PUNKROCK GAMER

やっぱり、ゲームの話をしよう

【コラム】ビデオゲームの美麗なグラフィックと「不可視レイヤー」の話

ゲームにおけるグラフィックと体験についての思考

――いつか現実と変わらないグラフィックと現実離れしたエフェクトで。

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グラフィックボードの高性能化と低コスト化によって、我々のゲーム体験は美麗なグラフィックと親密になっている。数万円出せば、息をのむほどのグラフィックを楽しめるグラフィックボードや高解像度モニターが買えるようになってきた。だからこそ、そうした技術への期待感の高まりも増しているように感じるし、PlayStation5の発売当初には高いスペックと手ごろな価格から、コンソールゲーマーの間で一気に沸き立った印象もある。良いことだと思った。

しかし、同時に私の中ではPlayStation4の時に感じた、パーティーチャットの手軽さから生じるゲーム体験の変化やシェア文化へのキャッチアップのような、ライフスタイルに迫るようなピタッと感はない。それどころか、「美麗なグラフィックを楽しめるようになりました」とだけ告げられている気がしている。

新たな家庭用ゲーム機が出るということはそれまでのハードとの別れが近いということになるのだが、その必要性を強く感じられないのは私だけだろうか。

もし、グラフィック描画性能だけで見るなら、確かにPS5がPS4を凌駕しているだろう。だが、開発者はその進化に付いていけているのか。私はグラフィックの進化とゲーム体験の向上は必ずしも一致しないと考える。そうでなければ、『Undertale』や『Stardew Valley』のような、ドット絵のゲームがあれほど高い評価を得てはならない。また、開発者自身がゲームグラフィックをどう捉えているのか、ということも気になる。

 

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PCゲームプラットフォーム向けにゲームを開発しているデベロッパーは最低限のスペックというものは意識するものの、それ以上の描画性能についてはユーザーによって搭載しているグラフィックボードやCPUがバラバラなので、目安程度にしか考えていないという印象がある。もちろん、各メーカーからサポートを受けているデベロッパーの場合、プロモーションも兼ねて最新のグラフィックボードを搭載した場合のゲーム画面というのをアナウンスすることもあるが、いずれにしても全てのユーザーのグラフィック性能が基本的には横ばいである、家庭用ゲーム機シーンとはちょっと事情が違う。あるいは、現在はゲームエンジン側の進歩もあり、PCプラットフォームだろうが、コンソールだろうが、同一のコードで動くようにエンジン側が働いてくれるので、そうした境目はあいまいになりつつある。けれども、PCと家庭用ゲーム機を比較した際に、カスタマイズ性は圧倒的にPCの方が上だ。

だからこそ、家庭用ゲーム機のユーザーはグラフィック性能の進化に敏感なのかもしれない。そうした事情はたしかに頷けるし、絶対に間違っていない。

けれど、美麗なグラフィックになればなるほど、そこに虚構が透けて見える気がするのだ。決してそれが悪いというわけではない。けれど、「現実っぽい」グラフィックになるほど、現実の景色との僅かな違いを見つけようとする、嫌なところが私にはある。
ゲーム内のあまりにも澄んだ青空や、あまりも大きな桜の木がゲームに映っていたりすると、より色濃く虚構を感じてしまう。

そして、そこにある美麗なグラフィックはゲーム内の景色の美しさを想像する余地を丁寧に取り除いてくれている。想像しなくても、想像よりも美しい景色を与えてくれているのだ。そういう風にして、景色の美しさをゲーム側がきめ細やかに説明してくれるもんだから、私は与えられた美しさを楽しむだけで満ち足りている気分になる。そう、自らのめり込まなくても、のめり込んだ気分にさせてくれる。まるで、美しい景色に感動を覚える自分の感性が鋭いという気にさせてくれる。しかも手軽に。

 

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我々自身の感情を媒体にしていた「不可視レイヤー」の存在

 

念のため述べておくが、私は美麗なグラフィックを否定しない。むしろ、大好きだ。広い平原を歩いたり、走ったりしている瞬間は本当に楽しい。しかし、私がそうしたゲームのことが好きな理由はグラフィックが美しいから、だけではない。私はゲームを遊んでいるときの私自身の体験を言葉にする習慣や能力を持っている。そして、誰に見せるでもない3000文字ほどの「自分用ブログ」に日々、そうした出来事を執筆している。そうすることで、能動的に美麗なグラフィックを探求していけるし、記憶に残る残像にさえ愛着が湧く。そうしたウェットな感触がとても好きなのだ。

一昔前に主流だったドット絵(ピクセル)の場合、主人公がヒロインとロマンチックなシーンの中にいるとき、視線の先にヒロインがいるのか、それとも照れ隠しで海の方を見ているのか、そうした情報をセリフや間(ま)から読み解く必要があった。そんなことを考えていたゲーマーは当時から少なった可能性もあるが、私は今でもそういう風に考える。一応、念押ししておくが、現在でもドット絵のゲームはたくさんあるし、時代遅れと言いたいわけではない。本稿のテーマがフォトリアルな美麗なグラフィックであるため、対比として記述する次第だ。事実、一昔前(20年ほど前)には今ほどのフォトリアルなグラフィックは存在しなかった。

私はゲームには、プレイヤーの捉え方によって変化が異なる、「感じ方のレイヤー」が存在することを知っている(映画や小説、音楽でも同様だ)。
つまり、グラフィックやテキスト、サウンドといった「存在が証明されているレイヤー」と、グラフィックやテキストで描かれていない、「存在が証明されていないレイヤー」とも言える。ここでは、それらを「可視レイヤー」と「非可視レイヤー」と言い表してみる。
「可視レイヤー」は誰が見ても、聞いても変わらない情報を指す。例えば、数値や文字数などディジタルデータとして存在しているものだ。
「非可視レイヤー」はもっとウェットなものだ。空間に漂う感情や気配、緊張が画面から染み出してくるようなもの。他者に伝えようとしても、上手く伝えらないような(伝えるまでもないと思える)自分の中に発生した感情のこと。きっと「可視レイヤー」で描き切れていないからこそ、プレイヤーが思考する余地が発生していたのだ。

本来、「非可視レイヤー」はプレイヤーの見方次第でどこまででも探求できるものだった。そして、「非可視レイヤー」はいつだって、「可視レイヤー」にピッタリ重なり合っていたのだが、美麗なグラフィックはそれを許そうとしなくなっている。

本来、哀愁や悲哀、歓喜や憤怒など、感情が揺れ動くシーンでは「可視レイヤー」と「非可視レイヤー」に歪みが生じていた。緊張や不安、愛、といった人の感情を媒体とする不確定要素はドット絵で描き切れていなかった。そして、そこにプレイヤーが読み解く余地が生まれているのだ。
けれど、美麗なグラフィックはそうした感情の微妙な動きさえも表現できるようになった。手の握りや眉の微妙な動き、声優の見事な演技によって、私がわざわざ読み解かなくても用意は整っている。

ドット絵の場合、現在と比較して、キャラクターの表情のパターンは少なく、手や腕の動きだって大きくもないし、逆に小さく、細かくもない。おまけにFCやSFCサウンド(和音)にも限界があった。また、メモリの関係で一度に描き切れるオブジェクトや読み込みの限界だってあっただろう。
つまり、当時のゲーマーが該当のシーンに行き着くまでに、人生でなにを感じ、なにを知っていたのかという、ゲーマー自身の人間性に呼応する形でしか「非可視レイヤー」の存在を確認できなかったはずだ。事実、当時小学生の私が『ファイナルファンタジー6』をプレイして感じたものと、大人になって同作をプレイして感じたものはまるで違う。
より多くの人々と触れあい、友情や愛を育み、人並み程度の恋愛をしてきたことによって、シーンの見え方に大きな違いを見せていた。

美麗なグラフィックになると、「可視レイヤー」が主人公やヒロインの微妙な表情まできめ細やかに描いてくれる。そして、その主人公やヒロインは私とは異なる、切ない表情をしている。そこで、無意識的であろうと意識的であろうと、プレイヤーとキャラクターの同一性は失われていってもおかしくはない。仮に自分の名前を付けた主人公であっても、そこにいるのは絶対に自分ができない表情をしている誰かになる。その状態を楽しむには、私の感じ方や言語能力などの一切を捨てて、主人公になりきるしかない。私がゲームに合わせていく方法がいい。

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そして、追い打ちをかけるように、「言葉のレンタル」が始まった。

「非可視レイヤー」とは、それまでのゲーマー自身の生き方によって変化が生じる感じ方であることを上述してきた。
そして、我々はゲームをプレイして、誰かに「このシーンはどう感じたのか」と説明したり、発表する必要なんて本来なかったはずだ。
しかし、現在はSNSYouTubeなどで、それを発信することで承認欲求を満たしたり、お金がもらえるようになる時代だ。
それ自体は絶対に否定しない。けれども、より多くの人々の共感を得た人間のもとに、より多くの支持が集まるシステムができあがった。フォロー/フォロワーである。それは、支持数を具体的に数値として表すことで生まれた、人間の「可視レイヤー」に他ならない。そう、実は「可視レイヤー」と「非可視レイヤー」はゲームの中だけの話ではない。現実にもある。
そして、より多くの共感を得た言葉はフォロワーの「非可視レイヤー」の見え方に影響を与えている印象がある。
つまり、あなたがフォローしているインフルエンサーの「ゲーム評」に関心してしまえば、あなたの感じ方もそうなっていく。なぜなら、「不可視レイヤー」とはその人自身の考え方によって変化する微生物のようなものだからだ。
あなたがインフルエンサーの言葉に共感したということは、今後あなたはインフルエンサーに影響を受けた言葉によってゲームを感じるようになるかもしれない。なぜなら、共感を生み出すことを目的に発せられた言葉は高速に情報が行き来するプラットフォームと相性がよく、あなたの言葉で時間をかけて思考する必要を奪うからだ。あなたが思考する必要はなく、インフルエンサーの言葉に共感して、それを支持すれば、それはそっくりそのまま、あなたの考え方にできる。手っ取り早いうえに、多数派に回ることができるのだから、すぐに満たされた気分になるだろう。言葉をレンタルすることで、一気に自分も多くの人々の共感を集めた、あのインフルエンサーと肩を並べた気分になる。それにハマると、「それっぽいこと」を言っているけれども、中身がない集団ができあがる。
SNSとは多くの人々が思っているよりも、はるかに高速で、膨大な共感を生み出す装置になっている。一度、外から眺めてみるといいだろう(もし、それが可能なら)。ゲーム内のNPCのように限られたパターンで言葉を話している人々の姿が見えるかもしれない。

全く誰にも影響されずに生きることなんて有り得ない。私たちは親や親せき、育ててくれた誰かの言葉に影響されて生きている。けれど、私の親は共感を目的に、あるいは「可視レイヤー」なんていうものを見据えて、私に言葉を教えてくれたわけではない。
また、私は本稿をそうした、まやかしのために執筆したわけではない。そして、この4500文字を超える記事は誰の言葉を借りていない。そして、私はプライベートでSNSを使っていないため、承認欲求に駆られたわけでもない。
そして、その理由を本稿に分かりやすく記述することもない。言葉というものにも「不可視レイヤー」はある。

疑問や不安というのはいつも穴が開いている。共感とはその穴にハマる杭のようなものだ。すっぽりハマると心地よい。
問題はその杭は誰が用意したものか、ということだ。

 

 

 

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ハムスターは回し車を回し、飼い主はそれを与えた。この場合、回し車に原初の目的を与えた人間は誰か。

人類はゲームというメディアにとって如何なる存在になれるのか。

――双方向性が与える、「能動的である」という錯覚の話。

 

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近年はサブスクリプションモデルのビジネスの隆盛が目立つが、私個人はそろそろ、このビジネスモデルは「定番」を除いては限界がきているようにも感じる。あくまでも体感レベルなので、嘘っぱちの可能性も大いにある。

音楽(音)や動画メディアはこれまで、それ自身の変化はあまりなかったように思う。変わったのは音を保存するための媒体の方だ。カセットテープやCD、DVD、Blu-rayなど、フィジカル媒体の人気が根強い日本でも、このところSpotifyApple Musicが人気だ(しかし、音楽鑑賞のデファクトになっているわけでもなく、むしろ伸び悩みがあるとも考えられる)。

私はそうしたサービスが情報を繋ぎ止めておくだけの媒体であるとか、単なる媒体の推移として考えることに退屈さを感じる。現在、サービスがクラウドに移行することで、全てのユーザーがほぼ同じ条件でサービスを利用できるようになった。手元にサービス内容を受けることができる「コントローラー」と「モニター」さえあれば。しかし、現状というのは、だだっ広い平野にサービス利用者が放たれているような感覚があって、実は今後、利用者とメディアとのインタラクトが可能な時代がやってくるのではないかと考える。例えば、Spotifyのサービス上に仮想オーディオルームなるものを作り、実際にあるスピーカーなどを仮想空間の中に配置して、自分好みの音の聞き方ができるようになるとか。
あるいは、もっと楽しい機能を実現してくれる開発者が必ず、そのうち現れる。

音楽だけでなく、動画との関わり方を双方向にしてくれるものだって現れるだろう。まるでサービス側から、我々一人一人にフィットする、様々なサービスをリアルタイムに変化させながら語りかけてくるようなオーダーメイドなもの。YouTubeのレコメンド機能よりも、もっと複雑かつ、我々を先回りするもの。
私が動画において、その分野で最も期待するのは教育系の動画だ。現在はあらかじめ用意された動画の内容に沿って、学習者は観るほかない。せいぜい、2つ3つ選択肢があって、その選択次第で変化するような映像が用意されている、クイズ機能程度しかないだろう(少なくとも、"一般的な"クリエイター向けには)。けれど、今後はもっとぶっ飛んだ体験になっていくはずだ。
AIが視聴者の選択によって、映像をリアルタイムに作成して、アジャストメントされた内容を提示してくれる。
学習者が納得いくまで、付き合ってくれるような学習サービスだ。マイクとスピーカーがサービスと連携されていて、クラウド上のAIが受け答えをするばかりか、ランダムな質問を投げかけて、我々の知的好奇心を刺激するもの。
はっきり言えば、現在の動画サービスや音楽再生サービスは受動的になればなるほど、そのサービスの機能を堪能できるような仕組みになっているのだけれど、人々は怠惰になることを恐れている。私も受動的な態度で音楽を満喫できるほど、「感じない人間」ではない。

つまり、プラットフォーマーたちの目下の課題は人々を能動的にサービスに依存させることだ。より、人々が自らの意思でそこにハマっていくような、課題と報酬に満ちたジャンクなサービスだ。
例えば、ゲームというメディアのように。

 

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利用者の知的好奇心を刺激し、達成目標を明らかし、それをサポートしてくれるプラットフォームが登場すれば、本質的にはそれはゲームと変わらない。

RPGは魔王がいて、魔王の城に行くために、道中のモンスターやボスを倒さなくてはならない。ダンジョンをクリアして、魔法のとびらを開けるための鍵だって手に入れなくてはならない。こういった具合に、プレイヤーに分かりやすい目標を与えてくれている。そして、ボスを倒すためにはレベルを上げなくてはならない、という課題だって明確にある。そして、それを可能にするために主人公を助けてくれる仲間や、体力を回復してくれる宿屋やより魔物を倒しやすくなる武器を売ってくれる、武器屋だってある。

プレイヤーを「能動的になっている」と錯覚させることができる作品こそ、世に語り継がれる面白いゲームである。ハムスターはかごの中で、回し車を自らの意思で回しているはずだ。けれど、その回し車を与えたのは人間だ。もっと言えば、どこかの飼い主がハムスターに回し車を与えることを分かっているから、どこかの工場で回し車が作った人間がいる。誰かの目的はまた別の誰かによって作られている。回し車に原初の目的を与えたのは誰だろう。だけれども、飼い主は自分の意思でハムスターに回し車を与えているし、ハムスターだって自分の意思で回し車を回している。その能動的な意思が錯覚だと言えば、たしかにそうかも知れないが、それは原理原則を辿ってみただけの当たり前の話に過ぎない。否定的な感情とともに、それを退屈であると指さして言いたくなる(あるいは……)。
しかし、インタラクトとはその錯覚を覚えさせるための、魔法の鍵のようなものだ。もし、双方向性がなければ、王様だってお姫様だって、ドラゴンだってなにも答えてくれない。それはまるで、マグネットボードの上で磁石を移動させるだけのもの。飲み物が落ちてこない自動販売機。光ることのない太陽。
だからこそ、彼らはあなたを能動的に冒険させるために役割を与えられた駒として配置された。

このように、音楽や動画、ゲームにしたって、メディアが人間に与える機能面に絞って話せば、いくらでも冷徹に指し示すことができる。ほとんどの人間は、提供者があらかじめ用意された通りの遊び方しかできていないし、今ではサービスに搭載された機能が豊富になっていて、人々はその一部のみで満足できるようになっている。Spotifyこそが完璧な音楽配信サービスだ!とは言えないような気もするが、だからと言って一般ユーザーはそれ以上の音楽配信サービスの機能を発想しない(細かな機能はどうあれ、各サービスの根本にある意図は変わらない)。
かつて人々はカセットテープに様々な音声(実は映像だって撮れた)を録音して、様々なシーンに合うようにミックステープを作っていた。それはDJではない、一般ユーザーである私の母や父でもそうした遊び方をしていた。その渾身のミックステープをカーステレオで流しながら、2時間のドライブを楽しんでいたのだ。その瞬間、我々はカセットテープという媒体に意味を与えることができていた。音声情報を与える媒体ではなく、音楽が流れる空間や場面の方を思い描き、工夫していたのだ。

現在はどうだろう。我々はSpotifyApple Musicになにを与えられているだろうか。せいぜい、プレイリストを作ってシェアして、承認欲求を満たすことができる程度の遊びくらいだろうか。

そして、双方向性がメディアの壁の融解をもたらした後、我々はゲームというメディアをどのように認識し、関わっていくのだろう。

人類はゲームというメディアにとってなんなのか。きっと、我々はまだゲームの遊び方をあまり知らないだけだ。そう信じてみることにした。

 

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Passafireを聞いて普段の散歩道をストリートにする遊び

Passafireとストリート、遊び方を貪る側と見出す側

――面白いことの消費者と探求者の違い

 

今年もPassafireが不意に聞きたくなるような、ポカポカな季節がやってきつつある。今日は昼前から近所を散歩して、桜の木を眺めたり、満潮を迎えつつある川を見送ったり、定食屋の活気の横を通って、家にたどり着いた。

youtu.be

 

私は自分が今日歩いてきた道を世界一「良い感じ」に散歩していた自信がある。それが他者にとって何の価値もないことくらい理解しているが、私にとっては他者が自分に感じる価値に興味がない。
面白いことを自分で見つけ出し、実際にそこに面白さを感じているならば、非常に創造的な遊びなのだ。私にって散歩とは、季節や気候を使ったストリート遊びである。ストリートと聞くと、もっと気合の入ったパンクスやヒップホップ界隈の人々が集う、エリアやクラブの周囲のことをイメージするかも知れないが、私は他者が決めた遊び方に従うことほどつまらないものはないと思っている。

例えば、そこに面白いことがたくさん集まっていたとしても、それは用意されたものを消費しているに過ぎない。なにもないところから、始める面白さがまるでない。私の近所に見えるストリート的な遊び心は私だけが開発しているし、独占できる。おまけに、「それはストリートじゃねえよ」などという威張った先輩方も現れない。

これはゲームの遊び方にも言える。ゲームというのは遊び方を与えられているものだが、そこで満足することになれると一生、「貪り続ける側」になってしまう。

微弱に振動している公園のブランコや、近所の駄菓子屋のサビたシャッター、やたら切り替えが早い信号機、そういった景色を収集しておくと楽しみが増えていく。

SELF MADE !!

 

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好きなアーティストは?と聞かれたら、今日から「NOFXです」と答える練習をしてみるのはいかがだろう。

NOFXを聞きながらFPSをプレイしてみても、何も起こらない。

――けれど、気分はいい。

 

もし、あなたがゲーマーでパンクロックが好きな場合、きっと周りにあなたのような人は少ないだろう。そもそも、私や私の周りの友人たちのように、音楽の会話をしながらFPSやサバイバルオープンワールドゲームをプレイする人間は希少種だ。

先日、NOFXを聞きながら『APEX LEGENDS』をプレイしてみた。元々、エイムを得意ではないのだが、余計に弾は当たらないし、チャンピオンを獲得することはなかった。

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ゲーマーという生き物の中には相容れないタイプがいくつかいる。決して彼らが悪いというわけではないのだが、退屈なのだ。

特に音楽の話ができないと、とても退屈な人だと思ってしまう。迷ったら、パンクロックを聞いておけばいい。YouTubeTwitterでたくさん拡散されている、歌詞がそれっぽい曲もいいかもしれないが、パンクロックを聞いておけばいい。好きなアーティストは誰ですか。そう聞かれたら、今日から「NOFXです!」と答えてみてはどうだろう。99%でゲーマーは「……。」となるので、その優越感を推奨しておく。

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朝の散歩、贅沢、他者への説明、Sublimeの『Santeria』の話をしよう

誰にだって憂鬱な朝は来るが、Sublimeを聞きながら散歩をする僕の贅沢は誰も知らない

――人生はあまりにも短い。

あなたは人生の中で赤の他人にいきなり、あなたの全てを肯定されたことはあるだろうか。私にはある。しかも、二回も。

一回目はGreendayの『Basket Case』を聞いたときだ。この話は気分が乗れば、また後日書いてみる。本稿では二回目に肯定された話をする。Sublimeの『Santeria』を聞いたときだ。

私は自己肯定感の低い少年時代を過ごした。家庭は荒んでいたし、何をやっても上手くいかない私は社会からも痛めつけられた最低の気分を毎日更新していた。

19歳の頃、私はSublimeの『Santeria』という曲に出会い、脳天に雷が落ちるほど励まされた。リリックは支離滅裂と言えばそうだが、この曲のサビにはこういう歌詞がある。

――本当に知りたいことや、本当に言いたいことに限って上手く言葉にできないんだ。でもね、俺に必要なのは愛なんだよ。

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この曲はSublimeがメジャーデビューを予定し、リリースされたアルバム『Sublime(セルフタイトル)』に収録されている。けれど、ヴォーカルのBradはその直前にオーヴァードーズで死んでしまった。

私は彼のことが大好きだし、私のような人間のことを肯定してくれたことを感謝している。

時々、朝の散歩で彼らの曲を聞きながら公園をぶらぶらするとき、とても幸せな気持ちになる。しかし、それはきっとごく限られた人間しか感じることのできない贅沢だ。なぜなら、「Sublimeめっちゃ好きなんです!」という日本人に出会ったことがないし、僕のように散歩のテーマソングとして起用している人間はいないだろう。

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私の朝の散歩の様子やその日感じたことを逐一、SNSYouTubeなんかにアップしたことはない。私にはそれがとても下品に思えるし、自分にとっての贅沢を他者とのコミュニケーションツールとして利用することが、なんだか気味悪い。例えば、から揚げにマヨネーズをかける人がいて、その食べ方をあーだこーだ言う人がいるとして、そうした両者のやり取りを第三者が見ている。という交流はどう考えても気持ちが悪い。

私は自分が読みたい記事をこのブログに投稿することに決めた。誰のためでもなく、私のために。これが、ライフスタイルなのか、オピニオンなのか、雑記なのか分からない。けれど、例えばアウトドア雑誌『GO OUT』の最後の方にある放浪記的な、つかみどころがあまりない文章が一番面白かったりする。あのような文章を読んで、ニヤリとする時間がとても贅沢なのだ。

私が『Santeria』の歌詞のように、時々グッとくる言葉や芯を捉えた感触のある表現が好きなことを他者に説明するのは困難だ。そんな私をSublimeというバンドは肯定してくれる。言葉というのは、行動の源であるくせに、その自覚を人間に与えようとはしない。だからこそ、音楽という振動の連続に言葉が乗ることで、あたかもそれがごく自然なことのように、または自分自身の力でそれに気づいたかのように、我々は言葉の何たるかを自覚させられる。そうしたことを散歩の道中に気づいて幸せな気分になる。けれど、わざわざ、それを他者に理解してもらおうとするのは身勝手なことだ。そして、そんな必要もない。

もし、私がそうであったように肩身の狭い思いをしているゲーマーがいれば、他者との交流のために自分の好きなことを利用するのを辞めてみると状況は好転するかもしれない。それは他者との交流を諦めろということではない。コミュニケーションの速度が高まり過ぎたこの時代において、自分の好きなことが他者に認められなければ、きっと自分自身を否定されたような気分になってしまう。その根本的な原因は他者に自分の好きなことの理解を迫ったことにあるのだけれど、そこで覚えた無念を高速道路で叫んだところで、誰の耳にも届かない。けれど、あなたがその言葉を持っていること自体に意味があることを私は知っているし、一応、肯定してみたい。

 

もし、あなたがゲーマーで、これらの曲を聞いて、脳天に雷が落ちたら教えてほしい。仲良くなれるかどうか分からないけれど、「Long Beach Dub Allstarsというバンドを聞いてごらん」という助言はできると思う。

 

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――どうか愛が返ってきますように。

 

善悪の判断を他者に委ねることの「ダサさ」について話をしよう。

物事の善悪、ゲーム、SNS、借り物の言葉と感性について

――あなたと僕の世界で起きていることは必ずしも一緒ではない

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どこかのゲーム規制法案、またはゲーム依存に関する論文など、なんだかテレビゲームが色々物議を醸している昨今。私は自分が反対だと思うことに対して、自分の頭で考えて、自分でアクションを起こしている全ての人間に対して拍手を送りたい。自分なりのアクションを起こす、ということは本当に素敵だと思う。

最初に述べておこう。私はゲームが規制されようが、なんだろうが、自分にとって遊ぶ理由があれば、ゲームをやる。そこに他者が入る余地はない。音楽も、自転車も、毎朝飲むコーヒーにも他者の意見を求めていない。私は規制法案や論文に反対するためにゲームというメディアに集まったわけではないし、今後も集まらない。世間体を気にしながらゲームを遊んだこともない。

ゲーム規制やゲーム依存について、TwitterSNSでなんとなく概要を知り、ゲームが否定されていると感じて、反射的に態度を示したくなる人々の気持ちも分かる。きっと腹が立っただろうし、悔しかったことだろう。
けれど、私が気持ち悪いと思うことがある。それは、「それっぽい」意見を一日中ツイートしているTwitterアカウントや、フォロワー数が多い「謎のインフルエンサー」の発言に乗っかった発言をすることだ。
SNS上で目立つ多数派の意見、あるいは、グローバルスタンダードと思われる側の意見をRTしたり、加勢する人々はきっと、そうすることで自分の意見を持った気がするのだろう。そして、そうすることで世界に触れている気がして、安心するのだろう。私には彼らが触れているのは世界ではなく、スマートフォンの画面にしか見えないがどうだろう。

まず、私は上述のテーマについて、自分の脳みそで考えようとしない人々は善悪の判断を他者に委ねているのだと考える。なにが問題なのか、なにが嫌なのか、ということを熟考せず、誰かの好き嫌いを借りているのだ。そして、そこで借りた感性や言葉を反射的にツイートすることにあまりにも慣れ過ぎている。これは私に言わせればダサいのだが、もし彼らにとってそれが紛れもなくカッコいいことならば、これ以上それを否定するつもりはない。

私の物事の善悪の基準は法案にも論文にも載っていないのだが、あなたはどうだろう。いつの間にか、テレビ、ラジオ、YouTubeSNSなどで多数派側が語った言葉を借りて、自分の意見にしていないだろうか。そうした借り物の言葉はたくさんの人が使っているから、きっと安心するだろう。けれど、それに慣れてしまうと、段々人は同じものになっていく。統合され、考え方や感じ方も似通ってしまう。私は紛れもなく今のSNSがそれに見える。

もし、多数派の意見に染まっていることを不安に思っている人がいるなら、こちらのライブ映像をおすすめしておく。もし、あなたがそれを観ても退屈ならば、きっと私とあなたの世界の見え方は違う。だが、それは別に悪いことではないし、私が社会にとって正しい人間であるということではない。
当然、私にとってそんなことは重要ではないのだけれど。

 

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以下、サビの日本語訳。

――お前は明日どうするつもりだ?お前はリーダーなのか、それとも従うのか。お前は戦うのか、それとも黙っているだけか。今こそ力を取り戻す時だろ。

 

実は僕たちは「ゲームの遊び方」をあまり知らない、という話をしよう。

僕たちは「ゲームの遊び方」を与えられている、という話をしよう

――ゲームの目的と遊び方、または「ゲームに飽きる」ということの本質

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ゲームの遊び方は人それぞれなので、他者のゲームの遊び方に対して私がどうこういうつもりはない。しかし、私のゲームの遊び方は最近、かなりグレードアップしてきているという、カッコよさはアピールはしておきたい。

そもそも、ゲームの遊び方という言葉について整理しておこう。これは難しく考える必要はなく、RPGならば「お姫様を助けに行こう」だとか、「このダンジョンの奥底には魔法の鍵があるのじゃ。取ってまいれ!」みたいな目的を達成することだ。

ドラゴンクエスト』シリーズならば、邪悪な魔王を倒すために冒険に出かけるだろう。当然、その道中にはモンスターやボスが出てくるので、私たちはそいつらを倒すのだ。私たちはゲームの開発者に「ゲームの遊び方」を与えてもらっている。基本的に誰にでも分かる、明解な目的に沿って、私たちはゲームを遊んでいる。そして、最終目標である「魔王を倒せ!」を達成すれば、多くの人は次第にそのゲームに飽きて、プレイしなくなるだろう。あるいは永遠に。

私は任天堂から2017年に発売された、『スプラトゥーン2』というゲームを2000時間以上プレイしている。そんなにプレイしていて飽きないものか、という質問をたまに受けるのだが、本作にいたっては飽きる気配がまだない。
それどころか、最近は「私による私のためのデイリークエスト」なるものをを用意して、遊んでいる。私はそのデイリークエストを達成しては「俺、よくやったぞ!」という、変態的な遊びをしている。
例えば、「今日はチャージャー(スナイパーライフルみたいなブキ)で、30回敵プレイヤーを倒すぞ!」などのノルマを自分で決めて、それを達成するのだ。
ちなみに私のウデマエ(FPSなどのランクマッチで言うところのランク)は大したことない。全てのルールで「ウデマエX」に行っているものの、最高Xパワーは2300台(ガチエリア)なので特に上手なプレイヤーではない。

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また、エリック・バロン氏が開発する、『Stardew Valley』でも私は「自分用のデイリークエスト」なる遊びを始めている。この作品は主人公の祖父が遺した荒れ果てた牧場を整備し、村人と交流し、思い思いの生活を過ごす、牧場ライフシミュレーション・RPGである。
私はゲーム内の一日一日に「地面を掘って粘土を5個手に入れたら目標達成だ!」など、自分で目標とルールを決めて、遊んでいるのだ。前述のように、それを達成しては「俺、今世界中のStardew Valleyプレイヤーの中で最も意識が高いぞ!」という狂人的な遊び方をしている。

 

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私はこれまで、この遊び方を他者に提示し、「これがゲームの正しい遊び方である」とか、「私の真似をした方がいい」と言ったことはない。
ただ、我々のゲームの遊び方のすべてが開発者によって予め決められていて、それが済んだらゲームに飽きる、というサイクルを繰り返すのがなんだか気持ち悪かった。そして、私のゲームの遊び方は私が決めることにした。

スプラトゥーン2』の場合、私を除いて、ひと試合に7人のプレイヤーとマッチングする。つまり、単純に考えるならば、一人のプレイヤーがひと試合に与えられる影響は全体の1/8しかない。つまり、12%そこそこの活躍ができないと基本的にチームは負ける。けれど、他7人のプレイヤーが80%以上、試合の行方を左右する(もちろん、例外はあるが、そうしたものに配慮して、いちいち例外について書くのが面倒くさいため、割愛する)。

その試合結果で感情を左右されるのは少し危ない。
勝てば気持ち良いのだが、負ければ気分が沈む。この作品は調子が悪いと平気で10連敗するなど、地獄を見ることも少なくない。ニンテンドースイッチのプロコンを「プロ」と「コン」に分離させたくなるほど、頭に血が上ったこともある。
けれど、私は他者に気分を左右されるのが好きではない。そのため、自分の機嫌は自分でとりにいきたいと思った。そこで生まれたのが、「自分用デイリークエスト」という遊び方である。ゲームを用いた一人遊びだ。
自分で掲げた目標を達成するために、ゲームをプレイすることは試合の勝敗や誰が対戦相手なのか、ということに関わらず、自分との勝負の連続が待っている。勝っても負けても全て自分のおかげ(せい)である。
間違っても、この一人遊びの「結果」をTwitterに載せよう、なんて野暮なことはしなくていい。なぜなら、SNSにシェアするという行為は「他者の反応を期待すること」だからである。
これは「自分 VS 自分」という、崇高かつ創造的な戦いなのだ。他者がそこに安々と足を踏み入れていいわけがない。いや、これは決して大げさな表現ではないのだ。
上述の通り、多くの人が他者に与えられた目標を達成して、飽きていく。あるいは、これはテレビゲームだけの話ではない。
また、エンターテインメントだけでなく、きっと基本的に日常生活にあるものの全てが他者から与えられたものだ。だからこそ、DIYで苦労して作った自分特製の家具やバッグは「自分にとって」心地よいものなのだ。見ず知らずの人、赤の他人、そうした他者が作った家具にはその愛着が標準装備されていない。

他者に与えられたものに満足せず、自分だけの遊び方を築き上げる余地が「ゲーム」というメディアには残されている。もっと言えば、私にはそれがゲーム本来の価値にも見えてきた。

この「自分用デイリークエスト」という一人遊びは、ノートとペンがあれば記録を残せる。つまり、ノートに目標を書いて、それを達成するという流れだ。スマホアプリでも代用できるだろう。
ある日、その記録を振り返ったとき、めちゃめちゃ頑張っている、過去の自分のことが猛烈に愛おしくなる瞬間が来る。自己肯定感なんて、自己啓発書に引っ張られたような言葉を述べたくない。しかし、これが自己肯定感なのだと知るときが来る。

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子どもであれば、ゲームの得意不得意に自分の機嫌を持っていかれるのは仕方のないことだと言える(それでも小学生や中学生の中には『スプラトゥーン2』への理解度が私よりも高い子たちが多い。本当に見習うべきだと思う)。でも、大人なゲーマーなら、台パンなんてしてはいけない。大人は黙って、「自分用デイリークエスト」だ。

 

かつて、プロゲーマーの梅原大吾はゲームセンターに遊びに来ていた若い子が急に来なくなったときの話を講演で紹介していた。
その子に「どうしたの?」と聞くと、「飽きた」と答えたのだという。
「何に飽きた」、と問うと、「ゲームに飽きた」と返答。
ウメハラはその若い子が感じたであろうことを、このように表現している。

 

ゲームに飽きたんじゃない。成長しない自分に飽きたんだ。

 

スプラトゥーン3』のトレーラーが公開!それでも「2」に飽きない理由

先日、ニンテンドーダイレクトで『スプラトゥーン3』のトレーラーが公開された。私は朝から子どものように跳ね上がったし、目がバキバキになった。
それでも、私は『スプラトゥーン2』で「自分用デイリークエスト」を用意して、頻繁にプレイしている。飽きる兆候はまだ、ない。
もちろん、「3」が発売されれば、そちらに移行するだろうが、それは決して「飽きたから」という他者から与えられた理由ではない。
ゲームの遊び方は開発者が用意してくれている。しかし、私の遊び方はもはや、それに左右されていないのだ。これが冒頭に述べたアップグレードされた、ゲームの遊び方というものだ。

当然、全てのタイトルでこうした遊び方ができるわけではない。ちょっと遊んだ後に、自分に合わないと思ったら「ごめんよ!このゲームはノット・フォー・ミーだった」と割り切って、遊ぶのを辞めている。

私にとって重要なことは、自分がゲームを辞める理由、やる理由を他者に決めさせない、左右されないということだろう。
自分が好きなことをやり続ける理由や、辞める理由を他者から与えられるのは稚拙というか、無責任だと思うからだ。要は遊び方がカッコいい人間でありたいということになる。

好きなことをやり続けるのが辛くなる理由はそこに他者が足を踏み入れることを許した自分の承認欲求なのかもしれない。

 

これが、私のゲームの遊び方の話だ。