黒田夏子『abさんご』はポカリポカリと浮く

第148回芥川賞受賞作である黒田夏子『abさんご』。手元にあった『文藝春秋』3月号で読んでみた。

文藝春秋 2013年 03月号 [雑誌]

文藝春秋 2013年 03月号 [雑誌]

ちょっと引用させてもらいます。

天からふるものをしのぐどうぐが, ぜんぶひらいたのやなかばひらいたのや色がらさまざまにつるしかざられて, つぎつぎと打ちあげられては中ぞらにこごりたまってしまった花火のようといえば後年の見とりかたで, 身がるげに咲きかさなるものの群れを視野いっぱいに見あげていた幼児はまだ打ちあげ花火をあおいだことがなかったし, 傘というものの必要性も売り買いということのしくみもいっこうかんがえたことがなかった.
(黒田夏子「abさんご」、『文藝春秋』2013.3月号、p391)

「傘」を書くだけでこの質量ね。

特殊な文体はガタガタとつっかえ、読む努力を読者に強いる。けれども読み進めるうちにそれは奇妙な慣れも運んでくる。この適応していく過程が結構気持ちいい。この気持ち良さを捉えられず、途中で読むことを止めてしまう人は多そうだけど。

単純な事柄に装飾を重ねてゆく手法は思春期の少女の書く詩文のような印象を受ける。幼い感覚が何度も何度も愛撫されながら、大人の手によって文章にされていく様はいい感じにグロテスク。是非ともゴスロリ黒髪ぱっつん女子に朗読してもらって、きゅんきゅんな感じを味わいたい。正直なところ「史上最高齢!」とか言われると作者の顔が浮かんで来てしまうので、そんなに推さないで欲しい。

ところで、選考委員の多くが絶賛する中で、山田詠美の選評がちょっと面白い。

「正直、わたしにはぴんと来ない作品で、何かジャンル違いのような印象は否めなかったし、漂うひとりうっとり感も気になった」
(『文藝春秋』2013.3月号、p360)

僕は姐さんの毎度の率直な選評が好きです。

「ひとりうっとり感」。これは確かにすごい。いちぶんいちぶんを口に含んでネトネトとこね回しながら自分が考えうる理想の形にしていきましたよ、という感じがすごい。これが出来る人は、消費に慣れた今の世代にはそうそういない、あまりに貴重。賞を与えて保護する価値が大いにある。

この点において『abさんご』の文体は三島由紀夫に似ている。ナルシスティックに装飾されたあの文体。江藤淳は若き日の著作『作家は行動する』で三島の文体をこう論じている。

作家は行動する (講談社文芸文庫)

作家は行動する (講談社文芸文庫)

文字があって、肉声がなく、そこからすぐれた小説のなかでかたりかけてくるあの小さな、個人的な声がきこえてくることは決してない。人工的な、権威主義的な秩序はあるが、その秩序はわれわれがそのなかに現にいる「現実」の構造とはまったく無関係である。
江藤淳『作家は行動する』、講談社文藝文庫、p175)

あの若々しい時代にあった江藤淳が、小説が持っている力に対して、今から見れば大きすぎる期待を抱いていたのは事実だと思う。加えてこいつは「石原慎太郎氏の捉えている圧倒的なアクチュアリティーの重み」との比較として書かれたもので、政治を生きる現在の石原慎太郎を知っている僕らは、その若い期待に恥ずかしささえ感じたりもする。そのあたりはとりあえず置いておいても、この三島評は『abさんご』に実にしっくりくる。

江藤は三島を散々腐したあとに、以下のような評価を与える。

ただここで特筆すべきことは、私小説家たちの自己解消やフェティシズムがきわめて無意識的なものであって、彼らが自分のつくりつつある価値に対しておおむね盲目であったのに対し、三島由紀夫氏がきわめて、意識的にその人工楽園をつくりあげ、そのなかで溺れ死のうとしている、という点である。私小説家たちは、彼らがリアリティーの断片に固執せざるをえないために、「世界よ、滅びよ!」ということはできない。しかし三島氏は確信をもって、にこやかに、「世界よ滅びよ!」と三たびくりかえすことができる。実際には、そのとき彼の周囲にあらわれるものは、「現実界」の空無化の上に成立つ大空のように壮麗な「想像界」などではなく、一寸法師のオワンほどの小さいな蒔絵の筥で、その筥はいっこうに「空無化」されない現在の日本の現実の上をポカリポカリと浮かんでいくにすぎないとしても、この態度は珍重されるべきである。いうまでもなくそれは作家の態度ではないが、その立場のいかんにもかかわらず、ひとつの立場にs’engagerするということは、知識人の根本条件であって、現にこのことをなしえているものはすくない。だが、われわれとしては、われわれは「世界よ、滅びよ!」ということはできない。「世界よ、あれ!」というのが、つねにわれわれの立場だからである。
(同上、p180)

黒田夏子はここで言われているような、溺れ死にの美学を『abさんご』によって書ききったように僕には思える。そのくらい徹底して「文芸」なのだ。「人工楽園」として完成された「文芸」である。

悲しいかな、いま「世界よ、あれ!」なんて言える奴が芥川賞に司られた「文芸」に期待するわけがない。『abさんご』は当たり前に芥川賞を受賞し、「小さな蒔絵の筥」に「文芸」をいよいよきちんと閉じ込める。自らを囲う括弧をますます頑強にした「文芸」は、朝の田園都市線なみに混雑した2013年のこの国の上を、ポカリポカリと気持ち良さそうに浮いている。

abさんご

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