魔法にかけられて。
ベージュの口紅を上手に選べないわたしは、
美容部員さんに相談して、
Lancômeの口紅277番を購入した。
スティックの状態では、仄暗い小豆のような色合いなので、まず自分では手に取らない色合いだ。
しかし唇に乗せた時には綺麗に馴染んで、控えめでエレガントな雰囲気になる。
この一本でとても美しい気持ちになれる。
安い買い物ではないが、それだけの価値がある。
よい店員さんに巡り会えたと思う。
軽やかに揺れるのは
髪を伸ばすのが余り得意ではない。
平安の世なら大人気だったに違いない、硬くて毛量のある髪質の私。そんな私の髪はドライヤーを使ってもなかなかすぐに乾かない為に、いつも根負けして髪を切って短くしてしまう。
そんな私が珍しく髪を伸ばしていたのだが、そろそろパーマを当てようと、久しぶりに美容室に足を運んだ。
何年も通う美容室で、いつも同じ方に担当をしていただいている。髪型のオーダーもお任せすれば良いものに仕上げてくれる。
パーマを当てる間に、のんびりと雑誌を読んで過ごす。お砂糖は無しでミルクを入れた紅茶をいただく。美容室でのんびりと過ぎる時間は、ちょっとした息抜きになる。慣れない場所が苦手な私にとっては同じお店に通う習慣を持てたのは、幸福な事かもしれない。
他愛のない話を少しだけして、時々鏡を見ていれば、そこには新しい私がいる。
ちょっと頑張って伸ばした髪のおかげで、パーマは肩辺りでふんわりと波打っている。少しの我慢のおかげで素敵な髪になれるのだ。
そして髪を上手に切ってもらえた時は、何とは無しに心も軽やかになるものだ。
戸を開けると、真っ白が一面に広がる。
来年もよろしくお願いしますを言い、雪降る中に出て行く。
歩くたびに、毛先は軽やかに揺れる。赤いチェックの傘を広げて雪降る中を歩き出す。
今年ももうちょっと。
そう思いながら車に向かい歩いて行く。
冷たい外気と共に、整髪料の薫りがする。
ここまで髪を伸ばせたのは私にしては上出来だ。
この先どこまで伸ばせるかについてはまだ未定だが、もう少し伸ばしてみようと思う私であった。
シンデレラ
何年か前に、シンデレラの実写版を映画館でみた。
そして思わず、映画館でパンフレットを購入してしまった程にお気に入りの映画になった。
ストーリー、モチーフ、配色。
なんにせよ、私にとっては至上の映画だった。
特にこの映画で思うのが、家事労働についてだ。
その頃の私は家事全般に苦手意識があり、どちらかと言えば面倒な事として考えていたような気がする。
しかし今思うのは、考え方ひとつで世界は変わるという事だ。
過去に近藤麻理恵さんの『人生がときめく片付けの魔法』(サンマーク出版)を読み、御多分にもれず片付けをした事がある。
そして幾つもの決断をして、私の部屋は綺麗サッパリ片付いた。
その時に何故か私の本棚で、とても気になる本が一冊あった。芥川龍之介の文庫本だった。何故この本にこうまで惹きつけられるのか判然としないまま、ページをめくる。
『六の宮の姫君』
なんのことはない短編小説だ。
流れるままに生き、主体性を持たずに生きて死ぬだけのおんな。極楽にも地獄にさえ行けない女の話だ。
過去に読んだ事があり、その頃は特別面白味もない小説だと思ったものだ。しかし片付けを終えた私には妙に胸に迫るような哀切な悲しみがあったように思う。
流れるように生きてきた私と、なんだか相通ずる気がして。かと言って、目標を決めて何かをする程の情熱や元気はとても持てそうになかった。
これでは六の宮の姫君と私に違いなどないではないか。
そして上手に片付かない、綺麗にしてもまたすぐに散らかる部屋を見ながら、言い知れない絶望を抱いていた。同じことの繰り返しに飽き飽きしていた。
何もない閑散とした部屋は、私のぽっかり空いてしまった心の穴のようだった。
そんな私が変わり出したのは、ドミニック・ローホーさんの『ゆたかな人生が始まる シンプルリスト』(講談社)の本と出会ったからである。
ここでは色々なリストを作り、自分に問いを投げかける。その為自分が何を求めているかが明確になる。ぼんやりと書いていた輪郭の線が、明確な正しい線を見つけるように、自分の定義が見つかっていくような気がしたものだ。
そのように模索を続けていくうちに、私の部屋は最小限の必要なものだけになり、部屋の掃除が簡単に済むようになり出した。
その頃から不思議と家事が好きになり始めたのだ。
そして面倒くさがりな私に一つの方法として良かったのはこの本の中にあった、2分間ルール。
2分で済むことは後回しにしないという事だ。これのおかげで世の中には2分で済む事が沢山ある事を知ることになった。(落としてしまったものを拾うのは2分で出来る。ゴミ捨ても2分で行ける。机周りだって2分あれば片付くのだ!)
それで私のイライラは確実に減り、代わりにできる事が着実に増えていった。
そうやって積み重ねられていく事が、私を少しづつだが、確実に変えていった。
そして、冒頭の『シンデレラ』と私は出会う。
家事をキチンと出来る女は、頭のいい女。
日々の暮らしをつくっていける、一見取るに足らない事を楽しんで送れる人こそ至高だ。
そんな事を思いながら、私は映画館を出る。
横にいた母に映画の感想を聞くとこう言った。
「午後から映画をみるなんて、こんな贅沢な時間のつかいかたするなんて久しぶりだわ」
私はその言葉を聞きながら言い知れぬ気持ちになる。
家事労働は尊い。
当たり前の事を、当たり前に行う。
それは日々の暮らしを大切にすることと等価ではなかろうか。
シンデレラの物語を読み解く上で、絢爛なシンデレラストーリーを愉しむのも悪くないが、生きる上での知恵をそこから見つけ出すのもまた乙ではなかろうか。
そしてそこから数年の時を経た私は、家事労働を前よりも愛おしく思えている。そう。人は変わるものだ。
同じまま、空っぽのままではない。
意思を持って日々の暮らしの積み重ねで、僅かづつ変わって行くものである。
パールの効用
人間生きていればイライラが募る日もある。
そんな日に思い出すのは、講談社の本で斎藤薫さんのエッセー、『されど”服”で人生は変わる』の中に記載されているジュエリーについての項目だ。
ゴールドな女、シルバーな女、パールな女
どうだろう。見出しからしてキャッチーだ。
そして深い。ジュエリーの色味と女を結び付けられるのか、とハッとさせられる。何の気なしに選んでいた筈のジュエリー選びの深層心理が垣間見える。どのような気質の女が、どのジュエリーを選ぶのか。またどのような色味の服と合わせると良いかの提案がなされる。或いは、ジュエリーの似合い方がイメージとどのように関わって来るのかが語られる。
しかし、私がこの本を読んだ際に何に衝撃を受けたかと言えば、ジュエリーをイメージした際にゴールド、シルバーについてはすぐにイメージ出来たものだが、そこで『パール』がジュエリーとして扱われていたことである。
その頃の私にとってはパールは、結婚式や葬式でのイメージしかなく、あまりジュエリーと言われてもピンと来なかったのである。
しかしこの本では、パールをつける女性を『たおやか』な女性と呼んで憚らない。
私はこの文章を読んだ時に恋をしてしまったのだ、こんな女性になりたい。パールの女になりたいと、そう思ってしまったのである。
怒りはパールには似合わない。
丸くて真白な球体はそれらを遠い彼方に追いやってしまう。
願わくば、パールの似合う女性でありたいものだ。
キラキラ
今年の冬にイヤリングを購入した。
雪の結晶モチーフの可愛いらしいイヤリングだ。
その華奢な佇まいに心を鷲掴みにされて、我が家に連れて帰る運びとなった。
ところで、このイヤリング。動く度に殊更キラキラと光る。光を受け、七変化する。それは所謂、スワロフスキーのカットガラスが使われている為である。
はじめまして。
はじめまして。
ミニマルサイズのしまりすです。
退屈で仕方ないのでブログはじめてみました。
しまりすの小部屋へようこそ。
ここでは日々の雑記、私の感銘を受けたものの紹介、何となく思うこと、等をつれづれなるままに記して行きたいと思います。
できる限り更新して、ブログを書くことを習慣に出来ればいいのだけど。どうなるかしら。
まず、日記って続かないから。
12月の寒い日。
思いつくままに。