Minakami Room

旅を続ける。考える。自由である。生きている。

不安の代替可能性について

不安は次から次へとやってくる。
そこに理屈も意味も無いと感覚的には理解していたが、はっきりとイメージになったのは最近だ。

自分という土の中に、大きな樹が生えていることを想像する。
ポジティブなイメージではなく、どちらかというと邪悪なイメージだ。
『星の王子さま』のバオバブが近い。

その樹は根を広げている。
太く深く、日に日に広がっていく。
自分という土、大地はどんどんやせ細っていく。

不安とは、その根だ。

なぜこんな例え方をするのか。
根そのものは無意味だってことに最近気がついたからだ。

なかなか説明が難しいが……
この根の存在を一度イメージしてみてほしい。
強く強く、具体的に。

その根は何もしない。
イメージに過ぎない。
細菌やウイルスのように何か毒素をバラまいているわけじゃない。

けれど、その根の厄介なところは何にでも変わり得るってところだ。

例えば新型コロナで世界中が不安に落ち込んだ。
病への不安、死への不安。
「根」はそいつらを全部受け止める。
「根」はフォトフレームのようなものだ。

ここでやっと気付いたことがある。
ここからが最も重要なことだ。

例えばコロナの不安が去ったとする。
そうしたら不安の無い人生が送れる……かというと、そんなことは全然ない。

根は、生きている限り残る。

根は次の「不安」を待ち構えている。
ずっとずっとそこに「根」はある。
「根」がある限り、一生「不安」はやってくる。

……さて。
この長い例えで伝えたかったこと。

「不安」は次から次へとやってくる。
一つ解決したらまた一つ不安になる。
僕の場合「それにしてもなんか変だな」と思うことが結構あった。
例えばある不安を解消したあと、10年前にやったことの罪悪感がずっと頭を占め始めたりすることがあった。
さすがに「これはちょっと異常だぞ」と思うようになった。

なんでそんなことになったか。
それは「根」があるからだ。
だから一つの不安を解決しても何の意味もない。
不安は代替可能で「根」がある限りいつまでも精神は苛まれる。

楽になる方法は2つ。
土を強くするか、根の存在を認めてしまうか。
それだけだ。

土を強くするのはなかなかしんどい。
だから後者の方が良い。
根はそこにあっていつまでも不安を待ち構えている。
けど、それ単体では何もできない。
しょせんそういった存在に過ぎない。
僕らは不安の実態を恐れているのではなく、不安を捕まえた「根」を見て震えているだけなのだ。

だが、「根」なんてホクロと一緒だ。
「そこにある」、それだけの話なのだ。
なくす必要はない。
あるもんは、しゃーない。
それだけの話だ。

……ここまで考えて少しだけ楽になった。
それから、何か暗い考えに頭を支配されそうになったときは「僕が見ているのは『根』だ」と考えるようにしている。
ガイコツでも妖怪でも猛獣でもなく、ただの存在しない「根」なのだ。
それだけなのだ。

結構良いライフハックだと思うのだが、どうだろうか。
あとこれって心理学や精神医学的にはもう確立された方法なのだろうか。
興味がある。

ではまた。

 

だいたいの感動はどこまでも陳腐だ

感動。涙。情動。感情。衝動。
そういった領域は。
なんとまあ、安っぽいんだろう。
なんとまあ、どこまでも自分に属しているんだろう。
ふと思った。

昔は「自分の感動を共有すること」は自分のミッションの一つだと思っていた。
素晴らしい歌。
素晴らしい物語。
そういったものは「自分が」誰かに伝えないといけない。
そう思っていた。

けれど、今の時代はみーーーんなそれをやってる。
ごくごく簡単に誰もが評論家になれる時代だ。

その上で、「自分で感動を作れる人」は熾烈な競争を繰り広げている。
もちろん競争とか抜きに創作に耽溺できる人もいるだろうが、多くの創作者はレッドオーシャンの中を泳いでいる。
少なくとも僕にはそう見える。

僕は自分自身が創作をできなくても、何かを分析できる人間であれば、何かを読み解ける人間であれば、それで良いと思っていた。

けれど。
自分の涙とか、感情とか、そういったものは。
どこまで行っても自分にしか属さないんだな、と……
ふと思ってしまったのだ。

なんでこんなポエムみたいなこと急に言いだしたかと言うと……

www.youtube.com

今日は特に何もやる気が出ず、でもまあなんかゲームとか部屋の掃除とかできたな、でもなんか食欲でないなっていう夜を迎え、力尽きながらふと開いたYouTubeでこれを見たとき、自分でもわけのわからない涙がバッと溢れてきて。

多分、今の精神的状況その他諸々が色々限界を迎えてていると自覚し。
その涙の理由を語ろうとするならば、その言葉は、おそらくどこまでも陳腐で、どこまでも自分にしか属さないと、なんとなく分かってしまったというか。

僕が見たのは、いわば言語の限界ということなのだろうか。
それは自分自身の限界なのだろうか。
「言語の限界が世界の限界だ」と言ったのはウィトゲンシュタインだったか。

これはもしかすると、少し僕も大人になったということなのかもしれない。
大人になるというのはこういうことなのか。
いや、なんか違う気がする。

話が変わるが、ここのところずーーーっと死ぬことを考えている。
と言っても自殺衝動ではない。
死ぬことが怖い人間なので基本的に自殺衝動は持ち得ない。

言葉通り「死ぬこと」を考えているだけだ。
その原因は色々あるのだが、割愛する。

嫌なことだけれど、人生にはタイムリミットがある。
それは当然のことだ。
だが、『バトルシップ』の名言「だが今日じゃない」と言って生きていくしかない。
いつか何かが分かると、いつか何かが伝わると信じて。

……ぼちぼち婚活でも始めようかな。はぁ。

酒でも飲んで寝よう。
なお、今はシラフである。

ガンダムSEED未履修のオタクがガンダムSEED FREEDOMを観た結果(ネタバレなし)

タイトルについて。
先に結論を言おう。

 

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このBGMと。

この表情でやってくるアスランが頭を延々と横切り続け、今困っている。*1
誰か助けてくれ。

経緯

筆者はトンチキアニメを愛するオタクである。
もう10年近く前のアニメなのだが、『聖剣使いの禁呪詠唱』というとても頭の悪いアニメが特に好きだ。

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「禁呪詠唱」と書いて「ワールドブレイク」と読む。最高だ。
『聖剣使いの禁呪詠唱』について説明しているととても時間がかかってしまうので、詳しい以下の記事より象徴的な一文を引用しよう。

n-method.hatenablog.com

「禁呪が面白くなったのではなく、我々がおかしくなったのではないか」

正気に返った誰かが叫ぶ。しかし、真に強い作品とは受け手の価値観を変革してしまうものだ。聖書だってそうだ。実際、アニメ『禁呪詠唱』ファン(とくに実況勢)の言動はどこか狂信者めいている。他の作品に触れているときから日常のふとした瞬間においても、ふいに思い出したり綴ったりしている。はたから見たらただの頭のおかしい人である。

まあつまり、私ははたから見たらただの頭のおかしい人なのだろう。多分。

それはそうと、そんな筆者が「ヤバい」「ヤバい」「アスラン」「ヤバい」だのなんだのとえらい聞くので、なんだか興味が湧いてきた。
どうも上の『聖剣使いの禁呪詠唱』リアルタイム視聴時を思い出す盛り上がり方をしているのである。

筆者はその時点でキャラの名前くらいしか知らなかった。
また、ガンダムシリーズに関しては苦手意識があり、履修していなかった。
設定が複雑な作品はどうも苦手なのである。

ということで西川兄貴ナレーションの総集編をまずは観てみた。(期間限定動画です)

www.youtube.com

「ほー、大体RRRやね」と比較的スッと理解できた。
よくわからなかったところは友人のガンダム博士に聞いたりニコニコ大百科で補完した。

rrr-movie.jp

続くガンダムSEED DESTINYの総集編も観てみる。

www.youtube.com

色々突っ込みどころはあったが、「あまり評判が良くなかった」ということは知っていたので、そんなもんかと割り切った。

「なんかどこ応援すりゃいいのか分からないから映画不安なんだけど」とガンダム博士に相談したところ、

「お前がその領域に来てくれて嬉しいよ」

というお言葉を頂いた。
何様やねんと言いたいところだが、20年待たされたオタクの言葉なので重みがあった。

とにかく、観てみた。

そして冒頭に書いた結論に至るのだが……そうだな、限りなく分かりやすく言えば……

『聖剣使いの禁呪詠唱』2と『ドラゴンボール超 ブロリー』を1、高橋邦子を1、最後にボーボボを適量足して2で割った感じの映画だった。

『ドラゴンボール超 ブロリー』とは

はああああああ!
ドカーン!!!!!
あああああああああああああああ!!!!!!!!!
バコーン!!!!!
パキーン(時空が割れる音)

という感じの映画である。

高橋邦子とは

高橋邦子を知らない方もいるかもしれない。
高橋邦子とは、川越が産んだ鬼才である。

dic.nicovideo.jp

www.nicovideo.jp


詳しくは是非上記の動画を観て頂きたいのだが、
開始30秒で大量の坂戸市民と川越市民が爆死する。
そして坂戸大明神と川越皇大神が召喚される。

実際ガンダムSEED FREEDOMもそんな感じである。

ボーボボとは

こんなブログ読んでる人にボーボボの説明が要るわけないだろいい加減にしろ。

再度、結論

私は今感動している。
令和にこんなトンチキ……否、神アニメ作品を観られるということがあるのか。

一応言い訳しておくと、決してトンチキなだけの映画ではないことも理解している。
総集編観た段階でもこの作品が「運命とは何か」「運命に抗うとは何か」的なことをやろうとしてるのはなんとなく分かったし、そういったテーマに映画ではより直接的にしっかり向き合っていることは理解した。
そして多分、これを20年待ちわびた人はとんでもないクソデカ感情を抱えただろうな、とも。

けれどあまりにもパワー系なシーンが多すぎて、その衝撃で持っていかれてしまうのも事実である。

こんなことが許されて良いのか。
このアニメは『聖剣使いの禁呪詠唱』じゃないんだぞ。
『機動戦士ガンダム』という国民的IPだろ。
俺は観るものを間違えたのか。
でもマジで観てよかったです。
だって『聖剣使いの禁呪詠唱』の呪いから解き放たれたもん。
やべーよマジで。
令和に『聖剣使いの禁呪詠唱』の思い出を昇華してくれるアニメに出会えると思わなかったもん。(絶賛してます)

3度目の結論

『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』と『聖剣使いの禁呪詠唱』を観てください。

あゝ、肌に合わない

31歳。
あらゆるダメなものがダメになってきた。

下品な輩、人混み、うるさい場所、落ち着かない物事。
肌に合わないと感じていたものが、より肌に合わなくなってきている。
神経質傾向の悪化と言うべきか、もっと単純にわがままになったと言うべきか。

このままでもそれなりに生きていける、あるいは少なくとも飢えて死ぬことはない。あるいはむしろ、この「神経質さ」「わがままさ」があってこそ、ここまで生きてこれた。

ーーそういったことを分かってくるのが30代なのかもしれない。
30代になって急に金髪にしたりトリッキーなファッションに目覚める人が多いのはそういうことなのだと思う。
彼らを嗤う人もいるが、当事者になるとあまり嗤う気にはなれない。

そうやって肌に合わないものを排除しているのが今の僕の生き方だけれど……
「肌に合わないもの」との付き合い方って難しいな、っていう話をしたい。

人生のイベントは極めてシンプルである

人生のイベントは極めてざっくりと4通りに分けられる。

  1. 肌に合わないけれどやらなければならないこと
  2. 肌に合わないしやらなくていいこと
  3. 肌に合うしやるべきであること
  4. 肌に合うけれどあまりやらないほうが良いこと

比較的反論が少ないであろう範囲で具体例を出すと、1は例えば健康管理だ。
2はSNSで悲しいニュースに触れて心を痛めること。……これはもしかすると4かもしれないな。
3は藤井聡太にとっての将棋だし、大谷翔平にとっての野球だ。
もっと卑近なレベルだと愛する人との結婚もそうだろう。
4は過度の飲酒やギャンブル。

こう考えるとアホみたいにシンプルだが、見分けるのは存外馬鹿みたいに難しい。
1だと思ってたけど2だった、1だと思ってたけど3だったなんてことがザラにある。

例えば勉強は肌に合わないと思って全く頑張らなかった学生が経営で一花咲かせる、なんてことはザラにある。「肌に合わない」と思っていたのはまさにその通りだった、というわけだ。
一方、そのような学生が大人になっても何一つ頑張れず、幸せを感じられず年老いていくなんてこともザラにある。

理想にして究極の生き方は、3を完璧に見分けて3だけをずっと極めて生きていくこと。
……だが。
そんなもの。
ただの理想に過ぎない。

99%の人は「肌に合わないこと」も含めてせっせと頑張ることでようやく「肌に合うこと」が分かってくる。
30歳でようやくそのフィルタリングがいったん完了するのだと僕は思っている。
どう生きるか、の大筋が掴めてくる。
だが……

問題は、このフィルタリングは「いったん」完了するに過ぎないということだ。
ここでフィルターを過剰に働かせすぎるとどうなるか。

何もせず惰性で生きる30代の完成である。

さて、僕の話に戻る。

社会の外圧やらよくわからん「成長」やら、『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎の方)に書かれた「人類社会に対する貢献」やら、そういったものを自分の基軸にするのは、まさしく「肌に合わない」。
けれど、全てを「肌に合わない」と切り捨て、嫌だ嫌だと世に向き合い続け、偏屈ジジイになるのは、それもまた「肌に合わない」。
板挟みである。

綺麗事を言えば「肌に合わない」などと言わず、色々なものごとに手を出し、いわゆる「コンフォートゾーン」を抜けて努力する……みたいなことを言えば良いのだろう。
が、そんな綺麗事は……当然、「肌に合わない」。

結局は肌感覚を大事にしながら、ちょっとだけ逸脱するってのを繰り返すしか無いのだろう。
仏教で言うところの「中道」だ。
肌に合うことばかりすべきじゃない(=快楽ばかり追い求めるべきじゃない)し、肌に合わないことばかりすべきじゃない(=苦行ばかりすべきじゃない)。
それ自体はシンプルだ。
自分だけで済む問題はいつもシンプルだ。

逆に言えば。難しいのは……
「自分だけでは済まない問題」だ。

家族、結婚、恋人

家族を「お前は肌に合わない」と切り捨てる。
そんなことは普通できないし、仮にできたとしてもそれは最後の手段だ。
なら恋人はどうだろう?

肌に合わない肌に合わない言ってると誰とも恋愛できないんじゃないか。
そんなことを結構考える。
「俺は二次元みたいな美少女相手じゃないと肌に合わない」とか仮に言ってたとしたらそいつはもう救いようのないアホだ。
そう言って一生二次元と添い遂げるならそれはそれで格好良いけれど。

何が言いたいかと言うと、人生のイベントについて1〜4を見分けるのはただでさえ難しいのに、恋愛のような情愛と他人が絡むイベントになると、その難しさは指数関数的に跳ね上がる、ということだ。

思うに、極端に若くして結婚している人たちは「肌に合わない」ものが少ない=許容範囲が広いか、あるいはそれすらも貫いて運命の相手と出会っちゃった人か、どちらかだろう。

前者は「合わない相手とでも(妥協して)結婚できる」などという単純な話ではなく、もう少し深い意味がある。
具体例を出すと、知り合いに「結婚したらもっとセックスできると思ってた」という理由で離婚してしまったヤツがいる。

僕は絶句した。
そこ結婚前に確認せず結婚するってあり得るのか……?
それこそ究極の「肌に合わない」じゃないか。

だが案外そういうノリで結婚しちゃうというか、「結婚できる」人はそこそこいるらしい。というよりそもそもこの「許容範囲が広い」言い換えるとある種の「鈍感力」は……
モテ要素の一つだと思っている。

簡単な話だ。
逆を考えれば分かる。
神経質なヤツは、モテない!
ドラマ『結婚できない男』の阿部寛なんかまさに神経質の権化みたいな野郎だった。

www.amazon.co.jp


そもそも、なぜ神経質なヤツと情愛の話は相性が悪いのか。
これも簡単な話だ。
環境は変えられるが、他人は変えられないのだ。
肌に合わない部屋は改装してしまえば良い。
5兆円くらいあれば家ごと建て替えられるし、そこまでお金が無いならば家具を買い替えれば良い。

これが人相手となるとそうはいかない。
部屋を改装するノリで人は変えられない。
人が変えられないとなると、オサラバするか、自分が変わるかしかない。
そして神経質な人間は、基本的に自分を変えたくないのである。
そもそもその神経質さがあったからこそ生きていけたという側面も多分にあり、そいつを捨て去るというのは極めて難しいのだ。

これは自分が神経質だから許容できないだけなのか、それとも大体の人が許容できないことなのか。
変わるべきは自分か、それとも変わるべきでないところなのか、変わる必要はないところなのか。
人と付き合っていてそんなことばかり考えていると、もう疲れて疲れてどーしよーもなくなる。

神経質な男の離婚を描いた話として非常に面白い記事がある。

gendai.media

この話の結末は、この男がまさに究極の神経質だったことに起因するものだ。
ちなみに援用されている漫画は滅茶苦茶絵が美麗だし面白い。
題材が題材なだけに嫌な気分になる話が多いけど。*1

自分の神経質が発動しない範囲の、居心地の良い好みの相手を探す。
それは極めて難しいことだろう。
そんなことばかり考えていたらいずれ『タラレバ息子』になってしまいそうだ。

さて、オレたちはどう生きるか。

神経質をこじらせて偏屈ジジイになるか。
それとも神経質と付き合いながら適度にこだわりのあるナイスミドルになるか。
なんでも許容する人間に変貌するか。
3番目はなさそうなので2番目を目指すのが良さそうである。
言うは易し行うは難し……

しかしまぁ、改めて眺めると世の中は肌に合わないことばかり。
加速する世の中、肌に合うものはなかなか降ってこず、肌に合わぬものばかり突風のように肌を傷つけてくる。
あゝ、肌に合わない。
そう独り呟き、古臭い喫茶店に入り、心を鎮める。
原作の『孤独のグルメ』でゴローちゃんがメシを食いながら「俺……いったいなにやってんだろ」と思っていたときの感情は多分、これと同じなんだろうな。

お読み頂きありがとうございました。
ではまた。

*1:ハッピーエンドというか爽やかに終わる話も結構ある

イエモンらしさ全開!人生の虚無と希望を描く『ホテルニュートリノ』

長らく休止していたTHE YELLOW MONKEY。
ボーカルの吉井和哉がしばらく闘病を続けていて去年完治を発表したばかりだった。

そして2024年元旦に発表された、第三期イエモン一発目となる『ホテルニュートリノ』。
これがもう、あまりにも……刺さりまくってしまった。

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筆者はイエモン、そして吉井和哉の大ファンである。

mistclast.hatenablog.com


『ホテルニュートリノ』という曲がなぜ刺さるのか。
野暮を承知で言語化してみたい。

海というテーマ

幻のように 海沿いにある
ホテルニュートリノ

イエモンで、海。
このワードで思い出されるのは何だろう?
やはり『聖なる海とサンシャイン』だろう。


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『聖なる海とサンシャイン』は、情けなさすら覚えるような執念深い男の失恋ソングだった。

あの事で頭がいっぱいな夜は
ズブロッカでは消せない
蜂の巣にされた魂の束
君にあげたいな

その情けなさの終着地点が「海」だったわけだ。

さて。
さっそく本題だが、『ホテルニュートリノ』とは何か?
これに関しては吉井和哉自身が「人間の身体」と明言している。

natalie.mu

つまり、「海沿いにある幻のような『ホテルニュートリノ』」は、海を眺める曖昧な存在である我々自身だ、と考えるのが最も素直だろう。

ここでの「海」は『聖なる海とサンシャイン』とは逆ベクトルの存在だ。
『聖なる海とサンシャイン』は、ある種の終着点だった。
まさに執着の終着である。

だが、『ホテルニュートリノ』は違う。

水色の彼方を人はいつか目指している

「水色の彼方」を目指す人は、まだ途上にある。
「水色の彼方」とは何か?『聖なる海とサンシャイン』で言うところの「海の果ての果て」かもしれないし、また別のところかもしれない。
ただ間違いなく言えるのは『ホテルニュートリノ』では間違いなく「途上」と「ゴール」が明確に意識されている。

人生の7割は予告編で
残りの命 数えた時に本編が始まる

いつかすべてが許されるなら
煌めく太陽の下 抱き合いたいな

「途上」とは何か?
人生が続いていくことだ。
「ゴール」とは何か?
死か、あるいはその前に至るべきところなのか。

そう考えると非常に重っ苦しい曲なのだが、『聖なる海とサンシャイン』と比べると、『ホテルニュートリノ』は軽快な曲ですらある。
それは今までにあまりなかった(初めて?)なスカ調の軽快なリズムの効用が大きい。
だが、それだけではないような気がする。

なんというか、『聖なる海とサンシャイン』でフォーカスされていた感情は間違いなく「執着」だった。
だが、『ホテルニュートリノ』にはあまり過去、あるいはままならない人生への執着を感じない。

むしろ諦めだったり、無理矢理でも前を向いて生きていくこと、そんな希望の方が大きく感じられる。
『東京貧困女子』というなかなかハードなテーマのドラマとのタイアップだから、ということもあるのだろう。

www.wowow.co.jp

そうだとしても、第三期イエモンの1発目が……こう、「希望にあふれている」わけでは決して無いのだけれど、「虚無感6, 諦め2, 希望2」のような曲であったことは、なんというか「とてもイエモンらしい」というか、……色々な感情を揺さぶってくれた。

あと、イエモンって本当に演奏が優しいよね。
もちろんイージーってわけじゃなく……
なんなんだろう。
個々の楽器がスッと入ってくるというか、「尖ってて聴きにくい」みたいなのが全くない。
この曲は他のどのアーティストでもなく、THE YELLOW MONKEYだから良い。
そう思わされる。

ちなみに

AIでタイトルを付ける機能が出てきたので使ってみた。
あまりにもそれっぽいタイトルを提案してくれたのでほぼそのまま使うことにした。
多用しよう。他力本願である。


お読み頂きありがとうございました。
ではまた。

fhána『Zero』のこと

だいぶ前、fhánaのアルバムについて書いた。

mistclast.hatenablog.com

特にアルバム『Cipher』の実質的エンディングである『Zero』について。

www.youtube.com

当時、なんとなく分かった感を出して書いていた。
だが、今になって……

全面的に撤回したい。
この曲、語りきれないわ。
ここのところずっとこの曲を聴いている。
聴けば聴くほど、当時の自分は何かを聴き逃していたのではないかと言う気分になる。
あるいは未だに……。

以前、筆者は『Zero』について「直前に収録されている『僕を見つけて』や『Ethos』ほど壮大な曲ではない」と書いた。

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『Ethos』はイントロから明らかに壮大だし、内容のスケール、描き出そうとしているもの、全てにおいて素晴らしい一曲だ。
fhánaの代表曲と言って差し支えないと思う。

それと比較してしまうと『Zero』はまだ(少なくともイントロ段階では)軽快な曲に聴こえる。
当時はその前向きにも聴こえる曲調にただただパワーを覚えていた。

でも今思うと、それはボーカルのtowanaのマジックにやられていたのだと思う。
もちろん『Zero』がパワフルな希望を秘めた曲であることであることには間違いない。

だが、それ故に見失っていた。
希望の裏に秘められていた絶望というか、重さに。
以前上記の『Cipher』に関する記事を書いてから、『Zero』という曲を何度も何度も聴いた。
何かしら自分の中で消化しきれないものがあったのだと思う。
そして思い始めていた。
この曲、ちょっと僕が思っているよりも遥かにとんでもない曲なんじゃないか、と。

そしてようやくこの曲に込められた思いをググった。
今更の極みである。

www.lisani.jp

佐藤
元々は、今回のアルバムは重い曲が多いので、箸休め的なチルい曲を作ろうかなと思っていたんですね。でも、戦争という状況になって、それが自分にはすごくショッキングで。僕たちだってグローバリゼーションの流れの中にあったからこそ、頻繁に海外でライブをできたわけですけど、そういったここ数十年積み上げてきたものがリセットされた、世界は本当に変わってしまったんだなと感じて。それで出来たのがこの曲だったんです。

正直、頭を抱えた。
このアルバムに含まれた曲がそれぞれ「時代を切り取った」曲だったことは理解していたつもりだった。
ただ、エンディングとしての力強さだけに着目してしまい、この曲が割と直球気味に戦争を扱った曲であることに正直気付かなかった。
確かに「fhánaの再スタート」とだけ解するには、あまりにも重々しく暗いフレーズが続く。
それは再スタートを黙示録のように表現したものだとばかり思っていて、具体的で切実なある種の実像を描いたものだとは思わなかった、というのが正直なところだ。
多分、実像として受け止めるには僕としても重すぎたのだと思う。
そしてこの曲には「聴き手が重く受け止めすぎないような」仕掛けが各所に含まれているように思える。

あーー……
恥じ入るばかり、である。

それを知った上で

けれど一方で、この曲はただそういった「戦争を扱った曲」だから凄い、とかそういう単純な話じゃなく……
……いや、むしろもっと単純に……
リスタートを表現する曲として本当に重厚で、そして純粋に良い曲だと思う。
そしてやっぱり、筆者はこの曲からは強い希望を感じるのだ。

色々仕掛けられているように感じるが、最も大きいのはやっぱりボーカル: towanaのマジックなのかもしれない。

towana
うーん……気持ち的に結構きつかったですね。歌詞はこれでもマイルドにしてくれたという話なんですけど、やっぱり歌詞から情景が思い浮かぶというか。字は違いますけど“線上”という言葉も出てくるし、想像してしまって心が痛いんですよね。私の気持ち的にはきついんですけど、「切実に歌ってほしい」というディレクションもあったので、それも結構辛くて。ただ、こんな話をしておいてなんですけど、曲自体はシンプルにかっこいいので、気楽に聴いて楽しんでくれたらいいなと思います。

towanaもこう言ってくれてることだし、気楽に聴くで良いのだと思う。

ただ、気楽に聴きつつも筆者の中ではもう「人生のフルコース」に選びたいレベルの曲になってきている。*1
もっとシンプルに言えば、「好き」とかそういうのを通り越して、なんというか自分の人生やら生き様やら、そういうものを気付いたら投影してしまっている、そんな一曲だということだ。
そんな曲が誰しも1曲、2曲はあるものだろう。

ちなみに他の曲は吉井和哉の『HEARTS』とフラワーカンパニーズの『深夜高速』である。


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全部旅の曲だね。
我ながら分かりやすい。

ちなみに8月に発売されたfhánaのベストアルバムである『There Is The Light』に『Zero』は含まれていない。
多分、あくまでも『Cipher』のエンディングテーマだったから入れなかったのだろうと推測している。


お読み頂きありがとうございました。
ではまた。

*1:『トリコ』知らない人、ごめんなさい。

お金のこと、生活のこと、魔に魅入られること

少し前、とても高い腕時計を買った。

mistclast.hatenablog.com

そんな感じなので筆者は節約が得意な方ではない。
まあただ一方で、そこまで金遣いが荒いわけでもないかなという気がしている。

今筆者は東京近郊、バイク駐輪場付き家賃7万円の家で一人暮らしをしている。
とても快適で気に入っている。

今日はニチレイの冷凍とんかつをチンして、ヒガシマルのうどんスープで玉ねぎを煮込んでカツ丼を作り、大根の味噌汁を飲んだ。味噌は無添加である。
美味かった。
筋トレはしているし身体も絞りたいのだが、あまり食にはストイックにならないようにしようと思っている。
冷凍とんかつは2個で脂質17g程度である。
セーフと言い張ればセーフである。

そしてfhánaのベストアルバムを聴きながらコーヒーを飲み、仏教関連の本を読んでいた。

 

なんでもない日だ。
けれど、本当にそれが尊いものなんだなと最近思う。

お金のこと

周囲にお金のトラブルに巻き込まれる人が結構いる。
自業自得でない場合もあるけれど、今回は各々のイメージする「自業自得のトラブル」を想像しながらお読み頂きたい。

トラブルレベル1くらいの人もいれば1億を突破するくらいヤバい人もいる。
もちろん前者であれば生活には影響しないかあるいは軽微だが、後者はもう「普通の生活」への帰還すら危うい。

僕は心底、今「普通の生活」それ自体を、まあ大満足ではないにせよ、それなりに満足できるようになっていて良かったなぁ、と……そう、周囲を見ていて思うのだ。

もちろんこの感覚は「高級腕時計がなんとか買えるくらい」の預金があるからこそ成り立っているんだろう、という指摘は真っ当なものだと思うし、僕も心底そうだと思う。
「普通の生活が一番」なんて言うやつは大抵お金があるやつだ。
本当にそうだと思う。
上京して年収350万円くらいでヒーヒー言ってた頃や、預金残高10万円で仕事を辞めた頃のことを忘れたわけではない。
その頃に抱いていた金のあるやつに対する僻みのような感情も、もちろん忘れていない。

ただ、僕の知る最悪のパターンの場合、その当事者は別に収入が少なくてヒーヒー言っていたわけではなかった。

つまり何が言いたいかと言うと……
「お金の魔」みたいなのに魅入られないようにするために、ある程度の金銭的余裕は一定程度役には立つが、一方で金銭的余裕があろうがなかろうが、人はなんらかの機会に「お金の魔」に魅入られてしまうのである。

米津玄師とゴーストオブツシマ

ところで、現人神である米津玄師はゴーストオブツシマにハマっていたらしい。

www.gizmodo.jp

ゴーストオブツシマは筆者もプレイしたが神ゲーだった。

【PS5】Ghost of Tsushima Director's Cut

【PS5】Ghost of Tsushima Director's Cut

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で、現人神である米津玄師より稼いでいる人となると、日本のサラリーマンにはそうそういないだろう。
けれど、ここで大事なのは米津玄師がプレイしているのは「通常の1万倍面白いゴーストオブツシマ」ではないのだ。
数千円で買える普通のゴーストオブツシマなのだ。

そこに年収は関係ない。
預金残高も関係ない。

資本主義の功罪の功の部分だ。
金持ちが飲むコカ・コーラも、貧乏人が飲むコカ・コーラも、一切そこに変わりはない。
ウォーホルがスープ缶を淡々とコピペのように描いたのも、資本主義の功罪の「功」の部分も「罪」の部分も淡々と冷ややかに描いたものだと筆者は解釈している。

catch-a-wave.com


少し話がズレたが……
現代の資本主義は功罪はあれど、良いところを享受すれば「それなりの穏やかな生活」は比較的得やすいのではないか、という気もしているのだ。
にも関わらず、一定数の人たちが「お金の魔に魅入られて」しまう。
それは何故か。

私見だが、「普通の生活に満足できないからそうなる」ではない気がしている。
順序が逆だ。
きっかけは何であれ、お金の魔に魅入られてしまうから普通の生活に満足できないのだ。
つまり、前提である「なぜお金の魔に魅入られるのか」に明確な答えはないというのが筆者の私見である。

……こういったことを語っていて、自分がかつて蛇蝎のごとく嫌っていた「自分は海外で高級料理を食べているのに『日本はもっと貧乏になって良い』と放言する大学教授」みたいなものに自分が近付いているような気がして非常に嫌なのだが、少し弁明させて欲しい。

多分、僕も彼も「魔に魅入られたやつ」とか「魔に魅入られているかどうかギリギリのラインでやべー生活をしている人たち」を見過ぎたんじゃないかと思うのだ。
そのせいで実は自分がそれなりの贅沢をできていることに気付かなくなっていく。

また、そんな大学教授とは違って僕は別に「もっと貧乏になれ」とか「現状で満足しろ」とか言いたいわけじゃない。
ただ……
お金のことで狂っちゃった人たち、金銭感覚が壊れたせいで取り返しがつかないことをしでかしちゃった人たち、そんな人に思いを馳せて……
シンプルに。
「怖いなぁ」と。
そう思っているだけだ。

普通であり、普通でなく

『クレヨンしんちゃん』の野原一家の暮らしが「勝ち組」だと言われるようになってからかなり久しい。
今野原ひろしと同じ生活水準の人間がX(旧Twitter)*1で「俺みたいな普通の人生」と言おうものなら大炎上である。クソみたいだなと思うが事実リアリティがある。

でも、じゃあ「普通」ってなんだろうか。
基準が人によって千差万別だから「これが普通」なんてもんは無い、っていうのが答えになるだろうけれど。

逆説的だけれど「魔に魅入られていない」ことが「普通」の基準なのかもしれない。
「魔」とは何か。
そこにも基準はない。

けれど、実際のところ「普通」の基準について考えるよりは「魔」の基準について考える方がよっぽどイージーだと思う。
「魔に魅入られた人」「そして『普通の生活』ができなくなった人」を想像して欲しい。
自分はそうなってはいないか?
もしかすると……

そんなことを考えながら、僕は今日も2000円を握りしめ、鳥貴族へ向かうのだ。
あるいはサイゼリヤである。
近所のサイゼリヤが最近23時まで営業するようになった。
とても嬉しい。

最後に

魔除けを貼っておく。
これを読むと魔もドン引きする逃げる。

お読み頂きありがとうございました。
ではまた。

*1:クソみたいな注釈だなと思う

中庸であること、中道であること

極論まみれの世の中だ。

負の意味では「日本は終わってる」とかそういうやつ。
正の意味では大谷翔平とか藤井聡太とか。
この二人が極端だったとしても「東大は誰でも入れる」とか、そういうことを本気で言う人がいたり、他にもキラキラした成功者ばかりSNSで目立ったりしている。

本当はみんな分かっているのだ。
日本はまあ部分的にダメダメな部分はあるかもしれないが、終わってはいない。
だって終わっていたら今あなたは日本人じゃないはずだから。
日本が継続しているからこそあなたは日本人として生きているのでしょう。
当たり前の話だ。

そして東大には誰でもは入れない。
キラキラした成功者もずっとキラキラしてるわけじゃない。
家で人には言えないエグいAVとか観てる日もあるでしょう。

極論ばかりに触れていると頭がおかしくなる。だからそういった種々の極論から距離を置く、というのはメンタルのために重要である。
……のは分かるのだが。
どうしろと。

というお話です。

中庸と中道

ここから少し長々しい概念の解説が続く。
面倒ならば次の「明けぬ夜はない」まで流し読みか、あるいはスキップして頂いて構わない。

儒教とギリシャ哲学においては「中庸」、仏教においては「中道」という概念が極めて重要だ。
筆者は儒教とギリシャ哲学には疎く、仏教も素人に毛が生えたレベルでしか知らないため、あまり深くは語れない。
ただ、倫理学に深く関わるこの3領域で、少なからずの共通性があるこの概念が重要視されているということには深い意味があるように思う。

儒教における「中庸」を極めてシンプルに説明している以下の記事から引用しよう。

iec.co.jp

 「論語・擁也」に見える孔子の言葉で、原文は、「中庸の徳たる、其れ到れるかな。民鮮きこと久し」となっています。

つまり、「不足でもなく、余分のところもなく、丁度適当にバランスよく行動できるということは、人徳としては最高のものです。しかし、そのような人を見ることは少なくなりました」と嘆いているのです。

中庸は孔子の教えの究極的なポイントであるということから、いろいろの学説がありますが、あまり難しく考えず上記のようにシンプルに理解してよいと思います。

少し踏み込んだ解釈をしているのはこちらの記事。

www.nara-jigenji.com

「中庸の徳たるや、それ至れるかな」

のアレですね。これもまた、「単純に食べ過ぎも全く食べないのもよくない、ほどほどに。」などと孔子を侮辱するのも甚だしい矮小化を行われてかわいそうな概念です。さらにこれがアリストテレスの「メソテース」の和訳に使われてしまい、さらに混乱することになった結果、論語とアリストテレスの共通項である「極端を避ける」という側面のみが過分に表にでている印象があります。
ただ、中庸・メソテースどちらの場合も、理論的知性の対象ではなく、実践的知性の領域に属する「賢さ」として挙げられている点は注目すべきかと思っています。ですから「中庸」において、聖人でも獲得が容易ではないが、一般人でも獲得できるとされているように、「メソテース」でもこれが習性的徳のあり方として挙げられているわけです。つまり、行為に即して適切な「ちょうどいい」をチョイスする能力ということになります。確かにその場その場で一番いい行動をとるのは難しいですよね。

なかなか真剣に考えると難しいのだが、「中庸」が徳であるとか賢さであるとか、あるいは理性であるとかに関連して最上のものとして扱われていることは興味深い。

儒教やギリシャ哲学における「中庸」は「極端を避ける」を含まなくはないのだが、それだけではなく、極端を避けた結果得られる最適な行動とは何かという点について実践的にフォーカスした概念である、と考えて良いだろうか。

仏教における「中道」はどうも、その概念をさらに特化したものといえそうだ。
ブッダは元々王子の身分であり、贅沢な生活も可能であったのだが、それを捨てて苦行の道を選んだ。
「苦行釈迦像」は苦行時代のブッダを模したもので、なかなか衝撃的だ。

ukima.info

だがブッダは苦行だけでは悟れないことを理解し「世界を『正しく観る』」ことで悟りに至った……というのが筆者の理解である。
そういったブッダの経験を活かした(??)概念が「中道」だ。

「中道」とは、文字通り「中央の道」を意味し、極端な行動や思考を避け、均衡と調和を保つ生き方を指します。

これは、過度な自己抑制や苦行を行うことなく、また、放縦や過度な欲望に走ることなく、心地よいバランスを保ちながら生きることを意味します。

tokuzoji.or.jp

「中庸」と似た概念ではあるが、中庸が人としての徳、つまり在り方としてそれを目標とすべきとしているのに対し、「中道」は究極的には涅槃、……誤解を承知で言ってしまえば「心の究極の平穏」のために追求すべき、と言っているという違いがあるだろうか。

上座部仏教のスマナサーラあたりは「中道」は「八正道」そのものと理解しているようで、なかなか分かりやすい例え方をしてくれている。

快楽行なら、美味しい食べ物を探し求めます。苦行なら、一般人が決して食べたがらないものを摂るか、断食が好ましいと考えます。中道の場合は、そのどちらでもなく、「命をつなぐため」に食事を摂るのです。美味しく感じたならば、直ちに気づいて、こころが欲に汚れないようにする。食べているのがとても不味いものであるならば、嫌な気持ち(怒り)にならないように気をつける。美味しいものを期待することからも、不味いものを避けたい気持ちからも、離れるのです。

j-theravada.com

一方、先程も引用した慈眼寺の副住職などは「中道」を究極的には「空」に繋がる概念として解釈している。*1

www.nara-jigenji.com

こちらはもし興味があればお読み頂きたい。

長々しい概念の説明を続けてしまったが……
ここからが筆者の言いたいことである。

明けぬ夜はない

これは「中道」の思想なのではないか、と思う歌がある。
オーケン(大槻ケンヂ)の『林檎もぎれビーム!』だ。
筆者にとっては強い思い入れのある曲である。

mistclast.hatenablog.com

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エブリシンガナビーオーライ!
明けぬ夜は無い
それが愛のお仕事そして
「マニュアルなの」

「明けぬ夜はない」のは、それ自体希望も絶望も意味していない。
というか何の意味もない。
強いて言うなら愛のお仕事で、マニュアル。
ただそれだけなのだ。

だがそれでも、夜は明ける。

なお、オーケンは仏教に詳しいものと思われる。
ググると色々出てくるし、なんせ(ボーカルを務める筋肉少女帯の)代表曲が『釈迦』である。

閑話休題。

多分、誰もが……
このブログを読んでくれている人なら尚更多くが、極端な思想を持っている。
大谷翔平になりたい……は極端過ぎるとしても、その1/1000でもいいから、仕事でアイデンティティを満たしたい。自分の技術で承認欲求を満たしたい。

あるいは……
もっと暗いことを考えているかもしれない。

日本は終わっている、と。
自分は何一つ持っていない、と。何一つ興味が持てないと。
そんなことを考えている。はずだ。

だが多分、それは「夜が明けない」という空想、もっと言ってしまえば妄想と同義なのだ。誰がどうしようが、世界のマニュアルとして夜は明ける。
極論としか言いようのない暗い言葉はいつしか忘れ去られ、「この世のキラキラしたものはいつか壊れる。
基本的に仕事でアイデンティティは満たせない。けれど、仕事にアイデンティティを満たす要素が無いか、というとそれは違う。
日本は終わってはいない。けれど本当にどうしようもないところもある。
あなたは、私は、どうしようもなく臆病でダメなところはあるかもしれないが、それに抗うだけの力や心を持っている。あなたは、私は、停滞したいと思っているかもしれないが、前に進みたいとも思っている。

それらは全て、希望でも絶望でもなく、気休めでもなく、ただの事実なのだ。
そういった「ただの事実」と、ありのままに向き合うこと。
そこから全ては始まる。

だが……
「ただの事実」というには重すぎることがこの世にはある。
戦争だったり、凄惨な事件だったり。
そいつらとどう向き合うのか?
……それを考えている中で、本当の「中庸」あるいは「中道」が見えてくるのではないだろうか。まぁ、そもそもそんなことを考える前にまず「ほどほど」という、ある種最も単純で俗な「中庸」を目指すべきではないのかとは思うけれど

結論に代えて

エンディングテーマを流します。
吉井和哉で『○か×』

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*1:もっとも、この考え方はスマナサーラの考え方と矛盾するものとはいえないと解釈している。

俺は憧れに辿り着けないし、『葬送のフリーレン』は大分むぎ焼酎 二階堂だから困る

この記事では内省が延々続くので、興味がある人のみお読みください。
『葬送のフリーレン』の考察を期待されていた方がいらっしゃったら本当に申し訳ないですが、そういうのはほぼありません。

筆者はフリーランスエンジニアで、幸運なことに今稼働は少なめでもなんとか生活できていて、時間には結構余裕がある。
その時間で悠々と司法試験を目指して勉強し、エリート弁護士に……

なれるというほど単純ではなく、考えること、考えなければならないことで頭が埋め尽くされ、全然勉強できないでいる。
典型的なダメ受験生である。

ただ、大学受験や就活とは異なり、タイムリミットはない。*1
それに一応自分のお金で生活してるわけだし、誰に恥じることもない、自分を過度に責める必要もないかなと思い、なんとか日々を過ごしている。
そして考えすぎて頭がパンクしそうなので、こうやってブログで吐き出している。

どんなことを考えるのか。
例えば、こんな神経質なやつが司法の現場に立てるのか?とか。
判例読むだけで結構落ち込んだりする。
司法試験界隈では伝説の講師である伊藤真は「刑法は真剣に考えすぎると落ち込むからあまり踏み込むな」とそのままズバリ言っていたりする。

それから、法律の勉強では色々な「説」を理解する必要がある。
例えば条文では「第三者」とだけ書かれている場合、その「第三者」に明らかに当事者を陥れようとする悪いヤツが含まれるのか?含まれないのか?みたいな。
あと、憲法前文を根拠に裁判を起こせるのか?起こせないのか?みたいな。
つまり法律の解釈を理解する必要があるわけだ。

そういうことをずっと考えていると、「一体俺は何をやっているのだろう?」としょっちゅう思う。
筆者は文学部出身なのだが、文学作品(テクスト)を解釈することは、その文学作品に新たな「光」を当て、新たな価値を見出すことだった。
そういったミッションがある程度見えていた。

法律はそういった文学の「解釈」とは明らかに違う。
もちろん法律の文言が抽象的なのはそうしないと現実のあらゆるパターンに対応できないからで、だからこそ抽象的な法律に対して学説や判例によって色々な「説」が挙げられることで肉付けされていく、という理屈はあるのだけれど……
それでも、たまに凄く居心地の悪さみたいなものを感じることがある。

その全てを上手く説明するのはとても難しいけれど、ひとつの理由として、僕が生物学のような自然科学に対する憧れを捨てきれていないからなのではないか……と思っている。
生物や自然のような、少なくとも法学の世界の「解釈」とは異なる次元の学問、あるいはそういった世界に自らの人生を費やす余地はあるのではないか、と。

最近、うごめ紀というYouTuberの動画をよく見る。

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虫に寄生するキノコである冬虫夏草にものすごく詳しい方で、おそらくは専門家の方と思われる。
冬虫夏草だけではなく、あらゆる生物に詳しい。
何者かわからないのだが、解剖学者にして国語の現代文の文章常連の養老孟司大先生とも個人的親交があるらしく、明らかに只者ではない。

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このうごめ紀という人は生物のために与那国島に行ったり色々な場所に行って、そこにいる生物に関してヒョイヒョイと分かりやすく解説していく。

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なんていうか……
凄いなぁ、良いなあ、って思う。
ちょっとした憧れだ。
法律のジメジメさと比べて、なんと自由闊達なんだろう。
……そう思ってしまうのは僕が未熟なだけかもしれないが。

筆者は文系学部に進んだ。
大きな理由は……
「勝てたから」である。
勝てたんです。文系なら。
高校の中なら誰にも負けなかったんです。

もちろんそれだけではなく、そのとき小説にかぶれてたから、というのもある。

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まあ何にせよ、夢を追いかけた、とかそういう理由ではなかったわけです。

ただ一方、筆者は幼少期からの経験を通じて魚は大好きだった。
金魚や錦鯉の放流を批判してきたのはその流れがあってのことだ。
(今はいわゆる「炎上」に首を突っ込みたくないので距離を置いているけれど)

mistclast.hatenablog.com

金魚放流を批判したとき、あまりにも生態系や生物に対し無知、無関心な反応が多々あり、愕然とした記憶がある。
だからまぁ人よりも多少は魚や生態系について詳しい方だと言えるのかもしれない。

が、あくまでも「多少」である。
うごめ紀氏相手になど比べることすらおこがましい。

そもそも生物系YouTuberは魔境である。
知識量だけでなく、度胸、好奇心が図抜けている人ばかりだ。

以前実家に帰省したとき、地元には田んぼがたくさんあるのだが、その田んぼのほぼ全てでジャンボタニシという外来種の貝が大繁殖していて愕然とした。
このジャンボタニシ、稲を食害するわアホみたいに増えるわ、なかなか迷惑な奴らなのである。

ふと「こいつらなんとか食べられないのだろうか」と思い、生き物ならなんでも食べてしまう生物系YouTuberの平坂寛氏の動画を検索してみた。
なんでも食べるし、危険生物に噛まれてみたりと身体を張っている(というレベルではない)動画の数々で有名なYouTuberだ。

平坂寛氏なら食べてるだろうなぁ……





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……。
嘘だろお前。

いや、尊敬してる人をお前呼ばわりはダメだと思うけど。
嘘だろお前。

さすがに目を疑った。
ジャンボタニシの卵は見て分かるようにあまりに毒々しく、そして実際に毒がある。

敵わない。
……いやまあ平坂寛氏は生物系YouTuberの中でも特別だと思うけどさ。
まぁとにかく、うごめ紀氏にしたって平坂寛氏にしたって、少なくとも圧倒的好奇心と行動力をベースに今の在り方に至っているのは間違いないわけで。

……。
僕には、それは、無い。
さっき述べた「憧れ」は、小学生がパイロットや野球選手に憧れるようなものだ。
それは自覚している。

それでも、たまに……
「世界中を股にかける芸大卒のカメラマン」みたいな人の展示なんかを見ると、強烈に「羨ましい!」と思ってしまう。

羨ましい?だったら動けばいいだろう。
もし本当にカメラマンに憧れるなら、さっそくiPhoneでも抱えて自慢のバイクで写真を撮りまくれば良いのだ。
でも、そういうことではない。
そういうことではないんだ……

結局、僕は色々なことに手を出して、その上で妙に神経質だったり退屈が嫌いな自分の性質を活かしながら食っていくための選択しかできなかったわけで。
ひとつのことに強い好奇心を持って、ドーン!みたいなことができなかったこと、それ自体は受容しつつある。
けれど……

なんとなく自由で、なんとなく専門的で、ハタから見てそんな職業あるいは生き方に憧れてしまう、そんな気持ちはどうも否定しきれない。
もちろん大人の脳は「そんな単純なもんじゃないよ」と囁いてはいるのだけれど。

先程も述べたけれど、じゃあさっそく動けよ、やれよ、という話である。
だが、「じゃあやれよ」、という僕の言葉に、僕自身が応じる。

「……何を?」

バイクで色々なところを走った。
日本中を走った。
けれど、自由になれた気がした(30代に至るまでの夜)だけで、胸の奥にはいつも少し切なさがあった。
この「自由」は、どこまでいっても「自由のようなもの」だなぁ、と。
そして同時に、それこそが「自由」の本質なのではないか、と。

大分むぎ焼酎とフリーレン

話が急に変わるけれど、最近『葬送のフリーレン』が流行っている。
そして僕は……
『葬送のフリーレン』は大分むぎ焼酎 二階堂だと思っている。

……あ、待って。
僕はまだ狂ってないです。
大丈夫です。

二階堂のCMを観て欲しい。

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観られる環境の方は、『葬送のフリーレン』3話のOP明け(1:30〜)を観て欲しい。

……それっぽくない??
……いや、っぽいのは当然といえば当然で、そもそも二階堂のCM自体が滅茶苦茶ロードムービー的なのよね。それも昭和の。

で、フリーレンってノスタルジックなロードムービーでもあるから、当然のごとく共通性があるんよね。

そして僕は延々酒を飲みながら、フリーレンを観て、二階堂のCMが観たくなって、YouTubeで公式アップロードされている二階堂のCMを延々と観ていたのだけれど……
なんというか、感情の置き場に悩んでしまった。

二階堂のCMを観ているとどこか遠くに行きたくなる。
日本の原風景を観たくなる。
でも、遠くに行ったところでどうにもならないことは知っているのだ。
それはさっき語った。


いっそのこと、もう田舎に移住でもしちまえば良いのか。
でも実際にやったら退屈で死んじゃうだろうなぁ……

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↑は二階堂のCMの中でも傑作なのだけれど、この老人のような「生き方」ができない、できないであろう自分自身もこのCMの中に見出してしまう。

つまるところ、二階堂のCMは僕に何か変な方向から突き刺さってしまうのである。
憧れ。
そして自分が憧れに辿り着けないこと。

……生物系YouTuberの話と二階堂の話、繋がってます……?
ごめん、少し無理矢理だったかもしれない。

まあ、こんなやつにできることは、せいぜい地道に法律の勉強するくらいだろう。
二階堂のCMが示す憧れの地には辿り着けなくとも、バッチつけて法廷には立てるかもしれないのだから。
それはそれで、間違いなくひとつの「憧れ」ではある。
まだ疑ってるけどね。

……ちなみにこうやって日々ブログで吐き出していたら、何かしら面白い誘いがあったりするかも……的な期待は無いではない。
誰かエッセイのお仕事とかくれませんかねぇ。
……完全に邪心である。

お読み頂きありがとうございました。
ではまた。

*1:だからこそタチが悪いとも言える。

吉井和哉『HEARTS』はとんでもない名曲だから聴いて欲しい

最近咽頭癌の根治を発表した吉井和哉。

筆者は吉井和哉のファンである。

mistclast.hatenablog.com

そんな吉井和哉の中でも筆者にとって、あるいは吉井和哉本人にとってもおそらく、特別な一曲がある。
それが『HEARTS』だ。


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ベストアルバムに収録された新曲であるこの曲は、あまりの風格を放っていて、当時から大好きな曲だった。

18(初回限定盤)(DVD付)

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  • アーティスト:吉井和哉
  • ユニバーサル ミュージック (e)
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30歳を超えて、その歌詞はより痛切なものを伴って筆者に突き刺さるようになった。

「最近の曲は〜」などと言い始めると老害になったなぁ、という自覚はあるのだが……

ここのところ、抽象的で何を言ってるか分からない曲ではなく、何を歌った曲なのかがパッと分かるようなものがよく流行る印象がある。
だが時代を超えて普遍な価値のある曲は、あらゆる聴き手のあらゆる状態の心に浸透するような、そんな普遍的な曲だ。
そんな曲は必然的にある程度抽象的な歌詞にならざるを得ない。
筆者は個人的にそう考えている。

『HEARTS』はとりわけ抽象的で難解な曲である。
圧倒的な詩情、ノスタルジー。

そんな『HEARTS』について解説するのは野暮だ。
解釈するのも野暮だ。
だが……それでも。

『HEARTS』はもっともっと、ずっとずっと語られるべき曲だ。
筆者は真剣に、この曲はノーベル文学賞に値すると思っている。
だから野暮、無粋を承知で語ろうと思う。

『HEARTS』解説

www.uta-net.com


『HEARTS』は難解な曲だが、旅立ちの曲であることは誰が読んでも間違いないだろう。
始発のバスを待ち、乗って、出発する。
そして次の場所へと向かう。
それ自体は明確だ。

だが、散りばめられたフレーズは全て難解だ。
例えば冒頭の「最後の白い鳥」は何を意味するのか?

それを明確にすることにはあまり意味は見い出せない。
その答えは各々の聴き手が見つけるものだからだ。

だから、筆者はこの記事ではこの曲の「視線の動き」に着目して、揺れ動く旅人の心に迫ってみたいと思う。

空想上の世界

最後の白い鳥は何を餌に生き延びてる
新月の蒼い海を確かめるように高く低く

旅人は、「最後の白い鳥」に思いを馳せる。
孤独な一羽の鳥だ。
鳥は自分自身ではない、当然だ。
けれど、旅人にとってはそこに思いを馳せる理由があったのだろう。
果たしてそれは想像上の鳥なのか、それとも実際に見た鳥なのか。
たとえ実際に見た鳥であったとしても、何かしらの想像、空想が働いていたことは間違いない。

殻が割れるまでどこかで見ているように

鳥を介して世界を思う。
彼は鳥に思いを馳せながら、自分自身の記憶を辿っているのかもしれない。
そしてバスを待つ。
バスを待ちながら、そこにいる人々を眺める。
そして思う。

心が心を許せる時にはどうして姿形はないんだろう

唐突に意味深な内省が始まる。
想像上の鳥は、自己の内省的問題とここで繋がったのだ。
その過程は本人以外に知る由もないが、何かしらの「残酷性」を想起させる鳥に対する想像が、「彼」を内省に導いたことには間違いがないだろう。

瞳に映る情景、あるいは

-5度の雪国のスタバの横に昇る朝日

全体の文脈も含めて、筆者はこのフレーズ以上に「凄まじい」という言葉が似合うフレーズを知らない。

「抽象からの急激なまでの具体への転換」は宇多田ヒカルがよくやっていた手法だ。


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キングダムハーツ2のOPとしても有名な曲だが、非常に壮大で、神秘的でもあるような曲だ。
その壮大さ、神々しさが最大限に達した大サビで

年賀状は写真つきかな

というフレーズをぶち込めるのは、おそらくこの人くらいしかいない。
圧倒的なエネルギー量の内省の揺れ動き。ダイナミズム。
抽象的問題と分離された具体的自己の問題をぶっ放し、その上で混ぜ合わせようとするエネルギー。
宇多田ヒカルと吉井和哉には遠くないものを感じる。

閑話休題。

改めて、

-5度の雪国のスタバの横に昇る朝日

ここまでの急転換で、かつ聴き手をその世界に一気に誘うようなフレーズは他に存在しないのではないか。
聴き手はなんとなく「最後の白い鳥」というフレーズで冬の情景を思い浮かべていたはずだ。
そこで急激に現実と『HEARTS』の世界がリンクするこのフレーズで、我々もその世界に叩き込まれてしまう。

一方で、これが旅人たる彼の視線と考えてみると、この歌詞は彼の瞳に映る客観的な情景にシフトした、と考えることもできる。
だが、そう考えてみると「おや?」と思うようなフレーズに続いていく。

「どこにも行かないでくれ」と書かれたニュースペーパー

このニュースペーパーは本当に存在するものだったのか?
それは分からない。
けれど、筆者にとっては以下のように解釈するのが自然だ。

スタバも、ニュースペーパーも、(少なくとも後者は)「彼」の瞳に映ったものそのものというよりは、「彼」にとってそれこそが「見えてしまったもの」だったのではないだろうか。
そして始発のバスに乗りながら、また明確な内省へと向かう。
後悔、あるいはノスタルジーを抱えながら……。

帰りたい 帰れない あの日の街には
そろそろ始発のバスに乗る
心が心を笑える時にはどうして姿形はないんだろう

「あなた」との決別

カモメの群れが歌い出した 潮騒のピアノに合わせて
愛しい誰かのくちびるみたいなように

カモメの群れ。
それは現実にあったものなのか、それとも空想だったのか。
それはもはや、どうでもいい。
けれど「彼」は核心に迫ろうとしている。

「愛しい誰か」を思い出す。

追いつけないほど遠くへ行ったけど
あなたはいつも側にいる気がした

過去形だ。
彼はバスに乗ってここを発つ。
だが、それはこの地からの旅立ちだけを意味するものではないということは、語るだけ野暮だろう。

次の場所へ
さよならごめん
迷わず飛べ

誰に別れを告げているのか。
誰に謝っているのか。
「この地に」なのか。
「愛しい誰か」なのか。
「過去の自分自身」なのか。
あるいは、「今の自分自身」なのか。

何かを、忘れられないものを抱えながら、彼は、人は生きる。
ときに罪悪感を抱える。
それでも別れを告げ、謝り、後ろ髪を引かれながらも、それでも迷わずに飛ぶことになる日が来る。
それは旅人にとって、人にとって、必然なのだろう。

まとめに代えて

癌って聞いたときはビビり散らかしましたが、根治したのは本当に良かったです。
新曲、楽しみにしてます。
ファンより。

www.yoshiikazuya.com