報連相とは“自己防衛”であり“上司のため”ではない、あるいは記録の重要性について
報連相の意識
新社会人になると、およそ最初の研修でマナーやら何やら社会人の振舞いを学ぶことになる。その時に「社会人はホウレンソウが大事ですよ~」ということをほぼ必ず教えられるだろう。社会人にとってのホウレンソウとは、当然、報告・連絡・相談だ。
この報連相、特に新社会人には面倒に感じる人が一定数いると思われる(俺もそうだった)。しかしそんな俺でさえ、社会人生活もこなれてくると、「ホウレンソウは面倒だ」から「ホウレンソウは大切だ」に意識が変化してきた。この変化は、早ければ早い方がいいと思うので、備忘の意味も含めこの場で発信したい。
なぜ、報連相が大切か
結論から言うと、報連相とは自己防衛だから大切なのだ。
大概の研修では、報連相は「上司や同僚と緊密にコミュニケーションをとり、情報を共有することで仕事が円滑に進む」という文脈で語られることが多い。それは勿論、正解だ。しかし、それはあくまで最終的な結果のお話に過ぎないというのが俺の見方だ。
もう少し分かりやすく、極論じみた言い方をすると、報連相の根源的な意義とは責任の分散もしくは責任のなすりつけ(自分のリスクヘッジ)だ。仕事には、大小の違いはあれどトラブルがつきものなのは言うまでもない。いつでも自分がその当事者になりうると危機意識を持ち、予め準備しておく作業が報連相だと考えを変えるといい。
それでは、実際に自分が何らかのトラブルを起こしたときのことを考えてみるとどうか。
報連相を怠っていると、トラブルの発端になった行動は、俺の勝手な判断の結果ということになり、最終的には始末書なんかを書かされてしまうだろう。
一方、報連相をこまめに行っているならば、俺が引き起こしてしまったトラブルでも、当然事前に同僚や上司に相談したうえで実行されているはずだ。つまり、同僚や上司も納得した上での行動であったということになる。俺の行動は間違っていたかもしれないが、同僚や上司はそれを修正するチャンスがあったにも関わらず、それを怠った。つまり、俺にも責任はあるが、同僚や上司にも責任があるという状況を生み出すことができる。こうなってしまえば占めたもので、俺が咎められるウェイトは軽くなり、ここからどのように事後対応をしていくかという建設的な話合いになるだろう。
これが、報連相がもつ本当の役割、自己防衛だ。
そうして考えると、報連相はとくに部下側にしてみればメリットしかないのだ。こまめに行うことで、自分の業務の進捗や正誤などに意見がもらえるだけでなく、トラブルになるようなミスがあったとしても自分ひとりの責任になるようなこともなくなる。
だから新社会人こそ、このような「報連相を利用してやる」という意識を本来は早めに持つべきだと言えるだろう。
可能な限り、記録する
ここまでは、報連相の考え方を変えるような話を書いてきたが、最後にメソッド的な話をしておきたい。
それは、報連相を目に見える形に残すということだ。例えばグループウェアやメールなど、日時が記録され、削除が難しかったり自分の手元にログが残ったりするようなツールを使うことを習慣化すべきだ。
それこそ些細なことなら口頭でもいいのだが、対外的なアクションなどは、一度トラブルになってしまうと内部でのトラブルに比べてより慎重な対応が求められることになるので、絶対にこうした形で記録を残して責任を分散しておくべきだ。日時が記録されることで経緯が歪められることがなくなり、目に見える形にすることで言った言わないの水掛け論を防ぐことができる。口頭でしか報連相できなかったとしても、「先ほどはありがとうございました。○○のように対応いたします。」といったお礼を装ったホウレンソウ・メッセージやホウレンソウ・メールを送っておくべきだろう。
ここで記録の重要性を理解しておくと、議事録を書くことなどが、その延長線上にすんなりと腑に落ちてくるようになる。
ただ、この「記録する」は対外的にはマストなのだが、職場の中でも徹底しすぎると嫌なヤツ扱いされかねないので、少し程度を弁える必要はあることは注意しなければいけない。
最後に
報連相を面倒だと思う人も、過去の俺がそうだったように、これを見て考え方が改まることがあるなら嬉しい限りだ。
いい大学出て仕事ができないのは“つよくてニューゲーム”に慣れきった愚者だからだと思う
何を隠そう俺は仕事ができない。
まず、俺は自慢じゃないが仕事ができない。恐らく他部署の人はそれほど仕事ができないイメージを持っていない。もしくはそうであってほしいと俺は強く願っている。けど、こと同じ部署の方々からは仕事ができない烙印を押されていることだろう。そう判断されるようなそこそこのトラブルを特に2年目で何度か起こした自覚がある。それでなくとも、どこかしら仕事にミスが見つかって100%完璧に自分で業務をこなせたことがないのではないかと思っている。
一体なぜ俺はこうも仕事ができないのか。
ここから先は俺の俺による俺のための言い訳だ。こうでもして納得しないと自尊心が保てないのである。俺と同じ境遇の人は傷をベロンベロンに舐め合おう。そうして、明日もなんとか出勤しよう。因みに俺はお盆休みで次の出勤は8月17日だ。
皮肉な学歴フィルター
俺は所謂“いい大学”出身だ。大学受験をしていない人でも名前を知っているレベルの大学。因みに東大ではない。ここで敢えて「東大ではない」と前置きしているのは、主語を大きくしすぎて東大を貶めるなど畏れ多いからだ。俺はあくまで東大レベルではない“いい大学”出身者だ。
ところが残念なことに、いい大学を出たからといってそれに見合った仕事ができるかというとそうとは限らない。そうした傾向があるということは恐らく事実だろうが、少なくとも俺には当てはまらない。同じように採用してみたはいいがイマイチ…と思っている人事は日本中にいると思う。
それでも人事が俺みたいな人間を採用しつづけるのは何故か。それは「いい大学を出てるからいい人材だと思った」と言い訳が効くからだろう。つまり、仕事ができない人材だと採用後に判ったときに、「何でこんなやつを採用した」と言われることを想定した予防線として学歴が存在している訳だ。これが所謂学歴フィルターだ。言い換えると、「こいつは出来そうだ」と思っても、そこそこ以上の大学出身でなければ採用しないという行動原理が働くということだ。俺はそのフィルターに助けられて何とか就職できたと思っている。学歴フィルター様様だ。
採用側があくまで自分の身を守る目的で使っているはずの学歴だが、それが採用後も尾を引き、仕事ができる・できないの比較材料に使われるのはある意味身から出た錆かもしれない。学歴フィルターのおかげで採用されたであろう俺は、その学歴に足を掬われているということになる。
難関大合格の鍵は“つよくてニューゲーム”
前述の通り仕事のできない俺が何故難関大に合格できたのか。
考えてみると難関大に合格する人間には2種類いる。天才と凡人だ。天才は天才らしく天才然として合格する。一方の俺は凡人の側だった。
凡人が難関大に合格する方法は、分かりやすく言えば“つよくてニューゲーム”状態になることだ。つまり、入試という本番に前もって、分からない問題があったらその解法の流れや解答の作り方のメソッドを自分の中に落とし込んでおくのだ。反復と色々な形式の問題に幅広く触れて慣れておく。これを繰り返すことで凡人は入試を初めてプレイする前に“つよくてニューゲーム”を選択できるようにしておくのだ。
今になって思い返してみると、俺はこの「ミスを自分の中に落とし込んで次は丸を貰う」という作業が比較的得意だった。だから受験で合格できたんだろうと思っているし、少なからず当てはまる人は多いんじゃないだろうか。
仕事ができるとは“賢者”であること
3年目になって益々実感しているのだが、そもそも勉強と仕事は全くもって違う。3年目になってよりハッキリしてきた仕事のイメージは、簡潔に言えば「全てが本番」だ。大学入試のように前もって模試だとか予想問題でミスをしてもいいといった状況は殆どない。
だからこそ痛感しているのは「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」ということだ。全てが本番の状況での最適解は“歴史に学ぶ賢者”になることであって“経験に学ぶ愚者”になることではない。つまり、仕事をするにあってはまず答え(過去の資料=歴史)を見るべき、ということだ。大学受験で通用したはずの“つよくてニューゲーム”メソッドはどちらかといえば“経験に学ぶ愚者”に近いもので、常に本番の仕事とは相性が悪い。だから、仕事ができない俺たちに必要なのは、仕事術だとかそういうものじゃなくて愚者から抜け出す意識なんじゃないか?
愚者としてでも仕事をこなしていく
ここまで書いてきたのは、俺が2年目の時に何となく思っていたことが下書きとして残っていたので、それを再構成したものだ。
3年目に入り、自分の中でもある程度仕事を回せるようになってきたんじゃないかと思っている。けどまあ、人間そんなにすぐに変われるわけではない。何分、大学受験合格という成功体験と結びついた方法論だからどこかしら捨て切れないところはあるだろう。でもそれでも仕事は降ってくるし、何とかこなして給与を貰わないと生きていけないのだ。そういう意味で、言い訳として、或いは「例え“愚者”でも仕事しないと食いっぱぐれるぞ」という事実確認としてこの駄文を残そうと思った次第だ。