飴、あめ、🍬、🍭、あme、Ame、ame、aMe、AMe、AME、アメ

人は「飴」だと思う。

その人の味があって、口の中で転がす中で少しずつ変わったりもしていく。

その人の形があって、ペロペロキャンディーだったり、のど飴だったりする。

その人の好みがあって、アソートキャンディーの中から取りたいものと選んでがっかりするものがある。

 

「あめ」には1つの味しか出すことはできない。りんご味と抹茶味が同時に楽しめる飴なんて、あってもおいしくない。

 

「🍭」には”おいしい”という「🍭」らしさがあり、”食べ過ぎると身体に悪い”という「🍬」らしさがある。

 

「アメ」はどうやってできるんだろう。

最初はみんな同じ砂糖。だけど、最高級の和三盆糖だったり、西友に売ってるセールの砂糖だったり、一見同じで、違っている。

 

不揃いの砂糖たちを、焦がして、型に流して、冷やして・・・

焦げるほどの悔しくて、型にはめられる違和感を感じて、ふと振り返って冷やして、それぞれの形に、味になっていく。

人間はこのプロセスを何度も何度も繰り返す。

 

どうやったら「Ame」になるのか?

もちろん、人に食べてもらっておいしいと言ってもらったときじゃないかなと思う。

人が食べた時に分かるんだと思う。自分はぶどう味になろうとしてても、人が食べるとメロン味に感じるかもしれない。

 

そしてもう1つ

その人の力だけでは、砂糖から「AME」になることはない。料理して、「aMe」を作る神様が存在すると思う。神様が与えてくれた巡り合わせ、出会い、喜怒哀楽がその人の味になる。

その機会をどのように捉えるかは自由意志である。そして行動するかは自分自身である。

 

「あme」になるには、毎日を振り返って、感謝して、反省して、それが調理の過程である。

 

僕は、

 

僕は「カリスマ」に憧れる。


経営者、教授、友人、先輩、なりたい人になるには、多重影分身しないと間に合わない。

心から人の笑顔を引き出せる人、いつもみんなの話題になる人、多才な人、時間の使い方が上手な人、その人の魅力に触れた時、とても羨ましく、同時に妬ましく、悔しがる自分がいる。


なぜこんなに人のことをうらやましく思うのか?
答えは簡単だ。人から認められたいから、すごいと言ってもらいたいから
ねたむ人は常にチヤホヤされ、話題として出てくる。そんな人になりたかったのだと思う。


けど、自分はそんな人間にはなれない。そう気づけたのは就職活動だった。
就職活動を通して、「自分はペーパーマリオであること」に気づいたのだ。

居酒屋さんの起業、90人の寮のリーダー、サークルの幹部、ベビーシッターインターン、取得単位数203単位など活動自体はたくさんしてきたし、そんな自分にある程度満足はしていた。

しかし、面接で話せないのだ。頑張った活動はある。けど、自分が何をどういう想いでやったのか?それがなかったのだ。特に理由もないまま、引き受けたり、挑戦したりすることが多かった。
別に全ての活動に一貫性を持って、取り組めというわけではないが、やる活動にフリーライダーとして乗っかっていただけなのだ。

だから、面接でも「君の人間性が見えない」と言われ続けてきた。

 


就職活動する中で、たくさん考えた。自分自身が4月から働く予定の会社の面接対策には2冊のノートをつぶしたし、100人くらいの人にあって自分を見つめなおした。

 

この中で分かったことは2つだ。
1つは、自分自身にしか矢印が向いていなかったこと、「こういう風に人から見られたい」という理想のペルソナを作って、それを取り繕うのに必死だった。
もう1つは、自分ができる等身大の経験をしていこうと思ったことだ。就職活動で出会った友達は、目を輝かせながら自分に、経験を話してくれる。その人らしいし、そういう中で挑戦している姿を見て、自分が恥ずかしくなった。

 

最初の話に戻ると、「今まで憧れていた人は今の自分ができる等身大の経験を語っている人」、「その人らしさが所作からにじみ出て、自分の心に触れる」そういう人に憧れていたんだと腑に落ちた。

 

 

だから今は、等身大サイズの服と靴を履いて、とりあえず心を落ち着かせている。