おっさんの外部記憶装置

40代おじさんのブログ

ステレオタイプ

どうも、おっさんです。

 

前回の

 

nicolarossi.hatenablog.com

記事で、「視野の広さ」とは”知ろうとしている状態”のことで、その状態はエネルギーが大きい場所で発生しているのだから、視野の広い(主体的な)人は少数派になるということを話しました。

 

でも、多数派の受動的な人でも新たなことを知ることができるし、”知ろうとしている状態”になっているんじゃないの?とも感じると思います。

 

新しいことを知ることができないなんてことはないだろ、と。

 

その辺りをステレオタイプの話から考えてみたいと思います。

 

 

ステレオタイプとは

 

多くの人に浸透している先入観、思い込み、認識、固定観念、レッテル、偏見、差別などの類型化された観念

 

のこと、とあります。

まぁ、一般的な概念なので知っている人が多いと思いますが、ここではステレオタイプ自体の詳しい説明はしないので各自で確認してください。

 

ステレオタイプは強弱として存在しているので、ほとんどの人は多かれ少なかれステレオタイプな面を持っていることになります。

 

「あいつはステレオタイプな奴だ」という場合は”ステレオタイプが強い”ということを指していて、ステレオタイプの有る無しではないということを理解する必要があります。つまり、0か1かではないということで、これも「陰陽」の話ですよね?

 

で、ここで話したいのはステレオタイプが何故多くの人に起こっているのかということですが、これはステレオタイプの”メリット”を見るとわかります。

 

ステレオタイプは”類型化された観念”とあるように、物事をカテゴライズして捉えることにより情報を簡略化することができます。そうすることで、状況判断を即座に行い瞬時に行動できるようになるということです。

 

加えて、情報量を抑えることができるので処理にかかるエネルギーを抑えることや、記憶量が減らせるのでその分を他に回すことができることにもなります。

 

しかし、情報を簡略化したり情報量を抑えたりするということは、物事に対しての情報が足りない場面も発生するので、それがデメリットである先入観や思い込みなどに繋がってしまうというわけですね。

 

その物事が簡単なことなら問題ないことがほとんどでしょうが、複雑になるほど情報が足りない部分が大きくなって間違った判断をしてしまうことになります。

 

つまり、ステレオタイプというのは省エネルギーであるほど起こりやすいということです。

 

 

ここで、私がこれまで書いてきた話と繋がります。

 

ステレオタイプは簡略化された情報でしか物事を捉えることができないので、本当は新たな物事に出会っているのに、それを「新しいこと」と認識することが難しいです。

 

例えば、ロードバイクに乗り始めても上達せずに辞めていく人がいるのは、ロードバイクを「新しいこと」と認識できている人が少ないからで、「ロードバイク=ママチャリ」というカテゴライズが脳内で起きていて、ママチャリの乗り方でどうにかしようとしてしまい、上手くいかないまま辞めてしまうというようなことです。(全員という話ではないです)

 

省エネルギーであるほど起こりやすいということは、その物事を認識する時にエネルギーをなるべく使いたくないということになるのですが、その理由としては

 

・他のことにエネルギーを使いたい(使っている)

・そもそものエネルギー量が少ない

 

だいたいこういうことですよね?

他のことにエネルギーを使いたいというのは、他のことに意識が行っている状態のことで、これまで書いてきたように「承認欲求」によって”自分が他人にどう評価されるか”という部分にエネルギーが使われているとか、単にその人が興味がある別のことに対してエネルギーが使われていて、興味がないことにはエネルギーが使われないということですし、そもそものエネルギー量が少ないというのは、正規分布で話してきた通りです。

 

ステレオタイプな人の特徴として紹介されているものを見てみると

 

・自分に自信や信念がなく思い込みが強い

・一般的なことを好む傾向がある

・多数派を選びがち

 

というものがあります。

つまり、「普通の人」ってことですよね?

 

 

脳は繰り返し行われたことほどよく反応するようになっているのですが、ステレオタイプはカテゴライズすることによって、なるべく省エネルギーで思考行動をしようとしているので、脳の反応が「カテゴライズ」を基本にされているということになります。

 

その場合、何かを見たり聞いたりしたときにその物事をまず「カテゴライズ」するわけですが、それは既に脳内にある情報に対して”紐付け”するということです。

 

ということは、その物事を「新たなこと」として記憶するのではなく、既に知っていることとして捉えることになりますよね?

 

これが

 

”自分の知識の中でしか思考できない”

(知ろうとしている状態ではない)

 

ということです。

 

なので、流れているエネルギーが小さい場所ほど「カテゴライズ」が発生しやすくなり、新たなことを知ることができない状態になると考えられます。

 

これを防ぐにはなるべく「カテゴライズ」をやめるということが必要になるのですが、そうすると情報量が多くなってしまい、エネルギーが小さい場所では処理しきれなくなってしまう可能性がありますし、そもそもエネルギーが小さいから「カテゴライズ」という手法が取られているのだから、それは必然であって変えることが困難な部分だということになります。

 

 

これらのことから、エネルギーが大きい場所ほど”知ろうとしている状態”になりやすく、エネルギーが小さい場所ほどそうなりにくいということがわかります。

 

普通の人が知っていることというのは「普通のこと」なので、それ以上のことを知ろうとする場合は普通の人以上のエネルギーが必要ということになりますが、そのエネルギーが流れている場所は少ないので全体の少数しか受け取れません。(正規分布

 

なので、”知ろうとしている状態”の人は少数派になるわけです。

 

全体のエネルギーが拡散することによってその大小が形成されているので、個人の努力や誰かの思惑によってそれを変化させることはできず、ただそういうエネルギーがお互いに影響し合って目の前にあらわれているだけだということになります。

視野の広さ

どうも、おっさんです。

 

前回の

 

nicolarossi.hatenablog.com

記事で「視野の広さ」の話をしたのですが、これを掘り下げてみます。

 

「視野が広い」とは、思考や知識の幅が広い状態のことを一般的には言うようですが、では知識がなければ「視野が狭い」と言えるのかというと、そうではないと私は考えます。

 

何故かというと、幅広い知識があるとしてもその知識の中でしか思考できなければ、その知識以上の思考は生まれないからです。その状態では思考に限りが生まれてしまうわけですね。

 

思考に限りがあるということは「新たなことを知ることができない」ことになり、結局「視野が狭い」状態になってしまいますよね?

 

つまり、「視野が広い」というのは知識の広さや量に関係なく、単純にその人が

 

”知ろうとしている状態”

 

だということになります。

知ろうとした結果、知識の幅や量が増えるだけのことですね。

 

これは、「無知の知」の話で”知らないことを知っている”状態のことなので、大昔から言われていて珍しい話ではないのですが、ほとんどの人はこれをよくわかっていません。

 

よくわかっていないから悪いという話ではなくて、大昔から言われていることなのに何故ほとんどの人はこれを理解することが難しいのか?ということを考えなければいけませんよね?

 

そもそも、”知ろうとしている状態”とは「主体的」のことなので、正規分布で考えるとその状態の人は少数派になります。多数派の「受動的」な人は知ろうとしている状態ではない、あるいはその状態になることが難しいということです。

 

で、「主体的」なのはエネルギーが大きいから主体的なのであって、”知ろうとしている状態”とはエネルギーが大きい状態と言えます。

 

エネルギーは局所的に発生して個別に作用しているのではなく、まず全体のエネルギーがあってそれが分散しているだけなので、正規分布で見られるように大きなエネルギーが流れる場所は少なく、その大きなエネルギーのある場所でしか”知ろうとしている状態”は発生しないので、その状態にある人が少数派なのは必然になります。

 

 

このように、「視野の広さ」という事柄を見てみても、全体のエネルギーの中でのバランスによって成り立っているということがわかるのですが、前回の「コラテラルダメージ」や「陰陽」もそういうバランスの話で、絶対的に「良い状態」というのは存在しないということになります。

 

これらは全て繋がっていて、その本質がどこにあるのかを考えてみると、全体のエネルギーがただ拡散しているだけだということになります。

コラテラルダメージ

どうも、おっさんです。

 

タイトルの「コラテラルダメージ」は直訳すると「副次的な被害」で、「戦時の民間人被害」や「政治的にやむを得ない犠牲」という意味もあります。

 

前回の

 

nicolarossi.hatenablog.com

記事で書きましたが、「主体的な人が行動すると受動的な人に対して害になることもある」という話と本質的には同じです。

 

これは「陰陽」のことで、すべての物事には陰と陽があって、この二つがバランスを保ちながら成立しているという考え方ですね。

 

正規分布でも書きましたが、

 

nicolarossi.hatenablog.com

元は一つのエネルギーが分散して分かれているだけなので、陰と陽はお互いに相互作用しながら成立しているわけです。

 

元のエネルギーを「100」だとすると二つに分かれれば「50:50」になるのですが、常に均衡しているのではなく「60:40」だったり「30:70」だったり変化していて、それを「50:50」に向かって引き合っている状態と言えます。

 

正規分布で平均値付近に分布が多くなるのもこの理屈が当てはまります。

 

コラテラルダメージの「やむを得ない犠牲」という部分だけを見ると、一般的には受け入れがたい事象のように感じる人が多いと思うのですが、物事には「陰陽」があってそのバランスの上で成り立っているという事実は変えられないということです。

 

 

例えば、先の能登半島地震自主避難先への物資運搬を取りやめると輪島市は決定したのですが、これは人員の配置の問題でリソースが足りなくなったことへの対処です。

 

しかし、当の避難者からすれば「切り捨て」にも見えるわけで、実際インタビューに答えた当事者はそう言っていました。

 

限られたリソース(エネルギー)をどう振り分けるかは行政しか判断できないし、そのリソース自体を一般人は把握していないわけなので、ただ切り捨てられたようにしか見えないということです。

 

簡単に言うと、視野が広いか狭いかという話で。

 

 

別の例え話をしましょう。

 

「オアシス」というイギリスのバンドがあるのですが、主要メンバーのギャラガー兄弟の喧嘩によって解散したと言われています。二人とも口が悪く、他のバンドに対して喧嘩を売るような言動をしたりして、まわりからも良くは思われていなかったような存在でした。

 

しかし、生み出す音楽は最高です。

一般的には「楽曲は最高なのだから暴言や素行を直せばもっと良いのに」と思う人は多いでしょう。

 

が、それはありえないと私は考えます。

暴言を吐かず素行の良い人から「オアシス」は生まれません。

すべての原因を含めての結果だからです。

 

ギャラガー兄弟は労働者階級の出身で、兄のノエル・ギャラガーは「最近の労働者階級の若者からは労働者階級を代弁するような声が出てこない」と嘆いたりしていますが、オアシスが活躍した当時とは状況が変わっているのでしょうね。

 

一般的には階級社会と聞いてあまり良い印象を持たないでしょう。そういうのは無い方が良いと考える人が多いと思います。

 

でも、「オアシス」が出てきたのはそういう背景があったからです。

 

 

これらの話は「コラテラルダメージ」と言えますし、物事は陰陽で構成されていて「陰だけ」「陽だけ」という状態は存在しないということです。

 

ところが、一般的には「良いことしかない完璧な状態があるはず」と信じている人が多いので、行動して知ろうとすることのない受動的な普通の人は、現状に不満を持つことが多くなるというわけですね。

独自規格

どうも、おっさんです。

 

主体的か受動的かの話なんですが、これまで書いてきた通りに正規分布によって多数派が「受動的」、少数派が「主体的」になるようになっているわけです。

 

主体的な人は受動的である多数派(普通の人)よりも大きいエネルギーがある為、普通の人より行動的であるということですね。普通の人とは思考行動が違っているから行動的であって、普通の人とは違う行動をするわけです。

 

つまり、普通の人が理解しにくいことをするということでもあるし、普通の人にとっては「害」になる可能性も含んでいるということです。

 

その行動の結果、主体的な人は新たなものを生み出す可能性もあって、それが受動的な人にとって良い影響だったり悪い影響だったりを与えることもある。

 

受動的な普通の人は、新たなものを生み出しにくい行動しかしないわけですから(だから普通なわけです)、世の中に良くも悪くも変化を与える可能性が高いのは行動をする主体的な人の方だということになります。

 

 

例えば、AppleiPhoneはこれまでLightningコネクタを通信充電端子として使用してきましたが、新しいiPhone15からUSB-Cに変更しました。

 

これは欧州連合が電子機器類の充電方法をUSB-Cに義務付ける決定をし、独自規格を排除することを「正」としたからです。従わなければ欧州でiPhoneを販売できません。

 

多くの一般の消費者も歓迎していて、これらの反応を見ても受動的な側(多数派)が主体的な側(少数派)に対して「誤」と認識しているのがわかると思います。

 

Apple欧州連合の決定に対して「イノベーションを阻害する恐れがある」と反発しているのですが、受動的な人にはこれの意味が理解できないわけですね。

 

ちなみに、Lightningコネクタは2012年に登場し、USB-Cは2014年策定なのでコンパクトなリバーシブルコネクタとしてはLightningの方が先です。

 

日本で言うとSONYが独自規格路線ですね。メモリースティックなんかも散々な言われようでしたが、SDカードよりメモリースティックの方が先です。

 

 

このように、新たなものを生み出しやすい主体的な人が先行して行動するのですが、それを受動的な人が引き戻す行動をしているので、世の中の進みはゆっくりになるわけですね。

 

これらが全体のバランスから生まれる状態なのですが、何故か多数派の受動的な人たちはこの世の中に不満を感じることが多いということになっています。

なぜ不平を言うのか?

どうも、おっさんです。

 

「”暗い”と不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう」

 

というカトリック教会が提供するラジオ番組のキャッチコピーがあるんですが、これを聞いて”そうだよな”と思う人は多いんじゃないかと思います。教会側もこれが広がれば良い世の中になるという考えがあるでしょう。

 

しかし、前回の記事

 

nicolarossi.hatenablog.com

で、世の中が良くなるような行動を起こしている人は少ないし、それはそもそもそういうエネルギーがないからそうなっているということを書きました。

 

「不平を言う前に行動しましょう」というのと、「良くならないのは良くなるような行動をしていないからだ」というのは、本質的には同じことを言っています。

 

暗かったら、不平不満を言うよりも自分で明りを点ければいいってことなんですが、これをそのまま受け取ると「ほとんどの人はできること」だから”できるだろう”と勘違いしてしまいます。

 

どういうことかというと、そもそも「不平」というのは”自分で解決できないから”起こることで、暗いなと思って明りを点けられる人は”自分で解決できるから”不平が起こらないということなんです。

 

つまり、「不平を言う前に行動する」のではなくて、そもそも自ら行動している人は不平が起こりにくいということです。

 

これを私は「そういうエネルギーがない」と言っています。

 

ということは、”暗い”と不平を言っている人は「あかりをつけることができない人」なので、その人に「あかりをつけましょう」と言ってもつけられないのだから、一生解決しないわけです。

 

多くの人は自分ができないことに気付いていないということになります。

 

 

私はゲームをするのが好きなのですが、ポケットモンスターの最新作「スカーレット・バイオレット」でポケモンを預ける為の”ボックス”という機能があって、そのボックスを開くと横6×縦5の計30体のポケモンが表示されます。

 

最新作はオープンワールドになったり、その辺を多くのポケモンが歩き回っていたりするので、かなり処理が重く動作が不安定な場面があります。その所為でボックスを開いた時の動作も重くなり、ボックス内のポケモンの表示がもたつくこともあります。

 

私は、それがそんなに気にならなかったのですが、一般的には不満の声が大きかったのでしょう、有料の追加コンテンツの配信に合わせてのバージョンアップで、ボックスの表示速度が改善してほぼパッと表示されるようになりました。

 

ネットで反応を見てみると、発売から10ヶ月程度経ってからの改善だったので「今更遅い、もっと早くやれ」とか、「技術力がないからだ」とか言われていました。

 

当初、Switchの性能が低いからボックス表示が遅くても仕方ないと擁護の声もあったので、それが改善したのだから「やっぱり技術の問題じゃないか」という反応です。

 

実は、私はこの改善があった時に、ボックスの表示速度が速くなっていることに気付きませんでした。

 

それは、そもそもボックスの表示速度にそれほど不満がなかったからというのもあるのですが、はじめは別の部分が変わっていることに気付いたからです。

 

バージョンアップ後、初めにボックスを開いた時に「あれ?なんか表示ぼやけてない?」「モニターの設定なんか変わったかな?」と思ったのですが、その後にボックスを切り替えながら見ていると表示が速くなっていることに気付いたんです。

 

1.ボックス内のポケモンのアイコンがぼやけている

2.ボックスの表示速度が速くなっている

 

つまり、ボックスの表示速度を改善する為にアイコンの解像度を下げた結果、表示がぼやけて見えているということなんですね。

 

ちなみに、この表示がぼやけたことは携帯モードで本体の画面で見ている分にはほぼ気にならないですし、それから時間が経った今は違いがわからなくなりましたが、TVモードでモニターに表示しているとぼやけているのが今でもわかります。

 

開発陣は、みんなが不満に思っているボックスの表示速度を上げる為に、この”ぼやけ”を許容してアイコンの解像度を下げることにしたというわけです。

 

私は、ボックスの表示速度にそれほど不満がなかったので、このぼやけたアイコン表示に違和感があるのですが、一般的にはこの”ぼやけ”は気にならないのでしょうし、ネットの反応を見てみても解像度が下がったことに気付いている人はほとんどいないので、これが世間一般の正解なのでしょう。

 

TVモードは1080pで表示されているわけですが、アイコンがぼやけているということはそれ以下の解像度になっているということです。本来の解像度で表示すると多少のもたつきが発生してしまうのだから、もたつきがない状態が正義なのであれば、Switchにはその能力がないということになるわけですね。

 

で、「開発の技術力の問題」でボックスの表示速度が遅かったわけではなく、やっぱりSwitchの能力が低いことに原因があったということは変わりないので、「技術力の問題だ」と言っている人は”よくわかっていない”ということになります。

 

 

こういう話は一例で、世の中ではこういうことが基本的にあちこちで起こっているわけですが、何かを作り出している人というのは「行動している人」で、その行動により生み出されたものを受け取っている側がいるわけですよね?

 

私がよく言う「主体的」「受動的」の話なんですが、そもそも「主体的」な人というのは集団の中で少数派なんですよ。「受動的」な人の方が圧倒的に多数派で世の中はその多数派に引っ張られるので、結果的に生み出していない側が生み出している側に要求するという構図になります。

 

何かを生み出すという行為は、その生み出されたものの過程をある程度は理解しているという事実があります。逆に、それを受け取っている側というのは、できたとしても表面的なことを浅くしか理解することができません。よくわかっていないということです。

 

なので、行動することで理解が深まるのだから「行動しましょう」と言うわけですが、行動できる主体的な人は集団の中で少数派なので、結局は多数派である受動的な人の意見が世間では正しいと認識されがちなんですね。(正規分布なので変えようがない)

 

「”暗い”と不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう」

 

あかりをつけられないから暗いと不平を言うしかないわけです。

 

何故あかりをつけられないのかというと、あかりのつけかたがわからないからなので、”すすんであかりをつけましょう”と言われてもできないんですよね。

なぜ世の中は良くならないのか?

どうも、おっさんです。

 

前回の

nicolarossi.hatenablog.com

 

記事で、「世の中は”普通”を中心に進んで行く」と書きましたが、

 

「え?そんなことないだろ」

 

と、普通の人たちは感じると思います。これは、「権力を持っている人たちが勝手にやっている」と漠然と考えている人が多いからです。

 

なので、「なぜ世の中は良くならないのか?」と思っている人たちは、単純に「権力者が悪い」という答えしか持っていません。

 

で、その権力者を国民の力でなんとかしようとしますが、なんともならないのでまた「なぜ世の中は良くならないのか?」とループしてしまいます。

 

これの答えは「なぜ世の中は良くならないのか?」で検索すればすぐに出てきます。

 

「なぜ良くならないのか?と考えるだけで、その良くなるような行動を起こしていないからだ。」

 

ということです。

「世の中は”普通”を中心に進んで行く」という意味がわかると思います。

 

「普通」は世の中の構成要素で一番多いので、その人たちの思考行動が世の中(集団)の進んで行く方向に一番影響を与えているわけですね。

 

これはもちろん政治にもその影響は出るのですが、普通の人たちは「権力者が勝手にやっている」と思い込んでいるので、自分たちに要因があるとは思わないわけです。

 

多くの場合、「世の中が良くなるような行動」で一番はじめに思いつくのが

 

”選挙へ行く”

 

ということなのですが、これで良くなるかと言うと怪しいですよね?

これは薄々気付いている人が多いので、投票率も低いわけです。

 

また「なぜ世の中は良くならないのか?」となりましたね?

 

 

日本では十数年前に政権交代が起きているわけですが、その政権は短期間で破綻しています。その政権交代を起こした有権者は「騙された」と言っていました。

 

「騙された」とはどういうことでしょうか?

その政権は騙すどころか、以前の政権よりも能力がなかっただけです。

よくわかっていない政権をよくわかっていない人たちが選んだだけですね。

 

つまり、政治がなんなのか?世の中はどう動いているのか?「よくわかっていない」から「騙された」と他人の所為にすることしかできないのです。

 

よくわかっていないのに「権力者が悪い」と思い込んでいるわけですね。

 

 

政権に期待することで国民の声が一番多いのが「経済」ですが、経済のことをよくわかっていないのに、やっていることの良し悪しなんてわかるはずがないですよね?

 

「物価が上がっているのに給料が上がらないのはおかしい!政府の所為だ!」

 

政府に責任がないとは思いませんが、そもそもその政府を選んでいるのは国民だし、経済のことをよくわかっていない人たちの選んだ政府なわけですから、自分たちの所為でもあるということです。

 

でも、これにほとんどの人は気付かない。

 

「その国の政治のレベルは国民のレベルと同じ」と言われるのですが、これを素直に受け入れられる人は少ないです。

 

よくわかっていないのに「自分が正しい」と思い込んでいるので、「政府(政治家)はバカだ」という漠然とした感覚しか持てないわけです。

 

 

「その政府を選んだのは国民だ」と言われると、自分はその政治家(政党)に投票していないから自分は選んでいないと返す人がいますが、ここで言う「国民」とはその集団全体のことで、投票したかしてないかは関係ないです。

 

正規分布

nicolarossi.hatenablog.com

 

の記事で書きましたが、その集団の全体のエネルギーが正規分布という形であらわれるのは、局所的にエネルギーが発生してそれぞれ個別に作用してるのではなく、まずは全体のエネルギーがあってそれが分散しているからです。

 

で、その分散したエネルギーは平均値付近に多く集積するから綺麗な山の形をしているわけですね。全体のバランスによって成り立っているということです。

 

そのバランスの中に自分は存在しているわけですから、投票したとかしてないとか関係なく存在自体が影響しているという事実があるだけです。投票行為だけを見ているので、影響していないように感じるだけですね。

 

 

例えば、極端な例になりますが国民が経済にめちゃくちゃ詳しい人ばかりだったとします。そういう国民から生まれる政治家って経済に詳しい可能性が上がりますよね?

 

野球の大谷選手のように、日本人から野球の世界的な選手が出てくるのって、日本人に野球好きが多いことが影響していますよね?

 

しかし、これは誰かが操作することは難しく、日本人が元々影響を受けているエネルギー(環境)に依存しているので、それぞれ個人が気付かない限り変えることが困難な部分です。

 

なので、「世の中が良くならないのは良くなるような行動をしていないからだ」という指摘は間違ってはいないけれど、ほとんどの人はその指摘を受けても素直に自分を改めようとは思わないわけですね。(そもそもそういうエネルギーがない)

 

 

まず全体のエネルギーがあってそれが分散しているだけなので、そもそもの土台である全体のエネルギーに変化がなければ変わりようがないという話です。

平均値

どうも、おっさんです。

 

前回、前々回と

nicolarossi.hatenablog.com

nicolarossi.hatenablog.com

 

正規分布に関して書いてきましたが、ある集団である評価軸の統計をとると平均値が一番多く、プラス方向とマイナス方向に少なくなっていくということがわかると思います。

 

この一番多い平均値付近に集積している六割程度のことを、その集団の中では

 

「普通」

 

と認識します。

誰かが決めているわけではなく自然にです。

 

さらに、その普通から見てプラス方向を「優」、マイナス方向を「劣」と認識するわけですね。で、普通から見ると優も劣も少数派なので、基本的に世の中は「普通」を中心に進んで行きます。

 

もちろん、少数派にも配慮するということが良いことだとされているので、ある程度の配慮はされるのですが中心は「普通」になっています。

 

これは、消極的な配慮なのですが、なぜ消極的なのかというとそもそもの認識として普通が多数派なので、それを「正しい」と思い込んでしまっているからなんですね。

 

正しい状態にない人に配慮しなければならない理由がわからないという状態です。

 

正規分布で見ると、普通と認識される割合は決まっていて、そこから外れる人がいる割合も決まっているわけですが、その割合の違いを「努力」による違いだと勘違いしているからです。

 

正しい状態にないのは「努力していないからだ」

 

という認識なので、消極的になってしまうということですね。

 

 

例えば、人間の個体別の適正な労働時間が計れるとして、その統計をとると正規分布になるはずです。仮に平均値が1日8時間だとすると、分布は平均値が一番多くてそこからプラスとマイナスに少なくなっていくことになります。

 

現実問題で、8時間労働が難しいという人は存在しているのですが、普通から見るとそれは「怠けている」とか「努力していない」とか認識されるわけですね。

 

しかし、基本的に1日8時間労働が基準として定められているので、そこから外れる人はその基準に合わせなくてはいけなくなります。プラスの人は良いですが、マイナスの人は負荷が多くかかることになるので、何かしらの不具合が出る可能性が高くなります。

 

プラスの人は良いとしましたが、時間外労働も基準を超えてすることができないので、働けるのに働けないという状況になりますし、企業側から見ても労働力があるのにそれを使うことができないという状況も生まれます。

 

その労働力が社会的にも必要とされているほど、それを制限すると混乱が生じるのは必然なわけです。

 

つまり、平均値を基準として物事を決めてしまうと、何らかの不具合が生じることになるということですね。

 

ちなみに、「普通」と認識されている中でもプラスとマイナスはもちろん存在しているのですが、その人たちは平均値に合わせることができる許容範囲内だということもわかりますね。(それを普通と認識するようになっている)

 

許容範囲なので、マイナス側で範囲ギリギリの人ほど合わせるのがしんどくなりますが、許容範囲なのでなんとかなってしまうわけです。

 

 

本当は人それぞれ違うのに、平均値に合わせることを強要しているのでおかしくなるのは当たり前という話なんですが、平均値に達していないのは努力が足りないからだという思い込みが無くならない限り解消しないでしょうね。