クロアチア空軍と航空兵団

クロアチア独立国空軍の撃墜王,フラニョ・ヂャルについてのメモ - Danas je lep dan.

ところで,ちょっと空軍と航空兵団の関係について気になるんですが,両者はあくまでも別組織なわけですよね? どうもすごく癒着している印象を受けるのは,ナツィの傀儡政権というNDHの性格に大きく関係してくるのでしょうか,やっぱり。

 id:Mukkeさんのカキコから。
 
 空軍(NZDH)はクロアチア独立国軍(ZNDH)の指揮下にあり、例えばドイツ軍によるパルチザンに対する大規模爆撃を(情報漏洩を恐れて)事前に連絡されないなどの事例があります。
 対するHZLは、設立が独ソ開戦の直後で「ナチスドイツとヒットラーに対する独立の謝意」を現す為に編成された戦力で、東部戦線へ派遣を前提としています。
 また、この航空兵団は名実共にドイツ軍指揮下に置かれ、ドイツから装備が供給され、第三帝国と総統に対する忠誠の義務を負っている事実上の外人部隊で、15(クロアチア)./JG52の上位に当たる指揮官もドイツ人将校です。
 完全に独立した別組織かと言う訳ではないようで、HZLに所属するパイロットはNZDHの籍から離脱している様子は無いみたいです。
 「親会社に出向する子会社社員」のような印象ですね。
 
>あ,Džを「ヂャ」と表記してるのは僕の趣味ですから,表記は「ジャル」で構わないと思いますよ。
 そのほうが発音に近いってことみたいなので、折角ですしそっちにしておきますw

フラニャ・ジャール

■フラニャ・ジャール(Franja Dzal)
愛称:フラン(?)
 1921年4月9日生(もしくは22年?)
 身長約170cm
 Av534→?→Bf109G(黒の1)
 階級:少尉〜中尉(開戦時)〜大佐
 使用武器:ZB26、MG42
 使い魔:ダルメシアン
 
 ビイェリナ出身。クロアチア系。
 第二次ネウロイ大戦前のオストマルクにおいて、最も名を知られていたウィッチの一人。
 開戦時は18歳。一飛行部隊の指揮官の任にあり、十名前後のウィッチと共に若干の撃墜スコアを稼いでいる。
 ただ、開戦前には既に「黒の旅団」のヴラディミル・ルブリッチと深い信頼関係を築いていたことから、事実上、黒の旅団を構成する戦力として看做されていた。
 開戦後、戦線からの離脱を開始したクロアチア軍団に従ってダルマチア方面へ移動。ここでの戦果を鑑み、また、最も高名なウィッチでもあったことから、少佐に昇進の上でオストマルク=クロアチア独立兵団第15(クロアチア)航空中隊の指揮官となる。
 しかしながら、開戦時(39年)18歳という年齢は、この最も苦しい時期に全盛期の優れたウィッチを確保していたというクロアチア航空兵団の幸運であったと同時に、彼女の人生を狂わせる原因となった。
 20歳を越えた頃より、彼女の魔力は急激に衰え始めた。
 名目上の役職を与えられての地上勤務が増え、彼女はそれでも前線に立ち続けたものの、魔力の衰えと共にヴラディミル・ルブリッチからの歓心を失うにつれて自信を喪失し、後輩の成長を素直に喜ぶこともできず、私生活は荒む一方になる。
 1944〜45年頃、パルチザンからの援軍要請を上層部が拒否したことを知ったウィッチたちが上層部へ出撃を直訴した際、彼女は代表としてこれをルブリッチへ取り次ぎ、その場で強い非難に晒された。彼女は司令部より退出した後、ことの顛末をウィッチたちに話し、各々自らが望む道へ進むよう命じた。
 これはウィッチらの脱走事件を引き起こす。彼女はこれを実力阻止せんとするルブリッチを身を張って押さえ、結果、混乱の中で命を落とした。
 
 ついでにw

フラニョ・ジャール関係

 
クロアチア独立国空軍の撃墜王,フラニョ・ヂャルについてのメモ - Danas je lep dan.
 に触発されて、相も変わらず毎度のオスプレイ本とメモ帳を引っ張り出す(笑
 引用元資料にあったフラニョ・ジャールで一応書いてあります。近いうちにヂャルでメモり直そうw
(主要参考資料:クロアチア空軍のメッサーシュミットBf109エース)
 
■フラニョ・ジャール(Franjo Dzal)
 1909年4月9日、ビイェリイナ生まれ。
 1927年ペトロヴァラディンの偵察員学校に入学。翌年、ノヴィ・サド第一飛行連隊(1.VP)パイロット学校へ入学を許可され、1931年、ゼムンの第六戦闘機連隊(6.LP)の戦闘機パイロットになった。
 大戦勃発前夜には既にウスタシャに加盟しており、大戦前のユーゴスラヴィア王国空軍においてもっとも広く知られたパイロットの一人だった。
 枢軸軍によるユーゴスラヴィア侵攻が開始された時、彼はレザノヴァチカ・コサおよびコサンチッチに配備され、ホーカー・フューリー×25機、アヴィアBH-33E×1機を擁するた第五戦闘機連隊(5.LP)の副指揮官だった。
 1941年4月6日早朝、ドイツ空軍のBf109、Bf110がルジァノヴァチカ・コサ*1飛行場を攻撃してきた時、彼は離陸を避け、旧式な複葉機で構成された第六戦闘機大隊(6.LG/*2)の友軍機が次々と撃墜されていくのを地上で見ていた。
 この戦いで、離陸途中だった5機を含むフューリー×10機、地上でフューリー×2機他練習機と連絡機の計14機が失われた。ドイツ軍側の損害はBf109×3機、Bf110×1機の4機だった。*3
 1941年4月19日、クロアチア軍創設。同29日、彼は少佐の階級でクロアチア独立国(ZNDH)に参加した。
 1941年6月22日、独ソ開戦。同27日、クロアチア兵団設立。同年7月12日、クロアチア航空兵団(HZL)設立。同兵団の実戦部隊、第四混成航空連隊(4.MZP)指揮下の、第四空軍戦闘機飛行隊(4.ZLS)の指揮官に就任する。
 4.ZLSの前線への移動は配備機不足で延期された後、ドイツで約二ヶ月の戦闘訓練を受けたパイロットから選抜されたパイロットを中心に先発隊が編成され、彼はこれに加えられた。この部隊は予定していた25機編成から規模を縮小して合計11機でウクライナへ指揮官として出発。ポルタヴァで第52戦闘航空団第三飛行隊(?./JG52)に配属され、15(クロアチア)./JG52という中隊番号をつけられ、10月9日には隊員が初戦闘を経験する。
 1942年10月、中佐に昇進。
 1941年11月7日、彼はラタ1機を初撃墜。部隊としては3機*4めの撃墜となる。
 また、彼は編隊の列機3機と離れ離れになった際にラタ4機を撃墜し、基地に帰還すると歓声を上げた。クロアチアの新聞とラジオはこの戦果を大々的に報道し、彼には大量の祝辞が届いたが、ドイツ空軍の戦果評定委員会は撃墜不確実との判定を下した。この判定はNDH最高司令部からの要請にも覆らず、不満をもったジャールは年末に本国帰還命令を受け、チュリノヴィッチ少佐と指揮官を交代した。
 1942年2月25日、フラニョ・ジャールは同中隊の指揮官に復帰した。彼が指揮官を務めたこの時期、同飛行隊は非公式に『戦闘飛行隊「ジャール」』と呼ばれた。
 1942年3月25日、彼は部下1機を連れて偵察機と合流する筈だったが悪天候の為に偵察機が到着せず、パトロールを続けた彼らは9機から成る敵攻撃機の編隊と遭遇してこれを攻撃し、彼は一機を撃墜した。敵攻撃機は爆弾を捨てて後退し、代わって10機の戦闘機と対空砲火による攻撃を受けた。彼の機は命中弾を受けて損傷し、低い雲によってお互いの機影を見失い、無線も不通になったものの無事帰還した。
 この頃には中隊機の稼働率は低下し、補充される機体もドイツ軍が使い古した老朽機ばかりだった。ドイツ軍にF型が行き渡った頃になっても、彼らは未だにE型(エミール)が配備されており、強い不満を抱いていた。
 1942年6月3日、彼はベルリンへ赴いてZNDH駐在武官マリヤン・ドランスキ中佐を通じて強く不満を申し立てた。7月1日からグスタフの配備が始まり、月末までに14機のグスタフが配備されたことで同中隊は戦果を伸ばした。
 1942年7月26日、彼と部下の2機は多数のソ連機から攻撃を受けて被弾。敵戦線の内部に墜落したが、数時間後にドイツ軍側の戦線に脱出した。
 1942年9月11日、彼を含むグスタフ×4機はパトロール中にチャイカ×5機、ラタ×14機の大編隊と交戦し、彼はそれぞれ1機の計2期を撃墜したが自身も被弾。辛うじて基地に帰還した。
 1942年11月15日、15(クロアチア)./JG52のパイロットたちは一時クロアチアに帰国して休養をとった。この一度目の派遣における彼の戦闘出撃は157回。戦果は確認撃墜16機、確認外撃墜3〜5機。部隊第二位を記録する。
 1943年2月12日、同中隊は再び戦線に移動を開始し、3月30日には前線に復帰した。前線を離れていた三ヶ月の間に、戦況は著しく悪化していた。
 この頃から、マト・ドゥゴヴァッツら次世代のエースが活躍が目立つようになると共に、フラニョ・ジャールは戦闘に出撃しなくなる。
 1943年5月12日、彼の弟であるジーヴコ・ジャール軍曹他数名が配属される。同15日、彼は弟の初陣に付き合って先頭に立って出撃し、Ju88の護衛任務に就いたが何事も無く帰還する。この出撃は、この時期における彼の唯一の出撃となった。
 1943年5月22日、彼はクロアチア航空兵団(HZL)全体の指揮官に任じられ、中隊指揮はイヴァン・チェニッチ少佐に引き継がれた。
 しかし、戦況が悪化し始めたこの頃からクロアチア人兵士の忠誠心は薄れ始め、多くのベテランパイロットは出撃を忌避し、パイロットの脱走が相次ぐようになる。彼もまた、全く出撃しないどころか毎日のように酒を浴び、酔っていない時間が珍しいほどだった。(*5)(*6)数回連続した脱走によってドイツ航空将はクロアチア中隊の飛行禁止を命令し、彼を出頭させて事情聴取し、結局、彼はクレーン将軍によってクロアチア航空兵団の指揮官から解任され、帰国して閑職に廻された。
 1943年11月2日、ゲーリング元帥の命令によってHZLの司令官に復帰したが、戦況は悪化する一方だった。
 1944年2月、大佐に昇進したジャールは、翌3月、作戦担当将校としてZNDH司令部に転任。
 1944年6月27日、クロアチア航空兵団の第三回創設記念日の直前に、同兵団は、クロアチア独立国空軍(ZNDH)への復帰の約束を反故にされてドイツ指揮下に留めおかれるとの発表があった。このニュースは兵団の失望と反感を買い、隊員から五名の脱走者を出した。
 彼は兵団隊員に対して演説を行い、兵団に残りたくない者は次の三つのいずれかを選べと無遠慮に言い放った。クロアチア独立国空軍に戻るか、もっと訓練を受ける為にドイツに行くか、パルチザンになって「森の中へ行く」かのいずれかである。隊員は一斉に口笛と反対の怒声を彼に浴びせた(*7)。対抗措置が取られ、航空兵団(HZL)は解散されて別組織になり、翌1945年前半には後継組織も消滅している。
 大戦末期、彼はスロヴェニアユーゴスラヴィア軍部隊の捕虜になり、ベオグラード軍事法廷で死刑判決を受け、1945年10月に処刑された。
 

*1:さっきとカナ読みが違うw

*2:おそらく第五飛行連隊を構成する飛行大隊

*3:事実上の40対5、しかも旧式な複葉機で4機撃墜したのは十分だと思うのは私だけだろうか。それとも記載されていない戦力がもっとあったのか?

*4:あるいは4機(w

*5:弟の初陣に付き合った一度きり

*6:ついでに、敬礼して報告する部下を前に、犬を相手に遊んでいる写真もある

*7:資料によっては80%がZNDH復帰を望んで拒否されたとある。資料によっては、と書いてあるので不正確なのかも。

クロアチア空軍関係用語



ボスニア出身のムスリム撃墜王,サフェト・ボシュキチについてのメモ - Danas je lep dan.


 Mukkeさんのとこで、和訳について多少やりとりがあったので、いつものオスプレイ本(ちうかこれしか資料が無いw)から幾つか引用。
 他にも色々あったけど、とりあえず目立つ奴を幾つかピックアップしました。
 何かの参考になれば幸いです。
(タイポがあったら容赦してつかぁさいw)


KVKJ/Vazduhoplovstvo Vojske Kraljevine Jugoslavije
ユーゴスラヴィア王国空軍


ZNDH/Zrakoplovstvo Nezavisne Drzave Hrvatska
クロアチア独立国空軍


HZL/Hrvatska Zrakoplovna Legija
クロアチア航空兵団


HZS/Hrvatska Zrakoplovna Skupina
クロアチア空軍飛行隊


HZIS/Hrvatska Zrakoplovna Izobrazbena Skupina
クロアチア空軍訓練学校

サフェット・”スラヴコ”・ボスキッチ





■サフェット・ボスキッチ(撃墜13機)
 サフェット・「スラヴコ」・ボスキッチ。
 1909年1月31日、フォイニツァ生まれ。ムスリム
 1932年飛行学校修了、1935年軍パイロット、1938年戦闘機パイロットに着任。
(1941年4月10日ドイツ軍ザグレヴ入城。19日クロアチア国軍設立発表。6月22日バルバロッサ作戦開始。6月27日クロアチア兵団設立発表。7月12日クロアチア航空兵団創設――隊服、軍規、装備、指揮、全てがドイツ軍の下に一本化されたほぼ「外人部隊」)
 1941年7月、軍曹としてZNDH(クロアチア独立国空軍)に入隊。7月19から約2ヶ月間あった飛行学校での戦闘訓練(全21名)に参加していると思われます。
 間もなくHZL(クロアチア航空兵団)に移動。
 9月28日第一陣として送られる10名のパイロットに選ばれ、フュルトからウクライナへ。この時点でサフェットは准尉。装備はBf-109E「エーミール」9機、Bf-109F「フリードリヒ」1機。
(他11名のパイロットは更に訓練を続け、12月16日に陸路で到着)
 撃墜戦果(確認13、未確認3、地上撃破1)は41年9月28日〜42年11月までのうち、第一次戦闘配備期間において挙げられたもの。
 42年10月、少尉に昇進。
 翌年春、技術担当将校に任命。第一航空機空輸航空団に勤務した後、43年12月、Kro JGr1(?)本部付き技術担当将校に転任し、翌年7月にはHZS(クロアチア空軍飛行隊)全体の技術担当将校に。44年秋、ウィーン付近に設置された第二技術中隊の指揮官となる。
 44年12月、中尉に昇進。
 他の将校よりも長くクロアチア兵団に勤務したと記述があります。対戦終結時に捕虜となり、45年7月に釈放。その後はザグレブに暮らし、地域の飛行クラブで活動。
 パイロット訓練コースでの成績が優秀だったので、いくつ者飛行訓練学校でインストラクターとして活躍したそうです。
 1980年死去。
 
 他、本文から印象的なシーンを。
 同僚アウビン・スタルツィの証言。
 42年夏、彼は「スラヴコ」・ボスキッチと並んで飛んでいた。
 平穏なパトロールを終えてそろそろ基地に引き揚げようとした時、スラヴコが低空を飛ぶLaGGを発見した。
 スラヴコは素早く降下して射撃位置についたが撃たず、ロシア機に隣接して飛んだ。スラヴコがコックピットを覗くと、飛行帽も被っていない、17歳くらいのブロンドの少年がコックピットに座っていた。
 彼は呆然とした表情の少年に手を振ると、敵機から離れた。
 着陸後、アウビンが何故撃たなかったのかを尋ねると、彼は「子供を殺すことはできなかった」と答えた。
 
 ハイクに書き込んだクロアチアエースの一人についてのデータ。メモ代わりに。
 内容の殆どは「オスプレイ軍用機シリーズ44 クロアチア空軍のメッサーシュミットBf109エース」からの引用。
 P.42まで読んだ時点での内容。後から他にも見つかれば追記する(←忘れないこと)