もう長いこと愛用していた枕を洗濯機で回してみたら、中身のクッションが揉みくちゃになってまるで呪物のようなおぞましい見た目になってしまった。洗濯表示を読むと「手洗いのみ」の文字が。温室育ちめ。耐えろ。その枕は使用者の頭や首にあわせて形や高さを微調整できる優れた商品だった。内部のクッションを複数に分けて個別に調整できる多層構造がそれを実現していた!中々の逸品じゃないか。しかし、この日だけはそれが仇となった様だ。各層の綿があっちこっちに寄ってしまっていて、元の形に整えようとすれば並々ならぬ時間を要すことは明白だった。どうせ自分のものだからと洗濯表示を見なかったことを後悔した。面倒くさいぞ。歪なオブジェと化したソレを放って収納から予備の枕をひっぱりだす。代替の枕はいつかに間に合わせで購入したシロモノで、僕にはいささか柔らかすぎたがまあ当面はこれで良しとすることにした。よろしくな相棒。
そこから数日、代わりの枕を使用していたけれどやっぱりあまりよくなかったみたいだ。首の高さが合っていないのか、変ないびきをかいてしまうようになった。いびきは枕が合っていないことの典型的症状らしい。おそらくは季節的な問題も重なっている。僕はひどい花粉症で鼻が悪いことも相まってより呼吸がしにくくなっている気がする。それが原因でいびきが生まれているのかもしれない。悪いいびきは速やかに直されなくてはいけない。眠りが浅くなっているのか心なしか疲れやすかったりもするが、それ以上に直したい理由が別にある。
「いびきかいてたよ」と誰かに指摘されることは、僕にとって少し気恥ずかしいことだった。僕の弟は昔っからいびきっかきで、半目で轟音を鳴らすその姿を見て僕は笑い、時にさらなる面白さを求めていたずらを仕掛けた。(鼻を摘んだり、鼻の穴にこよりを突っ込んでみたり、顔に落書きをした。本当にごめん)とにかく僕はいびきを笑いの対象としていた。幼い頃の自分はいびきをかく方では無かったから残酷なことが出来たのだ。大人になって首も舌も太くなって、社会人は想像していたよりストレスで疲労困憊の毎日だ。人はいびきのひとつくらいかくさ。とはいえ、誰かに指摘されるのはやっぱり気恥ずかしい。それが隣で眠る彼女だったらなおさらだ。
「うるさかった?ごめん笑」もう大人だからいびきをかいた恥ずかしさを受け止めて謝ることができる。彼女も「結構うるさかった笑」と笑いながら言ってくれる。だけど内心は(チッ、うるせーな)かもしれない。同じくぜいぜいの社会人の立場、夜中隣でいびきをかかれて目を覚ます日々が続けば嫌にもなるだろう。もう一緒に寝てくれなくなるかもしれない。それは嫌だなあ。すこし不安になる。僕は自分のいびきには敏感なほうなのか、自分が鳴らし始めた音で目を覚ますこともしばしばある。その度に「やべ、直さんと」と気持ちが焦る。早くまっとうな枕に戻せば少しはマシになるかもしれないが、件の歪な枕を整えるのは困難だろうなあ…この際新しい枕を買ってしまおうか…?
些細なことでも考え込んでしまうタチなので、ここまでの事を彼女にすっかり話してみた。すると思いもよらない方向からの話を聞く事ができた。
「いびきかいてる時に鼻摘むとゴブフッってなっておもしろいんだよねフフッ」
寝耳に水だった。それは紛れもなく僕の知らない物語だった。なんて事だ、僕が過去に弟にした悪行をいま地でやってるのかよ。
「何やってんだよ!」「面白くて」「僕はいびきに敏感なほうで自分の音で目を覚ます、じゃないのよ」「全然気付いてなかったわ」
ひとしきり笑ったあと、やっぱり新しい枕を買おうと思った。
彼女とはときどき大きな喧嘩もする。1ヶ月ほどまともに会話をしなかった時期もあった。僕と比べて淡白になれる部分もあって、もうどうしようも無いかもしれないと悩んだ事もあった。だけど、僕の知らない日常のワンカットが、彼女の心の動きが、なんだか素直にとても嬉しかったのだ。
僕の鼻を摘んだとき、彼女はどんな表情をしていたんだろうか?願わくばくすりと笑っていて欲しい。例えば、ほんの微かなくすぐりのあとみたいに。あるいは僕が君の寝顔を眺めるときと同じように。