呑んでるよ

今日も呑むぜ。居酒屋に来たぜ。

まずは瓶ビールと
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たまごチーズ!
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友達がいないから交際費が浮く。いわば友達がいないから豪遊出来るのだ。独身貴族ならぬ、ぼっち貴族。ここに極めらり。
 友達がいないと言っても、インターネットの流動性に身を任せているので、真のぼっちと呼ぶには少し違う気もするが、そういえば、現代の人間の幸せのハードルは、SNSなどのおかげで下がっているらしい。昔に比べ、手軽に承認を得られるのである。中央公論の1月号で斎藤環が言っていた。ならば俺は、まさに現代人の生き方をしているということになる。
 店の喧騒が聞こえる。同い年の大学生たちが、ジョッキを片手に語り合っている。

夕方のビヤホールはいっぱいのひとである
誰もが口々に勝手な熱をあげている
そのなかでひとり
ジョッキを傾ける僕の耳には
だが何一つことばらしいものはきこえない
(黒田三郎ビヤホールにて」)

ふと、こんな詩が思い出された。俺はインターネットがあるから淋しくはないが、まあこの場の孤独にじっくり浸り、アルコールの力を借りて、心地よく淋しく酩酊するのもオツなものではないか。京都の夜は更けていく。祝日が終わる。だが大学生で春休み中の俺には、休日平日など関係ない。心地よく酔おう。この日に乾杯。祝日に乾杯。生意気な大学生共に乾杯。これが俺の青春だ。

文学的な感傷

 文学的な感傷というのは、人生においてはかなり重要であろう。居酒屋で酩酊しながら老人が語るとき、その話の内容は決まって昔の思い出話である。彼らは思い出を感傷を交えて語り、アルコールの酔いに任せてその気分に浸っているのである。酒にとって最高の肴とは「感傷」ではないだろうか…。
 このように、人生を楽しむためには、様々な経験を文学的な感傷に昇華するのは、必須条件ともいえるが、しばしばこの文学的な感傷というヤツには穴がある。時には嫌味でさえある、と私は思っている。
 感傷というのは、とどのつまり、体験に「オチ」をつけることである。悲しい経験、怒れる経験、苦しい経験を、主観を交えて語るのである。そこに登場する他人の思惑など、「もしかして」が付きまとう可能性を全て無視して、物語作品の神である、作者のような視点で、自分の都合の良いように切り取るのである。例えば、極端な例を出して言えば、ヤンキーがいじめをしたとする。時が経ってヤンキーが過去を振り返り「○○は学校に来なくなった。そのあと彼がどうなったか知らない…。」と、さも悲しげにオチをつけて語るとする。傲慢である。まるで、そのあといじめられッ子が回復の余地なく、人生が下地に向かったようではないか。そして、肝心のヤンキーだけ妙に悟ったようでいて、結局変わっているようで何も成長していないのだ。これは極端な例だが、もっと日常で感傷は頻繁に起こっている。
 このように、オチをつけるとは「終」であり、時にはとても独り善がりな結果になりかねない。反面、過去の嫌な思い出を語り直すときは、このオチの力は絶大なものとなって影響してくれるだろう。しかし、物事が単純化されているようでなんとも気持ち悪く感じてしまう。
 私は文学的な感傷が大好きである。酒に酔っ払いながら、私は私の悲しい過去を語るのが好きであるし、何かの体験を感傷に浸りながらインターネットに発信することなども好んでいる。とても自分勝手な奴だと思う。出来れば、他人に迷惑のかからないように楽しみたいものである。f:id:MIKELANJYERO:20180211035307j:plain

虫、動物の話。小話集。

尻尾のない猫
「おばあちゃん。」
 私は叫んだ。
 「あそこに尻尾のない猫がいるよ。」
 私が指さす方向には、屋根の上に乗った猫がいた。尻尾が途切れており、顔立ちもペットの「猫」ともてはやされているような可愛らしいものではなく、どこか野性を感じさせるような凄みがあった。まず、祖母の家に住み着いている猫のミーちゃんとはそこから違う。
 「あれはミーちゃんのお友達よ。」
 畑で農作業をしながら祖母が声をかける。どうやら猫は随分前から姿を現しているらしい。
 「哀れな猫だよ。」
 祖母はそういったきり、もう何も言わなかった。私も何も聞かなかった。子供がしつこく聞いて、農作業の邪魔をしてはいけぬ、という空気に、忖度した。とにかくあの猫は可哀想なことがあって尻尾を失った、可哀想な猫なのだと1人納得し、もう何も考えなかった。しかし尻尾を失った猫の、物悲しい姿だけは、いつまでも記憶に残っている。

犬、赤ん坊 
私はよく犬に吠えられる。気味が悪いほど吠えられる。赤ちゃんにもよく泣かれる。私の背後に何かがいて、それを彼らは感じ取るのか、はたまた、私自身の中にある内なる「悪」の存在を感じ取るのか。私はいつも悲しくなった。嫌われる理由が遺伝子レベルにまで及んでいるような気がして、つかみどころがないのも悲しかった。犬は嫌いだ。赤ん坊も。奴らは道理がわからぬ。哲学がわからぬ。

蚊、蜘蛛 
この間、部屋の中に蚊の死体を発見した。すぐにゴミ箱にティッシュで包んで捨てたが、私は何故か嬉しかった。ここのところ、誰とも喋らず、誰とも関わらず、家と学校との往復の日々だったからである。久々に私は私以外の生物と、身近に交わることが出来たのだ。だがすぐに蚊は死んだ。似たような事例で、いつかに侵入していた蜘蛛がある。小蜘蛛であった。天井に張り付いていた。小さい頃に、母が「蜘蛛は益虫だから殺してはだめよ。」と言っていたのを思い出し、私は殺さずにおこうと思った。しかし、ウロチョロされては気が散ってしまう。私は空になったお茶のペットボトルを使い、そいつを使って蜘蛛をペットボトルの中に閉じ込めることに成功した。ペットボトルの中を縦横無尽に駆け巡る蜘蛛。蜘蛛の足では、お茶でヌルヌルしているペットボトルの内壁は登り切ることは出来ない。間近で見ると可愛いものであった。だが、思い直して、蜘蛛はその日の夜にベランダに逃がしてしまった。「蜘蛛の糸」で極悪人のカンダタがたった一匹の蜘蛛を助けたことによって、お釈迦さまの目に止まったのが、頭に浮かび、1人ほくそ笑んだ。満足であった。

カマキリ
ミルワーム。カマキリを飼育していた時に、検索で出てきた「餌」である。カマキリの餌としては専門のサイトでは△の評価であった。逆にカマキリが内臓を食い破られる可能性があるかららしい。私はミルワームは御免だと思った。第一、字面からしてグロテスクではないか。私は表情のある、カマキリのような虫は好きである。表情のない虫はイマイチ何を考えているかわからなくて苦手だ。カマキリは表情がある。目がパッチリしている。食べるときはムシャムシャと食べる。その日のカマキリへの餌は、市販の豚肉にすることにした。カマキリは生き餌を好むから、割りばしに巻き付けて、生き物のようにカモフラージュして与えた。カマキリは嬉しそうであった。そのカマキリはそれからほどなくして段々と弱っていき。死んでしまった。

 オタマジャクシ
小学校のクラスでオタマジャクシを飼っていたことがある。誰かが捕まえてきて、それを共有の水槽に入れたのだ。オタマジャクシは着々と大きくなり、皆が蛙になるのは遠くはないと思われた。しかし、一匹が成長して蛙になったのを、私たちが手に載せて遊ばせていたとき、元の水槽に戻そうとしたら、他のオタマジャクシが一斉にして蛙めがけて物凄いスピードで寄ってきた。慌てて蛙を水槽から出した。オタマジャクシたちはどこか異常になっていた。蛙は別の水槽で飼うことにした。次の週、オタマジャクシたちは、専用の餌を食べなくなった。次の週、一匹のオタマジャクシが腹を食い破られて水槽の中で死んでいた。私たちは、共食いだと囁きあった。この時ばかりは、オタマジャクシのその腫れぼったいような膨れ面と、焦点の合わない目が、狂気を感じさせた。私はこれに通じる風貌を見たことがある。人間がテレビゲームに熱中している顔だ。彼らは我関せず、といった状態で、画面以外のことが何も見えていない。没頭し過ぎて遠くの世界に行ってしまっている。彼らのその時の目は、まさにオタマジャクシそのものであった。それからオタマジャクシは次々と死んでいき、水槽の中は何故か緑のコケで一杯になった。以上の理由で私はオタマジャクシが苦手である。
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コスモポリタン

f:id:MIKELANJYERO:20180205192225j:plain 今日、ファミリーマート祇園店に来た。イートインでコーヒーを飲み、窓に広がる京都の景色にしばし見とれる。ここには、イートインにも関わらず、外国人の観光客が大勢たむろしている。絶好の休憩所だからだろうか。とてもゆったりとは出来ない騒々しい雰囲気ではあるが、それもまた、京の風情。と俺は割り切る。そういえば、この間の居酒屋では、急増するゲストハウスやホテルが京都の景色を塗り替えることに、戸惑いを隠せず、憤慨していた、昔ながらの京都の人がいたっけ。外国人の観光客は、俺が京都の大学に通っていた頃には、既に沢山見かけたので、俺にとっては別段いつもと変わらぬ京都のような気もするのだが、やはり時代の変化には寂しさがつきまとうのか、古くからの馴染みの人間には、抵抗を感じるらしい。
 古代ギリシャには、ディオゲネスという哲学者がいた。随分な放蕩者だったらしいが、彼の思想は一級品だった。彼が唱えたもののひとつに、地球市民(コスモポリタン)の考え方がある。国や民族の垣根は関係なく、人類皆は地球の市民であり、自分はそうである。という考え方だったような気がする。記憶があやふやで半端な知識を語ってしまうことに恐縮だが、俺はこのような外からの変化と、昔ながらの部分を頑なに守り続ける人達を見ると、いつもこのコスモポリタンを思い出してしまう。我ら地球市民。何とか折り合いをつけて、割り切って、仲良く出来ぬものか…。しかし、この保守の部分も難しいのだ。新しいものへの抵抗は、おそらく人間の本能のところで起こっている。ゴチャゴチャと考えたところで、後ろのほうの席で、赤ん坊が泣き始めた。赤ん坊の泣き声が店内をつんざく。「赤ん坊はコスモポリタンなんて知ったこちゃないよな…。」俺はそう嘯いて、荷物をまとめた。

ツイートが思い付かない

ツイートが最近思い付かない。そういえば、僕が保っている安心感のほとんどはTwitterでの承認で成り立っていた。そのTwitterで僕は面白くなくなってしまったら、いったいどうなってしまうのだろう。

どうにもならないだろう。









まだ何も思い付かない。

長岡天神の居酒屋

 僕のした単純作業がこの世界を回り回って。
 まだ出会ったことのない人の 笑い声を作ってゆく。
 そんな些細な生きがいが日常に彩を加える。
 モノクロの僕の毎日に少ないけど 赤黄色緑


 ミスターチルドレンの「彩り」を聞いたのは、はじめ、小学校5年生であったが、当時の幼い私からしても、この歌詞には何か世界を知る真理のようなものが含まれているように思った。事実、ミスターチルドレンの歌詞は全部そんな印象だった。ボーカルの桜井さんはきっと、全てわかっているに違いない。根拠のないことを私は信じ始めた。
 最近、自分のしたことが回り回っていくことを、実感することがある。それは、インターネットという空間において発生する。そして居酒屋でも発生する。モノクロの私の大学生活は、居酒屋巡りという趣味を通じて、多彩な色に彩られることになった。なんせ、この時、私は弱冠20歳であった。こんな歳で一度も入ったことのない居酒屋の暖簾をくぐっていくと、常連さんたちは私に酒やら豆腐やらおでんやら、実に学生にとっては高価な値段のものを奢ってくれるのだった。京都は、一般に陰湿な県民性が謳われているが、実は「学生の街」という、外から新しいものが入ってくることを良しとする一面がある。「学生さん」に代表される文化がそれだ。呑み屋の席において、たいてい学生は嫌な顔をされない。むしろ、歓迎されるのだ。私が京都に対して愛情を抱くのは、そういった文化に揉まれ、そして助けられてきたからなのかもしれない。そして今日も…私は京都の町へ呑みに繰り出した…。

 長岡京は人口8万の一介の地方都市である。阪急とJRの沿線が通り、一応阪急では特急列車が止まる。私は今日、ふと考えもなしにこの街へ降り立った。私が巨大な繁華街ではなく、このような地方都市で呑む時は、必ず理由がある。

・誰も知らない出会いを見つけたい
・何だか冒険してみたい
・病んでいる

 要約すると、居酒屋の、それも地方都市という更に不確定な要素があるところで、「レア」な体験がしたいのである。巨大な繁華街では、自分以外の大学生が大手を振って歩いているではないか。そんなところでかっこよく飲んでられるか。という、邪な気持ちもなくはない。


 私は、長岡天神の駅に降り立つと、まっすぐに長岡天満宮のほうに向かった。長岡天満宮前の池は、とても綺麗で、癒されるのである。池が透き通る様なエメラルドグリーンで、鯉が沢山泳いでいた。私はマイナスイオンをたっぷりと吸収すると、居酒屋の密集している駅前に戻った。
 長岡天神。人口は8万。少しネオンの輝きに物足りないが、人口8万はそこそこの街の規模であるのか、面白い店が長岡天神には多い。歩いていると色んな発見がある。私はひとつ、駅前のドトールより左の道をいった路地に、居酒屋を発見した。大衆居酒屋と書いてある。京都でも見かけた店だ。チェーン店だろうか。暖簾をくぐると、清潔な店内と、愛想の良いおばあちゃんが接客してくれた。まず、瓶ビール(550円)。こういった大衆居酒屋には瓶ビールが似合う。瓶ビールは風情がある。私は映画「トラック野郎」の第一作で、主役の菅原文太が、自分のトラックの中でサッポロ黒ラベルの瓶を傾けているシーンを、ふと思い出した。瓶ビールは昭和の雰囲気。いぶし銀の魅力。
 「はいお待ち。」
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頼んでいたおでんが来た。おまかせセット(480円)である。ひとつひとつがデカい。私は大根をほうばり、はんぺんの噛み応えのアクセントを感じながら、瓶ビールをコップに注いだ。店内にはおでんの湯気が立ち上っている。メニューの書かれた紙が、まるで暖簾のようにひらひらと、客が出入りする扉からの風に揺れている。これぞ居酒屋冥利に尽きる。既に私の酔いは回っていた。瓶ビールはもう半分しかない。続いてかき揚げ(280円)を頼んだ。これも美味い。おばあちゃんはせこせこと忙しなく動いていた。テレビでは今日のニュースが流れている。「シラスウナギの深刻な不漁により、価格が高騰。密漁が盛んに行われております。」



 二軒目は。二軒目は入り組んだ路地にあった居酒屋に入った。もう酔っているが、ここは実は前に一度来たことがあるお店。しかし、大分前であるし、きっと店主は忘れているかもしれない。
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「いらっしゃい。」
「1人です」
「あんた…前に来たことがあった?」
「はい」
「ほら~アタシ記憶力いいやろ?」

 しかし、前に来た時もそんなに喋ったことが無かったので、おばあちゃんは果たして私のことを覚えているかどうか、もしかしたら別の人間と勘違いしていないか、妖しいところであった。ここでは焼酎と、出し巻卵を頼んだ。店内は常連さんばかりである。たまに話しかけてもらえたり、こちらからも話しかけたり、楽しい呑みであった。


 帰り道。長岡天神駅に着く。電車に乗る。街が遠ざかる。光が離れていく。私は窓によりかかり、それを見ていた。長岡天神が離れると、また次の街が、駅が、町が、灯りが、見えてくる。灯りのひとつひとつは、小さなものだけれど、僕は今日、この灯りのひとつの中に、確かに存在したのだ。電車はスピードを増していく。電車はもうすぐで西院に着く。

東京。京都。関東。関西。私の大学生活。

 東京に住んだことはない。しかし、空想の中でよく東京での暮らしを想像することがある。眠らない街、歌舞伎町。外国人の街、新大久保。サブカルの街、下北沢。若者とそしてラッパーの街、渋谷。などなど。きっと歌舞伎町にはウシジマくんが、今日も誰かの借金を取り立てているし、渋谷ではきっと今日もACEや輪入道たちがサイファーをしているし、下北沢では茶髪ボブカットのサブカル女子大生が、今日もキャピキャピとしているに違いない。僕は馬鹿な妄想を東京に時々抱く。吉祥寺には「ろくでなしブルース」の前田太尊がいる。仲間たちと悪ふざけをしながら学校に通っている。浅草には両津勘吉がいる。今も部長に怒られているのだろうか。新宿のゴールデン街のBARの片隅には、椎名林檎がグラスを片手に物思いに耽ってそうだ。渋谷には、メンヘラの援助交際の少女が、巨大な広告を見上げながら、スクランブル交差点の人混みで誰かの助けを求めて立ちすくんでいるに違いない。僕の妄想はとめどなく膨らむ。あの街にはこんなドラマが。この街にはあの人が。今まで読んできて、見てきて、そして聞いてきた全てのストーリーの舞台は、ほとんどが東京だった。
 「もうやめろ!!!」もう一人の僕が叫ぶ。「今更そんなことを思ったって仕方がないだろ!!もうお前の青春は終わったんだ!!」そう。僕の青春はもう終わるのである。今年の3月の卒業式で、何者にもなれた時代が終わるのである。きっと東京で暮らせたかもしれない可能性もあった時代が。



 僕は京都の大学生だ。京都の大学生というと、「くるり」の曲が思い出されるわけでありますが、世間から「四畳半神話体系」であったり、「そうだ、京都行こう」のキャッチコピーで知られる京都という街の大学生は、恐らく半分以上が東京という大都会へのコンプレックスに、一度は悩まされるはずです。京都でこの通りなのですから、他の地方の大学生はいわずもがなです。僕は、これらの問題に想いを馳せる時、大学一年の時に語学の授業で一緒だったDQNの発言が、自然と思い出されます。「京都何にもない。大阪へいきたい」。彼は恐らく、近くに東京があったら、東京に行きたいと言っていたに違いありません。それは、全地方の大学生たちの悲痛な叫びを代弁しているに、等しい発言です。彼はDQNにしては、とても聡明な頭脳を持っていましたから、就職活動で大都会に行く夢は果たせたのでしょうか。最近の僕の気になることです。



 「無駄だ…」薄暗い六畳間で、僕は呟いた。「変に敬語を使って、つらつらと自分の大学生活を語ろうたって、そうは上手くいかないぞ。その証拠に、もうお前のキーボードを叩く手は止まってきたではないか!」僕は答えた。「確かに…慣れない敬語で説明しようとしたのは無謀だったね…でも言っていることは間違ってなかっただろう。」確かに間違ってない。事実である。京都の大学生のコンプレックスも、DQNの存在も。そういえば、僕は最近DQN大学生協の店で見かけたことがある。目が合ったが、僕のことを忘れていたのか、すぐに視線をそらされて何も言わずにどこかへ行ってしまった。彼は服装が以前より洗練されたように思えたが、きっと聡明な彼のことだし、大阪に頻繁に行っては、一風変わった経験をしてきているのだろうか。いけない。僕はこの頃、すぐに経験値で人を見てしまう。ところで、僕はあれほど東京に対して憧れを抱いていて、勿論今もそうなのだが、これらのコンプレックスが解消されたのはいつのことだったか。




 実家が東京の父の会社の社宅になったのは、大学2年の夏である。急な転勤であった。父と母は東京に行けると喜び、僕は少し、狐に包まれたような感じであった。その頃、少し痛い経験を言わせてもらうと、インターネットの女の子に恋をして、フラれてしまったのである。千葉の、東京大学に通う女の子だった。女の子は最初、僕に接近してきた。そしてカカオトークを交換し、そして同い年であることがわかると、互いに大学生活をどう過ごすか議論し、夢を語り合ったのだ。僕は小説家になりたいと言った。彼女は「フフ…私はねー…今は何だか言うのは恥ずかしいから詳しく言えないけど…有名になりたいの!」と言った。可愛らしかった。女性経験のあまりなかった僕にとっては、この勿体ぶったちょんちょんが、如何にも可憐に感じられた。そういえば、彼女は僕が多く関わっていた、インターネットの女の子には珍しく、自撮りを晒さず、謙虚であった。だから好きになったのかもしれない。フラれた理由は、僕が距離感のつかめないメッセージを送りすぎたという、実に明確な理由であるが、彼女の浅野いにおの女の子のアイコンと、冷静な思慮深さが、東京という単語と一緒に、当時大学一年だった僕に迫って来たのであった。思えば、僕が関わったインターネットの人間は、皆関東の人間であったから、自分が「中心から外れている」という位置関係が嫌というほど、刺激されたのかもしれない。インターネットは当然、人口の多い東京人が沢山いるのである。女の子にはフラれてしまったが、東京が実家に…。頭の中では、椎名林檎の「NIPPON」が、何故か流れていた。

爽快な気分だれも奪えないよ
広大な宇宙繋がって行くんだ
勝敗は多分そこで待っている
そう 生命が裸になる場所で

 僕は結局、京都で1人暮らしをすることになったが、連休には東京の実家に帰ることになった。もはや旅行気分であった。僕の中で、インターネットでのフォロワーたちとの位置関係が、まさに広大な宇宙として繋がったような気がした。気分はまさに爽快であった。東京に行ったら何をしてみよう。憧れの東京に行ったら。。。東京には色んな人間がいるから、不確定なことがいっぱい起こるかも…東京では!東京では!東京では!



 「それで…」「…」「それでどうなったんだっけ」
  そう。結局、人は憧れに近づくと幻想は色褪せてしまうのだ。東京には私が想像していたようなものは何も無かった。新宿にはウシジマくんはいなかったし、ゴールデン街には椎名林檎はいなかった。観光地の鎌倉は、京都暮らしの私には物足りぬ風情であったし、関東の街のほとんどは、私が求めてやまなかった関西のガヤガヤ感がなく、妙に小綺麗で、夢が無かった。全ては幻想だったのである。
 「なるほど…」「そうだ。東京は大したことがなかったんだ。」「でも大したことがないって言ったって、お前が観た東京はほんの一部だろう。」「それもそうだ。でも代わりになるものが出来たんだ。そうだ彼らと出会ったのもこの時期だった…」
東京への失望の代わりに、私に蘇ったのは関西への誇りである。この時期、決定的な出会いがあった。「中島らも」と「織田作之助」の両名である。どちらも関西を代表する文化人であるが、織田作之助のほうが古い。織田は「夫婦善哉」で有名であり、中島らもは「今夜、すべてのバーで」など、酒に関するエッセイや小説が多かった。中島らものエッセイは、酒の味を覚え始めた私を刺激した。アル中で、アルコール中毒の本を読みながら酒を飲んでいたという中島らもに倣い、私も彼のエッセイを読みながら、近所の居酒屋で本を開いて読むなど、ロクに友達もいなかった私は、激しく文学的な情緒に塗れた生活に堕ちていった。この時期、私は学業の傍ら、コンビニエンスストアで働いていたのであるが、そこで貰った廃棄商品で浮いた何万円もの食費代を、全て居酒屋代につぎ込むという、常軌を逸した行動をするのだった。酒の味には、悲惨さが「つまみ」になる。破滅的であればあるほど、酒はますます美味く感じられた。
私がこの時期、特に好んで呑みの場として巡ったのが、大阪・難波の街である。難波は東京には無い色合いがある。夜に、鮮やかに光る道頓堀のネオン街は、私に関西の民であることを、誇らしげに感じさせた。近場の串カツ屋で一杯やる。ほろ酔いになったところで、道頓堀に出る。すると、光輝く大阪文化の看板に彩られた景色が、自分を何か、特別な存在であるかのように思わせるのであった。この難波の妖しげな光については、「夫婦善哉」にもふんだんに描かれている。きっと、織田作之助も道頓堀のネオンが好きだったに違いない。もはや東京には何の未練もなく、むしろ東京を馬鹿にしはじめていたのはこの時代であった。





 「でもお前は…」「…」「今でも東京に憧れを抱いていると、さっき言っていただろう。」「そうだ。僕は今でも東京が好きだ。暮らしてもいないのに好きだ。」しかし、何故また東京が好きになったのであろうか。
 就職活動。大学生の難関。ここで自信を無くすもの。自信を取り戻すもの。あるいは何も変わらないもの。などがいる。私は。私はどうだっただろうか。私はロクにエントリーシートも練習せずに3月から飛び入りで就活を始めた。結果は、惨敗であった。受かると思ってタカをくくっていた会社は、書類の段階で落とされる。書類が通っても、筆記試験で落ちる。面接にたどり着ける企業はわずかであった。考えてみれば、いや、考えなくても3月からの飛び入り参加であれば当然の結果であったが、むしろ能力の限界に対して言い訳になれる、という点で、それはまだ私にとって幸いだったのかもしれない。
 夏のうだるような暑さ。ムシムシとした汗が、スーツに染み込む。私はこの日も、ハンカチを額に当てながら、渋谷の坂を上っていった。出版社の面接試験があるのである。既に、戦意をかなり喪失していた私であった。出版社は狭き門なのである。私は出版業界を志望していたので、先ほど言った実家の社宅から、出版社の沢山ある、東京の会場を毎日あちこち歩き回っていた。
 面接試験。この日は待ち時間がかなりあるらしい。隣の人間と会話でもして暇を潰せと、試験官はそう告げたので、会場内からはぽつりぽつりと、話し声が聞こえた。私もそうしようかと、隣を見ると、隣には、髭の剃り残しがある、メガネの男がいた。メガネといっても、この男のヴィジュアルというのは、オタクのそれではなかった。どこか、かなりの場数を踏んできたというふてぶてしさがある。男は話した。自分は立教大学の学生で、この会社以外にも選考の進んだ会社があると。聞くと、どれも名のある大出版社であったが、果たして面接ではどのような話を聞かせてくれるのかと、私はいぶかる気持ちでいた。
 面接。彼と二人組で面接に挑む。喋らせたのはこのためだったのか?と私が疑問を抱く間もなく、面接官の質問がはじまる。「自己アピールをして下さい」私は意気揚々として、繁華街巡りが趣味であり、はじめての店にも入ることの出来る行動力を持っていますと答えた。対する、立教大学TOEICで900点を叩きだしたということだった。まあよくある。私は驚かなかった。しかし、最後、質問に特に動じた様子もなく淡々と答える立教生に対して、面接官は質問を投げかける「君。緊張をあまりしないね。何故だい。」すると、「私は…そうですね…実は渋谷でプラカードを掲げて、他人の悩み事に相談するというボランティアをやっておるんです。そのせいかもしれません」面接官は驚く。私も驚いた。なんと、彼のふてぶてしさはきっとここから来ていたのだ。面接官たちが興味を示すのが、空気でわかると同時に、私はこの会社は駄目だなと思った。が、どこかすがすがしかった。受かるべくして受かる人間の前に、自分のような就活を3月ではじめたような馬鹿が、叶うわけないと、割り切れたのである。面接が終わると、彼と一緒に部屋まで帰ったが、私は一言も発せなかった。気後れしてしまったのだ。今でも、彼のことを時々思い出すが、それは決まって、渋谷という街にプラカードを掲げる彼という、想像の世界である。混沌の街、渋谷。大都会渋谷。数々の若者が夜を過ごし、居場所のない若者もここで夜を越し、多くの人間のドラマが詰まったこの街。そこに、プラカードを持った彼の姿は、どこか非常に調和するように感じられた。やっぱり東京だ。関西ではありえないことだ。やっぱり東京って凄い。私はそう思った。


薄暗い六畳間は、パソコンのモニターのみが光を放っている。その光に当てられた、22歳の男は、無機質な表情をぴくりとも変えずに、呟いている。「彼の存在は…衝撃的だったよ。嫌な気持ちはひとつもしなかったんだ。」彼は側にあったコップに、サイダーを注ぐと、それを一気に飲み込んだ。部屋は雑多としている、足の踏み場もないくらい。「俺は東京がまた好きになった。でも、今度はコンプレックスなんてなかった。東京を好きになればなるほど、ますます関西も好きになれたんだ。」京都は雪が降っていた。京都の寒さは底冷えするのである。布団にくるまって、出来るだけ温度を保たなければならない。布団にくるまると、まるでイモムシになった気分だった。彼はそんな状態で天井を見上げると、宇宙で自分だけが一人ぼっちであるかのような錯覚にいつも襲われる。「京都…俺は京都が好きだ。でもこの寒さはないよなあ…」しばらく何も考えず、蛍光灯からぶら下がった電気紐を見つめると、彼は目を瞑った。京都は雪が降っていた。