村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【木野】(『女のいない男たち』より)

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 妻の不倫がきっかけで心の迷宮に迷い込んでしまった男の話です。あてのない旅の末に《女のいない男たち》の一人が誕生する過程が描かれます。

 

『奇妙な訪問者たち』

 ある日、木野が出張先からマンションに戻ると、会社の同僚と妻が裸でベッドに入っているのを目にした。彼は顔を伏せ、旅行バックを肩にかけたまま家を出て、翌日には会社に退職届を出した。その後、彼は叔母から店を譲り受け、『木野』という名のバーを開く。

 

別れた妻や、彼女と寝ていたかつての同僚に対する怒りや恨みの気持ちはなぜか湧いてこなかった。もちろん最初のうちは強い衝撃を受けたし、うまくものが考えられないような状態がしばらく続いたが、やがて「これもまあ仕方ないことだろう」と思うようになった。

 

 今の彼には、怒りや恨みを知覚できないだけでなく、悲しみも恐怖も失望も見失い、幸福がどういうものなのかさえ見定めることができない。そんな木野が営む店に、居心地の良さを見出した奇妙な訪問者たちが現れるようになる。

 

 言葉による意味付けを留保した時に生じる心の空白。気持ちの動揺や不安から解放されることで、一時的に平穏を手にすることができますが、物語にはその状態が続くことで心の空白を抜け道に利用するものたちが登場します。ある人物の助言により、木野は危険から逃れて自分探しの旅に出ます。

 

『私をまっすぐ見なさい』

 怒り、悲しみ、恐怖、失望などを言葉にすることで生じる痛みは、心の在処とその姿を指し示す。それは、旅先のホテルに閉じこもる木野の部屋の扉や窓ガラスに向けて執拗に繰り返されるノックの音として描かれる。

 

誰かが執拗に窓ガラスを叩き続けていた。彼をほのめかしの深い迷宮に誘い込もうとするかのように、どこまでも規則正しく。こんこん、こんこん、そしてまたこんこん。目を背けず、私をまっすぐ見なさい、誰かが耳元でそう囁いた。これがおまえの心の姿なのだから。

 

 不吉な夜に木野の意識は研ぎ澄まされる。恐怖に取り込まれまいと、血の通った温もりある記憶を思い浮かべていく。店を慕って訪れる客、緑の枝を垂らした店先の柳、無邪気な姿を見せる野良猫、そして別れた妻の手の温もり。彼女のことを深く愛していたことにようやく気が付いた木野は、暗く静かな部屋でひとり涙を流す。こうして彼もまた《女のいない男》となった。

 

【心の存在と意味】

 さて、今回に限らずこのブログを通じて繰り返し「心」という言葉使ってきましたが、正直に言えば、私は人生の大半でそうしたものを疎かにしてきました。姿も形もない、得体のしれない幽霊のようなものにいったいどんな意味を見出せばいいのかと。

 

 「心」とは、誰かの前に差し出して説明したり証明したり、あるいは互いに確かめ合ったりすることのできないあやふやなもの。しかし、例えば優れた文学や音楽に触れた時には「心」を使わずしてそれを味わうことはできません。「心」は使うことによってその意味を生じさせ、使うことによってその存在を浮かび上がらせます。

 

 今振り返ると「心」を使わずに過ごした私の半生はとても寂しいものでした。そんな後悔と反省の気持ちを忘れないようにして、この先もブログを綴っていきます。お付き合いくだされば幸いです。

 

【⑨林檎の中の虫】(『巨大なラジオ/泳ぐ人』より)

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 『林檎の中の虫』とは、見た目は幸福そうでも実際には何か問題や不吉なものが隠れているという意味を持つ英語の慣用句です。本作はそんな慣用句にまつわる物語です。

 

『バラ色の林檎にはきっと』

 ラリーとヘレンの二人は常につつましやかで、どんな出来事も喜びとして受け入れながら、仲睦まじく暮らしている。しかし、周りの人々は彼らの幸福を疑い、バラ色の林檎の中には虫が潜んでいるのではないか、と想像する。

 

このチャーミングなカップルの姿を見ていると、虫は彼らの中にではなく、むしろ観察者の目の中にいるのではないかという気がしてくるほどだ。そういう人々はその小心さや、道徳的臆病さの故に、夫妻の生来の熱意の広汎さを受け入れようとせず、たとえバッハ(のオーボエ演奏)においてもフットボールにおいても、ラリーの腕があまり褒められたものではなかったにせよ、彼の感じている喜びが本物であることを認めようとしないのではないのか?

 

 彼らは本当にいつまでも幸福に暮らせたのだろうか? バラ色の林檎の中に本当に虫はいなかったのだろうか? そもそも人はなぜそんな詮索をしてしまうのだろうか?

 

ルサンチマン

 《ルサンチマン》は、ニーチェの哲学における重要な概念の一つです。それは自分の欠点や不十分さを他者や社会のせいにし、自己を否定する代わりに他者を攻撃し、嫉妬や憎悪の対象とします。ニーチェは、こうした心理が価値観の逆転をもたらし、社会的強者や成功者を悪者とみなす歪んだ視点を生み出すと指摘しています。

 

 本作は全体を通じて、人の成功や幸福に対する疑念や嫉妬という《ルサンチマン》をテーマに描いています。滑らかな語り口が小気味よい一方で、均一な暮らしに安住する都市生活者の心をざわつかせる話題であり、超短編ながらジョン・チーヴァーの本領を発揮した作品に仕上がっています。

 

 ニーチェは自己を肯定し、《ルサンチマン》を乗り越えることが真の自己実現の道だと語っていますが、現実問題として身近な友人、知人から過度な成功や幸福を見せつけられたりしたら、とても心穏やかでいられません。って、そう思うのは私だけ?(*'ω'*)

 

 ところで、嫉妬を全く感じない主人公が登場する『品川猿』という一風変わった村上作品があります。《ルサンチマンの喪失》の裏に隠された深刻な病理を解き明かすストーリーで、本ブログでもご紹介しました。興味があれば読んでみて下さい。

 

 

【⑧シェイディー・ヒルの泥棒】(『巨大なラジオ/泳ぐ人』より)

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 『シェイディー・ヒル』は美しく、平和な高級住宅地の名前です。そんな場所にもかかわらず、泥棒行為をしなくてはならないところまで経済的に追い詰められた人が出てきていまいます。本作を読みながら、私は昔聞いたことのあるたとえ話を思い出していました。

 

『忍び込みからの生還』

 ワンマン経営者からのパワハラを受けたジョニーは、会社を辞めて個人事務所を立ち上げるが、たちまち破産寸前の状況に陥った。心配かけまいとして、妻と子供たちには秘密にしてきたが、振り出した小切手が来週不渡りになれば、全てが明るみになるだろう。苛立ちと妄想が彼を衝動的に突き動かし始める。夜中の3時にこっそりと家を抜け出した彼は知人宅に忍び込み、家主の分厚い札入れを盗み取って帰宅した。

 

ああ、ぼくは知らなった。人がこれほど惨めになり得るものか。心がこれほど多くの小部屋を開き、そこを恥辱の念でしっかり満たせるものかを。鱒が群れる渓流とか、そういった若き日の無垢な愉しみはどこに消えてしまったのだ?騒がしい水の流れの、濡れた革のような匂い。叩きつける雨の後のきりっとした森の香り、あるいはホルスタイン牛の吐息のような、草いきれの匂いが混じった解禁日の夏のそよ風ーーー頭がくらくらしてくる。

 

 罪悪感に満たされ神経崩壊の瀬戸際に立たされながらも、銀行で入金を済まし盗んだ財布は指紋が見つからないように拭ってゴミ箱に棄てた。それでもなお、彼は繰り返し近隣住宅への「忍び込み泥棒」を試みる。

 

【放蕩息子の帰還】

 『放蕩息子の帰還』はイエス・キリストが語ったとされるたとえ話です。放蕩息子の故郷への帰還を、父親が祝宴を開いて受け入れるという物語を通して、神に逆らった罪人を迎え入れる神のあわれみ深さが込められているとされます。

 

 このたとえ話には、放蕩のかぎりをつくした弟の所業を軽蔑し、そんな弟の罪を赦す父親の行動に不満をぶつける兄が登場します。父親はこの兄をたしなめる*1のですが、その言葉は教条主義者の傲慢さへの戒めを含んでいるとされています。

 

 私たち読者は本作を通じて『放蕩息子』が犯した罪と神のもとへの帰還を疑似体験します。「忍び込み泥棒」を繰り返したジョニーは、奇跡的な幸運によって救い出され、元の安定した生活に戻ることが出来ました。ホッと胸をなでおろすと同時に、あっさりと罪が許されたことに一抹の危惧が湧いてきました。それはたとえ話に登場する兄が感じた違和感と同じものです。

 

 思い起こせば、私にも今の職を失いかねない窮地に陥り、九死に一生を得た苦い経験があります。あの時の自分はあまりにも未熟すぎて、回心の気持ちはおろか、救われたことへの感謝の気持ちすら怪しいものでした。なぜ自分は救われたのか? 私に救いの手を差し伸べた人はどんな裁定を下していたのか? その答えはいまだに分かりません。

 

 理由も分からず免罪された弟と、弟を赦した裁定を不服とする兄が、宙ぶらりんな状態で今も私の中に居座り続けています。そんなことを思い浮かべながら、本作を読みました。

*1:『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』(「ルカによる福音書」より)

【⑦引っ越し日】(『巨大なラジオ/泳ぐ人』より)

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 本作は、マンハッタンのアパートメント・ハウスの管理人であるチェスター氏の一日を描いています。彼と彼の妻は20年前にマサチューセッツ州から引っ越してきた労働者ですが、管理人として与えられた地位と権限は大きく、居住者たちの暮らしを見守る重要な立場にあります。

 

『元気をお出しなさい』

 その日は、9階に住んでいたベストウィック家が引っ越していき、1階に住むニーガス家が上の階に移る引っ越しの日。ベストウィック家は以前は裕福だったが今はそうではなく、一方でニーガス家は新興の富裕層だった。チェスターはベストウィック家の人々が去っていくのを残念に思い、またベストウィック夫人の気持ちを案じていた。

 

「元気をお出しなさい、ミセス・ベストウィック」とチェスターは言った。「べラムでの生活もきっと気に入りますよ。たしかべラムに行かれるのでしたよね?緑も多いし、鳥だってたくさんいます。お子さんの肉付きがよくなります。素敵なおうちが持てますよ」「そこは小さなうちなのよ、チェスター」とミセス・ベストウィッチは言った。

 

 彼女を暗い気持ちにさせていたのは、住み慣れた住居を離れて馴れない場に移っていく不安ばかりではない。階級社会の階段を下っていく惨めさ、その終わりの見えないつらさがあった。それに追い打ちをかけるようなニーガス夫人のわがままぶり。チェスターにはその日に起きた出来事が、どれもこれも不条理に感じられてならない。

 

【神の見えざる手】

 自由主義経済の基礎を築いたアダム・スミスは、同情や共感、正義感などの道徳的感情が人々の行動を規定しているとして、市場メカニズムや社会システムにおける自律的な調整力(神の見えざる手)が社会の繫栄と人々の幸福に寄与すると考えました。その後、ケインズ経済学やシカゴ学派などが輝かしい実績を残す一方で、そのアプローチの限界や欠点も議論されています。

 

 物語の舞台である1950年代は、自由主義経済が急速に進展する一方で、階級意識が根強く残っていたようです。物語のなかでチェスター氏は、これまで培ってきた素朴な倫理観からは読み解くことのできない社会の軋轢を、驚きと畏怖の念をもって受け止めています。チーヴァーは、本作においてもニューヨークに暮らす人々の姿を鋭い人間観察と的確な描写で切り取っています。

 

 ところで、私たちは世の中のことがすべて説明可能だと信じる「科学万能信仰」に陥っていないでしょうか。経済学の理論も自然科学の法則も、疑う余地のないものとして、あるいは、なんとなく分かったふりをしてやり過ごしたりしながら。そう考えると、説明のつかない物事に直面したときに、立ち止まって思いを巡らせるチェスター氏のあり方は正しい態度であり、そこには私たちが見失った大切な何かがあるように思えてなりません。

 

 市場経済の因果を「神の見えざる手」と語ったアダム・スミス。説明の尽きる地点をはっきりと見極めようとする明晰な科学的精神がそこにあります。昔の人はみなエラかった(´-`).。oO

 

【シェエラザード】(『女のいない男たち』より)

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 本作は、謎の事情を抱えて潜伏する男と「連絡係」として彼の世話をする女の話です。物語の主人公は、女性信者に支えられながら2か月間の逃亡生活を送った地下鉄サリン事件の実行犯である林泰男を彷彿とさせます。

 

『前世はやつめうなぎ』

 羽原(はばら)はその女をシェエラザードと名付けた。彼女は彼より4歳年上の35歳で、小学生の子供が二人いる専業主婦。週に二度、羽原の住む「ハウス」を訪れて食料や雑貨の補充を行った。そして、『千夜一夜物語』の王妃シェエラザードのように、性交のたびに謎めいた物語をひとつ聞かせてくれた。例えばこんな話。

 

「私の前世はやつめうなぎだったの」とあるときシェエラザードはベッドの中で言った。(中略)「というのは、私にははっきりとした記憶があるの、水底で石に吸い付いて、水草にまぎれてゆらゆら揺れていたり、上を通り過ぎていく太った鱒を眺めたりしていた記憶が」

 

『愛の盗賊』

 その日、シェエラザードは十代の頃の話を始めた。彼女は同じクラスの男の子に恋をしたが、彼の方は彼女のことなど目もくれない。そこで彼女は学校を休んで男の子の家に行き、玄関マットの下に鍵を見つけると無人の家に侵入した。彼女は部屋のなかをひと通り物色し、そこから鉛筆を一本持ち帰る。

 

「そう。使いかけの鉛筆。でもただ盗むだけではいけないと思った。だってそれだとただの空き巣狙いになってしまうじゃない。それが私であることの意味がなくなってしまう。私は言うなれば『愛の盗賊』なのだから」

 

 彼女はタンポンをひとつ、机の一番下の抽斗の奥に置いておくことにした。以来、彼女は危険を承知で次々と空き巣狙いを繰り返していく・・・が、続きは次回の訪問に持ち越された。その話はいったいどんな方向に進んでいくのだろうか? 羽原は一刻も早く続きが聞きたくなった。

 

【カルトを生み出すシステム】

 1980年代にオウム真理教が編み出した「ヨガ・サークル」と「ジャンクな物語」の取り合わせは、少なからぬ若者たちの心を捉えました。教祖の麻原や幹部たちの処分が下されてもなお信者たちが活動を続けている現状は、カルトを生み出す「システム」が相変わらず機能していることを意味しています。そうした「システム」こそが、私たちが最も警戒すべき脅威ではないでしょうか。

 

 シェエラザードが差し出す人肌の温もりと興味そそられる物語は、羽原にとって『現実を無効化してくれる特殊な時間』になります。その代償として自分の肉体と精神の自由を「システム」に委ねる構図は、カルト教団が信者たちを支配する仕組みそのもの。羽原は空っぽの心で『やつめうなぎ』の一員になった自分を思い浮かべますが、いつかそれはとんでもない「狂気」にすり替わっていくのかもしれません。

 

 さて、シェエラザードが語った『空き巣狙い』の続きは私も初読の時から気になっていましたが、2021年に濱口竜介監督の独自解釈による斬新な結末にお目にかかることが出来ました。気になる方は映画「ドライブ・マイ・カー」をチェックしてみてください。

 

【⑥治癒】(『巨大なラジオ/泳ぐ人』より)

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 人生における中間点やピークを指して「人生の正午」と呼ぶとき、それは、過去の経験を振り返り、未来の方向性を見極めるための転換期を意味します。本作は、そんな「人生の正午」の人物が遭遇した不思議な話です。

 

『私にかまうな!』

 それはある夏の日のこと。「私」と妻のレイチェルは言い争いをし、彼女は子供たちを連れて家を出て行ってしまった。レイチェルの出奔は過去に二度あったが、いつも彼女からの電話に折れるかたちで復縁してきた。それでもぶり返す惨めな日々を今度こそ終わらせるため、電話には一切出ないことにした。

 

 家族が去って二週間。「私」は『治癒』と称する無為の時を過ごしていたが、ほどなくして不眠に悩まされるようになる。夜中の三時に目を覚まし、居間で本を読んでいると、自分が誰かに見られている気配がする。振り向くと、正体不明の徘徊者が窓の外からこちらの様子を伺っていた。幻覚ではない証拠に、次の夜も同じ事が繰り返された。

 

「消え失せろ!」と私は叫んだ。「彼女は行ってしまった!レイチェルはもういない!ここにはみるべきものなんてないんだ!私にかまうな!」そして窓に駆け寄ったが、男は既に姿を消していた。

 

 翌朝の通勤列車を待つ乗客の中に「覗き屋」と思しき人物を見つけた。髪が白くなりかけた男と、美しい娘と、その奥さんが一緒に立っている光景は、「私」の気持ちをもっと落ち込ませる。彼はいったい何が目的で夜の徘徊をしているのだろう?

 

【生産性vs停滞】

 E・H・エリクソンの『心理社会的発展理論』によれば、「人生の正午」には《生産性vs停滞》と称する課題が生じます。それは、家族や仕事、社会への献身が求められる生活に引き起こされる一時的な停滞感や虚無感です。しかし、そうした献身のなかに自分の生産性や存在意義を見出し、次世代のための価値を残すことで充実感や満足感を取り戻すことが出来るとされています。

 

 物語の後半から主人公は健全な日常を逸脱しはじめ、その結果、自己の深刻な虚無感と向き合うことになります。おそらく「覗き屋」が見つめていたのと同じものを。家族への献身に意義を見出せず、自己中心的な思いに囚われていた自分。若い頃のような行きずりの甘美な出会いなど叶うべくもない。神妙な面持ちの主人公のもとに突然電話のベルが鳴り、復縁を求めるレイチェルの涙声が飛び込んできます・・・

 

 さて、再びエリクソンの理論から。この後に続く人生の晩年には、未達の夢や未解決の課題の受容と和解という試練が私たちの行く手に待ち構えています。そうした物語のご紹介は、いずれまた別の機会に。

 

【⑤バベルの塔のクランシー】(『巨大なラジオ/泳ぐ人』より)

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 《愛は負けても、親切は勝つ》という言葉を残したのは、アメリカの作家カート・ヴォネガットです。愛や正義は時に失敗や挫折に直面することがあるのに対して、親切や思いやりは軽やかに物事を打開するという考え方です。本作は、ある善意の人物が遭遇したモラルの衝突を通じて愛と親切の行方を描きます。

 

『まるでバベルの塔のようだ』

 クランシー氏はマンハッタンの高級アパートメントでエレベーター係の職を得た。それは彼が暮らす貧しい地区からそれほど離れていない場所にあるが、経済的にも、モラル的にもクランシー氏とはまったく異なる人種が住んでいる。それでも、田舎育ちで培った職務に対する実直さと、裏表のない親切心を発揮しながら居住者たちに受け入れられていった。

 

夕方に帰宅すると彼はまるで帰還した旅行者のように、自分がその日に目にしたものについてノーラ(=妻)に語るのだった。プードル犬や、カクテル・パーティーや、子供たちとその乳母たちが彼の関心を引いた。あそこはまるでバベルの塔のようだよと彼はノーラに言った。

 

 ある日、居住者の一人であるロワントゥリー氏が知人を紹介し、彼と一緒にここに暮らすと語った。クランシー氏は二人がゲイ・カップルであることに気づくと、旧世界のモラルを盾にしてエレベーターの搭乗を拒否した。管理人のとりなしで解雇は免れたものの、その後もクランシー氏のお節介は止まらない。

 

【他者との共存】

 今でこそアメリカはLGBTの権利で世界の覇権を握っているように見えますが、1950年代初頭においては、同性愛やトランスジェンダーは非合法で、社会的にも広く非難される対象でした。物語の中でクランシー氏が衝動的にゲイ・カップルを拒絶したのも、当時の社会通念からすれば仕方のないことでした。

 

 クランシー氏はアパートメントのいざこざに介入するうちに体調を崩し、入院を余儀なくされます。ロワントゥリー氏が集めた多額のお見舞いを受け取りますが、この倒錯者に対してどのような態度をとるべきか決めかねます。自分が知り得ない愛や正義がこの現世には存在し、半ば盲目のままに今日まで生きてきたわが身を振り返るクランシー氏。次にロワントゥリー氏と出会った時にはもう何も言わないでおこうと彼は心を決めます。

 

 村上春樹の解説によれば、同性愛は作者のジョン・チーヴァー自身が抱えてきた悩ましき問題でもあったようです。それを罰せられるべき罪悪と見なす理性と、自然な求めとする感情の二つの想念が、クランシー氏とロワントゥリー氏という対立する人格を作り出しました。物語の終盤で両者は共に敗北感を滲ませていますが、そこには意見の異なる他者との共存を探る寛容性の芽生えが感じられます。

 

 さて、冒頭に触れた《愛は負けても、親切は勝つ》という表現が本作にあてはまるのか、私には少し疑わしく思えてきました。勝利の喜びの無い勝ちに対しては、もっと別の言い方がふさわしいようにも思えるのですが・・・今回はひとまずここまで。