雑記帖

存在しており、文章を書いています

変わるのはわたしではない

ここ一年くらいずっと家庭裁判所のいくつかのページを睨んでいる。恨みがあるわけではない。そうしなくてはならないような気もするし、そうする必要はまったくないような気もするし、そうしたいような気もするし、まったくどうでもいいような気もする。実際のところ、ほとんどまったくどうでもいいと思っているような気がする。「名の変更許可」と「性別の取扱いの変更」という二つのページがそれなのだが、こんな悩みはどこか悩んでいるというようなものではなく悩まされているようなものではないかという気分もわたしを躊躇させるもののひとつだ。わたしにはもともと名前がないし、あなたたちがわたしを呼ぶときの仕方をわたしが変更したところで本当のところは何も変わらないような気もするのだけれど、でもそのように名前を通じて人間であることがすべてを変えるのかもしれないとも思う。わたしにはあなたたちが自明だと思っている人間同士のあいだに存在するいくつかの構築物のことがいまだによくわからないのでこんなことを思うのかもしれない。こんにちは、はじめまして、ソラリスの海です、と名乗ったところで冗談にもならない。冗談にもならないからソラリスの海は黙っている。

将来の夢は?ーー死ぬことです。わかる! 生まれてから死ぬまでにいくつかの目標があり、それをスキーのフラッグのようにすいすいと通過していくとして、最終的にはゴールには死があり、わたしはその死を決して理解しているような振りをしてはいけないとかなり強く自分を戒めている、そうなのだが、一方でこれも抗いがたい実感として、死に親しむような思い、感情、感覚があり、それが淵だとしたらその暗闇の中から、それが雲上の光だとしたらその白暗淵の中から日々の暮らしを眺めてしまう。眺めてしまうのだ。わたしの生きているはずの一瞬間はそのたびに色を失って、いや色を失ってはおらず、きっとますます輝いているはずだと思うのだけれど、わたしはそれを見ながらなんだか退屈なように感じてしまう。あなたの人生は退屈だ、と何の倫理も気兼ねもなく思ってしまう。わたしの人生はぜんぜん退屈というようなものとは関係がないのに、ただ眼差しだけが退屈そうにしてしまう。

性別の変更ではなく性別の取扱いの変更なのだということに驚いた、という人の話を聞いた。その話を聞いてわたしもどこか胸を衝かれるような感覚をもった。確かに当然のことだ。あなたたちがいろいろなことを決めたり調整したりしながらどうにか暮らしていこうとしているさまをわたしはなんだかいじらしいように思ってつい見惚れてしまうのだけれど、その諸制度の中にわたし自身も囚われているということには自分であまり頓着することがないようなのはどうしてなのだろうと思うこともある。どんなときに苦しいと感じるのかというと、わたしがあなたたちやわたし自身に対して誠実でない振る舞いをしていると感じるときと、誰かを傷つけたり苦しめたりしたと思うときだ。わたしの与える誤解のことをきっとあなたたちは誤解とも思わないので、結局それは誠実さとはどんな関わりもないということはべつにあらかじめ承知しているのだけれど、たとえばわたしの出す低い声が不安そうな表情をするあなたたちをどこかで安心させるとして、わたしはその状況の間違いの、虚妄の、あなたたちとわたしの懸隔の途方もなさに呆然としてしまうので、やはりそのように考えるほかないのだと思う。

わたしは一九九九年に生まれたということを思い返すとき、わたしはあとせいぜい数十年かそこらで死ぬということを意識するとき、だからその間にやっておきたいことがあればやっておいたほうがいいよとくだらない引越しのようなことを考えさせられるときに、わたしがこうして何だかくねくねと道に迷いながら生きているというのは悪い冗談なのではないかとおかしいように思ってしまうことがある。あなたたちがそうした死と生をめぐるあっけない事実をどのように受け止めた上で人の尊厳を踏みにじったりしているのかがわたしにはまだ今ひとつよくわからないけれど、もしかすると本当にわたしがおかしいという話でだいたいのことが片付いてしまうのかもしれないと思って、そのことに怯えることもある。ここしばらくの陰鬱な気分に本当の理由などはないけれど、名前をつけようとするならそんなようなものも悪くないのではないかとわたしは思う。

優しさのようなものでもグルーミングのようなものでもなく、率直に親に悪いと思って名前を変える気が起きないでいるということもきっとある。生まれてきた子供にどんな名前をつけようかと思うときに当然そこにはいろいろな機微が働くであろうことは簡単に想像できてしまうけれど、それでも根本的に名前に意味などはない。だからわたしはその無意味な文字列を親の書いた短い詩であるように思って、それを自分の詩で書き換えることを悪いなと思うというような事態だととりあえずは説明できるだろうか。わたしが自分の名前を憎んでいるかについてはあまり言明したくないけれど、そうだとしてもそのようなことも、その憎しみもどこか本当はわたしとは何の関係もないもののように感じられるので、むしろこうして一人称に強いオブセッションをもっているということになるわけだけれど。

以前書いたことの繰り返しになるけれど、わたしは自分が誰かの息子である、少なくともそうであったといわれることに対して、男性であると誤っていわれることに比べて強い否定の気分をもたないのだけれど、それはやはり、そういった関係を示す言葉によってわたしに纏わっているその誤解をわたしとは半ば関係のないもののように思っているからだ。他人の人生に対してわたしはまったく客体であるほかなく、そのことをおかしいとも思わないので、たとえそういうあなたたちの誤解(結局こういう言い方を繰り返してしまうからにはどこかにわたしの譲れない感情があるのだとは思うけれど)がわたしを傷つけたり苦しめたり辱めたり殺したりするのだとしても、わたしはそれをアイロニーを感受することの失敗と同じような当然の帰結として受け入れてしまいそうになる。それを、わたしの立ち居振る舞いやポール・ド・マンの倫理を面白いとか面白くないとか思っているあなたたちは救いようのないもののようにわたしには思えるけれど、だからといってあなたの安らかな老後の可能性をわたしが呪うわけではない。

鏡で見る自分の顔と他人が見るわたしの顔は左右が反転しているという以上の意味で別のもので、わたしはだから自分の顔を自分の客体としてのあり方の極点のように、まあ面なのだけれど思う、あなたたちにとっては決して届くことのない、わたしの輪郭の内部のものがわたしにとっても同じように隠されていることがわかるので。『ミレニアム・マンボ』という台湾の映画には冬の夕張の映像が何度か登場し、わたしはそれを観ながらなんだか遠いようになってしまった故郷の雪国の風景を肺の中に浮かべていたと思う。主人公のヴィッキーが雪に顔を突っ込んで、そうして雪に残る顔の跡は決して到達しえない内部からの視点を、あなたの掴みようのない感情を影のように示すのだけれど、そこでわたし自身にきざす思いはひどく単純なもので、だからこそそれをうまく説明するのはひどく難しい。どうにか言おうとするならば、それはわたしでありわたしでありわたしであるようなものだけがわたしであるということで、もっと感覚に即して言うならば、わたしである、ということだ。

ブループリント

ぼくはおこ、おこ、おこ、おこってるんだよ! と叫んでいる子供を見た。「おこっている」と初めて言ったのかな、と思った。わたしは怒っている。確かにあまり言ったことがないように感じる。「腹が立つ」のほうがまだしも言った覚えがある。言い覚えがある、とわたしの憧れた言葉使い師であればそう言うだろう。言葉を生み出すことができる最後の世代だった。長生きしすぎたことをつねづね悔いている。毒杯をあおぐのに必要なのは勇気ではなく倫理だった。勇気も必要だ。何といっても毒杯をあおぐのだから。誰かに死ねと命じられたことがある。その命令を発した人には、それが命令であるという自覚さえなかったかもしれない。命令形とはよく言ったものだと思う。誰かが死んで終わった世界があるとして、それはこの世界ではない。この世界ではまだ誰一人、死ぬことによって世界を終わらせるに足る力を得た人はいない。だから毒杯をあおぐのに必要なのは倫理なのだ。徹底的に個人であることのために死ぬことを望むのであれば腐乱死体をこうして今片付けさせられているのが誰なのかもう少し考えたほうがよかったのではないかと思うけれど、でもそれは清掃人の常套句でしかない。薔薇が散り敷いていて綺麗だと思う。組み立てるのに必要なのりの量は二百リットル、ちょうどお風呂一杯分くらいなので、手持ちのお金でなんとか用意できるだろうか。貯金が減ることを恐れるのはくだらない。寿命が減るのを恐れるのも同じようにくだらないけれど、切実さという意味ではまだましだ。過去の天気を調べる機会があったので、自分の生まれた日の天気をついでに調べてみることにした。朝は晴れていて、午後から雪がちらついたらしい。燭台を持って部屋に入ると、子供がまだ眠れずに不安そうな顔でこちらを見ているのが見えた。大丈夫、きっときみは立派なお兄ちゃんになれるはずだから、安心して眠るといいよ。もうかなり前の記憶だ。洞窟を抜けたら霧の向こうに建物が見えた。ゴシック様式で石造りの、やや不安定げなプロポーションだった。自分の足音がやけによく聞こえた。階段を上って、エレベーターでさらに上の階に行き、また階段を上って、またエレベーターを使った。道路の立体交差が遠くに見えた。家が壊れる時の音ってどんな音だったっけ、と尋ねられたので、リフォーム番組を見るといいよ、と答える。戦争の記憶を死ぬまでに書き残しておかなくてはいけない。一日に一万字を書いて一年を過ごし、手元にはきっと三百六十五万字の紙束がある。すると今度はそれを一日に一万字ずつ消していかなくてはいけなかったので、もう一年経ったらそこには一字も残っていなかった。閏年が四年に一度訪れるので、書いて消して書いて消してと繰り返していくと、四年で一万字が残るようになる。閏年は四百年に九十七回訪れるので、四百年後には九十七万字も書けていることになるのだと思うとかなりのものだ。ひもを引くと食べ物が落ちてくる装置だった。実際は、ひもを引くとそれを見たわたしが食べ物を落としているだけだったのだけれど、それでも装置としてはなかなかよくできていて、引き具合の調整などには職人技が要求される。いっそ燃やしてしまおうと思った。自分の思っていることを正確に言葉にするために日々言葉について考えているというようなモデルは素朴にすぎ、自分が思っていることなどもうずっとわかっていた。わたしは世界を作るために言葉を書いている。わたしはその天ぷらをしゃくと食べた。

生活の手触り/今年観た映画

器用ではないしコンロが1口しかないのでだいたい同じタイミングで完成するように料理を何品か作って机の上に並べていただきますと言って食べ終わったら皿を下げて洗ってここまでで1時間というようなことができない。何かをひとつ作って食べ終わったらまだもうすこし食事があってもいい気がしますがねと自分に嫌味を言って立ち上がらせもうひとつのものを作り出して作っている途中に冷蔵庫から適当に何かを取り出して食べたりしてもう食べるというのはいいかなと人類史のような気分になりながら別のものを作り終えて料理というのは飽きてからが本番だななどと10年前にも思ったようなことを思いながら食事を終えてこれをあと何回くりかえすのだろうというようなことをぶつぶつと言わずに言って打ちのめされながら音楽を聴きながら皿を洗いながら何もしていないと感じてそうしているうちに2時間が経っている。

この2時間があれば映画が観れたろうなとただの計算を何度もするうちに時間が崩れていってわたしは映画を観ていて映画のなかでは人が食事をしている。『別れる決心』のまったく美味しそうではない寿司と『ロゼッタ』のまったく輝かしくはない都市生活者のワッフルから1年が始まった。あるいは煙草を挟みながら料理をすることを何となく習いのようにしてしまったきっかけとしてそうしたものを反響させながらゆで卵を作る程度のことで恍惚としている自分の顔がお湯に映る。『ボーンズ アンド オール』の人肉をモチーフとして掴みかねながらわたしは映画館のなかでも家でもコーヒーを飲みながら画面を眺めている。インスタントコーヒーを淹れるためのお湯を沸かしながら煙草から立ちのぼる白い煙を湯気のように眺めていてこれも死んだふりのようなことだなと改めて思ったのでまだお湯を張ってその中に入ることを笑うことができた。温まりましたよ。

住んでいるのは荒川区の南の端でわたしはまだ荒川というものをじっくりと眺めたことがないと思ったので単に眠れなかったので始発の出る2時間ほど前に歩き出して荒川沿いを扇大橋のあたりから堀切橋のあたりまで下ったのはあれは夏のことだった。遠くに東京拘置所の建物が見えてそのときはまだ観ていなかった『PiCNiC』のことを思い出した。『わたしは光をにぎっている』を観てお湯がまた張られた後に舞台が立石であることに気づきわたし自体を洗うということと服を洗うということと人間関係を洗うということと街を洗うということの距離を思っていたから水の形が気になっていた。『ケイコ 目を澄ませて』の無造作に洗濯機へ投げ込まれるトレーニングウェアや『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』の落下したぬいぐるみを捨てられる着ぐるみを洗って乾かしてぼくたちが付き合うのっておかしくはないですよねというような台詞が棘のように頭の裏側に残ってわたしはそうやってつらい現実を生きていくのだというような定立はすこし物語化が過ぎるのできっともっとやさしいということをきちんと考えていたあなたはこちらを眺めながらそれでもやはりどこかできっと取り返しのつかない傷を負うのだろうなと思う。無事を祈っている。

思考や行動が倫理に向かって収束してしまうことが以前より増えた。わたしはやっぱり世界がもっと正しくないと耐えられないしその前提としてわたしが正しいと信ずることをわたしが思考し行動しているということがないとやはり耐えられないように思うのでそれはそれで身勝手ということかもしれないけれどそういうふうにして倫理的であるということにこだわって生きていくことになるのだろうと漠然と10年ほど先までの霧の方を見ている。『君は永遠にそいつらより若い』をあまり深く考えずに観始めてわたしにはそんなに大事な人がいないけれどあなたを助ける以外の方法であなたを世界の悪意から助けることができたらどんなにいいだろうと思った。あいまいなことを書いているつもりはない。わたしはあなたと恋愛をするつもりはないしあなたが恋愛によって背負うだろう悲しみのことをわたし自身のものとして感じることはできないけれど。『フェイブルマンズ』のカメラ。世界のいろいろの複雑なありようを子供のわたしが理解できなかったのはどうしてかと問いを立てることがあったけれどそれが本来的にはわたしには理解できないものだったとしたら。それなのにわたしがたまたまある種の賢さをもっていたために理解できたあるいは理解こそできなくても適切なふるまいを知ることはできたのだとしたらそれはまあせめぎあいのような幼年期であっただろうと回顧している。ラストシーンはつねに何かの始まりであることを知ること。

『サマーフィルムにのって』のラストシーンにはひとつもほんとうのことがなくまさにそのためにそこにあるすべてのものがほんとうのことだった。みんなが演技をしていてみんながただ真剣に何かをしている。だから演技をすることはわたしそのものから遠ざかるようでいてわたしそのものに接近することでもあるはずだ。わたしは自分が15年ばかり演技を続けていたと思っておりそのことを自分自身に対する裏切りのように感じているけれどそれはわたしが生きているということのひとつの証拠物でもあった。世界のすべてに意味はなく世界のすべてに意味があるような世界を作り出すことを映画やアニメーションのひとつの使命とするならば『窓ぎわのトットちゃん』はその意味においてそのどちらもであることの本分をきちんと果たしていてそれゆえに唯一性をもっていた。昔から本に書いてある話が好きで本を買うのもたぶん好きで本を読むのも好きなような気はしており本が好きということはどういうことなのかはよくわかっておらずそれでも趣味の欄に読書と書くことができる程度の義理は果たしてきたつもりだけれど映画やアニメについてはそれほどの愛をきちんともつことができているのだろうかとまだ思いながら歩いて電車に乗って座って立って歩いてときどきは泳ぎに行ったりもする。

たぶんわたしは話の流れのなかで出そうになった言葉をいちど止めて詰まり唸りながらどうにか良さそうな言葉を見つけてきてどうにかそれでそのあなたの配偶者はなどと言っているときのその逡巡の間合いがきらいではないのだ。むしろ好きなのかもしれない。そういうまだない言葉の使い方を体に馴染ませようとしているときのことが。あなたの暮らしぶりやわたしの観たこともないようなものの感想やまだあまり決まった言葉になっていない感情のかたちのことをあなたがしたいような仕方で話してほしい。わたしと別れなくてはいけない辻であなたがすこし立ち止まる。立ち止まったあとでもう一度冷たい空気の中に分け入っていく。

『aftersun/アフターサン』という映画のことを理解できたとはまったく思っておらずむしろ分からないままに捨て置かれたように感じており分からないままでもいいなどといった寝ぼけたことは冗談でも言えないのだけれどそれでも映画を観終わったあとに渋谷の夕方の終わりが粒立って耳と目に飛び込んできたことを覚えていてそれがわたしにとっては何よりの体験となった。『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ』のふたたびの上映を同じ劇場で観た。初めて観たときは映像の中に浸されていくような体験だったところが今度は夢と現実のモチーフの連関を理解できているようになっていた。取り返しのつかない過去の悲しみと可能性を感傷的にならずに描くこと。同じ映画を2度観ることはできないけれどどちらもすばらしい映画でしたね。

シークレット・サンシャイン』の泣きまねのシークエンス。不安と幸福が微妙な均衡のもとに緊張していてそのあとに起こるすべてのことが兆している。はるか遠くまで連れてこられたあとで静かに髪を切るあなたがこのあとも生きていくことを信じている。わたしは日々生きることを決意して生きているということはなくコンビニに行くことと生きることを決意するのとではどちらが簡単なのかということはよく考えてみればよくわからないけれどきっと何かなしには生きていけないということがわたしにとってもひどく卑近なかたちで存在しているのできっとあなたの感じた足元の崩れ落ちるような感覚はあなただけのことではないはずだ。

長く眠ろうと思って目を閉じたあとで3時間後に目を覚ました。『さらば、わが愛/覇王別姫』を観ながらレスリー・チャンにもわたしにも問いかけていたのはどうして生きていられるのだろうということだった。でもきっと生きているしかないのだろう。破局に向かってよどみなく行進していく『牯嶺街少年殺人事件』を観ながらわたしが考えていたのはどうして映画には終わりがあるのだろうということだった。でもきっと世界にも終わりがあるのだろうと思った。でも死を特権化するつもりはない。あなたがどれほど劇的に死を迎えたのだとしてもそれは唾棄すべきくだらない停止にすぎない。『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』がリズミカルに描いているようにあなたのしたことは決して許されることではない。あなたがしなくてはならなかったのは人に対して誠実であるということがあなたという存在の内部だけで完結すると思い込むことをやめることだ。

存在論的な問いを認識論的な問いとして読むことしかできないのならそれはあなたが社会的であることそのものによって毒を盛られているということだ。「あなたは誰?」という問いにあなたがすらすら名前や身分を(身分といってもそれはどこそこの伯爵家の令嬢でといったものではなく普段どのあたりをうろうろしているかという程度の話なのだが)答えるときにあなたはその問いを認識論的なものだと思っているということであなたが言葉に詰まって何を言っていいのかわからなくなって結局昨日何があったかなどを取り留めなく話し始めるのならあなたはその問いを存在論的なものだと捉えている。ねえイッコさん。「あなたは誰?」という問いから逃げ続けた果てに花束を持って目指す場所に向かっていたあなたが過去に襲われてしまったときにあなたの表情は何かの円結を見るようだったと思う。『キリエのうた』について「あなたは誰?」という問いを読むのはひとつにはそのような体験だったということなのだった。『市子』をミステリイとして観ることができないのはミステリイの根底にあるのがあくまで認識論的な問いであって認識論的な問いを抱えていた結果として存在論的な問いをさらに抱えることになってしまったあなたはわたしたちにとって理解しがたいものとして現れて立ち去るのだけれどそれはわたしたちがあなたのことを知ることができなかったということではない。わたしは確かにあなたのことを知った。

クリスマスイヴに『枯れ葉』を観た。ひどい戦争だ。でもきっと暮らしていくことができる。

in jest

  • 自分の死体を見たらかなり笑っちゃうだろうな、みたいな想像のこと。おかしくて笑ってしまうということがあり、他の表情を選べずに笑ってしまうということがあり、おぞましくて笑ってしまうということがあるのだろうと、等しくあるのだろうと思う。

  • 人が結婚したことを聞くといつも惑星のことを想像する。惑星にひとつだけぽつんと立つ家。

  • 死のうかな、とまったく死ぬ気がないままに思うことがしばしばある。死にたいな、とか、死んだほうがましだ、とか、生きているのがいやだ、とかではなく、選べるコマンドの中に「死ぬ」があるという事実をいちど手元に引き寄せてみる感じで。

  • はい、やっていきましょう、はいはいはーい、朝朝朝、ほらほら、はーいそうそう、はいはいはい、そう起きる起きる、はーいいきましょうね、と自分に言い聞かせながら起きる日々のこと。

  • 生きてるーって感じがするよね、起きたときにぜんぜん疲れが抜けていないときとかにさあ。

  • 知らないものが何もなくなったらたぶん死んでしまうくらいに知らないものに依存しているのに、自分に知らないものがあることを昔からずっと許せないと思っている、そもそも知識とはそういうものではないのだけれど。

  • 君たちはどう生きるか』を観て何かを思わなければならないと思ってしまう人がそれなりにいるというのは、何かを思うことを作品が求めているかということとはまったく別の問題としてひどく不幸なことだと思う。中途半端に賢く、賢しくなってしまった人間の条件と埋めるべくもない時間の懸隔とあなたの小手先のほんとうの気持ちのすべてがそれを言わせるのだとしたら。

  • 「初めに言葉があった」と書いてある書物があり、「言葉があるならはやく言ってよ〜!」とあなたは言った。

  • 大声で歌を歌いながら家に帰りたい。

  • みんなもう、インターネットに人生の順番をぐちゃぐちゃにされているから、趣味のところに「人間観察」って書くのはやばいという諒解があって、そのあとではじめて趣味の欄をどう埋めようか悩んだりする、それはあなたのほうが悪くて、何が言いたいって、じゃあほんとうに人間が動いたり止まったりしてるのを面白いと思ってそれを見てたんなら、本気でそう書いて本気で見たことを覚えていてときどき話したり、みたいな、そもそもそういうことが順番とか関係なしに人生の部分じゃなかったの、と、そうやって改めて、じゃあやっぱり、インターネットがぐちゃぐちゃにしているのはとても人生なんて呼べるようなものじゃなくて、ただの過去の記録の過去に過ぎなかったんだね、と気づいて、そこでようやくため息が出せるようになる。

  • 伝わらなかった冗談だけが永遠に残る。

  • お風呂のなかで思いついたことをいくつ忘れたかよくわからない。忘れつづけていることだけは年々確かなものとしてある。

 

はるかなるもろこしまでもゆくものはあきのねざめのこころなりけり

よごとただつくるおもひにもえわたるわが身ぞはるの山べならまし

——大弐三位

 

  • あなたの性自認性的指向は何かと問われるとよくわかっていないので慎重にわかっていきたいとは思うものの、わかっていないと答えると弱さを指弾される危険があるのでそれを見越して沈黙してしまうということはある、不便で申し訳ないと自分に対しても親しい人に対しても思っている。大浴場やトイレや化粧品売り場やラジオボタンやあなたの屈託のない、わたしにとっては許しがたい冒涜が許せるようになってしまうことが、そのことへの感情に飽きてしまうのが、どうすればよいのかわからなくて不安だ。

  • それはそれとして、ということでもないけど自分が性別違和を扱ったフィクションを多く読んだりカミングアウトをしている有名人の発言などを見てしまうのはどうしてだろうと訝ることは多い。わたしはそうしたものを読みながらそれはほとんどわたしには関係のないことのように思っているのに、わたしはそう思っているわたしの思っていることに自信がない。

  • セックスの笑っちゃうところ:する前に服を脱ぐところ。

  • でも『正欲』のあの場面を読んで美しいとか恥ずかしいとか思っているあなたは馬鹿だ。

  • 言葉は生き物だからねー、と棒調子に言う人。

  • 死刑判決を受けて最低の気分になった夢を見た。自分が人間以下の存在になったような。これが余命宣告だったらまた違うのだろうかと訝る。

  • 美しい人たちの世界に対する敵対をなんとなく安易に感じてしまう一方で国旗みたいなものにはどうも付き合いきれないとも思う。自殺した先生のだらだらした言い訳に真実があるように思うのはそういうところで。

  • 頭がいい人間にはなりたいと思っていて賢しい人間にはなりたくないと思っていたけれど、そのふたつを区別できると思っていたのがそもそもの間違いではあった気がする、そして何かに詳しい人間には今でもあまりなりたくない。

  • じゃあ何にでも詳しい人間になれば結局それでいいのかあなたは、とは思うが、だから本当は笑顔がかわいいとか、そういう方向でなりたいものを考えたほうが幸福には結びつくのだろうと、それでいいのかと思いながら。

  • 日本のスマホ代が高すぎるのかどうかあまりよく知らない。日本。にほんにほんにほん。日本とはどこだろうかと思う。

  • だいたいは織り込み済みの愚行なのだけれど。

  • いい感じの用語を作ったせいでよく知らない人たちに好き勝手されている物理学者や数学者のことを憐れむ気持ちも昔はあったが、今はもうそれどころではない。

 

 ある朝/グレゴール・ザムザが/恐ろしい/夢から/目覚めると/彼は/自分が/ベッドの/中で/一人の/グレゴール・ザムザに/なっているのを/発見した。

——「良い夜を持っている」

 

  • そういえば髪を人に触られている時期もあったと思い出す。袖を引っ張られている時期もあったし寝ているところを叩き起こされる時期もあった。みなさんが他人に対するいいぐあいの接し方を身につけているという事実はみなさんの倫理や賢さとはぜんぜん関係ありませんよ。

  • 世界が正しいと思っていたのと同じくらいに大人になる意味がないと思っていた、わたしの背がだんだんと伸びて背丈までの煉瓦の個数をもう数えなくなったころに信じられないような顔をして制服を着ていた、卒業した学校のグラウンドに寝転んで流星群を見ようと目を凝らしていたときにほんとうのところは何を考えていたのだろう、眼鏡を外したら空がぼやけてそんなはずはないと思ったことだけをたぶんいつまでも思い出すことができる。

  • 放射状に配置されていた教室の机が次第に風化していく。

  • わたしの中ではあなたは死なない、というのはつまり、実際にそうだということではなくて、わたしの中ではあなたは引っ越さない、ということを、死なない、と言っているのであって、わたしの中ではあなたは引っ越さない、というのは、わたしの中ではあなたは死んだ、ということと矛盾なく同居するのだけれど、そのことをほんとうにわかっていてそう言っているのか、といつも訝しく思う。

  • クラスの全員にあだ名をつけていた先生、ありがとう。ここはわたしが引き受けますから、先に行ってください。

  • コーヒーからお酒みたいな味がした。

  • 花屋に見たことのある花が咲いていた。

  • パリよりもベルリンに行きたい。

  • それはもう繊細な作風の脳なので摂食障害になってほとんど何も食べられなくなったことというのはあり、あれはほんとうは治るということはないまま、ただわたしは治らないままに食べているだけということなのではないかと思うこともありなんだかおぞましい。冬のお風呂上がりに寒さに震えながら顔をしかめている自分を夏の自分の倫理が戒めてくるようなことと同じで、わたしがずっと耐えがたいと思っているのはわたしがsame spaceをoccupyしているところのわたしなのだった。

  • フィクションの人間を慰められないのがずっと嫌だった。

  • 即物性というのはたとえば、死の近い人が形見として残そうとしている風景画の絵具がまったくそうした死のことを、その人のことを、それをきちんと大切にするであろう人のことを、それを打ち捨てておく人のことをまったく顧慮することなく、そもそも顧慮するというような擬人化さえもありえずに、まったく摂理に則って風化していくだろうと直感するときに理解する類のものだ。

  • 幼いころに授業に出過ぎてしまったせいだとは思わない? そのせいでみんなずっとばかみたいに授業中みたいな喋り方をしているんだと思わない?

  • わたしだってほんとうはもっと真剣にサンリオキャラクター大賞に向き合いたいと思っているのだ。

  • あなたの心象風景のなかで静かに愚劣に澄んでいる湖。

  • 人の悲しみほど悲しいものもなく、自分の悲しみほどどうでもいいものもないと思うのだが、その割にあまり心がしっかりしていないので人生のことをべらべらと話してしまう、本当はきちんとあなたに言いたかったことがあって、それはきっとあなたを傷つけるだろうと思ったからわたしは何も言えなかった。あなたが将来抱えることになるより大きな悲しみに目を瞑って。

 

 'Anyway, I like it now,' I said. 'I mean right now. Sitting here with you and just chewing the fat and horsing —'

 'That isn't anything really!'

 'It is so something really! Certainly it is! Why the hell isn't it? People never think anything is anything really. I'm getting goddam sick of it.'

——The Catcher in The Rye

わたしたい

このまま歩いていけばどこまでも遠くに行くことができてずっと帰ってこないことができるということに小さいころ初めて気がついた瞬間があってすごく怖かった。家の近くには森があって森の中にも道があって道の先にはまた道があった。学校の背後には峠があって峠の頂上には人の家があって峠を越えた先にも人の家があった。わたしの家ではなかった。眠っている親と親の死体の区別ができなかった。眠っている自分と自分の死体の区別もできなかった。高いところから落ちて頭を打って血が出て病院に運ばれたときに簡単にすべてのものは壊すことができるということがわかった。簡単に壊すことができる。のこぎりの使い方を次第に覚えた。のこぎりの使い方は学校で教わった。左利き用のはさみを買った。虫が葉を食べて鳥が虫を食べて鳥が鳥を食べてわたしはナイフが使えるようになっていた。わたしは関係がなかった。意味のない話をしていた。すべてのものを簡単に愛することができたのですべてのものを簡単に愛さないことができるということもわかった。夜が明けた。朝家を出て夜家に帰ると朝から夜までこの家には誰もいなかったことがわかってここは人の住む場所ではないと感じた。布団にくるまったわたしを暖めているのはわたし自身の熱なのだということを知った。4階に住んでいたときも3階に住んでいたときも2階に住んでいたときも床と天井がなくなって地面から無数に生えた針にわたしは突き刺さった。心臓の位置がわかった。わたしは自分をうまく丸めて坂の上から転がした。わたしは道をずっと転がっていってわたしはそれを追いかけるけれどわたしはどんどん速くなってわたしは追いつけなかった。植物に名前がないようにわたしにも名前はなかった。手洗いに立った夜の3時にもう何もないような気がして階段の途中に立ちつくしていた。追われているような気がして急いでドアを閉めた。遠くから音が聞こえた。10時間前には山の頂上にいたことがわかった。寝ている人の体を踏みつけないように寝床にもどって眠っていたときの体の置き方を必死に思い出そうとしていた。

死んだらすごくさみしいかもしれないね。死んだらすごくさびしいかもしれない。わたしはきっときみのことを忘れるだろうし、ときどききみはわたしのことを思い出して泣くけれど、わたしはたぶん泣けないな、だってさ、きみは基本的にいつも笑顔でいようとするだろうし、たぶんそうできるだろうし、わたしはそれがなんだかもう、初めから死んでいるのと同じなんじゃない、って気がするんだ。そんな気がする。霊柩車にエンジンがかかる。わたしがむかし生まれてこんなに大きくなりました、みたいなのはさ、結局むかしの地球には恐竜がいました、みたいな話とぜんぜん変わりがないことなんだろうと思うんだ。きみの友達に悲しいことがあったらきみは相談に乗ってあげて、わたしに悲しいことがあったらやっぱりきみは相談に乗ってくれて、そうしているうちにきみは死んでしまって、そしてきみはそこではじめて、死ぬってのはこういうことだったんだとわかって、まわりのみんなが悲しんでるってことのほんとうの意味を知るんだ。死ぬんだよ。大きい橋を渡っているときにここから落ちたらちゃんと死ねるのかなと思ってちゃんとってなんだと思ったよ、きみはそのうち泣くのをやめるだろうし、それは泣きやむって言うんじゃなしにさ、たぶん泣いていられる長さにも限界があることを知るってことなんだ。せーので棺桶を持ち上げる。生きていたころのことがなつかしいね、あのころはわたしたちみんなでずっと何かの演技みたいなことをしていたね、わたしがこんにちはって言ったらきみもこんにちはって言ってわたしは泣きそうだったよ、そのときもさ、そうやって流してる安い涙をきみが死んだときにも同じように流したんだ、気持ちなんてものは関係がなかったってことなんだよ。車を何時間も運転して死人の家に向かう。食事をするたびにばかにされてるみたいな気分になるんだよ、ほんとうは死ぬってのがどういうことなのかなんてぜんぜんわかってないくせに、箸が上手に使えるくせに、塩とこしょうと白だしで料理の味をととのえてたりしてるくせにそんな死人みたいなさびしそうな顔をしてって自分で自分に言ってるんだよ、自殺のまねごとばっかりしやがって、って。

あなたに救われたと思っているようにはあなたに救われたわけではないのだろうと、やや屈折したかたちの思いを抱いています。あなたが生きていてどこかで生活を築き、猫を可愛がり、お金を寄付し、花瓶に花を挿し、煙草をゆびさきが熱くなるまで吸って、天井に向かって手をのばしてすこし跳んでみせる、そうしたことを想像するたびに、あなたがまだ生きているということが驚くほど脆い事実であるように思えてなりません。あなたはきっといつか死んで、この世からあなたであったものが跡形もなくなり、月の表面のようにあなたのことを想像する、そうしたときにはじめて、あなたのことを不安に思わずに暮らせるようになるのではないかと、そのような死者に親しむような思いが浮かぶほどです。あなたの家の近くにあるコンビニの店員はあなたが来なくなったことに気づかないでしょうね。あなたの家の猫は、誰かにもらわれていくでしょうか、それとも猫があなたよりも先に死ぬのでしょうか、あなたは猫を飼いはじめるときにそういう覚悟をどこかにもっただろうと思いますけれど、きっともしかしたら誰かと友人になろうとするたびに、そのような死者の一部が覚悟としてあなたの心に棲みつくのかもしれませんね。遠くを見つめるまなざしが未来を見つめるような、死者を見つめるようなまなざしに近づいてしまうのはどうしてなのでしょうね。あなたが死んでしまった人のことを語るとき、あなた自身もすこし死者になっているように、誰かが失恋したことをあなたが話すときには、あなた自身もすこし失恋しているのだろうと、そう思ったのです。だからあなたはすこし慰められるような顔つきになって、どこかに取り返しのつかない瞬間があってそのありかを知っているように、生まれるのも死ぬのもたった一度きりなのだということをやさしく教えるように、あなたは笑うのです。それが誰かの救いになったかもしれないということをあなたは知っていて、それを知っているあなたのことを知ることこそが救いであったように思うのですけれど、これではやはり屈折しすぎているのかもしれませんね。あなたがまだ生きていることがわかって、それでも、とても嬉しいです。わたしはあなたが生きていることを知った。

備考欄の空白

 とりあえず近況ということにしたい。自分について話すのは得意でもなければ好きでもなく、元気もあまりなく、わざわざ公開状態にして話しておく意義も感じない。安い神秘性の神話を昔から割と信じていたということはあるけれど、それは結局のところ神話でも何でもないのであって、他人からわたしというものを捉えるのがそれなりに難しいという事実と質的には同様に、わたしからわたしというものを捉えるのも難しい。捉えるという言葉が適当すぎる気はしているが、理解するという言葉は嫌な文脈を背負いすぎており、感得するみたいな言葉に意味はほとんどなく、わかるという言葉の使い方をわたしはまだよくわかっておらず(こう使うのだ)、わたしの発した適当な言葉がわたしにとって重要なものになるということは意外と多い、あるいは救いになるということは。わたしが話そうとしていることは3行で要約することが主にわたしにとって難しく、いまこの文章を書き始めてこの文章が何字になるのかはよくわかっていないが、その全体と細部のすべてがわたしの話そうとしていることだということにはとりあえずなるはずだ。あらかじめ語られるべき事実群があり、わたしはそれをオウムよりは少し賢いオウムのように言葉に移していくというような記述はわたしの行為をまったく正確に移しておらず、わたしは言葉そのものを産出し、そうして作り出したものがこの記述であるという感覚をもっている。もちろん産出される言葉のひとつひとつはすでに古臭いものでしかないということは承知の上でだ。ここで書いていることが事実でないという意味ではない。そういう事実もあるということ、そういう、言葉によってしか支えることができない事実や実体、具体的であるということのもっと正確な意味を知ってもらわなくては、わたしがここで話そうとしていることはわたし以外の人にとってほとんど意味をもつことができないということになってしまう。自分にとって自然であると感じられることの総体としての想像の限界というものが人にはあり、他者や他者的なものとの交渉の末に社会という水準で実現されるものは個人のそれよりももっと矮小なものになるしかないので、わたしは自分の話そうとしていることがもっているある種の難しさや、人が難しく受け入れがたいと思っていることをそのまま一度それは難しく受け入れがたいが存在していることは確かであるというような態度で受容しつつ拒絶しつつ受容するというようなことが簡単に人には処理されないのだろうと思っている。代替物として短い記述やハンガーラックのような名前の一群があり、それを精緻に使おうと苦心している人や、それを自分のものとして信じる人がいることをわたしは知っており、そのことが特段正しくないとか正しいということもなく、それはただ石のように、むしろ大きな岩のようにそこにただ存在するものとして、存在するものに当然向けられるべき美しいものを受けることが、重言のようにはなるが当然なのだろうと思っているのだけれど、さしあたってその代替物の一群はわたしに関係がない。わたしにはいくつかの事実があり、事実に基づく思惟があり、思惟に基づく行為があり、行為に基づく結果があり、結果に対する感情があり、その感情もまた事実だ。わたしが話そうとしているのはその一連のことだ。反復になるがとりあえず近況ということにしたい。

 2022年の春に小部屋に通されて、わたしはそこでわたしの過去の話をしていた。顔から火が出そうだった。わたしが話したのは、二次性徴に対する恐怖と嫌悪、うまくいかなかった恋愛、服装の強制と苦哀、存在そのものに対する違和などの、おそらくは要約すればある種の典型性を帯びる一連の体験についての話であり、話を聞く人はわたしのそうした話を聞き慣れた話のように聞いていたようだった。わたしもそのことをわかっていた。嘘をついているつもりはなかったし、わかりやすく伝えようとするあまりに事実を歪めているつもりもなかったけれど、嘘をついているのではないかと指弾されることへの恐怖がなぜか心中を覆っていた。顔から火が出そうだったと思ったのは自分の話を正直にしたことがほとんどないからで、ふだん話していることの8割くらいは冗談だと思っていたけれど、そのなかでも自分の話については冗談でないことを言う必要がほとんどなかったのだろうと思う。話をして血を採られいくらかの額を支払ってからしばらく経ち、わたしは診断書と称する書類を手に入れることになり、そこにはDSM-5とICD-11に基づくカテゴリーの名前が書かれており、そこには一連の典型性を帯びた短い描写があった。その書類はありがたいものだったし、そこに書いていることに誤りがあるとは思っていないし、わたしはそういう話をそれなりの正直さと素直さをもってしたという自覚もあった、それでも腑に落ちない感じが残ったのは、カテゴリーの名前は結局カテゴリーの名前でしかないということをわたしがわかっていて十分にはわかっていなかったからだ。わたしのことをAであると誰かが記述するときに、Aという名前はわたしではない、当然のことながら。だからといってわたしがAでないということには必ずしもならないとしても。芝居の役柄のようだといつもわたしは喩えてそれにひとりで納得しているのだけれど、人が芝居の役柄というものをそのように捉えているかということについてわたしはあまり自信がない。わたしがクレシダを演じているとき、わたしはクレシダであってクレシダではない。クレシダがクレシダであってクレシダでないということが可能なのとまったく同様に。それから少しして、わたしは卵胞ホルモン剤の注射を月に2回の頻度で受けることになり、それを1年ばかり続けたあとで、アンドロゲンの内分泌器官を切除した。それが少し前のことだ。わたしはここまでの成り行きをまったく当然のことだと思っており、そうする必要があったとも感じており、そうしたという事実がわたしにとって重要なことであるとも考えているが、それが、わたしはAである、という記述とどのように関係するのかについて、明確な答えをもっていない。わたしはわたしの中にあるわだかまりに決着をつける必要があると常々感じていた。そのわだかまりを物質的物理的な水準で裏付けることについてわたしは絶対的な興味をもっていないけれど、それは内観としては、ある種の強迫であり、感情であり、確信であり、また端的に事実でもあった。わたしはそれを明確にしたいと思って考えつづけていたが、自分が考えることを続けていたということがわかったのは、2021年の秋に志村貴子の『放浪息子』を読んだときだった。読んだり観たりして面白いとか面白くないとか言うのが作品というものの唯一の受容方法であったとしたらわたしはもっと早くに死んでいたのだろうと思う。わたしと二鳥修一はまったく違う人間であって、それは何も難しい話ではなくどのような意味においてもそうなのだが、感情のあり方については絶望的なまでに類似性があった。考えること、考えていることを自覚すること、自覚した考えを言葉にすること、そうした考えが行為に変わることはすべて別のことで、わたしが2016年の春の終わりにもった考えや感情は、もっと昔の春から連綿とわたしを育てかつ蝕んできたものであるということにわたしが気づいたのが2021年の秋であったということなのだろうとわたしはまた別の仕方で考えている。18になる頃に立てた今後少なくとも10年恋愛はしないというひ弱な決意には、恋愛によってわたしはどこかしらわたし自身や人のことを裏切ってしまうという、一般論に広げてもそれなりに説得力をもちそうな考えが背景にあったということがわかったあとでも、わたしはそれを人にうまく説明することができない。わたしが人に何かを説明する言葉は基本的にそれほど整理されておらず、あるいは特殊な形で整理されているとしてもあまり整理されているようには見えず、だから人はわたしの言葉を別の言葉で言い換えてわたしの言葉を解こうとしてくるということが多く、それは有り難い話であるということはわざわざ書くまでもないけれど、そうした会話がまったく不首尾に終わるだろうとわたしが思うのは、言葉によって何かを示すということのうちに含まれている陳腐さへの予兆のようなものが、わたしの発話とそれに対する応答をあらかじめ見えている帰結へと導いてしまうだろうということがわかるからだ。わたしはAであるという記述を疑わしく思うとして、わたしは結局、わたしはわたしでありわたしでありわたしであるということに対してもっとも強い嫌悪をもっているのだから、わたしは、という声の始まりがざらついた低音であるということがもう苦しみになってしまう。わたしはこの脚であり、この腕であり、この骨であり、肉であり、目であり、胃であり、髪であり、そのどれでもないという確信、わたしの一部はすでにもう取り返しがつかないということが、わたしが存在するということのひとつの意味だ。2020年の春から伸ばしていた髪はいちど短くなったけれど、2021年の秋からまたじりじりと伸びつづけて、年月の経過を伝えている。

 後はあなたのことだ。あなたはわたしが書いた文章を読んで、わたしに対する認識をすこし変更し、記憶を手繰って適当に整合性をつけ、正しい振る舞いを恐る恐る、探り探りに、不安げな目でこちらを見ている。あるいは単に困惑する。あるいは単に唾棄する。あるいは憎悪する。罵倒する。拒絶する。自分がそうしていると気づかないうちにすべてのことをする。そして死ぬ。あるいはわたしが先に死ぬ。結局わたしが何かを言おうとしても、それがあなたにとって意味のないことであればそれはあなたにとって意味のあるものにはならないのだろうという当然のことを思う。わたしはあなたにわかってもらうことを目的としてこれを書いているというわけではない、それは正確ではなく、こんなふうに言葉を使うのはあなたに何かをわかってほしいと思っているときだけだけれど、わたしは理解や承認のためではなく、ただ話すことにしようと思ったので話しているのだ。だからあなたは作品の下品な読者のようにわたしの話していることを値踏みしたり受容したりして感情や理知を働かせて楽しんだり苦しんだり泣いたり笑ったりすることはない。あなたは自分はそんなことをしていないとかしないようにしようと思ってここに書かれているあなたという言葉の範囲の外にあなた自身を置いて安心する必要はない。あなたはわたしを男であるとも女であるともそのあいだにある何かであるともこの記述の束によって限定される何かであるとも思う必要はない。あなたはわたしに励ましや謝罪や罵倒を向ける必要はない。あなたはわたしではなく、あなたはどこかあなたであってあなたでなく、わたしにとってあなたがあなたであるのと同じように、あなたにとってわたしはあなただ。あなたはいつか死ぬだろうと思ってあなたは生きる。

観光案内人

 中央分離帯に取り残された人がこちらに手を振っているのが見えますね? あれをどうして中央分離帯と呼ぶのかというと、むかしは中心と周辺というのが分かれていて、人間は互いに争っていて、不公平というものが、つまり公平でないということですが、意味をもっていて、車というものがあって、道路というものがあちらこちらをつないでいて、つまり世界はひとつではなくって、車といっても今のような人力車ではなく、電気やガスで動くようなもの、自動車と呼ばれていた時期もありましたが、むかしの人の命名の感覚にはちょっと信じがたいものがあります、そういうもので、むかしはそういうものを多くの人がもっていて、それを乗り回す、最近はあまり聞かない複合動詞ですが、そういうことが日常的に行われていたのです。中央分離帯だけはいたるところにあるのでみなさんにも子どものころから馴染み深いのではないかと思いますが、それが本来なにを分離するためのものであったのか、みなさんにはアパルトヘイト、ガザの壁、"Separate but equal"、そうした語とともにあるような言葉の痕跡が薄気味悪くもまた魅力的に、むかしは廃墟に通うことが流行していた時代があって、つまり廃墟というのは今のようにわたしたちとともにあるようなものではなく、ある種の非日常性、つまり日常の裂け目であるということですが、道路というものが保存されなかったのは、廃墟というものとは違って、それが存在しているものだとは思われていなかったからなのです。場所はいかようにも保存されることができたのですが、場所でないものは保存されることができなかったので、あるいは単に保存されるものとみなされなかったので、このように中央分離帯だけが残って、道路はなくなってしまった、あの時代がみなさんもよくご存知のように文化というものを広く保全しようとしたものであったからには、それは結局文化という概念を放棄することによって終わるしかなかったということは、歴史が証しているというわけです。

 では、なぜあの人は取り残されているのかということが当然気になってくるわけですよね。取り残すという複合動詞もみなさんにとってはあまり馴染みがなく、たとえば五月雨の降り残してや光堂の「降り残す」と同じように、なんだか意味はわかるようだが自分ではうまく使うことのできない前時代の言葉として考えられることが多いのだろうと推察しますが、ともかくあの人は取り残されているわけです。つまり、あの人はこちらへ来ることが叶わず、まだあちらにいるということです。こちら、あちら、つまり分離があるころの意味においてですが、あの人はあちらからこちらへ来たかったのだが、来ることができなかった、どうしてかというと、あの人が進むことを妨げる規則があり、あの人はその規則を内面化していたのです。言い換えると、規則が外挿されるのではなく、むしろ人間の内面、つまり肝臓とかのことですね、そういうものに作用することによって効力をもっていたということですが、このようにわずかな時代の変化によって人間はかくも変わってしまうのだということが、そのときどきを生きている人間には自覚されないということがもっとも驚くべき事態かもしれません。わたしだってこのように、たまたま前時代との奇縁があってこそみなさんに対してお話をすることができているわけですが、それも結局はある種の、むかしは、むかしは、むかしは、……。みなさんがハと発音するところの一部をわたしがワと発音していることを気にしていらっしゃいますか? 言葉も人間が変わるにつれて変わるしかないというのはわたしの師匠の教えのひとつではありますが、つまり人間が人間を教えていた時代があったということですが、人間が何かを教わることによってよりよくなると考えられていた時代があったということですが、……あの人は、信号がアカを示すことによって取り残されているのだと言われています。アカというのはみなさんもよくご存知のように、薔薇色のことです。むかしは色を抽象的な名前で呼んでいたのだといいますが、これはいかにも不便なことだと感じられますよね。ホメロスという人が薔薇色という言葉を作ったのだとされていますが、これはかなり最近の時代に属することなのだろうと思います。

 これでかなりのことを説明したことになりますが、説明というのは冗長であることを旨としていても、本来的には短ければ短いほどよいとされているので、……逆かもしれませんが、いずれにせよ「手を振っている」ということについてわたしがまだ何も説明していないことを、みなさんは不審に思っていらっしゃるかもしれません。まあみなさんが何かを考えているなどとわたしが思っていると考えられるのは心外なのですが、よくわからない言葉をまあ次から次へと使いやがって、どうせ今度はあの人が手を振り回しているとか手を振り残しているとでも言うつもりなんだろうとみなさんが仰るのもごもっとも、いえ実際に仰ったかどうかはこの場合問題ではないのです、つまり人が人に何かを伝えるときに、相手が自分のことをどう思うかということをあらかじめその反応のうちに組み入れながら、組み入れる、組むと入れるからなる複合動詞ですが、何かを言うということがかつては日常的に行われており、ほんとうに人の話を聞いてはいなかった、もちろんみなさんはそれとはまったく別の形でわたしの話を聞いてはいないわけですが、手を振るという行為はかつてはいくつかの記号性を帯びていた、帯びるという言葉には中央分離帯が語源的な関わりをもっているというのが、もんぺと門扉のあいだには深い関わりがあるということと並ぶわたしの二大仮説なのですが、ある人は、誰かと誰かが出会うときに手を振るということがあったのだと言い、またある人は、誰かと誰かが別れるときに手を振るということがあったのだと言います。こう聞くと、ひとつの記号がまったく相反する意味をもつというのは、pretty strangeな事態だとみなさんには感じられるかもしれませんが、そうではなくって、これは結局ひとつの記号性、つまり境界に立っているということに拠っているのです。言葉が消えて沈黙のきのこが生えてくる場所、沈黙の霧が晴れて言葉の雨が降ってくる場所で、人は手を振るのだとされています。すみません、みなさんが比喩に慣れていないことを忘れていました。怯えなくても大丈夫ですよ。

 さて、それでは最後に、あの人が何であるのかということについて、いま考えられている仮説をいくつか紹介して、わたしからのお話は終わりにいたします。……しかしもう時間がないようなので、このお話は一旦ここで終わりにさせていただきます。それではさようなら、よい旅を。