わたしの閾(いき)

映像業界。あまり元気じゃありません。ブログタイトルは保坂和志さんの小説『この人の閾』から。

ラブレターを伝えてきた

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2019年8月6日。

原爆が落ちた日か。

 

先日ラブレターを言葉で伝えるためにパートナーの実家まで行ってきた。

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高速のサービスエリアはお盆前なのに結構な人出で、梅雨明けを待っていた多くの人が旅行への期待でそわそわしながらごった返していた。

 

僕たちはパートナーの実家のある山の奥に向かった。
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前の話の続き。

 

僕の父は台風の目だった。離婚してとっくの昔に他人になったはずなのに、何かにつけてこちらの家族に干渉してきて、その度に家の中の空気が荒れる。過去の不満や恨みつらみが噴出し、泣く者、怒鳴る者など続出する。父はそうなることが想像できない人格らしいし、なんだったら良かれとも思って連絡をよこしてきている節すらある。

僕は幼かったせいか、父の狼藉をほかの家族ほど受けていない。そもそも記憶が断片的にしか残っておらず、怖くて面倒くさい存在であり、家族の敵だと教え込まれた印象のまま今に至っている。台風が沖から連絡をよこして家がガチャガチャしているとき、僕は父と母たちのどちらの側にもつきたくないと思って押し黙って過ごすことが多かった。もちろん、美しくて感謝してもしきれない家族の思い出はたくさんある。でも、僕にとっての家族というもののイメージには、色濃く台風の光景が焼き付いていて、あの台風の血が自分にも流れている事実が、頭を重く鈍くするのだ。父と僕が似ている部分は注意深く見つけて、そこに新しい行動規律を設計し人格を修正していく。参ったことに、今の僕の人格は、そんな無計画な増改築を繰り返し、幾重にも重ね塗りした産物なのだ。

 

この数日、そんなことを考えながら過ごしていた。何度考えてみても情けない自分しかここにはいない。頼りないことこの上ない。

でも、とりあえず伝えたのだ。とにかく、あなた方の娘さんはいつでも弱い者の立場に立って優しく出来る人だと。お互い抱えたややこしい人生の経緯や悩みをなんでも話すことができること、それが何より尊いこと。だから、この先長い時間を一緒に過ごせる、過ごしたいんだと。

練りに練った台本では決してなく、たくさん考えて結果これ以上でも以下でもない、混じり気の少ないの言葉が、たどたどしく出てきた。

 

結果は無事に許してもらえた。そこからはもうとにかく飲んで食べて話をした。

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ちゃぶ台と上に並んだおもてなしの料理たちに囲まれて、ご両親が仲良く飲み食いしている姿を見たら、不意にぐっと目頭が熱くなってきた。幸せなんだけど、とっても遠くにあって、それを覗き込んでいるような感覚。僕はすぐに気を緩めることができなくて、薄い壁を作ったままいる。なんで自分が泣いたのか、今でもよくわからない。

そして、そういうときほど、僕は聞かれてもいないことをベラベラ話し、お酒を飲んでしまう。とても飲み過ぎてしまった。反省。

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ラブレターが書き終わらない

 

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2019年の8月。

 

僕のしがない三十数年の間でラブレターなど書いたことは一度もなかった。もっと言えば、実に男らしくその手の行為からまっすぐ逃げてきたつもりだった。

 

でも事情が変わった。

恥ずかしながら書いてみたくなった。

 

心変わりの理由は結婚である。今の僕は、夜な夜な婚姻届の書き方を勉強し、週末には先方のご実家を訪ねて、お義父さんに例のやつを言う儀式を控えている身なのだ。

例のやつ。あんなことを言う日がまさか自分にもやってくるとは。すでに相手のご両親とは一度お会いしているので、実はあまり緊張はないのだけど、これは自分の悪い癖かもしれないが、僕は妙に意気込んでしまっているのだ。この儀式で自分は、自分の人生のけじめをつけないといけない、パートナーとその家族に一生愛していくと伝えねばならない、と。手紙にするにしろしないにしろ、こういった純粋に思いを伝えるものが世に言うラブレターなのではないかと思った。発想が重い。言うまでもなく、結婚への向き合い方には人によって多種多様だ。だが僕の場合は、どうも気軽なものではないらしい。披露宴会場で涙ながらに親に語ったりはできないだろう。「こんなこと思うもんなんだな自分は。」と気づき、自分の根深いところの複雑さに、少しかわいそうに思う。だから僕のラブレターはきっと、射程が広く、悪く言えばなんともぼんやりとしたものになるだろう。

 

放っておくと際限なくて頭は働いて考えがブツ切れになりまとまらない。スーツはどこにあったっけ、手土産は何が喜ばれるのかな、お仏壇に供えるなら日持ちする方がいいな。新しく住む物件はいつ決めることができるんだろう。本籍地どこにしたらいいんだ。転勤族だからか場所に思い入れがないんだよな。あー、お義父さんのお気に入りのウィスキーを買い忘れた…。

 

僕には父がいなかった。正確には僕が小学校高学年のときに両親は離婚している。父は酒に借金に女に暴力と、男の悪いところのバーゲンセールみたい人だったと聞いている。両親の関係はもつれにもつれたので、今、父の話題が家族の中で上がることはほぼない。

頭の上っ面をいくつもの考えがするすると滑り流れていき、そのどれもがこれからの未来のことで美しく堅実だ。でもそのきらきらした流れの奥底で滞留してるいろいろな気持ちや思い出があることに、改めて気づくことが最近多い。有り体に言って、家庭というものがよくわからない。ほんの少しだが不安だ。いい夫、いい父に、僕は絶対になると自分に言い聞かせる日々。自分が守れる範囲を見極めて、粛々とすべきことをこなしていく。こんな宣言で人の子をもらうことなんて出来るんだろうか。

 

つくづく要推敲だ。

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