【ネタバレ感想】GUNDAM SEED FREEDOMはSEEDシリーズを愛せるようになるすごい作品だった
お久しぶりです。生きてました!
復活に足りるエネルギーをSEED FREEDOMから得ました。
本当にすごかった。頭がおかしくなるかと思った。
早速自分なりに講評と感想を述べていきます。ネタバレ前提だぞ!!
いきなり成績発表
ストーリー: 0点
テーマ :100点
キャラ :300点
勢い :200点
合 計 :600点
ストーリー:0点
脳みそがなくならないうちに、一番真面目に書きたかったことを書いておく。
勢いとキャラ愛で許せてしまうが、今作もストーリーは強引だ!
SEEDはイデオロギーを物語にできない
SEED無印からずっと言われている「作中の思想が穴だらけ」という指摘を結局払拭できなかった印象。
SEED無印は最終的に病みおじと青二才のポエム合戦からの暴力で終幕したし、DESTINYは敵の思想に明確な回答をせず、ピンボケしたよくわからんお題目を掲げた上でまたしても暴力で解決してしまった。
ところで、私はデスティニープランは部分的に正しいと思っているし、少なくとも作中において真向から否定できてもいないと思っている。SEED Destinyでデスティニープランが実現できなかったのは、デスティニープランが間違っていたからでなく、議長が性急かつ強硬な策に走ったからでしかない。
もっというと、キラと議長を戦わせるために議長をアホにされたとずっと思っている。
思うに、デスティニープランを否定するだけの思想が用意できなかったために、議長に雑な悪役ムーブ(ラクスを暗殺しようとしたり、レクイエムを再利用したりという冷酷非情かつ軽率な行動)をさせて、議長の独善と冷酷さを強調し倒すための大義を無理矢理作らざるを得なかったのだろう。
私がSEED DESTINYを観て釈然としなかったのは、最初は「統制vs自由」の思想闘争を期待していたのに、政治ドラマを描くのを放棄して「ヒューマニズムvsマキャベリズム」で露骨にお茶を濁されたうえに、その皺寄せで最初応援していたシンたちがあからさまに不遇をかこつことになったからだ。
今作はどうか?
キラはデスティニープランと議長の影に苦しめられていたが、やはりデスティニープランを完全には否定することはできていなかったし、今回の事件も結局暴力とエモで解決してしまった。
そして今回はアホになった議長よりずっとアホな女王様が議長よりずっとひどいことをする上にもっと思想がペラペラである。シナリオとしてみたらカスもいいところだ。
しかし今回はそんなに釈然としないわけではない。徹頭徹尾「共感できる大義の無い明らかに悪い奴が明らかに悪いことをしているのを懲らしめる」話で、最初から視点が一貫しているので不満もなかった。
ゆえに、加点方式で0点。
テーマ:100点
私がデスティニープランをそんなに嫌いじゃないから前節のようなことをクドクド書いたわけだが、今回デスティニープランはそんなに重要ではない。
今作はテーマである「愛」を露骨に強調してくる。キラも最後の方愛Botになってたし。
「必要だから愛するのではありません。愛しているから必要なのです」
「人は目的のために生まれるのではありません、愛によって生まれるのです」
これだよ!!たったこれだけのことを言うのに20年もかかって!
コーディネーターとナチュラルの対立をクドクドやったあげく「それでも守りたい世界があるんだ!!」と言って無理やり締めたSEED無印でも、このくらい開き直ってくれていれば。でも当時はキラも若かったものね。
SNSが普及して、比較がしやすいし他人の言説も目に入りやすい昨今。誰もが自分を「映える」ように演出しているし、「私にはこれだけの○○(収入、ステータス、その他諸々の数字)があるから価値がある」とマウント合戦に精を出したり、〇〇をよりどころにしようとしている人や、他人にケチをつけられることをやたらと恐れている人をよく見かける気がする。だからこそ、誰が何と言おうと1対1の関係において存在している「愛」が必要な気がする。私はちょうど欲しかった。
キャラ:300点
久しぶりにキャラの活躍が見られただけで本当に嬉しい。
シン
DESTINYであまりにも救いがなかったシンがすごく元気にしていて、それだけで感動した。というか何の説明もなくこんないい子なシンをお出しされてしばらく困惑した。
キラのこと大好きそうなのもびっくりしたけど、DESTINY後にいろいろあったんだろうなぁ。
序盤から中盤、シンの扱いが不憫ですごく心配になった。キラに「待て」をされたり、アグネスになじられたり、剣の決闘でボコられたり、アスランの暴力の餌食になったり……。
面白がる一方で、制作陣がシンを貧乏くじポジションのネタキャラにしようとしているんじゃないかとかなりストレスを受けた。
そこからのラストバトルのカタルシスったらもう途轍もなかった。シンは強いんだ!!
キラ
SEED視聴時はずっと高ストレス環境でかわいそうだな……と思っていたけど、当時を彷彿とさせる負荷が見てとれて心配だった。DESTINY以来MS戦最強で周囲からも相応にヨイショされているけど、人類の戦いを勝手に背負い込もうとしたり、勝手に背負い込むのに耐えられず人のせいにして泣き言を言ったりと、SEED当時と同じ不器用な人間なのを感じられてよかった。
アスラン
アスランのことは「やたらと説教してくる石田彰」「責任感ありそうなのにすぐ独断専行するやつ」「やたらモテる」程度にしか思っていなかったが、結局よくわからなかった。
キラを殴るシーンはとてもスカっとした。もっと早くいろいろ言ってやれ~?
でもそれに続く「元カノについて講釈を垂れる元カレ」の図はだいぶ変な気持ちになった。アスランの後ろのクルーの目が泳いでたし。みんなが画面左に視線を移すなか、メイリンだけ画面右を向いたのに深い意味はあるんだろうか?
カガリのことをちゃんと好きみたいで良かった。Destiny HD版の追加映像でメイリンとのカップリングに落ち着くと思っていたので。じゃあメイリンは何なんだ…?
ラクス
SEEDからずっと、ラクスは作中で不自然に優遇されすぎだと思っていた。
「政治家の娘の歌手ってだけでみんな言うこと聞きすぎじゃね? おかしいだろ」と…。
FREEDOMで「支配階級用の特別なコーディネーターでした!」という設定がいきなり生えてきて、納得したというかどうでもよくなった。
「なんか歌ったり武力をくれたりする権力のすごいおっとりお姫様(しかも主人公にベタ惚れ)」程度に思っていたけど、キラへの信頼・愛情の描写が丁寧で昔よりずっと好きになれた。キラに毛布をかけてあげるシーンがとてもいい。
ラクスは個人の見解を断定口調で言っていい風潮、あると思います。
カガリ
いきなりMSに乗ったりMSを遠隔操作したり滅茶苦茶な国家元首だと思ったが、よく考えたら昔からだった。いつも頑張ってそうでかわいい。
アスランの「破廉恥な妄想」の餌食が自分だと信じて疑わないの滅茶苦茶良くないすか?
欲を言うなら進藤さんにやってほしかった。今回の人も寄せてくれてたし演技も上手だったけど…。
勢い:200点
序盤はシリアス、中盤は絶望的な敗北で押しつぶされるような雰囲気だが、だからこそいろいろとおかしいラストバトルでカタルシスがすごい。
巷ではズゴックの登場で流れが変わると言われているが、シンとキラが半壊デストロイに剣を突き立てるシーンからFREEDOMの片鱗が見えていた気がする。
私にとってのはSEEDっぽさは
「ポーズや構図の外連味」
「かっこいいけどよくわからないメカ・ネーミング」
「突然のサービスカット」
「バンク」
なのだが、後半ではそれを惜しげもなく詰め込んでいた。それどころか強化されていた気がする。
急にステラの幻影で全裸ノルマを達成したと思ったらバケモノになるシーン、突然アスランの破廉恥な妄想を見せられるシーンは「まあ脈絡のない展開もよくあった気がするし…」と流していたが、Meteorが流れる中ラクスがフリーダムの肩の上でポーズを決めているシーンは感動しつつ困惑した。
BGMも機体も話の流れも演出も感動的かつ激熱!なのにこのわけのわからない絵面はなんだ。こうなる必然性も必要性も全くないじゃないか……。
と感じつつも、丸め込まれてしまうほどのアツさと勢い。最高。
まとめ:FREEDOM
そしてラストの追い全裸、去り際のロマンティクス、ラクスのメッセージを聞かされて、全てを理解する。
必然性も必要性も要らない。
だって僕にはFREEDOMから貰った愛があるから!!
ストーリーに粗があろうと、僕はSEEDシリーズを愛している!
そういう幸せな気持ちになれる作品。
っぱ愛よ!!
お姉さんもママもオタクもムーミンを読もう
平素より、ムーミンをご愛顧いただきありがとうございます。
— ムーミン公式 (@moomin_jp) 2021年8月24日
この度、当社がライセンス管理をする一部製品に関しまして、皆様へ不快な思いをさせてしまいましたこと、心よりお詫び申し上げます。
より詳しくは、ムーミン公式サイトに掲載させていただきました。https://t.co/hASd0JZy0q pic.twitter.com/LodkifAHBr
予期せぬ形でムーミンが話題になっている。
私ずっと前からムーミン好きだったんですよ!
ムーミンを見たことがあっても、ムーミンをよく知っている人は少ないと思っている。そんなことないって?
クイズを作ったから是非やって欲しい。
キャラクターの格好を見て名前を当てることはできるけど、ムーミンのことなんも知らんな〜、となった人が相当多いと思われる。
にもかかわらず、みんなムーミンを嫌いになったり、ムーミンがDHCとコラボするのを止めようとしたり、ムーミンの代弁者を気取ったりする。すごくもやもやする。
何せ作中で、理想や大義に酔う人間は徹底的にパロディの対象にされているからだ。DHCへの抗議は何でもしてもらってかまわないが、大して興味のない連中が敵の敵は味方とばかりに急にムーミンをダシにするのはおかしい。
うんうん、ムーミンは素朴で丁寧な暮らしの象徴だもんね。それも違う。そういう層をターゲットにしてやたらハイソなコラボ商品を送り出す日本代理店は何もわかっていない(ムーミン原理主義者)
彼らの牧歌的な生活は、あわや大惨事の巨大災害や危険なクリーチャー達に囲まれつつ営まれているからこそ面白い。
とは言ってみるが、やっぱり可愛いのは大きい。認める。
でもせっかくなので、原作を読んでもっとムーミン達と仲良くなってはどうだろうか。
ムーミン谷の彗星
みんなへ
子供でも読める童話形式なので、老若男女問わず一度読んでほしい。本を普段読まない人にもオススメ。想像以上の「深さ」にびっくりすると思う。
話はいきなり世界滅亡の危機。ムーミン谷のヤバさ、個性豊かな登場人物の人柄を把握するにも十分で、これを読めばあとの説明はもういらない。
スナフキンの名言がいっぱい。
オタクへ
ニコ動などでもおなじみの「スナフキンが優しい子安ボイスでめちゃくちゃな罵倒をするシーン」の元ネタがある。
ドストエフスキー作品に出てくるひねくれたインテリを戯画化したようなキャラ(哲学者気取りのジャコウネコ)が登場する。自意識過剰な人は恥ずかしくなるかも。
ムーミンパパ海へ行く
みんなへ
童話のような雰囲気なのに内容は本格心理小説。
読書好きのあなたは是非是非。
みんな大好きリトルミィのキャラがよく出た行動が見られる。
思いやりや愛について、考えさせられることがたくさんあると思う。夫の世話で疲れた奥様はムーミンママに共感するかもしれない。
私のイチオシなのだが、舞台はずっと荒れ果てた小さな島のうえに、登場人物も寂しさを抱えたまま話が進むので、のどかな世界観を期待するとがっかりするかも。
結末が舌を巻くほど綺麗。
オタクへ
落ち着かなきゃいけないのはわかるけどまだ冒険もしたい中年の葛藤が見れるぞ!
ムーミンを通じて片思いの傷を癒せるかもしれない。
ムーミン・コミックス
みんなへ
漫画になったムーミン達のいきいきした姿が見られる。文章が苦手な人も平気。
かわいいだけじゃなく、話も毎回面白い。
毎話違うテーマになっているので、きっとどれか気に入る筈。
噂好きのクニットの話がお気に入り。
オタクへ
パパが酒を密造し、ママが強盗とトランプに興じ、ムーミンが労働に苦しめられる!
アナーキー、シニズム、メタネタなんでもありの、絵はかわいいのにとんでもないギャグ漫画。枠線やサインを利用したお遊びもあって勉強になりそう。
とにかく
ifの時代
フェミニズムや「弱者」についてまともに議論する知識も熱量も無いので、書籍にまつわる記事ではあるものの、議論の本題はスルー。
とても頷けたのはこの部分。
一方で、これだけ男女参画社会が叫ばれる今、夫の成功を後押ししながら自分を磨くかつての「(雑誌の)VERYな妻」になりたいかというとそうでもない。男性に選ばれて上昇婚を目指す女性たちのバイブルだった『JJ』(光文社)が月刊発行を終了するくらいです。
仕事だけでも家庭生活だけでも物足りない。尊敬もされたいし愛されもしたい。みんな当たり前にどちらも欲しがっています。高度に発展してしまった脳を満足させるためには、「恋愛」「結婚」「仕事」というような項目の記載のある幸福シートにチェックを入れていくだけだとダメなのだろうと。
自分が子育てに集中している時だったらバリバリ働いている人たちはキラキラして見えます。一方、働いている人は子どもの写真の入った年賀状を見て「自分は寂しいな」と思う。自分が自分の意思で選んだにもかかわらず、「選ばない選択肢もあった」という思いによって承認欲求の幅が広がっている気がします。
上野さんをはじめとする、女性に寄り添った社会批判や格差是正の恩恵に預かっている私たち世代の女性が以前と比べて自由に生きているのは確かですが、かつてあった問題が解決されても、すべての人たちが幸福になったわけではないという現実もあります。
また、「選択肢があるからこそ悩み苦しむ」ことはあると思います。なおかつそれは「選択肢がないから」というクレームを付けられない苦しみでもある。自分で選んでしまったがゆえの、自己責任という重苦しい問題がのしかかってくる。その悩みはそもそも選択肢がなかった上野さんの時代を考えれば、ある意味では「贅沢な時代の悩み」ではないでしょうか。
「誰もが好きな生き方を選べる」という建前ができた結果、これまで多数派を占めていた無難な生き方さえも相対的なものになった。
結果、「選ばなかった人生の方が良かったのでは?」「よりよい人生があったのでは?」と、選び取ったつもりの人生も常にifとの比較に晒され続けるようになった。
なるほど。女性じゃないがこれらは実感する。
YouTubeを見てみれば、会社員生活への不安を煽ったり、働かなくてもお金が入ってくるというifに夢を見させることで投資サイトに誘導する広告がいっぱいある。これも人生の絶対性が揺らいだ結果だろう。
無限の選択肢があるかのように言われる一方で、映画「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」のパンフレットで、片渕監督はこう述べている。
ーーすずさんの成長という側面についてですが、前作では自分の身に起こった色々な不遇を乗り越えていく成長物語のように見えていました。対して今回の映画では、色々なものを諦めていく過程に見えたのが印象的です。
片渕 そうだと思います。子供の頃は本当に無制限に、何にでもなれたはずなのに、「あなたにできることはこれしかないんだよ」ということを、繰り返し突きつけられて、いまの自分がいるわけですよね。なにも物語の中でまで、そんな現実を突きつけてほしくないという人もいるのかもしれない。だけど、そういうのが人生なんじゃないかということは、どこかでわかりながら生きたほうがいいだろうと思います。ここ何年か、映画祭などで世界のアニメーション作品を観る機会があったんですけど、かなり多くのものはアニメーション・ドキュメンタリーになっていて、現実の辛い出来事を直接描くものになってきているんですよ。そういう中で、日本のアニメーションは、辛い現実から目を背けるために夢を見たがるお客さんへの迎合が、あまりにも過ぎている。観る側にとって都合の良いものばかり提供しすぎちゃっている気がするんですよね。じゃあ、自分の人生のモデルが見出せずに五里霧中のように感じながら生きている人が多い中で、文学や映画は「都合の良いもの」ではない何を提供できるのか。それは、「こういう例もあるんだよ」「こういうことだって起こりうるんだよ」ということを語り残して並べてくれることだと思うんですよ。それが文芸的なものの役割だと思います。『さらにいくつもの』がドキュメンタリー的なものではなく文芸的なものじゃないかと言ったのは、そういう意味でもあります。
ーーすずさんが焼け野原の相生橋で「ありがとう、この世界の片隅にうちを見つけてくれて」と周作との関係を結びなおすシーンにしても、それは居場所の獲得という成熟である反面、一生「笑顔の容れ物」になっていくという断絶の受け入れにも見えました。
片渕 断絶というか、自ら世界の中に居場所を選び取るという立場があったとして、その依って立つ場所が、いかに危ういかということじゃないかなと。それは本当に"幽き"関係の上にギリギリ成り立つものであって、最初から最後まですずさんの危うい立場はずっと続いていく。その結末に至るシーンでも、すずさんが江波の実家に戻ってみたら、戦災孤児がいて住む場所がない。結局、すずさんは積極的に呉の婚家に住処を求めていたわけではなく、どこにも行くところがない存在だと暗示されていて、全然前向きな生き方はしていない。だからこそ、この物語は、ある程度年齢を重ねて、人生経験を経た人が観るものになっていると思うんですよね。もし、すずさんが周作から自立し、本当に江波に戻って生きるんだと気張ってその通りに実現したとしても、それはやはり子供のような自己実現でしかない。もっと違うんじゃないかなという気がします。決して自分自身で選びきれない、そこにしかない道を自覚することで、何か先行きとか未来とかが辛うじてその上に見えてくるのなら、それを以て良しとしなければいけないのではないか。そういう映画なのではないだろうかと。
ーー問もなく2020年を迎える現在、特に日本では、2016年と比べて「より世の中の状況が悪くなった」と感じている人が多くなっていると思います。そういう時代にこの映画を送り出すことで、人々にどんなメッセージを届けたいですか。
片渕 9年前にこの映画を最初に作ろうと思った頃は、東日本大震災もまだ起こっていませんでした。それから大きな災害が次々と起こり、国が経済的にもどんどんダメになっていった。いろんなことが起こり続けていますよね。だからこそ、より真剣なものを作らなければいけないという心構えは、こちらも持っているつもりです。現実の中では皆さん大なり小なり、すずさんと同様に、色々なままならない出来事に遭っているわけですよ。それに対して「きっとこれからは大丈夫」といった夢を見せて、一晩だけ誤魔化そうというつもりはありません。そうではなくて、もっとそれぞれの心の芯になるものを提供できたらという想いが、強くあるんです。
たどり着いたところに根を張り、己の在り方を肯定し続ける揺るぎない芯を持つ。これはifの時代に対する回答の一つではあると思う。
とはいえ私は、これだけの厚みと重みを伴った言葉さえも「〜の一つ」という相対的なものと受け取っている。これこそがifの時代の苦しみの源だと思うが、しかしそう考えてしまった。
人生ですべてを試すことができない以上、全部のifを消すことはできない。居場所を決めた筈なのに、いつ不意にifたちが「お前がそれを選択したんだ」「お前がそこに甘んじているんだ」と囁いてくるかわからない。それを跳ね返すだけの「芯」は身につけられるのだろうか?
オタクと一口に言うけれど(7/26を別の切り口で)
私はマイナーな趣味の愛好家をとりあえずオタクと呼ぶし、漫画アニメゲームで繋がった友人はだいたいオタク扱いする。
そんなふうにある種の同朋意識があるわけだが、オタクは般ピー(非オタ)とどう違うのか。
私はずっと、空気が読めない、だらしない、物にこだわりがある、ゆえに子供っぽく見られる……などがオタクの共通点だと思っていた。しかし実際のところ、ミーハー・パリピ嗜好がある人にも各要素が部分的に見られる。オタクでも、やたら律儀なオタク、場を和ませるのがうまいオタク、ぱっと見オタクっぽくないオタクもいる。
結局のところ、オタクの共通点はマイナー趣味を愛好していることに尽きる。
ここまでは考察。この先は考察というよりは半生の反省かもしれない(激寒)
この記事を書いた時点では、全オタクが「好きだから」オタク趣味に拘っているものだと考えていた。その通りなら、好きでオタクをやってる筈なのに人の評価が気になるのはおかしい。
理屈の上ではそうなるが、前提の間違いに気付いた。
世の中には「真のオタク」でない、オリンピックで名誉回復した気になる「キョロオタク」も居るのだ。私が真のオタクに憧れているからこそのネーミングと扱いで、本来は上下など無いのかもしれない。
ところで私の話だが。
ブログのそこかしこでしている通り、私は自分を批判することがままある。批判しているのは内在化された「道徳観念」「世間の目」だ。般ピーと没交渉なオタクにも「自分が何をしたいか」以外のものに判断を委ねているこんなタイプの人は居るんじゃないだろうか。どこかから仕入れた正しさから外れないように気を付ける生き方には主体性がなく、リア充集団から浮かないように気を付けているキョロ充とたいして変わらない。
思想にかぶれたのは、主体に代わって価値判断を行う外付けのツールを求めていたからかもしれない。ゼミを聴講して、同好の士と古今の思想を吟味しながら真や善や美について議論するのは楽しかった。また、己の現状を理想と比較すること、ひいては自他を批判することにも承認を与える気風があった。
正しさの追求に承認が与えられている空間は心地よかったが、私は承認を得ること以外にはあまりにも無欲で、より善い人間になるために理性によって自我を組み敷くことに躍起になった。
自分のしたいことを一旦措き、先人の見出した理想に近づける試みは、内的な欲望の充足よりも、外的な承認を得ることが優先する行為で、土日にアニメを見るのを諦めてゴルフをするとか、虫捕りを引退してサッカー部の練習に行くのと似ている。内的な欲望の充足よりも、外的な承認を得ることが優先されていて、オタク的というよりむしろ般ピー的である。真のオタクに必要なのは、黄金の精神ではなく漆黒の意思である。
なんのために昔話をしたか忘れた。とにかく本題である。
「オタク」と十把一絡げにまとめられているが、オタクたちの中にも、内向に徹した「真のオタク」気質の人間と、オタクコミュニティでの承認を求めている外交的な「キョロオタク」が居るのではないか。そして両者共に「自分の『好き』を大事にしたい」というスタンスをとっているが、両者にとっての意味は全く違うのではないか。
真のオタクは誰がなんと言おうとオタク趣味を続けられるだろう。誰にも褒められないことをやれる人間なのだから、とやかく言われて怒ることはないだろう。市民権にも興味はない。
キョロオタクは、般ピーコミュニティへの適応を拒む言い訳として「真のオタク」の言説を借りているだけに思える。だから、適応した人間にならなくても承認が得られる世界、即ちオタクに市民権のある世界の到来を望んでいる。
彼らがオタクコンテンツを使ってやっていることはウェイウェイバーベキューとたいして変わらない。コミュニケーションの媒介が肉からアニメになっただけである。どうして般ピーコミュニティに適応しないのかはわからない。「般ピーに認められたいが、般ピーと仲良くなるのに失敗して傷つきたくない」みたいな、碇シンジみたいな精神状態なのかもしれない。
一時期、「オタクでなくなったオタクは、オタクじゃないがリア充でもない、陰キャじゃないが陽キャでもない『無キャ』になる」という話や、「疲れてアニメが観られない。オタクでなくなった自分を認めたくない」という話が盛んにRTされていた気がする。その焦燥や苦悩の原因は、自分は(真の)オタクであるという自認にあるのではないだろうか。
今では「手っ取り早くオタクになりたいので、何を観ればいいのか教えて欲しい」と聞くオタク志願者がいるらしい。確かに、真のオタクには周囲を気にしない確かな自分がありそうだから、何者かになりたい人間から見れば魅力的だ。しかし、真のオタクの核は「好き」という気持ち(私はそう思っている)なのだから、スピードラーニングでオタクになったところでキョロオタクになるだけだろう。キョロオタクから時間と話し相手を奪ってレベルアップすると無キャに進化する。
そんな進化はしたくない。そうだ。キョロオタクが承認を求める生き物なら、キョロオタクも創作をやって承認を得れば完璧なのでは?
実際にできれば素敵だ。しかし、承認欲求と無産オタク(である自分)への蔑み、あるいは真のオタクへの憧れしかないなら、創作を続けるのはきっと苦しい。俺はにちかに幸せになって欲しいよ。というか、創作をするだけの熱量のある人間は規模はどうあれ既にしている。
ではどうすればいいのか。俺はオタクだからと言い張って、「人の趣味に口を挟むな」という便利な言葉を盾にずっと社会に適応してこなかった人間が、自分が真のオタクではないことに気付いてしまったら。
処方箋は人それぞれだと思う。
たとえば私は実存を欠いたまま、実存への飢えを文章にしている。
百合学芸員の誘い⑦【U-temo先生「今日はまだフツーになれない」】
U-temo先生の「今日はまだフツーになれない」を勧められていないけど買った。かの百合学芸員がツイートで言及していたので、間接的に紹介されたと言えなくもない。
と言うわけで今回はこちら(力技)
作者さんが冒頭を読めるようにしてくれている。拡散しよう。
6月30日(水)発売『今日はまだフツーになれない』の書影です。かわいく作ってもらいました!A5版なので実物の存在感すごいと思います。描き下ろし漫画も少しですがありますよ〜〜
— U-temo▷フツーになれない単行本発売中 (@u_temo) 2021年6月21日
amazon👇https://t.co/JjGIklfibt
ゆりひめ@ピクシブで何話か読めます👇https://t.co/Ciw8a0PgRG pic.twitter.com/Jh92rHkx99
キャラクター
高校の頃から仲良し?の二人組。
高橋
服はフリフリ、髪はネコミミ、金がなくてもガチャを引く(都都逸)
ギャルゲーやメイド喫茶などの趣味を持つ。
外交的で、周りから見た自分のことをよく考えている。ズレている自覚があり、高校では本当の自分を隠しつつ友達と過ごしている。
山下
漫画家志望。
漫画のことしか考えない。
あまり表情がない。汚部屋。
内向的で、他人からどう見られているかをあまり考えない。常に我が道を行くので、高校ではモロに浮いていた。
ストーリー
現在27歳のこの二人が、出会った高校時代から現在までを回想する……としか言いようが無いが、タイトルの通り「フツーになれない」エピソードに満ちている。
高校時代
- 進路が人と違う
- 男性キャラにキャーキャー言うのがわからない
- 進学希望の子が就職してお祝いするのがわからない
- 空気がわからない
- みんながいいと言っているものがよくわからない
抜粋したコマみたいな話に覚えがあるなら、ぜひ続きを読んで欲しい。
まあちょっと読んでいきなよ(海外旅行客をカモる現地人)
『今日はまだフツーになれない』試し読みまとめ🌟
— U-temo▷フツーになれない単行本発売中 (@u_temo) 2021年7月3日
7話
「下ネタ苦手やねんな〜〜」https://t.co/5ra4UsiqPA
12話
「今日はまだフツーになれない」https://t.co/RWqVca3ltq
15話
「あの子との思い出はもう増えない」https://t.co/OOhlTWgcJ4
単行本発売中!
amazon📚https://t.co/JjGIklfibt pic.twitter.com/yTPY8asdNO
得難かった共感
本作ではこれらの事象に関する二人の間での共感や許し、互いの気付きが描かれている。
「自分はフツーではないのかな」という違和感が、「どうしてフツーになれないんだろう」という苦悩や「フツーな奴は思考停止してる馬鹿」という怨恨に変わってしまうことは往々にしてあるのではないだろうか。
世間にはあまりにも「自分はフツーである」との前提を自明としている人間が多い。
フツーはいつもあまりに無邪気に、時に悪意をもってフツーでない人間に押し付けられる。
フツーを押し付けられる側の悲しみや煩わしさは、いつもぞんざいに扱われる。
本作に、その手の「フツーの暴力」は無い。
お互いが相手の気持ちを尊重する、お互いへの思いやりで繋がる関係が描かれている。
先に挙げたエピソードに共感できる人は、きっと高橋と山下に会えたことを心から喜べる。
SUKO POINT
高橋
高橋が相手の気持ちを想像するシーンが好き。
芸コマ
反省
「ってコト?」を見るとちいかわだと思ってしまうの、明らかにツボが浅すぎる。
購入は下のリンクから。
DMMはポイント還元やってます(~8/26)
百合学芸員(ユリキュレーター)の誘い⑥【伊藤計劃・三巷文「ハーモニー」】
これまでの百合学芸員以外とは違う友達が、当ブログを読んでマンガを薦めてくれた。
「薦められたら読んで書く」がマニフェストである。書くしかない。
原作が早逝の天才小説家・伊藤計劃の作品であることは周知の通り。 私も小説版は読了済み。
このコミカライズを読むにあたっては、作中で印象的に扱われる「紙の本」にこだわりたかった……のだが。
なぜか入手がとても難しく、プレ値とマケプレの送料で計5000円弱を支払うハメになった。
おとなしく電子書籍を買ったほうが財布には良いだろう。
私は両方買った。
ここから先はネタバレし放題です。
漫画の引用もあるので、小説をいずれ読むつもりなら閲覧を避けるべし。
読んでしまえばあなたの脳内のトァン達のイメージは受肉できなくなる。あなた自身のイメージを大事にしたほうがいい(持論)。
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