物理的には近いのにアクセスできない場所や人がある
人間の生きている世界は、単に物理的な空間ではない。情報空間のレイヤーとでもいうべきか、自分の生きている世界の層のようなものがある。
誰でも似た感覚があるに違いない。
レイヤーが異なれば、いくら物理的に近かろうが、アクセスできない。
たとえば、本を読む習慣がない人、つまり本という形式に収まった知識と関連性の薄い人は、たとえ家の隣が図書館だろうが、そこに眠る魅力的な書籍に一生触れることがないかもしれない。
クラスメイトでも、年間通して一度も話さないという人はざらに存在した。
不思議なもので、人間はしばしば地球の裏側の人間と運命的な巡り会いをする一方で、自宅の裏に住むご近所さんとは一度も顔を合わせなかったりするのだ。
これまで生きてきた中で、ある時点ではなんの縁もなかった場所や人が、突如としてアクセス可能なものとして立ち現れてくることがあった。自分と世界の関係性が組み換わっているということだと思うが、この感覚がなんとも面白いのだ。退屈だと思っていた世界が、実は信じられないくらい多様な宇宙を内包しているという実感を得られる。
私が生きていることに面白みを感じるとしたら、ひとつはその興奮を挙げる。
心理的な壁が最も厄介な障害であるという陳腐な話
人生の早い段階から、自分の座るべき席はあらかじめ決まっていた。私が自分の居場所を確保するには、ふたつの条件が必要だ。第一に、名簿に自分の名前があること。第二に、決められた席を把握することだ。
このような生活に慣れすぎたので、意識しても自分の好きな場所にいるということがなかなかできないことに私は気づいた。これは23歳7ヶ月のときである。
我々は、周りからの承認を得なければ、指示を受けなければ、居場所を決定できない。
我々は都市で生活する上で、教育で刷り込まれたルールに基づいて行動できるエリアを決定する。
子供が塀の上に登れるのは、ルールの刷り込みがまだ薄いからだ。
大人も物理的には塀に登れる。
だがルールがそれを許さない。
だから、実際に移動できるのは「歩いていい場所」と公然と認められた地面に限られる。
20歳を超えた我々大人の足の裏が触れるのは、実は家の床、風呂場、そして靴底だけだったりする。ルールを守っているうちにそうなる。
人生のほとんどの時間、足裏が触れるのは世界の中のわずかな部分でしかない。
これは善悪の問題ではない。ただ、日中のコンクリートの熱さ、表面の質感を味わってみる体験というのが魅力にうつる。