に認可されたのは、つい数年前のことだと記憶している。治療法が確立されるまでは、さまざまな場所で治療をどうするか、それこそ侃々諤々の議論が行われるので、一体どの方法を選択するのか、専門の医師以外には難しいことになる。ところが「治療薬はこれ」と決まってくると、どのような医師にとっても選択が簡単になる分、診断に専念できるようになるし、なにより、治療薬の販売元である製薬会社が医師に情報を提供しやすくなるのが大きい。昨今はこういう「販促」の場が批判の的であるが、かといって製薬会社自身が全く宣伝をしなければ、それこそ専門の医師以外には治療薬の情報が行き渡らないから、今以上に「誤診」も問題になるようにも思う。

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 記事の最後の方に「初診から九年」経って、抗認知症薬を開始したら症状が劇的に良くなったとある。この方の初診は2000年だと記事の最初にあるから、九年経ったときは2009年。丁度、「治療薬」が厚労省に認可されるころのことである。恐らく、その当時の担当医も、レビー小体型認知症の「治療薬」が認可されたので、情報を入手できたのではないか。認知症自体は、当初、神経内科という、内科の一分野で治療・研究されていた病気で、精神科では馴染みの少ない病気だった。しかし、症状として気分の落ち込みや、幻覚という、精神的疾患と同じようなものが出るために、精神科でも診断・治療をしなければいけないという方向になってきた。少し前になるが、脳卒中の診断を、専門医ではない医師が誤診したのは有罪だという裁判の結果を耳にした。患者さんとしては当然だと思われるだろうが、医師の身としては判然としない。その裁判のケースは、専門医でなければ診断の難しいケースだったからだ。だとすると一体、専門医というのはどういう意味があるのか。専門医を名乗るためにには、それこそ他の医師以上に努力し、同時に手放し、あきらめるべきものも沢山ある。だから、専門以外の分野についてはそれこそ「無知」で素人以下という部分さえある。にもかかわらず、専門医と同等のレベルを要求されのなら、専門医を名乗るための労力は全く無意味である。世間での要求が、「広く深く」「経験も知識も」ある医師であるのはよくわかる。しかし、医師とて人間である以上、能力には限界があるのだ。

 そういう意味では、自らのご経験を世間に広めて頂くのは有り難いことだと思う。患者さん自身が医師の力量をある程度値踏みしなければいけない、という警鐘になる。しかし、それが万が一、「医師の勉強不足」「能力不足」を一方的に責めるものであるとすれば、際限のない要求をどう満たせば良いのか、全く分からなくなるであろう。際限のない要求を突きつけられるのは、言い方は悪いが、ブラック企業と同じ構図だ。医師は職種によっては病院に長時間滞在し、職務にあたる。これもブラック企業に勤めた人間と同じ構図だ。これが長く続けば、医師は全体として疲弊し、能力が落ちてゆくことになる。一人前になるために相当な労力を払わなければいけない研修医は、あるアンケートに依れば、4割がうつ状態であるという。膨大な医学知識を身につけることを考えてのことなのか、長時間労働が前提の職種だからなのかわからない。いずれにしても医師が体調不良に陥っていれば、十分な診療は出来ない。それがわかっていても、自身の体調不良をおして、出勤するという医師は非常に多いというアンケート結果もある。それだけの労働を続ければ、将来どういう結果になるかを一番知っているのは医師自身だが、恐らくそこには目をつぶるのであろう。あるいは「労働者」としては扱われないのが慣例だから、だれも「休みなさい」とは勧告しない。研修医の当時から、医師は「管理者」扱いにされているから。

 最後はグチになってしまったが、巷には、手に入れようと思えば様々な分野の情報があふれている。もちろん、玉石混淆ではあるが、それをうまく活用しつつ、「お医者様」ではなく、一人の人間である医師と、自分自身の体調について議論できるようになっていけば、お互いが今以上に健康になるのではないだろうか。