将来の約束。

単純に就職先が見つかったというお話、

今回は溜まってた愚痴をダラダラと連ねよう。

 

 

働くということ

極端なことを言えば僕は働きたくない。

経済事情を無視するならば、一生働かずに暮らしたい。

多くの人(形容する言葉がないので多くの人)はそう思うのではないだろうか。

単に僕もその内の1人であるということ。

 

義務

でも我々は働かなければならない。無視した経済事情ももちろんだが我々は納税の義務を負う。

仕方がない、そういう前提で我が国は成り立った。

とりあえずそれに抗うつもりはない。

何が何でも我々は働かなければならない、富裕層を除いて。

 

方法

僕は何を職として生きていこうか、悩んだ。

いや、選択肢は2つしかなかったわけだが。

一般企業に勤めるか、それとも教育公務員として公に仕えるか。

そして僕は後者を選んだ。

ある意味消去法的な考え方で僕は進路希望を決定した。今思えば甘いなとは思う。

でも僕にはそれ以外考えられなかった。

人に物を教える楽しさを知ってしまった僕はいとも簡単に就職活動を捨てることができた。

そしてそれが功を奏した。

 

準備

まずは教員免許を取らなければならない。まだ取得はできていないが、しっかりと単位を取って、教育実習に行く必要があった。

僕は淡々とこなした。そして人生でも自分が大きく変化した期間だったと今では実感している。

そしてもちろん教員採用試験のために一生懸命にこの上ないほど勉強をした。

4月からは一切遊ばなかった(簡単な食事には出向いたが)し、酒を一滴も飲まなかった(正確には一口誤って飲んでしまったわけだが)。

自分を追い込んだ。

 

結果

その結果として僕は教員採用試験に現役合格することが出来た。

採用手続きは何一つ進んでいないし、確約されたものではない。

何なら最初の一年は仮に雇われているという形式なのだから気は抜けない。

気を引き締めていこう。

なんのこっちゃ。

 

まとめ

まぁとりあえずやりたいことがあるなら一生懸命頑張った方がいいよってこと。

 

老い。

万物は老い、廃れる。無常とでも言おうか。

 

 

ただの筋肉痛である。

22歳にもなれば「若さ」なんて感じられない。

それは「大人の中での若さ」であって社会のしがらみを気にしない20歳までの「若さ」とは一線を画す。

だが歳を取るにつれて何かを得ている実感がある。それが何かは言うことができない、わからないから。

 

未成年のうちにやるべきこと。

何も考えずに行動すること、それに尽きる。

しかも多くの子供達はそれを無意識のうちにしている。

やるべきことなんて考えるまでもなく、体は動いている。

そのことに気付かず、ただひたすらに毎日を生きること。

それがやるべきことであろうか。

 

まとめ

まぁ毎日楽しく生きようや。

雑感。

 基本的にこのブログは雑感が多くなると思う。

というよりは雑感を述べるためにこのブログを開設したようなものである。

 

 

日常への雑感

大学

最近は卒業論文なるものを書いている。大学に通う四年間で学ぶことはほとんどない。

せいぜい真面目に出席していれば単位がもらえる、ということくらいだ。つまりは真面目に生きていればそれほど損することはない、それほど。

真面目に生きていてそれでも損をするのはそれはおそらく周りが真面目でないからだ。いくら自身が質実剛健に生きていようが環境要因を変化させるほどの力を持たない。突き抜けて周囲を変えることが出来る人間になることが出来れば話は別ではあるが。

そんなことはともかくたいして学んで来なかった僕が卒論を書いている、そして頭を抱えている。

 

ヰタ・セクスアリス

僕は文学部日本文学を専攻している。専門は近現代だ。

理由は簡単。現代文が好きだから。単純な馬鹿。

そんな単純野郎な僕はなぜ森鷗外ヰタ・セクスアリス』を選んだのだろうか、覚えていない。

そもそも鷗外だって高校三年の教科書で『舞姫』を読んだくらいである。何に惹かれたのか。

きっかけは大学三回生の時。ゼミが始まったのだが、別に後で変更すればいいやと軽い気持ちで鷗外を研究対象として希望を出していた。最初の課題は鷗外の歴史小説の作品研究から始まった。

『興津弥五右衛門の遺書』という作品であるのだが漢文体で書かれているので、あまりにも読みにくい、挫折しそうになった。結局は「殉死」「忠誠」という物を取り扱った作品であるのだが、読みにくい。研究発表自体は可もなく不可もなく終わった。

同時並行で鷗外の生涯を知ることが出来るような講義を受けていた。そこで鷗外が好きになった。この人は秀才でありながら、コンプレックスの塊であったからだ。自然と僕に重なった。

そして『ヰタ・セクスアリス』が取り扱うテーマは「性」だ。当時の文壇において全盛期を迎えていた自然主義文学。その「露骨」な表現が評価されていた。

鷗外はそれを疑問に思う。人生とは性が発動機になっているのかと。

その疑問を解決する策が『ヰタ・セクスアリス』だった。

ここで文学談義を展開するつもりはない。ただ『ヰタ・セクスアリス』は鷗外のコンプレックスが凝縮されている。そう感じた。

そして鷗外が求めた解決方法は僕にも有効である、そう思った、それだけ。

 

森鷗外という男

ここまで読んだ人には鷗外は「コンプレックスの塊」という印象だけを与えてしまっているに違いない。でもそれは間違いであるとは思わない。

コンプレックスに苛まれる人間が陸軍軍医総監・医学博士・文学博士になり得ただろうか。いや、コンプレックスに苛まれたからこそ、彼はその地位を得た。

実際『ヰタ・セクスアリス』の主人公と鷗外の経歴の照応は諸家によって指摘されているところではあるが、肝心の「性」に関しては鷗外は主人公の逆を生きている。

どういう意味なのかは読んでからのお楽しみに。

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終わりに

なぜか簡単な書評みたいになってしまった。要は卒論ダルいですって話、以上。

初エントリ。

ブログという物を始める。

 

はじめに

ID登録やら設定やらを終えて疲れ果てている中でこの文章を書く。

「PC版のが便利じゃん。」とは思いながらも、どこでもいつでも書けるというアプリ版で今後は書いていこう。

 

何を書くか

特に限定するつもりはない。好きなことを書いていきたい。

でも多分ファッション中心になるのだと思う。基本は備忘録で、あとは経年変化だったり雑感だったり。

好き勝手やってみよう、最近流行りの「大義」なんてない。

 

まとめ

そのうち方向性は定まるだろうけれども、適当にやっていこう、テキトーに。