西の学者の手記

ムル・ハートと彼とともに仕事をした人間の学者に、「魔法使いの約束」の世界を説明してもらうブログです。

前書き

西の国のお抱え研究者 L氏の手記

前書き

ムル・ハートと一緒に研究をしたことがある。証明しろと言われても難しく、今まで何人の人間に「学者なら、誰でもそんな夢を見るさ。あの天才に一度で良いから会ってみたいとね」と言われたことか。しかし私は本当に人生の何年かをあの叡智に満ちた魔法使いと過ごした。満ちた、なんてものではない。叡智そのものだった彼と。彼を先生と呼び、彼とこの世界についてを探究した。

紫の髪を切りそろえて、熱心に月を眺めていた姿を、私は何度も研究室の窓に、書き終わった論文を綴じる紐に見た。ほら、私の言った通りだろうとも、私は違うと思うがねとも言いたそうな顔をそこに見るようだった。彼に会わなくなってから何十年たってもだ。

以下は学術論文でもなんでもない、私の手記である。手記というと聞こえは良いがまとまりのない散文である。証拠と証明と結果の求められるこの西の国の研究所で、どうにも証明しようのない、おとぎ話の魔法使いと出会ったことをまとめたいと思い、ただ書き始めた文字の連なりである。

 

文字の連なりと、そういえば彼も言っていた。

「長い時間を生きると、私はすべての研究を私一人の連続した一つの意識で完結させようとしてしまう。それではいけない」

 彼は被っていた山高帽子を魔法で空中に浮かせていた。帽子の先からはぱちぱちと火花が小さくはじけていた。上機嫌にも退屈という名の悪魔に乗っ取られたようにも見える顔でムル・ハートはその火花を眺めていた。

「どうしていけないのでしょうか? 長い時を生きるのであれば一つの大きな研究体系を一人で築き上げられると思うのですが」

 それは羨望でも嫉妬でもあった。人間の何十倍、何百倍も生きる彼らは歴史そのものにも、技術そのものにも影響を与え自分のものにできる。私はそれが許され、しかも生まれながらの叡智をまとったムル・ハートという男が羨ましくて憎くてたまらなかった。

「きみ、そんなので学者を目指しているのかい?」

 彼は火花を大きくすると、その炎の中に帽子を投げ入れてしまった。また帽子は生み出すから良いのだそうだ。

 

「研究体系は一人では作れない。あらゆる多様な意識、すなわち他人と他人が一つの物事について論じ合わなければ作れないものさ。今燃やしたこの帽子だって、より理想の帽子にするには色は青が良い、いや赤が良い。もっと高くした方が良い、いやぺしゃんこにするべきだと、二人以上の人間が言い合わないと良いものにならないだろう? 良いものを、良い研究を生み出すには複数の意識による複数の意見が必要なのさ。学問の常識じゃないかい?」

 ああそうだ。こうしてなんの反論もできないような言葉を突然、彼は天文台の窓から差し込む陽の光の下で話し出すんだった。今となってはあの光の下でどんな顔を彼がしていたのか証明ができないが。

「先生は、論じ合える誰かがいた方が良いと?」

「当たり前だろう。何百年もあとのどこまでも離れた人とも論じ合うために、文字の連なりで私は私の研究を残すのさ。愛する月について、私以外の考えが生まれることは嬉しいことだからね」

 天文台には何百年にも渡って彼が書き上げてきた書籍が積まれている。多くが月と、それを観測するための技術と、この大陸についての文献だ。

「印刷技術が未発達だった頃ですら、誰か私以外の人に読まれないかと思ってひたすら書いたよ。私は私以外の誰かにも愛する月とこの世界の謎を解明してもらいたい。そうでなければ私の研究も、私の愛も成就しないと思っているんだ」

「愛、ですか」

「ああ、愛さ。知り尽くしたい、分かりたいと思うことが愛でなければ何だというんだい?」

 愛によって、彼はその長い長い人生を学者たり得るのだろうと思う。私はどうだろうか。西の国の国庫から研究費をもらいながら、この大陸とこの国と他国のことについて知りつくしたい、分かりたいと思って研究を進められただろうか。

 私はどうしても、初めて会った時に数百年の時をすでに生きていた、ムル・ハートという天才にこの点で打ち勝てることができない。寿命が違うからか、彼が天才だからなのかも、もはや分からない。彼という一人の意識が残した膨大な文献と、一人の意識が私に残した考え方は不滅で、無敵であるように思う。長い寿命はどの研究者も欲しくてたまらないものだ。天才の頭脳も。それでも彼は、誰かがいなければ愛は成就しないと言った。

 もしこの散文が彼に届けば良い。私のことは忘れてしまっただろうが、ムル・ハートの研究という名の愛を後押しするきっかけになれば良い。そう思って書き出したこれは、私が人生と愛をささげてきた研究の、少しはみ出た文字の連なりである。

 


※このブログは、魔法使いの約束のファンが「まほやく世界はどうなっているのか」と考え、その仮説をムル・ハートと、彼の下で共に研究をしていた人間の学者に仮託して展開するものです。目次のページより、好きな項目からご覧になってくだされば幸いです。

目次

ひとつの大陸

その日、私はムル・ハートに連れられて砂浜に来ていた。来てさっそく私は白い砂の上にうずくまり、ムル・ハートは興味深そうに私を見下ろしていた。



「空を飛ぶくらいでそんな風になってしまうとはね」
「あなたたちとは違うんですよ」
 目はぐるぐると回り、胃の奥から溜まっている物が食道を逆流して挙がってきそうだった。
「なんであんなに細い箒の上で態勢を整えられるんですか」
「それは慣れだね」
「非論理的ですね……先生らしくもない」
 ムル・ハートは私が初めて会った魔法使いだった。いや、おそらくそれまでも何人かの魔法使いには出会ってきたのだろう。彼らが私にそのことを開示しなかっただけかもしれない。ムル・ハートはずっと前から名の知れた天才で、あらゆる研究者がその面会を求めている存在だった。西の国の王宮にかけあってまで会いに行ったのは私くらいであったかもしれないが。
 当然、空を飛ぶのも初めてのことだった。空を飛ぶ! 羽根の生えた鳥や虫と、魔法使いにしか許されない能力。当然その原理は私には未知のものだった。未知のものに心躍らせてこその研究者である。箒にまたがった彼の後ろに乗った時は至上の高揚感を覚えたものだったが、それはすぐに消えてしまった。
「空中は水中と同じく、当たり前に足場がない」
 砂浜の上でやっと顔を上げる。空はその時確実に頭上にあり、私は確実に砂浜に座っている。それは安定と安心そのものだった。
「惜しいね。水中だとしても海底や川底がある。空の底はない。空の底は地上だからね」
「そんなのわかってますよ」
 足場がないことはとても不安定だった。魔法使いたちは何百年も足場のない空を飛んできた。長い寿命と特別な力があるからこそできる発想なのかもしれない。
「それで、どうして今日はここに?」
 ムル・ハートはまだ酔いのさめない私の目を見た。
「この大地の縁で考えたいことがあったのさ。君の意見が聞きたい」
 だいちのふち。目の前の海を見た。その時やっと私の視覚は海のきらめきをとらえる。午後の三時であった。太陽は西に傾き始め、あと数時間で水平線に潜り込むことになる。少し前まで恐れの対象であったはずの空はやわらかく淡い色をしていた。色。海は空の色を移しているが、波の陰で違う色となっている。ざあん、ざあんと波の音がする。天文台の近くの岸壁から聞こえる音とはまた違う波の音であった。
「うつくしい……」
 ムル・ハートは目じりに皺を寄せる。
「思った通りだ。君は海を美しいと言える側の人間なんだね」
「恐ろしいものは往々にして美しいものですよ」
「西の王宮からの申し出を受けて良かった。私に会いたがる者は沢山いるが、恐怖にすら美を見いだせる者くらいしか時間を割きたくないんだよ」
 ムル・ハートも砂浜に腰を下ろした。
「まさしくここは大地の縁だね。陸と海の境目に私たちはいる」
 彼は両足を砂浜に投げ出して話し出した。
 ムル・ハートの論はこうである。おそらくこの大地は丸いと。夜に輝く星々や、この海に沈もうとしている太陽と同じく、生命が息づく世界もおそらく丸い。
「わかりきったことです。天文台から地表を見れば、視界の右端と左端は婉曲していますから」
「そう。空を飛べばさらによくわかるだろう? 左右ではなく進行方向も婉曲している」
「ああ、そうか。そうなるんですよね。今日は全然そんなこと確認する余裕はありませんでしたが」
「飛ばなくても分かるさ。ほら、海を見れば」
 確かに、目の前の海はその水平線をやんわりとたゆませている。大地は丸く、またそこに続く海も丸い。
「すなわち、この大地も宇宙の星々の一つである」
「その通り。お偉いさんたちに説明して納得してもらうためには、もう少し時間がかかりそうだがね」
 球体であるならばなぜ海の水は零れ落ちていかないのか? そもそも丸い地表になぜ立っていられるのか? それを一つ一つ王族や貴族の前で解説していくのは骨が折れそうだし、おそらくこのあらゆる興味関心に飛びついてしまう魔法使いがすることではないのだろうと思った。
 ムル・ハート曰く、今私たちが立つ場所が球体ならば、北へ北へと進んでいけば必ず南にたどり着き、西へ西へと歩けば必ず東にたどり着くのだと。彼は空中に光る丸い球体を出し、それを回転させながら話す。
「方角というのはそもそも、立っている場所が球体だから決まることなのかもしれません」
「ほう。なぜ?」
「この地上が平面ならば、必ず北の果てや南の果てがあるはずです。でも果てはない。果てがないことが恐らく地上が円形であることの証左なんですけれど……うーん、果てがないことと方角があることが結びつきそうな気がするんですが」
 ムル・ハートの出す光る球体を見ながら思った。結局東西南北といった方角も誰かの考え出した概念に過ぎないのだが、それを超える理論がこの大地にあるような気がしてならなかった。
「結び付けられそうかい?」
「この海をずっとわたり続けることができればあるいは」
 ムル・ハートは手を叩いて笑う。
「やっぱり君面白いよ! そんなことを言える奴はなかなかいない。魔法使いにもいるかいないかさ!」
「そうですか? 長い寿命と不思議な力があれば、ずっとずっと水平線を追いかけていくことができるのでは? それこそ、空を飛びながら」
 紫色の髪が横に揺れる。長い寿命があるからさと彼は言う。
「長い寿命があるから、変わらないもの、知らないものを恐れるのさ。すべてを見て知ったような気持でいるからこそ、分からないことが恐ろしい。空も飛べるし天候すら変えられるから、不測のこと、知りもしないことに傲慢になれる。100年たとうが1000年たとうが知らないことは怖いまま。怖いことは怖いまま」
 白い砂浜に彼はいよいよ寝転がった。オレンジ色の光を帯びた太陽がその紫の髪を照らしていた。
「君たちは良い。人間は良い。面白い。短い人生だからこそ、その中で知りたいことを可能な限り知るために努力ができる。魔法使いはね、そう考える奴らが少ないんだ。だから私たちは私たちの生活圏、そう、人間の作る国のようなものを作れなかったと私は思うんだ」
「……なんか、壮大なことになってきましたね」
「壮大なことをするのが研究者じゃないか君。私の天文台に出入りするくらいなんだからこのくらい考えてくれよ」
 ムル・ハートは沈みゆく太陽をじっと見ていた。私はその先に何があるのか何も分からない、広い広い海を見ていた。この海をずっとずっと行けばおそらく東の国にたどり着く。私の人生にそれを証明する時間があるかは分からないが、やってみたいと思う。恐ろしいものは往々にして美しい。美しいものは解き明かしたくなる。そう、あの厄災のように。

 

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人間と「国」

雪を太陽が照らすと、肌を刺すような光が返ってくる。私もムル・ハートもその中をずんずんと歩いていた。
「ここはどこだと思う?」
「どう考えても北の国ですよ!」
「君はそう思うか!」
 私は深い雪に足を取られそうになっているのに、ムル・ハートは軽やかなステップで雪山を行く。今日箒に乗せられ降りたのは白い雪の上だった。どうしてこの魔法使いはせっかく自分の天文台を持っているのにこんな雪深い山に来るのだろう。



 今日は空が青々と晴れており風もない。もし吹雪が強くてもムル・ハートはここに私を連れてきただろうか。連れてきたんだろうなと彼の足跡を追った。
「さて、この辺にしよう」
 ムル・ハートは傾斜がなだらかな山肌に雪を固めて屋根を作った。ひさしのようになったその下に入ると、刺すような太陽の光が少しだけやわらぐ。
「ああ、これは」
 見下ろすと、そこには村が広がっていた。稜線に沿って広がる集落は山の上から見るとのどかでありながら壮観であった。
「営みだね。人間たちの営み」
 ムル・ハートはその下に座り込み、その隣に私も続いた。集落ではひとが何人か行きかっている。
「質問を変えよう。君はあの人間たちはどこの国の者たちだと思う?」
「北の国の民ではありませんか?」
 ムル・ハートは首を横に振る。
「彼らは北の国の民ではない。また、ここから国境も近い君たちが新しく『中央の国』と呼ぶ国の民でもない。かれらはどこの大きな行政機関にも属さずに暮らしている人間たちだよ」
 眼下の村を見た。山間の小さな集落だが人が行きかっている。ムル・ハートが言うには以下の通りだった。彼らは北の大魔法使いたちが世界を征服しようとしたときにも、その後に興ったグランヴェル王家が支配する領域からも取り残された者たちだと。
「それでもこの厳しい環境下で生きていける姿が面白くてね。たまにこうして見に来ているのさ」
「アレク王が身罷ってから100年は経ちました。中央の国は彼らを領土の支配下には置かないんですか? 今やグランヴェル王家はわが西の国に匹敵するほどの行政能力を持っていますが」
「そうか、あの銀髪の王が死んでまだ100年か」
 ムル・ハートは雪の上に火を起こす。雪の上でも焚火のようにその火は燃えていた。私と彼が座っていたひさしの下もじんわりと温まってくる。魔法だ。科学では説明のつかない魔法。
「その100年くらいでは、この集落を支配するのに人間は至らなかったのだよ。君は恐らく当たり前にこの大陸には5つの国があると思っている世代だろうが、結局国なんてものは誰かの頭の中で考え出した構造を人を使って再現しているにすぎないのさ」
 ムル・ハートは空中に大陸の地図を浮かべた。今いるのはこのあたりと彼が言うと、中央の国と北の国の間の山脈がぼやっと光った。
「まさか私はこの大陸の真ん中を独占する国が興ろうとは、300年前には想像していなかったんだ。当たり前だが、海岸線が短いものの、運河に恵まれ気候も安定し、穀倉地帯も広がるこの大陸の中央は、古今東西、古代からあらゆる権力者が支配をもくろんできた」
「わが西の国は今も」
「鋭いね。そのまま学会で言ってお偉い方を怒らせそうだから君の気骨は好きだよ」
 褒められたのかけなされたのかわからなかったが、誉め言葉として受け取っておくことにした。
「そこを、二人の北の大魔法使いがある日突然征服した。先生もそれは近くでご覧になりましたか?」
「ああ。やることがなくて退屈していた彼らのヒマつぶしさ。長すぎる寿命も強すぎる魔力もいけないね。自分の想い通りに支配できないことなど一つもないと思うし、一つでも意のままに沿わないことがあれば赤子よりも泣きわめいてしまう。私もそうさ」
 オズとフィガロという、伝説上の魔法使いの事を思い出した。当たり前にムル・ハートはこのことを知っているのだ。
 眼下の村から一頭の馬車が出ていく。荷台に沢山のものを載せていた。どこかに売りに行くのだろうか。まったく交流のない集落ではなさそうだった。
 グランヴェル王家の興りはこうだ。ある日二人の強大な魔法使いが世界征服を目論見てこの大陸を手中に収めようとした。当然豊かな大陸中央の土地もだ。しかしある日突然その征服は終わりをつげ、大陸には混乱ばかりが残った。
「わが西の国も混乱に乗じて大陸中央を支配しようとしていたが、国内の情勢を安定させることの方が重要だった。そこで立ち上がったのが人間と魔法使いたちの連合革命軍。その流れを引いて成立したのが『中央の国』であると」
「まあ結局、魔法使いは国など持てなかったがね」
 ムル・ハートは頬杖をついて雪の上の炎を見た。太陽の光と火の光は違う光り方をする。
「魔法使いたちはなぜ国を持たないのでしょうか」
「生まれが突然だからね。魔法使いの子が魔法使いとは限らない。人間から突然生まれてくる。いまだかつて記憶にある限り、一国の王となった魔法使いはいない。まあ、数百年のうちに現れるかもしれないが、現れるとしたら相当苦労するだろうね。新しい倫理を築きあげなければ魔法使いが人間の王になることはないよ」

「魔法使いの王がですか?」

「ああ。私たちの倫理は君たち人間とは違う。長寿だからさ。長寿があれば群れなくて済む。群れが大きくないならば王はいらない」
「長寿があれば群れなくて済む?」
「そう仮定して君の論を聞かせてもらおうか」
 馬車が出て行った村に小さい影がいくつかあらわれた。子どものようだ。はしゃぐ声はこちらに届くほどではないが、円を描いて3人ほどで走り回っている。私も故郷の村ではこうしていたな。弟たちが小さかった頃を思い出した。
「3つ下と5つ下に弟がいます」
 焚火の炎が温かいからか、いつの間にか口から出る息は白くなくなっていた。
「私はそこそこ勉強が出来て、13歳の時に王立学校に行くことになりました。それでも季節ごとには故郷に帰って、弟たちと遊んだり、勉強を教えたりしていました。父も母も健在ですが、私がいない間は両親を手伝ってくれと話しました。年を取った彼らのそばに私はいてやれないかもしれない、王都で研究が忙しいかもしれないからと今も弟たちに話します」
「もし、君に200年以上の寿命があったら、ご両親がいよいよという時にどうする」
「……研究は後に回して、両親のそばにいると思います。看取るために。研究は後からでもできますので、まずは大事な人のそばにいてからでも間に合います」
「そう。私たちは年少の者に何かを託すということしない。託さなくても十分な時間があるからね。王を例に考えると分かりやすいだろう。王は自らの子を次の王としたがる。それは一番近しい年少の者に、自分が築き上げてきたものを託したいという気持ちがあるからだ。王権もしかり」
 魔法使いは違う。もし人間たちの上に立つ魔法使いの王がいるとして、その子が人間であれば子の方が先に死ぬ。次の世代に何かを託さなくても、自分でやってしまえる。次の者を育成するという概念がそもそも乏しい。ならば共同体自体が、その大きいものである国自体が育たないのだと彼は続けた。
「あの村を見てくれ。この厳しい雪山のふもとで彼らは次の世代にこの土地を守るように、繁栄させるようにと思って共同体を保ち続けてきた。今この大陸にある国々も皆そうだ。次の世代が幸せであるように、次の世代が苦労をしないように。また年老いていく上の世代もその最期が穏やかであるように。そう思う人間たちの共同体が集落を生み、集落は大きくなって国となった。しかし、魔法使いたちにはその素地がない。いや、ないわけではないが薄い。自分と同じ世代の人間が年老いていき、やがて一人もいなくなるほどに薄まっていく。そして、移り行く世代の中で取り残されたように生きる。人間たちと姿かたちは同じで、人間から生まれるのにもかかわらずだ」
 ムル・ハートはなぜか笑っていた。諦めのような、好奇心のような笑みだった。
「なぜ先生は、確実に先生より早く死んでしまう私にこんな話をするのですか」
「私の考えを、人間という移り行く世代を紡いでいく存在に託してみようと思ったからさ。言っただろう? 研究体系は一人では作れないと。これも私の研究の一部さ」
外で遊んでいた子供たちは、親に呼ばれたのか家へと帰っていった。
「これは根拠のない仮説だが、何故魔法使いたちは長命なのか、不思議の力を使うのか、解明できるのは魔法使い自身ではなく人間たちだと思うんだよ。君と仕事をしようと思ったのはその仮説の立証のためだ。恐らく数百年はかかるだろうがね」
 風のない、静かな山で小さい集落を見下ろした。あの集落で連綿と紡がれてきた「群れ」の営みの、その流れの外にムル・ハートはいるのだ。
「おそらくあと100年くらい経てば、この村も恐らく中央の国の一部となるさ」
「北の国ではなくて?」
「グランヴェル王家のほうが勢いがあるからね。若い国とはえてしてそういうものさ。人の群れを見て過ごせばわかる。勢いと流れのより大きい方に、人ひとりも集団も飲み込まれ組み入れられるものだよ。あの王家は新興勢力のわりによくやる。さすが大魔法使いたちの征服のあと、混乱の中から立ち上がっただけある。精鋭の揃っている『群れ』さ。わが西の国が畏怖するのもわかるね」

 群れ、とムル・ハートはいとおしそうに呼んだ。けっして届かない憧れにささやくような声だった。先生はこの「群れ」に入りたいのですか? 聞こうと思ってついぞ聞き出すことが出来なかった。

 

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魔法使いたちと海


 崖の肌を白い波が叩いている。ざぶんと響く波の音は今にもこの岩の崖を壊してしまうのではないかと思えた。波の上で跳ねる風の中を、ぴぃと高い鳴き声を上げて一羽の白い鳥が飛んでいく。黒い波と灰色の雲の間に、その白い鳥は消えていった。
「ちょうど、前に行った西の国の浜辺と大陸を挟んで反対側にある海さ」
 海を恐ろしいと思う気持ちはきっと、わが西の国の砂浜ではなく、この東の国の切り立った岸壁から見る海で生まれたのではないだろうか。



 ムル・ハートの箒の後ろに乗って飛ぶことにはずいぶん慣れたつもりでいたが、打ち付ける白い波を見ていると、自分の頭にあるのが空なのか、足元にあるのが崖の上の大地なのか、それともすでに白い波に自分がもまれているのかわからなくなってしまう。
「これは確かに、怖いと言えば怖いですよ」
「おお。砂浜の海は美しいと言った君がか」
「まあ、怖くもありますがこの水の白さは美しくもあります」
「はは。強情だね」
 腰を下ろすと岩の上は湿っている。海の匂いが浜辺に行ったときよりも濃く感じるのはなぜなのだろうか。天気が曇っているから? 論理的に説明できる何かがあるはずだ。まだ私が知らないだけで。
「恐ろしいものは往々にして美しいものですよ。こんなに寂しい崖の上でも、揺れ動く黒い海と白い波は美しいじゃないですか」
 曇天からあの白い鳥がまた帰って来てくれないかと思ったが、なかなか現れなかった。
「君はこの海をずっと渡っていけばこの大地が丸いことを証明できると言ったね」
「今日も上空から見渡せば地平線はきちんと湾曲していました。だから論理上はこの大地は球体であるとわかるのですか」
「ほう。空から地上を見渡す余裕が出て来たね」
 ムル・ハートは感心したように両手を叩く。合わさった両の手のひらからぱちぱちと花火が飛び出す。
「ところで、今日はまた西の国の浜辺でしたのと同じ話を?」
「いや、違うさ」
 ムル・ハートも岩の上に腰を下ろした。
「もうすぐ私の愛がやってくる時期だからね」
 彼は雲に覆われた曇天を指さした。まだ日は高く、月が昇るまでには時間がかかりそうだ。
「そうでした。先生は賢者の魔法使いでもあったんですよね」
「そうでしたとは失礼な。愛に最も近い場所に居られる光栄なお役目だよ。知り尽くしたい、わかりつくしたいと焦がれる愛そのものの月にね」
 彼は何度も知り尽くしたいと思うことは愛だと言った。
「知り尽くしたい、わかりつくしたいと思えなければもはやそれは愛ではない。興味の放棄は愛の正反対にある『無関心』に近いことさ。月を追い払わなくちゃならない私は、どうしたって月に興味を抱く。興味を抱き続ければそれは愛以外の何物にもならない」
 ざんざんと波が崖を叩きつけていた。
「君は、月をどう思う?」
「月を、ですか?」
「私以外の意見が知りたい。できれば生まれて少ししか経っていないような人間の意見が聞きたい」
「まああなたに比べれば生まれて少ししか経っていませんが」
「それが良いんだ。私は時折、永く考えすぎることに飽きてしまう」
 月。毎年一度必ず近づいては天災をもたらす天体。夜になると空に大きく浮かぶ。海よりも人々に恐れられている存在だった。宇宙が大地と近づき、大地も宇宙の一部であると否が応にも確認させられる天体。
「天体、天体ですよね。一定の周期を保ってこの大地に近づき影響を及ぼす唯一無二の天体」
「月によって大地に住む精霊たちや私のような魔法使いは強く影響を受ける」
「何か、理論では説明できない力を備えている天体というところでしょうか。あちらはこの大地に干渉してきますが、こちらから月に何か干渉するとしたら魔法使いの力で押し返すしかない」
 私は息を止めた。何故、魔法使いしか月を追い返せないんだろう。どうして人間には月を追い返す力が無いのだろう。
「もしかして、魔法使いはそもそも月を押し返すために生まれた存在なのでしょうか」
「……そうだ。そうか、そこまで考えられるようになったか」
 ムル・ハートは小さく小さく呟いた。そして、空中に丸い光を浮かび上がらせた。



光は彼の右手の人差し指から伸びている。
「私がその仮説に辿り着くまで、実に300年を要したのに君はすごいな」
 くるくると指先から伸びる丸い光を彼が回すと、光はただの円形から球体になっていく。
「これを月とする。私はこれが近づくたびに、いや遠ざかっても観察を続けた。そして、一つの仮説に辿り着いた。恐らく、恐らくだが月にも地形がある」
 まあ天体ならば地形があるでしょうと言いかけて、私は何も言えなくなった。ムル・ハートは球体を私の目の前に持ってくる。
「まだ推測の域を出ないが、月はこの大陸と酷似した地形を持っている。少なくとも私が観測できた大地の縁はこうなっている」
 球体にはうねる線が走り一つの図形を表していた。
「ここが以前行った西の国の海の海岸線、そしてその反対側にあるのが今いる東の岸壁」
「反転している」
「その通り。まだすべては観測できていないが、私が『月の海』と名付けたくぼんだ地形と、この大陸の形は酷似している」
 まさかと思うが、日のまだ高い今では月を観測することもできない。
「もしかして、先生はあの天文台を」
「そう。元はといえば月を観測するために作った」
 月のことが分からなければ何もわからないからだとムル・ハートはつづけた。
「そもそも、どうして私のような魔法使いの力は、一部の魔法生物や魔法使いとして生を受けた我々にしか使うことができないのか。どうして20人ほどの魔法使いは毎年月を追い払うために動くのか。魔法使いを魔法使いたらしめるのは誰か。月を追い払う力を持った魔法使いが、何故群れる必要のない長寿を生きるのか。考えれば考えるほど月を知らなくてはいけなくなってね」
 考えすぎると飽きてしまうが、飽きてはいけないと思う。ムル・ハートは大きくため息をついた。
「魔法使いの長寿は、恐らく月によってもたらされたものだ。そしてこの長寿は、月とこの大地の間にある不思議を解決するためにある。だから私は学者を辞められない。考えることに飽きても、辞めようとは思わない」
 球体の光はムル・ハートの指を離れて空中に浮かんでいた。恐らく彼が手ずから書いたのだろう、月の大地の縁の線が刻まれている。確かにその線の一部は、彼の箒の後ろに乗って見た大地の縁のうねりに似ていた。
「先生の説が全て正しいとしたら」
「ああ。恐らくこの大地が出来上がった時に、大地と月は生き写しになった」
「もしくは、誰か意思のある者が月そっくりにこの大地を作った。もしこの突飛もない説が正しいなら、月そっくりにこの大地を作った者と魔法使いを生んだものは同じ者の確率が高い」
「素晴らしい。流石我が西の国の学者だ」
 ムル・ハートは何も言わなかった。ぴぃと鳴き声がしたので空を見上げると、雲間から先ほどの鳥がやっと一羽飛び出てきた。鳥は崖の上にいる人間にも魔法使いにも目もくれず、今度は海に突っ込んでいく。しばらくするとそのくちばしに一匹の魚をくわえてまた空へを飛び去って行った。
「巣に届けるのでしょうか」
「だろうね。鳥にも家族がいるだろうから」
 先生は自分の家族のことをあまり話さなかった。宝石商だったと聞いたがそれ以上のことは知らないままだ。「群れ」を作らない長寿の魔法使いという観念は先生の中で一貫しているのかもしれない。
「そこにあるものを当たり前と思ってはいけない。その瞬間に学者としては歩めなくなってしまうから。私はもう300年生きたが、それがいまだに恐ろしいんだ」
「先生にも恐ろしいものがあるんですね」
「ああ。考えることには飽きる。でも飽きることはなお恐ろしいんだ。海よりも月よりも」
 そう言うとムル・ハートは球体の光を両手で挟み、ぱちんと手を合わせて消した。
「食べるかい? 少量なら人間にも毒ではなく薬になる」
 先生の手のひらにはシュガーが山盛りに乗っている。幼い魔法使いが初めて作るというシュガーだ。白いものを一つつまんで口に放り込む。すぐにシュガーは溶けて行った。
 相変わらず崖には黒い波が打ち付けている。天文台に戻ったら、月を覗かなくてはいけないと思っていた。今すぐにでも月とこの大陸の間にある者が何なのか知りたかった。恐らく私が生きているうちには解明されないその謎が、恋しくてたまらなかった。
 私の人生もこの学問体系の一部になれば良い。しきりにシュガーを薦めるこの賢明な魔法使いもそう思っているだろう。

 

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後書き

西の国のお抱え研究者 L氏の手記

後書き

 読み返せば決して論文になりえない、一つの思い出としての文字の連なりだった。回顧録のような、いや、魔法使いにとっては数十年の時など回顧とは呼ばないのだろう。
東の国の崖で彼の仮説を聞いてから、3か月後に私は王都の研究所に招聘された。天文台を発つ前の日、ムル・ハートは改めて私に聞いた。

「君は死ぬまで学者で居続けたいかい?」

「もちろんです。そこにあるものを当たり前と思いたくないですから。死ぬまで知って知って知り尽くしたいと思っています」

「すばらしいね。愛だね」

 その日は新月だった。天文台は光源が少なく、うすらぼんやりとしていた。魔法で室内を明るくすることもその日彼はしなかった。

「大きい力に流されない様にしなさい。同じ熱量で議論を戦わせるのとは違う、君の論をひねりつぶすような力に、対抗できる力を持ちなさい」

「対抗ですか?」

「愛には打ち破らねばならない障壁もあるということさ。それを破って、私の論にもいつか反論できる学者になってくれ」

 それ以来、彼とは会っていない。天文台に足を運んだこともあるがいつももぬけの殻だった。おそらく彼は西の国の情勢まで見抜いていたのだろう。足跡すら辿ることができなかった。

 私の研究室は、私の死後は続かないそうだ。世界の真実を探求するよりも、我が国は他国に対抗できる軍事力と軍事技術を蓄える方に舵を切ったらしい。私の研究も誰にも読まれずに潰える日が来るのかもしれない。私は打ち破らねばならない障壁に勝てなかったのだ。

 だがそれでも誰かにこの文字の連なりを読んでほしい。そしていつか、別の誰かがまたこの世界を知りたいと思ってくれたらこんなに幸せなことはない。

 ムル・ハート、あなたも何百年か後にこれを読んでくれることを願っている。

 

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