テイルズ・オブ・ヴェスペリア

すげー、テイルズなのに恋愛要素ほぼゼロの上に主人公がダークヒーロー。

帝国という管理社会の秩序維持のための騎士団に、社会変革の意思を持って親友とともに入団したが、法や規則の硬直性に嫌気が差し騎士団をやめて下町の用心棒をやっている青年が主人公。
しかも「正義を貫き通すRPG」の二つ名のとおり、腐敗した政治家が法の裁きを逃れたのを見て即座に必殺仕事人張りに暗殺、騎士団の幹部がその権力をかさに来て町を支配していたら流砂に落とし暗殺。
そがを親友にばれその独善性を非難されるも、その親友が組織の中で出生した結果、年を武力制圧するなどの仕事をやらされているのを見て口論。親友に「僕も殺すのか」と問われ即座に「悪党ならな」と返す。下町のトラブルを解決するた旅の途中で、帝国を飛び出したアウトローたちの集団「ギルド」に出会い、その覚悟にひかれる。
そのギルドの内紛とか最早任侠の世界。ボスは責任とって切腹、しかも主人公は介錯までやっちゃう。そのボスの死んだ原因の陰謀の実行者の悪役も、その偉大さをしのんで私人として悼む。

しかし、世界を脅かす敵は結局魔導器という科学を使いすぎた結果もたらされる災厄である星食みであり、ラスボスは自然破壊する人間とかみんなころしちゃえ☆な元英雄。チープ。
序盤〜中盤の任侠が面白かっただけに少し残念。

昴 曽田正人

何度も読み返してしまう作品というものが誰にでもあるだろう。
この昴は私にとってのその一作品である。

はっきり言って、私はこの作品が好悪・快不快で言えば悪、不快に感じる部類に入る部類の作品だと感じている。
主人公は自己陶酔で動くカスみたいな人間性で、他者に興味がなくて、でも魅力があって人をひきつけて……なんて女いたら私は多分殴る。
でも、彼女は天才なんだそうだ。「天才を描きたい」曽田正人は彼女を気に入っているそうだ。

じゃあ私の感想は一言に尽きる。「あー、天才に生まれなくて良かった」なんだな、これが。
よく言われることだし、作中でも述べられているが、「天才は自分の意思とは関係なくなんらかの超意思によって動かされている」そうだ。
そしてそれを自覚するそうだ。確かにイチローとかそんな印象を受ける。

でもそれって楽しいのだろうか。気持ちいいらしいが、どれくらい?
それは仲間とニコニコみて笑ってる瞬間とどっちが楽しいんだろう。

ああ、そうだ。天才じゃないから自由に生きていける。
どうみてもイチローより新庄の方が人生楽しそうだ。
だから夢見るのは、そんな天才ですら強迫観念から自由になれる、そんな世界。

東浩紀の政治的立場とセカイ系について

「思想地図」シンポジウム@東工大 1/22

論者:東浩紀北田暁大萱野稔人白井聡中島岳志(以下すべて敬称略)

行ってきた。
私は恐らく、宇野の言う「東浩紀劣化コピー」なんじゃないかと思うほど東浩紀にシンパシーを感じてしまう。
シンポジウム前の東浩紀のブログにおける政治的立場についての文章に快哉を叫んだ、まさにその通りだ、と。

総選挙とか内閣支持率とか派閥とか、そういう話にまったく関心がもてない。ずいぶん金使ってお祭りやっているなあ、としか思わない(そういうシニカルさこそが問題なのだというひとがいるのは知っているが、しかし、なぜひとはある時代ある場所に生まれたというだけで、その時代の「政治」的参加のコードを全面的に受け入れねばならないのか、それもよくわからない)
東浩紀http://www.hirokiazuma.com/archives/000362.html

東はぶっちゃけ議会制民主主義のオルタナティブが必要なんじゃないかと語っていたのだけれど、私もそう考える。

 なぜならその「社会」は既に不可視なのだから。セカイ系は正しい世界を描いているとすら言えたのだ。
セカイ系とはネットで生まれた概念で、定義は確実に定まっているわけでは無いのだが、狭義には「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』など、抽象的な大問題に直結する作品群のこと」と定義される場合があり、「世界の危機」とは地球規模あるいは宇宙規模の最終戦争や、UFOによる地球侵略戦争などを指し、「具体的な中間項を挟むことなく」とは国家や国際機関、社会やそれに関わる人々がほとんど描写されることなく、主人公たちの行為や危機感がそのまま「世界の危機」にシンクロして描かれることを指す。社会領域に目をつぶって経済や歴史の問題をいっさい描かないセカイ系の諸作品はしばしば批判を浴びている。つまりセカイ系とは「自意識過剰な主人公が、世界や社会のイメージをもてないまま思弁的かつ直感的に『世界の果て』とつながってしまうような想像力」で成立している作品であるとされている。
 ここで私が注目したいのは『国家や国際機関、社会やそれに関わる人々がほとんど描写されることなく、主人公たちの行為や危機感がそのまま「世界の危機」にシンクロして描かれることを指す。社会領域に目をつぶって経済や歴史の問題をいっさい描かないセカイ系の諸作品はしばしば批判を浴びている。』というところだ。
 多くの論者はこうしたセカイ系はアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の影響下で現れた としている。つまりこれらの作品群の発生は1995年だということである。
 この頃から、セカイ系という限定された想像力の中だけでなく現実の日本において投票率がぐっと下がっている。選挙権が20歳以上の男女に与えられた 1946年 から1993年までは安定して70%前後だったのだが、 1996年には小選挙区 59.65 比例区 59.62% と10%近くの低下を見せた。
http://www.promised-factory.com/100years_after/house/turnout-r.htmlより
 これに象徴されるように日本全体(少なくとも若者と呼ばれる世代は)が社会領域への興味を急速に失っていったのは確かに事実である。
 しかし、しかしである。我々の世代がそのことにおいて批判されるいわれは無いのではないかと私は考えている。なぜならば、我々が失ったのは今まで政治的といわれてきた領域のことでしかなく、確かに今まではその領域にコミットすることは政治的だったのだろう。私は今もうすでにそのレベルでの政治自体が意味を減退させつつあるのではないかと考えている。

「政治ってなんだろう? 靖国とか格差とか言ってれば政治なのか? 選挙とか内閣とか? 本当に?」
「ぼくは「政治」という言葉は、個々人の立場表明を意味するのではなく、社会共通の資源のよりよい管理方法を目指す活動を広く意味するべきだと考える。(中略)冷戦崩壊まで、政治は確かにイデオロギー=物語の衝突の場だった。そして、それには現実的意味があった。その時代は、確かにイデオロギー=物語はひ とびとの資源配分の方法を規定していたからだ。そして、イデオロギー=物語の数も極端に少なかった(二つか三つだった)からだ。
しかし、1990年代以降、もはや世界はそのように動いていない(ネオリベラリズムという言葉は、多くの人文系の学者が吐き捨てるように、イデオロギーとしての実質をほとんどもっていない)」
(東浩紀の「渦状言論」http://www.hirokiazuma.com/archives/000362.htmlより引用)

 そう、現状においてイデオロギーはもはや2つや3つどころでなく、人の数だけ存在する。ポストモダンな今の日本ではそもそも一つのイデオロギーが再び支配的になるということを信じるということは(少なくとも我々の世代には)ファンタジーとしか見えない(それを望む人間もいるが現状そうでないことには同意するだろう)。
 そもそも、もはや我々国民が共約できる国益という想像が不可能なのだ。たとえ国民総生産が増えていったとしても高度経済成長期のように誰もがそれに比例した幸福が得られる時代ではない。
 強いて共約できるとするならばテロや災害などのリスクに対する不安でしかない。そんな状況においては『靖国とか格差とか言ってれば政治なのか? 選挙とか内閣とか? 本当に?』という問いが私には圧倒的な共感を持って迫ってくる。
 以上を踏まえてもう一度セカイ系について考えてみる必要がある。
 結論から言うなら、私はセカイ系という試みはすでに(少なくとも我々にとって)中間項としての社会が失われた状況下において如何に生きていくべきかの思考実験なのでは無いか。そしてさらには、創造・想像しようという試みなのではないだろうか。
 狭義の「セカイ系」は「ひきこもり」の想像力だと揶揄されることも多い。「キミと僕」だけの閉ざされたセカイを夢見る。それは誰とも共約できない世界の中で、誰とも衝突することなく生きていきたいという想像力だと私は考える。
 そしてセカイ系は狭義には「キミと僕の恋愛もの」なのだが、定義が見直されてもいて「キミと僕」はセカイ系の一部でしかない、という主張がなされている。
 例えば講談社MOOK「ファウスト」第五号( 講談社 2005年)においてセカイ系とは「世界をコントロールしようという意志」と「成長という観念への拒絶の意志」という二つの根幹概念をもつ作品群であると元長柾木は述べた。
 私は恋愛という概念を中心とせず、しかし「社会領域の方法論的消去」が行なわれている作品もセカイ系と呼んで差し支えないと私も考えている。例えばセカイ系の発生に大きく影響を及ぼした新世紀エヴァンゲリオンがまさにそうだ。
 元長柾木の定義は、理想が分かり合えないのであれば、成長の基準がまさに失われているのであり、ならば成長しろ、大人になれという声は我々には意味不明なものとしてしか聞こえない。つまりRPGの勇者のように段階を踏んでレベルアップしていくような理想の形など既にない。ならば、成長を拒否するというのは当たり前のことであるし(それでも私は去年より成長している、というのは主観的に自分の採用する物語の中においてならありえる)、世界をコントロールしようとする意思というのは現実の話として社会的な中間項を通さずとも我々は世界をカスタマイズできる。例えばインターネットでフィルタリングをすることがまさにそうだし、アップルのiPodはまさにどこでも自分好みの音楽に包まれていることを容易可能にするというコンセプトで生まれている。
 以上を踏まえて、結論を繰り返す。
少なくとも我々にとって中間項としての社会はそもそもすでに無い。
ならばに中間項としての社会が失われた状況下において如何に生きていくべきか、世界はどのようにあるべきか、の思考実験をしなければならない。
 それこそがセカイ系なのだ。
 だから我々はいわゆる社会にコミットしないことを年長者から非難されるいわれもなければ、逆に現状を把握しない愚か者として非難することさえできる。
 我々は、失われた社会のオルタナティブを考えていかねばならないのだ。

ブギーポップについて

くそ。
上遠野浩平特集やってた2005年ファウストvol.5読んだ。
元長柾木パブリック・エネミー・ナンバーワン」に全部いいたいこと言われた。
ファウストの連中、面白いことやりやがって。
乗り遅れた身としては、もう、ルサンチマン

ブギーポップ 沈黙ピラミッド〜記憶への旅路〜

この本のあまり数のない書評には「物語が進んでいない」という批判が散見される。
私もそうは思う。だが、結論から言うならばブギーポップが語ろうとしているのはわれわれの新しい想像力そのもの、それを突破するもの、なのではないだろうか。
それについて上遠野浩平事態が悩んでいるのではなかろうか。

この本のテーマの一つは「記憶」だ。
そこで少し思い出してみたい。めっきり話題にはされなくなったけれど、ブギーポップは、上遠野浩平は古びてなどいない。
むしろブギーポップが時代に後れたことなどないといってもいい。
おそらく「ブギーポップの続き」が提示されたとき、それはブギーポップがその概念の創設の一端を担った「セカイ系」、それに続く「決断主義」を超える何かがライトノベルから再び提出されるときなのではないだろうか。
もちろんすでに散見されてはいるけれども、私が上遠野浩平に期待するのは「突破」だ。
セカイ系」は「大きな物語」の崩壊に対するわれわれの困惑そのものだったし、「決断主義」も正しいものがない中取り合えず戦わなければサバイヴできないというメッセージだとするならばブギーポップセカイ系に対して「みんな一つになろう」という解を示し、その上でそれを否定した。
その絶望の中でも一つになろうの縮小版に過ぎない「キミとボクのセカイ」を解として提出しようとはしなかったし仮に織機綺と谷口正樹の間にセカイを見るにしてもそれは絶対視されていない(後に織機は正樹に依存しない独立した自分の道をも持つ)。

決断主義」的状況においてもただ「バトルロワイヤル」的に戦わなければ死ぬ、というサバイヴは、誰にでもある<業>、自分なりの生きていく意味を「知ることができる者は、世界という虚無、果て無き混沌の中でもあきらめることをしないものなのだ」といったそこに至るための試練(ディシプリン)として描かれる。
加えて述べるなら「決断主義」の一例として使用される「デスノート」の図式は良識を持つとされる月という独裁的な意思によって犯罪者を処罰するが、ブギーポップはそもそも最初から「自動的な」意思であるブギーポップやグローバルネットワークな<帝国>的システムによって世界の敵の可能性のあるものが消されていた。

時代が移り変わるにつれてブギーポップが物語の「悪役」にすら見える立ち位置へずれていったことは、仮に存在そのものが世界になじめず世界に傷を与えても世界を変革しようとする存在を刈り取るという行為を正義と断じることのできなくなった9.11以後には説得力を持つし、「自動的」なブギーポップを出さずに物語を作ろうとしたことも、結局ブギーポップに殺されるほどの異能の才無く、それでも今の社会に不満を持ったり、ずれてしまったりする、ブギーポップを読んでいるであろう(また作者もあるいはその自覚があるかもしれない)人間のための物語なのだ。
そして「ビートのディシプリン」では今までの作品で「世界の敵」になりそこなった外れものたちが、<帝国>たる統和機構に対しまた彼らも「マルチチュード」的な勢力としてネットワークでつながり始めた様子が描かれている。

ずいぶん荒っぽい書評になったと思うので手直しは入れていきたい。
最後に。私は期待する。
上遠野浩平が突破し新たなる世界の地平を見せてくれるその時を。
(ってこれ沈黙ピラミッド自体の書評じゃなくね)
(まぁいいじゃん、そんなこともある)

ニコニコ動画・ニコ厨についておぼえがき(作成中)

初ブクマもついたことだし、前回はてなにうpして冬コミに出したニコニコ論をもう少し再考してみたい。

冬コミ東浩紀さんとたまたまブースが隣になってお話したこと(オタクって実はそこまでラディカルじゃない)や、それを機に彼の著作「郵便的不安たち♯」を読んで「郵便的」(瓶入りの手紙についてもう少し考えられそう)であるということ、加えて今までずっと考えていた「個」が「個」であるだけで肯定することのできるシステムについて加えて補足したりしようかと思ってます。

初ブクマもついたことだし、前回はてなにうpして冬コミに出したニコニコ論をもう少し再考してみたい。

冬コミ「ニコミュケーション&ニコニコ芸術宣言」

出しました。
ペンネームは「とりっくすたぁ」でサークルは和敬塾北寮
書名は「素人の素人による玄人のための本」内で題名のとこに書いてある論題とかなり使いまわしているハルヒ論です。

では以下にコピペします。

ニコニコ動画論「ニコミュニケーション」

はじめに

「俺たちはニコニコするために生まれてきたんだ。」右上より

やっと、やっと我々は我々のための玩具を見つけられた。

我々とは、すなわち今年二十歳になったりならなかったりもうすでになっていたりするあたりの世代、戦争はガンダムの中に見た時代すら遠く、学生運動マルクス主義は最早宗教でしかなくその後彼らが作ったサブカルすらよく知らない、オウム騒動もトラウマになるほどの歳でもなくトラウマといえばエヴァショックだが、世代的に共有できるほど強烈でも無く、2chすら使いこなすには少々幼かったうえにそこでの愛国心とかそういうのがちょっと吹き上がりとか嫌韓とかそういうので吹き上がるのも、二次元の女の子に萌え萌え言ってたけどそれもでも一部な希ガス、んでもって、オタキングこと岡田斗司夫に「オタクは死んだ!」とか言われちゃって、あれ、ゲームとか、アニメとかいわゆるオタク的なもの好きで、たぶんオタクなんだろうけど……って人たちのことである。
 ずいぶんニッチな我々だな バロスwwwというところではあるのだけれど、そういう人間は今ニコニコ動画に集まってきて、ひと祭りを終えてこのコミケに来ているんじゃないだろうか。
 そこで、私の愛したニコニコ動画について語ってみたくなったのだ。
 たぶんブログに書いてろってなオナニーな文章だけれど、たまたま天文学的確率でこの本を手に取った方がいれば、20前後のオタクっぽいものが好きな似非インテリ学生のニコニコ動画に対する文章を読んでやってください。
 そう、「愛した」ニコニコ動画について。

〜テレビ→youtubeニコニコ動画へ〜

テレビを試聴する時間は一貫して減り続け、若い人になればなるほどテレビを見ない。
 まずテレビの凋落は受け手と発信者の多様化で始まった。受け手の趣味もライフスタイルも多様化して、同じ時間に同じものを見せるチャンネルが6つあるだけの地上波にかわり、youtubeなどの動画共有とにより、各人が好きなときに好きなものを見るという状況になったのだ。
しかしその状況は共通経験を核とするコミュニケーションを失わせた。(テレビをとりまくコミュニケーションはもちろん続いてはいた。例えば2chという空間での反マスコミ的キャンペーンなどがあった。2chに関しては後述するし、テレビの衰退は事実としてある)
その状況下で生まれたのがニコニコ動画(ここでは映像メディアの側面から)である。
ニコニコ動画は当初youtubeなど、他の動画共有サイトの動画を流用し、その上にテロップを流すサービスとして始まった。(現在は独自サーバーで行われている)
 ニコニコ動画ひろゆきが語った通り、「突っ込み」を共有し、その突っ込みのついた動画をコンテンツとして鑑賞するわけだが、それだけにとどまらず、その突っ込み自体が「コンテンツ」となった。
加えて、動画という形態をとるならば、それらのニコニコ文化の動画、二次創作、アマチュア作品、商業作品の渾然一体となった並列な環境とタグや検索機能によるネット自体のもつ「島宇宙化」を促進する構造がある。
一度発信源が多元化したコンテンツたちはニコニコ動画というプラットフォームを通し、そしてそのプラットフォーム自体が特有の文化を持っていて、その文化自体がコンテンツとなり得る、その結果、映像コンテンツに関して趣味の違う人間を同じプラットフォームである手間の低さ、ランキングによるアテンション、何よりおもしろいという快楽原則による誘導によって、同じコンテンツをみているという共同性と、趣味の多元性を同時に担保することができるようになった。
 またニコニコ動画には「コメントを表示しない」というニコニコ動画にとって本末転倒な気がするような機能があるのだが、「閲覧者のみる態度」の選択可能性を高めている。
つまり極端な話、もはやコンテンツは、コンテンツの発信者が望むように閲覧するように構造を構築することはもはやできなくなりつつあるのではないか。
 受け手は(多分当たり前の話なのだが)受け取りたいようにしかコミュニケーションを受け取ることはない。そして、それをアーキテクチャがそれでいいよ、と肯定する時代が到来しつつあるのではないだろうか。
 それをどう受け止めるべきなのか。

 私はそれを肯定したいと思う。
 それはもう仕方の無いことなのだから。
 そして私は消費者でしかなく、クリエイターではない。
 だから正直なところ、ニコニコ動画に出会ったとき一人の消費者としての私は狂喜乱舞し、
「俺たちはニコニコするために生まれてきたんだ。」なんて思ったりもしたわけなのだ。
 ニコニコ動画はすばらしい場所だ。何より自由だ。


匿名性のコミュニケーション
~2chからニコニコ動画へ〜

2chにもみられた、そのコミュニケーションの結果が他のコンテンツと並列に並べられて、さらにコミュニケーションの資源となり、さらなるコミュニケーションを生んでいく構造があり、かつその結果生み出された動画と、アニメ作品などの商業作品、二時創作をはじめとするアマチュアの作品と並列に並べられ、閲覧数を競うという、あらゆるコミュニケーションの並列された姿がそこにある。
しかし2chと決定的に違うのは携帯メールよりもさらに短さ、文字数の決定的短さ、どこに流れ着くか知れない、誰にも届かず流されてしまうかもしれない瓶詰めの手紙のような応答可能性の低さである。
2chでも極めて形式的な記号的コミュニケーションがとられていたとはいえ、ニコニコ動画のそれはもはや個人であることを完全に放棄している。
しかしニコニコ動画のアカウントを持つニコ厨どもは共同性を保持しているように見える。
少なくともコミュニケーションしていると感じているのは間違いないだろう(なにせグッドデザイン賞コミュニケーションデザイン部門なんてもらっているくらいである)ニコニコ動画には同じ動画をみているという共時性はない。どのタイミングでコメントを残したかがわかるにすぎないのだが、その今ではない過去の書き込みに応答する。そしてその応答にまた違う人間が応答する。
あたかも個々人が無人島に住み、その無人島で宛先のない手紙を受け取ったり流したりするような、そういったコミュニケーションがコミュニケーションとして受け入れられているのだ。
そして最近プレミアム会員限定ではあるが、NG機能が実装され気に入らない単語を含むコメントや、気に入らないコメントをしたIDをもつユーザーのコメントを表示されないようにする、映像コンテンツの箇所でも言及した傾向である、コミュニケーションを自分の受け取りたいように受け取るアーキテクチャが整備されている。
 もともと匿名のコミュニケーションには個人としての自分が傷つかないという側面はあったが、それがさらにおし進められたかたちなのではないだろうか。




・『ニコニコは誰にも平等に訪れる』 ( 02:00 AM November 08, 2007 from 右上)
 ……のだろうか?

  私は現状のメディアでは、ニコニコ動画を優れたメディアだと思う。
 が、しかしニコニコ動画にも改善すべき点がいくつか存在する。

 最も大きな難点はコンテンツ製作者への利益誘導の欠如だろう。
 現時点でもロングテール的な、といっていいかどうかはわからないが、関連コンテンツをニコニコで発表することによる宣伝効果や、などはもちろんあるけれども大部分の著作権保持者たちは直接利益の入っていない現状に不満を覚えている。

 単純な動画しか流せない(ニコスクリプト導入でコマンドによって改善されるかも)
 「動画」という形式はかなり広い形式のコンテンツをカバーするが、テキストベースのコンテンツなどは見づらさが残る。


終わりに

以上、ちょっと本を読めば書いてあるようなことをニコニコ動画を通じて稚拙に論じただけで終ってしまった稚拙な論考を読んでくれた誰か、どうもありがとうございます。
以上が私が何故ニコニコ動画を愛したのか、という理由なのだと思う。今の我々に寄り添うメディアだと感じていた。
しかし私はもうニコニコ動画を愛してはいない。
結局のところ、飽きたのだろう。
こんな稚拙極まりないものを書いて出してしまえるほどに。
 なので、論考という形ではなく、弁論という形で、感情の赴くままに好きだったころの記憶と、現状のニコニコ動画に対する怒りを書いたものを後述する。



ニコニコ芸術宣言
「芸術は死んだ、 何故だ!
 選民思想と弁証癖と意匠化によって殺されたのだ。
 それにによって、芸術はその最も大きな機能であるカタルシスを失ったのだ。
 選民思想は人に、美の秘密は作品のうちに存在せず、作品と鑑賞者の間にのみ存在するということを忘れさせ、「芸術」をして理解と解説とを拒絶させた。
 弁証癖は芸術を客体化し、コレクションする、生の息吹のない冷たい批評の対象とした。
 意匠化、これすなわち表面を飾り立てることを、芸術ではないものを芸術と混同するようにした。
 福田恒存は述べた。
『芸術は技術ではありません。演技ではなく、演戯であります。技巧ではなく、才能であります。』

 芸術とはなにか?彼はこうも言っている。
『芸術とは芸術家にとってのみならず、鑑賞者にとってもまた行為であります』
 現状、鑑賞者は黙って芸術を受け止める以外の鑑賞態度を許されていないように思える。芸術は芸術家たちのものではない。
 その意味において、芸術は死んだ。 

 我々は一つの概念を失った。しかしこれは敗北を意味するのか?否!始まりなのだ! そう、ニコニコ動画は芸術を蘇生させたのだ!

 芸術とはなんのために存在するのか。最も大きな機能はカタルシスだ。抑圧された感情を解放することだ。過去それはアリストテレスが述べたように《恐怖と哀憐》だった。ではひるがえって現代において抑圧された感情とは何か。それは《歓喜と闘志》ではないだろうかと私は思う。
 歓喜とは、あの、wwwを連ねざるを得ないあの思いのことである。
 闘志とは、あの『胸にこみ上げてく熱く激しいこの思い』のことである。
 ニコニコではそのカタルシスが連日のように我々を包んでいる。
 なぜか!?
 ニコニコには選民思想は無い。あらゆる動画のうp主がうp主として認められている。
 ニコニコには弁証癖は無い。我々は客体化に興味が無い。好きなものは好きだからしょうがない!わけで世間からどう思われていようと良い動画は良い。それでいい。
 しかし、ニコニコに意匠化はある。
 最近のランキングを見て欲しい。「ミク」「キワミ」ばかりである。
 もちろんそれらの個々の動画のクオリティは素晴らしい。
 素晴らしいのだが、面白くない。それは表面を飾り立てるばかりでわれわれにカタルシスを与えはしない。なぜならそこには転倒がある。たとえばキワミ=面白いではないたまたま「キワミ」はニコニコ住民の楽しむという意思を持ったコメントにより歓喜カタルシスに満ちていた。
 だが、今のニコニコにそのダイナミズムは無い。できのいいテンプレなMADやミク歌を出してこようとも、それは職人的な素晴らしさではあっても芸術ではない。
 最も重要なのは、ニコニコでは鑑賞者にとっても行為することが許され、それが動画の一部となっているということだ。 
 演劇はギリシアの時代から、鑑賞者と俳優とでできているものであった。
 しかし劇場の観衆が死んだように静かになって久しい。

 芸術の最も芸術らしい部分は皮肉にも、あらゆるハイカルチャーの場ではなく、表層に戯れ、サブカルチャーに耽溺する人間たちのための遊戯の空間に現れることになった。
 すなわちニコニコ動画の構造は、鑑賞者の主体性を自覚させ、うp主とコメントの渾然一体となった、問いと答えの合一を顕現させるのである!

 しかし、現状はどうだ。私はコメントにも意匠化があるのではないかと問いたい。
 主体的に楽しもうと構築してきたコメント技法があった。それはたとえば弾幕であり、AAをコメントする技術であり、空耳字幕であった。
 今のコメントに楽しもうとする意思はあるか?もはやそのコメントは思考の結果ではなく、状況に対する反射の産物なのではないか?
 二つの意匠化がニコニコの素晴らしさを阻害し始めているように思う。
 このままではニコニコは、薄暗い宵闇にまぎれるように衰退していくのではないか。私はそう感じている。

 ではどうすればよいのか。
 もう一度、考えるしかないのだ。
 面白いとは何か、突っ込むとは何か。
 決して、それは決まっているものではなかったはずだ。
 もっと生命力に富んだコメントを、もっともっと画面の向こうの誰かにカタルシスを届けるような情熱に満ちたコメントを!

……さぁニコ厨よ立て!悲しみを笑いに変えて、立てよニコ厨!ニコ動は諸君等の力を欲しているのだ。    ……ジーク・ニコ!!