まだ、出勤したくない。

14卒リーマンが思ったことを誰の目を気にすることもなく綴る

報連相とは“自己防衛”であり“上司のため”ではない、あるいは記録の重要性について

報連相の意識

新社会人になると、およそ最初の研修でマナーやら何やら社会人の振舞いを学ぶことになる。その時に「社会人はホウレンソウが大事ですよ~」ということをほぼ必ず教えられるだろう。社会人にとってのホウレンソウとは、当然、報告・連絡・相談だ。

この報連相、特に新社会人には面倒に感じる人が一定数いると思われる(俺もそうだった)。しかしそんな俺でさえ、社会人生活もこなれてくると、「ホウレンソウは面倒だ」から「ホウレンソウは大切だ」に意識が変化してきた。この変化は、早ければ早い方がいいと思うので、備忘の意味も含めこの場で発信したい。

なぜ、報連相が大切か

結論から言うと、報連相とは自己防衛だから大切なのだ。

大概の研修では、報連相は「上司や同僚と緊密にコミュニケーションをとり、情報を共有することで仕事が円滑に進む」という文脈で語られることが多い。それは勿論、正解だ。しかし、それはあくまで最終的な結果のお話に過ぎないというのが俺の見方だ。

もう少し分かりやすく、極論じみた言い方をすると、報連相の根源的な意義とは責任の分散もしくは責任のなすりつけ(自分のリスクヘッジ)だ。仕事には、大小の違いはあれどトラブルがつきものなのは言うまでもない。いつでも自分がその当事者になりうると危機意識を持ち、予め準備しておく作業が報連相だと考えを変えるといい。

それでは、実際に自分が何らかのトラブルを起こしたときのことを考えてみるとどうか。

報連相を怠っていると、トラブルの発端になった行動は、俺の勝手な判断の結果ということになり、最終的には始末書なんかを書かされてしまうだろう。

一方、報連相をこまめに行っているならば、俺が引き起こしてしまったトラブルでも、当然事前に同僚や上司に相談したうえで実行されているはずだ。つまり、同僚や上司も納得した上での行動であったということになる。俺の行動は間違っていたかもしれないが、同僚や上司はそれを修正するチャンスがあったにも関わらず、それを怠った。つまり、俺にも責任はあるが、同僚や上司にも責任があるという状況を生み出すことができる。こうなってしまえば占めたもので、俺が咎められるウェイトは軽くなり、ここからどのように事後対応をしていくかという建設的な話合いになるだろう。

これが、報連相がもつ本当の役割、自己防衛だ。

そうして考えると、報連相はとくに部下側にしてみればメリットしかないのだ。こまめに行うことで、自分の業務の進捗や正誤などに意見がもらえるだけでなく、トラブルになるようなミスがあったとしても自分ひとりの責任になるようなこともなくなる。

だから新社会人こそ、このような「報連相を利用してやる」という意識を本来は早めに持つべきだと言えるだろう。

可能な限り、記録する

ここまでは、報連相の考え方を変えるような話を書いてきたが、最後にメソッド的な話をしておきたい。

それは、報連相を目に見える形に残すということだ。例えばグループウェアやメールなど、日時が記録され、削除が難しかったり自分の手元にログが残ったりするようなツールを使うことを習慣化すべきだ。

それこそ些細なことなら口頭でもいいのだが、対外的なアクションなどは、一度トラブルになってしまうと内部でのトラブルに比べてより慎重な対応が求められることになるので、絶対にこうした形で記録を残して責任を分散しておくべきだ。日時が記録されることで経緯が歪められることがなくなり、目に見える形にすることで言った言わないの水掛け論を防ぐことができる。口頭でしか報連相できなかったとしても、「先ほどはありがとうございました。○○のように対応いたします。」といったお礼を装ったホウレンソウ・メッセージやホウレンソウ・メールを送っておくべきだろう。

ここで記録の重要性を理解しておくと、議事録を書くことなどが、その延長線上にすんなりと腑に落ちてくるようになる。

ただ、この「記録する」は対外的にはマストなのだが、職場の中でも徹底しすぎると嫌なヤツ扱いされかねないので、少し程度を弁える必要はあることは注意しなければいけない。

最後に

報連相を面倒だと思う人も、過去の俺がそうだったように、これを見て考え方が改まることがあるなら嬉しい限りだ。

いい大学出て仕事ができないのは“つよくてニューゲーム”に慣れきった愚者だからだと思う

何を隠そう俺は仕事ができない。

まず、俺は自慢じゃないが仕事ができない。恐らく他部署の人はそれほど仕事ができないイメージを持っていない。もしくはそうであってほしいと俺は強く願っている。けど、こと同じ部署の方々からは仕事ができない烙印を押されていることだろう。そう判断されるようなそこそこのトラブルを特に2年目で何度か起こした自覚がある。それでなくとも、どこかしら仕事にミスが見つかって100%完璧に自分で業務をこなせたことがないのではないかと思っている。

一体なぜ俺はこうも仕事ができないのか。

ここから先は俺の俺による俺のための言い訳だ。こうでもして納得しないと自尊心が保てないのである。俺と同じ境遇の人は傷をベロンベロンに舐め合おう。そうして、明日もなんとか出勤しよう。因みに俺はお盆休みで次の出勤は8月17日だ。

 

皮肉な学歴フィルター

俺は所謂“いい大学”出身だ。大学受験をしていない人でも名前を知っているレベルの大学。因みに東大ではない。ここで敢えて「東大ではない」と前置きしているのは、主語を大きくしすぎて東大を貶めるなど畏れ多いからだ。俺はあくまで東大レベルではない“いい大学”出身者だ。

ところが残念なことに、いい大学を出たからといってそれに見合った仕事ができるかというとそうとは限らない。そうした傾向があるということは恐らく事実だろうが、少なくとも俺には当てはまらない。同じように採用してみたはいいがイマイチ…と思っている人事は日本中にいると思う。

それでも人事が俺みたいな人間を採用しつづけるのは何故か。それは「いい大学を出てるからいい人材だと思った」と言い訳が効くからだろう。つまり、仕事ができない人材だと採用後に判ったときに、「何でこんなやつを採用した」と言われることを想定した予防線として学歴が存在している訳だ。これが所謂学歴フィルターだ。言い換えると、「こいつは出来そうだ」と思っても、そこそこ以上の大学出身でなければ採用しないという行動原理が働くということだ。俺はそのフィルターに助けられて何とか就職できたと思っている。学歴フィルター様様だ。

採用側があくまで自分の身を守る目的で使っているはずの学歴だが、それが採用後も尾を引き、仕事ができる・できないの比較材料に使われるのはある意味身から出た錆かもしれない。学歴フィルターのおかげで採用されたであろう俺は、その学歴に足を掬われているということになる。

 

難関大合格の鍵は“つよくてニューゲーム”

前述の通り仕事のできない俺が何故難関大に合格できたのか。

考えてみると難関大に合格する人間には2種類いる。天才と凡人だ。天才は天才らしく天才然として合格する。一方の俺は凡人の側だった。

凡人が難関大に合格する方法は、分かりやすく言えば“つよくてニューゲーム”状態になることだ。つまり、入試という本番に前もって、分からない問題があったらその解法の流れや解答の作り方のメソッドを自分の中に落とし込んでおくのだ。反復と色々な形式の問題に幅広く触れて慣れておく。これを繰り返すことで凡人は入試を初めてプレイする前に“つよくてニューゲーム”を選択できるようにしておくのだ。

今になって思い返してみると、俺はこの「ミスを自分の中に落とし込んで次は丸を貰う」という作業が比較的得意だった。だから受験で合格できたんだろうと思っているし、少なからず当てはまる人は多いんじゃないだろうか。

 

仕事ができるとは“賢者”であること

3年目になって益々実感しているのだが、そもそも勉強と仕事は全くもって違う。3年目になってよりハッキリしてきた仕事のイメージは、簡潔に言えば「全てが本番」だ。大学入試のように前もって模試だとか予想問題でミスをしてもいいといった状況は殆どない。

だからこそ痛感しているのは「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」ということだ。全てが本番の状況での最適解は“歴史に学ぶ賢者”になることであって“経験に学ぶ愚者”になることではない。つまり、仕事をするにあってはまず答え(過去の資料=歴史)を見るべき、ということだ。大学受験で通用したはずの“つよくてニューゲーム”メソッドはどちらかといえば“経験に学ぶ愚者”に近いもので、常に本番の仕事とは相性が悪い。だから、仕事ができない俺たちに必要なのは、仕事術だとかそういうものじゃなくて愚者から抜け出す意識なんじゃないか?

 

愚者としてでも仕事をこなしていく

ここまで書いてきたのは、俺が2年目の時に何となく思っていたことが下書きとして残っていたので、それを再構成したものだ。

3年目に入り、自分の中でもある程度仕事を回せるようになってきたんじゃないかと思っている。けどまあ、人間そんなにすぐに変われるわけではない。何分、大学受験合格という成功体験と結びついた方法論だからどこかしら捨て切れないところはあるだろう。でもそれでも仕事は降ってくるし、何とかこなして給与を貰わないと生きていけないのだ。そういう意味で、言い訳として、或いは「例え“愚者”でも仕事しないと食いっぱぐれるぞ」という事実確認としてこの駄文を残そうと思った次第だ。

仕事における保守性は楽をしたいから。

うちの職場は成果物やデータとしてのアウトプットにめちゃくちゃ重きが置かれている。だから、先輩に質問するとまず「過去のを見ろ」という話になる。
教えるという意味でのアウトプットが余り機能していない。仕事が忙しいから仕方ないのかもしれないが、反面教師にしたい側面だ。

話を戻すと、ウチは過去の成果物やデータが膨大に蓄積されてて、それを見て、その通りにやる。問題が起こっていないんだからあえて変える必要はない。そんな職場だ。如何にも超保守的。

そういった状況もあって、仕事における保守性を考えたとき、保守にはこういう側面があるなと思うに至った。

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①責任逃れ
何か問題やトラブルが起こったとき、過去の例に従って行動していれば、それは自分の所為ではなくなる。
「俺が悪いんじゃない、やり方が悪かったのに今までたまたまトラブルが起きなかっただけだ」と話をすり替えられる。
建設的といえば建設的か。

②思考停止
「昨年ベースで」「前回同様に」「昨年度を参考に」という風に、仕事をこなす上での方法論として『前例踏襲』という1つのメソッドしか持たなくていい。
仕事をする上で何も考えることなどない。とりあえず昨年度のファイルを今年度のフォルダにコピーして、「過年度参考コピー」とリネームするところから全てが始まる。

③処世術
この単語は意図するところとして適切か微妙なところはある。言い換えるなら「職場に無駄な波風を立てない」とでも言おうか。
手続・方法を変えるとなると1人でできる場合は少ないし、何なら1人でできるような範囲は単なる“工夫”であるだけだったりする。大きな変更には稟議決済だとか、そこまで行かなくともある程度の全体的な合意が必要になってくる。
それは自分に取っても大きな負担になるし、勿論周囲にとってもいつもより無駄に時間を食う話になってしまう。当然、反対意見も出てきて、納得を得る必要も出てくるだろう。
勿論、ある程度の役職者が内々に話を決めてスムーズに話がまとまるケースや完全なるトップダウンで変えざるをえないケースもあるが、ことペーペーのヒラにはとても出来ない。ヒラのうちからそうやって周囲を巻き込むような業務のやり方はあまり好まれないだろう。そういう面倒なヤツだと思われるのは極力避けたいのが新人の心情だ。

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こうして、いろんな意味での“楽”な方向として保守性は根付いていく。



と、この辺りまでを新人の去年に考えて温めていたのだが、今では私も立派なコンサバ。
後輩に言うのは「去年のどうなってた?」
なぜなら彼女もまた特別な存在だからです。



おわり

まだ雪でワクワクできるという安堵感

昨夜未明、雪が降った。
降りしきる雪を見て、ワクワクした。
そして、ワクワクしている自分に安堵した。

思えば、雪国育ちの自分にとって雪は高揚感の象徴だ。
雪の積もった帰り道は手持ち無沙汰に雪玉を作って帰ったし、
家の前の駐車場の空きスペースに除雪のため山と搔き集められた雪山を歩き回ってお山の大将を気取ったし、
融雪装置の穴の一つを長靴で塞いでもう片方の穴から出る水の量を増やして遊んだし、
融雪装置の上に雪を置いて水が雪玉をうがつのをじっと見てたし、
放課後の暗いはずの帰り道が雪化粧されていつもより明るくて冬は統一感があっていいなとか中二的なことをぼんやり思ったし、
スキーに行ったしスノボにも行ったし、
雪合戦ではあえて雪玉を2つ作って1つをデコイ的に相手上空に投げて時間差で本命を投げつけたし、
新雪を踏みしめるギュッとした感触と音が心地よかったし、
ママさんダンプで除雪する体力も有り余ってたし、
とにかく、雪はいいものだった。

そんな俺も大学進学から東京で暮らすことになり、リーマンの今、そして今後も関東圏での暮らしが続いていくことがほぼ確定している。雪に対して、ワクワク感を持ったまま雪国を離れたのはかえって良かったのかもしれない、とふと思った。

まだ実家にいた頃、降る度に除雪をせざるをえない大人たちは雪を疎ましく思っている節があった。地球温暖化だなんだで積雪が毎年少なくなり、融雪装置が町中至る所に設置されたことで、楽になった、雪なんて降らなくてもいいという声も嫌でも耳に入ってきた。
ずっと地元から出なければ、恐らく俺も雪を次第に嫌いになっていっただろう。
そう考えると、今の俺はある種幸運だと言えるかもしれない。

だから昨日の雪でワクワクしている自分に俺はホッとした。雪で交通機関が大混乱して大変だった人も沢山いるだろうが、この気持ちを確認するためだけに、毎年1回は関東圏にも雪を降らせてほしい。
そして、もし俺が雪の影響で交通機関が乱れてイライラしてしまうことが将来あったときは、多分それはちょっと羽根を伸ばすタイミングなんだと思う。


おわり

新年、俺のブログ更新がなぜ継続できないのか考える。

年始め(と言い切るには苦しいがこの記事を書こうと思ったのは三が日中だったからまあそういうこと)に、“ブログを継続すること”を第一目標として敢えて気ままに更新していくことを強く決意した。

ご覧の通りブログを継続するのが苦手な俺だが、それは今まで“継続=現在進行形”と考えていたからだと気がついたわけだ。

毎日ブログを更新してる人や、その結果として「何万PVでした」みたいな記事を書くブロガーを俺はスゴいと思う。彼らは“継続=現在進行形”を体現していると言えるんじゃないか。確かに最近流行りの互助会だなんだで意図的にホッテントリ入りをさせるような輩もいて、記事はアフィリンクに溢れ何ならアフィリンクの羅列だけといったことすらあってそういった方々は論外としても、毎日せっせと魅力的なコンテンツを生み出すブロガーには頭が下がる。

頭が下がるというのは俺には全くもって出来そうにないからで、三日坊主癖、仕事で疲れてブログまで書いてられない、記事に出来そうな話題が思い浮かばない…諸々理由が浮かんでは消えるのだが、自分自身の性格的な問題は勿論多分にあるがそれ以上に、“毎日の更新”を目標にすると自分の生活がブログを中心に回り始める気がして、それが嫌なためにブログから遠ざかっていた節があった。

今日は何を記事にしようか、この話題ならPV稼げそうだ、下調べをして分かりやすい内容にしよう、隙あらばアフィリンク入れてやろう…考え出すとキリがない。この際限のない沼に吸い込まれたくない。足をちょっとだけ浸けて、田んぼに入ったような感触を確かめる、そのくらいが俺には丁度いいしお似合いだ。

だから、更新するためのエントリーじゃなくて本当に残しておきたいことを、他人が読みたいかどうかや役に立つかどうかに関わらず、いつでも好きなタイミングで書くとかそういったブログとの向き合い方をしていこうと思いいたった。“ブログの継続=現在完了の継続”といったイメージで。

週1でも月1でもいいじゃん。俺はそんなに意識高くないんだよ。今年はそういう俺に合ったやり方で続けていきます。


おわり

コンビニの魅力、あるいは逃れられない怠惰

コンビニってホントにあってほしい場所に立地してる。
最近毎日のように仕事終わりに寄ってる。
スーパーより若干値が張るし、余計なものまで買ってしまうんだけど。
コンビニはその名の通り利便性を買っているわけだ。

詰まる所、面倒くさがりなのだ。
仕事が繁忙期だから仕方ないと自分に言い聞かせてるけど。

コンビニに話を戻すとATM。特にセブン銀行が便利すぎる。めちゃくちゃ捗る。
住信SBIネット銀行をメインに使ってるんだけど、入金も引出しも24時間いつでも何回でも無料。
正直二束三文の銀行の利息より手数料の節約を考えた方が幾らか建設的だと思うから、これは嬉しい。
住信SBIネット銀行は振込も月3回まで無料だし、口座開設しといて損はないと思う。
スマート認証っていうアプリもかなり使い勝手が良くていいと思う。

結論言うとマジ住信SBIネット銀行おすすめってこと。

新年に「100のやるべきこと」リストを作るライフハック系記事を読んで試したけど無理だった

001
002 寝オチする前に歯を磨く
003 キッチンルームを掃除する
004  20時前に帰宅したら自炊する
005 auの¥0回線を1月中に解約する
006 docomoIDを整理する
007 ソファを買う
008 録り貯まっているアニメを消化する
009 ジャンプフェスタ2016に行く
010 ビジネスバッグを買い替える
011 ポケモンASをクリアする
012 ビジネスシューズを買い足す
013 定期的に筋トレする
014 TOEICの勉強をする
015 折り畳み傘を買う
016 毎月映画館で映画を見る
017 「迷路館の殺人」を読み切る
018 テレビ周りの配線を綺麗にする
019 テレビゲームを買う
020 実況プレイをやってみる
021 それをYouTubeにアップロードする
022 課の先輩とサシ飲みする
023 
024 
025 


マジで無理だった。1/4もいかなかった。
ずっと下書きに保存しとくのもなんなんで記事にする。最後らへん絞り出した感。