続けて『萩原朔太郎全集』『佐藤惣之助全集』にふれたが、同じように戦時下において、河出書房から『白秋詩歌集』も出版されている。その白秋も完結を待たず、昭和十七年に亡くなっている。昭和十六年八月初版、十八年三版三千部発行と奥付にある『白秋詩歌集』第四巻の『歌集Ⅱ』を古本屋の均一台で拾った。これは奥付裏に全八巻の内容が示されているように、『歌集』の他にも、二冊ごとに『詩集』『童謡集』『歌謡集』を編んだもので、初見であった。
(『童謡集』)
入手した第四巻は函の有無は不明だが、裸本で四六判四二三ページ、『白南風』(アルス、昭和八年)、『夢殿』(八雲書林、同十四年)、『渓流唱』(アルス近刊)とされていたが、実際に『渓流唱』は昭和十九年に靖文社刊行で、それらに『黒檜』(八雲書林、同十五年)も収録し、短歌千八百余首、長歌三十篇に及んでいる。第三巻の『歌集Ⅰ』と合わせれば、白秋は豊饒なというしかない多くの歌を詠んでいたことになり、それに詩、童謡、歌謡までも含め、オールラウンド的な詩人だったことをあらためて認識させられる。戦前の『白秋全集』といえば、昭和三年から八年にかけて出されたアルス版全十八巻がよく知られていよう。だが河出書房の『白秋詩歌集』は昭和十六年時点での白秋の詩歌全集と見なすこともできる。
(アルス)
薮田義雄は白秋の門下で、一時期は秘書を務めていたが、『評伝北原白秋』(増補改訂版、玉川大学出版部、昭和五十三年)において、昭和十五年のこととして、次のように記している
十月のある日、河出書房編集部の澄川稔が白秋邸に私を訪ねてきた。澄川君は学生時代に新美南吉とともに中野上高田の私宅にあそびにきたことがあり、私とは旧知の間柄だった。その澄川君からもちかけられた相談というのは、いまどき取って置きの上質紙が何千部か我が社にある。それを小説集などにむざんに使ってしまいたくない。詩集か歌集か、あるいは葉っぱのように薄い詩文集をつくってみては――などと頻にいうのは、彼が大の白秋信者だったからである。
あとでゆっくり相談してみるからといって、その日はまず引きとってもらったが、その話が発展して『白秋詩集』となったのである。だが、企画の途中で担当は小川正夫にかわった。そして私と小川君とは既刊の著作目録を対象に、だいたいの体系をたてた。そのうえで先生をまじえて意見の交換をした。(中略)
夜に入り編集の体系が整った。巻和は八巻そのうち詩集、歌集、童謡集、歌謡集各二巻と決定、一冊あたりの頁数は四百頁から四百五十頁見当ということになった。次いで第一回・第二回配本を詩集ⅠⅡでゆくという案もきまった(後略)。
かくして『白秋詩歌集』第一巻は昭和十六年一月に出版の運びとなり、初版はただちに売り切れ、増刷となったという
これらの薮田の証言を重ね合わせると、大東亜戦争下の文芸出版の実相、もしくはその一端が浮かび上がってくる。やはり昭和十六年に出された「社団法人日本出版文化協会概要」という二二ページの「協会パンフレット」があり、そこで日本出版文化協会の「出版新体制」のための主な事業として、「出版資材の配給調整」「出版物の発行調整」「出版物の配給調整」の三つが挙げられている。その最初に「出版資材の配給調整」があるように、これは紙の配給に他ならず、何よりも出版社は紙を確保することが最大の関心事だったと考えられる。
それゆえに河出書房が「いまどき取って置きの上質紙が何千部か我が社にある」ことは願ってもない僥倖で、「大の白秋信者」の編集者澄川にとってみれば、つまらない小説集などに使うべきではなく、薄い詩集か歌集にそれを用いるべきなのだ。しかしそれに小川という編集者も加わったことにより、さらに企画はふくらんだ。その結果、編集の最大眼目は白秋の「四十年に渉る全著作の内、詩・短歌長歌・小唄民謡・童謡・国民歌謡の韻文芸術を集大成して、これを国民詩人としての建前から何巻かに凝集しようという」ことになったのである。
そしてそれが功を奏し、第一巻は「瑰麗珠玉の詩篇を包蔵して眼もまばゆい出来映」で、初版部数はわからないが、ただちに品切、重版となった。それは第四巻も同様だったようで、先述のごとく、昭和十八年には三版三千部の重版に至っている。おそらくそれらは先に挙げた「出版物の発行調整」=出版部数の決定、「出版物の配給調整」=日配の取次配本も三拍子揃ったところでの『白秋詩歌集』の流通販売のプロセスだったように思われる。
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