佐藤いぬこのブログ

戦争まわりのアレコレを見やすく紹介

獅子文六と戦争をテーマにしたジンを販売中です

 戦争に突入する時代をテーマにしたジン『認識不足時代 ご時勢の急変と獅子文六』を作りました。BOOTHで販売中です。「あんしんBOOTH パック」(ポストに投函・匿名配送)でお送りします。

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ビリケン商会(青山)・オヨヨ書林新竪町店(金沢)・DA NOISE BOOKSTOREでもおもとめいただけます。

流行語だった「認識不足」と、獅子文六

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 昭和の人気作家・獅子文六といえば『コーヒーと恋愛』(昭和37)。テレビ業界が描かれているので“戦後の作家かな?”と思われるかもしれません。しかし『コーヒーと恋愛』は69歳(!)の時の作品なんです。

 

 デビューはもっともっと前、つまり戦前。ところが獅子文六がユーモア小説家としてブレイクしたとたん、日本は本格的な戦争モードになりました。( 朝ドラ「エール」の古関裕而も同様のタイミングでしたよね。ブレイク→戦争→軍歌の覇王)。

 

 ジン「認識不足時代 ご時勢の急変と、獅子文六 」(2020年11月発行)は、かつて流行語だった「認識不足」を軸として、昭和11年〜25年の16作品を並べています。戦争に突入する時代を扱っていますが、お茶の時間にサッと読めるように作りました。フェーズが変化するたびにキラキラしたモダン生活が消えるのを感じてください。

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ちくま文庫の「断髪女中 獅子文六短編集 モダンガール編」をセレクトされた山崎まどか様のTwitterより。

ビッグイシュー411号「究極の自由メディア『ZINE』」特集に掲載されました。

「認識不足時代 ご時勢の急変と獅子文六」で引用した 参考画像

ジン「認識不足時代」では、参考画像も紹介しています。

▽これは国際連盟脱退で揺れている頃の漫画。かわいい絵ですが、時代の空気が伝わってきます。(昭和8年2月講談社「キング」小野寺秋風) 

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昭和14年「欧州大戦勃発」の漫画タイトル(昭和14年11月新潮社「日の出」)

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▽49歳ごろの獅子文六。本名の岩田豊雄で『海軍』を書いている時期です。『海軍』は日米開戦の翌年(昭和17)朝日新聞に連載され、敗戦後「私のことを戦犯だといって、人が後指をさす*1」原因になりました。そんな『海軍』から20年後の昭和37年、『コーヒーと恋愛』の新聞連載がスタートします。

昭和17年12月『主婦之友・大東亜戦争一周年記念号』

narasige.hatenablog.com

ジン「認識不足時代  ご時勢の急変と、獅子文六 」は、画像が多め・字も大きめ。「獅子文六に興味ないなあ」という方もぜひ!時代が急変している今、何かのヒントになりますように。 

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▽このジンを作ったきっかけは、2014年のラジオ(宇多丸さん)でした。

narasige.hatenablog.com

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*1:獅子文六全集14巻「落人の旅」朝日新聞社

銀座のスーベニアショップ(1950年代)

銀座とは思えないスーベニアショップ「銀座館マート」

3月8日は「みやげの日」。ということで、とあるスーベニアショップを紹介しましょう。

「Ginzakan Mart」=銀座館マート。キャプションに1953年とあるので、ちょうど朝鮮戦争の頃ですね。拡大すると米兵らしき姿が見えます。手前を走る自転車の長すぎる棒も気になる。

Ginzakan Mart, 1953

別の人が撮影した「銀座館マート」。無骨な倉庫に、適当な看板を取り付けただけに見えます。派手なピンクの花は造花でしょうか、本物でしょうか。

Ginzakan Mart, Tokyo  1952-'53

これも銀座館マート。近くで見たところ。

Ginzakan Mart-Souvenirs

「銀座館マート」は、本当に銀座に存在していた

 この「Ginzakan Mart」(銀座館マート)の写真、銀座と名乗っているものの、荒涼としていてまったく銀座には見えない。「ほかの土地が“〇〇銀座”のノリで勝手に名乗っているのではないだろうか?」といつも思っていました。

ところが最近、本当に銀座にあったことを知ったのです。

▽なにかのショップカードに、偶然「銀座館マート」を発見!限りなく京橋寄りの銀座1丁目。まさか本当に銀座にあったとは。うたがってごめんなさい。

https://www.flickr.com/photos/58451159@N00/20395569128

▽「銀座館マート」が銀座に存在したならば…と手持ちの『中央区沿革図集(京橋編)』で昭和20年代の地図を確認してみたら、ありました、ありました「銀座館マート」が。びっくりするほど細長い施設です。戦前の地図をみると、この部分は「堀割」。つまり「堀割を埋めた」系の土地なのでしょう。

中央区沿革図集(京橋編)』より「昭和20年代火保図

 敗戦後の中央区で、「堀割を埋めた」エピソードは時々見かけます。(焼けビルの瓦礫を放り込んでいるうちに、埋まってしまうようなケースもあったらしい)。

 

1)敗戦後に埋め立てた、細長い土地に

2)外国人(駐留軍)がお金を落とす施設をパッと作る

 

…これは、同じく銀座ウラにあった「東京温泉」とよく似た香りがする。トルコ風呂で知られる「東京温泉」も、すごく細長い土地に建っていたのです。

スーベニアショップ「銀座館マート」と「東京温泉」は、どちらもオシャレな銀座のヒストリーに出てこない。その点も似ていますね。

【参考画像】「東京温泉」の内部。朝鮮戦争時の昭和26年(1951)、アメリカの雑誌『LIFE』に掲載された写真です。詳しくはこちら→東京温泉、日本の黒い霧など - 佐藤いぬこのブログ


以上、3月8日「みやげの日」にちなんだスーベニアショップの紹介でした。

▽他にもスーベニアショップ写真を紹介しています。ぜひごらんください。

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大人のディズニーランド、永井荷風、清洲橋

中洲(中央区日本橋)は大人のディズニーランド?

【大吉原展】がSNS話題になっています。吉原を「遊園地」と勘違いしていませんか?と。

 大吉原展の「遊園地」たとえで、ふと思い出したのが、東京中央区のお年寄りの対談集に出てきた[中洲は大人のディズニーランド]という表現。

「中洲」というのは箱崎シティエアターミナルの近くで、住所は「中央区日本橋中洲」です。かつては「中洲」は、文字通り「洲」でしたが、現在は埋め立てて陸続きになっています。

中央区の昔を語る(15)』(中央区教育委員会・平成13)より「中洲」の部分を引用してみましょう。

「中洲というのは、うちのばあさんも言ってたけど、昔は大人のディズニーランドみたいなところだったんですよね。要するに、きれいなお姉さんがいて、お酒があって、だから遊び人の街だった。」

 

「昔、中洲には18歳未満の青年は入れなかった。」

中洲って、川を渡ると、材木商の大だんなとかいっぱいいるじゃないですか。そういうところで、遊女の髪の毛で、金の針で、こっちに遊女がいて、左に太鼓持ちがいて、海たなごっていうのかな、あれを釣るのは、1種のレクリエーションだったって。」

 「川を渡ると、材木商の大だんな」というところ、すごく古くさい印象かもしれません。しかし1980年の映画「わるいやつら」には、深川の「材木問屋の若奥さま」が主要人物として出てくるんですよね。シティポップの時代にも「材木商の大だんな」は存在していたらしい。

「中洲」に通院する永井荷風

 さて、そんな大人のディズニーランド「中洲」には、永井荷風が通う「病院」もありました。昭和10年の地図を見ると、まさにランドの中に「病院」が建ってるイメージ。濃い黄色(もとから着色有り)で塗られている部分は、ずらり料亭です。

中央区沿革図集(日本橋篇)』(中央区教育委員会)に加筆

先ほどの『中央区の昔を語る(15)』にも、永井荷風と「中洲病院」が登場します。

「これは中洲病院です。その後、糸川病院って名前が変わったんですよね」

 

「中洲病院のふもとというのが、うちのばあちゃまがよく言ってたけど、よく永井荷風なんかが梅毒の検査に来てて、大丈夫だってなると、病院の院長と一緒に、また性懲りもなく、深川に遊びに行っちゃう。その繰り返しだったって。」

 

「うちの前を、すごく背の高い方だったらしくて、フラフラ歩いて通っていったって話を聞きましたけどね。」

大人のディズニーランドにかかる橋

 そんな大人のディズニーランド「中洲」にかかっている橋は、とても美しい「清洲橋」です。

清洲橋は、完成した昭和3年から→21世紀の現在に至るまでステキな橋として有名。小津映画にも出てくるし、2022年公開の(スタイリッシュすぎて恥ずかしくなる)映画でも、主人公は清洲橋をのぞむ高級マンションに住んいました。

清洲橋  川瀬巴水版画集 1より

清洲橋 昭和6年2月(1931) 川瀬巴水

  しかし、清洲橋がどんなに綺麗でも「大人のディズニーランド」へのメインゲートだとすれば、見方も変わるというもの。

昔の男性の目にうつる清洲橋は(期待と興奮で)、キラキラというよりギラギラ輝いていたのかもしれません。

ちょうど『翔んで埼玉2』で「武蔵野線」がディズニーランド直結の乗り物として、ギラギラしていたように。

▽『翔んで埼玉2』エンディングに出てくる武蔵野線をうろ覚えで再現してみました。清洲橋もこんなイメージだったのか?

永井荷風の随筆。行きつけの「中洲病院」の脇に、新しい橋(※清洲橋のこと)が架かるのを楽しみにしている様子がうかがえます。(国会図書館デジタルコレクション『荷風随筆』から「中洲病院を訪ふ」より)

「病院の傍には遠からず深川に渡る新橋が架せられるので」…

満洲とエーゲ海【芸術家・池田満寿夫】

池田満寿夫 20年の全貌』 美術出版社1977年

名前に「満洲」が入っている池田満寿夫

森茉莉がエッセイ*1で「上等の庶民芸術家」と絶賛していた池田満寿夫(1934年生まれ)。私が知っている池田満寿夫の情報といえば、

1、モジャモジャ頭

2、エロティックな映画を撮っていた

3、名前に「満洲」が入っている

といった程度ですが、今日は【名前に「満洲」が入っている】部分について紹介しましょう。映画『エーゲ海に捧ぐ』で知られる池田満寿夫は、満洲生まれでした。

池田満寿夫エーゲ海。画像は文春オンラインから

池田満寿夫は「満洲」生まれ、「内蒙古」育ち

池田満寿夫は、1934年(昭和9)、満洲に生まれました。新潮社『満洲 昨日今日』(1985)より池田満寿夫の文章を引用します。

当時、中国東北部が日本帝国の介入で満洲と言われていた頃、満洲で生まれた子供に満洲男とつけるのが流行った。私の満寿夫も音は満洲男から来ている。洲にせず寿にしたのは名付け親とされている叔父の発案である。

私は昭和9年2月23日に旧満洲の旧奉天で生まれた。

満洲生まれの男子は、「満洲男」(ますお)と命名されがちだったのですね。

 

 満洲で生まれた池田満寿夫は、5歳ごろ内蒙古の首都=「張家口」に移住します。なぜ、そんな遠いところに移住を?…と思ってしまいますが、親が「張家口」で兵隊相手の“カフェー”をひらいていたとのこと*2

イケダは4歳まで、奉天にいた。昭和12年支那事変で、張家口へと移動、5歳ごろから終戦を迎える小学6年まで、両親は張家口で「ホマレ」というカフェーをひらいていた。「ホマレ」には10人から15人の女給がいた。客ダネは、兵隊と軍属に限られていた。(『池田満寿夫 20年の全貌』美術出版社1977年)

新潮社『満洲 昨日今日』(1985)

内蒙古「張家口」時代の池田満寿夫(1943)。『VIVANT』感あり。

池田満寿夫 20年の全貌』 美術出版社1977年

実相寺昭雄池田満寿夫は、「張家口」つながり

 池田満寿夫は、敗戦時まで内蒙古の「張家口」にいましたが、実はもう1人、敗戦を張家口で迎えた少年がいます。それは『ウルトラマン』の実相寺昭雄(1937生まれ)。

実相寺昭雄は東京出身で、池田満寿夫より3歳ほど若い。父親が「張家口公使館」勤務の役人でした*3。以下は実相寺昭雄の自伝的エッセイ『昭和電車少年』から

 昭和53年の夏、日立の提供する大河ドラマ用の長尺コマーシャルの撮影で、私はローマに行った。池田満寿夫さん出演のコマーシャルを演出するためである。ちょうど、池田さんは初めての監督作品『エーゲ海に捧ぐ』を撮影中で、その合間を縫って撮影させていただいた。(略)その折りに、あれこれ雑談をした中で、池田さんも張家口育ちだったと言うことを知り、驚いた。いちど、一緒に再訪しよう、と言う話になり、握手をした。

 昭和53年(1978年)といえば、敗戦から33年。当時、池田満寿夫は44歳、実相寺昭雄は41歳くらい。

アラフォーの天才2人が、「張家口」の少年時代を通して意気投合!しかもローマで!…なんとも昭和感があふれたエピソードです。【デラックス】と【敗戦】が混ざりあっている。

 

 2024年から過去を回想すると「あの頃はまだイオンじゃなかった。 ジャスコだった」(←ドラマ『ブラッシュアップライフ』)レベルになりがちですが、昭和は違います。「満洲国」自体の消滅や、焼け野原からの経済成長など、振れ幅が凄まじいのですから。

それぞれの引き揚げ

満洲、外地、といえば敗戦後の苦しい「引き揚げ」がありますよね。池田満寿夫は「小学6年で終戦を迎えた時は、母と一緒に無蓋の貨車で、張家口から逃げた」*4そうです。一方、実相寺昭雄は父親が役人だった関係で、いちはやく「張家口」から脱出できたとか*5


以上、池田満寿夫満洲内蒙古エピソードでした。昭和の文化を作っていた人の脳内には、私が知らない地図が広がっていたというわけです。

*1:森茉莉『私の美の世界』

*2:池田満寿夫 20年の全貌』美術出版社1977年よりイケダは4歳まで、奉天にいた。昭和12年支那事変で、張北、張家口へと移動、5歳ごろから終戦を迎える小学6年まで、両親は張家口で「ホマレ」というカフェーをひらいていた。「ホマレ」には10人から15人の女給がいた。客ダネは、兵隊と軍属に限られていた。幼いイケダは、 母親より、むしろ店の女給たちに親しみ、可愛がられた。女給たちの間や、女給たちと客とのあいだで、とり交わされる好ましくないことばを、早くから覚えた。そのために、池田は、7歳ごろから、この世の男と女の関係の全てを知っていた。小学6年で終戦を迎えた時は、母と一緒に無蓋の貨車で、張家口から逃げた。父は外地召集で、6ヶ月前に奥地の軍隊にはいっていた。」

*3:『昭和電車少年』によると、実相寺昭雄の父親は日本銀行→興亜院→大東亜省→張家口公使館の順で勤めている

*4:池田満寿夫 20年の全貌』 美術出版社1977年

*5:自伝的エッセイ『昭和電車少年』には、繰り返し「張家口」が登場します

「油」が切れていた戦時中【菜種油・ヒマシ油】

なたね油の使い道

2024年は、お菓子作りの年にしようと思っています。どうせ作るなら、体に良くて、お洒落なお菓子を作りたい。ということでお洒落な本を買い集めてみました。そのレシピに出てくる油が「なたね油」なんです。

なたね油、菜種油…。

はて、どこかで聞いたことあるなあ、菜種油。

「そうだ、戦時中のポスターに使われていたっけ」と思い出しました。

戦時中は物資不足を補うため、なぞに植物性オイルが出てくるんですよ。たとえば「菜種を作れ!飛行機の血液・潤滑油に!」。私は詳しいことはわかりませんが、これで飛行機は大丈夫なのか。

『大橋正展 暮らしを彩ったグラフィックデザイナーの60年』

“油が切れて”いた時代

資生堂の美女イラストで知られる山名文夫も、戦時中は「ヒマシ油」のポスターに関わっていたそうです。

山名文夫 体験的デザイン史』

「ヒマを作ろう」というポスターもあった。ヒマというのは、唐胡麻と言われる植物で、その実から取るヒマシ油は潤滑油として、航空機はもちろんその他の兵器になくてはならない必需品である。この増産キャンペーンも昭和19年で、文字通り“油が切れて”種まきから始めるという悲壮な長期戦であった。

このポスターは昭和館デジタルアーカイブより。「ヒマを作ろう ヒマシ油は荒鷲の血液 大政翼賛会「製作:報道技術研究会」とあります。この「報道技術研究会」は 、デザイナー・コピーライター・写真家などの制作集団で、国家宣伝の高度化と総合化を目指していました。で、山名文夫はそこの委員長だったのです。

昭和館デジタルアーカイブ「ヒマを作らう」昭和19年(1944)頃

 このように日本は「菜種油」や「ヒマシ油」の増産を目指していたわけですが、その頃アメリカの雑誌『LIFE』には石油会社がゴージャスな広告を多数のせています。いやあ、すでに勝負はついていましたね…。『LIFE』1943年(昭和18)8月16日号

▽「なぜ、資生堂山名文夫が「ヒマシ油」のポスターに関わっていたの?」。疑問に思った方はぜひこちらをご覧ください。

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50年前(1972〜3年)のシニア世代

先日、50年前(1972〜73)の意外なほど派手な若者たちを紹介しました。

narasige.hatenablog.com

今回は、同時期のシニア世代をごらんください。当時の日本人が見逃していたであろう装いを、あるアメリカ人*1が旅行者の目線で大量に撮影していたのです。これはありがたい!以下、1972〜73年の写真です。※すべて元からカラー写真

[tokyo, japan fall 1972]スカーフと、真っ黒に染めた髪。

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[streetlife]「風呂敷を背負う」は、皆ある時期までやろうと思えばできたのか?

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[pedestrians streetlife, candid]背中の風呂敷と、手に持った風呂敷が同じ柄

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[japan, 1972]カラフルな割烹着で重労働。1972年は敗戦から28年。この写真には若くして戦争未亡人になった人がいるかもしれません

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[kyushu, japan, 1972]割烹着のスソは、モンペに入れる。

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tokyo, japan 1973 onbu (babywearing)]「昭和のテーマパーク」では再現しにくい姿。赤ちゃんはキムタク(1972生まれ)と同世代です

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[meiji shrine imperial garden]迫力!007の上司「M(ジュディー・デンチ)」みたい

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[shoeshine woman]くつみがき。屋外でじっと客を待つ…冷える環境です

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[elderly woman kameido tenjin shrine]亀戸天神社。華やかなショールだけれど、よく見ると前掛けをしている。

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[woman crossing moon bridge kameido tenjin shrine]ショールをおさえつつ亀戸天神社の太鼓橋を降りる人。見ていてハラハラします。両手はあけておきたい。

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[woman crossing moon bridge kameido tenjin shrine]これも亀戸天神社の太鼓橋

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old woman, smilingこの時代、「白髪の人」と「真っ黒に染める人」が分かれているようです。今はシロウトさんもクロウトさんも、白髪まじりの茶髪だったりするけれど。

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[two women street market]けんかが強そうなおばあさん。

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[parade crowd]若者たちとおばあさん。この若者も今や60代後半〜70代

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上品な装い。「夫も、息子も、娘ムコも、みな帝大出です…ほほほ」といった雰囲気18-335

おじいさん

数少ないおじいさんの写真もどうぞ。この人たちは愛すべき「おじいちゃま」なのか?あるいは「戦時中、要職についていて残酷な指令を出した人」なのか?……写真からはわかりません。

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 以上、1972〜3年の中高年でした。全体に茶色っぽい印象ですよね。しかし、彼らも若い頃から茶色い装いだったわけではないと思うのです。

彼らは戦中〜戦後とても苦労したはずですが、青春時代を過ごしたのは1930年(昭和5)前後。意外とモダン都市で“今どきの若者”をやっていました、というタイプも少なくないような気がします。

【例】1930年(昭和5)発行の本から「反り返って歩く」断髪のモガ。派手な着物で、いかにも生意気そう。行間に、“今時のムスメはまったく…”といった気配が滲み出ています。画は池部 鈞(俳優・池部良のお父さん)

昭和3年「現代世相漫画」池部 鈞

【参考画像】同じ人が撮影した同時期(1971)のアメリカです。服はグレーだけど小物が鮮やか。

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▽今回は都市部の写真中心でしたが、地方の様子はこちらをごらんください。

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*1:撮影者Nick DeWolf氏は、wikiによればテラダイン社→□の創業者。現在は親族が写真をネットにあげているようです。アーカイブのインスタ→☆もあるので、フォローしてみてください

戦争末期の「あたしバカだからさあJAPAN」【獅子文六『一号倶楽部』】

自称「頭が悪い」女性が、軍人のあるべき姿を語る小説

 東京ポッド許可局の「あたしバカだからさあJAPAN」には笑ってしまいました。「私バカだから良く分かんないけど、アンタって◯◯だよね」。こうスバっと言ってくれる、美保純的な人をイメージした言葉だそうです。

miyearnzzlabo.com

 今回紹介する昭和の人気作家・獅子文六『一号倶楽部』の主人公は、「あたしア、生まれつき頭が悪い」が口グセの女性。もし【あたしバカだから選手権】があったら、優勝候補まちがいなしです。

『一号倶楽部』は戦争の末期も末期(昭和19〜20年)、「主婦之友」に連載されました。

▽右は敗戦の年=昭和20年6月の「主婦之友」。『一号倶楽部』は、このヨレヨレに連載されていたのです。表紙には「本土決戦 勝利の防衛生活」の文字が。(左は昭和14年。同じ雑誌とは思えない!)

 『一号倶楽部』主人公の「お竹さん」は、ひょんなことから海軍飛行予科練習生(予科練)たちのお世話をすることになった霞ヶ浦の「おばさん」です。

善良なお竹さんは「あたしア、生まれつき頭が悪い」と言いつつも、聞きかじった軍人さんの言葉をオウム返しにする形で、熱弁をふるいます。

つまり“お上”の言葉を、わかりやすく翻訳してくれるキャラクター。

お竹さんの茨城弁は、都会のインテリ夫人(←海軍飛行予科練習生の母親。息子の命が心配でクヨクヨしている)にも、深く深く刺さるのでした。

「わが子が軍人になったら、わが子と思っちゃいけねえ」

 脚本家の笠原和夫昭和2年生まれ)はエッセイ*1で、獅子文六のことを「筆力をもって若者たちを海軍に志向させ」たと書いていますが、『一号倶楽部』は、そんな若者たちの母親世代が対象といえるでしょう。

「お竹さん」の熱弁をちょっと引用してみます。

予科練さんは、学校の生徒なんかと、まるでちがうんでさア。子供みたいな顔してるけど、もう立派な軍人さんなんですよ。軍人てものは、天子様がお許しのない限り、自分の好き勝手に、休んだり、辞めたりできねえもんだそうです。つまり、わが子が軍人になったら、わが子と思っちゃいけねえんだそうです。 いいですか、奥さん、そこが、世間とだいぶ違うところだ…

「わが子が軍人になったら、わが子と思っちゃいけねえ」*2のあとに、「いいですか、奥さん」としめる。ここで当時の読者は、ハッ!としたのでしょうか。

私も、よくは知りませんが、予科練さんてものは、これからの海軍の飛行機を背負って立つ、たいした軍人さんなんだそうですよ。なんでも、これからの戦さ(いくさ)は、海軍でも、飛行機でやるんだそうで、その飛行機に乗るにゃア、パリパリの若い者でなきゃアいけねえそうです。日本中の男の子の中で、ふるいにかけて、粒選りにしたような、頭のいい、体のいい、勘のいい、パリパリの、ピカピカの若い者でなければ、いけねえんだそうで…

「私も、よくは知りませんが」と話しはじめ、「パリパリの若い者」「ピカピカの」「パリパリの」……と、たどたどしく繰り返すお竹さん。ちなみに彼女自身も、川の事故で幼い息子を亡くしているという設定です。

▽連載の様子はこんな感じ(「主婦之友」昭和20年6月)。各ページに激しすぎるコピーが。この時点で小説を連載しているのは、獅子文六ただ1人。

 獅子文六は、1893年明治26年)生まれなので、敗戦時に52歳くらい。自分が戦場にいくことはない年齢です。

しかし子供の頃、日露戦争の勝利を経験している。獅子文六はエッセイ「戦勝の春」(昭和32年『遊べ遊べ』)で、少年時代の日露戦争を「あの頃の戦争は短くて良かった」「一億総動員なんてことをやらなくても戦争ができた」と回想しています。

戦場に行っていないけれど、「戦勝」の記憶はしっかり持っている世代…そんな世代だからこそ、敗戦のその時まで「パリパリの、ピカピカの」軍人像を描くことができたのかもしれません。

※『主婦之友』の激しすぎるスローガンについてはこちらのブログが詳しいです→狂気の「ぶち殺せ標語」(虚構の皇国 早川タダノリ)

タオルに見る国力の差

 さて突然ですが、ここでアメリカの雑誌『LIFE』に載っていた広告をご覧ください。あらキレイ…と見逃してしまいそうになるけれど、昭和20年8月の広告だということに注目!!『LIFE』は戦時中であってもゴージャスな広告が珍しくありません。でも当時の日本はボロボロの焼け野原、玉音放送まで秒読み。

こんな国に「パリパリの、ピカピカの若い者」を飛行機でブツけていた時代があったわけですよ。

雑誌『LIFE』(1945年8月13日号)

 一方、ちょうど同じ時期、獅子文六『一号倶楽部』が連載されていた『主婦之友』には、“アメリカがタオルや石鹸を投下してきたら、どんなに欲しくても絶対に拾うな”という哀しいメッセージが載っている。ああああああ。

「敵は物資の乏しいところへつけ入ってタオルや石鹸、煙草、菓子類など無害でそのまま役立つ生活必需品を投下することもある 咽喉から手が出そうなものでも、敵のものなど一指もふれぬ心構えが肝要

「ただ利用するだけのつもりがいつの間にか感謝に変り、厭戦へ和平へと敢闘精神を鈍らせる原因になります」

▽紙質が悪すぎて字がよみにくい、敗戦目前の『主婦之友』(昭和20年3月)

『主婦之友』(昭和20年3月)

 以上、戦争末期に書かれた獅子文六『一号倶楽部』の紹介でした。

『一号倶楽部』は『獅子文六全集』(朝日新聞社)の16巻に収録されています。16巻は戦時中の作品 *3が1冊にまとまっているので、人気作家の筆力が当時どう機能したかうかがえるはず。ぜひ読んでみてください。

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*1:笠原和夫『破滅の美学』 ちくま文庫)「戦時中、私たちの世代なら大方が感奮させられた小説『海軍』の著者岩田豊雄氏が、獅子文六ペンネームで『てんやわんや』『自由学校』を発表し、戦後社会のオピニオンリーダーとして脚光浴びているのが許せなかった。海軍の実態は、岩田氏が書いたものとは全く違う。それはリアリストの岩田氏も認識していたはずである。それを隠して美化し、筆力をもって若者達を海軍に志向させ、それで死んだものも確実にいたはずだ。」

*2:同様のセリフは獅子文六『南の風』(昭和16)にも出てきます。「男は殿様のお宝、殿様の御楯。女は、それを、殿様からお預かりしてる勘定なんですよ」https://twitter.com/inukosato/status/1626538195264622592

*3:「私のことを戦犯だといって、人が後指をさす」( 獅子文六全集14巻「落人の旅」)原因となった作品

【戦場は君たちを待つ】少年兵募集の雑誌『海軍』

なかなかツラい本を入手しました。少年兵募集に重点を置いた雑誌『海軍』の創刊号です。(昭和19年5月/大日本雄弁会講談社)。表紙には「戦場は君たちを待つ」の文字が……

昭和19年5月『海軍』創刊号(大日本雄弁会講談社

目次を見ると、もはや雑誌というより[海軍省の募集パンフレット]に、小説や漫画がのっているイメージです。「海軍省人事局」「大本営海軍情報部」をはじめとして、海軍関係者がずらり。

『社史に見る太平洋戦争』によれば、昭和19年講談社

海軍省後援の『海軍』、陸軍省後援の『若桜』の両誌を創刊した

とあります。戦局の悪化でいろいろな雑誌が休刊しまくっている状況で、新たに創刊された雑誌は軍のリクルート系…というわけです。

▽たとえば『海軍』の中身はこんな感じ。海軍省人事局指導のページ「海軍志願兵になるには」。早わかり!

昭和19年5月『海軍』創刊号(大日本雄弁会講談社

▽巻頭には「想像絵 ワシントン大爆撃」。日本の最新鋭爆撃隊がアメリカを攻撃するイメージ画像です。説明文のすべてにフリガナがついている。小さい人むけ。

昭和19年5月『海軍』創刊号(大日本雄弁会講談社

▽漫画の魅力もすごい。「2023年のイラストですよ」と言われたら信じてしまいそう。

昭和19年5月『海軍』創刊号(大日本雄弁会講談社

▽かっこいいアニキ像。

僕たちもいくぞ。いのち捧げる時はきた。あとに続かん皇国の少年兵たち

昭和19年5月『海軍』創刊号(大日本雄弁会講談社

▽玉砕を美化

天皇陛下の御ために、御国のために身をを捧げる時はいまだ。

昭和19年5月『海軍』創刊号(大日本雄弁会講談社

▽執筆陣には、人気作家・岩田豊雄獅子文六の本名)も。脚本家・笠原和夫の言葉を借りるなら、当時の獅子文六は「筆力をもって若者達を海軍に志向させ」*1る作家だったのです。

昭和19年5月『海軍』創刊号(大日本雄弁会講談社

▽ この広告、大人向けの雑誌でもよく見かけるけれど、少年向けの雑誌に出ていると余計にえぐい。

昭和19年5月『海軍』創刊号(大日本雄弁会講談社

以上、雑誌『海軍』の紹介でした。この雑誌は子供たちをその気にさせるために、一番効き目のある人たちをチョイスしているように見えます。ぬるい小説や、下手なマンガじゃ“効き目”が薄いですものね。

「新しい戦前」とされる昨今、誰が選ばれるのでしょう。やはり人気YouTuberですか?気になるところです。

narasige.hatenablog.com

 

*1:「戦時中、私たちの世代なら大方が感奮させられた小説『海軍』の著者岩田豊雄氏が、獅子文六ペンネームで『てんやわんや』『自由学校』を発表し、戦後社会のオピニオンリーダーとして脚光浴びているのが許せなかった。海軍の実態は、岩田氏が書いたものとは全く違う。それはリアリストの岩田氏も認識していたはずである。それを隠して美化し、筆力をもって若者達を海軍に志向させ、それで死んだものも確実にいたはずだ。」(笠原和夫『破滅の美学』 ちくま文庫

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