クリスチアナ・ブランド『切られた首』

(犯人は明示していませんが、ほぼほぼ、わかってしまいそうなので、未読の方はご注意ください。)

 

 『切られた首』[i]は、クリスチアナ・ブランドの第二長編で、1941年に出版されている。アメリカでは翌年の刊行だが、第一作の『ハイヒールの死』の公刊が1954年らしいので、同国ではデビュー作だったようだ[ii]アメリカの出版社が、『ハイヒールの死』に難色を示し、本書にはO・Kを出したのだとすれば、なかなか興味深い。対照的な二冊と思えるからである。

 『ハイヒールの死』は、ロンドンの服飾店を舞台に、大勢の若い美女たちが、しゃべりちらすミステリで、こちらのほうがアメリカの読者向きのような気もする。『切られた首』は、ロンドン近郊の屋敷で勃発する連続殺人を描く、イギリスらしい田園ミステリである。タイトル通り、首を切られた女性の死体が転がる陰惨な事件で、全体の雰囲気も鬱々としている。

 探偵役も、処女作のチャールズワース警部から代わって、ブランド作品でお馴染みとなるコックリル警部の初登場作である。「ケントの恐怖」という、まるでこちらが連続殺人鬼であるかのごとき異名の名探偵で、舞台となるピジョンフォード邸があるのがケントという設定のようだ。ケントといえば、ロンドンのすぐ南の州で、その昔にアングロ・サクソン系のジュート族が定住したとされる地域である(「世界史」で習いました)。イギリス国教会大主教座であるカンタベリ大聖堂やドーヴァの港町などがある。お隣のサセックス州には、11世紀に、ノルマンディ公ギヨームとハロルド二世イングランド王が王位をめぐって激突したヘイスティングズ(またはセンラックの丘)がある。「ノルマンの征服」として有名で、つまり、歴史的事件や遺跡に事欠かない地域である。

 冒頭、ピジョンフォード邸のテラスを借りて、教会堂の絵を描いているオールド・ミスのグレイス・モーランドが、同屋敷の主人ペンドックのことを考えて、物思いにふけっている。そこへヴィニシアとフランセスカ(フラン)の姉妹がお茶の時間を告げに現れる。二人は祖母のレディ・ハートとともに、昔馴染みのペンドックを訪ねてきていたのだった。ヴィニシアは夫のヘンリ・ゴールドと一緒だが、美しいフランセスカは独身で、ペンドックが彼女に惹かれているのではないかと疑うグレイスは心穏やかではない。お茶の席で、フランが買ってきた奇抜な帽子を披露していると、つい「そんな帽子を被って、溝のなかで野垂れ死になんかしたくない」と口にしてしまう。実は、前年の夏に、首を切り離された台所女中の死骸が近くの森で発見されるという猟奇的事件が起こっていたのだ。

 気まずい雰囲気のまま、グレイスはペンドックに送られて少し離れた自宅に戻るが、真夜中過ぎ、外出から帰った給仕頭のバンスンが、屋敷の車廻しの溝のなかに女が倒れているのを発見する。ペンドックらが駆けつけると、女はグレイスで、首と胴体が切り離されたうえに、頭にはフランの帽子がかぶせてあった。

 ピジョンフォード邸に滞在しているのは、ペンドックのほかに、ハート家の三人の女性とヘンリ、そしてペンドックの友人で休暇中のジェイムズ・ニコル大尉の六人。グレイスの上記の発言を聞いたのも彼らのみなので、このなかに犯人がいるらしい。ところが、翌日、グレイスと同居していた従妹で女優のピピ・ル・メイがロンドンから戻ってくると、犯人はグレイス自身から帽子に関する彼女の発言を聞いたかもしれない、と、皆が思いもしなかった可能性を指摘する。そして、次の日の真夜中、今度はピピが首を切り離された死体となって発見される。

 この後、フランに結婚を申し込んでいたジェイムズが、実はピピの夫だったという意外きわまる事実が暴露され、コックリル警部は、紛糾する事態に頭をかきむしることになる・・・。

 『ハイヒールの死』でも、その兆しはあったが、比較的限られた登場人物の間で、容疑が転々とするブランドの定番スタイルが、ほぼ固まってきたようだ。終盤には、容疑者同士が互いに「あなたが犯人だ」「お前がやったんだろう」とののしり合い、告発を始めるが、これもブランド作品の恒例行事となる。ただし、戦後の代表作のように、アクロバティックな捻りをきかせた大技はないので、全体としては地味な謎解き小説である。黄金時代も末期になって、読者が疑わない登場人物などありえないという前提で、すべての人物に均等に疑いがかかるプロットを組み立てているのだろう。

 第二の殺人では、死体の周囲に雪が積もって犯人の足跡が見つからない古典的不可能状況になるが、解決方法は肩透かしで、犯人側のトリックはない。ただ、素人探偵が奇術的仮説を持ち出してくるので、それが読者を誘導する結果となって、犯人に対する疑いを逸らす効果を得るところは面白い。もっとも『ジェゼベルの死』(1948年)などを先に読んだ読者が、はなれわざ的大手品を期待してしまうと、当てが外れて失望するかもしれない。

 『ジェゼベル』といえば、首が切り離された死体という本書の主題もかぶっているが、いわゆる「顔のない死体」テーマなどではなく、犯人を特定する手がかりとして(犯人の失言のそれ[iii])使用されるのみで、結局、本書の場合、トリックらしいトリックは使われていない。

 犯人も意外というほどではなく、むしろ消去法で容疑者を減らしていくと-例えば、高齢の女性にはこの殺人は難しいだろう、など-最後に残る人物なので、不自然さはないが、驚きもしないだろう。後年の『疑惑の霧』(1952年)や『はなれわざ』(1955年)のような大胆不敵な心理的錯覚が用いられているわけではないので、やはり、まだまだ習作の域を出ないと言わざるを得ない。

 一向、映えないミステリのようだが、面白いのは、ニューロティック・サスペンスのような書き方がされていることで、同じ頃に書かれたマーガレット・ミラーの『鉄の門』(1945年)を連想した[iv]。もっとも、ミラーが生真面目にというか、正面から「狂気」を描こうとしているのに対し、ブランドは、自らのイメージにまかせて書いている印象で、『鉄の門』のように、作品のテーマにまではなっていない。

 それとわからせない書き方で、犯人の主観描写を取り入れている(注を読むと、犯人が露見します)[v]が、自分が殺人者であると、はっきり認識(記憶)していないという真相は、いわゆる二重人格テーマのミステリとして読むこともできる。このタイプとしては、かなり早期の例であり、このあたりが、『ハイヒール』を差し置いて、アメリカでのデビュー作に選ばれた要因だったのだろうか。

 現代ミステリとの関連でいえば、「狂気の連続殺人」テーマのヴァリエーションといえるかもしれない。こうした狂気を扱った作品は、ブランドには珍しくない(とくに短編では)が、イングランドの、いつも薄曇っているような憂鬱な情景描写と相まって、独特の空気感が漂う。そこが本書の一番の魅力ではないかと思う。

 それでいて、最後は騒々しい結婚式になって、センチメンタルな回想シーンで終わるのだが、その辺はブランドらしいとも、イギリス・ミステリらしいとも言えそうだ。

 

[i] 『切られた首』(三戸森 毅訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1959年)。

[ii] クリスチアナ・ブランド『招かれざる客たちのビュッフェ』(創元推理文庫、1990年)、「クリスチアナ・ブランド書誌」、536-37頁。

[iii] 『切られた首』、30、73、209頁。

[iv] マーガレット・ミラー『鉄の門』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ、松本恵子訳、1953年、創元推理文庫、宮脇裕子訳、2020年)。ミラーは、随分翻訳にも恵まれるようになったが、やはり江戸川乱歩が戦後書いたいくつかの文章が印象に強い。江戸川乱歩英米探偵小説界の展望」(1947年)『幻影城』(講談社、1987年)、103頁、「マーガレット・ミラー」(『海外探偵小説作家と作品3』(講談社、1989年)、83-89頁。

 本書の連想で、数十年ぶりに新訳版で読み返してみたが、最初にポケット・ミステリで読んだときと、当然ながら、だいぶ印象が変わった。この手の心理スリラーが珍しくなくなったこともあるのだろう。達者だなあと思う一方で、随分懸命になって書いてるなあ、とも感じたのは、こちらが年を取ったせいか。

[v] 犯人が夢にうなされる描写が繰り返し現れる。『切られた首』、29、76頁。

横溝正史『犬神家の一族』

(本書の犯人やプロットについて明示しています。)

 

 『犬神家の一族』(1950-51年)は、2012年の『週刊文春』による「東西ミステリーベスト100」によると「日本編」で39位となっている。意外に低いようだが、1985年版では100位圏外だったので(これも意外だ)、人気回復したようにも見える。2012年版の1位は『獄門島』。10位には『本陣殺人事件』が入っていて、『犬神家』は横溝作品としては3位なので、これは、まあ、順当なところか[i]

 しかし、再映画化なども含めて、一般的な人気は、今でも『獄門島』や『本陣』を上回っているように思える。何といっても、佐清の面白仮面やV字開脚など、あまりにヴィジュアル・イメージが強烈である。

 地方の旧家における連続殺人というプロットも、横溝らしい日本的風情を感じさせながら、ほぼ、お屋敷内で事件が進行するので、岡山ものほどローカル・カラーが強く出ておらず、どの年代の読者にも、とっつきやすいということもあるのだろう。一族の間の遺産相続をめぐる殺人の主題は、欧米の謎解きミステリ・ファンにとっても王道の展開であって、作品世界に没入しやすいようだ。

 一方で、パズル・ミステリとしては、あまり大きな特徴のない作品である。横溝ミステリでお馴染みの「密室の謎」や「顔のない死体」は出てこない(佐清は仮面で顔を隠しているが)。「人間の入れ替わり」と「死体移動」のトリックが使われているものの、特に創意のあるものではない。一番面白いのは、佐智の殺人で、がっちり縛られた死体に、なぜか幾筋も縄のこすれた跡が残っているという謎で、トリックを暴く秀逸な手がかりになっている[ii]。横溝作品のなかでも出色のアイディアといえるだろう[iii]

 だが、それを除くと、伏線や手がかりに乏しく、その面白さでいうなら、続編の『女王蜂』(1951-52年)のほうが上に感じる。犯人を特定する推理らしきものもなく、金田一耕助が犯人を指摘する場面が、「こういえば、おわかりでしょう」[iv]では、やっぱり物足りない。

 そのかわり、遺産相続という動機が明快で、そこに親子の情愛を結びつけたことで、犯人の正体にも無理がない――意外性もないが。しかし、意外性はなくとも、事後工作者を複数回使うことで読者を惑わせ、動機が明白な犯人を一人に絞らせない手際は、さすがだ。しかも事後工作者たちの行動には当然個々に必然的な意図があるのだが、複数人が関与することで、連続殺人の目的が遺産狙いとも復讐ともつかぬことになり、犯人の動機を見えにくくしている。さらに、犯行が重ねられていくと、共犯者を含む犯人サイドでは、行動目的や利害が異なる個々人が独自に動くため、互いが互いを牽制して、探り合いをしながら次の行動を決めていこうとする。それが、さらに謎解きを難解にする特異なプロット-読者からすると、複雑すぎてアンフェアに感じるかもしれないが-で、そこに新鮮味と独創性があったといえるだろう。

 

 『犬神家の一族』については、他の拙文でも再三言及しているので、もう、あまり書くことがなくなってしまった・・・。

 

 小説としては、ラストを「那須湖畔に雪も凍るような、寒い、底冷えのする黄昏のことである」[v]の一文で断ち切る潔さが印象的である。一瞬で舞台が暗転して画面が消え、一切の余韻を残さない。いやむしろ、本を閉じたあとに余韻が残るというべきだろうか。金田一耕助と犯人の最後の対決から、瞬時にカメラが引いて真冬の風景が広がる、簡潔にして雄大な描写は横溝全作品中でも、一、二を争う見事な結びとなっている。

 

 ただ、偶然の重なりによって事件が輻輳する複雑なプロットの小説にしては、大団円が、ヒロインの珠世と王子様役の佐清の大甘なハッピー・エンディングで終わるのは、あまりに温(ぬる)すぎて、いささか納得しがたいものがある。

 「いや、そんなことを言ったって、エンターテインメントなんですから、めでたしめでたしで、何が悪いんです。」

 「そうはいってもね、偶然が偶然を呼ぶ意想外のミステリの結末が、お約束通りというのは、どうもバランスが悪い。つじつまが合わないのだよ。」

 「また変なことを言い出しましたね。一体、何が言いたいのですか。」

 「つまりね、予測しがたい事象の連鎖によって成立している事件であるならば、そこには、さらに予測しがたい秘密が隠されていると思うんだ。」

 「具体的にどういうことです?」

 「顔の崩れた仮面の佐清が実は青沼静馬だった。復員服の謎の男こそ佐清で、ときに静馬と入れ替わることで、周囲の人々を欺いていた。これはいいね?」

 「ええ。」

 「しかし、そもそも珠世の本命は佐清で、思い人だった彼が、結局、顔はきれいなままだったとわかり、最後は珠代と幸福を掴む。そんなお膳立ての良い結末は平凡にすぎる。真実とは、もっと奇想天外で想像を越えた、ときに残酷なものなんだ。」

 「そんな無茶な。美男美女が結ばれる物語の結末に、なんの問題があるんです。」

 「静馬と佐清は入れ替わっていた。しかし、真実は、二人がさらに入れ替わっていたとしたらどうだね。」

 「はあ、何を言ってるんです。入れ替わって、さらに入れ替わったら、元に戻ってしまうじゃないですか。」

 「そう、実は、佐清と入れ替わっていたと思われた静馬は、実は佐清で、静馬と入れ替わった佐清は静馬だったのさ。」

 「わざと、わかりにくいように言ってませんか。なんでそんなことになるんです。佐清が最初から佐清だったとしたら、手形の指紋比べの時に入れ替わる必要はないでしょう?」

 「そう、ないよ。あの顔の崩れた男は、もともと佐清だったんだからね。」

 (茫然として)「・・・では、復員服の男のほうが静馬だったとして、彼はなんで顔を隠したうえに、密かに隠れて犬神家にやってきたりしたんです?」

 「わかりきってるじゃないか。佐清を殺して、自分が彼に成り代わるためだ。そして珠世と結婚して、犬神家を相続し、復讐を果たそうとしたんだよ。」

 「なんと!でも、仮面の男が佐清で、復員服が静馬だったとしても、どっちにせよ、顔があの状態では入れ替われないじゃないですか。」

 「その通り。深夜、佐清を呼び出した静馬は、そこではじめて佐清の顔がああなっているのを知ったんだ。仮面があるから、入れ替わること自体は不可能ではないが、長期間それを続けるのは難しいね。そこで、真意(佐清を殺して入れ替わること)を隠して想い出話でもしながら(佐清と静馬は同じ戦地で戦った仲だからね)、計画を練り直しているときに、思わぬ出来事を目撃したのさ。」

 「松子が佐武を殺害する現場ですか?」

 「そうそう。それで、静馬は、圧倒的に有利な立場に立った。松子を告発しない代わりに、佐清にこう言ったんだ。身を引いて、珠世との結婚を自分に譲れとね。」

 「なんだか、佐清と静馬をただ入れ替えて、『犬神家の一族』の筋書きをそのままなぞっているだけじゃないですか。」

 「そんなことはない・・・よ。いいかね。おろおろする佐清を静馬は脅しつけるが、簡単に佐清と入れ替わることができない以上、なにか方策を考えなくてはならない。そうしているうちに第二の殺人が起こったのだ。」

 「佐智の殺害ですね。」

 「ああ。珠世を手籠めにしようとした佐智を殴って縛り付けたのも、殺害後に、死体をまた対岸の空き家に運んだのも静馬だ。」

 「それじゃ、最後に、佐清と入れ替わっていた静馬、ではなくて佐清を殺害したのも松子ですか。いやいや、息子でしょ。なんでそんなことになるんです。」

 「佐清が珠世との結婚を渋ったからだよ。」

 「いや、ちょっと待ってください、それはおかしいでしょ。なんで佐清が珠世との結婚を嫌がったりするんですか。出鱈目を言っちゃあ、いかんですよ。」

 「佐清の立場になってみたまえ。かつて眉目秀麗だった容貌は失われて、今や、見る影もない。それが、昔と変わらず、いや、もっと美しくなった珠世との結婚だよ。佐清のプライドはズタズタだよ。佐武も佐智もいなくなったから、珠世は自分と結婚してくれるかもしれない。しかし、今の自分に珠世は愛情を感じてくれるだろうか・・・。もちろん、珠世は佐清の外見がどうあろうと、変わらぬ恋心を佐清に捧げるだろうさ。でも、果たして、佐清にそれが信じられるだろうか。もう昔とは違う。無邪気だった少年少女の時代には戻れない。過去は記憶のなかで凍りついてしまったんだ。失われた時のなかでね。」

 「なに、綺麗な思い出みたいにして、話をまとめようとしているんですか。そんな言い争いで、松子が可愛い息子を殺したんですか?」

 「そう、つい、かっとなってね。」

 「つい、かっとなって、じゃないですよ。まったく、失礼な人だな。横溝正史の名作に対する冒涜ですよ。わかってますか。」

 (心配そうな顔で)「やっぱり、怒られるだろうか。」

 「知りませんよ。・・・その静馬じゃない、佐清が殺されたあと、えーと、静馬ですか、彼が松子をかばう行動をとったのは何故です?」

 「君も付き合いのいい人だねえ。金田一が証明したように、佐清、いや静馬にはアリバイがあるからね[vi]。松子をかばうことで、自分が佐清であることをアピールしようとしたのだろう。」

 「今、自分でも間違えましたよね。しかし、それなら、松子が黙っていないでしょう。まさか、静馬を我が息子と思い込んだりはしないでしょうからね。そこはどうです?」

 「松子は所詮、打ち手を間違えたからね。実際に殺人を重ねて、もはや逃れるすべもない。完全に静馬に敗北して、負けを認めたんだろう。どうせ死ぬつもりだったから、どうでもよくなったんだよ。プライドの高い松子のことだから、我が子を手にかけたなんて言えなかっただろうしね。」

 「なんか、最後にすごく雑になったようですが、そんな話、誰も納得しませんよ。」

 「まあ、もしもの世界の話だと思ってくれたまえ。いろいろな可能性が見えて、新たな物語を紡げるのも、横溝正史の小説が豊かであることの証拠だよ。」

 「最後になって、つじつまを合わせようとしたって駄目ですよ。」

 

[i] ウィキペディア「東西ミステリーベスト100」。

[ii]犬神家の一族』(角川文庫、1972年)、241頁。

[iii] 「われら華麗なる探偵貴族VS都筑道夫」『横溝正史の世界』(徳間書店、1976年)、213頁参照。

[iv]犬神家の一族』、367頁。

[v] 同、411頁。

[vi] 同、366-67頁。

横溝正史『死仮面』

(本書の種を割っていますので、ご注意ください。)

 

 『死仮面』は、横溝正史の戦後作品のなかで、長い間「幻の長編」だった。

 中島河太郎が1975年に作成した作品目録には、昭和24年(1949年)8月から11月まで『物語』という雑誌に連載されたことが記されていたが[i]、その小説は刊行された記録がなかったし、長編であるかどうかさえわからなかった。

 それが突然「カドカワノベルズ」の一冊として出版されたのは1982年のことで、詳しい経緯は、本作を発掘した中島河太郎執筆の「『死仮面』おぼえがき」で語られている。

 実際に連載されたのは昭和24年5月から12月で、雑誌『物語』は名古屋の中部日本新聞社の発行だったという。金田一耕助シリーズの一編で、『八つ墓村』事件解決後に岡山の磯川警部から相談を受けた、という体裁で小説は始まり、すぐに舞台が東京に移って、「死仮面」すなわち「デス・マスク」をモチーフにした奇怪な事件に発展する。

 ところが、中島によると、国立国会図書館所蔵の『物語』の合本は8回連載のうちの第4回が欠本になっていた。そこでやむなく中島自身が作者に代わり第4回分を執筆し、刊行されたのがカドカワノベルズ版である[ii]。このとき、すでに横溝は逝去していた(1981年没)。

 その後、角川文庫に収録された際、中島の解説は若干補足されたが、内容はカドカワノベルズ版と同一だった[iii]。『死仮面』は比較的短い長編だったので、ノベルズ版には、作者の最後の中編「上海氏の蒐集品」(1980年)が併録されたが、文庫版も同じ構成である。

 しかし、その後1998年になって、突如、春陽文庫から完全版が刊行される。経緯は、文庫カヴァー折り返しに「新発見により」としか書かれておらず、詳しいことは(一読者であるわたしには)まるで謎だが、いずれにせよ、雑誌掲載からほぼ半世紀が過ぎて、本作はようやく完全なかたちで出版されたのである[iv]

 前記の中島の「おぼえがき」によると、作者は本長編を「全面的に改稿されるつもりであった」[v]といい、また角川文庫版解説では、横溝自身が本作について「当時、私はなぜかこの作品を毛嫌いし、本にしなかった。話が陰惨すぎたせいであろう」[vi]と述べていたことが紹介されている。確かに単行本が刊行されていれば、これほどまでの「幻の長編」とはならなかったはずだが、現在ではめでたく本作も横溝作品群のなかに収められ、批評の対象となることが可能になった。

 そこで本作の中身であるが、作者自身は「話が陰惨すぎた」と述懐しているが、他の横溝作品と比べて、特別「陰惨」という印象は受けない。しいて言えば、冒頭の手記は、死体凌辱などの異常性愛がいかにも横溝らしいねちっこい筆致で描かれており、死体からデス・マスクを取るなど、陰惨と言えばいえる。センセーショナルな殺人を描いてもあくまで理知的に語られる『本陣殺人事件』や『蝶々殺人事件』に比べると、ややこの時期にそぐわない、むしろ戦前、あるいは昭和30年代の横溝の猟奇ミステリを思わせる。

 しかし舞台が東京に移ると、事件は、デス・マスクを送られた女性教育者が園長を務める女学校で展開され、横溝には珍しい「学園ミステリ」の様相を呈していく。

 デス・マスクの主は、園長である川島夏代の異父妹の君子と推定されるが、姉の学園に引き取られた彼女は、少し前に姉の仕置きに耐えかねて学園から失踪していた。君子は、いつしか岡山まで流れていき、そこで冒頭の手記の書き手である野口という男と知り合い、彼の美術品店で死亡したものと見なされる。死体遺棄で取り調べを受けていた野口は隙を見つけて逃走し、やはり行方知れずとなっている。一方、東京の学園にはもう一人の異父妹の里枝と、夏代の養子の圭介、三人の異父姉妹の母親である駒代が暮らしており、さらに女学生の一人である白井澄子が重要な役割を果たすことになる。

 事件は、野口を思わせる怪しい黒眼鏡の男が学園の周辺で目撃されるようになると、ついにある夜、夏代が、すでに壊されて存在しないはずのデス・マスクを胸に乗せた死体となって発見される。さらに、数日後の深夜、今度は澄子が黒眼鏡の男に襲われるが、機転を利かせた彼女がその場を逃れて人々に急を告げると、男は逃走し、園長宅に侵入して、駒代、里枝、圭介を次々に襲って、そのまま逃亡して姿を消す。

 その後、金田一の謎解きが来るが、本作のミステリの趣向は、東京と岡山の間の一人二役、学園内での一人二役と二人二役というオーソドックスなトリックの組み合わせにある。犯人は里枝と圭介の共犯で、君子は園長宅で事故により死亡したもので、デス・マスクは同家の地下室で作られ、それを岡山から東京に送られたかのように見せかけた。岡山で発見された遺体は君子ではなく別人、というのが真相である。

 細かなミステリ的技巧としては、野口に扮した圭介が、澄子襲撃に失敗して逃走する際、女学生に赤インクをぶつけられ、染みを落とすことができないと判断。犯人ともみ合ってインクが付いたと思わせるために、とっさに里枝を黒眼鏡の男に扮装させ、取っ組み合いの芝居をする、という入れ替わりのトリックが用いられている。本作の一番の工夫は、ここだろう。

 しかし全体に分量も少なく、練られたトリックや細かな伏線が張られているというわけでもないので、パズル・ミステリとしては物足りない。

 一番大きな不満は、代表長編などと比べて、明らかに色々と書き込み不足に感じられる点である。これも枚数の制約の問題かもしれないが、人物が表面的にしか描かれていないばかりか、ミステリとして必要な情報が提示されていない。例えば、怪人物の野口は圭介による一人二役だが、その間東京に不在であったはずの彼のアリバイは一切問題にされていない。事件解決後に、定期的に関西の講習会に出張していたと説明されるだけである[vii]

 そもそも警察の捜査がまったく描かれず、事件の検討は金田一と澄子の対話のかたちで行われ、しかも澄子の殺害未遂事件の後は、一気呵成に君子の遺体発見と犯人暴露に進んでいく。明らかに書き急ぎすぎて、学園ミステリの形式のせいもあってか、まるでジュニア・ミステリのような印象を受ける。

 なぜこうなったかは、前述のように枚数の制約が一番大きいと思われる。何しろ、この時期の長編としては、『八つ墓村』はもちろんのこと、『女が見ていた』や『夜歩く』よりも、はるかに短い。しかもそれ以外にも、作者自身、さほど気を入れて書いていなかったようにみえるところも問題である。編集部からどのような注文を受けていたのかわからないが、作者も『物語』という雑誌の性格をつかめず、はっきりとした狙いを持たずに書き始めてしまったかのようなのだ。『八つ墓村』は、知り尽くしている『新青年』からの注文であり、『女が見ていた』は新聞小説という枠組みがあって、最初からスリラー風謎解きミステリを書くという明白な方針があった。『死仮面』の場合、しいて言えば、『夜歩く』のような猟奇的外観のパズル・ミステリというのが当初の目論見だったかもしれない。もう少し枚数にゆとりがあり、伏線などを書き加えていけば、かなり面白い長編になっていただろう。

 結果的に、金田一シリーズで、ほぼ唯一単行本として刊行されなかったのは、「話が陰惨過ぎた」という以上に、作者自身が書き込み不足を感じていたからだったのではないか。「全面的に改稿するつもりだった」という発言も、それでつじつまが合う。ただ、連載完結後に加筆して刊行することも、恐らくは可能だったはずで、それをしなかったのは、無論、一番の理由は、時期的にみて健康上の問題だったのだろう[viii]。ただ、『不死蝶』のように、昭和20年代の小説を30年代になって改稿する例もあった[ix]のだから、『死仮面』も、適当な時期に加筆し刊行することは難しくなかったはずである。そうしなかった、あるいは、できなかったのは、恐らく、タイミングが合わなかったなどの偶然の事情のほかに、謎解きミステリとしてクリアしておくべき課題が多く、それらを解決する名案が浮かんでいなかったことが原因ではないかと思う。

 一番大きな懸案事項は、すでに指摘したように、岡山県と東京にまたがる犯罪というのが本作の目玉となる趣向で、スケールでは『蝶々殺人事件』に匹敵する。しかし、この構想を活かすはずの犯人による一人二役トリックが、本作の場合、詳しく書き込もうとすればするほど無理が出てきそうなのである。

 上記のとおり、圭介が野口を演じるには、一定期間、東京を留守にする必要がある。謎解き小説である以上、圭介の長期の不在という事実を隠したまま済ますわけにはいかないのだが、書けば書いたで、今度は圭介が疑わしいことが一目瞭然となってしまう。何とか、圭介の不在を読者の眼から逸らして、しかもアンフェアにならない工夫が必要である。手っ取り早い方法としては、第三者による替え玉とか、里枝と圭介の二人一役トリックなどが考えられるが、こうした安直な方法では、横溝は満足できなかったのだろう。

 同時期に構想が練られていたとされる『悪魔が来りて笛を吹く』(連載は1951-53年)[x]でも、東京の事件と並行して淡路島で殺人が起こるが、共犯者による犯行で、パズル小説としては、やや安易だった。ただ、こちらは副次的な殺人なので、それほど大きな欠点ではない。『死仮面』の場合、しかし、岡山-東京における一人二役がメイン・トリックなのである。オリジナリティのあるアイディアを思いつかなかったのが、単行本刊行をためらった理由のひとつだったのではなかろうか。

 以上は憶測に過ぎないが、こうした問題点を克服できていれば、昭和20年代半ばの全盛期の諸作に、もう一冊、金田一ものの代表長編が加わっていたかもしれない。「改稿するつもりだった」という証言の裏を読めば、実は上手い解決法がひらめいていたとも受け取れる。(今、そう思いついたら、急に残念でたまらなくなってきた。)

 寿命さえ許せば、横溝の頭脳は依然として冴えわたっていたから、79歳とはいえ、やはり早すぎた死は惜しまれて当然だった。

 

[i]『新版横溝正史全集18 探偵小説昔話』(講談社、1975年)、「作品目録」、319頁。

[ii] 横溝正史『死仮面』(カドカワノベルズ、1982年)、222-25頁。

[iii] 横溝正史『死仮面』(角川文庫、1984年)、229-33頁。

[iv] 横溝正史『死仮面』(春陽文庫、1998年)。本文庫版は、短編「鴉」を併録。

[v] 『死仮面』(カドカワノベルズ)、225頁、同(角川文庫)、232頁。

[vi] 『死仮面』(角川文庫)、232頁。

[vii] 『死仮面』(春陽文庫)、157頁。

[viii] 横溝正史「喀血も愉し」(「十風庵鬼語」の後半)『探偵小説五十年』(講談社、1977年)、249-50頁、「『犬神家の一族』の思い出」『真説金田一耕助』(毎日新聞社、1977年)、40-42頁等を参照。

[ix] 『不死蝶』は、1953年に雑誌に連載されたあと、1958年に加筆され単行本となった。『不死蝶』(角川文庫、1975年)、中島河太郎による「解説」、373頁を参照。

[x] 横溝正史「初刊本あとがき」(1954年)『悪魔が来りて笛を吹く』(『横溝正史自選集5』、出版芸術社、2007年)、336-39頁、同『真説金田一耕助』(毎日新聞社、1977年)、251-53頁。

横溝正史『迷路の花嫁』

(本書の真相のほか、アガサ・クリスティの長編小説の内容に注で触れていますので、ご注意ください。)

 

 『迷路の花嫁』(1954年)を最初に読んだときは、『獄門島』や『八つ墓村』はもちろん、同時期の『幽霊男』(1954年)や『吸血蛾』(1955年)と比べても、随分毛色の変わった小説だなと思った。

 冒頭から、いきなり宇賀神薬子という仰々しい名前の霊媒が一軒家で全身血まみれになって死んでいる。辺りには幾匹もの猫が血をすすり、口を真っ赤にしてうろついている。カーター・ディクスンの『プレーグ・コートの殺人』(1934年)あたりを連想させる幕開きで[i]、これはまたトリッキーな謎解きが読めそうだぞ、と期待していると、案に相違して、殺人の謎はほとんど追及されず、発見者の松原浩三という作家と、薬子を背後で動かしていた建部多門という怪物じみた心霊術師の間の闘争と駆け引きで物語が進んでいく。多門がその妖しい力で我がものとしてきた女達を松原が解放していく、善玉悪玉がはっきりしたスリルとサスペンスの冒険読み物である。

 この頃の横溝作品と比較しても、いや、戦前の由利麟太郎シリーズなどと比べても、異色のミステリで、もちろん、作者のストーリーテリングの技量に引き込まれて、すらすらと読み進めることができたが、なんとも当てが外れたような気にもなった。

 そもそも本書は、その成り立ちが、あまりよくわかっていなかった作品である。単行本は、1955年に桃源社から出たものが最初らしく[ii]、1957、1960年にも同社から新版が出ている(結構売れたみたいですね)[iii]。私が読んだのは春陽堂文庫版だったと思うが[iv]、同文庫は解説がついていないのが通例で、書誌的なことはわからなかった。角川文庫版は、お馴染み中島河太郎の解説付きで、そこでは「長編化の一つ」[v]と書かれていた。ああ、そうなのか、と思ったが、実は、これが間違いで、1950年に「迷路の花嫁」[vi]という作品が『講談倶楽部』に三か月連載されているので、河太郎先生も、この短編もしくは中編の長編化作品だと思い誤ったらしい。こちらの「迷路の花嫁」は、由利シリーズの「カルメンの死」の原題だったそうだ[vii]。横溝の癖で、気に入ったタイトルを複数の作品につけるので、とんだ誤解を生んでしまったらしい[viii]

 長編の『迷路の花嫁』は、単行本刊行の前年1954年に『いはらき』に連載された長編で[ix]、要するに新聞小説だったようだ。どおりで、19ある章のそれぞれが、細かくナンバリングされて短い節に分かれている。新聞一回分の分量なのだろう。『女が見ていた』(1949年)などと同じ新聞連載だったわけだ。

 作品に戻ると、冒頭の殺人事件では、被害者には無数の刺し傷が残されており、同居している弟子の奈津女、書生の河村は外出していた。女中のすみ江は行方が知れず、やがて死体となって見つかる。番犬までが殺されており、何かしら計画的な殺人のようにみえるというものである。

 殺人を発見したのは、作家の松原浩三のほかに本堂千代吉という浮浪者の男で、本堂は家の中から、人殺し、助けて、という悲鳴が聞こえたと証言する。通りかかった警官を呼びとめた二人が、警官とともに家の中に入っていき、惨劇を発見することになった。

 薬子の後援者には、老舗呉服店主人の滝川直衛という人物がおり、当夜、薬子のもとを訪れるはずだったが、急用で果たせなかった。ところが、娘の恭子が密かに薬子を訪ねたらしく、慌てて家を飛び出すところを、本堂と松原に目撃されている。

 といった、例によって複雑な状況設定で、薬子はなぜ体中に刺し傷を受けて殺されるという凄惨な死を遂げたのか、犯人が女中の死体を一時隠したあと人目につくように持ち出したのはなぜか、番犬を殺したのは顔見知りの人間としか思えないが、薬子自身なのか、その理由は、などの疑問が浮かんできて、なかなか面白い謎解きミステリになりそうなのだが、上述の通り、殺人事件のほうはほったらかしにされて(無論、作中の警察によって捜査は続いており、等々力警部も出てくるが、全然活躍させてもらえない)、以後、怪物多門の毒牙にかかった女性たち、すなわち「迷路の花嫁」をめぐる松原と多門の死闘が描かれる。

 殺人の謎はどうなっちゃったの、と思っていると、ようやく半ばすぎたところで、警察の捜査会議が始まる。奈津女は薬子と直衛の娘であるという爆弾発言が放り込まれて、突然、あの複雑怪奇な血の縁が絡まりあう「横溝正史劇場」が開幕するので[x]、おおっ、来たぞ、と思うが、事件の真相に決定的に作用するというほどでもないので、どうも作者は、こういった何重にも入り組んだ血縁関係を考えるのが、ただ好きなだけではないかという気がしてくる。

 そういえば、本書は金田一耕助シリーズの一編なのだが、肝心の名探偵は、忘れたころに姿を現わすと、思わせぶりなセリフを吐いて、また去っていく。ちっとも仕事をしないので、不精なことこの上ない。

 ただ、一応ミステリらしい伏線はそこそこ張られていて、前半のある個所で、本堂と松原が出会って別れた後、その様子を隠れて見守っていた河村を、松原がからかう場面がある[xi]。何かありそうと思っていると、あとのほうで、河村が実は本堂のスパイだったことが明かされる[xii]。横溝らしい細かい伏線が楽しい。

 それと、と、ついでに言うことではないのだが、本書には、ひとつ大きなトリックが仕掛けられていて、意外な犯人のそれである。意外な、といっても、最後まで読むと、あまり意外ではないのだが・・・。つまり物語が進行して、松原と多門ないし薬子の間に何かしら因縁があることがわかってくるので、結局、松原が犯人なのだが、真相が自然と割れてくる展開なのだ。

 しかし、最初の薬子殺害事件では松原は発見者であるから、すなわち「発見者=犯人」というアイディアなのである。この型の犯人ではアガサ・クリスティの長編が有名である(注で作品名を挙げます)[xiii]。明らかに、同作品を下敷きにしていると思われるが、このクリスティ長編には、ひとつ問題点が指摘されていたと記憶する(注で書きます)[xiv]。本書は、その点について抜かりはなく、松原は本堂や警官とともに死体を発見して、当然のごとく、おおいに驚愕してみせる。犯人が現場に戻ってこなければならなかった理由も一応用意されていて、松原の内面描写にも目立った不自然さはない(冒頭、戦後の東京の風景に感慨を抱きながら歩く場面は、殺人直後の犯人にしては、のんきすぎるとは思う[xv])。

 かなり思い切ったトリックを仕掛けているのだが、上記のとおり、ストーリーの流れで段々と松原に何か隠し事があるとわかってくるので、せっかくのトリックがあまり活かされていない。それに金田一の解説では、松原は、薬子に殺されたすみ江の死体を運び出して隠したと説明されるのだが[xvi]、この冷静さは、殺人後に指紋のついた凶器のナイフを残して慌てて逃げ出した行動と釣り合っていない。(ただし、死体の隠匿は、薬子を殺害する前に行われた可能性もある。しかし、松原が着いた時には、女中は殺されていたとすれば、薬子がその後も当初計画していたお芝居を続けるとは思えない。薬子が松原に背中に刺し傷をつけるよう頼んだとすれば、それは、自分も被害者であると装うことで、女中殺しの罪を免れるためだったと考えるほうが理に適う。そして、その場合、松原に女中の死体を隠すよう依頼することはなさそうだ。しかしまあ、金田一の解説は詳細にわたってはいないので、この辺の経緯は、よくわからない。)

 被害者の薬子の行動も不可解で、そもそも自分の体に傷をつけようと思った理由が今一つはっきりしない。奇跡を見せようとしたというのはどういう意味か[xvii]。思いがけなくすみ江が早く帰ってきたので殺してしまったとか、飼い犬が邪魔だったので殺してしまったとか、あまりにも行動が異常すぎて、果たして説明になっているのか[xviii]。被害者の不自然な行為やそれらに関する説明不足が目に付くのは、やはり新聞連載ということで、少々論理の組み立てに甘さが出たようである。

 ただ、改めて、金田一ものとしてみると、過去の長編には見られなかった大きな特質がみてとれる。仕事をしていないと書いたが、ある意味で、本書ほど、金田一が事件に対して優位に立っている作品はない。要所々々で松原の前に現れ、遠回しに情報を提供して、次の行動の指針を示す[xix]。事件を最終的に決着させた山村多恵子を巧みに誘導して、未来の行動に決意を促す暗示ときっかけを与えている[xx]。多門など目ではない、事件の裏で糸を引くラスボス感が半端ない。

 恐らく、金田一はかなり早い段階、恭子が現場から持ち出した凶器のナイフを入手するよりも、はるか以前に犯人を突き止めており、そのうえで意図して泳がしていたのだろう。松原が本懐を遂げるまで、その行動を見守っていたと思われる。『獄門島』や『八つ墓村』では翻弄されっぱなしだった金田一だが、本作において、ついに彼は事件を完全に掌握し、人々を動かして望む結末に導く超越的な地位についた。なにしろ、松原が多門の襲撃にあって人事不省になるやいなや、待ってましたとばかりに指紋を採取する周到さである(みんな、引いてますよ[xxi])。『迷路の花嫁』は、名探偵金田一の底の知れない智略と謀略が読者の前に露わになった記憶すべき作品であるといえるだろう。

 本書こそ、金田一耕助の最高にして最大の事件なのである。

 

[i] 実際は、江戸川乱歩の中絶作『悪霊』の冒頭部分をなぞる、あるいはパロディ化しているそうだ。『悪霊』は一応読んでいるはずだが、今手元にない。あらすじを検索してみると、どうやら本当らしい。

[ii] 島崎 博編「横溝正史書誌」『本陣殺人事件・獄門島』(『別冊幻影城』創刊号、1975年9月)、333頁。

[iii] 同、336、338頁。その後も新版が繰り返し出ている。

[iv] 『迷路の花嫁』(『横溝正史長編全集19』、春陽文庫、1975年)。

[v] 『迷路の花嫁』(角川文庫、1976年)、375頁。

[vi]横溝正史書誌」、318頁。

[vii] 詳しくは、『蝶々殺人事件』(『由利・三津木探偵小説集成4』、柏書房、2019年)、「編者解説」(日下三蔵)、533頁。

[viii] 「女王蜂」など。

[ix] 4月から9月にかけて掲載されたらしい。(ダ・ヴィンチ特別編集)『金田一耕助 The Complete』(メディアファクトリー、2004年)、「発表年代順による作品番号リスト」㉒。

[x] 『迷路の花嫁』(角川文庫)、232-40頁。

[xi] 同、107-108頁。

[xii] 同、307頁。

[xiii] アガサ・クリスティ『シタフォードの秘密』(1931年)。

[xiv] 殺人犯人が殺人後に被害者宅を訪れ、何度もベルを鳴らして返事を待つ。まわりに誰もいないのに、見られているかのようにふるまうのは、「読者に対して」芝居をしていることになって、不自然ではないかというもの。

[xv] 『迷路の花嫁』(角川文庫)、5頁。

[xvi] 同、369頁。

[xvii] 同、366-67頁。

[xviii] 同、368頁。

[xix] 同、276頁。

[xx] 同、276、279、281、283頁。

[xxi] 同、363頁。

横溝正史『三つ首塔』

(本書の犯人等のほか、『八つ墓村』、『犬神家の一族』、『女王蜂』、「妖説血屋敷」、「七つの仮面」等の内容に触れています。)

 

 私はとうとう三つ首塔をはるかにのぞむ、たそがれ峠までたどりついた[i]

 

 本書の書き出しだが、角川文庫版では236頁にも、まったく同じ文章が登場する。物語は、主人公宮本音禰の上記の述懐から始まり、すぐに回想に移って、事件の発端から語り直される構成である。冒頭の文章が繰り返されて最後のクライマックスに突入するのだが、山場となる第二部の始まりを意図的に小説の頭にもってくる語りの手法は、なかなか技巧的で劇的な演出といえる。

 続くシーンも劇的で、男連れの主人公は、いきなり、お相手の高頭五郎に縋りつくと「私を捨てないで」と哀願するが、キスされると、すぐその気になってしまう(?)。どんなアバズレかと思っていると(なんか、言い方がアレだが)、回想に入ったら途端に、わたくし、つつましく花嫁修業などしていましたの、と箱入り娘を強調するので、どこがどうすれば、ここまで落ちぶれるのか。すっかり横溝の手管に乗せられて、読まずにいられなくなる。

 うら若い美女の一人称手記とか、男性作家の正史が随分思い切ったものだが、翌年にも短編ながら「七つの仮面」[ii]を女性一人称の手記の形式で書いている。戦前にも、「妖説血屋敷」(1936年)がある。また一人称小説ではないが、女性主人公の家庭小説として、戦前から戦中にかけて『雪割草』(1941年)[iii]という大長編がある。時代も異なるので、『三つ首塔』とは似ても似つかぬ品の良さだが、ヒロインが運命に翻弄される波乱万丈の物語は共通している。

 といっても、『三つ首塔』の音禰-ところで、「音禰(おとね)」という名前は、わりとオーソドックスな名の多い横溝的女性主人公としては珍しい響きだが(意外に今風?)、どこから取ってきたのだろう。「乙女(おとめ)」から?-は、最初から、いきなり怪しげな快男児(形容が矛盾しているか)高頭五郎に襲われて無理やり関係を持たされる。横溝作品でも、一番ひどい目に合わされるといっても過言ではないヒロインだが、その後も繰り返し男に呼び出されて、いやいや体の関係を続けるうちに、いつの間にか良くなってしまうという同人誌的展開となる(いや、薄い本とか、私はそんなもの知りませんよ。知りませんとも!)。けっこう現代的な主人公で、時代の先を読む横溝の先見性はさすがである。

 そんなわけで、『三つ首塔』は、いわゆる横溝正史のエロ・グロB級スリラーの位置づけ[iv]だが、同時期の『幽霊男』(1954年)や『吸血蛾』(1955年)が、エロティックでグロテスクといっても、あくまで謎解き小説の型を守っていたのに対し、本書は、前年に連載された『迷路の花嫁』(1954年)に続き、トリックや犯人探しより、スリリングなシーンと場面転換の速さで繋ぐ読み本仕立ての冒険ロマンという趣きである。

 同時に、それまでの様々な横溝作品の特徴が色々と現れている、いやむしろ、既成作品の(焼き直しといってしまうのも酷なので)奏でるこだまがそこここに響いている。一人称の伝奇ミステリといえば、男女の違いはあれど、『八つ墓村』(1949-51年)が直ちに思いつく。遺産相続が犯罪動機となるところも一緒だが、遺産相続とくれば『犬神家の一族』(1950-51年)である。もっとも、金銭的動機と見せかけて、実は愛情による殺人という解決が、いかにも横溝らしいのだが、これも『八つ墓』や『犬神』と共通する。『三つ首塔』でも、一番大きなミステリ的技巧はここで、遺産相続が動機と考えていると、思いもよらぬ意外な犯人が明らかになる(上記の横溝作品を読んでいれば、意外でもない?)。この犯人と音禰との関係は、また、『女王蜂』(1951-52年)に類似しており、老いらくの恋というか、(実際は、そうではないが)近親相姦的な危ない愛情が事件の引き金になる。そこもまた横溝らしい。

 他方、一人称小説ということは、当然「記述者=犯人」という結末が、ミステリを多少とも読みなれた読者には浮かぶはずで、ということは『八つ墓村』より、むしろもうひとつの一人称小説(注で書名を挙げます。いや、挙げる必要もないか)のほうを連想するかもしれない。とくに、本書は、『八つ墓』のように主人公の手記の前に作者の「まえがき」が置かれるわけではないので、なおさらである(音禰の手記に嘘はない、とは誰も保証していない)。まあ、いきなり奪われてしまった音禰を疑ったりしては気の毒であるが、横溝作品では(いや、ミステリなら、大抵そうだが)、きれいな女性にうかつに心を許してはならない。女は怖いのだ(女性の皆さん、すいません)。

 そこで、本書の真犯人は音禰なのか、改めて考えてみよう(どういう話の振り方だ)。すると問題になるのは、当然、音禰が見たという、横溝作品でも他に例のない奇怪な幻覚(?)の件である。地下の穴倉から救出された音禰と五郎がいっとき地面に寝かされている間に、炭焼き窯から這い出てきた古坂史郎と佐竹由香利が真田紐で音禰の首を締めようとしたという幻影[v]。というより、二人の幽霊が音禰を殺そうとした超常現象だというのだが[vi]、これはもちろん真実ではない。こんな怪談まがいの出来事が現実にあるはずがない。という以上に、このようなオカルトで非論理的な手がかりなど、パズル・ミステリにあってはならないのだ(メタです)。いうまでもなく音禰のつくり話である。

 そして、この話が音禰の嘘であるならば、史郎と由香利の死体とともに発見されたシガレット・ケースを埋めておいたのも彼女である。ケースが誰のものか、うっかり(うっかり?)口にしてしまったのも音禰だったことを忘れてはならない(これって、決定的でしょ)[vii]。いやはや、女性は怖い・・・。自分の幸福のためには、他に誰を犠牲にしようとも悔いない。高頭五郎君、いやさ、俊作君、手玉に取られたのは、どうも君のほうらしいよ!そういう女性は、でも、嫌いじゃない。なにしろ美人だし。素敵ですよ、音禰さん。結婚してください(錯乱してきたようだ)。

 我に返ると、上に挙げた二短編、「妖説血屋敷」も「七つの仮面」も、実は「記述者=犯人」の小説である。薄幸の、さらに美女の殺人鬼というのは、ある意味定番でもある。もしや音禰も、と考えるのは、決して下衆の勘繰りではない。

 それにしても、最初に人生のどん底に突き落とされて、そのあと、本当に穴に落とされたにもかかわらず、最後は愛する男性と幸福をつかんだ横溝作品でも屈指のヒロインである宮本音禰(しかし、いきなり力づくで、いたしてしまう五郎、いやさ、俊作は、やはり、とんでもない鬼畜だと思うのだが。そもそも犯罪だし)。描いた横溝は、当時53歳。どういう心境だったのでしょうね。それに、本書の公式(?)の犯人は還暦を過ぎた61歳[viii]。こちらも、横溝作品では屈指の高齢者犯人である(これも時代を先取りしているのか)。「老いらくの恋」といったが、現在ならそれほどでもないが、昭和30年当時は、結構ショッキングな犯人だったかもしれない[ix]

 ところで、執筆時に横溝が53歳だったということは、8歳年長の江戸川乱歩は、ちょうど還暦を迎えて、前年(昭和29年)盛大に祝賀会を開いていた。横溝夫妻も出席している[x]

 おやおや、本書の犯人のモデルは乱歩でしたか。

 

乱歩「横溝君。ぼくが犯人とはひどいよ。」

正史「乱歩さん[xi]、それは誤解でっせ。この本の犯人は、オツムはふさふさですさかい[xii]。」

 

 そんな失礼なこと言わないか。(関西言葉はよくわからないので、何分、ご容赦願います。)

 しかし、そのせいでか、二年後、乱歩が『宝石』の編集を引き受けたとき、長編連載の依頼を、正史が断ることはなかった。こうして生まれたのが名作『悪魔の手毬唄』(1957-59年)である[xiii]

 

 その辺にして、まとめに入ろう。

 『三つ首塔』は、「エロ・グロ」路線の風俗ミステリという印象だが、根本は、横溝作品ならではの、過去が現在に影を落とす秘密と冒険の伝奇ロマンであり、その無類の面白さから人気のほども不思議ではない[xiv]。凝った映画的演出や清々しい後味も含めて、代表作の列に加えて不足のない作品といえるだろう。

 

(追記)

 本文で、音禰の手記が真実とは限らない、と書いたが、実は、金田一がお墨付きを与えていたことに、再読して気がついた。

 「法然和尚」の章で、音禰嬢は、突然、事件はもう終わっています、と、わたしたち(読者)に向かって宣言する。最後まで書くのは、金田一耕助氏(さすがに、それまでのように呼び捨てにはしていない)にそう言われたからです、と[xv]

 『八つ墓村』の寺田辰弥は、事件後、金田一に促されて、ようやく手記を書き始めるのだが、音禰は自分から筆を取っていて、高頭五郎の悪口などを散々書きちらかしていた。事件が終結して、もう続きを書く気はなかったのに、金田一が「あのひとにも悪いではありませんか」と言うから[xvi]、仕方なく書くんです、とおっしゃるのだが、「あのひと」とは、誰かな?焦らしますね、音禰さん。金田一も、なかなか商売が上手い。

 それにしても、『夜歩く』に『八つ墓村』、そして本書と、金田一は、どうして、やたらと関係者に手記を書かせたがるのか。出版社の回し者か(横溝正史が書きやすくなるだろうという親切心なのか)。

 しかし、音禰の手記がすべて真実である保証は、依然として、ない。犯人は自白していないし、それと特定できるような推理も示されていない。物的証拠となるのは、音禰=俊作コンビ-この二人が信用できないことは、言うまでもない-が証言(シガレット・ケース)、もしくは提供(ボタン[xvii])したものだけである。金田一が、犯人のあとを追跡していただろうって[xviii]金田一など、当てにならん(暴言だあ)。

 

[i] 『三つ首塔』(角川文庫、1972年)、3頁。

[ii] 実際は、1948年の「聖女の首」が原型。

[iii] 『雪割草』(戎光祥出版、2018年)。

[iv] 大坪直行の解説からして、そういう評価だった。『三つ首塔』(角川文庫)、347頁。

[v] 『三つ首塔』、300-305頁。枚数の関係で、合理的な結末をつけられなかった、という話は有名らしい。『僕たちの好きな金田一耕助』(『別冊宝島1375号』、2007年)、62頁。しかし、枚数のせいで、というのは言い訳っぽい(『八つ墓村』などは、単純で見事な手がかりを考案している)。上手い手がかりが思いつかなかったというのが、本当のところだったのではないだろうか。

[vi] 『三つ首塔』、329頁。

[vii] 同、330頁。

[viii] 同、12-13頁。

[ix] 本書冒頭の記述では、昭和30年は「去年」と書かれている!?つまり音禰が手記を書いているのは、昭和31年のようなのだ。本書の連載は30年で完結しているはずだが・・・。音禰は未来からやってきた「時をかける(元)少女」だったのか!同、7頁。

[x] 江戸川乱歩『探偵小説四十年(下)』(光文社、2006年)、494頁。実際に、作中の還暦祝賀会の模様は乱歩のそれをモデルにしている、と中島河太郎が書いていた記憶がある。

[xi] 実際は、ある時期から、正史は乱歩のことを「乱歩さん」とは呼ばなくなったらしい。横溝正史「探偵小説昔話 2 乱歩と稚児の草紙」『探偵小説昔話』(講談社、1975年)、12頁。

[xii] 実際は、犯人の頭髪に関する描写は、作中には見当たらないようだ。江戸川乱歩「薄毛の弁」『奇譚/獏の言葉』(講談社、1988年)、18-20頁、『探偵小説四十年(上)』(光文社、2006年)、535-36頁、横溝正史「探偵小説昔話 6 浜尾四郎と春本」『探偵小説昔話』、23-24頁等を参照(参照してどうするんだという話ではあるが)。

[xiii] 江戸川乱歩「『宝石』編集の一年」『うつし世は夢』(講談社、1987年)、225-26頁を参照。

[xiv] 横溝正史「私のベスト10」『真説金田一耕助』(毎日新聞社、1977年)、98頁参照。本書の人気は、最初の「横溝正史全集」(講談社、1970年)に収録されたことも大きかったように思われる(第9巻が『三つ首塔』。『悪魔の寵児』を併録)。同全集には、『夜歩く』や『びっくり箱殺人事件』は選定されなかった。

[xv] 『三つ首塔』、247-48頁。

[xvi] 同、248頁。

[xvii] 同、342頁。

[xviii] 同、283、334頁。

横溝正史『悪魔の寵児』

(本書の内容のほか、戸川昌子猟人日記』の内容に触れていますので、ご注意ください。)

 

 都筑道夫の『二十世紀のツヅキです 1986-1993』というエッセイ集を読んでいたら、昔、『妖奇』という雑誌に、男と性行為を行った女が、別の女を殺して、その膣内に男から取った精液を注入し罪を着せる小説が載った。批評家の顰蹙を買ったが、その後、別の作家が同じトリックを用いたときには、ほとんど問題にならなかった、という話を書いていた[i]

 おやおや、と思ったのは、この「別の作家」というのが明らかに横溝正史で、作品もすぐにピンときた。本書『悪魔の寵児』(1959-60年)である。同じトリックを扱った探偵小説がすでにあったとは初耳だったが、横溝の本書に「眉をひそめるひとは少かった」[ii]というのは、伝え聞いていた話とだいぶ違うな、と感じたのである。

 ところが、さらに驚いたのは、少し後のほうで、都筑が、もう一度その話を振り返っていて、別の作家の別の作品とは、戸川昌子の『猟人日記』(1963年)だというのである[iii]。『猟人日記』は読んでいたはずだが、トリックが『悪魔の寵児』と共通していたことは、まったく覚えていなかった。しかも、同一のトリックを使用した作家が三人もいたとは・・・。

 いずれにしても、上記のトリックに象徴されるように、『悪魔の寵児』は、「性的犯罪」あるいは「性的関係」が主題になっていて、そのためか、評判はすこぶるよろしくなかった。「最低の悪作」で「大横溝の名を汚す以外の何ものでもない」[iv]という、仁賀克維の批評が代表である。角川文庫版の解説を書いている大坪直行は、こうした連載当時の手厳しい評価を紹介したうえで、こうした酷評に横溝も悩み、自己嫌悪を感じていたと打ち明けている[v]。一方で、しかし、そうした悪評は誤りだと反論、本書の本質は草双紙趣味と現代風俗を組み合わせたところにあるとして、(「解説」だから当然のごとく)高く評価した。

 同様のことは『僕たちの好きな金田一耕助』においても主張されていて、「ミスディレクションを活用した犯人の意外性と、トリックの先進性」に優れた「まだまだホメ足りない秀作」だと賞賛している[vi]。以上の近年の再評価によって、そして、もちろん横溝の名声のおかげもあって、『悪魔の寵児』は、面白いミステリとして多くの読者を獲得しているようだ。

 しかし、まあ、あまり上品とは言いかねるのも確かである。上記のトリックのみならず、そもそも、怪奇「雨男」(これが作中の怪人の自称)によって次々に殺害される女たちが、いずれも男の死体や人形と全裸で抱き合うなど、あられもない姿(などという表現では足りないが)で発見される。『幽霊男』(1954年)や『吸血蛾』(1955年)などと同工異曲、いや、それ以上に、お下劣で、いささか辟易させられる。お高くとまるつもりはないが、横溝作品の中でも、断トツにエグい小説であることは否定できない。

 ただ、『幽霊男』や『吸血蛾』と比べて、微妙な相違があるとも感じる。昭和20年代のエロ(ティック)・グロ(テスク)通俗スリラーに顕著だった見世物小屋的な非日常性、ないしは江戸川乱歩風の(よい意味でも悪い意味でも)子どもらしさが薄まって、もっと現実的な、といってしまうと、『悪魔の寵児』が現実的か?と詰め寄られそうだが、トリッキーな探偵小説から現代的な犯罪を描く推理小説に一歩踏み出した印象である。

 本書の殺人には、例によって横溝作品に欠かせない共犯トリックが使われているが、他には綱渡り的な奇術トリックは出てこない。新しいアイディアが浮かんでこなくなったということもあるかもしれないが、人間消失とか密室犯罪のような手品は使われていない。全体のストーリーは、犯罪そのものよりも、むしろ、犯罪を通して、水上三太と風間欣吾の二人の主役の間の「対抗関係」を描くことに主軸が置かれている。水上は風間を疑い[vii]、風間も水上に不信感を抱く[viii]。そこに金田一耕助が絡んで、いってみれば、本書は彼ら三人の対立と共闘を描く物語で、被害者となる女たちは、水上と風間の間でヒロイン役を務める石川早苗も含めて、案外、影が薄い。三人の男のうち、とりわけ水上三太は、三津木俊介や多門修とも、また違ったキャラクターで、お坊ちゃんタイプでありながら頭もきれる[ix]。エロティックでグロテスクな死体凌辱殺人の演出に幻惑されるが、水上の心情と行動に即して読んでいくと、雰囲気は意外にハードボイルド・ミステリ風である。

 この変化が何に起因するものかを考えると、時系列的に、前記『幽霊男』、『吸血蛾』と『悪魔の寵児』の間に来るのが、二木悦子の『猫は知っていた』(1957年)と松本清張の『点と線』(1958年)である。タイプは異なるが、どちらも新時代を切り開いた歴史的作品であり、共通するのは日常性と現実感だろう。これら諸作に比べれば、昭和20年代のミステリが大時代で非現実なことは認めざるを得ない。20年代を代表する作家横溝正史も、『猫は知っていた』や『点と線』のなかに、来るべき推理小説の時代の予兆を感じ取っていたのだろうか。『悪魔の寵児』と同時期に連載していた、こちらは代表作と自他ともに認める『悪魔の手毬唄』(1957-59年)にしても、傾向は違えども、やはり現実的な犯罪を描く方向に向かっていた。「顔のない死体」の大掛かりなトリックが演じられるのは23年前の事件においてであって、現在(1955年)の事件は、見立て殺人の装飾を除けば、あまり奇抜過ぎない、それ自体は平凡な殺人である。

 その意味では、トリックが枯渇したというより、トリックに頼らずに、現代的な小道具(精液を詰めた注射器や麻薬など)を駆使して犯罪を描く「推理小説的探偵小説」というのが本書におけるテーマであったのかもしれない。

 全編にわたって雨が降り続き、じくじくとした憂鬱な気分が、作中で描かれる事件の陰湿さと、おぞましさとを倍増させる。もちろん、それが作者の狙いなのだが、それだけに、等々力警部とともに、金田一と水上が風間を迎えるラスト・シーンは、梅雨明けのからりと晴れた空を感じさせて(実際は、すでに九月になっているのだが)、陰と陽の鮮やかな対照が清々しい。

 

 ちなみに、本書の事件が始まるのは、昭和33年6月18日[x]。連載開始が『面白倶楽部』の昭和33年7月号だから、ほぼ現在進行形の事件として始まっていることになる。はなはだメタ的だが、一体作者は、日月堂に雨男がやってくることを、どうやって知ったのだろう。最初の事件が起こったのは6月28日だが、この時点では、まだ事件は公けになっていないし、金田一も、依頼さえ受けていない。

 ちなみに、冒頭に出てくる「心中挨拶状」[xi]は、実話に基づいているらしい[xii]。『横溝正史読本』の小林信彦との対談を読んで、そのことを知ったとき、もう、とうに過ぎたこととはいえ、小説に書いちゃって大丈夫だったの、と思った。それと、雨男が本屋で挨拶状を注文する場面で、体格が五尺六寸のがっちりした男[xiii]と形容されている。一方、犯人はというと、五尺四寸で華奢[xiv]と書かれているのだ(共犯者は、もっと小柄のはず。多分)。最初に出てきたこいつは、一体誰なのだ?(風間と水上はふたりとも五尺七寸の大柄と説明されている[xv]。)最後の謎解きで、金田一は、雨男の扮装はしごく便利にできていて、「身長の二寸や三寸」[xvi]は、どうにでもなったのです、などと言うが、「がっちりした」体格は、肩パッドでも入れていたということですか?登場人物の身長体形を細かく書いておいてこれでは、なんか釈然としませんが・・・。

 それでも、本書の犯人は、なかなか思い切った設定になっている。モルヒネ等の過剰投与によって中枢神経を侵され心身喪失している、そう診断された人物[xvii]が犯人というのは、相当に大胆な着想である。『僕たちの好きな金田一耕助』で指摘されている「犯人の意外性」も、この点を指しているのだろう。「偶発性精神分裂症に起因する突発的自己喪失症」[xviii]という病名まで出てくるのだが、まさか適当にでっち上げたのではないだろう。医療関係者に取材したのだろうか。要するに佯狂(という言葉が適切かわからないが)の犯人ということになるが、そんな仮病の演技は不可能です、と医学界から異論はなかったのだろうか(そこまで評判にはならなかったのか)。

 この犯人像で連想したのは、アガサ・クリスティの某長編(注で書名を挙げます[xix])だが、あちらは、記憶喪失を装うというアイディアだった。本書の麻薬による記憶の混濁を装うトリックは現実に可能なのだろうか。取材型の作家とも思えない横溝にしては、随分挑戦的なアイディアに思える。恐らく、岡山もののような(力の入った、もしくは真面目に取り組んだ?)小説なら、使用していなかったのではなかろうか。

 そう考えると、横溝の実験的作品は、『幽霊男』などもそうだが、むしろ軽く扱われているB級猟奇スリラーのほうに見出せる気がしなくもない。「発表時期が早かったのかも知れない」[xx]とは、大坪の言葉だが、意味は多少異なっても、この指摘は正しかったようだ。

 

[i] 都筑道夫『二十世紀のツヅキです 1986-1993』(フリースタイル、2023年)、「『妖奇』の時代」、387頁。

[ii] 同。

[iii] 同、「時の流れ」、465-66頁。

[iv] 仁賀克維「横溝正史論」(1962年)『幻影城 横溝正史の世界』(5月増刊号、1976年)、77頁。

[v] 『悪魔の寵児』(角川文庫、1974年)、「解説」、372頁。

[vi] 『僕たちの好きな金田一耕助』(宝島社、2007年)、99頁。

[vii] 『悪魔の寵児』、61-62頁。

[viii] 同、247-48頁。

[ix] 同、54-55頁の、はがきに関する推理などは、なかなかである。

[x] 同、3頁。

[xi] 同、20頁。

[xii] 小林信彦編『横溝正史読本』(角川書店、1976年)、27頁。

[xiii] 『悪魔の寵児』、5頁。

[xiv] 同、52頁。

[xv] 同、10、35頁。

[xvi] 同、367頁。

[xvii] 同、207頁。

[xviii] 同、218頁。

[xix] アガサ・クリスティ『秘密機関』(1921年)。

[xx] 『悪魔の寵児』、「解説」、375頁。

江戸川乱歩『妖虫』

(本書のほか、『蜘蛛男』の犯人について触れています。また、横溝正史の某短編小説についても同様ですので、ご注意ください。)

 

 昭和8年12月から翌年11月まで『キング』誌上で連載された『妖虫』(1933-34年)は、第二回目の(に、二回目!?)休筆期間を経て、江戸川乱歩が再び探偵小説文壇に戻ってきた記念すべき「第二作」である。

 では、復帰第一作は?そう、もちろん『悪霊』である。

 同長編は、『新青年昭和8年11月号から華々しい宣伝文句に飾られて連載開始し、しかし、わずか三か月で敢え無く玉砕した。

 そして『悪霊』といえば、そう!言わずとしれた、横溝正史による「乱歩罵倒事件」である。

 「二年間の休養を経て書きだした近頃の作品は、一体何というざまだ」、「一先ず仕事のしめくくりはついたから、あとはどんな仕事をしてもよかろうというのじゃお話にならない」、「[今書きかけている四つの長篇を、]全部あやまってもう一度休養に入るべきだ」、「それよりほかに救われる道はないと思う」[i]

 わざわざ全文を自著に再録した乱歩であったが、正史に気を使ってか(あるいは自らを慰めてか)「酔余の一筆」[ii]であったろう、と付け加えている。が、それにしてはテンポがよい。酔っぱらって書いたとは思えないリズミにのった名文で、タンカの切り具合など、さすが横溝正史である(?)。乱歩にしても、弟分の横溝からケチョンケチョンにいわれて、無論面白くなかっただろうが、しかし、それはそれとして、あまりに痛快な罵倒文なので、半ば感心して全文を再現したのではないか。反面、戦後になっても、結構ネチネチと根に持っていたらしい様子も文章からうかがえる[iii]中井英夫は、「江戸川乱歩全集」解説で、この弾劾文の一件を、乱歩と正史の友情を越えた絆の物語として、はなはだ感動的に描いているが[iv]、乱歩も正史も(そして中井も)既にいない今、一読者の無責任な感想を述べれば、まさに日本ミステリ史に歴然として輝く名場面のひとつであろう。

 「ところで、横溝君が『あとはどんな仕事をしてもよかろうというんじゃあ』と書いた他の三つの仕事」[v]と乱歩が続けて記している、そのなかに『妖虫』が含まれていることは言うまでもない[vi]。これら三長編は、確かに毎度おなじみの猟奇スリラーで、乱歩本人も「本格ものでは却って困るのだし、(中略)実をいうと全体としての一貫性なんかはどうでも」[vii]よかったと、よく読むと、とんでもないことを書いている。後年、大内茂男も、こうした自己評価を踏まえてか、「『魔術師』や『黄金仮面』にみられたような通俗チャンバラ小説に対する一種の情熱はもはや見られず、どうも惰性で毎月毎月をつないでいった」と断じたうえ、「終回近くなるまで、乱歩のほうでも誰を犯人にするか、はっきりした見通しをもっていなかったのかも知れないのだが」と、通俗スリラーのなかでもさらに下方評価している[viii]

 しかし、上記の自嘲自戒の言葉とは裏腹に、別の機会に本作について語っているのを読むと、「真犯人と動機はちょっと珍しい着想であった」[ix]と、結構自慢気なのである。大内の言うとおり「通俗チャンバラ小説」に対する「情熱」は失せていたかもしれないが、必ずしも「惰性」ばかりではなく、探偵小説の新しいアイディアを盛り込もうとしていたらしいのだ。

 そしてそれは、書き出しの部分を読むと推測がつく。

 冒頭、主人公の相川守と妹の珠子は、珠子の家庭教師である殿村京子とレストランで食事をしている。すると、離れた席の青眼鏡に口髭の怪しい男の口元を見ていた殿村が、メニューの裏に何やら書き留め始める。彼女はリップ・リーディングすなわち読唇術を会得しており、聞こえない会話でも唇の動きから読み取ることができるのだ。そして、青眼鏡の男が語ったのは、恐るべき殺人計画であった。翌夜、問題の谷中天王寺町の空き家に赴いた守青年は、やがて相川家を襲うことになる残虐極まりない事件の渦中へと足を踏み入れることになる。

 上記の展開で、すでに問題なのは、たまたま殿村が盗み読んだ会話が、相川家を狙う悪人たちの計画[x]だったなどという偶然があり得ようはずがない(なんで相川家を狙う怪人たちが、兄妹を前にのんきに歓談しているのだ)。仮に、殿村に会話を読み取らせることまでが計画のうちだとしても、彼女がそうするかは運任せである。殿村が読み取ったと称する話自体が嘘なのだが、青眼鏡の男がもともと無関係な赤の他人だったのかどうかは、わからない。犯人である殿村が説明しないからである。青眼鏡の男も一味だったのか、それとも、まったく無関係の部外者だったのかは、最後まで不明のままである。

 レストランの場面のどこまでが芝居なのかはともかく、乱歩の言う「意外な犯人」とは、この読唇術で犯罪計画を明らかにした人間が犯人だったという着想を指してのことと思われる。リップ・リーディングという言葉を使っているところを見ると[xi]、外国ミステリから借りたネタなのかもしれないが、ちょっと思い当たらない。

 しかし、このアイディア、残念ながら、上記のごとき信じがたい偶然を含んでいるので、殿村が断然怪しくて、しかも、このあと乱歩作品恒例の見え透いたマジック-例えば、回りの者が気付かぬすきに、サソリのおもちゃを放り出して、あれ、あそこにサソリが、とか大騒ぎするトリック-を連発するので、犯人であることが丸わかりになってしまう。もうちょっとアイディアを練って工夫すれば、かなり面白いトリックになったはずだが、そう思うのは、実際に同一の着想によるミステリがあるからである。よく知られているので、もったいぶることもないが、ほかならぬ横溝正史の「鏡の中の女」[xii]である[xiii]

 同作品は、ずっと後の昭和32年(1957年)に書かれたもので、時代の違いを考慮に入れずとも、『妖虫』より、はるかに巧妙に出来ている。上記の不自然な偶然も改良されており、評判もよいようだ[xiv]。しかし、『妖虫』と「鏡の中の女」、読唇術がテーマであるばかりか、犯人の設定も、まったく一緒なのである。金田一耕助とカフェで同席していた女性が、別席の男女の会話をリップ・リーディングで読む。その会話が暗示する殺人が起きるのだが、結局、読唇術の女性が犯人である。『悪霊』以下の諸作(そのなかには本書も含まれる)を、「何というざまだ」とこき下ろしたはずの正史なのに・・・。

 

乱歩:横溝君、あんだけ言っておいて、パクるとはひどいよ。

正史:いや、それは、そのう、乱歩さん。・・・「要注意(ようちゅうい)」ちゅうことで、堪忍しとくれやす。

乱歩:そのトリックは、ぼくが「使用中(しようちゅう)」ちゅうこっちゃな!

(関西言葉は、よくわからないので、何分、ご容赦願います。)

 

 まあ、正史としては、乱歩に敬意を表したつもりなのかもしれない。『妖虫』のこのアイディアに、実は感心していて、上手く扱えば面白くなると考えていたのではないか。

 上述の「あれ、あそこにサソリが」トリックにしても、いわゆる「早業殺人」のトリックとして有名なアイディアで、乱歩ごひいきのジョン・ディクスン・カーもある作品で用いているほどである(『妖虫』のほうが早い。注で作品名を挙げます)[xv]。つまり、トリックの使い方がまずいので(これもひどい言いようだが)、アイディア自体は優れているのである。

 さらに推測を連ねると、これらのアイディアは『悪霊』の構想のなかで生まれたものではなかったか。『新青年』に連載する小説なのだから、あれこれと幾つもトリックや手がかりを考えていたはずである。『妖虫』は、順番からいえば、『黒蜥蜴』や『人間豹』より早く、『悪霊』に次いで連載開始されている。従って、『悪霊』のために考案したトリックの幾つかを本書に投入した可能性は低くはないだろう。

 『黒蜥蜴』、『人間豹』との対比で、もうひとつ浮かんでくる疑問は、本書の探偵が明智小五郎ではないことである。

 三笠竜介という白髭をはやした丸眼鏡の老人で、「サルに洋服を着せたような」[xvi]と形容される、うさん臭さでは『蜘蛛男』の畔柳博士さえ上回る怪人物である(名探偵の紹介じゃないな、こりゃ)。しかも探偵のくせに、自分で作った落とし穴に落とされたり、調子に乗って犯人に見えを切っているところを後ろから刺されたり、どうもデクノボーのジジイ探偵としか思えない。なんで、わざわざ明智ではなく、こんな世界のミステリでも屈指の後期高齢者探偵(年齢は不詳です)をつくったのだろう。

 ひとつ考えられるのは、上記の推論とも重なるが、実は乱歩としては、本書をできるだけ本格探偵小説らしくしたかった。それで、すっかりアクション・ヒーローと化した明智ではなく、新規の探偵を創造したということである。

 いまひとつは、三笠竜介こそ真犯人であると読者に勘違いさせる狙いだったのではないか(『蜘蛛男』方式ですね)。犯人である殿村を隠すためのレッド・へリングということであるが、もしこの推測が正しければ、やはり本書は、案外本格的な謎解き小説として構想されていたのかもしれない。ところが、肝心の『悪霊』が早々に沈没してしまい、そのあおりを食って、本書も、すっかり、いつも通りの「通俗チャンバラ小説」へ堕してしまった。三笠探偵も、年甲斐もなく頑張るお爺ちゃん探偵に成り下がってしまったというわけである。

 乱歩自身が自画自賛している犯人の動機にしても、一見すると、『蜘蛛男』などと代り映えしない殺人淫楽症的無差別殺人だが、もっと切実な人間憎悪と母性とを組み合わせることで、従来の長編探偵ものになかった狂気と情念の犯罪を描きたかったのかもしれない[xvii]

 本書は、例のごとく、冒頭の個所で不用意に「かれ」という代名詞を使用する[xviii]など、粗さが目立つが、読み返すと、そこここに見逃せない創意工夫がある。ひとくちに猟奇スリラーといっても、それぞれの作品には、一作ごとに狙いやこだわりがある。乱歩の長い作家生活のなかで書かれた多くの長編小説を、ひとくくりに通俗ミステリとして片付けるべきではないということだろう。

 

[i] 江戸川乱歩『探偵小説四十年(上)』(光文社、2006年)、571-72頁。

[ii] 同、572頁。

[iii] 「しかし戦争後、横溝君の機嫌のいいとき、彼の方から初めてこの罵倒文について謝意の表明があり、私も水に流したのだから、今では、少しも含むところはないのだが、(中略)横溝君は多少不快かも知れないけれども、(中略)敢えてのせさせて貰うことにする。見出しは『江戸川乱歩へ・・・・・・横溝正史』というので、名前も呼び捨てである。」(同、571頁。)これは1954年の文章である(同、538頁)。「機嫌のいいとき」、「彼の方から初めて」、「水に流した」、「含むところはない」、「敢えて」、「名前も呼び捨て」といった言葉の端々に、いろいろと、ホントにいろいろと思いがにじみ出ているようである。当時、すでに横溝は戦後探偵小説界の巨匠であり、乱歩にしても、もはや弟分ではないという遠慮もあったのだろう。残酷なようだが、乱歩が日本探偵小説界のトップである時代はすでに過ぎ去っていた。戦後も、もちろん売れる作家であることに変わりはなかったが、新時代の探偵小説を牽引したのは、戦前、乱歩フォロワーのひとりに過ぎなかった横溝であった。

 ところで、「謝意の表明」とあるのは、いつのことなのだろうか。乱歩の「探偵小説行脚」(昭和22年)のときだろうか。『探偵小説四十年(下)』(光文社、2006年)、278-80頁、横溝正史「『二重面相』江戸川乱歩」(1965年)『探偵小説五十年』(講談社、1977年)、118-21頁も参照。

[iv] 中井英夫銀と金」(1980年)『地下鉄の与太者たち』(白水社1984年)、109-111頁。

[v] 『探偵小説四十年(上)』、575頁。

[vi] 残りは、『黒蜥蜴』と『人間豹』。

[vii] 『探偵小説四十年(上)』、575頁。

[viii] 大内茂男「華麗なユートピア」(『幻影城増刊 江戸川乱歩の世界』、1975年7月)、226-27頁。

[ix] 江戸川乱歩「乱歩 自作自解 コラージュ」(新保博久・山前 譲編)『謎と魔法の物語』(『江戸川乱歩コレクション・Ⅵ』、河出書房新社、1995年)、351頁。

[x] 『妖虫』(春陽文庫、1972年)、30-31頁。実際は、有名女優の春川月子の殺害事件なのだが、その後に、守は青眼鏡の男から、珠子に対する殺意を聞かされる。同、31頁。

[xi] 同、8頁。

[xii] 横溝正史「鏡の中の女」『金田一耕助の冒険1』(角川文庫、1979年)、89-137頁。

[xiii] ウィキペディア:妖虫。

[xiv] 『僕たちの好きな金田一耕助』(『別冊宝島1375』、宝島社、2007年)、91頁。

[xv] カーター・ディクスン『赤後家の殺人』(1935年)。

[xvi] 『妖虫』、46頁。

[xvii] 同、121頁の「殿村さんはそういって、なぜかニッコリ笑った」という個所などは、あとになって読みかえすと、なかなか凄いというか、気味が悪い。

[xviii] 同、2頁。これを見ると、大内が推測するように、犯人をだれにするか決めていなかったという風にも解釈できる。そんなことはなかったと思うが。